「桓武天皇」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 桓武天皇とは

2017-07-18

天皇制なんてさっさと廃止しろ

天皇制本質は、家柄・血統による差別である

高潔なる天皇家を認めることは、当然その対極に、穢れたる存在を生み出す。

天皇皇族を、家柄や血統が良いとして崇める事は、構造的に部落民差別する事と一緒である

天皇が聖性を家柄・血統として、代々伝えることを認めるならば、部落民の賤性もまた、家柄・血統として代々伝えられることを認めることになるのである

また、賤であり穢れた存在を置くことは、天皇自らの聖性・浄性を相対的に高めるという効果がある。

天皇家にゆかりがある関西や、大和朝廷関係がある地域と思われる福岡熊本大分被差別部落が多いのは、おそらく古代中世期に天皇制権力賤民部落民の原形を作り上げたからではないかと考える。

天皇が聖性を家柄・血統として代々伝えることを認めるならば、部落民も当然その賤性を代々伝えていくことまで認めることになるのである

天皇家天照大神から万世一系に繋がっていると信じさせている。何が万世一系と見なされているのか。

一つ目は、三種の神器継承である。これは天照大神時代から代々伝わっているとされている。

二つ目は、霊が繋がっている、とされている。大嘗祭は、収穫を祝う祭であるが、それだけでなく、現在天皇が旧天皇死体と共に寝るという儀式もある。これによって、先帝の天皇霊が新天皇身体に憑くのである。したがって、天皇天照大神と霊的につながっている現人神とされたのである

三つ目は、血が連続している、とされている。皇位根拠古代以来連続してきた血統にあるとされた。

そしてこの連続性は当然今後も継続することが当たり前であるということを正当化させる。こうした天皇万世一系性は、あらゆる家系優越し超越する天皇家家系を強調し、皇位の不動性をわれわれに当然のものとして受け取らせるのである

万世一系を唱えることのメリットとしては、天皇宗教的権威統治権絶対性、さらには身分地位の永続性が担保されるということが考えられる。

しかし、万世一系大嘘である

奈良平安時代などは、天皇皇族後ろ盾にいる各豪族の抗争次第で、皇位血統原理関係なく移動したのである

例えば、聖徳太子は、血統原理から言えば正統な皇位継承者だったのだが、結局天皇にはなれなかった。また672年に起きた壬申の乱では、天皇と名乗る大友皇子天智天皇の子)を大海人皇子武力で倒し自らが天皇になった。

又、天皇家は、万世多系であった。桓武天皇母親朝鮮からきた人というのは有名な話である。また皇室には代々側室なるもの存在し、その側室平民から選ばれたのである明治天皇大正天皇側室の子である。(明治天皇側室大正天皇の生母であった柳原愛子さんは大正天皇知的障害者であったことの責任をなすりつけられたそうである)そのことは皇室家系図には書かれておらず、あたか天皇が一人で子供を産んだように書かれており、見る人に天皇家万世一系につながっていると思い込ませているのである

更に、現在天皇家足利尊氏が無理矢理作り出した北朝の子であることである血統原理でいくならば、正統な皇位継承権は南朝にあるのである。(南朝の子孫とされる熊沢という人が大東亜戦争後に、皇位継承権は自分にある。と訴えた話は有名である

天皇陛下はいつも国民のことを考えておられる。福祉にも御興味をもたれ、障害者にも優しいお方である。などと思っている人の何と多いことであろう。しか天皇家は実は思いっきり穢れた家柄・血統人間差別しているのである

天皇皇族部落民に対する差別事例をここでいくつか挙げてみる。

1868年に制定された『法令全書』の第1巻686号には、天皇が巡幸する際に穢れ多い部落が見えないように部落を筵で隠すべきということが書いてある。

そのことの事例として、1922年に起きた大分県の的が浜地区焼き討ち事件、がある。事件のあらましは、皇族列車で巡幸する際、沿道沿いにある、的が浜スラム地区、が皇族の目に触れないように、その地区警官が焼き討ちした、という事件である。的が浜地区は正確には被差別部落ではないが、非人系の部落民や、ハンセン病者や、浮浪者が多数居住していたスラム地区であった。

また、天皇は、部落民土地を取り上げたりもした。

これは大正年代出来事だが、奈良県畝傍山のふもとにあった洞(ほうら)部落が、その下にある神武天皇陵を見下ろす位置にあるとして、行政側は1917年にその部落強制移転を求め、20年にそれを強制執行した。その際、洞部落部落民の遺骨も穢れているとして、徹底的に取り除かせた。

今でも天皇皇族は家柄・血統差別を堂々とやっている。

例えば、宮中賢所に使える女官を選ぶ基準血統血筋である。穢れも未だに重視しており、彼女らが月経とき、お下り、といって強制的に休ませている。月経が終わっても穢れを祓う儀式をしないと元の仕事に戻れないそうだ。

そして最も重大なのが、結婚相手調査を正々堂々としているということである

1993年1月5日付け読売新聞朝刊の一面によると、宮内庁は、皇太子妃候補の身元調査大手興信所に頼んだとのことである。そこには皇室専門の興信所員がいるとのことである。そして直系は4代先まで溯り、大祖父祖父きょうだいまで徹底的に調べたそうである。そして雅子さんが優秀な家系で驚いたなどと興信所は言ったそうである皇室差別主義に凝り固まっていると言える。

天皇制擁護者の大多数は、天皇皇室日本の伝統だ。という理由で賛成していることだろう。しか天皇制日本オリジナルではない。天皇という概念は、中国における道教の最高の信仰対象であった天皇大帝から来ているのだ。

天皇家は、伊勢神宮京都御所儀式とか神主でもやるべきだ。もちろん、その際でも、天皇皇族国民という立場で勤労・納税の義務を負い、また参政権を含めた基本的人権を有する立場に置かれるべきだ。

2017-06-05

鎌倉戦国時代に燦然と輝く北条家は、日本史教科書では分からない

http://anond.hatelabo.jp/20170604204919

日本史教科書いくら見ても本当のところは理解できないんですよ。

なぜ北条家が坂東武士の頂点に立ち、鎌倉幕府頼朝が作ったにも関わらず、北条がその後の支配権を握り続けたのか。そして戦国時代に「後北条家」が、北条家と特に関係がないのに成立し、関東盟主足り得たか源氏とは、北条とは何か。

北条は、坂東平氏の家柄である坂東平氏とは、桓武天皇の血を引く、関東にやってきた平氏総称であり、その五世である平将門新皇自称して、朝廷に対して関東支配権を主張して反乱を起こし、敗れた後に祟りを起こして神となったことで、関東に決定的な影響力を及ぼすようになった。

平将門は神である。そこを間違えてはいけない。平将門怨念とされるものは畏敬の対象として、現代人に対しても深く印象づけられているが、関東ではほぼすべての神社平将門を祀っていたほどに力があった。坂東武士たちにとっては、平将門は実際に神であり、朝廷反旗を翻し関東独立した政権を、坂東平氏が頂点となって打ち立てることは坂東武士の念願であった。平忠常というそのへんの平氏関東で反乱を起こしただけで一大ムーブメントになってしまうぐらい、平氏関東支配朝廷から独立するという夢は坂東武士の間に広がっていた。元記事に書かれている関東の有力豪族千葉氏上総氏は、平忠常の子孫とされている。

