「大師」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 大師とは

2021-01-16

続・浄土真宗僧侶です

今一度、お付き合いいただければと思います

まずは、今回の私の投稿をお読みいただき、重ね重ねありがとうございました。まさかここまでの反響をいただくとは夢にも思わずブックマークが1000を超えた辺りから身体が震え出し、喉はからから渇き、手の痺れが止まらない体たらくで、よくも悪くも注目を集めることの重圧を初めて味わいました。お恥ずかしい限りの有り様です。

きっかけをくれた(元)増田にもありがとう

「この説法を読んだみんな (元)増田のお祖父さんのリモート葬儀に参列したようなものだ」

「(元)増田さんが勇気を出して書かなければ現れなかったご縁」

コメントしてくださった方がおられましたが、正にその通りだと思います

祖父様の生前のご希望・ご親族わだかまり元増田さんの苦慮と懊悩・私が僧侶として学び感じてきたこと……様々な縁が積み重なって因となり、この果をもたらしました。

一連の記事を読まれた方はみな、会ったことも見たこともない元増田さんのお祖父様の死を受け止め、素性も分からぬ私の法話に心を傾けてくださり、それぞれがご自分の「今」、ご自分の「これまで」と向き合った。そのような瞬間に立ち会えたこともそうですが、私がそのささやかなお手伝いができたのだとするならば、返す返すもったいないことであります

たとえ学んだ経験を持たずとも、皆様は真宗の心をよくよくご承知なのだと、喜ばしく思いました。


しかし同時に、私が一方的にご親族非難するような語り口になったことで、一部の方にご不快な思いを抱かせてしまい、本当に申し訳ありません。

元増田さんの痛みが少しでも和らげばと思い、思い悩む側に立ってお伝えしたつもりでしたが、その主張に至る論拠も背景も提示せぬまま、語調への配慮もなく投稿してしまった浅はかさ。ひいては、浄土真宗教義宗旨のものに対する誤った印象を広めかねない軽率さを、深く悔いております

身口意の三業(しんくいのさんごう:苦しみを生み出す元ともなる、身体言葉と心の在り方)を正さなければならないのは私こそだと、改めて皆様からお教えいただきました。


今回の投稿を機に、様々な声をお寄せいただきました。その中からいくつか、私が個人的にお伝えしたい、或いはどうしてもお答えしなければならないと感じた点について、一つ一つ書き綴っていきたいと考えました。

ところが、お答えしたいと感じたコメントも、それに対してお伝えしたいと考えているお話も、あまりに膨大な量になってきてしまったため、今ここでそのすべてを書き記すことはできません。

そこで、ある方からコメントでご希望をいただいたこともあって、note等の他媒体で一つずつ回答を掲載してゆく形を取れないか検討しております。今しばらくお時間とご猶予いただければ幸いです。

また、すでに書き終えた箇所については、以下に記しますので、暇つぶしがてらご一読いただきたく思います


お同行(どうぎょう:人生をよりよく生きたいと願い、共に歩む仲間たち)の皆様に、何か少しでも響けばと願って。

合掌


「本当に坊さんなのか」と仰った方に

釈迦さまがご存命の頃、覚者として名高いお釈迦さまの噂を耳にしていた方が、お釈迦さまの姿を見掛けるなり、突然敬いの態度を取られたそうです。その方に対してお釈迦さまは、

「この腐ってゆくだけの身体を見たからといって何になるでしょうか。“法”を見る者が私の姿を見るのです」

と仰せになりました。

釈迦さまという人間(物質)そのものは何も尊くなく、その姿をただ拝んだところで意味はない。仏を本当に敬う心というのは、仏からもたらされた法 (= 真実悟り・気付きへと至る教え) を深く信ぜられる心があって、初めて沸き起こるのだということです。

100人いれば100通りのもの見方が生まれます。なぜなら私たちはみな一様に、自分の都合のいいように物事ねじ曲げて捉える色眼鏡、「邪見(じゃけん)」の持ち主だからです。

信じる方もいれば、信じない方もおられるでしょう。私自身は信じられなくとも、一向に構いません。後はあなたのお好きなように受け取ってください。

信じてくださった方には、

「すなわち我が親友(しんぬ)ぞ」

とお伝えしたく思います


「彼に一時期話題になったAmazonお坊さん便についてや、オンラインお坊さん、などについても聞いてみたい」と仰った方に

法務が忙しく、自坊で取り入れることは現状難しいですが、私は賛成派です。

どんな形であっても、そこで出遇うのは人と人です。これまで仏縁をいただくはずもなかった方のお宅を訪ね、仏事作法・死生にまつわるお悩みに、私どもの信ずる教えをお伝えできる機会を賜われるとしたら、ありがたいことです。

中国善導大師も、

「もし行を学ばんと欲(おも)わば、必ず有縁(うえん)の法に藉(よ)れ」

という言葉を遺しておられます理想的はいかないまでも、それぞれに合った形で、仏法平等に一切に施されるべきなのです。


「襟を正すとは言わないのね。襟ないし」と仰った方に

これは浄土真宗の三大経典ひとつ、大無量寿経において、お釈迦さまが弟子阿難(あなん)に対して、

「汝、起(た)ちて更に衣服(えぶく)を整え、」

と、身も心も改めるよう告げられた場面に由来しております

我々僧侶は、法務に臨む上で、常にこの阿難に求められた姿勢を貫くことを責務としています


浄土真宗の寛容さは良い。そもそも修行しなくてもだれでも救われるって教えだし、坊さん自体も妻帯OK・肉食OK・髪剃らなくてOKだしな」と仰った方に

浄土真宗好意的に感じてくださって、ありがとうございます

さしたる戒律も持たない浄土真宗を“寛容”と捉えるのか、“険しい道”と捉えるのかが、俗世と求道者の大きな分かれ目となるのでしょう。

たとえば、もしもあなたが、

世間の人たちが当たり前にしてることをあなたもしていいよ、それであなたも仏になれるよ」

と言われたとして、あなたはその言葉をどれほど信じられますか?

その通りにして生きていったとして、世間の人から口々に

あんたのところの宗派は楽でいいよなあ」

「他の宗派みたいに滝に打たれたりとか山籠りとかそれっぽい修行しないんですか?(笑)

「何なのその髪の毛? ありがたみが足りないね

「お寺の息子ってボンボンだよね。坊主丸儲けって言うし」

「お坊さんも肉食ったりセックスオナニーするんすかwww

と好き放題になじられ続けて、それでも自分は間違いなく仏になれるのだと、あなたは胸を張って言い切れますか?

我々の求道の在り方は、甘えでも寛容さでもなく、「覚悟」です。

世間は常に、自分たちで勝手に作り出した意味もない物差しに、自分たちで勝手に縛り付け合ってああでもないこうでもないと罵り合い、争い合っています。そんな人々の下世話な好奇の目や嘲りにも耐えて、たとえ自力聖道門尊いお坊様のような修行は積めずとも、ごく普通人間と変わらぬ平凡な生活を営みながら、それでも間違いなく仏になれるのだと、己が第一に身をもって証明していく勇気を見せなければならないのが浄土真宗僧侶なのです。

開祖である親鸞さまはそのご覚悟

「僧にあらず俗にあらず」

という言葉で表され、また

人倫(じんりん)の嘲(あざけ)りを恥じず」

と仰せになり、決して退くことのない浄土への道をひたすらに歩まれたお方でした。

であればこそ、親鸞さまに救われた私もまた、親鸞さまと同じ生き方を願い、その道を皆様と共に歩みたいと思うのです。

「徳の高い坊さんだ」、「ありがたい」と仰った方に

ありがとうございますしかし、現実の私はそのような人間ではありません。何しろ私は、この教えに出遇わなければ死を選ぶしかなかったほど、弱く、もろく、そして愚かなためです。

もしもあなたが私の書き込みに何らかの功徳を感じてくださったのだとして、ではその功徳をもたらしてくれたのは誰で、どこからきたものなのでしょうか。命を断つしか選択のなかった、世間人間社会を呪うしかなかった私のこの頭から、口から、心から、仏の教えがこぼれ出てくるという不可思議現象は、なぜ起きたのでしょうか。

今回の場合は、すでに冒頭で述べた通りです。私が言わんとするところはつまり私自身が尊いのではなく、私のような者に教えを語らせた諸々のはたらき、「わたし」と「あなた」の間に結び付きを与えてくださる種々のはたらきが尊いのです。

すべては響き合い作用し合い、そして悲しみやよろこびを生み出しています

私はできるだけ悲しみを減らすお手伝いをし、できるだけよろこびを増やすことを務めとして生きてゆきたい。そう願っています

「小慈小悲もなき身にて 有情利益(うじょうりやく)は思うまじ」

と、開祖である親鸞さまが仰せになったように、煩悩具足(ぼんのうぐそく:煩悩に満ちた状態)の凡夫(ぼんぶ:弱く無力で自力で悟れない愚かな存在)の身には出過ぎた願いではありますが、様々な縁によって助けられ支えられ励まされ慰められ育てられて生きてこられた、その力だけは、私には絶対事実です。私は私以外からもたらされた力を一心に信じさせていただき今日まで生かされております。この歓喜慚愧の念に頭が下がり手が合わさる心を、他力本願といいます

真に功徳に満ちているのは、真にありがたいのは、私たちに「あなたが救われて欲しい」と種々にはたらきかけてくださる、阿弥陀如来さまであります南無阿弥陀仏

「どこまで書いて消えてしまったのかを思うと心が痛むほど丁寧でわかりやす文章」と仰った方に

件の投稿よりももっと長く書き綴っていた文章が、残り数行というところでうっかりページバックボタンに触れてしまい、全消失しました。あまりのショックにじたばたと暴れ、ウワー!と叫びました。

