はてなキーワード: ヒロイックとは
現在放映中の深夜アニメ、勇気爆発バーンブレイバーンを楽しみに見ている。
ジャンルそのものをメタる系統の作品で、一見「令和の勇者ロボシリーズ」だけど、おそらく最終的には「令和のまどマギ」枠になるのではないだろうかという予感がある。ジャンルについて自己言及的なあたりのメタさは「SSSS.GRIDMAN」にも通じるところがある気もしなくはない。
ジャンルをメタる上で重要になるのが「様式」で、本作の序盤は「スーパーロボット系アニメ」の様式が(相対的に)リアルロボット寄りの世界観に持ち込まれたときのギャップや違和感の描写が話題になりXのトレンドに上っていた。
本作の監督である大張正己その人は、特にロボットアニメ造形や演出において数々の様式を作り上げた人で、特徴的ながらも非常に汎用性が高く効果的な技法は名前を文字って「バリ○○」みたい名前がつけられたりしている。アニメに詳しくない人でも独特のケレン味と「気持ちの良さ」は一度見ただけで確実に印象に残るはずだ。
氏の功績や影響力はめちゃくちゃ大きいのだが、それにしてもロボットアニメというジャンルは全体として演出に様式を重んじる傾向にある印象がある。理由はいくつか考えられるがそれは置いておきます。
演出の様式という視点で注目すると非常に面白いのがオープニング映像だ。ロボアニメのオープニングアニメーションは様式美が強く、翻ってそのアニメ作品がどの程度ジャンルの様式に則っているかを測る一種のリトマス紙にもなる。
冒頭で例に出した「SSSS.GRIDMAN」はアニメーション全体が映像演出の教科書になっていいんじゃないかというレベルで非常に様式を押さえた作りになっている。OP映像も非常にわかりやすい。
https://www.youtube.com/watch?v=ku6Lz0dlTfs
味方は上手(かみて)からのベクトル、最後のラスボスは下手(しもて)画面上側。物語のキーになる人物の配置、顔の向きなどかなり構造として作り込まれてあり完璧だ。余談ながら、この作品は大張演出をオマージュしすぎたあまり、本人から若干苦言を呈される(のち和解)ということもあった。
上手下手は映像演出の基本のキながら一瞬のカットでも効果が抜群なのと、ロボットには人間ほどの露骨な顔の表情がつけられないからか、OP映像では比較的様式に則って素直に使われるようだ。
「バーンブレイバーン」でも見事なくらい上手下手の様式に則っている。
https://www.youtube.com/watch?v=Zkg_03wzNKQ
味方勢力が上手から下手向き。グリッドマンもそうだが、徹底することで非常にヒロイックな印象になる。ここで気になるのが、1分あたりからの鍔迫り合いだ。当初上手にいたブレイバーンが途中で相対する敵(?)と逆の向きになり下手側に移動する。
下手側は「攻撃を向けられている側/劣勢側」にもなるので、この剣戟シーンでブレイバーンが押されている状況なら無くはなさそうだが、キメのカットではほぼシンメトリーで力が拮抗しているもの同士に見える。
他方同じような構図で味方側が下手にくる鍔迫り合いは他にもある。
https://www.youtube.com/watch?v=5gdItTOUpDM
https://www.youtube.com/watch?v=CgqXWXjA8WE
どちらも終盤、主人公機とライバル機が鍔迫り合いをするが、主人公側が下手、ライバル機が上手になる。
これは作中での2人の関係性を理解すれば納得がいくもので、というのもこのライバルキャラは主人公に一方的に執着して付け狙うだけで逆に主人公側にはこのライバルキャラとは特に戦う理由がなく、都度からまれてはあしらうというだけの関係性でしかない。ライバルの強い一方通行の片思いが反映されている演出だろう。
ガンダムといえばそれ自体様式の重力が強い作品だが、中でも演出に様式を重んじていると思われる作品に「ガンダムSEED」がある。シリーズの中でも妙に大張成分を感じさせる作品は、メカデザインも含めて独特なケレン味を帯びた作風になっている。
SEED無印、確か3期くらいのOP。※期間限定公開(おそらく劇場版上映のため)
https://www.youtube.com/watch?v=AHwxpKaufrw
ここでも1分あたりで味方と因縁のある敵との剣戟があるが上手が味方機だ。
ちなみにこのOP、物語が大きく動くタイミングでの新規OPで、演出によってその後の勢力の変動が暗示されるものになっており楽曲の歌詞とも絶妙にリンクしたSEEDシリーズきっての名OPになっている。
鍔迫り合いではないが、上手下手の扱いが非常に巧みなのがガンダムW後期OPだ。
https://www.youtube.com/watch?v=ICOwBtm8L_s
冒頭で上手からまっすぐに抜けていくウイングゼロがとてもヒロイックだ。最後にウイングゼロがライバル機と相対して下手に地球を写したあとの掴み合いで画面が回転してウイングゼロが下手下側にくる。その角度のままライフルを発射する。