そこにやってきたのが源頼朝である源頼朝清和源氏事実上嫡流である清和源氏桓武平氏といった用語を知らない人のために説明すると、天皇家は偉いわけだが、子孫がいつまでも皇族だと皇族が際限なく増えてしまい、現代で言う宮内庁予算が際限なく増えてしまうので、どこかで平民になってもらわなければならない。平民になる時に、皇族には名字がないので、名字を与える必要がある。その時に、源、平の名字が与えられた。天皇の血を引くスゴイ人たち、という意味が源、平という姓には込められている。清和源氏清和天皇の子孫で源姓を名乗った人たち、桓武平氏桓武天皇の子孫で平姓を名乗った人たちである

たとえば足利も、徳川も、本姓は源である。源尊氏源家康が本名だ。なぜ足利とか徳川というかと言えば、源が増えすぎて区別必要が出てきたというのもあるが、源というスゴイ名字を出すのは気が引けたから、という要素が大きいように思う。本当の名字は避け、住んでる所を名字にする、といったことをして、木曽義仲とか、足利尊氏とか、あるいは自分でっち上げ徳川という名字を使った家康のような人もいる。これを説明するには、武士にとって本名いかに大切であったか述べなければならないが、面倒だ。武士の下の名前は諱(忌み名、呼んではいけない名前)とされていたということを考えれば、上の名前もそれなりに大事だということはわかると思う。(そして信長様~とか秀吉様~とか言っている時代劇が全部嘘っぱちだということも分かるだろう)

平忠常の乱を平定しようとした、桓武平氏嫡流平直方は、乱の平定に失敗するが、清和源氏事実上嫡流である源頼義を婿に迎え、領地であった鎌倉を譲り渡す。この時、鎌倉坂東源氏拠点であると同時に、平氏源氏嫡流が交わった聖地という意味が生じた。そこから八幡太郎義家が生まれ源氏の声望が高まり、その嫡流である頼朝権威づけていく。

ここまでくれば、坂東平氏である北条家が頼朝を婿にとり鎌倉本拠地に据えた意味が分かるだろう。平家源氏が交わり、鎌倉拠点とするというのは故実に則った神聖儀式なのだ。ちなみに、北条家が坂東平氏の由緒正しい血筋だというのはおそらく自称であり、フィクションである。だが坂東武士は将門の祟りの方が怖いので、血筋の細かい所は気にしないのだ。

鎌倉に作られた幕府は初めから天皇を中心とする朝廷対立関係にあり、承久の乱勝利することで朝廷の上位に立ち、皇位継承操作するまでになった。それはなぜかといえば、平将門朝廷から独立志向していたかである平将門怨念が実際に実を結んだのが鎌倉幕府である頼朝の下で働いた北条梶原三浦和田千葉熊谷などは、みな坂東平氏である。そして役割を終えた源氏はどこかに消えて、坂東平氏北条家による支配が行われた。

そして戦国時代、後北条家の話になるが、後北条家は伊勢新九郎盛時、北条早雲によって立ち上げられる。伊勢氏室町幕府政所執事の家柄で、ものすごく偉い。ちなみに桓武平氏である

室町幕府というのは北条家に牛耳られた鎌倉幕府を倒して出来た政権である鎌倉幕府内の源氏で最高の血筋だった足利鎌倉幕府を倒し、北条家はほぼ滅亡してしまう。そして源氏である足利京都朝廷とベッタリの幕府を作った。平氏による独立志向関東幕府から180度の転換である

史実ではものすごく偉かった伊勢新九郎盛時であるが、実家室町幕府の偉い家柄で、関東を牛耳りに来たというのは、いかにも坂東武士には都合が悪い。仕方ないので、先祖を辿れば同じ坂東平氏という縁にあやかって、北条の名を名乗ることにした。ちなみに名乗ったのは息子の氏綱の代である。そこで、おそらく後北条家のプロパガンダによって、歴史改変が行われ、謎の素浪人北条早雲が、下克上嚆矢となり関東に覇を唱えたという、我々のよく知るストーリーが現れる。よく調べると、全てデタラメである

これにより、なぜ後北条家が秀吉と争い、滅亡への道を歩んだかも分かるだろう。秀吉関白天皇代理である天皇と対抗する存在である坂東武士にとって、秀吉に降ることは、平将門祟りを招きかねない決断であった。そのため、天下の趨勢が決しても、徳川伊達の援軍が得られなくても、単身で秀吉と抗い、滅びたのである。それだけ将門の祟りへの畏れや、坂東武士の誇り、天皇家という存在に対する対抗心が強かったのだ。

平将門武士の始まりであり、武士スピリット体現する存在である武士は武装し土地を守り、権力に抵抗する存在であると同時に、一族で争い、殺し合う存在である。その構図は徳川家康武士を飼いならすことでご破産になり、そこにあった本質は見えにくくなってしまっているが、武士を知りたければまず平将門を見て欲しい。

2017-05-19

三一権実諍論(さんいちごんじつ の そうろん)は、平安時代初期の弘仁年(817年)前後から同12年(821年)頃にかけて行われた、法相宗僧侶・徳一(生没年不明)と日本天台宗の祖・最澄767年 - 822年)との間で行われた仏教宗論である。「一三権実論争」「三乗一乗権実諍論」「法華権実論争」などとも。

目次 [非表示]

1 概要

2 平安初期の仏教

2.1 法相宗と徳一

2.2 天台宗最澄

3 論争の経緯

3.1 論争の発端について

3.2 著作応酬

4 最澄激昂の理由

4.1 最澄孤立

4.2 南都教団への対抗

4.3 中傷者徳一に対する怒り

4.4 蝦夷征討との関係

5 その後

6 注・出典

7 関連項目

8 参考文献

概要[ソース編集]

「三一権実諍論」の「三一」とは、三乗一乗の教えのことであり、「権実」の諍論とは、どちらが「権」(方便真実理解させるための手がかりとなる仮の考え)で、どちらが「実」(真実の考え)であるかを争ったことを言う。一乗三乗の「乗」とは衆生を乗せて仏の悟りに導く乗り物であり、天台宗根本経典である法華経』では、一切衆生の悉皆成仏(どのような人も最終的には仏果(悟り)を得られる)を説く一乗説に立ち、それまでの経典にあった三乗一乗を導くための方便と称した。それに対し法相宗では、小乗声聞乗・縁覚乗)・大乗菩薩乗)の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする三乗説を説く。徳一は法相宗の五性すなわち声聞定性・縁覚定性・菩薩定性・不定性・無性の各別論と結びつけ、『法華経』にただ一乗のみありと説くのは、成仏の可能性のある不定性の二乗を導入するための方便であるとし、定性の二乗仏性の無い無性の衆生は、仏果を悟ることは絶対出来ないのであり、三乗の考えこ真実であると主張した。このように三乗一乗のいずれが真かをめぐり真っ向から対立する意見の衝突が行われた。

