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2023-04-29

anond:20230429112516

いなづぎくう【稲津祇空】


江戸中期の俳人大坂の人。別号,敬雨等。はじめ惟中門,のち其角の門人。宗祇に私淑,句風は平明で法師風と呼ばれ,四時観や五色墨の連中を指導して中興俳諧先鞭をつけた。


2021-05-11

細野晴臣存在しない世界での音楽シーン5月19日追記

タイタニックで日本人乗客の生存者がいなかったら日本の音楽シーンは変わっていたかもしれない - Togetter

タイタニックテレビ放映してるのを息子が観ている。ちなみに日本人乗客生存者、細野正文の孫が細野晴臣なので彼が死んでたら、はっぴいえんども、Y.M.Oもティン・パン・アレーもなく、そこから大瀧詠一松本隆荒井由実松任谷正隆という当時の音楽シーンが繋がらなくなるという話。


はっぴいえんど…旧知の大瀧詠一鈴木茂松本隆小原礼で結成。バンド名は大瀧詠一が『多羅尾伴内楽団』と命名する。松本は元々ジャックスの影響を受けていたため、日本語詞を手がけることになるが、そのタイミングは1年ずれる。いわゆる「日本ロック論争」は、同時期に登場した『あがた森魚はちみつぱい』のあがた森魚や、元『ザ・フローラル』(細野がいないため、『エイプリル・フール』とは改名されていない)の小坂忠(『小坂忠フォージョーハーフ』)も巻き込まれる。

キャラメル・ママティン・パン・アレー鈴木茂が『フォージョーハーフ林立夫松任谷正隆駒沢裕城・後藤次利)』に合流するが、バンド名を変えなかったため、四畳半フォークを嫌う(フォージョーハーフ四畳半荒井由実無視される。吉田美奈子金延幸子のバックを務めて評判となる。

荒井由実…1stアルバム紙ひこうき』でバックを務めるのはムーンライダーズマニアックコード進行演奏で大ヒット。

Y.M.O.…当然結成されるはずもないが、坂本龍一松武秀樹に、A児(あがた森魚)・矢野顕子を加えた電子音楽テクノニューウェーブユニット世界を席巻。先鋭的でニューウェーブ色が強く、日本にもニューウェーブブームが巻き起こる。ここで坂本矢野出会い矢野離婚坂本との結婚というイベントが発生。

高橋幸宏高中正義バンドドラマーとして世界進出

P-MODEL坂本/松武/A児/矢野路線とは一線を画した音楽展開で「ジャパニーズテクノ」の代名詞となる。

FILMS…ヒカシュープラスチックスと共に「ニューウェーブ御三家」と呼ばれる。

遊佐未森カルト的人気を誇ったFILMS・外間隆史プロデュースし、中原信雄も深く関与していることから、「ニューウェーブ歌姫」として人気を得る。

安田成美細野からあん音程の取りづらい曲を提供されることがなくなり、歌が「風の谷のナウシカ」の劇中で流されるが、特に上手というわけでもないのでかえって印象に残らず、芸能界から消えていく。

5月19日追記

星野源細野晴臣に私淑できないから、たとえ音楽シーンに携わるとしても今のようにはなっていない。必然として新垣結衣星野源結婚せず、別の誰かと結婚している。つまり、その「別の誰か」は、細野晴臣が存在したことによって、新垣結衣結婚する機会を失ってしまい、しか当人もそのことに気づくことができない。

思いついたら追記する。

2021-02-05

女だけど「女子」じゃないと思う女子高生

私は女で、高校生です。ちなみに星野源が好きです。私淑してます

私は自分のことを「女子」だとは思っていません。女だけど「女子」じゃない。(初投稿

私は趣味や考え方がどちらかといえば男っぽい方だと思います工作とかパソコンとかが好きですし、感情よりも理性を優先して物事を決めたいです。家庭科より技術文系じゃなくて理系物理選択)。

女子」が嫌いなわけじゃありません。感覚理解ができないだけです。

一緒にトイレに行くのとか、「掃除行かなくてもいいよねー」と仲間内サボるのを認め合うのとか、グループでの決め事で絶対「どうする〜?」から初めて絶対自分意見を言わないとか、とりあえず「かわい〜」とか、とりあえず謙遜するとか、変って言わず個性的って言うとか。人を傷つけないコミュニケーションというか(自分も傷つかない)(本当に仲良い人の間では別かもしれない)。私には理解できないけど、考えがあってやっていることだから否定はするべきじゃないとわかってはいます。(でも毎回、もっと合理的にやろうよ、と思ってしまう)