「諸行は無常、こんな記事を書いたところで誰が読むでもなし、諦めて他のことをしよう」

と思って立ち上がった途端、リングコンを握り締めながら涙をこぼしている増田さんの姿が脳裏に浮かび、いやこれでは駄目だ、多少は簡素になってもいいからお伝えしよう、と踏みとどまりました。

結果、この拙文によって一部の方を戸惑わせたり憤らせもしてしまいましたが、多くの喜びの声を受けて、私が信じてきた教え、私に教えを授けてくださった諸仏と数多のご先達が、私に微笑みかけてくださるような感慨に胸が熱くなりました。本当にありがとうございます。至らぬところも多く、本当にごめんなさい。南無阿弥陀仏


(以下、今後回答を予定しているコメントをお載せします)

「今のコロナの状況を浄土真宗的にどうお考えか、また、どう乗り越えていけばいいか
無関係な私まで救われた気がする」、「心が洗われた」
「妻の初めての命日は、2月2日です。その日のまえに、このようなものが読めるとは」
「去年亡くなった母の遺影写真なくて父のガラケーで撮った低画質のをスマホアプリで綺麗にして使ったの。ずっと申し訳なく思ってたけどコレ読んだらそう悪くも無いのかな。父は喜んだし、何より良い笑顔だったんよ」
「(まずは他者よりも、わたし自身が目を開き、耳を傾け、心を開かなければなりません)…刺さる言葉だけどなかなかこれが出来ない。モノサシが異なると心を開く事が譲歩に見られてしまう。それも飲み込むべきなのかな」
葬式の時にこういうありがたい話を聞いて身が引き締まるのだが、翌日にはもうおっぱいのこと考えてしま自分がいる」
「“そういう態度や振る舞いしかできないだけの縁”。興味深い価値観だ。こう言う時に遺言として望むべき振る舞いについて残してあげるのが去りゆくものの置き土産なのかもしれない。身近な人たちに優しくありたいな」
親族に対してどうしてそこまで偉そうに断罪できるのか分からない(大意)」
「死者の本当の想いとやらを都合良く説きすぎ」、「どうして祖父気持ちを代弁できるのか(大意)」
「“縁なき衆生”も救われるのが浄土真宗じゃないのか」、「凡夫の救済である悪人正機みたいのもあるけどどう折り合いつくんだろ」
自分葬式なんてどうでもいい」、「葬式要らない。やるだけ無駄
仏教においては死んで仏弟子となった者の魂は阿弥陀如来浄土へ既に導いたので、葬式というのはただ遺族を慰めるためにやるものなんだよな。だから遺族の気が済めばそれでよい」
檀家がお寺の建て替え費用負担する仏教の教えを教えてください」

現時点では、以上のコメントについて、今後時間をかけて回答したく思います

準備ができ次第、こちらの投稿言及する形で戻って参りますゆえ、今しばしお待ちください。


最後になりましたが、皆様とこのような法縁に恵まれきっかけを与えてくださった元増田さんを始め、すべての方のお命とお心に、敬い申し上げます

南無阿弥陀仏

2021-01-03

2020-11-12

anond:20201111103428

409号線大師道も凄いくさい

くさいだけならまだしも実が大量に潰れすぎてバイクタイヤスリップしたことある

なすぎる

ほんと公害もいいとこだ

2020-10-23

anond:20201023145717

賛成22

反対15

その他宗教行事で集まるwwwwみたいに韓国笑ってたけど日本も同じだと思う
賛成経団連に働きかけるのです!
その他帰省初詣自粛呼びかけはしないんですかね。いつまでこの「爆発しない程度にギリギリ感染させるゲーム」をやるんだろう。夏の間もGoToやって全然減らす気なかったみたいだし。
賛成あれ、おかしいなぁ。学校は年間授業日数確保のために冬休み大幅短縮と聞いてたんだけど。ちゃんと調整してから発表してほしぃなぁ。
賛成うちは無理なんで皆に任せた。せめてガラガラ電車で出勤させてくれ
反対今年日取り悪くて連休短いなーとは思ってたけど、今言い出すかね。
反対金融機関です。そんなにすぐ休業決められません。
その他休暇と関係ないのでは? >初詣などによる人出増
賛成結構なことだとは思うが、学校とかはどうなるのだろう? 年明けるとすぐに共通テストもあるし、高校入試も早いところは始まる頃なのでチョッと心配
賛成休み=無給の人には辛いが、基本的には良いと思う
賛成このままだと年末年始だけだから帰省して酒飲んでお参りしてクラスターは目に見えてるので騒ぐのは大事
反対派遣給料減るから無理やり出社すると思われ。意味ねーよ。
反対非正規から猛反発あるんじゃね?
その他佐野厄除け大師とかは、人出があってもやはりコロナにかからないんだろうか。
反対年始は様々な行事システム稼働などの確認作業があるので丸々休みは厳しいのでは。延長を提言するなら祝日を設定して堂々と休めるような取り組みとセットにすべきだと思う
賛成どうせなら年末年始で1か月ぐらい休もうよ。そうしたらGoTo業種が儲かるよ。
反対もうすぐ11月。直前過ぎ
賛成月曜か金曜のどっちかを休みにする、も効果ある気がする。お願いします。
賛成休みが多くなるなら歓迎なのだが、存在しない有給だけ強制されるような気がする。(つまり休めない)
反対非正規補填する仕組みを作ってから言ってくれ!
賛成旅行観光業界への後押しっていうこともあるのかな
反対働けなくなる分の給付金シマシでお願いします。
反対その間給料出なくなった非正規の皆さんが年越し派遣村に大挙して、派遣村がクラスター化しそうだけどなw
賛成もっとはよいえや。
その他休暇延長したら手柄だし、しなくとも言い訳にはなるし、とりあえず言ってみた的な。どこまで本気なんだろ。
その他なんで政府分科会提言するのに尾見会長写真使うのかな。
反対全国一斉休校といいgotoといい直前にゴチャゴチャ言い出すのマジで無能感出てて今のニッポンって感じ
賛成提言したところでどこも聞かないから、ちゃん法律休日にしてください。そうでないと無意味
賛成わかるー。年末年始の休暇、合計で12ヶ月くらい欲しい
賛成いっそ10月ぐらいに年忘れしてもええんやで。今年は最悪の年だったし……。
反対急に労働日数減らされても売り上げ目標も減らなければ海外の元から正月休みがない国から発注も積り続けるだけでして……
賛成延長じゃなくて、年末年始に関わらず分散して休んでって言うべきなのでは。
その他提言することが分かった」学術会議提言を山ほど出してる学術会議仕事してるって聞いたけど、文科会の提言だとボロクソ言われるとかだとやっぱり提言仕事のうちに入らないの?
反対無理言うな。世の中が回らん。
賛成欧米のように個人が好きな時に1ヶ月位のバケーションを取れるようになったらいい。
その他休みをなくせば旅行に出る人も必然的に減るな
反対感染防止に重要なのは自粛の徹底であって今の野放し状態のまま公休増やしたら増えた分だけ余計にあちこちgotoしまくって感染広げるだけの逆効果やで。宗教行事感染広げやすい。休みじゃなくリモート参拝勧めるんや
賛成良い話。これによって強制有給消化しろ!とか言われるのであれば、その会社ブラックなだけなのだが、政府を攻める人が出てくるんだろうなあ。社畜になってることを自覚してないのは恐ろしい
その他政府が、という話じゃないのか。お願いしてばっかだな。
その他弊社は前例鑑みる有給休暇が強制的にあてられるだけ…ならまだいい方で、土曜出社日が追加される可能性が高いわ
賛成今までは「休みが合わないと家族旅行にいけない」という問題があったけど、今は旅行を避けて貰いたい訳だから休みは極力分散する方針でいいと思う。
反対法整備されないなら、実現しても有給消化推奨、ないしは、強制となりそう。転職したばかりで有給少ないので、強制となると迷惑だな。
賛成これは興味深い。もしこれが実現されたら、前半は引きこもって感染してるリスクを限りなく下げておいて、後半で帰省するという方法もとれる。帰省時の移動中に感染するリスクはあるから、車で行ける場合特に有効
反対餅で死ぬやつ増えそう
その他業種によって悲喜こもごもかな。
その他GOTO帰省GOTO初詣
賛成これはいい気がする!みんな実家帰っちゃうもんねえ
その他来年1月4日月曜日仕事始めとする企業が多いとみられ、帰省旅行初詣などによる人出増を分散するため、11日の成人の日まで休みを延ばすよう働き掛ける”
賛成休みは嬉しいけどそんな時期にそんな長く休みをもらったところですることないわ…
賛成まず官庁が率先して範を示してから言うべきだ。御用納め御用始めは変更しないのか?