ただし、徳一と最澄の論争は三乗一乗の争いのみに留まらず、教判論(数ある経典の中で釈尊の考え方に最も近いものを問う)における法華経正統性を問うたものでもあるから「法華権実論争」と呼ぶべきとの考えもある[1]。この論争の間、最澄は『守護国界章』『法華秀句』など大部の著作執筆しており、これは徳一から批判への反論の書として書かれたものである。一方の徳一側の著書は、真言宗空海774年 - 835年)への論難である真言宗未決文』以外現存していないため、詳細は不明である。しかし、徳一の主張は最澄側の批判書に引用される形で部分的に残存しており、ある程度の復元が可能である

いずれにしろ論争は著作応酬という形式で行われ、実際に両者が顔を合わせて激論を交わしたということではない。

平安初期の仏教界[ソース編集]

奈良時代興隆したのは、法相宗華厳宗律宗などの南都六宗である本来南都六宗教学を論ずる宗派で、飛鳥時代後期から奈良時代にかけて日本に伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。天台宗は後述の如く最澄によって平安時代初期に伝えられたため、日本への伝来順は逆となったわけである

この時代日本における仏教は中国と同様、鎮護国家思想の下、国家の管理下で統制されており、年ごとに一定数の得度を許可する年分度者の制度施行され、原則として私度僧は認められていなかった。このことは逆に仏僧と国家権力が容易に結びつく原因ともなる。実際、奈良時代には玄昉(? - 746年)や道鏡(700年 - 772年)など、天皇の側近として政治分野に介入する僧侶も現れていた。桓武天皇737年 - 806年)が平城京から長岡京平安京遷都した背景には、政治への介入著しい南都仏教寺院の影響を避ける目的もあったとされる。新王朝の建設意識していた桓武天皇にとって、新たな鎮護国家宗教として最澄天台宗に注目・支援することで従前の南都仏教牽制する意図もあった。

法相宗と徳一[ソース編集]

日本での法相宗は、南都六宗の一つとして、入唐求法僧により数次にわたって伝えられている。白雉4年(653年)道昭(629年 - 700年)が入唐留学して玄奘三蔵(602年 - 664年)に師事し、帰国飛鳥法興寺でこれを広めた。

徳一は一説には藤原仲麻呂恵美押勝とも。706年 - 764年の子といわれるが疑わしい[2]。はじめ興福寺および東大寺で修円に学び、20歳代の頃に東国へ下った。東国布教に努め、筑波山中禅寺(茨城県つくば市)・会津恵日寺(福島県耶麻郡磐梯町)などを創建したという。

前述のごとく、徳一の著作ほとんど現存していないため、その生涯は不明な点が多い。

天台宗最澄[ソース編集]

天台宗は法華円宗、天台法華宗などとも呼ばれ、隋の智顗(538年 - 597年)を開祖とする大乗仏教の宗派である。智顗は『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の天台三大部を著して、『法華経』を根本経典とし、五時八教(仏教理解度の5段階に合わせて記された経典のうち、法華経を到達点とする)の教相判釈(経典成立論)を説く。

最澄ははじめ東大寺で具足戒を受けたが、比叡山に籠もり、12年間山林修業を行った。さらにそれまで日本に招来された大量の仏典を書写し研究する中で、南都六宗の背景にある天台教義の真髄を学ぶ必要を感じ始め、親交のあった和気氏を通じて桓武天皇天台宗学習ならびに経典の招来のための唐へ留学僧の派遣を願い出た。これを受け、桓武天皇最澄本人が還学僧(短期留学の僧)として渡唐するように命じた。こうして延暦24年805年)の遣唐使船で最澄は入唐を果たす。予定通り天台山にのぼり、台州龍興寺において道邃(天台宗第七祖。生没年不明)より天台教学を学び、円教(天台宗)の菩薩戒を受けて、翌年(806年帰国した。

帰国後、最澄桓武天皇に対し従来の六宗に加え、新たに法華宗を独立した宗派として公認されるよう奏請、天皇没後には年分度者の新しい割当を申請し、南都六宗と並んで天台宗の2名(遮那業・止観業各1名)を加えることを要請した。これらが朝廷に認められ、天台宗正式に宗派として確立。これが日本における天台宗のはじまりである最澄さらに同じく入唐した空海師事して、密教への理解を深める一方、六所宝塔院(比叡山寺(後の延暦寺)を中心とする)の造立計画を立て、弘仁5年(814年)には九州へ、同8年には東国へ赴くなど精力的に活動する。最澄の悲願は大乗戒壇設立であり、大乗戒を授けた者を天台宗菩薩僧と認め、12年間比叡山に籠って修行させるという構想によって、律宗鑑真(688年 - 763年)がもたらした小乗戒の戒壇院を独占する南都仏教既得権益との対立を深めていた。

論争の経緯[ソース編集]

論争の発端について[ソース編集]

論争の発端となったのは徳一が著した『仏性抄』であるとされる[3]。この書における一乗批判法華経批判に対して最澄が著したのが『照権実鏡』であり、ここから両者の論争が始まった。

ただし、そもそも徳一が『仏性抄』で論難したのは中央仏教界の最澄ではなく、東国活動していた道忠(生没年不明)とその教団であったとする説がある[4]。道忠は最澄が入唐前の延暦16年以降、あらゆる経典の写経を行った際、東国からはるばる駆けつけて2000巻もの助写をしたほど親交があり、東国における最澄の盟友的存在であった。道忠自身鑑真弟子で、律宗僧侶であったが、戒壇が設けられた下野薬師寺との関連か[5]東国に住し、広く弟子を持つ僧侶であった。最澄東国へ下った際には、すでに道忠は没した後で教団は広智(生没年不明)が率いる状態であったが、後に天台座主となった円澄(771年 - 836年)や円仁794年 - 864年)・安慧(794年 - 868年)らは、もともと道忠の弟子もしくは孫弟子(広智の弟子)であり、道忠との縁から最澄に入門したなど、道忠は初期の天台教団の中で、非常に重要役割果たしていた存在であった[6]。

筑波山を開山し、会津拠点とした徳一が標的としたのは、むしろ地理的東国において布教を行っていた道忠教団であった可能性が高い。徳一の『仏性抄』の存在最澄に知らせたのも道忠教団であったと見られる[7]が、異論もある[8]。

著作応酬[ソース編集]

三一権実諍論に関する著作としては、

≪徳一側著作

『法華肝心』2巻

『法華権文』1巻

『中辺義鏡』20巻

『慧日羽足』3巻

『遮異見章』3巻

『義鏡要略』7巻?

法相了義灯』11巻

『通破四教章』1巻

最澄著作

『照権実鏡』1巻

『依憑天台集』1巻

守護国界章』9巻

『決権実論』1巻

『通六九証破比量文』1巻

『法華秀句』5巻

などが挙げられる[9]。論争の主要な流れとしては、

徳一の『仏性抄』(成立年不詳)に対し、最澄が『照権実鏡』(弘仁8年(817年)成立)で反論

徳一の『中辺義鏡』『慧日羽足』に対し、最澄が『守護国界章』(弘仁9年(818年)成立)で反論

最終的な結論として、最澄が『法華秀句』(弘仁12年(821年)成立)を著す。

となっている。なお諍論の前期において、最澄が『照権実鏡』で徳一の『仏性抄』を批判したのに対し、徳一の『中辺義鏡』では最澄反論に全く答えていない。そのため『中辺義鏡』の批判対象としては、書名のみ残っている最澄の著書『一乗義集』ではないかとする説[10]、もしくは道忠教団によって書かれたと思われる『天台法華義』とでも称すべき書であったとする説がある[11]。続いて『守護国界章』下巻における三一権実論に対する徳一の反論として『遮異見章』『慧日羽足』が書かれたと思われ、それに対して最澄が『決権実論』で反論結論の書として『法華秀句』を撰述したと見られる[12]。

一連の論争の内容は難解で、一乗三乗の権実のみならず、教判論における法華経天台三大部の正当性、天竺・震旦の先哲による教義解釈の是非など広範囲に及ぶ。しかし一方では、最澄の教法に対する価値論に対し徳一は仏法理解先天的素質論を述べており、両者の論争の焦点があまり噛み合っておらず、議論のものも詳細というよりは瑣末的であり、時折相手側への罵倒に近い表現も見られる(後述)など、すれ違いの印象も与えている。

天台宗側では『法華秀句』の成立をもって論争の終結とする(翌年に最澄は入寂)。論争の歴史を天竺や中国の仏教史まで遡って述べたもので、『法華秀句』の書名は、智顗による天台三大部の『法華文句』を意識したものと思われ、最澄の論争決着への決意が現れている。ただし、これは最澄側の一方的な論争打ち切りであり、徳一側からは決着がついていないとも言える[13]。なお徳一は天台宗のみならず密教に対しても問題視していたと見られ、真言宗空海に対しても『真言宗未決文』で批判している(なお、これが徳一の著作として現存する唯一の史料である)。

最澄激昂の理由[ソース編集]

下記は、取り立てて、最澄の書き物に怒りは表明されていないが、法相宗派の学者の何人かは、そのようにとらえているようである。その理由をあえて挙げるとすれば、次の事柄をあげられるが、これも、特にここに特記すべきほどのことではない。参考までに、法相宗派側の意見を以下に述べる。 最澄は、しばしば非常に激烈な表現を用いて論敵を攻撃しており、たとえば『守護国界章』において最澄は、非難の対象である徳一のことを「麁食者(そじきしゃ。粗末な食べ方をする者、半可通のこと)」「謗法者(ほうぼうしゃ。賢しらに法を曲げる者)」「北轅者(ほくえんしゃ。南に行こうとして牛車・馬車の轅(ながえ)を北に向ける者。方角もわきまえぬ者)」などの蔑称で呼び、本名の徳一で呼ぶことは一切ない。どちらかといえば秀才肌で生真面目な感のある[14]最澄が、これほどまでに攻撃的な姿勢で論争に臨んだ背景として、いくつかの原因が考えられる。

最澄孤立[ソース編集]

最澄は入唐求法から帰国する直前、越州に寄り、密教を龍興寺の順暁(密教の法灯においては傍流に属する。生没年不明)に学び、灌頂を受けている。帰国後も最澄の密教への関心は高く、自身より年少で僧としての地位も低いながら、正統的な密教を学んで帰国した空海師事することになる。

最澄と同じく804年の遣唐使で入唐した空海は、真言八祖の一人恵果(746年 - 806年から正統的な密教を学び、大量の経典・法具を携え、最澄よりやや遅れて大同元年806年)に帰国していた。最澄空海の招来した仏典を借り受けて密教を本格的に学びはじめ、弘仁3年(812年)には弟子の泰範(778年 - ?)らとともに空海高雄山寺において灌頂を受け、正式空海弟子となっている。さらに泰範らを空海の下に派遣して密教の奥義を学ばせようとしていた。

しかし、弘仁4年(813年)最澄が『理趣釈経』(『理趣経』の解釈書)の借用を空海に申し出たところ、空海が密教の真髄は文章修行ではなく実践によってのみ得られるとして拒絶したため、両者の仲は悪化する。さら最愛弟子であった泰範が、最澄の再三の求めにもかかわらず比叡山への帰還を拒み、空海の下での修行を望んだことなどが重なり、両者は義絶するに至った。真言宗側では、これをさかんに吹聴するが、『理趣釈経』は、いわば、後世、淫靡宗教と結びついたものであり、空海がそれを見せたがらなかったのは、故あることであったようである。つまり密輸入書物とも言えるものであり、かえって、見ないほうがよかったのではないかと思われている。

天台宗に密教の要素を取り入れ、新たな宗派としての地位を高めようとしていた最澄にとって、泰範・空海との訣別により孤立感が深まったことで、南都諸宗に対してより敵対的姿勢に駆り立てられたともいわれる[15]。なお天台宗最澄の死後、本格的に密教化することになる(→台密)。

南都教団への対抗[ソース編集]

最澄が論争相手とした徳一自身は、若年から東国拠点を移して活動していた地方僧であったものの、彼が所属する法相宗自体は、当時の仏教界においては主流である南都六宗の中心であった。後世に天台宗の方が興隆していったため、三一権実諍論全体としては、新興宗派の総帥である最澄が、古い法相宗代表する徳一を退けたという印象が残るが、実際には当時においては法相宗の方が主流派に属していたのであり、最澄はむしろ挑戦者であった[16]。前述のごとく年分度者の割当を勝ち取り、大乗戒壇設立など、天台宗確立して南都仏教に対抗しようとする最澄にとって、法相宗理論である徳一を説き伏せることは、天台宗南都六宗への優位を示すことにも繋がるため、より攻撃的になったと、現代法相宗派の学者は考えている。

中傷者徳一に対する怒り[ソース編集]

徳一の『仏性抄』は最澄にとって看過しがたい法華経批判の書であり、この法敵に猛反論しなければ自宗の存在意義のものが危うくなる。しかしまた徳一にとっても、天台法華宗や密教の擡頭は、彼自身の属する法相宗にとっても、また従前の仏教体制秩序にとっても、異端なのであって、これを徹底的に論破しておく必要があった。徳一は『中辺義鏡』において法華教説や最澄に対して「凡人臆説」「顛狂人」「愚夫」などと悪し様に罵倒している[17]。最澄が『守護国界章』で徳一を「麁食者」「北轅者」と呼んだのはこれに呼応するものであり、互いに自宗派の存在意義をかけた真剣な論争であったがゆえに、ともに中傷めいた表現までもが用いられたともいえる。

蝦夷征討との関係[ソース編集]

宮原武夫(1933年-)は最澄と徳一の論争がここまで大きくなったのは、最澄が当時の朝廷が進めていた蝦夷征討に徳一が「非協力」的とみなしていた政治的問題にあったとする説を唱えている。

最澄東国に下った際に活動拠点としていたのは亡き道忠が活動拠点としていた下野国と隣の上野国であったが、両国は当時朝廷が推奨していた蝦夷征討の兵站基地となっており、更に下野上野両国から陸奥出羽両国に対しては国司から課役を逃れるための逃亡や朝廷による移住政策によって多くの人々が移り住んでいた[18]。蝦夷討伐には徳一の法相宗を含めた南都六宗東国鹿島神宮香取神宮も征討の成功を祈願したり、寺院神社を建立するなどの積極的な協力を行ってきた[19]。朝廷から天台宗公認を得たばかりの最澄東国における蝦夷征討を巡る様々な動きに直面して関心をもったと考えられ、この時の最澄東国行きに随行した弟子円仁下野出身)も立石寺など東北から北関東にかけて多数の天台宗寺院が建立したと伝えられており、最澄とその門人は下野上野両国を足掛かりに奥羽の人々に対する教化を進めようとしたとみられる[20]。

これに対して徳一の方は会津地方から越後方面への布教活動を進めており、蝦夷征討への協力や蝦夷がいる会津以北の奥羽への布教を示す史料は残されていない。宮原最澄は『決権実論』の中で「北轅者常に迷ひて、分明の文を指さしめ、南、越の方に向はしむ」と記しているが、これは自分達や南都六宗と違い、蝦夷征討に対して祈祷<

円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれ出自壬生氏。

目次 [非表示]

1 円仁人物

2 遣唐使の渡海の困難

3 天台山を目指すが…

4 在唐新羅社会の助け

5 五台山巡礼

6 長安への求法

7 帰国の旅の苦難

8 関連文献

9 脚注

10 関連項目

11 外部リンク

円仁人物像[編集]

794年延暦13年)下野国都賀壬生町現在壬生寺)に豪族壬生氏(壬生君:毛野氏一族)の壬生首麻呂の子として生まれる。兄の秋主から儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄理解者であって、多くの弟子最澄師事させている。

※生誕地については

美加保ノ関(藤岡町三鴨の都賀字館)

手洗窪(岩舟町下津原

壬生寺壬生町

などの説があり、順徳天皇撰による「八雲御抄」では、みかほの関、みかほノ山での誕生が記されている。

また、美加保乃関は万葉集歌人によって和歌も詠まれており

下つ毛野 みかもノ山の越奈良の須 目ぐはし頃は 多が家かもたむ

あずま路の 人に問はばや みかもなる 関にもかくや 花は匂うと

石ふまぬ 安蘇の川原に 行き暮れて みかほの関に 今日やとまら

下野や 安蘇の川原に 行きくれば みかもの崎に 宿をかりなん

この他、近くにある円仁ゆかりの安蘇の川原は、みかほの関を沼越しに眺める名所として多くの和歌が詠まれている。

安蘇山の麓に生まれたという説では、慈覚大師円仁の出生については「桓武天皇延暦13年、廣智菩薩大慈寺住職とき南方に紫雲がたなびき、尋ねていくと安蘇山麓現在の三毳山のふもと岩舟町下津原手洗窪)…下津原の手洗窪は「慈覚大師誕生の地」として栃木市史跡指定されている。

15歳のとき、唐より最澄帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい最澄師事する。奈良仏教の反撃と真言密教興隆という二重の障壁の中で天台宗確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問修行に専念して師から深く愛される。最澄が止観(法華経注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。

814年(弘仁5年)、言試(国家試験)に合格、翌年得度出家)する(21歳)。816年(弘仁7年)、三戒壇の一つ東大寺で具足戒(小乗250戒)を受ける(23歳)。この年、師最澄東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は、新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。817年(弘仁8年)3月6日大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。

性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。浄土宗開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。

遣唐使の渡海の困難[編集]

836年(承和2年)、1回目の渡航失敗、翌837年(承和3年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。838年(承和5年)6月13日博多津を出港。『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する(しかし「四つの船」のうち1艘は遭難している)。円仁の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁はずぶ濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

上陸である唐の開成4年7月2日日本の承和5年7月2日と日付が一致していた。唐と日本で同じ暦を使っているのだから当然ではあるが、異国でも日付が全く同じであることに改めて感動している(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

天台山を目指すが…[編集]

最後遣唐使として唐に留学するが、もともと請益僧(入唐僧(唐への留学僧)のうち、短期のもの)であったため目指す天台山へは旅行許可下りず(短期の入唐僧のため日程的に無理と判断されたか)、空しく帰国せねばならない事態に陥った。唐への留住を唐皇帝に何度も願い出るが認められない。そこで円仁遣唐使一行と離れて危険を冒して不法在唐を決意する(外国人僧の滞在には唐皇帝勅許必要)。天台山にいた最澄の姿を童子(子供)の時に見ていたという若い天台僧敬文が、天台山からはるばる円仁を訪ねてきた。日本から高僧が揚州に来ているという情報を得て、懐かしく思って訪れて来たのだという。唐滞在中の円仁の世話を何かと見てくれるようになる。海州東海県で遣唐大使一行から離れ、一夜を過ごすも村人たちに不審な僧だと警戒され(中国語通じず、「自分新羅僧だ」と主張しているが新羅言葉でもないようだ、怪しい僧だ)、役所に突き出されてしまう。再び遣唐大使一行のところに連れ戻されてしまった(『行記』839年(開成4年)4月10日条)。

在唐新羅社会の助け[編集]

当時、中国山東半島沿岸一帯は張宝高をはじめとする多くの新羅人海商が活躍していたが、山東半島新羅人の港町・赤山浦の在唐新羅社会の助けを借りて唐残留成功不法在留者でありながら通行許可証を得る等)する。遣唐使一行から離れ、寄寓していた張宝設立の赤山法華院で聖林という新羅から天台山の代わりに五台山を紹介され、天台山はあきらめたが五台山という新たな目標を見出す。春を待って五台山までの約1270キロメートルを歩く(『行記』840年(開成5年)2月19日4月28日の58日間)。

五台山巡礼[編集]

840年、五台山巡礼する。標高3000mを超す最高峰の北台にも登山する(47歳)。五台山では、長老の志遠から「遠い国からよく来てくれた」と温かく迎えられる(『行記』840年(開成5年)4月28日条)。五台山を訪れた2人目の日本人だという(1人目は、最澄とともに入唐し、帰国せず五台山客死した霊仙三蔵)。法華経密教整合性に関する未解決問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻を書写する。また、南台の霧深い山中で「聖燈」(ブロッケン現象か。『行記』840年5月22日条、6月21日条、7月2日条)などの奇瑞を多数目撃し、文殊菩薩の示現に違いないと信仰を新たにする。

長安への求法[編集]

当時世界最大の都市にして最先端文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から1100キロメートルを徒歩旅行する(53日間)。その際、大興善寺の元政和尚から灌頂を受け、金剛界大法を授き、青竜寺の義真からも灌頂を受け、胎蔵界・盧遮那経大法と蘇悉地大法を授く。また、金剛界曼荼羅長安絵師・王恵に代価6千文で描かせる。

台密にまだなかった念願の金剛界曼荼羅を得たこの晩、今は亡き最澄が夢に現れた。曼荼羅を手に取りながら涙ながらに大変喜んでくれた。円仁は師の最澄を拝しようとしたが、最澄はそれを制して逆に弟子円仁を深く拝したという(『行記』840年10月29日条)。描かせていた曼荼羅が完成する(『行記』840年(開成5年)12月22日条)。

しばらくして、唐朝帰国を百余度も願い出るが拒否される(会昌元年8月7日最初)が、その間入唐以来5年間余りを共に過して来た愛弟子・惟暁を失う(『行記』843年(会昌3年)7月25日条。享年32)。また、サンスクリット語を学び、仏典を多数書写した。長安を去る時には423部・合計559巻を持っていた(『入唐新求聖教目録』)。そして、842年(会昌2年)10月、会昌の廃仏に遭い、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で、帰国が叶った(会昌5年2月)。

帰国の旅の苦難[編集]

当時の長安の情勢は、唐の衰退も相まって騒然としていた。治安悪化不審火も相次いでいた。その長安の街を夜半に発ったが(曼荼羅や膨大な経巻を無事に持ち帰るため)、夜にもかかわらず多くの長安住人の送別を受けた。送別人の多くは、唐高官の仏教徒李元佐のほか、僧侶及び円仁長安暮らしを支えた長安在留新羅人たちが主であった。餞けとして絹12丈(30m余)を贈ってくれた新羅人もいた(845年(会昌5年)5月15日)。歩くこと107日間、山東半島新羅人の町・赤山まで歩いて戻った[注 1]。

この際、新羅人の唐役人にして張宝高の部下の将・張詠が円仁のために唐政府の公金で帰国船を建造してくれたが、密告に遭い、この船では帰れなくなる。

円仁が無事生きている」という情報日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやってきて、師と再会を遂げる。楚州の新羅人約語(通訳のこと)劉慎言に帰国の便船探しを頼み(彼は新羅語・唐語・日本語を操れるトライリンガルであった)、彼の見つけた新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国する。円仁は劉慎言に沙金弐両と大坂腰帯を贈っている。朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅であった。新羅船は小型だが高速で堅牢であることに驚いている。博多津に到着し、鴻臚館に入った(『行記』847年(承和14年)9月19日条)。日本政府円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いるように太政官符を発し、ここで9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の筆を擱いている(『行記』847年(承和14年)12月14日条)。54歳。

この9年6ヶ月に及ぶ求法の旅の間、書き綴った日記が『入唐求法巡礼行記』で、これは日本人による最初の本格的旅行記であり、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価されている(エドウィン・ライシャワー研究により欧米でも知られるようになる)。巡礼行記によると円仁は一日約40kmを徒歩で移動していたという。

目黒不動として知られる瀧泉寺や、山形市にある立石寺松島瑞巌寺を開いたと言われる。慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされ、浅草浅草寺もそのひとつ岩舟町観光協会HP)。このほか北海道にも存在する。

後に円仁派は山門派と称された。(円珍派は寺門派、両者は長期にわたり対立関係になった)。

2015-07-14

Wikipediaに憤死したと書かれている有名人

李広

前漢武将。衛青に従って匈奴征伐に出陣したが遅参してしまい「慣れない搦手の部隊に回されたせいで道に迷ったじゃねぇか!」と逆ギレして憤死。

周瑜

三国志演義』に登場する呉の武将諸葛亮にことごとく策を読まれた上に「どうせ俺に勝てないんだから曹操に隙を突かれる前にやめたら?」と言われて憤死。

于禁

三国時代の魏の武将。有力な将軍であったが関羽に敗れて降伏した。のちに魏に送り返されたあと、関羽に命乞いしている場面の絵を見せられて憤死。

曹丕の項にて「憤死」を確認

王朗

三国志演義』に登場する魏の政治家。戦いの前に諸葛亮に論戦を挑むも「逆賊曹操に取り入って私腹を肥やしたくせにまだ手柄が欲しくて戦場に出てくるのかこのジジイ」と罵られて憤死。

曹真

三国志演義』に登場する魏の武将。陣中で病にかかり重体となり、それを察した諸葛亮がここぞとばかりに送った挑発的な内容の手紙を読んで憤死。

陸遜

三国時代の呉の武将老害と化して後継者問題引き起こし孫権が周囲の讒言を信じて何度も問責してきたため憤死。

蕭衍

梁の武帝。当初は名君だったが仏教に傾倒して国を衰退させ、宇宙大将軍が率いるたった1000人の反乱軍に敗れて首都を包囲され降伏幽閉中に蜜を求めたが与えられず憤死。

侯景の項にて「憤死」を確認

ベリサリウス

東ローマ帝国武将東ローマ帝国の最大領土を築き上げたが、皇帝から必要ときに呼び出されてこき使われるだけの不遇な人生を送り、最後には無実の罪で逮捕されて憤死。

早良親王

兄・桓武天皇から藤原種継暗殺事件関係した疑いをかけられて流罪に処され、無実を訴えて絶食し憤死。

ボニファティウス8世

ローマ教皇フランスフィリップ4世対立して監禁されて「異端者」と罵られて殴られて身ぐるみ剥がれて憤死。

2015-06-18

包茎の小生が養鶏場を承継し多少は交渉し高級娼婦昇天させた話し

小生の名はチャックカウパー。数ヶ月前までニートのだめ人間だった。

親父の跡取り息子として養鶏場を承継することとなったのが今年の3月

採算度外視の平屋の養鶏場から利益の割に相続税が高かったか最初は大変だった。

それこそ24時間寝ないで働いた日もある。

しかし、親父の代から交渉をしていたAピーという会社に鳥を卸すように

「小生の意思」で決めてから金銭的な余裕がうまれた。

そうなると今度は童貞を捨てたくなるのが男のさが。

そこで小生は国鉄東海道線にのってはるばる川崎まで遠征した。

一刻も早く娼婦に会いたくて車内の道中、小生の体は小刻みに震えていた。

駅を出ると洗体というお店のキャッチにあったのでまずは体を綺麗にした。

西野かなをブサイクにした感じの若いギャル

おっぱいを密着させて洗体してきたので小生の紙パンツテントを張った。

西野かなの手は時折テントの中に侵入してきた。

最高、爽快な気分で感無量だ。最澄空海保護者桓武天皇だ。

そしていよいよ本丸であるソープランドへ。

相手は妙齢マックスレイナ似のセクシー系お姉さん。

潤んだ目とクロエ香水匂いが性欲をそそる。

洗体のギャルとは肌の張りが違うけどそれはそれでオッケーだった。

プレイの詳細については小生の性癖名誉にもかかわる問題なので割愛させていただく。

包茎の小生でもソープを楽しむことが出来たのは養鶏場運営で得た資金のおかげ。

お金に余裕がない時は包茎という事実ソープにいかないための言い訳にしていた。

しかしそれがただの言い訳に過ぎなかったことは

お金を手にしてはじめてわかった。

女性の体もはじめてわかった。

意思あるところに道あり」だなって思ったよ。マジで

2011-03-19

電波学者池田信夫先生は天寿を全うして安らかに死んでください。

電波学者電波行政に関して卓越した深い見識をお持ちになられるという意味)の池田信夫先生地震に関する迅速かつ正確無比で客観的ツイート

ケチをつける人間クズ人間クズとは、池田信夫先生衆愚の過ちを優しく指摘する際にお使いあそばれる、たおやかな上級言語語源桓武天皇が、息子が庭のスズメを虐めることを優しくたしなめるときに「人間クズ」と言ったことだとされる)が耐えません。

クズの例→経済学者の池田信夫様よりメールを頂戴致しました

そんな人間クズはてなーにも理解できるように、池田信夫先生のご慈愛あふれる超ツイートをもろもろ再検討してみましょう!

ご慈愛溢れる池田信夫先生に見捨てられる前に、先生のお考えを正しく理解しましょうね!

池田信夫先生人間を超越した何かです

池田信夫先生は僕達の想像を超える存在です。その存在人間生命に対する常識根底からします。

なぜなら、地震に関するFAQ

妊婦は大事をとって、実家に帰れる人は帰った方がいい。細胞分裂の終わった老人は(私を含めて)安全。 RT @harmonnnny: 妊婦はどうですか?

http://twitter.com/ikedanob/status/47537414033514496

とお答えあそばれているかです

浅学非才な私めは、人間であれば生きている限りは、老人でもゆるやかながら細胞分裂はしているものだと考えていましたが、経済学原発電波行政にも詳しいインターネット時代のレオナルド・ダ・ヴィンチである池田信夫先生にとってはそんな一般論意味がありません。

細胞分裂が完全に終わっても生き続けている人間がいるのであれば、ノーベル賞ものの発見ですから池田信夫先生リアル「生けるノーベル賞」というころができるでしょう。

文字通り人間を超越している学者、それが池田信夫先生なのです

そんな池田信夫先生に楯突くはてなー人間クズマイケル・ジャクソンが死の間際、世界平和を願いつぶやいた言葉ともされている)です

池田信夫先生は憶測を決して許しません

その御心の広さにおいては太平洋が小さく見える池田信夫先生でありますが、デマや憶測や推測の情報を広める人間を決して許すことはありません。

例えば、ジャーナリスト広瀬隆さんの著書については、

私は広瀬隆より前から原発を取材してるが、彼が最初に書いた本はあきれた。自分で「この本には1次情報はまったくない。すべてデータベースを利用して2次情報だけで書いた」と誇っていた。こんなのを使うメディアは、自分B級だと白状しているようなもの。

http://twitter.com/ikedanob/status/48656386866954240


ときっぱりと否定されております。快哉!ですね、『2次情報をもとに』して発言をするなど、B級であるまじき人間クズジョン・レノンオノ・ヨーコプロポーズする時に使った言葉です

下記もご本人の発言ですが、

いうまでもないが私は素人なので、今後の見通しをきかれても答えられません。2次情報をもとに推測しているだけなので、参考だと思って聞いてください。最悪の事態になるかどうかは、わかりません。

http://twitter.com/ikedanob/status/47255528056950784


これを見て「おい、池田信夫矛盾してね?」と思ったあなた人間クズリンカーンキューバ危機を止める際に、相手国首相にいった言葉、この言葉によって歴史は変わった)です池田信夫先生はあくまで素人ですから、2次情報をもとに憶測するのはあたりまえなのです

人間クズあなたは「10万人いる池田信夫先生フォロワーの中にはリテラシーがない人も、誤解する人もいる。さらに、その人がRT、非公式RTしたら、池田信夫素人であることをしらない人にも情報拡散されるだろ。池田信夫が訂正をしても、拡散されたRTを見た人には訂正が伝わらない場合もある。素人なら素人らしく口をつぐむべきだ」

というかもしれません。

しかし、池田信夫先生をフォローしているツイッタラー10万人は全員リテラシーがべらぼうに高いので、RTデマに惑わされることなど金輪際ありえません。金輪際ですウソウソと見抜く天才かつ、合コンでもOLをお持ち帰りしまくり、濡れた犬を拾いすぎて家が犬臭い、全員年収1000万人以上の10万人の集まりなのです。当然、「類は友をよぶ」ので、信夫先生フォロワーのご友人や関係者全員リテラシーもべらぼうに高いので、たとえ池田信夫先生デマを流しても直ちに気が付きます

から池田信夫先生に限っては、「2次情報をもとに憶測」しても構わないのです

読みたくなければ読むな!

これだけご慈愛溢れる池田信夫先生ツイートを気に入らないという人も、どうやらいるようです

もし、池田信夫先生ツイートが気にいらないのならば、

「確認してから言え」とかいうバカが多いが、読みたくなければ読むな。災害ときは、不確かな速報も必要なんだよ。放射能あびてから確認とってもしょうがないだろ

http://twitter.com/ikedanob/status/46491222621163520

読まなければ良いのです

ただ、「フォロワーが多い池田信夫先生ツイートは望むと望まざるにかからず、タイムラインに表示されるので、読みたくなければ読むなも出来ないじゃん。つーか、正しくない情報を垂れ流しておいて、みたくなければみるなってAA

               ヽ人人人人人人人人人人人人人人人ノ

             <                      >

             <  嫌なら見るな! 嫌なら見るな!  >

             <                      >

             ノ Y´`Y´`Y´`Y´`Y´`Y´`Y´`Y´`Y´`Yヽ

            ∧ ∧

            (゜Д゜ )

          (⌒  ⌒)

          )_人_ ノ

          /    /

      ∧_∧ ∩  (

     (   ; )ω   ̄)

   γ⌒   ⌒ヽ  ̄ ̄| 

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|

じゃねぇか。 」と言う意見もあるでしょう。その意見は・・それは・・・・多分・・超因果からなる宇宙法則ダーマ定理からいえば間違っていると言わざるを得ません。

災害時には不確かな情報も必要です

池田信夫先生は一貫として

「確認してから言え」とかいうバカが多いが、読みたくなければ読むな。災害ときは、不確かな速報も必要なんだよ。放射能あびてから確認とってもしょうがないだろ

http://twitter.com/ikedanob/status/46491222621163520

という態度を貫かれております。正しい、圧倒的に正しい

この点に関して、反論として

・「災害時には不確かな情報は不必要。パニックが起きてから、「間違ってました」じゃしょうがないだろ」

・「災害時で錯綜していて冷静な判断が必要な時に、素人が不確かな情報を流してどうするのだろう。たとえば、火事場で煙が立ち込める中、馬鹿が大きなメガフォンで「焦らずに落ち着いて息を吸い込み、深呼吸しましょう」といったらどうなるだろうか。「放射能あびてから確認とってもしょうがないだろ」というが、緊急時に間違ってから「間違ってました。訂正します」じゃ遅いだろ。推測しか出来ない素人なら黙ってろ」

というような反論もあるでしょう。しかし、反論は決定的に間違っています。なぜ間違っているか?あとは・・自分で考えてみてください。伝えるって本当に難しいです

また、池田信夫先生はご自身の発言に関して、責任をとられる気も一切ございません。なぜなら素人からです

本人も

同じようなコメントがまだ来るので、次のdisclaimerを私のすべてのつぶやき最初に付加して読んでください:「私は原子炉工学専門家でも放射線医学専門家でもないので、以下は応急的な参考情報です。これをもとにした行動によっていかなる損害が生じても、私は責任をもちません」

http://twitter.com/ikedanob/status/48162119782367232

と「俺の発言によって何があっても、責任を持たない」と明言されています。

素人が発言に責任をもつと訴訟沙汰にもなりかねないでから、これは華麗なリスクヘッジです。さすが和製ポール・クルーグマン池田信夫先生ですね。

この発言に関しては、

・「間違った情報はRT、非公式RTされて拡散されて、本人がコントロール出来ないところで、誤解や混乱を招く。後で訂正しても気がつかない場合が多々ある。だから、発言に責任を持てないのなら、10万人のフォロワーがいるあなたは発言すべきではない」

しかし、この反論は決定的に間違っています。なぜ間違っているか?あとは・・自分で考えてみてください。伝えるって本当に難しいです

このように一貫して責任を持たないことによって、下記のような発言の揚げ足取り回避されています。

たとえば、人間クズ池田信夫様と違う意見をもつ人の総称)どもから指摘される御本人の『不確かな』発言としては以下のようなものがあります

日本人もいい人ばかりじゃない。ご注意を。 RT @chi_w01: 世田谷区杉並区で「安否確認」と称して早朝一人暮らし女性の家に複数の男性が訪ねてくる怪しい動きがあるようです。※高円寺で実際に来られた方がいま

http://twitter.com/ikedanob/status/46847496596635648

情報源がただのツイートであり、本当かどうかを確かめようがない『不確かな』ツイートをRTされておりますが、衆愚に「もしものこと」があったらと考えると、たまらずRTした池田信夫先生のご慈愛のあらわれであります

悪い方のことはメディアがいわないから、私のつぶやき過剰反応しているのかもしれないが、福島第一の周囲にはプルトニウムが出ているおそれがあるので、一般人永久に立入禁止になるだろう。チェルノブイリから半径30km以内には、永久に人は住めない。これは残念だが事実

http://twitter.com/ikedanob/status/48610261271187456

『だろう』『多分』『おそれがある』のような憶測や、どこを指すのかわからない『これは残念だが事実』という曖昧模糊とした部分は、誤読のおそれがある、と指摘されています。しかし、これはフォロワー情報リテラシートレーニングなので、池田信夫先生を責めるのは野暮というものです

原子炉建屋かタービン建屋かわからない」という不自然な発表は、原子炉が「爆発」したと思われるとパニックになるのでごまかして時間を稼ぎ、ホウ素などの措置とワンセットで発表するためだろう。こんな大事なときに嘘をつくことが国民の信頼を失うことに気づかない役人の浅知恵。

https://twitter.com/ikedanob/status/46544364264099840

これだけ少ない情報で「時間を稼ぎ〜発表する為『だろう』」と考えられるのか浅学非才の私にはよく理解できません。たぶん、私がバカだからですね。また、「原子炉建かタービン建屋かわからない」という報告は情報が錯綜している中の報告と考えれば不自然な気はしません。けれど、鋭すぎる洞察眼と大衆を救うというご慈愛溢れた信夫先生は、さらに踏み込んで「こんな大事なときに嘘をつくことが国民の信頼を失うことに気づかない役人の浅知恵」と看破されております。なぜこれだけ少ない情報で、陰謀論的に断定できるのか私めには到底理解が出来ませんが、聡明で明晰な池田信夫先生には衆愚には見えない物がみえているのです

このような池田信夫先生に対して、人間クズ池田信夫様と違う意見をもつ人の総称)からの反論としては

「10万人のフォロワー、RTを含めると数百万の潜在フォロワーがいる池田信夫の発言にはどうあったって「責任」が伴うから不確かな発言はやめろ。影響力のある朝日新聞とかが専門外の記事で適当こいたら「メディアは終わった」とか言うくせに。池田信夫素人だって知らない人に非公式RTが届く可能性は非常に高いのに、責任をもたないってひどいな・・」

という愚にもつかない反論があるでしょう。

この反論は、太陽神ガンビル様のご予言によるサルワンダ定理の第89法則によって完全に否定されるものであります

まとめ

さて、エントリー池田信夫先生に関する全ての反論は論破されたことがわかったと思います。

まとめると、主な人間クズ池田信夫様のご意見を理解できない人間からの反論としては

①「RTによって素人の発言が拡散されたらコントロールが効かない。誤った情報拡散した後、間違っていましたではすまない」

→アモナ神の予言、第89章によって否定される

②「情報が錯綜しているのだから、声が大きい素人フォロワー数がある人)は推測による曖昧情報を発信するべきではない。ユーザーが緊急時の行動を間違ったときに「先程のツイートは間違っていました」では遅い。RT、非公式RTを見た大勢の中にはリテラシーがない人もいる。

→絶対に間違っています。なぜなら、間違っているかです。深い理由はあなたの理解力を信頼しているので、言いません。ちょっと考えればわかるはずです

③「池田信夫氏は情報を発信するにしても、『多分』『だろう』『おそらく』という推測ばかり。推測ばかりの割に、役人の発表を陰謀論的に『嘘』『浅知恵』と決めつけている。たとえフォロワーが12だとしても有害だ」


→多分、おそらく、あなた意見は間違っているだろう。私にはわかる。残念だが、これは事実池田信夫先生意見を否定するのは、おそらく彼の賢さに気がついて拉致しようとしているCIAの一味に洗脳されたはてなーの浅知恵だろう。

このような幾許の反論も許さない正確無比で迅速かつ客観的な地震関連ツイートをすることによって、池田信夫先生の支持者は増加しました

ご自愛溢れる池田信夫先生ブログPVは、この地震で33万PVとなり、フォロワーも1万5千人増えました

そのことによって、さらに池田信夫先生のご自愛はさらに高まっていき、今後はご自愛の権化になっていくと思われます

ご自愛が高まりすぎたことにより、ご自身の意見を否定をする、愚劣なはてなーにも「人間クズ」と優しくたしなめられるのでございます。

経済学には疎いので、池田信夫先生の本懐である経済学の叡智を検証することが出来なかったのが心のこりです

さて、最後に確認テストです

人間クズは誰でしょう?

2009-12-05

http://anond.hatelabo.jp/20091205074927

先進国途上国から移民を受け入れることで維持していくようなら、その先進国は最終的に移民供給しつづけた国あるいは民族のものになっていくでしょ?

歴史上実際にあった話をすると、大化の改新(というのが教科書で言われてるようなものかどうかも議論があるがさておく)のころから奈良時代にかけて、朝鮮半島ではそれまで2~3世紀単位で続いていた三国鼎立+加羅(任那)の小国家群というパワーバランスが一気に崩壊して、紆余曲折あって新羅による半島統一に向かっていった。そうすると百済高句麗あたりの支配層ってのは難民化するわけで、そういう理由で半島の住民(今の朝鮮民族とは民族的に連続しない可能性もあるらしいがさておく)が日本に大量に流れ込んできたわけよ。『自称・神功皇后以来朝鮮半島三国+任那の主権者』であるところの日本にとっては、『日本に帰順するから居させてくれ』といわれれば断れもしない。

百済高句麗王族貴族日本貴族社会に受け入れられ、それより下の人々は技術的な意味で重宝され、少なくとも平安初期くらいまでは百済高句麗の遺民としての意識・集団性を保ちながら暮らしてたらしい。高麗神社とかその名残な。しまいにはそういった朝鮮系の人々の娘さんの腹から天皇が生まれるに至った(桓武天皇な)。

しかしそれで日本朝鮮化したか? というと、ご覧のとおりである。どっちかっていうと当時の唐文化のほうがよほど影響が大きい(漢字の音とか漢詩とか、奈良時代の建造物群とか)。

 

古すぎるよ! というなら宋末から明初にかけて漢民族が、って例も挙げられるが結論おんなじだし上に挙げた例より規模が小さいので。

 
アーカイブ ヘルプ
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん