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はてなキーワード: 得度とは

2017-10-08

実力至上主義教室ってバカテス劣化版じゃん

キャラバカテスが上

物語性:バカテスが上

得度バカテスが上

ギャグバカテスが上

馬鹿度:バカテスが上

凄い。

ここまでボロボロだと笑ってしまう。

どんな屁理屈をこねても勝ち目がねえ

2017-10-02

anond:20171002180945

病院を納得いくまで探すという

人の話を訊いたことはあります。良いかいか個人判断ですね・・・

私は探して結局治療が変わらないとしても、最初とは納得度が違うからいかもと思うし自分ならそうします。

凄く前、乗ったタクシー運転手さんが、女性ばかり3人で乗ったので饒舌だった。

そのときタクシー運転手さんの奥さんが病気で、たくさん病院を変えたこと、

やっと納得できる主治医に巡り合った事を話してくれたのを思い出しました。

私は私で、手術予定があるけれど、お医者様は探すつもりです。

大事に。

メンタル的なささえなら同じ病名の方々の会みたいなのあるといいのですが。

2017-07-17

https://anond.hatelabo.jp/20170717103136

欲しいものリスト的なものの広域運用みたいなのはありだとは思う

どこが主体でやるのとかの問題は置いといて、あなたの○○円で××を購入して送りましたってのは寄付する末端の納得度は高かろうし

2017-05-19

三一権実諍論(さんいちごんじつ の そうろん)は、平安時代初期の弘仁年(817年)前後から同12年(821年)頃にかけて行われた、法相宗僧侶・徳一(生没年不明)と日本天台宗の祖・最澄767年 - 822年)との間で行われた仏教宗論である。「一三権実論争」「三乗一乗権実諍論」「法華権実論争」などとも。

目次 [非表示]

1 概要

2 平安初期の仏教

2.1 法相宗と徳一

2.2 天台宗最澄

3 論争の経緯

3.1 論争の発端について

3.2 著作応酬

4 最澄激昂の理由

4.1 最澄孤立

4.2 南都教団への対抗

4.3 中傷者徳一に対する怒り

4.4 蝦夷征討との関係

5 その後

6 注・出典

7 関連項目

8 参考文献

概要[ソース編集]

「三一権実諍論」の「三一」とは、三乗一乗の教えのことであり、「権実」の諍論とは、どちらが「権」(方便真実理解させるための手がかりとなる仮の考え)で、どちらが「実」(真実の考え)であるかを争ったことを言う。一乗三乗の「乗」とは衆生を乗せて仏の悟りに導く乗り物であり、天台宗根本経典である法華経』では、一切衆生の悉皆成仏(どのような人も最終的には仏果(悟り)を得られる)を説く一乗説に立ち、それまでの経典にあった三乗一乗を導くための方便と称した。それに対し法相宗では、小乗声聞乗・縁覚乗)・大乗菩薩乗)の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする三乗説を説く。徳一は法相宗の五性すなわち声聞定性・縁覚定性・菩薩定性・不定性・無性の各別論と結びつけ、『法華経』にただ一乗のみありと説くのは、成仏の可能性のある不定性の二乗を導入するための方便であるとし、定性の二乗仏性の無い無性の衆生は、仏果を悟ることは絶対出来ないのであり、三乗の考えこ真実であると主張した。このように三乗一乗のいずれが真かをめぐり真っ向から対立する意見の衝突が行われた。

ただし、徳一と最澄の論争は三乗一乗の争いのみに留まらず、教判論(数ある経典の中で釈尊の考え方に最も近いものを問う)における法華経正統性を問うたものでもあるから「法華権実論争」と呼ぶべきとの考えもある[1]。この論争の間、最澄は『守護国界章』『法華秀句』など大部の著作執筆しており、これは徳一から批判への反論の書として書かれたものである。一方の徳一側の著書は、真言宗空海774年 - 835年)への論難である真言宗未決文』以外現存していないため、詳細は不明である。しかし、徳一の主張は最澄側の批判書に引用される形で部分的に残存しており、ある程度の復元が可能である

いずれにしろ論争は著作応酬という形式で行われ、実際に両者が顔を合わせて激論を交わしたということではない。

平安初期の仏教界[ソース編集]

奈良時代興隆したのは、法相宗華厳宗律宗などの南都六宗である本来南都六宗教学を論ずる宗派で、飛鳥時代後期から奈良時代にかけて日本に伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。天台宗は後述の如く最澄によって平安時代初期に伝えられたため、日本への伝来順は逆となったわけである

この時代日本における仏教は中国と同様、鎮護国家思想の下、国家の管理下で統制されており、年ごとに一定数の得度を許可する年分度者の制度施行され、原則として私度僧は認められていなかった。このことは逆に仏僧と国家権力が容易に結びつく原因ともなる。実際、奈良時代には玄昉(? - 746年)や道鏡(700年 - 772年)など、天皇の側近として政治分野に介入する僧侶も現れていた。桓武天皇737年 - 806年)が平城京から長岡京平安京遷都した背景には、政治への介入著しい南都仏教寺院の影響を避ける目的もあったとされる。新王朝の建設意識していた桓武天皇にとって、新たな鎮護国家宗教として最澄天台宗に注目・支援することで従前の南都仏教牽制する意図もあった。

法相宗と徳一[ソース編集]

日本での法相宗は、南都六宗の一つとして、入唐求法僧により数次にわたって伝えられている。白雉4年(653年)道昭(629年 - 700年)が入唐留学して玄奘三蔵(602年 - 664年)に師事し、帰国飛鳥法興寺でこれを広めた。

徳一は一説には藤原仲麻呂恵美押勝とも。706年 - 764年の子といわれるが疑わしい[2]。はじめ興福寺および東大寺で修円に学び、20歳代の頃に東国へ下った。東国布教に努め、筑波山中禅寺(茨城県つくば市)・会津恵日寺(福島県耶麻郡磐梯町)などを創建したという。

前述のごとく、徳一の著作ほとんど現存していないため、その生涯は不明な点が多い。

天台宗最澄[ソース編集]

天台宗は法華円宗、天台法華宗などとも呼ばれ、隋の智顗(538年 - 597年)を開祖とする大乗仏教の宗派である。智顗は『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の天台三大部を著して、『法華経』を根本経典とし、五時八教(仏教理解度の5段階に合わせて記された経典のうち、法華経を到達点とする)の教相判釈(経典成立論)を説く。

最澄ははじめ東大寺で具足戒を受けたが、比叡山に籠もり、12年間山林修業を行った。さらにそれまで日本に招来された大量の仏典を書写し研究する中で、南都六宗の背景にある天台教義の真髄を学ぶ必要を感じ始め、親交のあった和気氏を通じて桓武天皇天台宗学習ならびに経典の招来のための唐へ留学僧の派遣を願い出た。これを受け、桓武天皇最澄本人が還学僧(短期留学の僧)として渡唐するように命じた。こうして延暦24年805年)の遣唐使船で最澄は入唐を果たす。予定通り天台山にのぼり、台州龍興寺において道邃(天台宗第七祖。生没年不明)より天台教学を学び、円教(天台宗)の菩薩戒を受けて、翌年(806年帰国した。

帰国後、最澄桓武天皇に対し従来の六宗に加え、新たに法華宗を独立した宗派として公認されるよう奏請、天皇没後には年分度者の新しい割当を申請し、南都六宗と並んで天台宗の2名(遮那業・止観業各1名)を加えることを要請した。これらが朝廷に認められ、天台宗正式に宗派として確立。これが日本における天台宗のはじまりである最澄さらに同じく入唐した空海師事して、密教への理解を深める一方、六所宝塔院(比叡山寺(後の延暦寺)を中心とする)の造立計画を立て、弘仁5年(814年)には九州へ、同8年には東国へ赴くなど精力的に活動する。最澄の悲願は大乗戒壇設立であり、大乗戒を授けた者を天台宗菩薩僧と認め、12年間比叡山に籠って修行させるという構想によって、律宗鑑真(688年 - 763年)がもたらした小乗戒の戒壇院を独占する南都仏教既得権益との対立を深めていた。

論争の経緯[ソース編集]

論争の発端について[ソース編集]

論争の発端となったのは徳一が著した『仏性抄』であるとされる[3]。この書における一乗批判法華経批判に対して最澄が著したのが『照権実鏡』であり、ここから両者の論争が始まった。

ただし、そもそも徳一が『仏性抄』で論難したのは中央仏教界の最澄ではなく、東国活動していた道忠(生没年不明)とその教団であったとする説がある[4]。道忠は最澄が入唐前の延暦16年以降、あらゆる経典の写経を行った際、東国からはるばる駆けつけて2000巻もの助写をしたほど親交があり、東国における最澄の盟友的存在であった。道忠自身鑑真弟子で、律宗僧侶であったが、戒壇が設けられた下野薬師寺との関連か[5]東国に住し、広く弟子を持つ僧侶であった。最澄東国へ下った際には、すでに道忠は没した後で教団は広智(生没年不明)が率いる状態であったが、後に天台座主となった円澄(771年 - 836年)や円仁794年 - 864年)・安慧(794年 - 868年)らは、もともと道忠の弟子もしくは孫弟子(広智の弟子)であり、道忠との縁から最澄に入門したなど、道忠は初期の天台教団の中で、非常に重要役割果たしていた存在であった[6]。

筑波山を開山し、会津拠点とした徳一が標的としたのは、むしろ地理的東国において布教を行っていた道忠教団であった可能性が高い。徳一の『仏性抄』の存在最澄に知らせたのも道忠教団であったと見られる[7]が、異論もある[8]。

著作応酬[ソース編集]

三一権実諍論に関する著作としては、

≪徳一側著作

『法華肝心』2巻

『法華権文』1巻

『中辺義鏡』20巻

『慧日羽足』3巻

『遮異見章』3巻

『義鏡要略』7巻?

法相了義灯』11巻

『通破四教章』1巻

最澄著作

『照権実鏡』1巻

『依憑天台集』1巻

守護国界章』9巻

『決権実論』1巻

『通六九証破比量文』1巻

『法華秀句』5巻

などが挙げられる[9]。論争の主要な流れとしては、

徳一の『仏性抄』(成立年不詳)に対し、最澄が『照権実鏡』(弘仁8年(817年)成立)で反論

徳一の『中辺義鏡』『慧日羽足』に対し、最澄が『守護国界章』(弘仁9年(818年)成立)で反論

最終的な結論として、最澄が『法華秀句』(弘仁12年(821年)成立)を著す。

となっている。なお諍論の前期において、最澄が『照権実鏡』で徳一の『仏性抄』を批判したのに対し、徳一の『中辺義鏡』では最澄反論に全く答えていない。そのため『中辺義鏡』の批判対象としては、書名のみ残っている最澄の著書『一乗義集』ではないかとする説[10]、もしくは道忠教団によって書かれたと思われる『天台法華義』とでも称すべき書であったとする説がある[11]。続いて『守護国界章』下巻における三一権実論に対する徳一の反論として『遮異見章』『慧日羽足』が書かれたと思われ、それに対して最澄が『決権実論』で反論結論の書として『法華秀句』を撰述したと見られる[12]。

一連の論争の内容は難解で、一乗三乗の権実のみならず、教判論における法華経天台三大部の正当性、天竺・震旦の先哲による教義解釈の是非など広範囲に及ぶ。しかし一方では、最澄の教法に対する価値論に対し徳一は仏法理解先天的素質論を述べており、両者の論争の焦点があまり噛み合っておらず、議論のものも詳細というよりは瑣末的であり、時折相手側への罵倒に近い表現も見られる(後述)など、すれ違いの印象も与えている。

天台宗側では『法華秀句』の成立をもって論争の終結とする(翌年に最澄は入寂)。論争の歴史を天竺や中国の仏教史まで遡って述べたもので、『法華秀句』の書名は、智顗による天台三大部の『法華文句』を意識したものと思われ、最澄の論争決着への決意が現れている。ただし、これは最澄側の一方的な論争打ち切りであり、徳一側からは決着がついていないとも言える[13]。なお徳一は天台宗のみならず密教に対しても問題視していたと見られ、真言宗空海に対しても『真言宗未決文』で批判している(なお、これが徳一の著作として現存する唯一の史料である)。

最澄激昂の理由[ソース編集]

下記は、取り立てて、最澄の書き物に怒りは表明されていないが、法相宗派の学者の何人かは、そのようにとらえているようである。その理由をあえて挙げるとすれば、次の事柄をあげられるが、これも、特にここに特記すべきほどのことではない。参考までに、法相宗派側の意見を以下に述べる。 最澄は、しばしば非常に激烈な表現を用いて論敵を攻撃しており、たとえば『守護国界章』において最澄は、非難の対象である徳一のことを「麁食者(そじきしゃ。粗末な食べ方をする者、半可通のこと)」「謗法者(ほうぼうしゃ。賢しらに法を曲げる者)」「北轅者(ほくえんしゃ。南に行こうとして牛車・馬車の轅(ながえ)を北に向ける者。方角もわきまえぬ者)」などの蔑称で呼び、本名の徳一で呼ぶことは一切ない。どちらかといえば秀才肌で生真面目な感のある[14]最澄が、これほどまでに攻撃的な姿勢で論争に臨んだ背景として、いくつかの原因が考えられる。

最澄孤立[ソース編集]

最澄は入唐求法から帰国する直前、越州に寄り、密教を龍興寺の順暁(密教の法灯においては傍流に属する。生没年不明)に学び、灌頂を受けている。帰国後も最澄の密教への関心は高く、自身より年少で僧としての地位も低いながら、正統的な密教を学んで帰国した空海師事することになる。

最澄と同じく804年の遣唐使で入唐した空海は、真言八祖の一人恵果(746年 - 806年から正統的な密教を学び、大量の経典・法具を携え、最澄よりやや遅れて大同元年806年)に帰国していた。最澄空海の招来した仏典を借り受けて密教を本格的に学びはじめ、弘仁3年(812年)には弟子の泰範(778年 - ?)らとともに空海高雄山寺において灌頂を受け、正式空海弟子となっている。さらに泰範らを空海の下に派遣して密教の奥義を学ばせようとしていた。

しかし、弘仁4年(813年)最澄が『理趣釈経』(『理趣経』の解釈書)の借用を空海に申し出たところ、空海が密教の真髄は文章修行ではなく実践によってのみ得られるとして拒絶したため、両者の仲は悪化する。さら最愛弟子であった泰範が、最澄の再三の求めにもかかわらず比叡山への帰還を拒み、空海の下での修行を望んだことなどが重なり、両者は義絶するに至った。真言宗側では、これをさかんに吹聴するが、『理趣釈経』は、いわば、後世、淫靡宗教と結びついたものであり、空海がそれを見せたがらなかったのは、故あることであったようである。つまり密輸入書物とも言えるものであり、かえって、見ないほうがよかったのではないかと思われている。

天台宗に密教の要素を取り入れ、新たな宗派としての地位を高めようとしていた最澄にとって、泰範・空海との訣別により孤立感が深まったことで、南都諸宗に対してより敵対的姿勢に駆り立てられたともいわれる[15]。なお天台宗最澄の死後、本格的に密教化することになる(→台密)。

南都教団への対抗[ソース編集]

最澄が論争相手とした徳一自身は、若年から東国拠点を移して活動していた地方僧であったものの、彼が所属する法相宗自体は、当時の仏教界においては主流である南都六宗の中心であった。後世に天台宗の方が興隆していったため、三一権実諍論全体としては、新興宗派の総帥である最澄が、古い法相宗代表する徳一を退けたという印象が残るが、実際には当時においては法相宗の方が主流派に属していたのであり、最澄はむしろ挑戦者であった[16]。前述のごとく年分度者の割当を勝ち取り、大乗戒壇設立など、天台宗確立して南都仏教に対抗しようとする最澄にとって、法相宗理論である徳一を説き伏せることは、天台宗南都六宗への優位を示すことにも繋がるため、より攻撃的になったと、現代法相宗派の学者は考えている。

