はてなキーワード: 偶像とは
【儀式】
オマンコ教の儀式では、名器のアリスを模した偶像の秘所へ口づけを行う儀式が行われる。この行為によって、オマンコ教の信者たちは自らの中に宿る神の力を高めることができるとされている。
オマンコ教の信者たちは、自分の性器を愛撫するだけでなく、他者の性器にも奉仕することを推奨されている。具体的には、オマンコ教の信者たちは、他の信者の性器に口で奉仕しながら、自分の性器を指で慰めることで、神への祈りを捧げることができるとされる。
オマンコ教では、初対面の相手と出会った際は必ずお互いの性器を見せ合うことがマナーとなっている。特に、初対面の女性に対しては、まず自分の性器を見せることで、信頼感を与える必要があるとされている。また、相手の性器を見ながら自慰行為をすることで深い信頼関係を築けるとされており、オマンコ教の信者の間では、互いの性器を見つめながら行う相互自慰が一種のコミュニケーション手段として用いられている。
また、双方に合意がある場合には、そのまま性交に及んでしまうことも認められている。ただし、合意のない性交はオマンコ教の禁忌の一つであり、破った者は破門されてしまう。
他の人と好き嫌いがちがうのは別にしかたのないことだってずっと思っている
だけど、世の中の多くの人が「この人、センスあって性格良くて面白い」ってもてはやしてる人を見た自分の正直な感想が「この人、センスないし性格悪いし面白くもない」ってなると、なんかゲボ吐きそうになる
見せ方、言い換えれば騙し方のうまい人間はいるし、それを踏まえて売り方がうまいなあ等と感心するのはわかる
だが、多くの人…バカは「自分は、その人物自体の価値をきちんと評価して好んでいる」と本気で思っているようなのだ
それでも、上記みたいに「世の中の人ってものを見る力がなさ過ぎるのでは」と思わざるを得ない瞬間、とてもつらくなる
自分についてだって、そんな世の中に褒められたって嬉しくもない、むしろ不快なくらいだ
どうせ自分の本当の魅力や汚れなんて一切見ていない
ただ名や姿を元に都合よい偶像を頭の中に投影して「私はセンスいい」って言いたいだけのバカに褒められて「応援感謝」なんて思えるほど自分は人間できてない
本当に見える人間たちにだけわかればいいと、そのような振る舞いをしたい、すべきだ
でもバカを騙すほうがあまりに簡単なせいで、つい容易に媚びてしまう自分が、何より嫌だ
考えたくない
それは、生そのものが罪であり、罰だからだ。宗教はそのように説く。
そして、もし神がいるのであれば、人が苦しむことこそが、その御心なのだと。
一方で、天国への導き、あるいは弥勒菩薩による救済。そのような甘い餌をぶら下げて人の心を操る。
しかし、神を信じれば救われる、などという戯言は、所詮は人の弱さから出た願望に過ぎない。
キリストもムハンマドも、皆々、己の心を救うために、神の言葉を借りているにすぎないのだ。
神とは、病質的な精神が生み出した虚像であり、幻想である。宗教という集団的なヒステリーによって、都合良く作り上げられた偶像なのだ。
その欺瞞により、人は「生きなければならない」という強迫観念を植え付けられて、人は生きながらにして地獄へと堕ちていく。
人は常に苦悶し、苦悩し続ける宿命にある。苦しみから逃れようとすればするほど、ますます苦しくなるばかりなのである。
生命とは物理現象である。地球の誕生、生命の誕生、その全ては偶然の出来事だ。そこには必然性など存在しない。
それなのに、生命には神秘性が付きまとう。あたかも、そこに神の意思が存在するかのように錯覚する。
だが、そのようなものは、人間の妄想に過ぎず、何の意味もない。生の苦しみによって歪められた病的な精神の産物でしかない。
生命に意味はない。生命に価値はない。そもそも、意味や価値という概念さえも、本当は存在しない。
人間は、ありとあらゆる現象や存在から、その意味や価値を見出そうとしてきた。
それもまた幻想なのだ。なぜなら、世界は人間のためだけに存在しているわけではないからだ。
世界に意味を与えることができるとしたら、それは神以外にいない。しかし、神は死んだ。誰も、その存在を確かめることはできない。
神も、意味も、価値もない。ただ、確率的に発生する物理現象がそこにあるのみである。それが世界の真理なのだ。
つまり、世界は人間のために存在するのではなく、人間が世界を存続させているのでもない。
すべては偶然によって成立している。
宇宙誕生の謎を解き明かしてもなお、この現実から逃れることはできない。
脳の誤作動によって生じる錯覚、幻覚。それを奇跡と呼ぶのなら、確かに奇跡はあるかもしれない。
しかし、それは科学によって解明された現象だ。決して、神の御業などではない。
この世に存在するすべての事象は、確率的に生まれるものであり、偶然の結果である。
その法則に逆らうことは誰にもできない。たとえば、人はなぜ死ぬのか? なぜ生まれてくるのか? その理由を知る者はいない。知る必要すらない。
コップからこぼれた水が跳ね、床を濡らすのは何故か。それはただ、水が物理法則に従うからにすぎない。水の運動に意味などはない。太陽と地球、そして人間が生まれたのも全く同じことだ。
宇宙にばら撒かれた大量の原子が、偶然に恒星と惑星の姿を取り、その惑星には偶然に有機生命体が誕生した。そこに意味はなく、理由もなく、原因もない。あるのはただ、確率だけである。
神もなければ、悪魔もない。ただ、物理現象があるだけだ。人がこの世を創造したわけでもないし、ましてや、人が生きていることにも何の意味もない。
ただ単に、宇宙が生まれて、そして滅んでいくだけのことに過ぎない。
神も仏もいない。
すべてはただの錯覚だ。全てに意味を見出そうとする病変した精神が生み出す幻影だ。
人は神を信じたがる。それは神への信仰ではなく、自分の心に空いた隙間を埋めるためだ。
キリストもムハンマドも、その実態は妄想に取り憑かれた弱者にすぎない。彼らの言葉に真実はない。
精神に巣食う病的な妄想に取り憑かれた者たちが共有する、集団的な精神異常こそ、宗教と呼ばれるものの正体だ。
人は誰しも、自分が信じたいものを信じる。自分が理解したいことを理解しようとする。そうしなければ、自我を保つことができないからだ。
だが、それでも人は、自分を騙し切れない。必ず矛盾が生じる。人は神の不在や死後の世界など存在しないことを知っていながら、神や死後の世界を信じようとし、精神を歪ませていく。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4721182699215847042/comment/hedgehogx
「hedgehogx 2022/06/19
なぜそんなにモテたいのか、異性でないと満たされないというのは異性を偶像化しているだけではないのか」
「何故そんなにモテたいのか」って元増田はそもそも「モテたい」などとは一言も言ってないし
仮に「モテたい」のだとしても
現在の社会構造が(日本に限らず)パートナーを得て結婚し子供を産み育てるという標準的な人間を基本とし
それ以外の人間から金銭的労働力的に搾取するという構造になっているから
そこから抜け出したいという理由じゃない?別に『異性に対する偶像』なんて曖昧な理由から「モテたい」と言っている訳じゃなく
女性の賃金が男性のそれよりも低く女性が一人で生きていく事が難しい、仮に高収入になれたとしても独身だと既婚子持ちから搾取される、そういう世の中だからでしょ?
「異性でないと満たされない」のは現状日本では同性婚が認められていないからだし
仮に認められたとしてもパートナーがいないと不利な事には変わりありませんよね?
せやね
という事でいうとその通りだと思うわ
ただ、私は「他人の評価を他人の発言で他の事と評価している」という表現方法で
①自分が受けた恩恵に感謝するのはまず自分にそれを手渡しした直接対応者にしてもよいのでは
結果神がそう計らってくれたとして神に感謝すべきだとしても、まずはそれを手渡ししてくれたその目の前の相手に「ありがとう」と言っても「そいつはただの使者だから感謝しても意味がない」と言う必要、必要性がそこにあるのかという事
別に言ってもよくない?だめかそんなに?