牽強付会すれば、初代ガンダム1話でアムロがザクを刺した決めカットと同じ構図で劇的である。そもそもガンダムWという作品自体、味方がとにかく劣勢になりがちでだいたい常に負けている側なので、主人公の見上げるカットとともに逆転の一発、というのはとても熱く効果的だ。
最後に、同じガンダムシリーズのOPでいうと映像演出の面で興味深いと思ったのが直近の「水星の魔女」。ネタバレが含まれるので未視聴の方はご注意。
https://www.youtube.com/watch?v=aU8ruUe7UlE
冒頭で主人公が上手入りの動きをするのに対して、主人公機であるエアリアルはサビ部分の見せ場で、一瞬上手から入ったあとは画面中央奥に飛んでいく。そして最後に逆光シンメトリーという、若干不穏なカットで終わる。特に最後の構図は何か小骨がのどに刺さったような違和感を覚えるものがある。
初期の作品キービジュアルではエアリアルが逆立ちをするように反転していたりと、何かしらエアリアルという機体に異質さを表現しようとした意図がうかがえる。
そして2期OP
https://www.youtube.com/watch?v=0Zmt74GeVpY
45秒あたりでようやくエアリアル改修型が上手入りするが、それを見上げるスレッタの表情は不安気で、新型機登場というOP華のシーンながらどこか不気味なシーンにもなっている。
そして、物語がクライマックスに入り、OPカットが更新される。
https://www.youtube.com/watch?v=bJa4Fwi5X9g
1分あたりからスレッタの本当の後継機になったキャリバーンが満を持して上手から随伴機とともにバーストし、その先から敵対してしまった改修型が下手入りし、剣戟のカットでキメる。
山本太郎のヒロイックシンドロームを満たすため、それ以外の(れ新にとって)合理的な理由を挙げます。
衆参・地方含め、石川及び福井富山にれ新候補者が擁立されたことはない。一応新潟には蓮池氏がいるが、選挙としては参院比例からの出馬であり、この震災でも動きが見えない(被災されているのかもしれないが)。
衆院選では、もともと東京8区からの出馬を予定していた辻村氏を比例北陸信越ブロックに飛ばし、山本自らが東京8区に野党統一候補としてなり替わろうとした。その後の顛末はみなさんご存じの通り。
というかれ新は地方組織を全く作らないという運用を続けており、50名ほどの地方議員が誕生していても県連的な組織はない。
他の党であれば地元議員や地方組織が活動できるが、ボランティアをやりがい搾取でこき使っているれ新にはその手駒がない。
よく言えば独立独歩、悪く言えば減税狂信者であるれ新は、これまでなんだかんだ理由をつけて内閣不信任案を棄権するなど、主に立憲から距離を取りつつ減税による野党共闘のヘゲモニーを狙っていた。
去年、あれだけ全国各地でバカ騒ぎを起こして増税に反対していたのはそのためである。
しかし先の臨時国会では、安部派の裏金問題に野党が、それも立憲が中心となり一致団結するという事態になり、山本太郎としてはそれはそれで面白くない結果となった。
また、立憲はれ新の存在理由である消費税減税に消極的であり、市民連合もそれを共通政策に入れないという背景がある。櫛渕が市民連合の要望書を「受け取っただけ」とわざわざ付け足したのも記憶に新しい。
折りしも、山本太郎が能登入りを公にした1/5は、各党が能登視察を自粛する申し合わせを行っていた。大石曰く、れ新と社民党がその会談に参加できない、という話は事前にあったということで、能登入りの決め手になったとも考えられる。
1/1の発災から沈黙を続けていた山本太郎は、いまも党として声明の一つも出してはいないが、1/4には支持者向けメールで能登入りを明らかにしている。どこを向いて行動しているのはこれで明らかだろう。
というわけで、いまは構成員からボランティアまで活き活きと与野党叩きに勤しんでいる。れいわローテーションの延期なんてだれも気にしていない。
支持者とアンチにしか共有されていない事項だとは思うが、山本太郎は災害時に飛び出していくという性質がある。
例の国葬儀の日は静岡の台風被害地に訪れ、その後の集会にわざわざ泥で汚れたスニーカーで参上した話はもはや英雄譚として語り継がれている。
というか、山本太郎が何かしらしでかすことこそが、れ新がピックアップされる唯一のイベントといってもいい。
2022年12月の代表選挙で、対立候補であるはずの大石や櫛渕はなんと主張したか? 「山本太郎を野に放て」である。
たとえ自分たちが選挙に勝っても、山本太郎が直前に創設した共同代表ポストに据え、自由気ままに活動してもらう、というのであった。
なので、山本太郎がしでかした時点でもう目標が達成している。通常国会が楽しみですね。
バイアス抜きに客観的事実だけを抜き出せば本当にその通りで笑えるのが俺なんだよね。
・ふとしたきっかけで公金の使われ方に疑問を持ち、調査した所大規模な不正疑惑が発覚
・相手は政治的なバックを持つ権力者であり、疑問を追求した者に恫喝めいた嫌がらせを行う
・権力者側と戦う為に住民訴訟を起こし、様々な人間を巻き込み広範囲に拡散していく
・リア凸や個人情報晒し等の野蛮な妨害を嫌い、あくまでも正しい戦い方、リーガルのバトルのみで正々堂々と戦う