中傷者徳一に対する怒り[ソース編集]

徳一の『仏性抄』は最澄にとって看過しがたい法華経批判の書であり、この法敵に猛反論しなければ自宗の存在意義のものが危うくなる。しかしまた徳一にとっても、天台法華宗や密教の擡頭は、彼自身の属する法相宗にとっても、また従前の仏教体制秩序にとっても、異端なのであって、これを徹底的に論破しておく必要があった。徳一は『中辺義鏡』において法華教説や最澄に対して「凡人臆説」「顛狂人」「愚夫」などと悪し様に罵倒している[17]。最澄が『守護国界章』で徳一を「麁食者」「北轅者」と呼んだのはこれに呼応するものであり、互いに自宗派の存在意義をかけた真剣な論争であったがゆえに、ともに中傷めいた表現までもが用いられたともいえる。

蝦夷征討との関係[ソース編集]

宮原武夫(1933年-)は最澄と徳一の論争がここまで大きくなったのは、最澄が当時の朝廷が進めていた蝦夷征討に徳一が「非協力」的とみなしていた政治的問題にあったとする説を唱えている。

最澄東国に下った際に活動拠点としていたのは亡き道忠が活動拠点としていた下野国と隣の上野国であったが、両国は当時朝廷が推奨していた蝦夷征討の兵站基地となっており、更に下野上野両国から陸奥出羽両国に対しては国司から課役を逃れるための逃亡や朝廷による移住政策によって多くの人々が移り住んでいた[18]。蝦夷討伐には徳一の法相宗を含めた南都六宗東国鹿島神宮香取神宮も征討の成功を祈願したり、寺院神社を建立するなどの積極的な協力を行ってきた[19]。朝廷から天台宗公認を得たばかりの最澄東国における蝦夷征討を巡る様々な動きに直面して関心をもったと考えられ、この時の最澄東国行きに随行した弟子円仁下野出身)も立石寺など東北から北関東にかけて多数の天台宗寺院が建立したと伝えられており、最澄とその門人は下野上野両国を足掛かりに奥羽の人々に対する教化を進めようとしたとみられる[20]。

これに対して徳一の方は会津地方から越後方面への布教活動を進めており、蝦夷征討への協力や蝦夷がいる会津以北の奥羽への布教を示す史料は残されていない。宮原最澄は『決権実論』の中で「北轅者常に迷ひて、分明の文を指さしめ、南、越の方に向はしむ」と記しているが、これは自分達や南都六宗と違い、蝦夷征討に対して祈祷<

円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれ出自壬生氏。

目次 [非表示]

1 円仁人物

2 遣唐使の渡海の困難

3 天台山を目指すが…

4 在唐新羅社会の助け

5 五台山巡礼

6 長安への求法

7 帰国の旅の苦難

8 関連文献

9 脚注

10 関連項目

11 外部リンク

円仁人物像[編集]

794年延暦13年)下野国都賀壬生町現在壬生寺)に豪族壬生氏(壬生君:毛野氏一族)の壬生首麻呂の子として生まれる。兄の秋主から儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄理解者であって、多くの弟子最澄師事させている。

※生誕地については

美加保ノ関(藤岡町三鴨の都賀字館)

手洗窪(岩舟町下津原

壬生寺壬生町

などの説があり、順徳天皇撰による「八雲御抄」では、みかほの関、みかほノ山での誕生が記されている。

また、美加保乃関は万葉集歌人によって和歌も詠まれており

下つ毛野 みかもノ山の越奈良の須 目ぐはし頃は 多が家かもたむ

あずま路の 人に問はばや みかもなる 関にもかくや 花は匂うと

石ふまぬ 安蘇の川原に 行き暮れて みかほの関に 今日やとまら

下野や 安蘇の川原に 行きくれば みかもの崎に 宿をかりなん

この他、近くにある円仁ゆかりの安蘇の川原は、みかほの関を沼越しに眺める名所として多くの和歌が詠まれている。

安蘇山の麓に生まれたという説では、慈覚大師円仁の出生については「桓武天皇延暦13年、廣智菩薩大慈寺住職とき南方に紫雲がたなびき、尋ねていくと安蘇山麓現在の三毳山のふもと岩舟町下津原手洗窪)…下津原の手洗窪は「慈覚大師誕生の地」として栃木市史跡指定されている。

15歳のとき、唐より最澄帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい最澄師事する。奈良仏教の反撃と真言密教興隆という二重の障壁の中で天台宗確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問修行に専念して師から深く愛される。最澄が止観(法華経注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。

814年(弘仁5年)、言試(国家試験)に合格、翌年得度出家)する(21歳)。816年(弘仁7年)、三戒壇の一つ東大寺で具足戒(小乗250戒)を受ける(23歳)。この年、師最澄東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は、新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。817年(弘仁8年)3月6日大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。

性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。浄土宗開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。

遣唐使の渡海の困難[編集]

836年(承和2年)、1回目の渡航失敗、翌837年(承和3年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。838年(承和5年)6月13日博多津を出港。『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する(しかし「四つの船」のうち1艘は遭難している)。円仁の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁はずぶ濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

上陸である唐の開成4年7月2日日本の承和5年7月2日と日付が一致していた。唐と日本で同じ暦を使っているのだから当然ではあるが、異国でも日付が全く同じであることに改めて感動している(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

天台山を目指すが…[編集]

最後遣唐使として唐に留学するが、もともと請益僧(入唐僧(唐への留学僧)のうち、短期のもの)であったため目指す天台山へは旅行許可下りず(短期の入唐僧のため日程的に無理と判断されたか)、空しく帰国せねばならない事態に陥った。唐への留住を唐皇帝に何度も願い出るが認められない。そこで円仁遣唐使一行と離れて危険を冒して不法在唐を決意する(外国人僧の滞在には唐皇帝勅許必要)。天台山にいた最澄の姿を童子(子供)の時に見ていたという若い天台僧敬文が、天台山からはるばる円仁を訪ねてきた。日本から高僧が揚州に来ているという情報を得て、懐かしく思って訪れて来たのだという。唐滞在中の円仁の世話を何かと見てくれるようになる。海州東海県で遣唐大使一行から離れ、一夜を過ごすも村人たちに不審な僧だと警戒され(中国語通じず、「自分新羅僧だ」と主張しているが新羅言葉でもないようだ、怪しい僧だ)、役所に突き出されてしまう。再び遣唐大使一行のところに連れ戻されてしまった(『行記』839年(開成4年)4月10日条)。

在唐新羅社会の助け[編集]

当時、中国山東半島沿岸一帯は張宝高をはじめとする多くの新羅人海商が活躍していたが、山東半島新羅人の港町・赤山浦の在唐新羅社会の助けを借りて唐残留成功不法在留者でありながら通行許可証を得る等)する。遣唐使一行から離れ、寄寓していた張宝設立の赤山法華院で聖林という新羅から天台山の代わりに五台山を紹介され、天台山はあきらめたが五台山という新たな目標を見出す。春を待って五台山までの約1270キロメートルを歩く(『行記』840年(開成5年)2月19日4月28日の58日間)。

五台山巡礼[編集]

840年、五台山巡礼する。標高3000mを超す最高峰の北台にも登山する(47歳)。五台山では、長老の志遠から「遠い国からよく来てくれた」と温かく迎えられる(『行記』840年(開成5年)4月28日条)。五台山を訪れた2人目の日本人だという(1人目は、最澄とともに入唐し、帰国せず五台山客死した霊仙三蔵)。法華経密教整合性に関する未解決問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻を書写する。また、南台の霧深い山中で「聖燈」(ブロッケン現象か。『行記』840年5月22日条、6月21日条、7月2日条)などの奇瑞を多数目撃し、文殊菩薩の示現に違いないと信仰を新たにする。

長安への求法[編集]