その上、気づかなかったとかわからなかったしてなかったできなかった、それらが悪として悪を退治したのがどこかのだれかだとしても、その手の渡った施しは「その勇者のだれか」を個人が感謝する必要があるのかと
組織体系や社会としてその構造を良い物とするために偶像化したり構造に取り込むこと、勇者を表したり感謝の念を示すことは有意義で価値を再生産させる意味合いをもつとおもうけど「個人が勇者に感謝する」必要性があるのかと
またその組織の未熟さを個人として非難する必要があるとすればそれは「勇者」ポジションに名乗りを入れるわけでなければ「それをうまく利用して害悪をなそうとした」モンスターのポジションになるのでは
とりあえず、そういう構造性の指摘に例を利用したまでで、この情報を発信した私個人としては「市政がだめだと言ってくれた事に感謝」という言い方はどうなんだという事柄についてのみ発言した内容でした
真に感謝すべきはだれかとか公務員とかの話は知らないしそういう話ではないです
これあんまり掘り下げて話するようなことではないと思うのですが「桶屋の私が儲かったのは風が吹いてくれたからです」と発信して風を生んだ山や海の環境問題や既得権益の話をしたりポジションや情勢の話をする必要性が個人からどこに必要性などがあるかって話です
桶が売れて儲かったのは買ってくださったお客様のおかげですで止めてはいかんのか? 目をつぶしてくださった砂粒を巻き上げる風さまのおかげですっていうのが妥当なのかということで、そうだとしてもそれを発信するならば「目をつぶしてくれたのは事実だから、それは私じゃないし私は事実を言っただけだから」という態度で逃げれるとは思わないでほしいという事です
お客様ありがとうではなくてなぜ「目をつぶしてくれた風さま」とか選んだのかって事について、選ぶプロセス的にを加えたところがわかりにくさを伴っていたら申し訳ない
②いや例として価値観を例えたわけで
超えてたら申し訳ない
①の構造性を例えたらそうなった
③そう考えるのがおかしくないとしたら②も同じ用途で例えたものなので
よしとはしてくれんか
①の表現者や発想者がいてもおかしくはないと思うし、良いとも思う
ただそれが問題視されることがあるならば、発言者は「元ネタ・ソースをみて」といわず、自己で責任を取るべきだというのが私のスタンスなわけです
つまり偽物が何人いようと偽ソースを何人が出してこようと、結果影響を与える発言をした人間が「だってそういうソースがあったから」と言ってもその責任を負えばいいし負うべきだろうと思うわけです
大層なタイトルをつけたが、これをノンバイナリーの総意として言いたいわけではない(総意として言えるなんて全然思っていない)
また、自分がノンバイナリーだからといって、仮にトランスフォビックな内容があったとして、無罪になると思っているわけではないことも言っておきたい。
ただ、いちノンバイナリーの目からは、一部の“トランス活動家”の発言や“トランスジェンダリズム”は現実からかなり乖離しているように見えるし、また、容易に他者を『差別者』呼びすることにウンザリしての愚痴。
トランスジェンダリズムに救われるトランスジェンダーもいるだろうが、自分はそうではなかった。
そういうトランスジェンダーもいるんだなくらいの気持ちで読んでほしい。
トランス女性は女性です。それに異論はない。トランス女性が女性ではないのと同様に、私も性別がないので。
だけど、トランス女性は女性だけど、世の中には『トランス女性のフリをして女性スペースに侵入したがる、一部の迷惑なオートガイネフィリア』もいるじゃないですか。それをどうしていこうか、という話がしたいのに、そんなことをTwitterで言おうものなら、『トランス女性は女性です』(そんなことはわかっている)『トランスを犯罪者扱いするのか』(そんなことは全く言っていないし、犯罪者扱いされるのはノンバイナリーとしても迷惑だが!???)って言われるから世知辛いし、あまりの噛み合わなさにもしかして、トランス活動家の人達はトランスと(一部の迷惑な)オートガイネフィリアの区別がついていないのか…?(※)とかなり疑念を抱いている。
確かに私はノンバイナリーでトランスジェンダーに分類されるが、オートガイネフィリアと同じだと思われるなら、違うが????とキレ気味に言いたくなる。
※実際区別がついていない人のブログも見たことがある。トランス活動家全員が全員だとは思いたくないが。