・政治的なバックは一切無く、戦う為の資金は自前や支持者のカンパのみ
・戦う事による報酬は一切求めない、お金に対しては清廉潔白な姿勢
横暴な権力者と戦う一般市民の活動家というヒロイックな像は、まさしくリベラルの理想そのものである。
「巨大権力者に疑問を持った市井の人間が立ち向かう」というものだったけど
今暇空がやっている事を、どこぞの自称新聞記者で女性では無く、
本当にただの一般市民、しかもオタクのオッサンに盗られた事が非常に悔しいんだろうな。
暇空批判には、どうにもヒステリックだったり感情的過ぎるものが散見されるが
中には「本当は俺たち私達がやる筈だった事・得られる筈だったポジションを奪いやがって!」
という嫉妬も多分にあるのだろう。
[追記」
案の定極左はてサブクマカ連中が発狂してるみたいだけどw(どこで火ぃついたか知らんけどさ)
1バイトも書いて無い「暇空を左翼に押し付けやがって!」みたいな文脈を起点に「これは負けそうだから云々~」ってゲスパーするのは正気なのだろうか。
この増田で言いたいのは、「暇空は左翼と同じ(且つ理想としている様な)手法で権力者側と戦ってるのに、どうして自称左翼は毛嫌いするんだ?」という皮肉ですよ。
ここまで書かないと分からないものかね?いや分かってて敢えて激怒しているだけなのかな?知らんけど。
ってか暇の人は反左翼ではあるかも知れないが右翼でも無いとは思う。
安倍首相が亡くなった時、相棒と一緒にアベ擦りしててすっげー不愉快でブロックしたもの。
俗に言う「ネトウヨ」だったらそんな事しねーよな?って事で。
暇個人は尊敬するに値しない人物なのは百も承知なのだが、権力側に与した自称リベラル界隈へのカウンターとしてあの様な人物(勢力)が現れるだろうな
というのは予期していた事だったけど、既存左翼はどう反応するのかなーと高みの見物してたら案の定で笑ってしまったわw
もうちょっと、冷静で賢い識者の振りが出来ないものかね。ヒステリックに「お前みたいな人間には市民活動をする権利など無い!」と言わんばかりの言動はどうかと思ったよ。
「オンブズマンでもないのに住民監査をした、リーガルハラスメントである」みたいな物言いとかさ、あれを一般オンブズマンや左翼と親和性のある人達が同じ事されたら一体どう思うのか、よーく考えた方が良いのでは?
まさか「我々の行為は正しいから問題無い、暇空のは間違っているからNG」とは言わないよね?
そういう姿勢だから、左翼・リベラルが腐った権威の象徴に成り上り傲慢で腐敗していったし、その結果、市井の市民達に引きずり降ろされようとしているのが今でしょ。
[追記2]
現代左翼は一昔前の所謂「ネトウヨ」化しているという事は、暇空個人に対する人格・属性批判、単なる誹謗中傷が「反論」として目立つ点で改めて感じた。
何故ロジカルに「暇空のやっている事は~~~~という理由だから左翼の理想等では無い」という反論が出来ないのか。
暇空がミソジニーだから悪い?まず彼が「ミソジニー」という根拠を上げてから言えば良いのに。
(個人的には奴は間違ってもフェミじゃないしアンチフェミ寄りだとは思うが、ミソジニー=女性差別主義者、とまで言われる程強烈な差別思想・言動があるとも思えない。
ミソジニーに限らず、ネトウヨだのヘイトだのナチスだの◯アノンだの、重いパワーワードを平気で相手にぶつけてレッテル貼る事で言葉の定義がガバガバに軽くなってしまうのは、現代左翼の非常に悪い特性だろう。)
結局、やってるのが一般男性でオタクで中年だから正義では無い、みたいな言説にしかなっておらず、現代左翼の悪い癖がそっくりそのまま出ていますね。
まるでネトウヨが「〇〇人のやる事は全て悪いんだー!」と叫んで差別をしているかの如き乱暴な主張だ。
恐らく一昔前の所謂ネトウヨやってた人間が、反転か逆張りして左翼リベラルを自称して騒いでるのが、現代左翼・リベラルが「ネトウヨ的」と呼ばれる理由の一つなのだろう。
そしてそんな彼らから「ネトウヨ」と呼ばれる集団から、従来の左翼リベラルの手法で社会活動を行う者が現れたというのは、何とも皮肉なものですね。
こういう事を書くとマジ切れ発狂顔真っ赤になる人達いるだろうけど
バイアス抜きに客観的事実だけを抜き出せばマジでその通りなんだよね。
・ふとしたきっかけで公金の使われ方に疑問を持ち、調査した所大規模な不正疑惑が発覚
・相手は政治的なバックを持つ権力者であり、疑問を追求した者に恫喝めいた嫌がらせを行う
・権力者側と戦う為に住民訴訟を起こし、様々な人間を巻き込み広範囲に拡散していく
・リア凸や個人情報晒し等の野蛮な妨害を嫌い、あくまでも正しい戦い方、リーガルのバトルのみで正々堂々と戦う
・政治的なバックは一切無く、戦う為の資金は自前や支持者のカンパのみ
・戦う事による報酬は一切求めない、お金に対しては清廉潔白な姿勢
横暴な権力者と戦う市井の一般市民というヒロイックな像はまさしくリベラルの理想そのものであり
リベラル界隈(の間だけ)で持て囃されていた、かのアカデミー賞受賞映画「新聞記者」も
筋書きとしては「巨大権力者に疑問を持った市井の人間が立ち向かう」というものだったけど
今暇空がやっている事を、どこぞの自称新聞記者で女性では無く、