当時世界最大の都市にして最先端文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から1100キロメートルを徒歩旅行する(53日間)。その際、大興善寺の元政和尚から灌頂を受け、金剛界大法を授き、青竜寺の義真からも灌頂を受け、胎蔵界・盧遮那経大法と蘇悉地大法を授く。また、金剛界曼荼羅長安絵師・王恵に代価6千文で描かせる。

台密にまだなかった念願の金剛界曼荼羅を得たこの晩、今は亡き最澄が夢に現れた。曼荼羅を手に取りながら涙ながらに大変喜んでくれた。円仁は師の最澄を拝しようとしたが、最澄はそれを制して逆に弟子円仁を深く拝したという(『行記』840年10月29日条)。描かせていた曼荼羅が完成する(『行記』840年(開成5年)12月22日条)。

しばらくして、唐朝帰国を百余度も願い出るが拒否される(会昌元年8月7日最初)が、その間入唐以来5年間余りを共に過して来た愛弟子・惟暁を失う(『行記』843年(会昌3年)7月25日条。享年32)。また、サンスクリット語を学び、仏典を多数書写した。長安を去る時には423部・合計559巻を持っていた(『入唐新求聖教目録』)。そして、842年(会昌2年)10月、会昌の廃仏に遭い、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で、帰国が叶った(会昌5年2月)。

帰国の旅の苦難[編集]

当時の長安の情勢は、唐の衰退も相まって騒然としていた。治安悪化不審火も相次いでいた。その長安の街を夜半に発ったが(曼荼羅や膨大な経巻を無事に持ち帰るため)、夜にもかかわらず多くの長安住人の送別を受けた。送別人の多くは、唐高官の仏教徒李元佐のほか、僧侶及び円仁長安暮らしを支えた長安在留新羅人たちが主であった。餞けとして絹12丈(30m余)を贈ってくれた新羅人もいた(845年(会昌5年)5月15日)。歩くこと107日間、山東半島新羅人の町・赤山まで歩いて戻った[注 1]。

この際、新羅人の唐役人にして張宝高の部下の将・張詠が円仁のために唐政府の公金で帰国船を建造してくれたが、密告に遭い、この船では帰れなくなる。

円仁が無事生きている」という情報日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやってきて、師と再会を遂げる。楚州の新羅人約語(通訳のこと)劉慎言に帰国の便船探しを頼み(彼は新羅語・唐語・日本語を操れるトライリンガルであった)、彼の見つけた新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国する。円仁は劉慎言に沙金弐両と大坂腰帯を贈っている。朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅であった。新羅船は小型だが高速で堅牢であることに驚いている。博多津に到着し、鴻臚館に入った(『行記』847年(承和14年)9月19日条)。日本政府円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いるように太政官符を発し、ここで9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の筆を擱いている(『行記』847年(承和14年)12月14日条)。54歳。

この9年6ヶ月に及ぶ求法の旅の間、書き綴った日記が『入唐求法巡礼行記』で、これは日本人による最初の本格的旅行記であり、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価されている(エドウィン・ライシャワー研究により欧米でも知られるようになる)。巡礼行記によると円仁は一日約40kmを徒歩で移動していたという。

目黒不動として知られる瀧泉寺や、山形市にある立石寺松島瑞巌寺を開いたと言われる。慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされ、浅草浅草寺もそのひとつ岩舟町観光協会HP)。このほか北海道にも存在する。

後に円仁派は山門派と称された。(円珍派は寺門派、両者は長期にわたり対立関係になった)。

2016-08-24

http://anond.hatelabo.jp/20160824165107

その作品は知らんけど、「NTRもの」ってくくりが雑なんじゃないかと思うことはある。

まり、3人の登場人物A,B,Cがいるとして、

  • A:Bと交際ないし親密な間柄で、BをCに奪われる。無力感
  • B:Aと交際ないし親密な間柄だったが、Cに心移りする。罪悪感、背徳感。
  • C:AとBの間に割って入る。優越感、征服感、支配感。

という大まかに三種類の視点があり得るはず。

元々の「寝取られ」という言葉はAの立場を表していたと思うけど、実際にはBやCの立場を楽しむこともできてしまう。

そうなると、Bの視点に立ってAからCに心移りする場合、Cが優しかったり尽くしてくれたりするのは説得力、納得度合いが高いのではないのかな。

2015-08-25

「整形すれば」とひどいこと言われたあなたへ

とある増田で、顔がブサイクで悩んでいたら、整形したら?と無神経なことを言われた、という人がいた。

これはひどい

実は俺も、顔面があまりにもひどくて、長い間悩んでいたんだけど、そういう無神経なやつらにムカついて、出来ることをすべてやってやろうと思ってあれこれ試したら、だいぶマシになって、結果として性格も多少明るくなって、女性とも緊張せずに話せるようになった。

変われるよ、現に俺は変われた!

とりあえず、何をやって、どう効果があって、コスパはどうかというのをツラツラ書いていく。ステマじゃないからな。

ほくろ

まず俺の顔面で一番嫌だったのが、ほくろだ。ほくろが大小あわせて19つあった。あまりにほくろが多いため、一時期のアダ名が「昔の小倉優子」だったときがあるくらいだ。

しかしこれは手術で一瞬でとれる。俺の行ったところだと、小さいのだと5000円、大きくても10000円だったかな?麻酔をして切り取る、みたいな施術なんだが、麻酔をするときに、チクチク痛い程度で、30分もかからず全てをとった。料金は14,5万だったと思うが、これは数が多いから

とったあとは、ニキビを潰したような?傷のような感じになる。1人からだけ「どうしたの顔」って言われたけど、「肌が荒れちゃって」といってごまかした。

結果としては、コスパは最強。1ヶ月もすればだいぶ跡がなくなってきて、3ヶ月後にはほぼわからない程度、6ヶ月にはキレイになにもなくなった。

みんな気づくんじゃないかと思ってたけど、家族含めて誰も手術は気づかなかった。

ひげ

俺はひげも濃い。濃いから、そってもそっても夕方には生えてくるし、何より青ひげ状態になっていた。どろぼうひげみたいな形なので、よりカッコ悪い。志村けん変なおじさんみたいだ。あまりにひげ跡が青いから、一時期のアダ名が「ミスター」だったのだけど、これも相当嫌だった。

ひげ脱毛にいこうと思い、某エステに通ったのだが、これはあまりよくなかった。効果としては悪くないんだけど、エステって1本1本脱毛するから、とにかく時間がかかるし痛い。しかもかなり高かった。30万くらいかかった。そのあとに、全身脱毛で某医療系の脱毛にいったんだけど、こっちでやるべきだった、と思った。

しかし、脱毛自体はとてもいい。まず、毎日の髭剃りの時間がなくなる。1日5分はかけてたので、一週間に35分の短縮になる。とても朝が楽になった。しかも、ひげを気合いれて剃ってたので、たぶん相当肌が傷ついてたんだな、って思った。肌のヒリヒリやつっぱりもなくなったし、カミソリ負けも当然ない。

ひげ跡もないから顔がキレイみえる。特に、頬のあたりとかは、黒ずんで見えてたんだなって昔の写真を見て思った。頬が黒いと、すごい陰鬱イメージになるんだよ。それもなくなるし、剃り残しもないからとにかくキレイに見える。

値段は高いけど、ひげ脱毛には人生を変える効果があると思った。

にきび

にきびあともひどくて、クレーター系と赤み、両方あった。あまりにきびあとがひどいから、一時期のアダ名が「松井」だったのだけど、これも相当嫌だった。

これは某赤坂にあるTクリニックにいったのだけど、IPAフォトフェイシャル?というのをやった。1回3万。ぶっちゃけ最初の3回はほぼ効果を感じなかったんだけど、5回目くらいからかなり変わった。人から「肌がキレイになった?」と言われたこともある。ひげ脱毛効果もあると思うけど、鏡を見るのが苦じゃなくなったのはうれしい。

ちなみに完全に治るわけではないので注意な。でも相当マシになると思う。軽めの症状の人だったら、相当いいんじゃないかな。

歯の矯正

歯並びが致命的に悪くて、ガッタガタだった。昔、女性に「クスリとかやっている?」と真面目な顔で聞かれたくらい、歯の色も汚かった。あまりに歯が汚いから、一時期のアダ名が「ヤク中」だったんだけど、これも相当嫌だった。

というわけで、一番ストレート矯正にいった。矯正は2年近くかかり、お金も130万くらいかかった。矯正していると、最初のころはとにかく痛くて、ものが食べられなくて嫌だったし、歯にものがつまるし、人からも見えやすいし、結構つらかったんだけど、終わったあとの歯並びをみて、本当にやってよかったと思った。

歯磨きも楽になるし、ホワイトニングなどもできるようになり、かなり見れる歯になった。見れる歯になると、笑顔が怖くなくなるんだよね。今までは笑うのが怖かったから、常にむすっとした人になっちゃってたと思うんだけど、今では普通に笑えるので、印象もよくなったのではないかと思う。

ダイエット

これは普通にやった。太っていたわけではないんだけど、-11kg落とした。やったのは単純に、レコーディングダイエット

上記のようないろいろな改善をしているときダイエットも一緒にやるといいと思う。みんな肌の変化とかは感じないけど、痩せたことに対しては敏感なので、俺みたいに「男なのに、顔を気にして」といわれるのが嫌だからひた隠しにしてたんだけど、ダイエットをしていると、印象がよくなったことに対して、すべてを痩せたせいにできるというメリットがある。

こんな感じで

かなりいろいろやった結果、自分にも自信が持てるようになった。気分的には、大きなマイナスがあったのが、0に近づいていった、という感じなんだけど、それだけでだいぶ心が穏やかになるし、嫌な気持ちをすることがなくなった。

若いころはいろいろな人に指摘されて本当に嫌だったのだけど、大人になるともちろんそんなに言われることはない。でも、みんな心の中では思っているんじゃないの?というところで、自分に自信がなくなっていて、結果として性格が暗くなって付き合いづらいやつになっちゃってたんだと思う。

それがなくなるだけでも、だいぶ人生好転するよ。

金は異常にかかったけど、これから人生、ずっと使えるものを手に入れられてよかったと思う。少しでも参考にしてほしい。

追記

いくつか反応があって嬉しい。少しでも多くの人の参考になればと思う。

その上で、いくつかの意見に答えるね。

効果がなかった高額施術などについても、書いてほしかったなあ、と。(全部当たりなんておかしくねえか、という邪推ですお・・・

これは実はあまりないんだけど、化粧水とか乳液とかは、効果がよく見えなかったというのがある。元がひどかったせいかもしれないけど。

あと、いわゆるメンズエステにも2軒ほどいったけど、高いだけであまり効果は感じなかった。医療ぽい治療のほうがよほどインパクトあるなと思った。

ほくろ除去、ひげ脱毛などを総じて「整形したら?」って言ってると思います

これはそうかもね。俺の勝手イメージだけど、整形って、メスいれたり、目をかえたり、唇の形変えたりとかなのかなーというのがあった。いわゆる、変化させる系というか。

ひげ脱毛とかは、ひげを超きれいにそったときと同じだったり、皮膚がクレーターだらけなのを綺麗にするのは、健康的にいけばなったラインなので、整形ではないという印象でやっていたけど、そのあたりは自分判断してやればいいんじゃないかな?

これがステマしか見えない私は、心が汚れてるのか/こんないちいち仇名つけられる奴いるか

まあ、そう思われると思うので、そう思いたい人はそれでもいいと思う。本当はどの店いったかとかも書いたほうが参考になるんだろうけど、そこは逆にステマぽくなるのかなと思ったよ。しょせんインターネットだしね。

整形でこそないものの結局高額美容治療を勧めているのは整形すればっていうのと同じようなものでは

ああ、ここは「整形すれば」というのは、なんというか、ストレートに「お前の顔やばいぞ」っていわれているわけで、そういうのはひどいなと思っただけ。個人的にはそれで幸せになるなら、整形してもいいんじゃないかとは思う。俺は、目をいじるとか鼻をいじるとかそういうのは整形ぽくて嫌だけど、肌を治すとか、歯を治すとかはセーフラインと感じたからやったんだよね。そのラインは人ではなくて、自分の納得度で決めるといいのかなと思う。

髪はあったのか

髪はあったけど、この話でいうと、おでこクレーターがひどいから、前髪を伸ばして隠そうとしてたんだけど、今思えば、はっきりいってキモい感じになってた。ある程度綺麗になってからは短髪になったから、それはそれでよい効果だったかもしれない。

こういう人が美容とかに気使ってない人をすごいバッシングするんだよな

あるかもね。俺はあまりしないというか、気にしない人は気にしないでいいと思う。ただ、悩んでいる人がいるなら、それは金で解決できるならしたほうがいいんじゃないか派なんだよ。

2015-08-02

http://anond.hatelabo.jp/20150802150708

いまお金のあるところからお金をもってこようと思いつく気持ちはわかる

しかお金持ちになっても税金差し引きゼロになるとしたら、お金儲けする気になるか?

100億かせいだら家が買えるとおもってやる気になるやつが

100億かせいでも1LDKで生活するのと同じ収入になるだけの課税になるのだったら

お金かせごうって思うか?

お金めっちゃ稼ぎたい

そのために思案したり投資したりするやつがい

それはお得度がでかいから

得もないけどがんばったらその分税金でみんながよくなる

そんな気構えだけでがんばれる人がどれだけいるのか

そういう根本的な理論からお金持ちの税率は貧乏人のそれより優遇されてるように見える

そこんとこどう埋める?

2015-06-25

ダメJKコンテンツ力には勝てない

本日、街を歩いていたらですね、鮮やかな青色ブラジャーをした女子高生エンカウントしたのですよ。

国技キメたわけじゃないですよ。白のブラウスからいっきり透けて見えたんです。

よほど自分コンテンツ力に自信があるんでしょうね……

また、女友達からビッチ扱いされない程度の処世術というか、コミュ力もあるのでしょう。

アウターに響かないシームレスのブラ、キャミソール、上からカーディガンなんていう安牌を選ばない彼女は実にアグレッシブです。

他方、私はオッサン・チビハゲデブの、ヘレン・ケラーも驚く四重苦ですよ。

もう彼女を見ているだけで自尊心がメリメリと削られましたね。

ちゃんと大学生協で毎月メンズ・ノンノを買っていれば、私の悲惨人生も変わっていたのかもしれません。

……もう遅いわ。

脂肪吸引して、シークレットブーツ履いて、ヅラ被って、タイで性転換しても青ブラJKには勝てそうにありません。

来世でワンチャン期待できるヒンドゥー教は肌に合わなかったので、親鸞に一縷の望みを託したいと思います

浄土真宗の寺で得度して極楽浄土目指します。

南無阿弥陀仏って一回唱えるだけでいいんだぜ? うっほほ~い!(氏にたい)

2015-05-12

根拠によらずに何かを言われること

根拠によらずに何かを言われたとき、その内容の強度や正当性や、得られる納得度が、何によってもたらされ、裏付けされ、保証されていると感じられるか。

最後最後のところでは、その人の重ねてきた経歴の起源にある、原始的帰属分野にあるんじゃないかと思える。

例えば、ビートたけしなら、なんとなく理工系の知見が通底しているように思える。

司馬遼太郎なら、旧陸軍一兵卒として終戦を眺めた、モンゴルだかどこかの語学学校卒業した学生

原始的帰属分野のスコープが広いものであれば、著名になった以降の発言についても、そのスコープの及ぶ限りにおいて、なんとなく通用しているように錯覚することができる。

松本人志なんかは、どうなんだろうなぁ、と思うことが多い。

結局どこまで言ってもお笑い(それもごく限られた分野での笑いの作法たまたま現在日本において主流的な地位にある)だし。

最近だと父親げなことを言っているけれど、それもまた結局のところ、いわゆるそこいらの父親だ。

尾ひれがつくとしたらお笑いスコープが及んでいる部分でしかないだろう。

コメンテータとかやってるのを不思議に思う(とはいえ、その発言が、世の中で重く受け止められているような気配はあまり感じられない)。

週刊誌の連載に基づいた著作があったりしているけれど、結局、お笑い立場からのものであって、そのスコープの限りのものしかなかった。

万人の納得を誘うものではなく、また、それを狙ったものでもなく、松本人志が何か言ってる、程度のものであったし、今もまたそうであるように思う。

で、タモリだ。最近、なんとなくそ発言やら趣向やらについての記事を見かける気がする。

タモリは、坂道本の序文にあるように、その根底にあるのは、筒井康隆的な意味での西洋哲学であると、私は勝手に思っている。

(あるいは、西洋哲学付託して物事著述することによって、効果的に、煙に巻くことができると信じられた世代所属している、というふうに思える)