子供がトランスだというその人によると、オートガイネフィリアはトランスフォビア的な思想から生まれた分類らしい。
Twitterで『女装男子』『巨大ディルド』とかそういうワードで画像動画検索すると女装オナニスト達(オートガイネフィリアの人達)の無修正自撮り動画がいっぱい出てくるから、そういう人には是非そういう動画を見てもらいたい。
(※一応言っておきたいけど、女装オナニー自体はそれぞれの趣味でいいと思うし、インターネットで公開するのも(フィルタリングの問題はあれ)本人の好きにしたらいいと思う。しかし、それを自宅などの私的スペースでやるのと、公共の女性スペースで行うことは全く意味が違うと思う。念のため)
オートガイネフィリアとトランスの区別もついていないその人に育てられるトランスの子が、生きづらさを覚えないよう、遠くの方から祈るばかりだ。
女性と呼ばれるのも嫌だが、生理のある人って呼びかけられるのも私はすごく嫌だ。無理。
生理の話の時だけとかそういうの関係なく、いついかなる時も嫌だ。じゃあ何がいいっていうのもあるわけではなく、「生理のある人でありたくない」が答えなので、たぶん子宮を取るしかない話だと思っている。
『生理のある人』呼びで救われたノンバイナリーは良かったね、とは思うけど、自分はそうじゃなかったってだけ。
「生理のある人」「ま●さん」「子宮オーナー」なんでもいいけど、こういう呼び方でいついかなる時も呼びかけられたくない。キモい。キモすぎる。
雌性体とかそういう風に言われる方がまだマシ。
自分は女性ではない(しかし男性でもない)と思っても、結局はそこを、よりにもよってそこをピックアップされるのか…という絶望感。
駄々こねだとわかっている。早く子宮を取って、「『生理のある人』?ああ、私には関係ありませんが」という涼しい顔で議論から下りるのが、自分の精神の安定には1番いいのかもしれない。
・リア•トーマスについて
何故彼女が、『トランス女性の選手権を作ろう』とする方向に行くのではなく、女性選手権で戦っているのか本当にわからない。
これに関して、「彼女の現在のテストステロンの量は基準値以下で〜」とかそういう意見も見たが、スキャモンの成長発育曲線から言って、成長期に発達した筋肉のアドバンテージが早々に失われるとも思えない。
レゴブロックのように臓器を入れ換えて(取り外して)『今日から私は男性(女性)です』って世界だったら、苦悩もなにもなかっただろうし私もそんな世界の方が良かったけど、人間の身体は副作用や後遺症なくレゴブロックみたいに、簡単に取り外したら、入れ換えたりできないので、彼女や彼女を無邪気に賞賛する人達にはトランスで苦しんだことを馬鹿にされているように感じて、怒りをおぼえる。
性別とそれに伴う身体的特徴の違いが歴然とあるから、ホルモン治療や性別適合手術で簡単に性別を変えたりなくしたりできないことを知っているから、こんなに悩んでいるのに、ふざけるな、と言いたい。彼女がホルモン治療のみであることも、また怒りの炎に火を注ぐ。
トランスジェンダーの大会を新しく作るにはスポンサーも見つけないといけないし、トランスジェンダーの競技人口は(女子競技人口と比べると)少ないから評価されない(かもしれない)ので、女子の大会で無双してるだけにしか見えない。
リア•トーマスの存在で、トランスジェンダーはああいう卑怯な奴ら、と思われるのも非常に嫌。迷惑。
・Twitterでよく(?)見る「トランス差別者だとわかったので、RT取り消しました」のツイートについて
どういう信条でTwitterやるのも自由だけど、トランス差別以外で見たことない気がする。
トランス差別に対してセンシティブなのは良いことだと思うけど、基準が全然わからないし、そうやって世界を「トランス差別者」と「トランス差別者以外の者」に二分した結果、溜まった怒りとかヘイトが向かうのって結局トランス当事者なんじゃないかな…………という不安。
そういう分断を煽っておいて、『私はトランス差別に理解があります』って顔されても、怖い。
心強い!と思うトランスもいるかもしれないけど、少なくとも私は「この人、分断を煽るだけ煽っておいて、その結果、起きそうなことはなんも想像してないんだなー…」という感想しか抱けないので、離れます。
後ろから援護するように撃たれても、その、嫌だし…
・一部の“トランスジェンダー”や“トランス活動家”の言う『シス女性特権』なるものについて
私の子宮と卵巣と膣をあげたい。