本当にただの一般市民、しかもオタクのオッサンに盗られた事が非常~~~~に、悔しいんだろうな。
暇空批判には、どうにもヒステリックだったり感情的過ぎるものが散見されるが
中には「本当は俺たち私達がやる筈だった事・得られる筈だったポジションを奪いやがって!」という
毎度毎度ネット文字創作界隈をお騒がせすることで有名な、「名興文庫」およびその「相談役」。
(詳しく説明するのは面倒なので、知らない人は「名興文庫」「本格ファンタジー」「ダークスレイヤー」あたりでツイッター検索をかけてもらえば、何となくその立ち位置が分かってもらえると思う)
今回は、日本において「本格ファンタジー」が根付くはずの土壌をラノベが破壊してしまった、という歴史認識を巡って学芸員の鞍馬アリス@kurama_fantasy氏と論戦を繰り広げているようだが、その中でこんな発言が出てきた。
ttps://twitter.com/kurama_fantasy/status/1698847925580022266
@kurama_fantasy
最初から土台をなしにされたと言うことを、歴史的な史料(当該時期の雑誌、新聞、評論、研究、書簡類、出版に関わる統計資料等、あるいは当事者の証言であるオーラル・ヒストリーを含んでいます)などを組み合わせて実証的に証明できないのであれば、デマや陰謀論の類と同じ価値しかないと思います。
ttps://twitter.com/kadas_blue/status/1698849563380236367
堅洲 斗支夜/Toshiya Kadas@名興文庫相談役/総帥
@kadas_blue
ライトノベル宣言が出た頃の話と、先日私が引用していたファンタジーノベル大賞の『ヒロイックファンタジーは採用しない』という公言。
これによって長く一般小説に一ジャンルとしての本格的なファンタジーの土台がなくなったというただの事実を、わざわざ長い時間をかけて検証するのはあなたの自由ですよ。
一般的に「ライトノベル宣言」として知られるもの、そして「ライトノベル宣言」でググってトップに出てくるのは、「角川武蔵野ミュージアム」内の「マンガ・ラノベ図書館」で掲示されている、メディアワークスの創業者にして元角川書店社長の角川歴彦氏による文章だ。
ttps://kadcul.com/manga_light_novel_library
作家夏目漱石を代表とする近代文学は昭和期に入って純文学と大衆小説に分かれ多様に発展したが、 気がつけば名著名作として現代国語の教科書内の存在になっていた。 しかし青春文学を求めるヤングアダルトといわれる若者層はいつしか自分が選ぶ小説・文学の登場を渇望していたのであった。 ライトノベルは青春期の少年少女が与えられた本に満足せず、自分の意志で手に取る最初の本である。
ライトノベルの起源はイギリスの“円卓の騎士”や『指輪物語』から影響を受け、RPGリプレイから生れた『ロードス島戦記』だ。 座を囲んだプレイヤーの数だけ豊かな物語を紡ぐことのできるゲームから水野良は小説『ロードス島戦記』を誕生させた。
(このラノベの起源=ロードス説にもついても一部で議論が存在するが、今回の件とは関係がないので無視する)
実際鞍馬アリス氏も、「ライトノベル宣言」がマンガ・ラノベ図書館のこの文章であると解釈して話を進めている。
ttps://twitter.com/kurama_fantasy/status/1698903493632036891
@kurama_fantasy
前者はマンガ・ラノベ図書館開館によせて作成されたテクストであるかと思いますが、角川歴彦名義で角川書店がライトノベルというものをどのように発表時点で認識し、総括しているかは書いてありますが、本格ファンタジーとの関係性に関してはロードス島の部分以外では書かれていないテクストです。
これだけで決着が付きそうなところではあるが、相談役氏の過去ツイートおよび、執筆者不詳だが十中八九相談役氏が書いたと思われる名興文庫のコラムを見てみると、「ライトノベル宣言」について以下のように語られている。
ttps://twitter.com/kadas_blue/status/1463850316441415687
堅洲 斗支夜/Toshiya Kadas@名興文庫相談役/総帥
@kadas_blue
くっそー、ファンノベ大賞が出た時の嫌な感じが30年かけて伏線回収されるなんて。
ttps://twitter.com/kadas_blue/status/1482181140610191362
堅洲 斗支夜/Toshiya Kadas@名興文庫相談役/総帥
@kadas_blue
世の中、小説なんてほぼ一生読まない人が大半なのに、そんな人たちも読めるような小説を出してお金にするなら、テーマも難しい表現もとことん取っ払ってディスポーザブルなモデルにするしかない。
ttps://twitter.com/kadas_blue/status/1482182010928250880
堅洲 斗支夜/Toshiya Kadas@名興文庫相談役/総帥
@kadas_blue
しかし、ライトノベルを始めた頃の出版社は、それが世の中だと知らなかった。
そりゃそうだ。小説界隈の人たちは自分たちが造り酒屋やウイスキーのブリュワリーだと思ってたんだもの。
ttps://twitter.com/kadas_blue/status/1482182689008467969
堅洲 斗支夜/Toshiya Kadas@名興文庫相談役/総帥
@kadas_blue
『初期のラノベがしっかりしてた』ってな言説は、それがウイスキー(小説)のエッセンスがそこそこに含まれていたからだ。
でも、水割りが売れ始めたので、某出版社が『これからはウイスキーだけじゃなくて水割りを真面目に売る!』って宣言したのよね。
ttps://twitter.com/kadas_blue/status/1490340592727228417
堅洲 斗支夜/Toshiya Kadas@名興文庫相談役/総帥
@kadas_blue
カドカワがロードス島戦記をもって『ライトノベル宣言』をしたことによって、日本のファンタジーはある意味呪われてしまいました。
今や本格的なファンタジーのレーベルは無く、全てライトノベルです。
ttps://twitter.com/kadas_blue/status/1568797511976091648
堅洲 斗支夜/Toshiya Kadas@名興文庫相談役/総帥
@kadas_blue
カドカワの『ライトノベル宣言』の切欠がロードス島戦記ですから。
ttps://twitter.com/kadas_blue/status/1581241393715957760
堅洲 斗支夜/Toshiya Kadas@名興文庫相談役/総帥
@kadas_blue
KAZUさんはとても理性的に話せる人なので少し面白い話をすると、某社がライトノベル宣言を出した時に、ファンタジーにある区切りが発生してしまったのですよ。
私としてはライトと一般のファンタジーを明確に分けるか、いっそライトって呼称をもう無くして欲しいと思っています。構成が大変で。
ttps://twitter.com/kadas_blue/status/1599779249946517505
堅洲 斗支夜/Toshiya Kadas@名興文庫相談役/総帥
@kadas_blue
年代的にはあの頃ですね。
まだラノベって言葉が無くて、ゲーム界隈で高まってたファンタジーへの認知がロードス島戦記で解放されて、ライトノベル宣言が為されたころまでですね。
私は本来のファンタジーを希望する~本格ファンタジーとは何か~ | 名興文庫
ttps://www.naocoshibunko.com/column004/
少し過去にさかのぼって説明しよう。『ロードス島戦記』の爆発的なヒットでカドカワが『ライトノベル宣言』を出してライトノベルの時代が明確になり始めるころ、それ以前は『ファンタジーノベル』と呼ばれていた作品群もライトノベルの前期と分類されるようになったが、この時期に新潮社が『ファンタジーをテーマにした文学賞』というコンセプトで『日本ファンタジーノベル大賞』を開始した。
お分かりだろうか。
この二点を前提にする限りは、相談役氏の言う「ライトノベル宣言」が、マンガ・ラノベ図書館の同名文章を指しているとは考えにくい(ラノベ図書館のオープンは2020年8月)
では、相談役氏の言う「ライトノベル宣言」とはいったい何なのだろうか?
「ライトノベル宣言」をダブルクォーテーションでかこってググってみても、マンガ・ラノベ図書館関連以外はほとんどヒットしない(冲方丁の「最後のライトノベル宣言」ぐらい)
こうなると、相談役氏の言う「ライトノベル宣言」は、一般的には「ライトノベル宣言」とは呼ばれていないものを指している可能性が高い(そもそも実在しない可能性はとりあえず考えない)
実際、上で引用したツイートの中にも「いわゆるライトノベル宣言」という表現がある。また、そもそも読者発の「ライトノベル」というジャンル名を出版社側がおおっぴらに使い始めたのはだいぶ後になってからのことである、という事実はラノベ史を少しでもかじったことのある人間には常識だ。
実質的な「ライトノベル宣言」に該当しそうな候補としては何があるだろうか。少し考えて真っ先に思いついたのは、「電撃文庫創刊に際して」だ。
ttps://sai-zen-sen.jp/editors/blog/works/4-9.html
電撃文庫創刊に際して
文庫は、我が国にとどまらず、世界の書籍の流れのなかで〝小さな巨人”としての地位を築いてきた。古今東西の名著を、廉価で手に入りやすい形で提供してきたからこそ、人は文庫を自分の師として、また青春の想い出として、語りついできたのである。
その源を、文化的にはドイツのレクラム文庫に求めるにせよ、規模の上でイギリスのペンギンブックスに求めるにせよ、いま文庫は知識人の層の多様化に従って、ますますその意義を大きくしていると言ってよい。
文庫出版の意味するものは、激動の現代のみならず将来にわたって、大きくなることはあっても、小さくなることはないだろう。
「電撃文庫」は、そのように多様化した対象に応え、歴史に耐えうる作品を収録するのはもちろん、新しい世紀を迎えるにあたって、既成の枠をこえる新鮮で強烈なアイ・オープナーたりたい。