なので、その域を外した分野における発言については、結局のところ、粋人であるところのタモリ一代のものであるので、スコープもその限りだ。

カレーやら生姜焼きの作り方が取りざたされても、はぁそうですか、としか思えない)

京都を歩いたときに、御土居について語っていても、それは趣味として御土居を知っている人の発言であって、歴史的な文献・知見に裏付けされたものだと安堵できるに足る発言はなかった。

(もちろん、本人にしたら、そんなこと考えてなくて、単に膨大な興味のいち分野に過ぎないんだろうとも思う)

何が言いたいかというと、いちいちタモリって言われてもなぁ、というのが一つ。

それから仕事をしているときに、根拠や裏打ちなく物事が進んでいくとき正当性が何によってもたらされているのか、それは自分の身体を預けるに足りるものなのか、というのが一つ。

根拠なく、自分の身体を預けられると思える場合とはどのような場合なのだろうか、というのが一つ。

2015-05-09

http://anond.hatelabo.jp/20150508220336

非道の限りを尽くしたヤクザの組長が引退して寺で得度を受けたとかい

自伝本を出してたな。得度たから何なんだという話だが。

2015-02-13

http://anond.hatelabo.jp/20150213141719

男女で育て方が違ったとしてそれが進学率なり就職率なりに影響を与えているとして、それがなにか問題でも?というのはあるけど、

これは、個々人の人生の納得度においては、それでいいんじゃないかと思う。

男らしくとか女らしくとか、現実的には逃げられない問題だし。

その辺もうまく受け入れながら生きてるよ、っていう人の主張かな。

東大としても、男女公平公正なシステムにしているなら別に責められる所はないんじゃないかな。

社会的に不平等はしてない訳だし。

例えばの話男女で育て方が違ったとして

問題があるとすれば、ここだよね。

社会全体としてここを適当に放っておいたら、あっちこっちで極端な事する奴が出てきてて、問題勃発してるよ、って所かな。

2015-01-17

仕事事実で語ってロジック厨を退治しようず

会社にクソムカつく口だけ野郎いるから,その対策を考えて実施したら一定の効果があったので紹介する.

頭がいい人って,仕事をやらないために理由を考えたり,責任回避するロジックを作るのはうまいんだよな.

または自分正当性を主張するために,必ずしも間違っていないような変な話の展開をし始める.

こういう人とロジックで話したり喧嘩しても,もやもやするだけだし,何の価値も生み出さない.

ダメージコントロール工数の付け替え,クソ面倒なルールの量産,にしかなってないんだ.

それにな,お前みたいな お人好しほど「相手の言ってることも一理あるな」とか考えて説き伏せられてしまう.

お人好しほど「自分ロジックには穴があるから,必ずしもそうとは言えんな」とか考えて言わないでしまう.

いいんだよ,それで.ロジック勝負するのは向いてないだけなんだと思おうよ.事実勝負して価値のある仕事につなげようよ.

(1)事実のみで語れ

我々は頭が悪い.だから宮廷卒みたいなやつらにロジックで勝とうと思っちゃいけない.

足で「事実」を稼いで,それで説得して人を動かすんだ.

事実ロジックだ.

事実で説明されたら納得度100%だ.みんなどんどん信頼してくれる.

逆にロジック厨,推測厨は勝手に嫌われる.こいつら話長いだけだってね.

×「あそこのイタリアン行列ができているし,本でも紹介されているんで絶対うまいはずです」←もやもやする

◎「あそこのカルボナーラめっちゃうまかったすよ!」

(2)事実を先行させて実績で語れ

ロジックがしっかりしていないとテーマ承認予算が通らず,そもそも仕事スタートできないことがある.

どんだけ申請書類を直しても,ロジック厨の上司の納得を得られず腐ってしまいがちだ.

それもそのはず,やっぱりロジック他人を説得するのは無理のある行為なんだよ.

その場合は,承認もらう前にちょっと成果物作っちゃえ.それを見てもらって納得させるんだ.

この方法重厚長大なモノを扱っている人だと難しいかもしれんがな.

×「シェフ欧州帰りだし,素材も厳選された物を使います.この店は絶対に失敗しません」←もやもやする

◎「試しにいくつか料理作らせてみました.社内でも好評ですし,部長も食べてみてください」

(3)ホワイトボードで話したいポイント視線認識誘導しろ

多人数で話し合うと,脱線したり,論点が飛んだりで,話したいポイントがずれていくことがある.

ロジック厨が気持よーく空中戦を展開してきたりする.こいつら話なげーよ.

これを言葉軌道修正すると大変だ.「15分ほど前に部長がおっしゃった○○○の件ですが~」と不特定多数の脳に問いかけることになる.タイミングだって難しい.

こういうときは,ホワイトボードの文字にペンをあてがって「これなんですけど」といって,視線認識誘導・再配置しよう.

人間記憶位置情報に関連付けられているから,ホワイトボードの文字や図形をさして「これなんですが」といったほうが,確実に誘導できる.

(4)議事録事実を固定しろ

議事録書きを新人に任せてはいけない.決まった内容を承認付きで強烈にコントロールできる.

後で言った言わない,そういう意味で言ったのではない,とか言わせない超具体的な議事録を作って,さら自分の都合の良いように書いて無駄な後戻りをなくそう.

まあ,これやると仕事が増えて大変だけどね.

でも信頼されて仕事できるって気持ちいいし,なんだか自信になるんだよな.

最後に,,,タイトルあおり気味すまん.

2014-10-31

http://anond.hatelabo.jp/20141030225845

あぁ…やっぱ分からないかなぁ。年金ってのは経済的弱者救済措置なのよ、健康保険でも「オレ病院行ってないのに、取られ損だから病気になったら10割払うわ」ってのと同じなのよ。その社会的システムから打算で脱退したいっつーのが、利己的じゃん。保険屋の終身保険CMじゃねーんだから

でさ結婚も、ある種女性社会的救済の意味もあるわけ、「女性は自立してんだろ」って放置ってのは、現在でも問題ある事になってるでしょーが。自分の両親が損得度外視で、子育て結婚を考えたか自分存在してる訳じゃないか、ソコで自己存在否定してどーすんの。

最近は、社会制度とかインフラまでコスパ悪いとか言い始める輩が多くて参るわ。

そういうのを経済的効率コスパ悪いって論じるのは頭悪いってのが、常識だよ。

結婚医療教育とかって社会的制度は、「損得考えて自動車買うのやめました」っていうのと論じるカテゴリーが違うの。

そんで、功利主義者が苦し紛れに「社会多様性」なんて言うんじゃないの、どうせ理論破綻してんだから経済的効率な少数派のセクションに税金を投下できるかの社会的合意こそが、社会的多様性を認めるって事だろ。