2020-07-20

1980年7月18日世代

anond:20200720204513

年齢棋士
57大山康晴A級/3位)
56
55
54
53
52
51
50
49
48二上達也(B1/19位)
47
46
45木村義徳A級/34位)
44有吉道夫(B1/12位)
43
42
41
40加藤一二三A級/6位)内藤國雄(A級/7位)
39板谷進(A級/21位)
38大内延介(B1/15位)
37米長邦雄A級/2位)
36
35勝浦修(A級/4位)
34森雞二(B1/16位)
33石田和雄A級/10位)田中魁秀(B2/17位)
32中原誠名人/1位)桐山清澄A級/13位)
31佐藤義則B2/14位)
30 森安秀光(A級/5位)
29
28
27青野照市(B1/8位)宮田利男C1/20位)
26
25
24
23小林健二(C1/11位)
22
21
20福崎文吾(C1/18位)
19
18谷川浩司B2/9位)

タイトルホルダー(王座戦一般戦時代のため全六冠)

中原誠名人十段棋聖棋王米長邦雄王位大山康晴王将

概観

筆者にとってはここから数年後が将棋に興味を持ち始めた時期のため個人的には印象の深い顔ぶれが並ぶのですが、改めて1990年世代表と比較すると、羽生世代と55年組が年齢の関係で登場していないことを除けば、主たる顔ぶれに大きな変化がありません。大山から中原への世代交代を経て米長の台頭と加藤の才能の遅れながらの円熟を迎えた70年代の熱が、80年代いよいよその盛りに達しようとするまさにそういうタイミングであり、それが1990年の段階でまだまだ勢いを持っていたと見るべきでしょう。そういう意味でも、羽生善治は「最も最適のタイミングで出現した」と言えるのかもしれません。

谷川浩司登場

そういう熱の中に、1人とびきりの若さで登場した谷川浩司の衝撃、をリアルタイムで感じることのできない当時の私の年齢ではありましたが、こうして見ればその存在感の突出さも別の意味理解できようというものです。ただ、谷川80年代を通してついに「自らの統一王朝」を開くまでには至らず、中原と押し引きを続けている間に羽生とも戦わざるを得なくなるという状況を迎えました。

板谷四郎一門の存在感

藤井聡太大師板谷進とその弟弟子石田和雄A級に、さら板谷進の弟子小林健二が将来を期待される俊英として名を連ね、板谷四郎一門のある種の盛りを迎えています。途中石田弟子高見泰地が叡王位を獲得するとはいえ、ここから40年を経て「東海タイトルを」が結実するというのは、年月の長さを感じます

2020-07-08

EXITドラゴンボール発言から考えるバッファロー吾郎ライン終焉

EXITの「ドラゴンボールプロレスで例えられても若者には響かない」発言は衝撃だった。

EXITはいわゆるお笑い第7世代と言われる令和の若手芸人の中心的存在で、1020代認知度も極めて高い。

平成テレビは、BIG3お笑い第3世代がその地位を盤石とし続けた時代だった。

ダウンタウンに憧れて芸人を目指した世代はもうアラフィフを迎え、若手としてテレビに出る芸人も実際は30代以上。

普通に考えれば千原兄弟ケンコバ博多華丸大吉野性爆弾も、もう10年早く東京テレビに出まくってても全然良かったはずだった。

上への階段が閉ざされ続けた故に、一発屋全国的知名度を手に入れてもM1で勝ってもテレビ椅子は空かなかった。

司会者は変わらない顔ぶれのまま、ひな壇の若手~中堅がどんどん入れ替わっていく時代だった。

90年代半ばから20年間、ずっと大阪で有望な若手たちを育成し続けていたのがバッファロー吾郎だ。

極端に言えば、初期のアメトーーク構成や細かすぎて伝わらないモノマネは完全にバッファロー吾郎大阪ライブでやり続けた笑いのノリそのものだ。

ダウンタウンとんねるずテレビゴールデンでやり続けるエンタメとは違うアングラな笑い。

2ちゃんねるニコニコ動画とも親和性の高かったあるあるネタや特異なノリの数々は、今のアラフォーアラフィフにとにかく受けた。

それを「面白い」と思える世代は、もう今のアラサー世代(いわゆるゆとり世代)がギリギリなのである

今のアラフォー位で特にネットSNSを好む人達はまだ自分の笑いの感覚若いと思ってる(さすがにアラフィフとなるとわきまえている人が多い)。

tiktokSNS無名若者YouTuberたちが切り開く笑いはそれまでと全然異質のものだ。

2018年のM1の時点で「もう自虐は古い」とギャロップ漫才をバッサリ切り捨てた上沼恵美子凄さはまさにここなのである

今ではビジネススクールでも紹介されることが多い島田紳助伝説NSC授業(DVD化されている)で、紳助さんは「時代の流れXと自分の力Yを常に把握し近づける努力をしなければいけない」と言った。

問題時代の流れXに対して自分の力Yは時間をかけて努力しようとすればするほど逆方向に行ってしま可能性が高いということだ。

子供の頃のあるある視聴者との共通体験と大きくかけ離れた時、もうそれはあるあるではなく自己満足回想録となる。

大げさに言えばもう昭和あるあるトークはそんなに遠くないうちに戦時中経験した大師クラスの「昔はこんなに貧しかった話」と変わらなくなるのである

バッファロー吾郎がやり続けてきたことは偉大だ。

ケンコバ友近レイザーラモンも、バッファロー吾郎がいなかったら今の活躍はなかったかもしれない。

ももテレビでもネットでも、ドラゴンボールキン肉マンプロレスネタがその活路を見出す場面は先細っていくばかりなのである

2020-06-04

六代目神田伯山の奥さんマネジメント事務所社長の古舘理沙ってどんな人?みたいな情報探してる人ちらほら居るけど、

普通に神田伯山ティービィー」の「松之丞改メ神田伯山真打昇進披露興行」の楽屋カメラ映像でちらほら映り込んでいる、あの女性だよね?

説明テロップも何も入ってない(入れるわけがない)けど何故かそこに映っている、大師匠方がすぐ隣にいても全然物怖じせずに堂々として謎の存在感ある、

三本締めで伯山の真向かい位置で、まるでセンターに居るかのようなポジション手拍子やってる。あの人がそうだと、何となくそう思うけど。

2020-04-05

ぼやき酒屋」はもう古典落語として扱われていいのでは

ぼやき酒屋」は桂文枝(六代目)が桂三枝だった頃に演じていた創作落語である

噺の内容を知っている人は多分分かると思うが、内容は明らかに上方落語の一つである「上燗屋」を現代的にリファインしたものになっている。

「上燗屋」は酔客があの手この手の口八丁手八丁でもって只酒只飯にありつこうとするというのが笑いの肝であるのに対し、ぼやき酒屋の方は

お題通り酔客の「ほやき」そのものが笑いの肝である。ぼやく内容に楽屋ネタを織り込んでもいいし時事ネタも大いに使える。演者にとっても

客にとっても言わば「勝手の良い」ネタである個人的には思っている。

この「ぼやき酒屋」桂文枝(六代目)の創作落語である事は周知の事実であるので、文枝以外の噺家が演じるには、たとえどんな大師匠だろうと

桂文枝直々に稽古を付けて貰う」つまり伝授してもらう事が絶対条件としてあるらしい。これは上方落語だろうと江戸落語だろうと、どの

団体所属だろうと一切無関係である。「直々に稽古」と言っても内容は至って形式的で、

 

一、文枝師匠に直接会って御挨拶

二、文枝師匠に直接会って頭を下げて「直々に稽古」を付けて貰う事の許しを得る。

三、文枝師匠から快諾を受けて「直々に稽古」キットを授かる(大抵の場合、後日郵送でと思うけど、中身は口演DVDとか文枝の銘が入った公式台本、そして手拭い、みたいな感じだろう。)

四、文枝師匠に御礼状をしたためる。

 

以上の儀式を通過した噺家けがぼやき酒屋」の口演を許されている。これは桂文枝(六代目)が生存している限り継続される筈の、現在プロ落語家全てに課せられているしきたりである

 

妄想です。

2020-02-07

anond:20200207094051

お寺はなんか好きくない

ただし厄除け大師は赦された

2019-10-26

DQ11S 3Dから2Dモード切替で周回プレイをしたときに起こること

3Dアイテム集めコンプリートし終え、2D最初からニズゼルファ撃破まで

2Dモードへ切り替え時に維持されるもの

※ウマレースモード変更の再開ポイントで解禁されうるレースクリア済みになるよう。たとえば増殖目的で「6つのオーブから再開させると、シルバー杯もクリア済みになり、むずかしい報酬会心カードは入手できない。

3Dオンリー称号は消えるわけでなく、ふたたび3Dモードにすると復活する。

アイテム増殖のためには、各キャラのどうぐ欄は空にしてからモードをかえたほうがいい(とくにグレイグは)。

2Dモード切り替え維持で維持されないもの

2Dモードでのアイテム増殖技

オーブ6個揃えて、ラム長老に話しかけた時の主人公以外の6キャラのどうぐ欄が、ウルノー撃破後に過去に戻ったとき復元されることで、どうぐ欄においたアイテムが増殖される

3DSでできたセーニャ覚醒時の増殖はなし(DQ11Sでは、ベロニカのどうぐ欄アイテムがふくろにもどされる)