その特異さ故に、この存在は、かつて文庫がはじめて出版世界に登場したときと、同じ戸惑いを読書人に与えるかもしれない。
しかし、〈Changing Time,Changing Publishing〉時代は変わって、出版も変わる。時を重ねるなかで、精神の糧として、心の一隅を占めるものとして、次なる文化の担い手の若者たちに確かな評価を得られると信じて、ここに「電撃文庫」を出版する。
電撃文庫の巻末には必ず掲載されているこの文章(現在もあるのかは知らない)。ラノベを読んでいた人間なら、一度は目にしたことがあるだろう。
「レクラム文庫」「ペンギンブックス」「アイ・オープナーたりたい」などを意味も分からぬままマネして遊んでいた人も多いのではないか(その馴染み深さから、昨年、角川歴彦氏が逮捕された際にツイッターで擦られまくったことも記憶に新しい)
この文章の執筆者は、ラノベ図書館の「ライトノベル宣言」と同じく、当時メディアワークス社長だった角川歴彦氏である。というより、「Changing Time, Changing Publishing.」というフレーズが共通しているところを見ても、セルフオマージュというか、令和版「電撃文庫創刊に際して」として「ライトノベル宣言」が書かれたフシすらある。
逆に言うと、「電撃文庫創刊に際して」は平成版「ライトノベル宣言」である、と言えなくもないのではないか。
「ライトノベル」という用語自体が文中に存在しないのはもちろん、概念的にも直接ラノベに触れているとは言い難い内容ではあるが、他文庫の派生ではない純粋なラノベレーベルの中では恐らく初めての「発刊の辞」という意味でも、「実質的ライトノベル宣言」らしさはある。
この説でネックとなるのは、電撃文庫創刊時のメディアワークスは一応「角川」ではないということと、ラノベ以上に「本格ファンタジー」うんぬんとは全く関係がないという点だろうか。
仮説1と言っておきながら、2以降は思いつかなかった。尻切れトンボの検証で申し訳ない。
なんとなく、角川のファンタジーフェアやスニーカーの創刊あたりにも何かそれっぽい文章がありそうな気もするが……情報や仮説をお持ちの方は、トラバやブコメなどでこちらにお寄せいただきたい。
そんなの本人に聞けば済むことだろうと素人は思うかもしれないが、経験上、件の人物がこの手の問題についてまともに答えることはまずない。そのため、こちら側で勝手に調査して結論を出す方がかえって手っ取り早いのだ。
それから、せっかく見つけたのでついでに言及しておくと、こちらの東浩紀と桜坂洋と新城カズマの鼎談では、(相談役氏がいうところの)「ライトノベル宣言」とはむしろ真逆の歴史認識が示されている。
ttp://www.hajou.org/geetstate/cm70/hb_pp20-23.pdf
東 とはいえ、ライトノベルが崩壊するといっても、実はライトノベルの外延そのものが確定していない。SF だったら、SF 作家クラブがあって、福島正実が創刊した『SF マガジン』の歴史があって、ジャンルとしての基盤がはっきりしている。だから、SF が崩壊するといってもイメージが湧きやすいんだけど、それに対してライトノベルはどうか。例えば、安田均や水野良が集まってライトノベル宣言をしたわけでもないし、機関誌が創刊されたわけでもない。そこで決定的に違うと思うんですよね
インターネットは特別な資格なしに誰もが自由に発言できる空間である。それは明らかに大きな美点だ。
だが、何の気なしに発した曖昧な内容が、他の人間に検証・裏どりの多大な手間をかけさせてしまうこともある。
そこで空費される本来不要だったはずの労力について、全員が一度は考えてみてもらいたい。あなたにとってはどうでもいい話題の一つに過ぎなくても、そうではない人間がいる場合もあるのだ。ましてや、その道に詳しい専門家のような顔で情報発信するならなおさらである。
ましてや闘病日記などはvtuberの普段の配信とは関わりのないことで前例もない。
そして「漫画のようだ」という形容は必ずしも「現実には起こり得ない」という意味ではない。
日常生活でもちょっと面白い出来事があれば「漫画みたいだね」という表現は気軽に使われる。
漫画の主人公は多くヒロイックであり優れた行動力を備えているが、
と言ってそこまで現実に存在しないようなキャラクター造形をしているわけではない。
それは現実の人物である大谷翔平や藤井聡太が「漫画でもありえない」と形容されることからもわかるだろう。
この漫画ってつまる所は「将棋と青春を通して描く人生という『一所懸命』」なんだと思うんですよね。
王と玉を取り合うシンプルで言い訳のしようがない世界である盤面の上で、夢や都合や老いといったモヤモヤしたものが絡み合って純粋さが失われていく将棋パート。
それとは反対に色々な物が混ざり合いすぎた絵の具みたいに鈍色と虹色の中間みたいな現実の中で、ハッキリと光るものによって世界がシンプルにほどけていく日常パート。
その2つの相反する世界の中で、純粋と混沌をグラデーションさせながら生きていくことを強要されていく世界を浮かび上がらせ、その複雑さと残酷さに押し潰されそうになる中をどう進むか、その答としての「一所懸命」がこの作品で描かれているものなんだろうなと。
この混沌とした世界で数少ない純粋なもの、将棋の勝ち負け、好きだと想う心、その光を一直線に目指す気持ち、それを絶対に譲れないからと必死に糸をたぐるように追い求めていけばきっと道は拓けるはずだという希望の唄なんですよね。
それを今自分が使っているような陳腐な言葉じゃなくて、比喩表現を駆使して少しでも深く掘り出そうとする思いがファイターを通して今なら分かる。
昔は分からなかった。
将棋という軸に繋ぎ止められた方向性のない群像劇だとさえ思っていた。
全然違った。
皆が光に向かって突き進んでいる。
自分の中から溢れてくる光、それが指し示す道へと向けて精一杯突き進んでいる。
なんで3月のライオンのテーマソングがこんなに力強いんだろうか不思議だった。
桐山零は物凄い強くて天才だけど、その印象は優男、いや優しい男の子っていう感じだった。
でもその歩みは物凄く力強かったんだ。
まっすぐ目の前に伸びる道をノッシノッシと何もかもを押しのけていくように踏みしめていく。
この力強さを奏でていたんだな。
そして、そうやって突き進むために桐山が傷つきながらもファイティングポーズを絶対に解かないで何ラウンドもリングの真ん中で拳を突き出し続けた姿を、そんな桐山の戦いの中に、将棋の勝ち負けだけじゃなくて温かいものが無数にあるんだって教えてくれた光に対しての祝福がこんなにも輝いてるから、こんなにもヒロイックに音が跳ねていたんだ。
俺、分からなかった。
10年もかかってしまった。
凄いな、プロは。
いや本当感心するわ。
ワイは宗教・哲学・福祉・一次産業をやっているヤツを除いて『生かされている』って考え方を持つ10〜20代みたことない
人間も自然の一部であり、自分を取り巻く多くの人達のおかげ、天地自然のおかげ、この地球上に生きる他の多くの命のおかげ、
無いよなぁ
母ちゃんは哲学とかには興味はないがスピリチュアルは家系的に親和性が高かった
自分が小学校4年くらいの時に神様っていると思うかと尋ねると、
『特定の宗教は信仰しておらず、強いて言えば先祖崇拝だが、生かされていると感じることがあるので神はいると思う。
年を重ねれば重ねるほど生かされていると感じることが多くなっている』と言っていた
その時は生かされているの意味がよくわからなかったが、母ちゃんの言葉の通り、
年を重ねれば重ねるほど、『死んでも不思議じゃなかったのによく生きてたな』とか『自分はラッキーだったんだな』とか
生かされているなぁと感じることが多くなった
生かされているだと妙にヒロイックというか厨二なので『たまたま生きてるんだなぁ』と置き換えてもいい
あと、たまたまから漏れてしまった人の代わりに、他人に親切するとか、助けるとか、役に立つものを作るとか、身近な人を大事にするとか、
SpotifyがWUG(Wake Up,Girls!)の曲をオススメリストにぶっこんできたから無視して「俺はI-1のが好きなんだよ!」とソッチを聞き始めた。
https://open.spotify.com/track/0wMRrXpTMJt1vaYKkWkFzf
『リトルチャレンジャー』だ……やはりコイツこそが「WUGに宿る悪意」を象徴していて最高だ……。
知らない人に解説すると、『Wake Up,Girls!』は駆け出しアイドルグループであるWake Up,Girls!をテーマにした作品なのだが、その作品世界でAKBの立ち位置にいる時代の支配者こそがI-1 Clubである。
そんな世界の支配者が「アイドルという偶像の演じるべき姿」として「挑戦者」を題材に歌うのが『リトルチャレンジャー』!
世界の頂点を取ったはずの連中が売れ線のテーマとして「自分たちは挑戦者なのだ」と高らかに開拓の精神を歌い上げるのだ。
ズルすぎるだろ!
王冠を戴くやつはチャレンジャーをやるな それはズルすぎるから
こんなことをされたらI-1の玉座を簒奪にかかるその他大勢の反逆者たちはどんな物語を掲げろというのだ。
勝利が勝利を呼び続け、売上が正義を証明するアイドルという戦国時代を象徴するかのような武力こそが善性たる世界の閉塞感。
その中で勝利者がレッドカーペットを威風堂々と歩みながら自分たちはまだ何者でもないと言い張る姿を描き出すヒロイックな楽曲として『リトルチャレンジャー』の納得感は非常に高い。
重厚にして軽快、駿馬に跨る重騎士が駆け抜けるような疾走感+力強さ=絶対的正しさ、その在り来りな英雄譚が纏うある種の安っぽさ、愚民達が求めるままに心を重ねられるヒーロー像、トップアイドルが約束された勝利へ向けて歩みだす予定調和の冒険譚。
この曲を本当の挑戦者たる売れないアイドル達の側で聞くその絶望感、挑戦という物語さえ奪われてしまったあとの空虚さ。
挑戦なんてものを謳うのは最高のアイドルがついでにやればいいことだから、売れない奴は諦めて業界を去れと囁かれているような。
もう残された道は誰も望んでいない無謀と無軌道だけだ。
『リトルチャレンジャー』はWUGの世界に広がる無限の厚みを持って降り注ぐガラスの天井を象徴する最高の楽曲だ!