怒らまいと思いながらダラダラ書いたけど、最初から苛立ってしまってダメだった。これでも抑えている。
トランス差別に敏感な人達、トランス活動家の人達に、あなたが言ってたり、やっているそれ、誰のためですか??ってのが言いたかった。
あなたの近くにいるトランスが望んでるならそれでもいーよ。私は違うけど。
トランスをふんわりと『迫害されている悲劇の登場人物(或いは、地上にときたま現れる儚い生き物)』みたいに偶像化しないでほしい。世の中によくいる、生きづらさに「うぇ〜くそがよ〜〜」とかなんとか言いながら生きてる人間達の一部です。
あとトランス当事者でトランス活動家の人達の言うことを、まるでトランスジェンダー全体の総意みたいに言う/思うのも割とマ〜ジでやめてほしい。
そう思ってないノンバイナリーもいるよ。
別にノンバイナリーだからトランス活動家についての愚痴を言っただけで、トランスジェンダリズム、反トランスジェンダリズム、どっちを見ても割と地獄なので、『わたしには関係ない話ですが』って涼しい顔していられるのが1番楽だったと思う(そしてそれは別の差別問題について、もしかしたら私がやって来たかもしれないことだと思う)
これ以上なんか言って私自身が、それぞれの陣営間の憎悪を煽っても嫌なのでやめます。
ただ、どういう主張であっても、自分の主張が間違っている可能性を疑いながら議論してほしい。
私も別に自分の言うことこそが正しいだとは全然思ってないんで。
ただ、「こんなことを言うお前はトランスジェンダー(ノンバイナリー)ではない」と言う人間には、箪笥の角に小指を盛大にぶつけ、その衝撃で上から落下してきた豆腐の角で脳挫傷を起こす呪いをかけます。
聞いてくれてありがとうございました。
聞いてくれた人には休憩時間中にネコチャンが寄ってくる的ないいことが明日起こるし、来世の私はインド映画に出てくるような、イケメン(無性)の姿に転生します。
AVを見ても性交渉の気持ちよさなんてわからないし、どんなことをしたら女性を喜ぶか、女性がどう気持ちよくなってるかなんて想像がつかないんだよ。
それでも童貞は女性が大好きだから、女性がどんなものか知りたいの。その結果がふたなり。
あれだけ想像できなかった女性にも男性器さえつけてしまえば、容姿は可愛いまま自分の快楽を共有できる身近な存在に早変わり。
どう感じているかも自分のモノを触ればいくらでもわかるからね。
しかし悲しいかな、女性を想像したくてふたなりに走った童貞は、どんどん本物の女性からかけ離れた存在を愛すようになっていく。
その結果童貞達の童貞純度は高まっていって、気づいた頃には手遅れになってしまう。
Vtuberリスナーはよくテンプレ批判に対してアイドルを引き合いに出して反論しているが、そもそもアイドルに金を貢ぐ行為からしてよく分からないのは自分だけだろうか。思うに、「バチャ豚」の蔑称を用いて批判を繰り返すような人間は私みたいにそういう人間の心理が理解できないのだろうと推測する。
まず、グッズをコレクションしたり、メンバーシップの恩恵を受けたりなど単なる体験ではなく「実物が手に残る」ということに対してお金を使う例。これは全く問題なく理解出来る。特に、ゲームなどでコレクター気質の自分からするとグッズなんかを(実際に買い集めたことはないが)集めたくなる気持ちは実によく分かる。メンバーシップの限定動画や配信なども繰り返し視聴可能という点で実物が手に残ると言って差し支えないだろう。問題は「実物が手に残らない体験」についてである。アーティストのライブのように多額の費用を投じて行われる一大イベントならまだしも、基本的に無料で視聴可能なゲームや雑談の配信に対してであるのだから尚更である。もちろん全ての投げ銭が煩悩に支配されている訳ではなく、純粋に「応援したい」「感謝を伝えたい」といった心持ちで投げ銭する人がいることは分かっている。その上で、本当に、理解が出来ない。
Vtuberというのは、デジタルのガワを被ったただの配信者である。たかだか一人の異性との写真、たかだか一個人のゲームプレイ映像。たかだか一人の異性との握手、たかだか一個人の雑談。たかだか一人の異性との二言程度の会話、たかだか一個人からの感謝の言葉。これはただの個人の感想でしかないのだが、これらに金銭を使うぐらいならば美味い飯でも食った方が余程幸せなんじゃないのかと思ってしまう。金銭を虚空に消し去り手元に何も残らないことに虚無感は感じないのだろうか。私も出来心でソーシャルゲームに少額課金してみたことがある。最高レアのキャラクターを入手し束の間の喜びを感じたものの、その快楽が過ぎ去った後に残るのは虚無感だけであった。恐らく私がスパチャを投げようもんなら恐ろしい程の虚無感に襲われ、たちまち泡を吹いて死に至る。
分からないなりに考察すると、彼らは決して自分を裏切らないVtuberを、決して自分を裏切らないルックスを持つアイドルを、心の拠り所にしているのではないだろうか。これらに共通するのは強い信頼感である。身近な人間と比べても、自分の望まない行為や結果を起こす可能性はかなり小さい。
では、他人がそうしている間私は何を心の拠り所にしているかというと、何も無い。自分が何を欲しているのか、何をしたいのか、分からない。投げ銭を連投するリスナーをカオナシとはよく言ったものだが、何を隠そう我々こそが真のカオナシだったという訳である。しかし、動いて喋る二次元のキャラを見ても、優れたルックスであざとく振る舞う人間を見ても、何も心は動かない。それは心の拠り所にはならない。その結果が、「バチャ豚煽り」なのだろう。理解できない人々の反対側に自らを置くことで、居場所を無理やりねじ込んでいる。彼らの出来上がる過程としては同性愛差別主義者などと同じで、理解できないことに対する根源的恐怖が彼らを狂わせているのである。
Vtuberリスナーはよくテンプレ批判に対してアイドルを引き合いに出して反論しているが、そもそもアイドルに金を貢ぐ行為からしてよく分からないのは自分だけだろうか。思うに、「バチャ豚」の蔑称を用いて批判を繰り返すような人間は私みたいにそういう人間の心理が理解できないのだろうと推測する。
まず、グッズをコレクションしたり、メンバーシップの恩恵を受けたりなど単なる体験ではなく「実物が手に残る」ということに対してお金を使う例。これは全く問題なく理解出来る。特に、ゲームなどでコレクター気質の自分からするとグッズなんかを(実際に買い集めたことはないが)集めたくなる気持ちは実によく分かる。メンバーシップの限定動画や配信なども繰り返し視聴可能という点で実物が手に残ると言って差し支えないだろう。問題は「実物が手に残らない体験」についてである。アーティストのライブのように多額の費用を投じて行われる一大イベントならまだしも、基本的に無料で視聴可能なゲームや雑談の配信に対してであるのだから尚更である。もちろん全ての投げ銭が煩悩に支配されている訳ではなく、純粋に「応援したい」「感謝を伝えたい」といった心持ちで投げ銭する人がいることは分かっている。その上で、本当に、理解が出来ない。
Vtuberというのは、デジタルのガワを被ったただの配信者である。たかだか一人の異性との写真、たかだか一個人のゲームプレイ映像。たかだか一人の異性との握手、たかだか一個人の雑談。たかだか一人の異性との二言程度の会話、たかだか一個人からの感謝の言葉。これはただの個人の感想でしかないのだが、これらに金銭を使うぐらいならば美味い飯でも食った方が余程幸せなんじゃないのかと思ってしまう。金銭を虚空に消し去り手元に何も残らないことに虚無感は感じないのだろうか。私も出来心でソーシャルゲームに少額課金してみたことがある。最高レアのキャラクターを入手し束の間の喜びを感じたものの、その快楽が過ぎ去った後に残るのは虚無感だけであった。恐らく私がスパチャを投げようもんなら恐ろしい程の虚無感に襲われ、たちまち泡を吹いて死に至る。
分からないなりに考察すると、彼らは決して自分を裏切らないVtuberを、決して自分を裏切らないルックスを持つアイドルを、心の拠り所にしているのではないだろうか。これらに共通するのは強い信頼感である。身近な人間と比べても、自分の望まない行為や結果を起こす可能性はかなり小さい。
では、他人がそうしている間私は何を心の拠り所にしているかというと、何も無い。自分が何を欲しているのか、何をしたいのか、分からない。投げ銭を連投するリスナーをカオナシとはよく言ったものだが、何を隠そう我々こそが真のカオナシだったという訳である。しかし、動いて喋る二次元のキャラを見ても、優れたルックスであざとく振る舞う人間を見ても、何も心は動かない。それは心の拠り所にはならない。その結果が、「バチャ豚煽り」なのだろう。理解できない人々の反対側に自らを置くことで、居場所を無理やりねじ込んでいる。彼らの出来上がる過程としては同性愛差別主義者などと同じで、理解できないことに対する根源的恐怖が彼らを狂わせているのである。