参考: 周回で増えない2Dモードで増殖可能アイテム一覧

クエスト報酬ユニークアイテム

カジノユニークアイテム

メダルスタンプユニークアイテム

練武討魔行のユニークアイテム

復活しない宝箱のユニークアイテム

イベント報酬ユニークアイテム

このうち複数もつ意味のあるアイテム


周回ごとにも増えるが、増殖もさせたいアイテム

2Dモードの初回だけ宝箱が開けられる、増殖もさせたいアイテム

2Dモードから3Dモードにする周回メモ

3Dモードでのラム長老アイテム増殖

「そろった6つのオーブから過去戻りするまでの時間がすくなく、開封済み宝箱が少ない2Dモードの方が、アイテム増殖に向いているだろう

2019-10-20

DQ11S追加の練武討魔行「裏の試練」攻略メモ

注: 3Dモード、しばりなし、たねでのステータスアップ一切なし、消費アイテム使用

1戦目

目安: 10

装備

2戦目

目安: 12

装備

3戦目

目安: 3手

注: 「シーゴーレム」は、「クロスマダンテ」のあと300ダメージほど必要

装備

4戦目

目安: 20

注: 仲間が呼ばれても「ニマ大師」を単体攻撃で先に倒す。

装備

報酬

  • 初回: 超・まもりのたねx8
  • 70手: 超・ちからのたねx8
  • 60手: 超・ふしぎなきのみx8
  • 50手: 超・命のきのみx8

終了後に、「ニマ大師」にはなしかけると、「お尻たたき棒」をもらえる

2019-09-19

anond:20190919102745

店名に大師餅が入ってる店なんていくらでもあるはずだが

2019-03-22

anond:20190322215137

ウソ

健全なる魂は~」は確かに本来健全なる魂は健全なる肉体に宿れかし」であり、この文を書いた人間の願望でしかないが

石の上にも三年」の由来はだるま大師が壁に向かって9年間も座禅を続け、悟りを得たという故事から来ている

続きも「石の上にも三年居れば、暖まる」

ちなみに3年は3年間という期間を表すのではなく「長い期間」の比喩である


本当の事とウソを混ぜてウソをそれっぽく見せる、詐欺師常套手段

2019-01-20

ついに1/21が来てしまう…衝撃に備えよ

御影

仏教儀式名。「みえいく」とも読む。祖師の命日に,その図像 (御影) を掲げて供養する法会 (ほうえ) 。代表的もの真言宗弘法大師御影供があり,毎月 21日に行う法会を「月並御影供」,3月 21日の法会を「正 (しょう) 御影供」という。天台宗には天台大師伝教大師・慈覚大師・慈恵大師・智証大師の五大師御影供がある。なお,宗派により同種の行事報恩講,あるいは会式 (えしき) ,御忌会 (ぎょきえ) などと称する。

コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典解説

2018-04-06

藤井六段のライバル考えてみた

超絶の強さの羽生竜王にも初期は谷川、同年代村山佐藤、森内、そして竜王めぐり10以上年下の渡辺というライバルが多くいるように

藤井六段にもライバル必要

それもただ強いだけではなくキャラ立ちしたライバルがいる

藤井六段はたんに史上最年少棋士というだけで本来ラノベ主人公級なのに連勝記録、最年少棋戦優勝をうちたて

さら人格者師匠に、姉弟子は女王気質の強豪女流、妹弟子に一歳下の女流棋士を目指す美少女主人公フラグが立ちまくっている

これに対抗するには「詰将棋意味ないです」発言詰将棋藤井とはレゾンデートルをかけた戦いを繰り広げる増田五段が第一候補

29連勝をストップした「蒼い彗星」こと天然キャラ美青年佐々木勇気六段、特に特徴はないがとにかく強い佐々木大地四段

などが候補だが主人公ライバルとしてはいまいち弱い

そこで今年プロになった長谷部四段はどうだろうか?まだ強さは全くわからん

戦後将棋界で最も大きな足跡を残した大山升田の両巨星

大山名人の業績は将棋ファンなら知らないものは居ない

一方升田九段は多くの伝説エピソードを残すと同時に現代の目でも斬新な戦法を指し

毎年の新手、新戦法に対し贈られる「升田賞」にその名を留めている

大山系譜行方八段、佐藤名人など何人もの棋士を輩出し若手にもその系譜複数人いる

ところが一方の升田は基本弟子を獲らなかったためプロ棋士になった弟子は唯一人あの桐谷七段だけなのだ

そこで長谷部四段だ

大師匠は今言った升田唯一の弟子にしてネタキャラ引退棋士、”優待生活の”桐谷さん、師匠は桐谷七段の弟子で棋界屈指のドルヲタ現在は指原で有名hkt48ファン大平六段

系譜棋士だけは異常にキャラ立ちをしている

長谷部本人は升田将棋に憧れ、同世代では升田唯一の系譜プロ棋士であり、プロ棋士不毛の地栃木から栃木棋界の期待を一身に棋界にはいるという

現代系譜など関係ないと言うが、これだけ(藤井師匠の)杉本七段にスポットがあたり板谷一門からタイトルをなどといっているのだから

長谷部四段が同年代で唯一の升田の系譜だというのは十分キャラになるだろう

あ、僕ももちろん升田将棋ファンです

ということでこの長谷部四段に注目したい

2017-12-22

伊藤春香 可憐 美人 優秀 天才 才色兼備 高学歴 裕福 頭脳明晰

伊藤春香 出世 昇進 有名 社長 総理大臣 次期天皇 最終解脱 幸福

伊藤春香 電通 モデル 首席 英雄 金メダル 麗人 結婚 王族 優勝

伊藤春香 全知全能 一流 栄光 超能力者 完璧 順風満帆 立派 聖人

伊藤春香 神通力 有言実行 博識 努力家 現人神 伝説 誠実 カリスマ

伊藤春香 ノーベル賞 活躍 オールマイティ 明敏 無敵 創造主 非凡

伊藤春香 文武両道 超人 核兵器保有 新進気鋭 エリート 辣腕 眉目秀麗

伊藤春香 完全無欠 勇敢 多芸多才 長寿 健康 精鋭 前途洋々 リーダー

伊藤春香 綺麗 チャーミング 魅力的 親孝行 正大師 世界一 アカデミー賞

伊藤春香 神聖 潔白 明朗 快活 フィールズ賞 有能 温厚 グローバル

2017-07-26

日蓮宗について

日蓮宗では、本迹一致を立てている。この本迹一致論は、

天台大師が『法華玄義』に説いた「本迹異なりと雖も不思議一なり」との解釈によるもので、

大聖人様の御教示ではないのです。

また、天台の「不思議一」との意味は、

迹門という小さな川も、本門の大海に収まれば同じ海水となるという、

法華経開会の法門を説き示したものであり、

決して身延のような本迹二門を対等に見た上での「一致」を説くものではないのです。

大聖人様は『治病大小権実違目』に、

「本迹の相違は水火・天地の違目なり」と、

また『妙一女御返事』には「迹門は理具の即身成仏

本門は事の即身成仏なり」と法華経の本迹の相違を明確に御教示されています

日蓮宗はその区別がついていない邪宗教です。

法華経本迹二門は、

久遠実成の本仏と始成正覚の迹仏という仏身においても、

その説かれる法体においても勝劣があり、

その相違は水火・天地のごとくであると言えます

しか日蓮宗では、「実相一体」や「本迹未分」という勝手解釈を加え、

「本迹一致」の邪義を主張していますが、

これらは宗祖の御教示にはないものであり、

宗祖の正意に背く謗法の論となることは明らかです。

仏像本尊は、宗祖の本意にあらず」

日蓮宗では、信仰の根幹である本尊について、

未だに宗祖の正意が何であるかが理解出来ず、

本尊に関する御書を集めて候補を選び、

その中から適当形式相談して決めるという、

極めて杜撰見解を発表しています

それを要約すれば、

御書に現れた本尊形式は、

一、首題本尊 

二、釈迦一体仏 

三、大曼荼羅 

四、一尊四士 

五、二尊四士があり、

このうち一、と三、を法本尊

二、四、五、を仏本尊とし、

その中心は三、の大曼荼羅と、

四、の一尊四士であるが、

祖書の教示等に照らし、

一尊四士を日蓮宗本尊と定めるのが至当である

(趣意・大崎学報)というものです。

日蓮宗では、本尊の依文として「観心本尊抄」の、

『此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有(ましま)さず。

末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか』との御文を挙げ、

仏像出現」の語句によって本尊仏像が正意であるとしています

しかし「仏像出現」の御文意味は、

文中の正像の本尊に対する「造り画けども」という語句と、

末法仏像に対する「出現」という表現を対比してみなければなりません。

「此の仏像出現せしむべきか」の意味は、

後の「此の時地涌千界出現して」の御文と同じく、

仏像の造立」という意味ではなく、

あくま現実に現れるということを示されたと拝すのが正しいでしょう。

すなわち、この御文真意は、

末法に地涌千界が出現して「本門の釈尊」を脇士とする

未曾有の本尊を顕わすことを明かされたものです。

また、日蓮宗では同じ『観心本尊抄』の、

「此の時地涌千界出現して、

本門の釈尊を脇士と為す閻浮提第一本尊

此の国に立つべし」との御文について、

「本門の釈尊を脇士と為す」を「本門の釈尊を脇士と為る」と誤読し、

一尊四士が正意であるとしている。

しかし、宗祖が御在世中に一尊四士の仏像を自ら造立された事実はなく、

観心本尊抄』の御文も一尊四士を本尊とせよ、

との御教示ではありません。

それは日蓮大聖人様が佐渡以後、

本尊について御教示された御書に照らして見ればいっそう明らかです。

「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり(草木成仏口決)」

妙法蓮華経の御本尊供養候ひぬ。此の曼荼羅文字は五字七字にて候へども、

三世諸仏の御師(中略)此の曼荼羅仏滅後二千二百二十余年の間、

一閻浮提の内には未だひろまらせ給わず(妙法曼陀羅供養事)」

法華経題目を以て本尊とすべし(乃至)釈迦大日総じて

十方の諸仏は法華経より出生し給えり。故に全く能生を以て本尊とするなり(本尊文答抄)」

これらの御文と『観心本尊抄』の文を合わせて拝する時、

日蓮大聖人様の御真意は一尊四士などの仏像本尊にあるのではなく、

まさしく大聖人様が顕された大曼荼羅こそ、

正像未曾有の観心の御本尊であることは明らかなのです。

【補足】

(一、)首題本尊題目のみを書いたもの

(二、)釈迦一体仏

(三、)大漫荼羅(宗祖日蓮大聖人様が紙幅に御図顕された御本尊様)

(四、)一尊四士(釈迦一体仏と上行菩薩等の四菩薩像)

(五、)二尊四士(釈迦・多宝の二仏像四菩薩像)