結婚をどうするかは、個人の自由だ〜政府に頼らず勝手自力でなんとかしろ」ってのはリバタリアンね。

社会制度に云々するのなら、もうちょっと思想とか哲学の本読んだ方がいいよ。

2014-01-28

http://anond.hatelabo.jp/20140127205246

それぞれ「それでも●●県に住むべき7つの理由」を客観データ積上げで書き上げる自信はある。

ぜひ読みたい。あなたの記事は他の記事より読んでいて納得度が高かった。

2014-01-17

福井県ここまでやってなぜ全国的企業地元から出ないのか謎

すごいなとは思うが、この教育って、東京で便利な学生を量産してるだけで、福井発のすばらしい企業を生み出してないよね




学力、体力ともに全国一の結果を出している福井県福井の子育てはどこが違うのか、いくつかの学校訪問し、多くの教育関係者母親たちのインタビューで探った労作がある。

すべての伝統と同様、福井県教育も、多くの人々の長年にわたる努力の積み重ねの結果である。たとえば、校門での一礼の伝統を始めたのは、30年ほど前に永平寺町の上志比中学校校長として赴任してきた川鰭定幸さんだ。定年後、浄土真宗得度し、80歳を超える今も、矍鑠として、福井市の超勝寺で布教使をされている。川鰭さんは当時をこう回想する。

当時、全国の公立中学校では暴力事件、"校内暴力"が多発していました。・・・上志比中学校も学ランに剃りこみという格好の生徒たちが、窓ガラスを割るなどの校舎破壊を繰り返していた。そこに赴任したんです

そこで、河鰭さんは入学式の第一声で、子供たちにこう呼びかけた。「明日から、登下校のときは校門の前で礼をしたらどうだろうか」と。河鰭さんは幼少の頃に両親と死に別れたことから浄土真宗に触れる機会が多かった。浄土真宗宗祖親鸞上人の教えは「自己発見」。「礼」の教えを通して生徒たちに自己を見つめなおしてもらおうと思った、という。

河鰭さんが考えた「礼」とは、他者への挨拶や敬意の表現だけではなかった。毎朝、学校に着いたら校門の前で身なりを正し、息を整える。そして心を落ち着けたら校舎に向かってゆっくりと頭を下げ、ゆっくりと上げる。一日の始まり自分自身に対して礼をすることで、自分の中にある普段とは違う、もうひとりの自分見出してほしい、という思いだった。しかし、「校門の礼」は、すぐには受け入れられなかった。

生徒は実行してくれないし、先生からは「生徒の行動を規制する」と反発もありました。・・・僕は、入学式の翌日から毎朝校門に立ち、登校してくる生徒一人ひとりに礼をし、挨拶しました。そして、校門の横には、「礼」という大きな文字の下に、「自分自分出会う礼である」と書いた自作看板を立てました。

たった一人でのスタートだったが、校門で礼をする生徒が少しずつ増えていった。2、3ヶ月すると、こんな作文を書く生徒が出てきた。

校門の前に立って頭を下げると、今までやってきたことがまずかった、しっかりしなくてはいけない、と思う自分気づきました。

「校門での礼」が軌道に乗り始めた頃、河鰭校長さら給食掃除時間改革に着手した。給食時間は、生徒たちはお喋りばかりで、食べ残しが多かった。そこで午前中の授業が終わると、全校生徒をランチルームの前の廊下正座させ、当番の配膳が終わるまで待たせた。食事の時は、終始無言で食べるようにさせた。すると食べ残しがなくなった。掃除も同様に、まず正座で黙想してから、無言で各持ち場を雑巾で磨かせた。すると生徒たちは懸命に掃除をするようになった。これらは食事も清掃も「行」であるという禅の教えを参考に取り入れたものだ。

給食の前に正座をさせたのは気持ちを落ち着かせるというよりは、お腹が減るという生物としての体の感覚に訴えたんです。しばらく待つからこそ給食がおいしく感じられ、おいしく感じられるからこそ食べることに集中でき、集中できるから食べ残しがなくなっていくんです。

食べ終わると、生徒と先生は箸を置き、「この命を無駄にすることなく、日々の勤めに励むことを誓います」と声を合わせる。「この命」とは、自分が今食べた魚や肉や野菜穀物だ。 それらの命をいただいて、我々は生きている。掃除も無言でやることで、自分の作業に集中できる。校門で礼をし、食事前に正座で黙想をし、無言で掃除をする。その過程で、子供たちは「自己を見つめる爽快さ」を体で味わったのだ、と河鰭校長はいう。河鰭校長が赴任して3年目くらいから不思議なことに、生徒たちの成績が上がり始めた。 その後も長く「礼の教育」が続いているのは、子供たちが体でいいなと感じているからだという。

鯖江市小学校給食時間、机の上に並ぶのは、黒く艶々と輝く地元越前漆器のお椀やお盆だ。越前漆器組合から給食越前塗りの漆器を使ってもらいたいと提案があったのは、15年前。しかし、乗り越えなければならない壁がいくつもあった。まず漆はぬるま湯でやさしく洗わなければならないが、学校では衛生管理のために熱風消毒が必要だ。値段も高い。それを聞いた越前塗りの職人さんたちは、熱風消毒可能な給食漆器を開発し、値段も導入可能な価格に抑えた。それを受けて、市の教育委員会予算を出し、2000年に導入された。栄養教諭塚田明美先生は言う。

お椀の木をくりぬく職人さんがいる、塗りをする職人さんがいる。いろんな人が手をかけて一つのお椀を作っている。全国でもこんな漆の食器を使って給食を食べている子どもたちはいないんだよ、と伝えているので大切に扱ってくれますね。予算や保管場所関係でひと学年分しか漆器の食器はないため、学年ごとに交代で使うのですが、順番が回ってくると子どもたちも「きた、きた」と反応がいいんですよ。

和食に合って、いつもよりごはんがおいしく感じる」「越前漆器で食べると味が違うような気がする」と子どもたちの評判は上々だ。

給食の途中、放送が入る。「今日エンドウ豆はサルビア会の上田さんが作ってくれました」

サルビア会とは、地場産の野菜学校給食供給している会だ。毎日給食メニューに合わせて、33名のサルビア会の会員たちが、その日の朝にそれぞれの畑で収穫した野菜を届ける。たとえば、ある日のメニューは「エンドウ豆ご飯」に、「かきたま汁」、地物のトビウオと県産野菜で作った「まる福あげ」、きゅうりキャベツの「即席漬け」、トマト。これら13品目のうち、えんどう豆、トマトきゅうりサルビアから提供されている。サルビア会の会長上田八重子さんは経緯をこう説明している。

2,3年前、栄養教諭塚田先生から地場産の野菜学校給食に使いたいと提案がありました。私たち安心安全旬の食材子どもたちに食べさせたいという思いがあり、気持ちが一致したんです。毎日、同じ野菜を何キロも用意するのは大変。それでも、形、大きさは不揃いでいいと言ってくれるので助かっています。孫においしいものを食べさせたいというおばあちゃん心で、作るのに熱が入りますね。

栄養教諭塚田先生は、教育面の効果を語っている。

この野菜は、子どもたちが登下校で通る畑で作られているんです。自分が住む地域で、どんなものが作られているのかを給食を通して知ることができます。また、野菜の旬はいつなのかがわかり、旬のものはおいしいということも実感できますよね。

地元職人たちが丹精を込めて作った重厚な漆の食器で、近隣農家が毎朝届けてくれる地場産の野菜を味わう。こうした周囲の大人たちの愛情にふれながら、生徒たちは毎日給食をいただく。また食事の後で「この命を無駄にすることなく」と唱えれば、自ずから自分たちが「生きとし生けるもの」すべてのおかげで生きていることに気がつく。登下校時には、校舎に向かって礼をする。静かに頭を下げれば、先生や友だちや校舎を思い浮かべながら、「今日も一日、よろしくお願いします」とか「今日もお世話になりました」という思いがこみ上げてくるだろう。人間は一人で勝手に生きているのではない。両親や家庭、先生方、地元の人々、ひいては近くの田畑山川などの「お陰で」生かされている、という事実に気がつくはずだ。そこから自分も「しっかりしなくて」と思う。学力も体力も、こうした思いの上に築かれるものである

2013-09-28

http://anond.hatelabo.jp/20130926033942

元増田です。ブックマークがたくさんついていてびっくりです。そして、コメントありがとうございました。せっかくコメントをいただいたので、何が間違って伝わっていて、何を本当に伝えたかったのかを整理しておきたいと思います。これでも反論などあれば、是非聞きたいですね。

まず、ぺらぺら、くそ野郎などの言葉が、違和感不快感を与えてしまったようでしたら、申し訳ありません。人目を引くために挑発的な文体を選択したまでで、文化の優劣の主張、語学能力の自慢話などを意図したものではありません。

また、英語のみで文化一般を語る事、数年の駐在経験から文化全般を理解しているなど、私の極めて限定的な経験から一般論を主張する事に関して、批判がありました。これは全くその通りで、数カ国後を操れる言語エキスパート外国へ定住している人が、同様の主張をする事に比べれば、私の主張ははるかに納得性が低いと思います。ただ、英語の習得度合いに応じて、得られる情報の量と質が上がると共に自分の考え方や世界観が変わっていく感覚経験したので、その事のみを根拠にして書いています。この感覚の形成要因として、駐在経験ネイティブスピーカーとの深い交流などももちろん寄与していますが、独学である程度のレベルに達した時点で感じていた事なので、主に言語習熟の度合いと使い方から来るものと思います

最後に多かったのが、ここが一番大事な部分なのですが、語学学習目的である事を証明するつもりが、手段の証明になっているというコメントです。この批判は、文化理解を目的とすれば、語学学習は手段になるではないか、という事だと思います。完全に個人的な経験からますが、私は英語の響きが好きだとか、できると何かかっこいい、というような不純な動機で、ただ語学学習が楽しみながら続けてきた結果(英語目的として位置づけている)、上述のブレークスルーに至りました。グローバル競争で生き残るための英語などと言われます(英語を手段として位置づけている)が、そのような大義の元に若い人たちの語学学習奨励したり、興味の芽をつぶしたりするのは、何だかどこかの独裁国家のようで、違う気がするのです。語学学習のもたらすアートがのような強烈な世界観の広がりを踏まえれば、ただ語学学習目的とする事に対して、大人は寛容な姿勢を持つべきではないか、というのが一番伝えたかったメッセージです。

まり、こんな大人でなく

 大人:「なんのために英語勉強してんの?」

 若者:「何のため・・・うーん・・」

 大人:「私くん、目的なしの英語なんて無駄だよ。いいか世界グローバル化して(略)」

こんな大人が増えたら良いなあというのが私の願いです。

 大人:「なんのために英語勉強してんの?」

 若者:「何のため・・・うーん・・」

 大人:「私くん、語学を学ぶ事は良い事だ。きっと楽しい未来が待っている。がんばりたまえ!」

2013-01-26

具体的調査結果を否定する材料は憶測と奢りでは不十分。衆院選

http://anond.hatelabo.jp/20130126215752

具体的な世論調査数字を上げているのにそれを否定する材料が憶測と「説明すれば説が正しいと誰もが気付くはずである」という奢りと言うのはいただけませんな。それでも不満であれば、2012年衆院選の結果があります自民党公明党政権公約軽減税率の導入を公約に掲げ大勝しています。これが直近の民意ですよ。

説明すれば世論は変わるはずである…それなら「合理性の高い政策への納得度を高めるように説明を尽くすのも政府仕事」等と責任放棄せず説明して回ったらどうですか。知識不足から誤った選択をしている愚衆に英知を授けるのは導く使命を負った高貴なる知識人仕事ですよ。政治が実行しなかったのが悪いに並ぶ責任放棄論法で、「愚衆政治のせいである」と言うやつがありますがこれに陥らないように願いたいものです。

私は学問的にシンプルに形式化されたものと違い、現実のあらゆる利害や感情関係している世界において、ある論の正しさを説明する事で世論を動かすことは無理であろうと考えています。ましてや消費税に対する軽減税率論では、高い消費税を導入している国で軽減税率を導入していない国がほぼ無い事実や、日本生命レポートにある事情なども、説明したところで大きく意見が動かない事を示しています。我が国はそれらと違い説明すれば世論が変わると言うそ意味が分かりません。

これがその説が正しいかどうかと言う内容とは関係が無い事を示します。学問的にはすべてニュートラルに、はじめから考える事ができますが、現実の政策は現時点の状況を踏まえ、一番良いと思われる所に持っていく必要がありますベストを目指して正しさと合理性を説くよりも、ベターを目指して最大公約数を目指すのが現実的であり、そういった現実で可能かどうかを考えた政策こそが求められているのであって、それらを考慮していない机上論は意味を成さないでしょうね。

軽減税率にも擁護論はある

軽減税率にも擁護論はある

はいっても推進派にとって残念ながら、逆進性の改善によるものではない。

軽減税率の逆進性改善有効性の低さは折り紙つきで、費用にぜんぜん見合わないというのは多くの研究で一致するところである

軽減税率に対する擁護論

の3点から来る。

ラムゼイルール ~ 贅沢品に軽減税率適用すべし

需要価格弾力性が高い財ほど低い税率、需要価格弾力性が低い財ほど高い税率をかけることが社会厚生上のぞましいというルール

簡単にいえば、値段が上がっても購入する量を減らせない生活必需品ほど高い税率をかけるべきというもの

すると、税金をかけることによる人々の財の購入計画に与える歪みを小さくできるので、税による社会厚生の損失も小さくできる。

まり「こっちの商品は税金が高いから買うのをやめて不本意だけどあっちの税金の低い商品にするか」といった税の存在によって人々の判断が歪むのを極力防げるということ。

自家生産から市場での購入への変更促進 ~ クリーニングレストラン、理髪店に軽減税率適用すべし

クリーニングなど自分で作業可能なサービスや、自分生産可能な財の税率が高くなると、

クリーニング店に持っていくのをやめて自分洗濯を済ませてしまおうとする人が出てくる。

しかし、クリーニング店でまとめやった方が分業による効率化が働くため社会全体ではのぞましい。

そこで、クリーニングのような自家生産可能な財・サービスに関しては軽減税率適用し、分業を促進すべきということになる。

まり、やろうと思えば自分で出来てしまうような、市場での購入の必需性の低い財・サービス軽減税率をかけるべきということ。

クリーニング以外にもレストランや、近頃ではセルフヘアーカッターの売れ行きが伸びていることなどからすると理髪店・美容院などもこれに入る。

正の技術外部性 ~ 教育医薬品エコカー新聞軽減税率適用すべし

誰かが消費を増やせば、それが市場を通じることなく(消費を増やしたことで誰かの給料が上がって景気が良くなって・・・といったものなどではなく)別の人のメリットになるのであれば、

そのような財・サービスに関しては軽減税率適用し、消費を促した方がのぞましいというもの

具体例を挙げれば、マスク軽減税率にすれば咳をして風邪ウイルスをまき散らす人が減って他の人も助かるね、といったもの

教育医薬品エコカー省エネ製品などが代表例。日本新聞協会新聞軽減税率にするべきと言うのも、この点から合理性がある可能性がある。

まとめると

贅沢品やレストランエコカー省エネテレビ軽減税率をかけろという、おそらく軽減税率の信奉者が受け入れらない結論が出てくる。

逆進性対策は別の形でやりましょう。

ところで

不公平"感"をどうするかが大切?合理性に欠けるものゴリ押しされることに対して不満"感"を抱く人も多いってことですよ。

逆進性がほとんど改善しないものを逆進性対策としてやられて、実際の生活改善しないのに不公平"感"が小さくなったね良かったね、とされては生活に困りきってしまう人もいる。

それに、やってから問題が噴出すれば手のひら返しで文句を言いたくなるのが人間の性。一時のアンケートで近視眼的に決めるより、合理性を重視した方が長期的には納得度高まるものなんです。

から政府審議会を重ねに重ねて政策の合理性を高める努力をしてるいるわけよ、世論はこうだからこうしますみたいな手抜きのお仕事をするのではなく。

今の人気が高い政策をただ選ぶのではなく、合理性の高い政策は何かに熟議を重ね、そうした合理性の高い政策への納得度を高めるように説明を尽くすのも政府仕事

http://anond.hatelabo.jp/20130123154647

 
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