でも、周りの女には自分と同じような価値観の人があまりいません。ましてやメディアなど目立つ場所で、自分と同じような価値観を持っていると期待できるような人をあまり見かけません。

なんなら世間から「「女子」の思考」を押し付けられているような気がします。雑誌の表紙なんかが特にそうだと思います。まあこれは好きじゃないなら買わなければいいだけの話かもしれません。

なぜ「女子」の思考押し付けられているように感じるかというと、自分は女で、「女子」に属しているはずなのに、精神的には自分の居場所はそこじゃないと感じるからです。

まり、なんで表面上の特徴で内面まで規定されないといけないの?おかしくない?ということです。

ーーー反省ズラのエゴが顔を出す

めっちゃ被害者ヅラして申し訳ありません。男友達を作ればいいだけですよね。

でも、こんなに女子が無理とか言っている割に、小学校の時からずっと女友達だけの人間関係で生きてきちゃったので今更どうやって話したらいいかからないんですよね(ただのコミュ障)。

女子とでも男子とでも明るく話せる人が羨ましいです。「女子」の集合に属しているのにそのしきたりに従わなかったのが、今こうなっている原因な気がします。従わないなら従わないなりにほかのコミュニケーション方法模索するべきでした。馬鹿だった。

引っ込んでいくーーー

かに、「女子」という大きな集合に含まれているっていう安心感は絶大です。人類の二分の一。それにいちいち考えなくていいから楽だし。でも、そこが絶大だからこそ、心では含まれていないときの心細さがすごいんだよ!!!!わかっておくれ


で、世の中に何を求めているかというと、「女子」括りをどうにかしてほしいんです(こういうのは「私はこうしたい」とするべき?)。「女子」だからこう考えるでしょ?と言って発信する「女子」に、「女子」に含まれない(と感じている)女を認知して欲しいんです、理解できなくてもいいから。

価値観を外面で決めつけないでほしい。内面から純粋に思うことだけで決めさせてほしい。例えば、これはもう古いのかもしれないけど、青が好きだけど女だからピンクにしておこうかな、とかそういうことを後の世代に思わせてはいけない(思いたくなかった)。一回外面で内面規定されてしまうとそういうものなのかなって(純粋から)思って、自分が心から(genuine)好きなものがわからなくなっていってしまう。そうして画一化していく。

せっかく戦後かになってきたんだから物質的な豊かさ(≒自由?)だけじゃなくて精神的な豊かさ(≒自由多様性?)も認めていこうって感じだよね、世の中。だからもっとばらばらになりたい。

私はあなた存在は認めるし、基本的な愛は持っているけど、でもどうでもいいや、ご自由に。っていうスタンスで、もっとばらばらにならないかな。ばらばらがスタンダードにならないかな。

ーーー星野源ギターを持って登場する

世界は一つじゃない ああ そのまま ばらばらのまま 世界は一つになれない そのままどこかにいこう」

去っていくーーー



(書きたいことが右往左往してしまいました。無理矢理ばらばらを持ち出してねじ伏せた感がすごい、、、初投稿ということで許されたし)

2021-01-12

ボルヘスとは百田尚樹だったのだろうか

俺はアルゼンチン作家ルイス・ホルヘ・ボルヘス私淑しているのだが、

この人は軍部独裁政権を支持してしまったというとてもとても痛い経歴がある。

かなりわからずやの保守的態度だったと聞いている。

もし、現代に生きていたらツイッターとかでどんなこと呟いていたんだろうか。

生きていなくてよかった(不謹慎

2020-06-14

自転車に乗れなかった若者たち

筑摩書房版の堀辰雄全集第4巻には「Ein Zwei Drei」という随筆が収められている。中村眞一郎福永武彦に関する思い出を堀辰雄昭和21年に書いた話だ(発表当初は「若い人達」というタイトルだったらしい)。