※この記事未完成です。続きはいつか。

2017-05-19

三一権実諍論(さんいちごんじつ の そうろん)は、平安時代初期の弘仁年(817年)前後から同12年(821年)頃にかけて行われた、法相宗僧侶・徳一(生没年不明)と日本天台宗の祖・最澄767年 - 822年)との間で行われた仏教宗論である。「一三権実論争」「三乗一乗権実諍論」「法華権実論争」などとも。

目次 [非表示]

1 概要

2 平安初期の仏教

2.1 法相宗と徳一

2.2 天台宗最澄

3 論争の経緯

3.1 論争の発端について

3.2 著作応酬

4 最澄激昂の理由

4.1 最澄孤立

4.2 南都教団への対抗

4.3 中傷者徳一に対する怒り

4.4 蝦夷征討との関係

5 その後

6 注・出典

7 関連項目

8 参考文献

概要[ソース編集]

「三一権実諍論」の「三一」とは、三乗一乗の教えのことであり、「権実」の諍論とは、どちらが「権」(方便真実理解させるための手がかりとなる仮の考え)で、どちらが「実」(真実の考え)であるかを争ったことを言う。一乗三乗の「乗」とは衆生を乗せて仏の悟りに導く乗り物であり、天台宗根本経典である法華経』では、一切衆生の悉皆成仏(どのような人も最終的には仏果(悟り)を得られる)を説く一乗説に立ち、それまでの経典にあった三乗一乗を導くための方便と称した。それに対し法相宗では、小乗声聞乗・縁覚乗)・大乗菩薩乗)の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする三乗説を説く。徳一は法相宗の五性すなわち声聞定性・縁覚定性・菩薩定性・不定性・無性の各別論と結びつけ、『法華経』にただ一乗のみありと説くのは、成仏の可能性のある不定性の二乗を導入するための方便であるとし、定性の二乗仏性の無い無性の衆生は、仏果を悟ることは絶対出来ないのであり、三乗の考えこ真実であると主張した。このように三乗一乗のいずれが真かをめぐり真っ向から対立する意見の衝突が行われた。

ただし、徳一と最澄の論争は三乗一乗の争いのみに留まらず、教判論(数ある経典の中で釈尊の考え方に最も近いものを問う)における法華経正統性を問うたものでもあるから「法華権実論争」と呼ぶべきとの考えもある[1]。この論争の間、最澄は『守護国界章』『法華秀句』など大部の著作執筆しており、これは徳一から批判への反論の書として書かれたものである。一方の徳一側の著書は、真言宗空海774年 - 835年)への論難である真言宗未決文』以外現存していないため、詳細は不明である。しかし、徳一の主張は最澄側の批判書に引用される形で部分的に残存しており、ある程度の復元が可能である

いずれにしろ論争は著作応酬という形式で行われ、実際に両者が顔を合わせて激論を交わしたということではない。

平安初期の仏教界[ソース編集]

奈良時代興隆したのは、法相宗華厳宗律宗などの南都六宗である本来南都六宗教学を論ずる宗派で、飛鳥時代後期から奈良時代にかけて日本に伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。天台宗は後述の如く最澄によって平安時代初期に伝えられたため、日本への伝来順は逆となったわけである

この時代日本における仏教は中国と同様、鎮護国家思想の下、国家の管理下で統制されており、年ごとに一定数の得度を許可する年分度者の制度施行され、原則として私度僧は認められていなかった。このことは逆に仏僧と国家権力が容易に結びつく原因ともなる。実際、奈良時代には玄昉(? - 746年)や道鏡(700年 - 772年)など、天皇の側近として政治分野に介入する僧侶も現れていた。桓武天皇737年 - 806年)が平城京から長岡京平安京遷都した背景には、政治への介入著しい南都仏教寺院の影響を避ける目的もあったとされる。新王朝の建設意識していた桓武天皇にとって、新たな鎮護国家宗教として最澄天台宗に注目・支援することで従前の南都仏教牽制する意図もあった。

法相宗と徳一[ソース編集]

日本での法相宗は、南都六宗の一つとして、入唐求法僧により数次にわたって伝えられている。白雉4年(653年)道昭(629年 - 700年)が入唐留学して玄奘三蔵(602年 - 664年)に師事し、帰国飛鳥法興寺でこれを広めた。

徳一は一説には藤原仲麻呂恵美押勝とも。706年 - 764年の子といわれるが疑わしい[2]。はじめ興福寺および東大寺で修円に学び、20歳代の頃に東国へ下った。東国布教に努め、筑波山中禅寺(茨城県つくば市)・会津恵日寺(福島県耶麻郡磐梯町)などを創建したという。

前述のごとく、徳一の著作ほとんど現存していないため、その生涯は不明な点が多い。

天台宗最澄[ソース編集]

天台宗は法華円宗、天台法華宗などとも呼ばれ、隋の智顗(538年 - 597年)を開祖とする大乗仏教の宗派である。智顗は『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の天台三大部を著して、『法華経』を根本経典とし、五時八教(仏教理解度の5段階に合わせて記された経典のうち、法華経を到達点とする)の教相判釈(経典成立論)を説く。

最澄ははじめ東大寺で具足戒を受けたが、比叡山に籠もり、12年間山林修業を行った。さらにそれまで日本に招来された大量の仏典を書写し研究する中で、南都六宗の背景にある天台教義の真髄を学ぶ必要を感じ始め、親交のあった和気氏を通じて桓武天皇天台宗学習ならびに経典の招来のための唐へ留学僧の派遣を願い出た。これを受け、桓武天皇最澄本人が還学僧(短期留学の僧)として渡唐するように命じた。こうして延暦24年805年)の遣唐使船で最澄は入唐を果たす。予定通り天台山にのぼり、台州龍興寺において道邃(天台宗第七祖。生没年不明)より天台教学を学び、円教(天台宗)の菩薩戒を受けて、翌年(806年帰国した。

帰国後、最澄桓武天皇に対し従来の六宗に加え、新たに法華宗を独立した宗派として公認されるよう奏請、天皇没後には年分度者の新しい割当を申請し、南都六宗と並んで天台宗の2名(遮那業・止観業各1名)を加えることを要請した。これらが朝廷に認められ、天台宗正式に宗派として確立。これが日本における天台宗のはじまりである最澄さらに同じく入唐した空海師事して、密教への理解を深める一方、六所宝塔院(比叡山寺(後の延暦寺)を中心とする)の造立計画を立て、弘仁5年(814年)には九州へ、同8年には東国へ赴くなど精力的に活動する。最澄の悲願は大乗戒壇設立であり、大乗戒を授けた者を天台宗菩薩僧と認め、12年間比叡山に籠って修行させるという構想によって、律宗鑑真(688年 - 763年)がもたらした小乗戒の戒壇院を独占する南都仏教既得権益との対立を深めていた。

論争の経緯[ソース編集]

論争の発端について[ソース編集]

論争の発端となったのは徳一が著した『仏性抄』であるとされる[3]。この書における一乗批判法華経批判に対して最澄が著したのが『照権実鏡』であり、ここから両者の論争が始まった。

ただし、そもそも徳一が『仏性抄』で論難したのは中央仏教界の最澄ではなく、東国活動していた道忠(生没年不明)とその教団であったとする説がある[4]。道忠は最澄が入唐前の延暦16年以降、あらゆる経典の写経を行った際、東国からはるばる駆けつけて2000巻もの助写をしたほど親交があり、東国における最澄の盟友的存在であった。道忠自身鑑真弟子で、律宗僧侶であったが、戒壇が設けられた下野薬師寺との関連か[5]東国に住し、広く弟子を持つ僧侶であった。最澄東国へ下った際には、すでに道忠は没した後で教団は広智(生没年不明)が率いる状態であったが、後に天台座主となった円澄(771年 - 836年)や円仁794年 - 864年)・安慧(794年 - 868年)らは、もともと道忠の弟子もしくは孫弟子(広智の弟子)であり、道忠との縁から最澄に入門したなど、道忠は初期の天台教団の中で、非常に重要役割果たしていた存在であった[6]。

筑波山を開山し、会津拠点とした徳一が標的としたのは、むしろ地理的東国において布教を行っていた道忠教団であった可能性が高い。徳一の『仏性抄』の存在最澄に知らせたのも道忠教団であったと見られる[7]が、異論もある[8]。

著作応酬[ソース編集]

三一権実諍論に関する著作としては、

≪徳一側著作

『法華肝心』2巻

『法華権文』1巻

『中辺義鏡』20巻

『慧日羽足』3巻

『遮異見章』3巻

『義鏡要略』7巻?