完璧だ。
文句のつけようがない。
オーダー通りの仕事とはこのことだ。
勿体ねえなあ。
まあ本人が悪いんだけど。
それはそれとしてやっぱ凄いんだけど。
凄いんだけど。
そもそも、最初に暇空がcolaboに目をつけて監査請求通した時点の暇空の目的は【colaboに嫌がらせて社会的評価を下げること】じゃん。
もともと、温泉むすめを燃やした仁藤夢乃に対する攻撃でしょ。今は戦線拡大して、4団体とか税金チューチューとか言ってるが。
仁藤夢乃の影響力が下がって、これから萌え絵を燃やそうとしても、「不正経理団体!」って印象が浸透すれば良いわけ。これから犬笛吹かなくても攻撃材料ができて、なんなら弁護士やら会計士やらまで参戦してきてるわけじゃん。
これから、萌え絵に難癖つけようとしても、「そんな暇あるなら経理ちゃんとしてますか?」「領収書取ってますか?」って煽りたい放題で、相手にされなくなるわけ。
左派運動は正義のゴリ押しで道なき道を爆進して、それなりの影響力や説得力を持ってたわけだが、それが崩壊した時点で負けなの。
10個提出したうちの1個の一部が監査請求通っただけでも致命傷なんだよ。安倍ちゃんに打たれた散弾銃も別に全弾命中してないだろ?その一発が致命傷なのに、「9発外れてるから山上は暗殺者として下手くそ!」って騒いでる奴いないだろ。
精神勝利して安堵したい気持ちはわかるが、今ラディカルなフェミニズム左派は今も絶賛出血中なんだから、まずは止血することに注力しろよ。血を流したまま、「完全勝利!」とかヒロイックな気持ちになるな。馬鹿かよ。
「ガンダム」とはなんなのか、ガンダムシリーズをここ数年ちょっと見た程度の俺が説明するぞ。
俺はニワカだからこそ部外者にはちょうどいい雑な説明ができるだろう。
正確じゃなくなるが、まあ細かい正確さなんかどうでもいいだろ。
多くの人が想像するガンダムは、一番最初の『機動戦士ガンダム』、通称1stガンダムの主役ロボの名前だ。
アムロ・レイが乗ってて、白くて、胴体は赤青黄色でかっこよくて、目が二つあって、角が生えてる、一番有名なあいつな。
この1作目はマジンガーZみたいな子供向けスーパーロボットとして計画された作品であり、設定の辻褄やリアリティはガバガバである。(なのに実際に見ると、現代の大人でも楽しめる作品になっているのが凄い)
単に子供に人気が出るように、敵や味方のロボが泥臭いデザインの中で一機だけ人間っぽい顔とヒロイックなデザインにして、名前はカッコイイ響きのガンダムって機体名と作品名にしたってだけだ。
この1stガンダムがまあまあヒットして、ガンダムは続編や外伝が作られるようになる。
どんなジャンルでも言える事だが、シリーズになると設定が増えるし、辻褄を合わせたり重厚になったりしていく。
ガンダムシリーズはSFっぽさや、歴史ものっぽさや、戦争っぽさ、つまり「なんかリアルっぽい作品内の設定」も魅力にしていくのだが、一方でロボットアニメ商売の都合で、新作の主役メカは○○ガンダムって呼びたいし作品名も○○ガンダムとしたいとアニメ会社やオモチャ会社は考える。
そこで、「アムロ・レイが乗ったガンダムがめちゃめちゃ活躍したので、あの顔とガンダムという名前はスゲー強いエースと高性能機の代名詞として世界中に知れ渡るようになった。なのでその後の歴史では色んな軍隊が、ガンダムの名前を付けた機体をガンダムっぽいデザインで作ることで、味方の鼓舞と敵の威圧に使うようにした」という設定が考えられた。(この理屈が生まれるまでにも色々他の理屈もあったりした)
これによって、現実の商売として「細かいことは抜きにしてガンダムっぽい格好いいいデザインと名前のロボを出せば、ファンが買うからそれでいい」っていうことと、作品設定として「細かいことは抜きにしてガンダムっぽい格好いいいデザインと名前の兵器を作れば、作品内の大衆は憧れたりビビったりするからそれでいい」というのを上手くリンクさせたわけだ。
というのは、現実のガンダムアニメブランドにおいても、作中におけるガンダム兵器ブランドにおいてもまあまあ正しいと言える。
その上で、ちょっとリアルっぽいひねりを利かせた存在として、元々は軍の主力機としてガンダムの一体として計画されていたけど何かの事情で名前と見た目をガンダムっぽくない形で完成した機体とかもある。それはライトファンや作中一般人にとってはガンダムではないのだが、コアなアニメオタクや作中の軍事専門家にとっては「実は定義上はガンダムなんだよね、軍で開発中のコードネームも○○ガンダムでさ」と言えたりするわけだ。これはオタクっぽい余談。
さて、ここでちょっと話を複雑にする。
ガンダムシリーズには、「宇宙世紀シリーズ」と呼ばれる作品群と、「アナザーガンダムシリーズ」と呼ばれる作品群がある。
宇宙世紀系は大河歴史ものっぽく一繋がりであり、アナザー系は作品ごとに別世界の単発作品群だ。
宇宙世紀シリーズというのは、宇宙世紀0079年を舞台にした『機動戦士ガンダム』と同じ歴史上にある作品たちで、宇宙世紀0085年が舞台ですよ~とか、99年が舞台ですよ~とか説明される。
この記事の前半で、「ガンダムの見た目と名前は、強さのシンボルとして、人々へアピールするために使われる兵器デザインだ」と説明したが、それはこの宇宙世紀シリーズでの話だ。
アナザーガンダムシリーズは、作品によって、作品も舞台設定もバラバラなので、その作品内で「ガンダム」という名前の意味や理由は全部違う。
『新機動戦記ガンダムW』では、機体の素材がGenetic on Uni-versal Neutraly Different Alloy(電気的に中性的な異種構造の宇宙製合金)で作られたロボがGUNDAM。
『機動戦士ガンダムSEED』では、機体を制御するOSがGeneral Unilateral Neuro-Link Dispersive Autonomic Maneuver Synthesis System(単方向の分散型神経接続によって自律機動をおこなう汎用統合性システム)だからGUNDAM。
アナザーガンダム系は、各作品が独立してるため好きに設定できるので、宇宙世紀系の大衆へのアピールみたいな要素をちょっと加えてる場合もあるし、まあそのへんはオタクもあんまうるさいことは言わないだろう。