はてなキーワード: 高木正勝とは
私はアラフォーの自営業だ。音楽を作って生計を立てているので、わかりやすく「作曲家」を名乗らせてもらっている。
大学在学中からこの仕事を始め、貧しいながらも細々と仕事をしてきた。
代表作はない。誰も知らないソシャゲやコケたアイドル、名前の出ない地方CMやyoutube広告等の「誰もやらない」仕事をずっと続けてきた。
次の5年はどんどん成功していく同世代の作家に多少あせりを感じつつも、精一杯仕事をした。
そしてこの5年間。ただただ惨めで、つらかった。
アニメ曲や主題歌のコンペは知り合いのディレクターさんから回ってくる。
10代の作家や、年配でもまだ若い感性の先生方に混じり、自分が戦えるはずはなかったが、それでも「継続は力なり」「努力こそ正義」を信じ、たくさんの曲を作った。
自分の関わるプロジェクトはすべてリリースされることなく破綻したり、不祥事がありなかったことにされたり、無事リリースされても誰も聴いてくれず、youtubeにあげられたMVの再生数は悲惨なものだ。400再生とか。
ショットの発注の音楽を10万円で買い取ってもらい、それを15年間延々と続けてきたのだ。
何の人脈も、スキルもない。
でも音楽が作れるのでは?
残念ながらそれも違った。
発注はいつも「きゃりーぱみゅーぱみゅぱみゅみたいな感じで」「高木正勝みたいな感じで」と本家に発注すると高いものを、廉価版として自分のところに1/10の値段で来るのだ。
誰もライブには着てくれず、自費で出したCDは売れない。大量のダンボール箱の在庫である。
音楽は才能がなくても仕事ができる、を自分を通して身をもって感じる、惨めでつらい15年間だった。
16年目で成功するかもしれない。
そんな甘い夢を見て1年、また1年と続けてきたが、15年で限界です。
私は、退場します。
http://shiba710.hateblo.jp/entry/2016/09/14/122251
この底の浅いヒョロヒョロな評論考察を読んでイライラしてしまった。ライターが仕事ほしくてケツにローション塗りたくって新海と川村と野田にケツ差し出して媚びてるようなヌルヌル文章だよ。こんなの。
まあネットを巡回して色んな意見をまとめて自分の考えをたとえ薄っぺらい内容でも分かりやすく主張して言っているという部分ではローションライターとしてはいい線いってるんじゃないか。
で、内容は
東浩紀や渡邉大輔とかはリア充性に注目しているけど、そうじゃない、エンタメ技術論なんだと。うん。その方法論の実現のためにRADWIMPSという存在があると。うん。で、そういう組み合わせを仕掛けた川村元気が天才的なんだと。ううん?
ど、どういうことだろう。一体この人は何を言ってるんだろう。
>こういう風にお互いに共通する世界観、作家性を持つクリエイターを結びつけるのが、まさに「プロデューサーの仕事」なんだなと思う。そして、「音楽×映画」という観点で見ると、川村元気という人はいろんな実績がある。
中略
>高木正勝や山口一郎や野田洋次郎や中田ヤスタカのような作家性の強いアーティストに「映画のための音楽」を作らせる手腕。さらに主題歌と劇伴を同じアーティストが手掛けることによって、映画と音楽が密接に関わりあう作品に仕上げる手腕。そのあたりは、『バクマン』や『君の名は。』や『何者』に共通する、川村元気のプロデューサーとしての天才性だと思う。
おうおうおうおう、いぇいいぇいえいぇい。そうね。はいはいはい。
なんか知ってるなあ。こういう物語と音楽のあり方、なんだっけなあ。昔あったな~、同人誌のタイトルで、椎名林檎とかcoccoとかポルノグラフィティとかの曲名を同人誌のタイトルにしたりさあ。自分の好きなカプのテーマ曲を脳内設定したりあったなあ。つか今でも見かけるなあ。
結局川村元気においての映画と音楽なんてのはこういうことを東宝のプロデューサーとしてのスケールでやっているだけで、天才的な手腕でも何でもない。ただの凡庸さゆえにより大きなマーケットに向けての仕事ができるというだけです。村上春樹聞きながらレディオヘッドとか聞いてる学生と似たようなもんなんです。たぶん、人脈つくりや人と仲良くなることが得意なんでしょう。どうでもいいことですが。
本題なんだけど、もうさ、君の名は。の褒め文章、どれもこれも高校生のポエムみたいなのでうんざりする。なにがちょうちょ結びだよ。テーマが結びだ? んな程度のことたいていの物語系のコンテンツで君の名は。以上の水準でやってるよ。挿入歌の歌詞の考察でアニメ映画の評論かいな。さらにそんなスッカスカの考察のアホみたいな文章にブコメで称賛するスーパーアホもわんさか。こういうアホどもをあぶりだしたことが君の名は。の最大の達成かもしれんな。あと褒めるべきは、中高生をひたすら甘やかしてうっとりした気持にさせるためだけに日本のアニメシーンで最高峰の人材が浪費されたのは虚しいこととはいえけっこうな金儲けになったことだけはまあ褒めてもいいだろう。問題はそんな映画についてクソポエムを書いてしまう連中とそれにくっついていくクソオタ。
チャーリーのポエムに続けて40のオッサンが「ここはまさに同意」じゃないんだよ。
君の名は。に前史みたいなものがもしあるとしたら、適当に今考えつくだけでも、書けるだろう。
そして新海誠が作った山崎まさよしのPVになってしまったような秒速5センチメートルが公開されたのは2007年、ハルヒダンスなんかも当時の中高生にとっては重要なのかな。適当に言ってるだけだけど。
つまり、アニメ文化とPV的映像センスの親和性と消費者のリテラシーがこの10年間でとんでもなく浸透し、上昇した。具体的には、自己像を架空の世界、二次元キャラアニメ世界に没入させる技術が今の10代20代はそれ以前の世代と比べて圧倒的に優れているわけ。
そしてさらにカゲロウプロジェクトや告白実行委員会、ボカロ小説といった、若者向け物語文化がさらにそういうPV的な音楽と物語の需要にさらに拍車をかけた。
はっきり言って、やってること同じでしょ? 君の名は。とカゲプロとかずっと前から好きでしたとかって。新宿感はストリート感に対応しているし、青春ドキドキ胸キュンストーリーだし。
震災をダシにしつつ実際は自分の恋愛の成就にしか興味がないウスラバカのための映画で子供の背伸びにもピッタリ。
というのはまあクソオタ向けのまとめであって、なんでこんなとてつもないヒットしたかって、結局のところ新海誠のくどい撮影のキラキラ画面というのは、大衆にとって衝撃的な画面として映ったってことでしょう。しかも、描かれているものはスピリチュアルでスケールが大きい。ただ素朴に、「え~。アニメでこんなにキラキラした画面初めて~。すご~い」ですよ。それを映画館の大画面で見るんだからカルチャーショックでしょう。物語の内容がアホみたいな間の抜けた王子様とお姫様のきっしょいラブストーリーだとしてもね。べつに中高生がうっとりするのにはそれでいいんですよ。(本当はよくない) 問題はそんなのでポエムしちゃう連中。
田中将賀のパンピ向けデザインが安藤雅司ほかのとんでもない水準のリアリズム超作画で青春ドキドキ胸キュンストーリーが、実際の物語としての出来はともかく、予告だけ見てたらとんでもなくヘルシーで健康的な印象でしょ。そういうただひたすらキュンキュンときめきたいっていう大衆の眠っていた願望を呼び覚ますには充分すぎる画面を提示することができたわけ。本当にただそれだけなの。凡庸な物語センスの新海誠と凡庸な音楽の仕掛け人であるところの川村元気のセンスが大衆向けの子供だましクールジャパンアニメの到達点として結実したというのが妥当な見解でしょうよ。
物語コンテンツの需要における文脈や楽しむための作法には積み重なっていく歴史があるんだということさえ理解できないバカが大量宣伝を大衆向けの物語でやったから川村がすごいんだと単細胞な意見でつっかかってるんだね。ガンダムとマクロスをたとえに出して、君の名は。とカゲプロが似てると思うのは老いだぞ、とか。このエントリの文意さえ読み取れてないみたいで、これはバカでも分かるように書かなかったこっちが悪いのかな。それともバカなのが悪いのかな。
君の名は。をバカにされて頭がフットーしてる人、ケチつけられることがつらい人にオススメなのは川村元気は他所の畑で実った果実を自分の畑で植え直して大衆に売ることの天才とでも思っとけば川村でも天才扱いできるからいいんじゃない?
こっちはライターがフェアな関係であるべき対象を天才とか軽々しく言い出したのがイラついただけなんでね。
文脈なんて前提だよって人もいるけど、だったらライターはその文脈を歴史として記述しなきゃ。ポエムなんかよりも。
なぜヒットしたのか? 天才プロデューサーの仕事だからでありますって。ちゃんちゃらおかしいよ。ライターがプロデューサー褒めそやしてバカな素人がそれに乗っかって「これが君の名は。の正しい評論だよなあ」って好きなもの同士の特権意識で頷き合ってる気持ち悪い構図になってるんだがら。
このライターの人も君の名は。をRADWIMPSの音楽で読み解きたいんじゃなくてただ取引先ともっと仲良くなりたいってだけなんじゃないかなあ。業界の仕組みなんて知らないけどさ。
お盆休みも終盤の昼間の新宿で家族連れに囲まれて観ていていたたまれなくなったので書く。
出てくるキャラクターがどうも好きになれない。顔の描き方も好みじゃないし、それ以上に主役の宮崎あおいちゃん演じる花(以下あおいちゃん)が何考えてんのかわかんない。キャラクターとしての魅力、リアリティーがなさすぎて。
この映画の問題はあおいちゃんが健気で善良でどんな困難にも立ち向かえる女の子という設定に頼りすぎていている所にあると思う。
客観的にみれば人知れず自宅で出産した外に出せない子どもを2人抱えつつ、近所から通報されて児童相談所の人が来て死んだフリーターの旦那が貯めた貯金だけを持って山奥へ逃げ出すという、なんとも独りよがりな状況であるのに、周囲との接触を自分から取ろうとせずに健気に田舎暮らしを始めたらなんとなく上手いこと手助けしてくれる人達が現れてうまく生活しているし、移住することに決めた廃屋の近所にはたまたま勝手に見守ってくれる菅原文太がいる。芋のおすそ分けから村の互助社会に参加するくだりでは、人里離れて暮らすことを目的として村との交流をする覚悟のないあおいちゃんが健気な姿をみせることだけを頼りに菅原文太に認められて話が進んでいく。この辺りはあおいちゃん自身にはなんの変化も無いのに、事は順調に進んでいくわけでどうにもこうにも都合が良すぎると思う。もしあおいちゃんの意思で周囲と交流して生活を営んでいく話にしたいのなら、健気さだけでなくそれまでの孤立主義を改心して自発的に関わっていくエピソードや身を削っていくエピソードが欲しいし、受動的に関わるのなら田舎ではもっと厄介なことを抱え込むのが常だと思う。独身男がつきまとってくるとか、村に居つかせることを前提に勝手に見合いさせられたりとか。
で、あと他にも問題だと思うのは、子育ての大変さがちゃんと描かれてないんじゃないかというところ。一連の子育て描写では誰にも頼れずに2人のこどもを保護して養っていく苦労や重圧はあおいちゃん1人にかかっているはずなのに、オオカミであることの苦労は描いてもシングルマザーである事の苦労は描かれない。動物園の檻のオオカミに相談したりはするものの、あおいちゃんはなぜかずっとニコニコしながら良き母としての態度を崩さない。たった1人で子育てをしているのに、その大変さや葛藤が単なる健気さに覆い隠れてしまっていて、子育ての重要な側面がみえないので、感情移入できないわ。その辺りのシングルマザーの苦労の描写でいえば、最近だと塚本晋也のKOTOKOが良かった。孤立して育児をしていくことでノイローゼで精神的におかしくなっていくcoccoのように、右手に焼け焦げる中華鍋と左手に泣き叫ぶ赤ん坊を抱えて途方もなく泣き崩れてしまう。そこまで追い込まれるまではいかないとしても、そんな医学的にも何者か分からないこどもを抱える不安、そんなシーンがこの映画にも欲しかった。
あとおおかみ男と結ばれたくだりは少女漫画も真っ青な純愛物語風になっているけれど、オオカミ男には社会的なケアを一切受けずに2人の子どもを設けて養っていく覚悟があったとは思えなくてなんだかなあって思う。もしオオカミ男にその覚悟があったとするならば、どうして本能を抑えずに街中で狩りをして川で死ぬことを選んだのだろうか。大学の講義に潜ってソクラテスがどうとか勉強するよりも、自分の本能との付き合い方を学ぶべきでしょうが。
この無責任さのしわ寄せが結果的にすべて母になったあおいちゃんに行ってしまっていて、あおいちゃんは不憫でならないはずなのに、2人の関係が単なる美談になっているのが腑に落ちない。
あとは音楽の使い方も好きじゃない。美化された田舎・自然にさわやかオーガニックでダイナミックな音楽を乗せればさも感動的なシーンになると思っている。この久石譲風の高木正勝がこの映画のなんとなく感動的な雰囲気に盛り上げる主因だと思う。
以上、長文になったけど、俺が一番言いたいのはこれ。
オオカミでフリーターのくせにあおいちゃんに中出ししやがって!!しかも1人ならまだしも2人目も作る所なんてまるで無反省!
俺は高岡蒼甫を許さない!