法相了義灯』11巻

『通破四教章』1巻

最澄著作

『照権実鏡』1巻

『依憑天台集』1巻

守護国界章』9巻

『決権実論』1巻

『通六九証破比量文』1巻

『法華秀句』5巻

などが挙げられる[9]。論争の主要な流れとしては、

徳一の『仏性抄』(成立年不詳)に対し、最澄が『照権実鏡』(弘仁8年(817年)成立)で反論

徳一の『中辺義鏡』『慧日羽足』に対し、最澄が『守護国界章』(弘仁9年(818年)成立)で反論

最終的な結論として、最澄が『法華秀句』(弘仁12年(821年)成立)を著す。

となっている。なお諍論の前期において、最澄が『照権実鏡』で徳一の『仏性抄』を批判したのに対し、徳一の『中辺義鏡』では最澄反論に全く答えていない。そのため『中辺義鏡』の批判対象としては、書名のみ残っている最澄の著書『一乗義集』ではないかとする説[10]、もしくは道忠教団によって書かれたと思われる『天台法華義』とでも称すべき書であったとする説がある[11]。続いて『守護国界章』下巻における三一権実論に対する徳一の反論として『遮異見章』『慧日羽足』が書かれたと思われ、それに対して最澄が『決権実論』で反論結論の書として『法華秀句』を撰述したと見られる[12]。

一連の論争の内容は難解で、一乗三乗の権実のみならず、教判論における法華経天台三大部の正当性、天竺・震旦の先哲による教義解釈の是非など広範囲に及ぶ。しかし一方では、最澄の教法に対する価値論に対し徳一は仏法理解先天的素質論を述べており、両者の論争の焦点があまり噛み合っておらず、議論のものも詳細というよりは瑣末的であり、時折相手側への罵倒に近い表現も見られる(後述)など、すれ違いの印象も与えている。

天台宗側では『法華秀句』の成立をもって論争の終結とする(翌年に最澄は入寂)。論争の歴史を天竺や中国の仏教史まで遡って述べたもので、『法華秀句』の書名は、智顗による天台三大部の『法華文句』を意識したものと思われ、最澄の論争決着への決意が現れている。ただし、これは最澄側の一方的な論争打ち切りであり、徳一側からは決着がついていないとも言える[13]。なお徳一は天台宗のみならず密教に対しても問題視していたと見られ、真言宗空海に対しても『真言宗未決文』で批判している(なお、これが徳一の著作として現存する唯一の史料である)。

最澄激昂の理由[ソース編集]

下記は、取り立てて、最澄の書き物に怒りは表明されていないが、法相宗派の学者の何人かは、そのようにとらえているようである。その理由をあえて挙げるとすれば、次の事柄をあげられるが、これも、特にここに特記すべきほどのことではない。参考までに、法相宗派側の意見を以下に述べる。 最澄は、しばしば非常に激烈な表現を用いて論敵を攻撃しており、たとえば『守護国界章』において最澄は、非難の対象である徳一のことを「麁食者(そじきしゃ。粗末な食べ方をする者、半可通のこと)」「謗法者(ほうぼうしゃ。賢しらに法を曲げる者)」「北轅者(ほくえんしゃ。南に行こうとして牛車・馬車の轅(ながえ)を北に向ける者。方角もわきまえぬ者)」などの蔑称で呼び、本名の徳一で呼ぶことは一切ない。どちらかといえば秀才肌で生真面目な感のある[14]最澄が、これほどまでに攻撃的な姿勢で論争に臨んだ背景として、いくつかの原因が考えられる。

最澄孤立[ソース編集]

最澄は入唐求法から帰国する直前、越州に寄り、密教を龍興寺の順暁(密教の法灯においては傍流に属する。生没年不明)に学び、灌頂を受けている。帰国後も最澄の密教への関心は高く、自身より年少で僧としての地位も低いながら、正統的な密教を学んで帰国した空海師事することになる。

最澄と同じく804年の遣唐使で入唐した空海は、真言八祖の一人恵果(746年 - 806年から正統的な密教を学び、大量の経典・法具を携え、最澄よりやや遅れて大同元年806年)に帰国していた。最澄空海の招来した仏典を借り受けて密教を本格的に学びはじめ、弘仁3年(812年)には弟子の泰範(778年 - ?)らとともに空海高雄山寺において灌頂を受け、正式空海弟子となっている。さらに泰範らを空海の下に派遣して密教の奥義を学ばせようとしていた。

しかし、弘仁4年(813年)最澄が『理趣釈経』(『理趣経』の解釈書)の借用を空海に申し出たところ、空海が密教の真髄は文章修行ではなく実践によってのみ得られるとして拒絶したため、両者の仲は悪化する。さら最愛弟子であった泰範が、最澄の再三の求めにもかかわらず比叡山への帰還を拒み、空海の下での修行を望んだことなどが重なり、両者は義絶するに至った。真言宗側では、これをさかんに吹聴するが、『理趣釈経』は、いわば、後世、淫靡宗教と結びついたものであり、空海がそれを見せたがらなかったのは、故あることであったようである。つまり密輸入書物とも言えるものであり、かえって、見ないほうがよかったのではないかと思われている。

天台宗に密教の要素を取り入れ、新たな宗派としての地位を高めようとしていた最澄にとって、泰範・空海との訣別により孤立感が深まったことで、南都諸宗に対してより敵対的姿勢に駆り立てられたともいわれる[15]。なお天台宗最澄の死後、本格的に密教化することになる(→台密)。

南都教団への対抗[ソース編集]

最澄が論争相手とした徳一自身は、若年から東国拠点を移して活動していた地方僧であったものの、彼が所属する法相宗自体は、当時の仏教界においては主流である南都六宗の中心であった。後世に天台宗の方が興隆していったため、三一権実諍論全体としては、新興宗派の総帥である最澄が、古い法相宗代表する徳一を退けたという印象が残るが、実際には当時においては法相宗の方が主流派に属していたのであり、最澄はむしろ挑戦者であった[16]。前述のごとく年分度者の割当を勝ち取り、大乗戒壇設立など、天台宗確立して南都仏教に対抗しようとする最澄にとって、法相宗理論である徳一を説き伏せることは、天台宗南都六宗への優位を示すことにも繋がるため、より攻撃的になったと、現代法相宗派の学者は考えている。

中傷者徳一に対する怒り[ソース編集]

徳一の『仏性抄』は最澄にとって看過しがたい法華経批判の書であり、この法敵に猛反論しなければ自宗の存在意義のものが危うくなる。しかしまた徳一にとっても、天台法華宗や密教の擡頭は、彼自身の属する法相宗にとっても、また従前の仏教体制秩序にとっても、異端なのであって、これを徹底的に論破しておく必要があった。徳一は『中辺義鏡』において法華教説や最澄に対して「凡人臆説」「顛狂人」「愚夫」などと悪し様に罵倒している[17]。最澄が『守護国界章』で徳一を「麁食者」「北轅者」と呼んだのはこれに呼応するものであり、互いに自宗派の存在意義をかけた真剣な論争であったがゆえに、ともに中傷めいた表現までもが用いられたともいえる。

蝦夷征討との関係[ソース編集]

宮原武夫(1933年-)は最澄と徳一の論争がここまで大きくなったのは、最澄が当時の朝廷が進めていた蝦夷征討に徳一が「非協力」的とみなしていた政治的問題にあったとする説を唱えている。

最澄東国に下った際に活動拠点としていたのは亡き道忠が活動拠点としていた下野国と隣の上野国であったが、両国は当時朝廷が推奨していた蝦夷征討の兵站基地となっており、更に下野上野両国から陸奥出羽両国に対しては国司から課役を逃れるための逃亡や朝廷による移住政策によって多くの人々が移り住んでいた[18]。蝦夷討伐には徳一の法相宗を含めた南都六宗東国鹿島神宮香取神宮も征討の成功を祈願したり、寺院神社を建立するなどの積極的な協力を行ってきた[19]。朝廷から天台宗公認を得たばかりの最澄東国における蝦夷征討を巡る様々な動きに直面して関心をもったと考えられ、この時の最澄東国行きに随行した弟子円仁下野出身)も立石寺など東北から北関東にかけて多数の天台宗寺院が建立したと伝えられており、最澄とその門人は下野上野両国を足掛かりに奥羽の人々に対する教化を進めようとしたとみられる[20]。

これに対して徳一の方は会津地方から越後方面への布教活動を進めており、蝦夷征討への協力や蝦夷がいる会津以北の奥羽への布教を示す史料は残されていない。宮原最澄は『決権実論』の中で「北轅者常に迷ひて、分明の文を指さしめ、南、越の方に向はしむ」と記しているが、これは自分達や南都六宗と違い、蝦夷征討に対して祈祷<

天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。諸経の王とされる妙法蓮華経法華経)を根本経典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる[1]。天台教学中国に発祥し、入唐した最澄伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられた。

目次 [非表示]

1 日本天台宗

1.1 天台密教台密

1.2 四宗兼学

1.3 止観行

1.4 所依

1.5 主要寺院寺格

1.5.1 天台宗山門派

1.5.1.1 総本山

1.5.1.2 門跡寺院

1.5.1.3 大本山

1.5.1.4 別格本山

1.5.1.5 その他の寺院

1.5.2 天台寺門宗

1.5.3 天台真盛宗

1.6 その他天台系宗派

1.6.1 天台宗新宗教

1.7 教育機関

1.7.1 大学

1.7.2 天台宗中学校高等学校

1.7.3 養成機関

2 中国天台宗

3 韓国天台宗

4 社会運動

5 脚注・出典

6 関連項目

7 外部リンク

日本天台宗[編集]

正式名称天台法華円宗。法華円宗、天台法華宗、あるいは、単に法華宗などとも称する。但し、最後呼び名日蓮教学法華宗と混乱を招く場合があるために用いないことが多い。

初め、律宗天台宗兼学の僧鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍日本に入った。次いで、伝教大師最澄767年-822年)が延暦23年(804年)から翌年(805年)にかけて唐に渡って天台山にのぼり、天台教学を受けた。同年、日本帰国した最澄は天台教学を広め、翌年(806年)1月に天台法華宗として認められたのが日本における天台宗のはじまりである最澄特に飲酒に厳しい態度を取っており、飲酒するものは私の弟子ではなく仏弟子でもないからただちに追放するよう述べている。

この時代、すでに日本には法相宗華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。最澄日本帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出した。最澄はすべての衆生成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起こる。特に法相宗の徳一との三一権実諍論は有名である。また、鑑真和上が招来した小乗戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、大乗戒壇設立し、大乗戒(円頓戒)を受戒した者を天台宗僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問修行を修めるという革新的最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていないのは当然であるが)、南都の学僧が反論したことは当時朝廷は奈良仏教に飽きており、法相などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあった。論争の末、最澄の没後に大乗戒壇勅許下り名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。清和天皇の貞観8年(866)7月、円仁に「慈覚」、最澄に「伝教」の大師号が贈られた。宗紋は三諦星。