堀辰雄私淑していた2人は軽井沢まで堀を訪ねて来た折、自転車に乗る練習をして自転車ボコボコにしてしまうのだが、それは奥さん堀多恵子)の自転車だったという話だ。

当時この2人は10代後半か20代だったはずだが、それまで自転車に乗れなかったわけだ。昭和初期の人は子供の頃に自転車練習をしなかったのか。

ちなみに、堀辰雄全集編集者中村眞一郎福永武彦の二人だ。どんな話をしながらこの一編を全集に入れたことだろうか。


或る夏、軽井沢で二人揃って自転車稽古をはじめたことがある。僕の家に遊びに来ていても、自転車あいていると、どっちか一人はかならず庭でその稽古をはじめる。中村はそんなスポルティフな事はぶきっちょそうなので、福永のほうがうまくなるかと思っていたら、反対に中村の猛練習が功を奏して、先きに乗れるようになってしまった。それを見ると、福永はそれっきり自転車は断念したようだった。––そのとき一番ひどい目に逢ったのは、僕の妻の自転車だったろう。二人のおかげで、すっかりハンドルが曲がり、ペダルが踏みにくくなってしまったと言って、こぼしていた。(まあ、けちはことはいうな。)

(「Ein Zwei Drei」旧仮名遣いと旧漢字を変更した)

2019-08-13

弟子が語るマミ師匠の思い出

それはつまり

マミー石田とそのフォロワーネタでやっていた

嫌韓厨当人主観では大真面目で真剣

という話でしょうか

うーん?

いや、俺の言ったことそのまま受け取ってよ

ゆがめてまとめず


マミーという釣り

マミー本人は露悪的な釣り師だったと思うけど受け手の大部分は本気で気分悪くなってた(俺含め)

技術的な意味エポックメイキング的な釣り師だったのよ

(彼の手法は薄く広く広まって陳腐化したけど、技術自体は今の基準で見ても高かったと思ってる

 釣り煽り文化自体進歩どころか衰退してるからね)


マミーはひたすら醜い悪として自己表現してたし、受け取る側もそうだったの

強いとかかっこいいサグという消費なんかなかった

マミーの影響で高卒差別はかっこいいといいだす奴」なんていないの


天才理念は伝わらない

ドキュンという言葉自体も(マミーの高い言語センスのゆえに)広まったけどぜんぜん違う意味になってるでしょ?

今ではチンピラ的な迷惑行為を働く悪人のことをドキュンという

悪人のことを罵る、これは共感されやすいことであってマミーではない

マミーはむしろ「まじめに生きてるけど高卒なので浮かばれない人」という憐れというべき人物像をドキュンとしていた

かにかわいそうな同情されそうな人をおまえが高卒からそうなるんだ高卒なのが悪いといっていじめる、それがマミーの芸風

この違いがわからないなら長々説明しても徒労になるんだけど

荒らし釣りにおいてはここの差を理解して注目できる程度の頭脳必要


要するにマミーは高い釣り力という力の跡だけは残したけど理念的には全然フォローされてない

それ以前に理解もされてない

俺みたいにマミーに私淑した人間けがマミーを理解して今に至るまで覚えてる

きみはマミーを全然理解しなかったので記憶自分の今の理論に都合いいように変質してしまってる

(というかほんとにマミーを見たことあるの?というとこから俺は疑ってるのだけど)


繰り返し言うけどマミはいいとこの大学生でも気分が悪くなるつくりになってた

ツッコミどころの多いプロフィールとか全然かっこよくない顔写真とか、

マミーの釣りの全ては自身をみっともないむかつくやつとして憎ませようとしてたのであって、

ダークヒーローになんかなろうともしてなかった

マミーの差別を見て「差別はかっこいい」なんていう人間はいなかった

マミーのメソッドをきちんと真似して吸収できるのは俺のような自覚的掲示板荒らし志向者だけなので

有象無象には無理だし、現にメタ観測者気取りのきみですら無理だろ?