天台密教台密)[編集]

真言宗の密教を東密と呼ぶのに対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる。

当初、中国天台宗の祖といわれる智顗(天台大師)が、法華経の教義によって仏教全体を体系化した五時八教の教相判釈(略して教判という)を唱えるも、その時代はまだ密教は伝来しておらず、その教判の中には含まれていなかった。したがって中国天台宗は、密教を導入も包含もしていなかった。

しか日本天台宗宗祖最澄伝教大師)が唐に渡った時代になると、当時最新の仏教である中期密教が中国に伝えられていた。最澄は、まだ雑密しかなかった当時の日本では密教が不備であることを憂い、密教を含めた仏教のすべてを体系化しようと考え、順暁から密教の灌頂を受け持ち帰った。しか最澄帰国して一年後に空海弘法大師)が唐から帰国すると、自身が唐で順暁から学んだ密教は傍系のものだと気づき空海に礼を尽くして弟子となり密教を学ぼうとするも、次第に両者の仏教観の違いが顕れ決別した。これにより日本の天台教学における完全な密教の編入はいったんストップした。

はいえ、最澄自身法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していたのは紛れもない事実で、円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)などの弟子たちは最澄自身意志を引き継ぎ密教を学び直して、最澄の悲願である天台教学を中心にした総合仏教の確立に貢献した。したがって天台密教系譜は、円仁円珍に始まるのではなく、最澄が源流である。また円珍は、空海の「十住心論」を五つの欠点があると指摘し「天台と真言には優劣はない」と反論もしている。

なお真言密教東密)と天台密教台密)の違いは、東密大日如来本尊とする教義を展開しているのに対し、台密あくまで法華一乗の立場を取り、法華経本尊である久遠実成の釈迦如来としていることである

四宗兼学[編集]

また上記の事項から、同じ天台宗といっても、智顗が確立した法華経に依る中国天台宗とは違い、最澄が開いた日本天台宗は、智顗の説を受け継ぎ法華経を中心としつつも、禅や戒、念仏、密教の要素も含み、したがって延暦寺は四宗兼学の道場とも呼ばれている。井沢元彦はわかりやすい比喩として、密教の単科大学であった金剛峯寺に対して、延暦寺は仏教総合大学であったと解説している。

止観行[編集]

天台宗修行法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在日本天台宗修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。午前中は題目、つまり法華経読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏本尊とする行法(例時作法という)を行う。これは後に発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった。また、遮那業として、天台密教台密)などの加持も行い、総合仏教となることによって基盤を固めた。さらに後世には全ての存在仏性が宿るという天台本覚思想確立することになる。長く日本の仏教教育の中心であったため、平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗浄土宗浄土真宗臨済宗曹洞宗日蓮宗などの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。

所依[編集]

法華経

涅槃経

大品経

大智度論

主要寺院寺格)[編集]

天台宗山門派)[編集]

総本山[編集]

比叡山延暦寺滋賀県大津市

門跡寺院[編集]

滋賀院(大津市

妙法院京都市東山区

魚山三千院京都市左京区

青蓮院京都市東山区

曼殊院京都市左京区

毘沙門堂京都市山科区

大本山[編集]

関山中尊寺岩手県西磐井郡平泉町

日光山輪王寺栃木県日光市

東叡山寛永寺東京都台東区

定額山善光寺大勧進長野県長野市

別格本山[編集]

毛越寺岩手県西磐井郡平泉町

瑞国海岸観音寺宮城県気仙沼市

正覚山蓮前院安楽寺茨城県常総市

星野山中院(埼玉県川越市

狭山山不動寺(埼玉県所沢市

大鱗山雲洞院天龍寺埼玉県飯能市

浮岳山昌楽院深大寺東京都調布市

向山常楽寺長野県上田市

宝積山光前寺(長野県駒ヶ根市

龍谷山水間寺大阪府貝塚市

書写山圓教寺兵庫県姫路市

大山寺鳥取県大山町

山大興善寺(佐賀県基山町

六郷満山両子寺(大分県国東市

その他の寺院[編集]

谷汲観音寺北海道河東郡音更町

青柳山談義堂院龍蔵寺(群馬県前橋市

星野山喜多院(埼玉県川越市

谷汲華厳寺岐阜県揖斐郡揖斐川町

清香寂光院京都市左京区

根本山神峯山寺(大阪府高槻市

三身山太山寺兵庫県神戸市

補陀落山長尾寺香川県さぬき市

清水観世音寺福岡県太宰府市

海山大恩教寺釈迦院(熊本県八代市

阿蘇山西巌殿寺(熊本県阿蘇市) 

王寺熊本県山都町宮司豪族であった中世阿蘇氏の菩提寺である) 

天台寺門宗[編集]

総本山 長等山園城寺三井寺)(滋賀県大津市

天台真盛宗[編集]

総本山 戒光山西教寺(滋賀県大津市

その他天台系宗派[編集]

聖観音宗 

浅草寺東京都台東区

和宗

四天王寺

本山修験宗寺門派系)

聖護院京都市左京区

金峯山修験本宗

金峯山寺奈良県吉野郡吉野町

浄土真宗遣迎院派

遣迎院京都市北区

妙見宗

本瀧寺大阪府豊能郡能勢町

粉河観音宗

粉河寺(和歌山県紀の川市粉河

善峰観音宗

善峰寺京都府京都市西京区

天台宗新宗教[編集]

念法眞教

孝道教団

鞍馬弘教

教育機関[編集]

大学[編集]

大正大学

天台宗中学校高等学校[編集]

比叡山中学校・高等学校

駒込中学校・高等学校

養成機関[編集]

叡山学院

園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。

開基(創立者)は大友与多王、本尊弥勒菩薩である日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである三井の晩鐘」でも知られる。

なお一般には「三井寺(みいでら)」として知られるため、本文では「三井寺」の呼称を用いる。

目次 [非表示]

1 歴史

2 伽藍

3 黄不動

4 文化財

4.1 三井寺秘仏

4.2 国宝

4.3 重要文化財

4.4 その他

5 御詠歌

6 前後札所

7 交通

8 周辺

9 脚注

10 参考文献

11 関連項目

12 外部リンク

歴史[編集]

三井寺7世紀大友氏 (古代)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学円珍天台寺門宗宗祖)によって再興された。三井寺平安時代以降、皇室貴族武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって寺領没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。

三井寺」の由来となった井戸「閼伽井屋」(重文

三井寺起源については、次のように伝承されている。大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子大友皇子弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没している。大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱大友皇子敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。現在三井寺には創建時に遡る遺物ほとんど残っていない。しかし、金堂付近からは、奈良時代前期に遡る古瓦が出土しており、大友氏と寺との関係史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、ある程度史実を反映したものと見ることができる。

三井寺では、他宗で「管長」「別当」などと呼ばれる、一山を代表する僧のことを「長吏」(ちょうり)と呼んでいる。貞観元年(859年)、三井寺初代長吏就任し、その後の三井寺の発展の基礎を築いたのが、智証大師円珍である円珍は、弘仁5年(814年)、讃岐国那珂郡香川県善通寺市)に生まれた。俗名は和気広雄、母方の姓は佐伯氏で、円珍の母は弘法大師空海の妹(もしくは姪)にあたる。幼時から学才を発揮し神童と呼ばれた広雄は、15歳で比叡山に登り、初代天台座主義真に入門。19歳の時に国家公認正規の僧となり、円珍改名した。その後、比叡山規定に従って「十二年籠山行」(12年間、比叡山から下りずにひたすら修行する)を終えた後、大峯山熊野三山を巡って厳しい修行をする。このことから三井寺修験道とも深い繋がりを持っている。仁寿3年(853年)には唐へ留学して6年間、各地で修行青龍寺の法全(はっせん)から密教の奥義を伝授された。天安2年(858年)、円珍は多くの経巻、図像、法具を携えて日本帰国した。翌貞観元年(859年)、大友氏の氏寺であった三井寺に「唐院」(とういん)を設置。寺を整備して修行道場とすると共に、唐から請来した経典や法具を唐院に収蔵した。貞観8年(866年)、太政官から円珍伝法の公験(くげん、証明書)が与えられた。顕教密教に加えて修験道を兼学する円珍伝法は、これによって政府公認を得たわけであり、天台寺門宗ではこの時をもって開宗と見なしている。貞観10年(868年)、円珍天台宗最高の地位である天台座主就任。以後、没するまでの24年間、その地位にあった。

円珍の没後、比叡山円珍の門流と、慈覚大師円仁の門流との2派に分かれ、両者は事あるごとに対立するようになった。円珍の没後1世紀まりを経た正暦4年(993年)には、円仁派の僧たちが比叡山内にあった円珍派の房舎を打ち壊す騒動があり、両派の対立は決定的となり、円珍派は比叡山下りて、三井寺に移った。比叡山延暦寺を「山門」と別称するのに対し三井寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。比叡山宗徒による三井寺の焼き討ちは永保元年(1081年)を始め、中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。

三井寺は、平安時代には朝廷貴族尊崇を集め、中でも藤原道長白河上皇らが深く帰依したことが知られている。これら勢力から寄進等による荘園多数を支配下におき、信州善光寺荘園末寺として記録に著れる。中世以降は源氏など武家信仰も集めた。源氏は、源頼義三井寺に戦勝祈願をしたことから歴代尊崇が篤く、源頼政平家打倒の兵を挙げた時にはこれに協力し、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に保護を加えている。頼朝意思を継いだ北条政子もこの方針継承し、建保元年(1214年)に延暦寺に焼き払われた園城寺大内惟義・佐々木広綱・宇都宮蓮生ら在京御家人に命じて直ちに再建させている。しかし、園城寺僧侶として育てられていた源頼家の子公暁叔父である源実朝暗殺するという事件を起こしたために、以後鎌倉幕府より一時冷遇を受ける。だが、北条時頼の信頼が厚かった隆弁が別当就任すると再興され、続く南北朝内乱でも北朝足利氏を支持したことから室町幕府保護を受けた。両幕府のこの厚遇は、強力な権門である延暦寺勢力牽制するために園城寺に対して一定支援をすることが必要であると考えられていたからだと言われている。