嫌韓厨悪漢の自認などしてない

そして嫌韓厨は当初から不謹慎ネタ」とか「やばいこと言っちゃう俺等かっこいい」とかい自意識など持ってない

彼等についてはそれこそ「ネットde真実」という揶揄のほうがきみの頓珍漢な理解よりはよっぽど事実に近い

嫌韓厨韓国人のことをシリアスな脅威と感じていて、戦わなければいけない、知らせなければならない、と使命感持ってた

彼等は真剣だったし韓国人を無力で可哀想存在などと定義してもいなかった

マミーの釣りとは何もかもが違う


バカじゃなければ誤解するわけもないことを念の為に言っておくが

俺は「嫌韓厨の中に差別はなかった」と言ってるわけじゃないぞ

だがマミーの差別全然種類の違うものだということはいえ


かにマミーの自称した年収1500万のマンハッタン不動産王とかいう経歴は、当時からネタ扱いしている人がいた

何を「自分も覚えてる」みたいに話を合わせてるんだ

俺はきみのことを最初から疑ってたのでマミーの自称フェイクを混ぜたがきみは突っ込めずに引用した

ゲームオーバー

きみはマミーをリアルタイムで見ていないし空気を感じてもいない

それどころか、そもそもきみはマミーのサイトを隅々まで読んですらいないだろう


まとめ

きみのネット理解は滅茶苦茶であり、マミーについての記述デタラメの極みだ

まりにも歴史修正的なマミーの記録は許せないので突っ込ませてもらった

anond:20190812223617

2019-02-23

anond:20190223115424

本宮ひろ志宮下あきらとか、それなりにある気がするなー。

大友克洋鳥山明エピゴーネンは直接の子関係ではないけど精神的な弟子だね。私淑している。

あっあと青木雄二東風孝広カバチタレ)もあるか。

名探偵コナン作画青山剛昌じゃないのもあるけど、ああいうのは元の絵に似せるのが大事から違うか。その作画の人がオリジナルを描くとき青山剛昌の絵柄を真似る必要はあまりない気がするね

2018-11-18

anond:20181118041941

一見いい話だがこれは間違いだ。

結局「独学して私淑してラブレター出せ」

日本中でどれくらいの博士課程の人が行方不明になっているか知っているか

この前福岡焼身自殺した人のことを忘れたか

そもそも旧帝に入れないような人が独学で世界トップに出られるのか。そんな訳ない。

少子高齢化産業空洞化日本大学未来はないのでそんなことをしても人生無駄にするだけ。

それより国内なら専門資格の取れるキャリアパスを見据えて早く卒業するほうが良い。

弁理士でも薬剤師でも建築士でも会計士でも。

いわゆる学歴は大したことなくても安定した稼ぎになって幸せな人たくさんいる。

2017-12-22

ネット上で有名になりたければ私小説を書きなさい

あ? 私小説? どうせ、実生活体験の幅が狭い作家が、どうでもいい身辺雑記を延々と書いた文学のことだろ? くっだらねぇ。

というふうに自分は思っていた。

で、私小説をいくつか読んでみた。

食わず嫌いの先入見は、まちがいだった。

私小説面白い

下手なエンタテインメント小説より、全然面白い

なにが面白いか。

私小説は、主人公馬鹿で、下衆で、これでもか、これでもかというほどに生活がどんどん下降していくさまが、ある種爽快なほど露悪的に書いてあること、

そしてこれが事実であるかもしれないという期待を読者に抱かせながら、虚実入り混ぜて物語が展開されること、

ではないかと思う。

主人公失業して貧困に陥ったり、男女関係で泥沼にはまったり、酔っ払って人に迷惑をかけ、誰から相手にされなくなっていくごとに、読んでいる側としては、変なカタルシスを感じてしまうというか。

で、ネット上で有名になって、お金も欲しいという人は、もっと私小説的な文章を発表してけばいいと思う。

ネット上で炎上してきた(している)話題は、当事者主人公にして、私小説仕立てにしてみると、もっと面白くなりそうなものばかりだ。



ネット上の有名人が、ネット以外でブレイクすることを妨げているのは、彼ら(彼女ら)が、小賢しいことだ。

小賢しいとは、自分の失敗や品性の低さを指摘されると、取り繕ったり、反論したりして、自分を分相応以上に賢く見せようとするということだ。

こうすることにより、彼ら(彼女ら)は、いっそう小者に見えてしまう。

まりコンテンツとしてつまらないものに見えてしまう。

コンテンツとして自分価値を最大化したければ、大正昭和私小説作家のように、あるいは現代西村賢太のように、卑小さを卑小さのままに、破綻破綻のままに描き出し、そのことから生じる業を生きるほうが、じつは戦略としては賢いかもしれないのだ。

私小説は儲からないのだろうか。

では、私小説芥川賞を取った西村賢太の近作を見てみよう。

サッパリ自著は売れないながらも、昨年の彼の税務署への申告額は、小説関連の収入と、作家肩書あっての各種アルバイトで、それでもx千x百万円になっていた。汚ねえ身なりをしているからと云って、そう容易く浮浪者を見る目で眺めて欲しくはないのである

(「芝公園六角堂跡」)




これをフィクションと受け取るかどうかは、読者次第だろう。

炎上芸人炎上芸人のままで終わる必要はない。もっとコンテンツとしてのポテンシャルがある。金銭的に報われる可能性がある。自分人生コンテンツとし続けることの業を生き続けるだけの覚悟があれば。

おすすめ私小説


葛西善藏 『浮浪』

http://www.aozora.gr.jp/cards/000984/card3212.html

「近所の借金がうるさくて仕様が無いので、どこかに行つて書いて来るつもりだ。……大洗の方へでも行かうと思ふ」と言い残して主人公東京を出て茨城に行き、知人のつてを頼って旅館に逗留するが、そもそも宿代を持ってきていない。知人が何とか融通してくれるだろうと最初から当て込みながら、居座る。

知人は当然のことながら激昂し、旅館からは宿代をつけにしたまま追い出される。

有り金がないまま次々と宿を変えながら茨城をさまよう話なのだが、最初はちゃんとした旅館だったのに、しだいに宿のグレードが下がっていって、最後ドヤ街の宿のような木賃宿で弟の送金を待ちながら、身につけたものをどんどん質に入れて裸になっていくところが笑える。

嘉村磯多 『途上』

http://www.aozora.gr.jp/cards/000249/card49655.html

馬鹿不細工貧乏であることに強い劣等感を持っている主人公中学時代を描いた作品。恥ずかしい過去を思い出して悶絶するときのシーンはとくに秀逸。

「あツ、あツ」と、私は奇妙な叫び声を発して下腹を抑へた。両手の十本の指を宙に拡げて机の前で暴れ騒いだ。

「何を気狂ひの真似をなさるんです。えイ、そんな気狂ひの真似する人わたし大嫌ひ」


私淑していた葛西善藏の気狂いっぷりを書いた『足相撲』もあわせて読みたい

http://www.aozora.gr.jp/cards/000249/card1337.html


西村賢太 『蠕動で渉れ、汚泥の川を』 『(やまいだれ)の歌』

ミハイル・バフチンカーニバル文学と読んだドストエフスキー作品のように、これ以上ないほど気まずく不謹慎破綻の場面を職人的な巧みさで書ききるようになった著者の近年の作品はすべて必読。

2017-06-27

棒銀って強いんだっけ

https://anond.hatelabo.jp/20170626192037

こんばんは、id:sugimurasaburo さんからIDコールいただきました。ありがとうございます船橋海神id:cj3029412)です。本職はねこちゃんの保護趣味ブログで嘆くこと、在野で中世古文特に助詞助動詞研究を行っておりますキャッチフレーズは「(´;ω;`)」「でかいです」。将棋も大の好物です。

以下は私の私淑する大野晋先生およびその決定的名著/集大成であらせられますところの(敬語誤用)「岩波古語辞典増補版」(2016/1/12補訂版第23刷)に依ります

よろしくお願いします。

けりの基本性質=回想の助動詞

加藤一二三という男、ありけり」を訳してみましょう

(A)~(D)は上の引用解説を便宜的に分類した符号。【訳】は私のもの(一部、戯れ)です。

失礼かどうか

元増田氏の理解(「加藤一二三という男がいたそうだ」)(「伝聞の過去」になるんじゃないだろうか?)とは少うし違いますけれど、私も第一感、失礼…というか、そんなに遠い昔の話だっけ、という印象です。端的にいえばアホバカクズ受信料払わねえぞと申し上げています

現代語に残る「けり」

ちょっと一休しましょう)ちなみに、この日記に私が付けたタイトル「強いんだっけ」の「け」がそうです。「けり」の「り」が落ちました。

もし強引にありえるとしたら

米長邦雄永世棋聖くらいでしょう。米長先生が戯れに「加藤一二三という男、ありけり」とおっしゃる、これはありえます。「君たちは知らないだろうが、私もいま思い出したのだが、加藤一二三という男がいましてね」あるいは「あら、こんなところに加藤さん、(ずっと)い(らっしゃっ)たんですね(気づきませんでした)」。しかしこれも(ジョーク以外では)無理がありますね。ありえるとしたらかなり特殊な状況ということです。

(参考) https://www.youtube.com/watch?v=pr6-Bv3RVTw

場合によりけり」の「けり」

https://anond.hatelabo.jp/20170626193212

トラバ増田氏、慧眼です。古文研究をやっていてよかったなあと思う瞬間です。筋違いながら御礼を。

ネットスラングの【場合によるんだ(よ)なあ】で訳すのが一番しっくりくると思います。(過去)回想/気づきの原義は退き、(自分も気づいた)から同意/強意/念押しのニュアンスが全面に出てくる、その変化点が味わい深いですね。ちなみに、この線でお題の「加藤一二三という男、ありけり」の出るような状況を無理やり設定するとしたら、棒銀のことを話題にしているのにスレのだれも加藤先生のことを話題に出さない。そんなときに【加藤一二三という漢がいたんだよなあ】と、誰かがきっと書き込むでしょう。例えば、そんな感じです。これも、やっぱり例外的ですね。

まとめに代えて

「けり」は、幅の広い、陰影に富む助動詞です。それを、おそらく伊勢物語から(あるいは、伊勢であることすら忘れて何となく)「昔、男ありけり。」をただ引っ張ってきてNHKは使ったのではないか想像します。ここから物語論範疇ですが「昔、~けり」とやると、一気に作品世界が遠い昔/架空物語に飛ぶ。その効果を古人はよほど気に入ったのでしょう。いろんな作品が「昔、~けり」を使っていますNHKはさすがに「昔、」とやるのはおかしいということまでは感じた。ならば、もう一歩、脚を止めて考えるべきだったと思います

  • 降る雪や明治は遠くなりにけり(草田男、昭6)

お粗末さまでございました。

追記:翻って元増田氏へ

「けり」の思い出し(回想)効果は、いちど忘れていたことが前提になります。いま、加藤一二三先生のことを忘れてしまっている人はいませんね。ですから失礼というのは正しい直観だと僕は思います

「けり」を使うくらいですから、7/1のNHKは「神武以来の」と形容されたデビュー当時の、みんなが直接体験過去としては忘れてしまっていたところにフォーカスするのでしょうか。あるいは第19期名人戦大山康晴先生こてんぱんにやられたことを加藤先生述懐していただき秘話を発掘するといった「気づき」があるのでしょうか。よもや、升田幸三米長邦雄冥土鷺宮から召喚するのか。期待しないで待ちたいと思います

いずれにせよ、今回、元増田氏が感じたような、現代人の古語の扱い方に対する「もやもや」は、古語研究もっとも大切な礎の1つです。ぜひ今後とも大切になさってください。楽しかった\(^o^)/

2017-05-19

円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれ出自壬生氏。

目次 [非表示]

1 円仁人物

2 遣唐使の渡海の困難

3 天台山を目指すが…

4 在唐新羅社会の助け

5 五台山巡礼

6 長安への求法

7 帰国の旅の苦難

8 関連文献

9 脚注

10 関連項目

11 外部リンク

円仁人物像[編集]

794年延暦13年)下野国都賀壬生町現在壬生寺)に豪族壬生氏(壬生君:毛野氏一族)の壬生首麻呂の子として生まれる。兄の秋主から儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄理解者であって、多くの弟子最澄師事させている。

※生誕地については

美加保ノ関(藤岡町三鴨の都賀字館)

手洗窪(岩舟町下津原

壬生寺壬生町

などの説があり、順徳天皇撰による「八雲御抄」では、みかほの関、みかほノ山での誕生が記されている。

また、美加保乃関は万葉集歌人によって和歌も詠まれており

下つ毛野 みかもノ山の越奈良の須 目ぐはし頃は 多が家かもたむ

あずま路の 人に問はばや みかもなる 関にもかくや 花は匂うと

石ふまぬ 安蘇の川原に 行き暮れて みかほの関に 今日やとまら

下野や 安蘇の川原に 行きくれば みかもの崎に 宿をかりなん

この他、近くにある円仁ゆかりの安蘇の川原は、みかほの関を沼越しに眺める名所として多くの和歌が詠まれている。

安蘇山の麓に生まれたという説では、慈覚大師円仁の出生については「桓武天皇延暦13年、廣智菩薩大慈寺住職とき南方に紫雲がたなびき、尋ねていくと安蘇山麓現在の三毳山のふもと岩舟町下津原手洗窪)…下津原の手洗窪は「慈覚大師誕生の地」として栃木市史跡指定されている。

15歳のとき、唐より最澄帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい最澄師事する。奈良仏教の反撃と真言密教興隆という二重の障壁の中で天台宗確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問修行に専念して師から深く愛される。最澄が止観(法華経注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。

814年(弘仁5年)、言試(国家試験)に合格、翌年得度出家)する(21歳)。816年(弘仁7年)、三戒壇の一つ東大寺で具足戒(小乗250戒)を受ける(23歳)。この年、師最澄東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は、新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。817年(弘仁8年)3月6日大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。

性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。浄土宗開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。

遣唐使の渡海の困難[編集]

836年(承和2年)、1回目の渡航失敗、翌837年(承和3年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。838年(承和5年)6月13日博多津を出港。『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する(しかし「四つの船」のうち1艘は遭難している)。円仁の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁はずぶ濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

上陸である唐の開成4年7月2日日本の承和5年7月2日と日付が一致していた。唐と日本で同じ暦を使っているのだから当然ではあるが、異国でも日付が全く同じであることに改めて感動している(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

天台山を目指すが…[編集]

最後遣唐使として唐に留学するが、もともと請益僧(入唐僧(唐への留学僧)のうち、短期のもの)であったため目指す天台山へは旅行許可下りず(短期の入唐僧のため日程的に無理と判断されたか)、空しく帰国せねばならない事態に陥った。唐への留住を唐皇帝に何度も願い出るが認められない。そこで円仁遣唐使一行と離れて危険を冒して不法在唐を決意する(外国人僧の滞在には唐皇帝勅許必要)。天台山にいた最澄の姿を童子(子供)の時に見ていたという若い天台僧敬文が、天台山からはるばる円仁を訪ねてきた。日本から高僧が揚州に来ているという情報を得て、懐かしく思って訪れて来たのだという。唐滞在中の円仁の世話を何かと見てくれるようになる。海州東海県で遣唐大使一行から離れ、一夜を過ごすも村人たちに不審な僧だと警戒され(中国語通じず、「自分新羅僧だ」と主張しているが新羅言葉でもないようだ、怪しい僧だ)、役所に突き出されてしまう。再び遣唐大使一行のところに連れ戻されてしまった(『行記』839年(開成4年)4月10日条)。

在唐新羅社会の助け[編集]

当時、中国山東半島沿岸一帯は張宝高をはじめとする多くの新羅人海商が活躍していたが、山東半島新羅人の港町・赤山浦の在唐新羅社会の助けを借りて唐残留成功不法在留者でありながら通行許可証を得る等)する。遣唐使一行から離れ、寄寓していた張宝設立の赤山法華院で聖林という新羅から天台山の代わりに五台山を紹介され、天台山はあきらめたが五台山という新たな目標を見出す。春を待って五台山までの約1270キロメートルを歩く(『行記』840年(開成5年)2月19日4月28日の58日間)。

五台山巡礼[編集]

840年、五台山巡礼する。標高3000mを超す最高峰の北台にも登山する(47歳)。五台山では、長老の志遠から「遠い国からよく来てくれた」と温かく迎えられる(『行記』840年(開成5年)4月28日条)。五台山を訪れた2人目の日本人だという(1人目は、最澄とともに入唐し、帰国せず五台山客死した霊仙三蔵)。法華経密教整合性に関する未解決問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻を書写する。また、南台の霧深い山中で「聖燈」(ブロッケン現象か。『行記』840年5月22日条、6月21日条、7月2日条)などの奇瑞を多数目撃し、文殊菩薩の示現に違いないと信仰を新たにする。

長安への求法[編集]

当時世界最大の都市にして最先端文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から1100キロメートルを徒歩旅行する(53日間)。その際、大興善寺の元政和尚から灌頂を受け、金剛界大法を授き、青竜寺の義真からも灌頂を受け、胎蔵界・盧遮那経大法と蘇悉地大法を授く。また、金剛界曼荼羅長安絵師・王恵に代価6千文で描かせる。

台密にまだなかった念願の金剛界曼荼羅を得たこの晩、今は亡き最澄が夢に現れた。曼荼羅を手に取りながら涙ながらに大変喜んでくれた。円仁は師の最澄を拝しようとしたが、最澄はそれを制して逆に弟子円仁を深く拝したという(『行記』840年10月29日条)。描かせていた曼荼羅が完成する(『行記』840年(開成5年)12月22日条)。

しばらくして、唐朝帰国を百余度も願い出るが拒否される(会昌元年8月7日最初)が、その間入唐以来5年間余りを共に過して来た愛弟子・惟暁を失う(『行記』843年(会昌3年)7月25日条。享年32)。また、サンスクリット語を学び、仏典を多数書写した。長安を去る時には423部・合計559巻を持っていた(『入唐新求聖教目録』)。そして、842年(会昌2年)10月、会昌の廃仏に遭い、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で、帰国が叶った(会昌5年2月)。

帰国の旅の苦難[編集]

当時の長安の情勢は、唐の衰退も相まって騒然としていた。治安悪化不審火も相次いでいた。その長安の街を夜半に発ったが(曼荼羅や膨大な経巻を無事に持ち帰るため)、夜にもかかわらず多くの長安住人の送別を受けた。送別人の多くは、唐高官の仏教徒李元佐のほか、僧侶及び円仁長安暮らしを支えた長安在留新羅人たちが主であった。餞けとして絹12丈(30m余)を贈ってくれた新羅人もいた(845年(会昌5年)5月15日)。歩くこと107日間、山東半島新羅人の町・赤山まで歩いて戻った[注 1]。

この際、新羅人の唐役人にして張宝高の部下の将・張詠が円仁のために唐政府の公金で帰国船を建造してくれたが、密告に遭い、この船では帰れなくなる。

円仁が無事生きている」という情報日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやってきて、師と再会を遂げる。楚州の新羅人約語(通訳のこと)劉慎言に帰国の便船探しを頼み(彼は新羅語・唐語・日本語を操れるトライリンガルであった)、彼の見つけた新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国する。円仁は劉慎言に沙金弐両と大坂腰帯を贈っている。朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅であった。新羅船は小型だが高速で堅牢であることに驚いている。博多津に到着し、鴻臚館に入った(『行記』847年(承和14年)9月19日条)。日本政府円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いるように太政官符を発し、ここで9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の筆を擱いている(『行記』847年(承和14年)12月14日条)。54歳。

この9年6ヶ月に及ぶ求法の旅の間、書き綴った日記が『入唐求法巡礼行記』で、これは日本人による最初の本格的旅行記であり、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価されている(エドウィン・ライシャワー研究により欧米でも知られるようになる)。巡礼行記によると円仁は一日約40kmを徒歩で移動していたという。

目黒不動として知られる瀧泉寺や、山形市にある立石寺松島瑞巌寺を開いたと言われる。慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされ、浅草浅草寺もそのひとつ岩舟町観光協会HP)。このほか北海道にも存在する。

後に円仁派は山門派と称された。(円珍派は寺門派、両者は長期にわたり対立関係になった)。

2015-02-13

俺、転職しようと思ってるんだ

私淑する橋本治先生が、転職癖の治らない28歳の男にこう言ってたんだよ。



あなたに向いているのは

一、〝知的"ではないところ。

二、定時に始まって定時に終わるところ。

三、人間関係があんまり波乱万丈ではなさそうなところ

―この三つの要素を同時に満たしているところではないでしょうか(橋本治青空人生相談所』pp221-222)。


俺、社会人のみんなに聞きたいんだ。

この三つの要素を同時に満たしている仕事って例えば、どんな仕事だと思う?

俺、転職しようと思ってるんだ。

2014-08-19

http://anond.hatelabo.jp/20140819221113

何だよ、お前。先生弟子か?

先生弟子など知らんって言ってたぞ。

俺は勝手私淑してるだけだ。

 
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