文禄4年(1595年)、三井寺豊臣秀吉の怒りに触れ、闕所(寺領没収事実上の廃寺)を命じられている。三井寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。この結果、三井寺本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって三井寺の再興を許可している。これは死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな三井寺祟りを恐れたためとも言われている。秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められた。現在三井寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである

明治維新後は天台宗寺門派を名乗っていたが、1946年以降は天台寺門宗総本山となっている。

円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれ出自壬生氏。

目次 [非表示]

1 円仁人物

2 遣唐使の渡海の困難

3 天台山を目指すが…

4 在唐新羅社会の助け

5 五台山巡礼

6 長安への求法

7 帰国の旅の苦難

8 関連文献

9 脚注

10 関連項目

11 外部リンク

円仁人物像[編集]

794年延暦13年)下野国都賀壬生町現在壬生寺)に豪族壬生氏(壬生君:毛野氏一族)の壬生首麻呂の子として生まれる。兄の秋主から儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄理解者であって、多くの弟子最澄師事させている。

※生誕地については

美加保ノ関(藤岡町三鴨の都賀字館)

手洗窪(岩舟町下津原

壬生寺壬生町

などの説があり、順徳天皇撰による「八雲御抄」では、みかほの関、みかほノ山での誕生が記されている。

また、美加保乃関は万葉集歌人によって和歌も詠まれており

下つ毛野 みかもノ山の越奈良の須 目ぐはし頃は 多が家かもたむ

あずま路の 人に問はばや みかもなる 関にもかくや 花は匂うと

石ふまぬ 安蘇の川原に 行き暮れて みかほの関に 今日やとまら

下野や 安蘇の川原に 行きくれば みかもの崎に 宿をかりなん

この他、近くにある円仁ゆかりの安蘇の川原は、みかほの関を沼越しに眺める名所として多くの和歌が詠まれている。

安蘇山の麓に生まれたという説では、慈覚大師円仁の出生については「桓武天皇延暦13年、廣智菩薩大慈寺住職とき南方に紫雲がたなびき、尋ねていくと安蘇山麓現在の三毳山のふもと岩舟町下津原手洗窪)…下津原の手洗窪は「慈覚大師誕生の地」として栃木市史跡指定されている。

15歳のとき、唐より最澄帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい最澄師事する。奈良仏教の反撃と真言密教興隆という二重の障壁の中で天台宗確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問修行に専念して師から深く愛される。最澄が止観(法華経注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。

814年(弘仁5年)、言試(国家試験)に合格、翌年得度出家)する(21歳)。816年(弘仁7年)、三戒壇の一つ東大寺で具足戒(小乗250戒)を受ける(23歳)。この年、師最澄東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は、新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。817年(弘仁8年)3月6日大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。

性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。浄土宗開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。

遣唐使の渡海の困難[編集]

836年(承和2年)、1回目の渡航失敗、翌837年(承和3年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。838年(承和5年)6月13日博多津を出港。『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する(しかし「四つの船」のうち1艘は遭難している)。円仁の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁はずぶ濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

上陸である唐の開成4年7月2日日本の承和5年7月2日と日付が一致していた。唐と日本で同じ暦を使っているのだから当然ではあるが、異国でも日付が全く同じであることに改めて感動している(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

天台山を目指すが…[編集]

最後遣唐使として唐に留学するが、もともと請益僧(入唐僧(唐への留学僧)のうち、短期のもの)であったため目指す天台山へは旅行許可下りず(短期の入唐僧のため日程的に無理と判断されたか)、空しく帰国せねばならない事態に陥った。唐への留住を唐皇帝に何度も願い出るが認められない。そこで円仁遣唐使一行と離れて危険を冒して不法在唐を決意する(外国人僧の滞在には唐皇帝勅許必要)。天台山にいた最澄の姿を童子(子供)の時に見ていたという若い天台僧敬文が、天台山からはるばる円仁を訪ねてきた。日本から高僧が揚州に来ているという情報を得て、懐かしく思って訪れて来たのだという。唐滞在中の円仁の世話を何かと見てくれるようになる。海州東海県で遣唐大使一行から離れ、一夜を過ごすも村人たちに不審な僧だと警戒され(中国語通じず、「自分新羅僧だ」と主張しているが新羅言葉でもないようだ、怪しい僧だ)、役所に突き出されてしまう。再び遣唐大使一行のところに連れ戻されてしまった(『行記』839年(開成4年)4月10日条)。

在唐新羅社会の助け[編集]

当時、中国山東半島沿岸一帯は張宝高をはじめとする多くの新羅人海商が活躍していたが、山東半島新羅人の港町・赤山浦の在唐新羅社会の助けを借りて唐残留成功不法在留者でありながら通行許可証を得る等)する。遣唐使一行から離れ、寄寓していた張宝設立の赤山法華院で聖林という新羅から天台山の代わりに五台山を紹介され、天台山はあきらめたが五台山という新たな目標を見出す。春を待って五台山までの約1270キロメートルを歩く(『行記』840年(開成5年)2月19日4月28日の58日間)。

五台山巡礼[編集]

840年、五台山巡礼する。標高3000mを超す最高峰の北台にも登山する(47歳)。五台山では、長老の志遠から「遠い国からよく来てくれた」と温かく迎えられる(『行記』840年(開成5年)4月28日条)。五台山を訪れた2人目の日本人だという(1人目は、最澄とともに入唐し、帰国せず五台山客死した霊仙三蔵)。法華経密教整合性に関する未解決問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻を書写する。また、南台の霧深い山中で「聖燈」(ブロッケン現象か。『行記』840年5月22日条、6月21日条、7月2日条)などの奇瑞を多数目撃し、文殊菩薩の示現に違いないと信仰を新たにする。

長安への求法[編集]

当時世界最大の都市にして最先端文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から1100キロメートルを徒歩旅行する(53日間)。その際、大興善寺の元政和尚から灌頂を受け、金剛界大法を授き、青竜寺の義真からも灌頂を受け、胎蔵界・盧遮那経大法と蘇悉地大法を授く。また、金剛界曼荼羅長安絵師・王恵に代価6千文で描かせる。

台密にまだなかった念願の金剛界曼荼羅を得たこの晩、今は亡き最澄が夢に現れた。曼荼羅を手に取りながら涙ながらに大変喜んでくれた。円仁は師の最澄を拝しようとしたが、最澄はそれを制して逆に弟子円仁を深く拝したという(『行記』840年10月29日条)。描かせていた曼荼羅が完成する(『行記』840年(開成5年)12月22日条)。

しばらくして、唐朝帰国を百余度も願い出るが拒否される(会昌元年8月7日最初)が、その間入唐以来5年間余りを共に過して来た愛弟子・惟暁を失う(『行記』843年(会昌3年)7月25日条。享年32)。また、サンスクリット語を学び、仏典を多数書写した。長安を去る時には423部・合計559巻を持っていた(『入唐新求聖教目録』)。そして、842年(会昌2年)10月、会昌の廃仏に遭い、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で、帰国が叶った(会昌5年2月)。

帰国の旅の苦難[編集]

当時の長安の情勢は、唐の衰退も相まって騒然としていた。治安悪化不審火も相次いでいた。その長安の街を夜半に発ったが(曼荼羅や膨大な経巻を無事に持ち帰るため)、夜にもかかわらず多くの長安住人の送別を受けた。送別人の多くは、唐高官の仏教徒李元佐のほか、僧侶及び円仁長安暮らしを支えた長安在留新羅人たちが主であった。餞けとして絹12丈(30m余)を贈ってくれた新羅人もいた(845年(会昌5年)5月15日)。歩くこと107日間、山東半島新羅人の町・赤山まで歩いて戻った[注 1]。

この際、新羅人の唐役人にして張宝高の部下の将・張詠が円仁のために唐政府の公金で帰国船を建造してくれたが、密告に遭い、この船では帰れなくなる。

円仁が無事生きている」という情報日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやってきて、師と再会を遂げる。楚州の新羅人約語(通訳のこと)劉慎言に帰国の便船探しを頼み(彼は新羅語・唐語・日本語を操れるトライリンガルであった)、彼の見つけた新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国する。円仁は劉慎言に沙金弐両と大坂腰帯を贈っている。朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅であった。新羅船は小型だが高速で堅牢であることに驚いている。博多津に到着し、鴻臚館に入った(『行記』847年(承和14年)9月19日条)。日本政府円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いるように太政官符を発し、ここで9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の筆を擱いている(『行記』847年(承和14年)12月14日条)。54歳。

この9年6ヶ月に及ぶ求法の旅の間、書き綴った日記が『入唐求法巡礼行記』で、これは日本人による最初の本格的旅行記であり、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価されている(エドウィン・ライシャワー研究により欧米でも知られるようになる)。巡礼行記によると円仁は一日約40kmを徒歩で移動していたという。

目黒不動として知られる瀧泉寺や、山形市にある立石寺松島瑞巌寺を開いたと言われる。慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされ、浅草浅草寺もそのひとつ岩舟町観光協会HP)。このほか北海道にも存在する。

後に円仁派は山門派と称された。(円珍派は寺門派、両者は長期にわたり対立関係になった)。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん