はてなキーワード: 良心とは
お気持ち表現規制派を殴るついでに社会構築主義殴られても困るんだよねぇ,正直.
私は人文系で別にジェンダーの問題には関心ないけど,構築主義的な考え方は別にフェミニズムに限られた概念でもないし,社会学だけじゃなく人類学や歴史学でも受け入れられてる.
「民族」が構築されたもので云々みたいな話はさんざんされてきていているわけで.きちんと実証的にやろうとすればするほど構築主義の考え方を取らねばならない局面って多いんだよね.
社会構築主義への批判もあるにはあるけど部分的修正を促すものだし(たとえば「老人」というカテゴリの特殊性から社会構築主義の大前提を疑った論文もあり,これはかなり面白い),本質主義に戻れるかといえば戻れないので,まあ構築主義を受け入れた上でどうやって実証に活かすかという話になるわけだけど,そもそも社会構築主義はおかしいって言われると「ええ……」ってなるよな.
社会構築主義批判が悪いわけではなく,きちんとした論を立てて批判してくれるなら全然大歓迎なわけだけど,一部のアンチフェミな方々の議論は耳を傾けるべき水準に達していないので.
正直もう本当にうんざりなんだけど,お気持ちフェミニストを殴りたかったらお気持ちフェミニストをピンポイントで殴ってほしい.社会学批判とか始めるならネット上の断片的な社会学についての解説だけじゃなくてちゃんと社会学の本やら論文やらをちゃんと読み込んでほしい.当たり前のこと言ってるはずなんだけどなぜか通じない.いやキズナアイを叩くなら彼女の配信をちゃんと見ろとか宇崎ちゃんポスター批判するなら漫画を読めよとかと同じことを言っているはずなんだが? という.
表現規制を求めるお気持ちフェミニスト批判ならオタクとして賛成するけど,雑きわまりない構築主義批判を始めるならそれは文系の学問に喧嘩を売っているに等しいわけで,こちらも文系アカデミシャンとして「は? お前何言ってんの?」というモードに入らざるを得なくなるんだよな.
だからまあ私の感想は,去年キズナアイが叩かれてたときに書いたの(anond:20181011062902)と同じになるわけだけれど.
とにかく私は両側にもうウンザリ.ろくに事実関係を調べもせずVTuberについて基本的なことを知りもせずキズナアイを叩く連中にも,ろくに文系について知りもせずどんな研究をしているか理解もしないできないのにクソバイスを垂れ流す連中にもウンザリです.オタク叩きも文系叩きもクソくらえ.どっちも私の敵.
仕事仲間から趣味を貶められ趣味仲間から仕事を侮蔑されるのそろそろ勘弁してほしいわけですが,まあこの流れは収まらないんですかねと諦めモード.どっちの陣営にも話通じない人がいて辟易.
まあせめて自分が誰に喧嘩を売っているのかはちゃんと把握してくださいね.表現規制派を批判するためにフェミニスト全体を殴ると性の解放を唱えるフェミニストに流れ弾が当たるし,社会構築主義にまで戦線を広げるならフェミニズムや社会学だけじゃなく人類学とか歴史学にまで喧嘩を売っていることになるわけだけどそこはちゃんと自覚してます? 自覚がないなら攻撃対象はもうちょっと限定しようね.もしそれらの分野に喧嘩を売るなら各分野の基本書はちゃんと読んで勉強してねという話になるけど,その覚悟はありますか?
(もちろんこれは男性向けジャンルの潮流とか文化とかについて碌に知らずお気持ちで批判してくる一部のフェミニストや社会学者にも当てはまることだけどね.よりにもよってそのジャンルでデータベース消費論に基づいた雑分析をやりますか? ほんと勘弁してくれ.男性向けだからどうせ女体目当てのポルノだろうみたいなその偏見をどうにかしろ.オタク,というよりも男のセクシュアリティを単純化するな.参与観察なり文献調査なり統計なりの実証手法を使いこなせ.表象分析やるならちゃんと作品に向き合え)
ところで献血行って冴えカノのクリアファイルもらってきたんだけど,今期アニメで白衣着て献血のポスターに採用されてほしいキャラって誰? 僕は,クリーブランドちゃん! アズレン未プレイなんだけどアニメは見てます.出来いいよね.さすが艦これより先にアニメ化されるだけはある.ユニオンとロイヤルと鉄血と重桜でそれぞれ1種類ずつナース服のクリアファイルとか作って献血ルームで配布してほしい.あ,『放課後さいころ倶楽部』も捨てがたい.翠ちゃんいいよね……仮にコラボやるならやっぱり京都府内限定とかになるのかな……(やると決まったわけじゃないだろ起きろ)(もう一回『ヤマノススメ』とコラボしてほしいよぉ……)(いま気づいたんだけどアズレンの鉄血って「血」って字が入ってるから献血にちょうどいいんじゃないか? プリンツ・オイゲンが上から目線で献血を要求してくるポスターとか,どうすか)
似たような話題を似たような面子で似たようなコメントで殴り合うの見てるのは正直言って苦行なので、色々な所に飛び火するのは割とありがたい
勘弁してください.俺は楽しくオタ活や研究して気分よく献血したいだけなんです.献血ポスターを燃やされ趣味を踏み躙られた挙げ句に仕事にケチつけられるとかただただ迷惑でしかないんです……一部のフェミが放火してまわって一部のオタクが焦土作戦しかけてきてるのは巻き込まれた村人Aとしては消耗するだけなんだ……
これはっきり言っておくけど,去年のキズナアイバッシングに付随しての文系バッシングのときにも,私が書いた増田を読んで「こういうのが読めたのはよかった」と言ってる人大勢いたけど,私まだ根に持ってるからね.なんもよくねーよ.水が言葉を記憶しないことについてやたら解説が充実していたり数多の歴史的事件のなかで南京大虐殺にだけやたら詳細なFAQがあったりするのはちっとも良いことじゃねーよ.文系バッシングはこれっぽっちもありがたくないです.一部のフェミに好きな作品を燃やされてもちっとも嬉しくないのと一緒.宇崎ちゃんの売上は上がったらしいけどそれを素直に喜べるかといったら喜べないでしょ.宇崎ちゃんバッシングなんてない方が遥かに良かったわけで(もちろん表現の自由というものがあり,作品への批判をするなとは言わないのだが,しかしその批判をどう思うかというのはまた別の話で……).
社会学部に運動家が集中しすぎている。法学部や経済学部や文学部とは比較にならないほどに集中して存在する。社会学と社会学部全体がうさんくさいものとして見られるようになった。
社会学部なんて設置してる大学は少数派なんですが本当に印象論でしか語ってないんですねというのがよくわかる.偏見を正当化したいだけのノイズ.
この世界は全て物理法則に従って動いている、というのが本質主義なら実際それは多分正しいんだよなぁ…そこに戻れないのは単に人間の知性が追い付かないから「仕方がない」だけなので/クリーブランドはロリだから叩
学問的良心からはたかだか門外漢との対話なんぞのために本質主義を採用するなんてできませんわ.
社会学部を設置してる大学は少数派でたいていの大学に社会学部なんてものはないわけですが本当に印象に基づいたお気持ちで社会学を叩いているんですね(それとも,ひょっとして社会学部がある大学の卒業生なのかな?).
人によります.普通の句読点使う人とかカンママル好きとかコンマピリオド派とか.出版社だと東京大学出版会は横書きの本は基本コンマピリオドですね.岩波もそうだっけ?
「お気持フェミが自分のお気持の裏付けとして使用していますがそもそも関係ありませんし用法も間違っています」というならわかる。フェミニズムと深い関連があるなら批判に耐えるだけの論拠が欲しい
耐える以前の問題で批判側が雑すぎてマトモに相手してやる価値もないというだけの話なんですが.社会構築主義を批判するなとはもちろん言わないけど,批判の質が悪ければ歯牙にもかけないよ.当たり前でしょ.
というかそもそも,社会構築主義の是非と一部のお気持ちフェミの表現規制要求の是非って無関係だし.勝手にその2つを結びつけたのはアンチフェミの側.一部のお気持ちフェミには自由主義とか哲学とかのツールを使って対抗すればいい話で,社会構築主義を疑う必然性はどこにもないし,疑うっていうなら俺の立場は表現規制反対派のオタクから文系研究者に変わりますよというだけの話.文系研究者としては雑なアンチフェミの議論なんて支持できるわけないでしょ.一介の市民としてなら喜んで性的解放とか表現の自由とかを叫ぶけどさ.
本来ならそこは互いに削り合ってこそ信頼性が担保されるはずなのにおフェミさん達は互いにお手々つないで仲良しするからこうなの。社会構築主義の信頼性を担保したかったらおフェミがそれを乱用するのをたしなめろよ
マジで社会構築主義がフェミニズムのあいだでしか通用しない概念だと思ってんの? 馬鹿じゃないの? もう何度でも言うけど本当に馬鹿じゃないの?
文系の学問について無知なのは別に悪いことじゃないけど無知なのにこんな勘違いしたままでドヤ顔で物申すのは馬鹿で恥知らずだと思う.勉強しろよ.
社会構築主義はポスター批判側から確かにあんまり出てなかったけどいなかったかといえば居たような…。「表象」とかゆってた人はソレとは違うの?教えてください!
表象の話は『世界』5月号に載ってた小宮さんのやつかな? あれは社会構築主義とはあんまり関係なくない? いやもちろん関係ないということはないんだけど,小宮さんが言ってるのは表象と女性差別の問題だよね.
実のところ社会構築主義ってマジで社会について分析する上でのベースとなる考え方だから社会構築主義が滲み出てくるのはある程度仕方ないところはあるんだけど,anond:20191104014500でも書いたように社会構築主義の是非以前の問題だなと思うことはあるんだよね.ジェンダーは(というかセックスも)社会的構築物だけど,それは議論の前提であって,じゃあその上でどの程度の女性表象を許容すべきかみたいなそういう話は倫理とか哲学とか思想とかの領分じゃないですか.そこに社会構築主義はどうなんだみたいな話を持ってくるの不毛すぎない? ロールズとかの話しません?
ちなみに私は小宮さんの主張には反対するんだけど『世界』掲載論文の注10(236ページ)には同意する.みんなもっと本質的な話しよ.「そもそも男性だって公共空間で性的消費されてるんだから架空の女性が多少公共空間で性的消費されてたって別にいいじゃないですか」「性的自由の拡大が目指されるべきであって表象を制約しようとするのはおかしいでしょ」「医療のための広告には高い倫理性が求められるのだとしても,人気マンガの多少えっちなイラストを使った広告すら問題とされるのはおかしい.それは医療のための広告に求められる倫理の範疇に収まるはずだ」みたいな話しよ.
……この規制反対増田を多数の「お気持ち棍棒」で殴り倒して口封じし「パワフル表現規制」した方が、学問で論破するより遙かに低コストって事は確実そう。だから規制派は扇動するのか。なるほど、俺でもそうするな。
それは過大評価ですよ.私はフェミニズムに学問的反論を加えているのではなく,フェミニストの一般社会に対する主張の一部に対して一人の市民として反対しているだけだもの.私は知の体系としてのフェミニズムにはちっとも触れていないので学者としてフェミニストに勝つことはできません.それはジェンダー研究の偉い先生が私の専門分野で私に勝てないのと同じ.
気持ちはわかる。が、賛成批判両側ともに多数の人間がいる以上、雑でなんも考えてない意見は出るだろうし、そういう意見は大体過激でツッコミ所が多いから目立つんだよねえ。正直、どうしようもない気がする。
フェミニストのお気持ちで趣味を殴られるのもオタクのお気持ちで仕事を殴られるのも正直疲れ果てたというお気持ちがあるけど,でも流石に今回は献血ポスターが叩かれたということで全血献血15回以上行ってるワイもちょっとプチッと来たよね.これまでは割とフェミの言い分もわからなくもないという感じだったけどキズナアイバッシングと献血ポスターバッシングで「こいつらの主張は基本聞く必要ないな」くらいにまで変わった.メチャクチャすぎるものこの2件.でもこの2件でオタク界隈に吹き荒れた文系バッシングの嵐も忘れてないからね.キズナアイバッシングや献血ポスターバッシングを主導したフェミと社会学叩きや文系バッシングを煽ったオタクはどちらも僕の中では絶許という扱いです.あとpixiv論文事件での学問叩きのことも忘れてないぞ……(しつこい)
まあフェミのことなんて無視して表現の自由を満喫してオタクのことなんて気にせず学問の自由を謳歌すべきなんだろーけども,オタクであることも学者であることも私の重要な一部なので,そう簡単に忘れることはできないんだよなー.
あー、キズナアイの時と同じ人か。私の感想としては当時のこちら(https://anond.hatelabo.jp/20181010204115)の増田とほぼ同じです。ていうか、学問の重要さを訴えたいなら匿名じゃない場所でやったほうが効果的でしょうに。
ネット上の有象無象が学問をdisってるときになんで納税者様への説明責任みたいな話になるのか理解できんわ.科研費の報告書とかはちゃんと出してますし論文も書いてます.納税者様への責任はそれで果たしてるはず.はてブ民とか棘の米欄住人とかに丁寧に説明して差し上げる義理はどこにもないよね.
というかそういうこと言うなら同じ口で二度と民主党政権の事業仕分けを批判しないでほしいんだが……
匿名じゃない場所でやれ? 嫌です.自分の専門分野を誠実にさらけ出して物申した先生方がいたけど,どうなったかといえば物知らずの連中が学問分野ごと燃やしに来ただけでしょ.私は私の専門分野に無知と思い込みでケチをつけてくる連中を招き入れるつもりはありません.
あのさ,それは何一つ否定してないじゃん? 法学部や文学部と並んで社会学部って書くのはおかしいよねって話じゃん? 誰も社会学専攻は置いてないなんて言ってないじゃん? 学部の名前と学問分野の名称は往々にして乖離するもので,そんな肌感覚もなしに批判してるのかよって話じゃん?
ただ関西の方だと有名な私大には社会学部を設置しているところが多いので,関西の有名私大を出た人だと社会学部があるのは当たり前って思っちゃうかもしれない.関東の大学でも,例のキズナアイバッシングの急先鋒だったセンセの勤務先は社会学部だしね.けど繰り返すように全国的には社会学部を設置してる大学は少数派です.
「社会学部」と「社会学専攻」を混ぜて論じてよいと思っている人につける薬はありません.文学と文学部,法学と法学部を区別できないってことでしょ?
歴史学者や政治学者や文学研究者もヒウィッヒヒーには生息して色々発言しているわけだけど,社会学者への偏見があるから社会学者が目立っているように見えるだけでは???
昭和天皇の写真を燃やした作品について左翼はヘイトではないとか不敬ではないとか適当な屁理屈を並べ立ててこれを擁護した。
そういった写真を映像であれ何であれ繰り返し行うことは、その対象に敬意がないばかりか、感情を持たないからこそできることだ。
例えば包丁を持った人間が誰かを刺し殺そうとしているとしよう。
まともな人間であれば殺意があったとして踏みとどまる善良な心があるものである。一線を越えてしまうというのは心がある故に歯止めがかからなかったからこそ意味を持つのである。
これが左翼であれば一線というものはない。良心の呵責に苛まれることなく淡々と人を刺し、悪意や罪の意識なく対象を殺したと認識するまで包丁で刺し続けるだろう。
よくよく考えてみればああいった人間と対話をして分かり合おうという発想そのものが誤りだったのかもしれない。彼らの言う対話とは一方的且つ上からの教育ないし指導ないし説法を言うのであり相互理解とは無縁のものだ。ただひとつの正解があり、教育や指導をすれば必ず正解に導かれる、悪(とみなしたもの)も改心する、そういう洗脳を対話とするわけだ。知恵者は弁舌で相手をマウントする。マウントされたものはそれに従う。なるほどトップダウンである。余談だがYoutuberのヒカルはそういう素質がある。頭角を現すに足る能力だろう。
かつては原爆が広島長崎に落とされ、多くの同胞が命を落とした。記録映像は言うまでもない凄惨なものであり、見るものに強い拒否感を齎すものだ。児童が見たくない、親が見せたくないというのも頷ける。それは我々には心があるからであり、心があるからこその反応だ。
同じことは東日本大震災にも言える。東日本を襲った津波は世界中の人々を悲しませた。当時の映像は311が近づくに連れレコメンドに現れる。その動画を見るものは恐怖を覚えるだろう。少なくとも、その神の怒りとも喩えうる現象を間近で感じた我々にとっては、思い出すために忘れたいというほどのものだったはずだ。
首里城が燃え落ちたことで多くの沖縄県民は依って立つ土台を改めて奪われたのであり、その悲しみは本土人の私には理解の及ばぬ深さであるはず。また建て直そうなどと軽々薄々なことは言えない。建て直したところでそこにあるのはかつての首里城ではないのだ。少し話を逸らすが、本土では全く流通しない2000円札を森喜朗が余計なことをしたとか言う人をたまに見るが、あれほど沖縄県民に無理解な意見もないよなと思う。沖縄県で多く流通している2000円札、しかし本土では出回らないそれを便益だけで説明できるとは思わない。そこの温度差は常に意識しなければならない。
さてその首里城が火災に遭ったことで、多くの左翼が悲しみを表明している。表現の自由戦士もだ。しかしは私は疑問に思うのだ。コイツらは悲しみを表明する資格が果たしてあるのだろうか、と。
「たかが再建したレプリカじゃん」「燃えてはじめて完成するアートってあるよね。映像に映っている人たちの悲しみはまさにアートに突き動かされた人の気持ちそのものだよ」とか思っているのではないだろうか。私には彼らの模範生じみた意見を見るたび「内心そうは思っていないだろホラ吹き」と思ってしまうのである。
だからこそ問いたい。お前らは本当に悲しい気持ちになっているのか?
心あるならば意見を表明してみろ。
ジョーカーって映画がとんでもなく話題になっているらしい。確かに話題になるほどはある、最高の映画だ。さらに最高なのはSNSでまるで映画のジョーカーの延長線のような解釈合戦、社会的、政治的ポジショントークとマウント合戦も含めた一大議論が巻き起こっていて映画を見た後もずっと楽しめるってことだ。
かたっぽうにそれこそ絵に書いたような「この映画は社会の分断を生む危険な映画だ」って道徳マウントがあるかと思えば、もうかたっぽうには「あの映画のアーサーは、ジョーカーってのは俺なんだ」とジョーカーに同一視する弱者達がいる。そして、俺はジョーカーだ、と言う議論に対して、お前がジョーカーなわけねえだろイキリクズ野郎という更なるマウント戦略が展開されている。
実際、アーサーのように、ジョーカーになるってのは確かに大変だ。虐待と精神疾患と貧乏とあらゆる可哀想な悪人の属性を詰め込まれている人間は実際にはそうたくさんはいないし、アーサーと同じくらいギリギリを生きていても、実際に殺人に踏み切れない良心的な意気地無しのほうがずっと多い。ていうか、そうじゃなかったらこの映画が公開された途端社会はえらいことになっている。えらいことになってないってことは俺たちの社会はどうやらまだ健全ラインの上にいるらしいという証明なんだろう。
じゃあ俺はアーサーだジョーカーと言い募る連中は勝手に勘違いしてイキっているだけなんだろうか?そうかもしれないが、俺はぶっちゃけそれで全く構わないと思う。客観的にどんなにその人間がアーサーとは別の属性の人間でも、本人が辛い気持ちを抱えていて、映画を見て自分が共感できる主人公を見つけて入れ込むこと自体はとっても健全な楽しみ方じゃないか。そうしてジョーカーと自分を同一視して、空想の犯罪で自分を満足させられるならそれは社会にとってもいいことだ。アーサーほど可哀想属性を詰め込まれたやつはいなくても、まあそのうち属性が一個くらいはかぶるやつはいるだろう。そういうやつが共感したっていちいちマウントなんか取ってられないよ。
そんな中からジョーカーみたいに「やらかす」人間が出てきやしないかって?たかが映画で社会がそんなに乱れるわけ無いでしょうが。大体、ジョーカーの作中だってそんなにアーサーは覚悟完了してたわけじゃなくて、なんか成り行きで人を殺すことになったらなんか祭り上げられただけで、基本的に受動的だ。そもそも、この日本社会でジョーカーみたいなやつが本当に出てきたとして、あんなに上手くいくと思うか?
お生憎様、インテリの人たちが心配している以上に、日本社会ってのは道徳的で、道徳的じゃないやつへの監視の目は厳しい。そもそも衝動的にぶっ放せる銃が日本にはない。仮にアーサーに共感しまくって爆発するやつが出てきたとして、そこまで大げさなことにはならないし……ましてや俺たちは世間の美名のもとに悪いことをしたやつをぶっ叩くのが大好きだから、あんなに祭り上げられる未来はちょっと見えない。どれほど貧困が拡大し、生きづらさをこじらせた人間が増えても、この社会は今のところ、そうした人間が死のうが生きようが殺そうが、大して気にもとめないってわけだ。
それにだ。多分だが「俺はジョーカーだ」と言ってるやつってのは、社会に合法的に脅迫したいだけなんじゃないかな?いや俺も自分はジョーカーだとは思わないけどそんなタイプだからわかるんだよ。もっと社会に目を向けろ。貧困層や精神疾患者への理解を高めろ。ていうか俺を見ろ。ブラック企業なくせ。「でないと」ジョーカーみたいなやつが出るかもしれないぞ、俺がそうかもしれないぞ、って……かわいいもんじゃないか。いいんだよ、映画の感想なんてそれくらい緩くて。楽しめたやつが偉いのが映画、楽しませた映画が一番偉い、そうだろ?大丈夫、ここは日本だぜ?
そりゃ俺だって、毎日顔を合わせる仕事場の口うるさいババア共やクソ上司を殺したいとは思うよ?ジョーカーみたいにバン、とぶっ放してみたい、その上で「こんなクソな職場が俺を追い詰めるから悪いんだ」と問題提起もしてみたい。でも俺はジョーカーじゃない。そんなことをする度胸はない。覚悟も勇気もない、ただのクソザコ無責任マンだ。それに実際殺したら俺みたいなやつにこういうとこでボロクソに叩かれたり、マスコミにあることないこと書かれるし……後やっぱりなんだかんだ殺すのは可哀想だし良心が痛みそうだよね。俺以外のやつが俺とは無関係に俺の嫌いなやつを殺してくれたら助かるんだけど。
そう。多分俺も含めて、皆ジョーカーのジョークに楽しませてもらってるだけなんだ。社会ってのは皆の想像する以上に盤石で、簡単に壊れるものじゃない。簡単に変わっていくものじゃない。それを変えたり壊すことは本当は皆内心諦めてる。だからジョーカーは「そういうやつら」の希望になったんだ。ジョーカーというアイコンを盾に社会を合法的に脅迫して、自分が空想の世界でジョーカーのようにやらかすのをイメージしてスッキリする。皆がそうしてスッキリしたら犯罪はむしろ減るかもしれない。ジョーカーのジョークなのに社会にいい影響を与えちゃいそうじゃないか。
だから皆、もっと俺はジョーカーだってイキっていこう。ジョーカーすげええええって騒いでいこう。無責任にジョーカーを祭り上げていこう。そっちの方が楽しいだろ?ジョーカーって映画の一番いいところは、ジョーカーのおかげでゴッサムシティの市民たちも幸せになれたってことだと思う。俺たちは残念ながらゴッサムシティの市民ほどにもはっちゃけられないけど、こんな素晴らしい映画でばか騒ぎできるのは滅多に無いことだ。皆ジョーカー観に行こうぜ!
そうして本当にはっちゃけすぎて、あんたがジョーカーみたいにぶっ放したり、市街を火炙りパーティーにしてしまったらどうなるかって?まあ、出来るなら無責任な市民役として適当に奉りたいけど……ここは日本だからな。そんな悪いことはできない。匿名のマスクをかぶって道徳的な人間のふりをして、心で喝采を叫びながらネットであんたを叩きまくることにするよ。そんな事件が起きたら俺も職場で少しだけ生きやすくなってあんたは俺の希望になるだろう。願わくばあんたに恨みを買って殺される役回りなのが俺でないことを願うばかりだな。
米屋がやってるらしい。
旨いのか?それほどでもないが、米のまずい弁当よりは随分ましだ。
もしかしたら、米が旨い部類なのかもしれないな。
ただ、弁当の総量が少なめで、俺には足りない。
でも価格は300円~400円、おにぎり100円と良心的なので、
税込み。
こんなに食ってちゃいけないのかなぁ?
このままじゃ太っちゃうなー。
でもお店が閉店にならないように、応援したいと思った。
少し脇道にそれて、下着の広告について考える。街に下着の広告があったとして、下着メーカーは、単に下着の魅力を伝えたいだけで、性的な消費のためにポスターを掲示するわけではない。しかし一方で、下着の広告を性的であると受け取る人間は存在するし、客観的に見れば非常に露出度の高い表現である。
赤十字がヴィクトリアシークレットとコラボレーションを行い、下着姿の女性が献血を呼びかけるポスターを作ることはあるだろうか。あまり無さそうに思われる。下着姿の女性を下着の広告から切り離した場合、それは過度に性的な存在になると感じる人が多いのではないだろうか。逆説的に、下着姿というものは本人の意志に関わらず本来は性的であり、下着の宣伝という文脈でのみ、その性的さが阻却される、とも言える。どうやら、現在の日本においては、下着の宣伝においては、性的な要素の含有は問題ない、という社会通念上の合意が得られているようである。なぜそのような合意が今日の日本で得られているかというと、下着というのは、日常の生活でほぼすべての人に必要だからであろう。ここで注意すべきなのは、このような合意は、現在の日本において、という前提である。宗教や国、あるいは時代によっては、このような合意が必ずしも得られていないことは容易に想像できる。このような合意は、社会における価値観のすり合わせによって形作られたと言っても良い。
このような合意が、他の性的な表現と比べた場合に一貫性にかけるという指摘は、ある意味では妥当である。先に述べたとおり、文脈や背景を考慮せずに、客観的な露出度などを基準に性的な表現を判断することを是とする場合、「下着の広告である」という文脈もまた切り離すべきであるといえる。例えば、文脈を理解する力が弱い子供にとって、下着の広告は単に性的でありえる。実際に、「小さい頃は通販雑誌の下着のページを良く見ていた」という男性の話も聞いたことがある。このような場合、たとえ広告に性的な意図がなかったとしても、子供に悪影響があるかもしれない。大人の都合によるこのようなダブルスタンダードともいえる基準が子供に悪影響を与えているという指摘がなされた場合、どのように答えるべきであろうか。ダブルスタンダードを廃して、下着の広告も露出度を基準として規制すべきだろうか。あるいは些細な影響だとして現状を維持するべきだろうか。「下着の広告は性的に見るためのものではないので、勝手に性的に見るのはやめなさい」という教育を行うことに意味はあるのだろうか。
この点については、正直なところ私自信もあまり明確な結論を持っていない。直感的には下着の広告ポスターに規制をかけることはバカバカしいと思っている。下着広告においては、それが性的消費に向けたものではないという認識があるからだろう。しかし同時に、それはダブルスタンダードであると言われた場合、うまく返答ができない。「あなたが下着の広告ポスターに規制をかけるのをバカバカしく思う気持ちは、私が宇崎ちゃんのポスターに対する批判をバカバカしく感じるものと同じです。なんなら、露出度が高い分、子供への悪影響は下着の広告ポスターの方が大きいですよね」と言われた場合、あなたはなんと答えるだろうか。「エロくないものを勝手にエロく見るほうが悪い」といえば問題は解決するだろうか。
ちなみにであるが、恐らく多くの成人男性にとって、下着の広告ポスターは多かれ少なかれ性的なのではないだろうか。男性は、単にTPOをわきまえて性的な表現に対するリアクションを行っているだけであって、教育によって下着の広告ポスターを「性的に見なくなった」わけではない、気がする。「勝手に性的に見る」のをやめられた男性がどれぐらいいるのかは気になるところである。性的に感じつつも、見ていないふりをしている男性の方が多いのではないだろうか。
ところで、宇崎ちゃんの作者は、宇崎ちゃんを性的に表現しているのだろうか。宇崎ちゃんの作者の内心はわからないので、2つのケースを考えてみる。
1つ目は、宇崎ちゃんが、男性に対してのアピールを増すために、意図的に性的な要素である乳袋を与えられた場合である。この場合、宇崎ちゃんには、性的な要素が意図して組み込まれた背景が存在することになる。そして、宇崎ちゃんが性的である、というポスター批判派の指摘には、一定の妥当性がある。
2つ目は、単に可愛い要素を詰め込んでいたら乳袋になっていただけ、という場合である。既に乳袋が一般的な表現になっている世界において、宇崎ちゃんにちょっとした可愛さの一要素としてそれが組み込まれた場合、宇崎ちゃんに性的な意図は含まれていないと考えられる。この場合、宇崎ちゃんを性的であるとみなす言説は、本来は胸が大きくて可愛いだけの宇崎ちゃんを「勝手に性的に見ている」行為になる。つまり、興味深いことに、ポスター批判派こそが、人の格好を勝手に性的であると見なして騒いでいる存在となるのだ。ポスター擁護派の中には、この立場に立って、ポスター批判派こそが「エロくないものを勝手にエロく見ている」と指摘する人もいる。一方で、乳袋が性的な表現ではないという前提は、現在の日本においては広く同意が得られた認識ではなく、この立場に立つことはポスター擁護派の欺瞞である、という指摘もある。
実際のところ、作者がどういった意図で宇崎ちゃんを作ったのかはわからない。恐らくは前者であろうが、オタクコンテンツの一般的化が進んだ現在において、後者のような状況が起こる可能性もある。乳袋ネイティブ世代にとって、乳袋は猫耳ぐらいのカジュアルな属性かもしれない。また、乳袋や韋駄天の靴下は極端にしても、絶対領域やミニスカート、胸の谷間やおでこ、猫耳や表情といった要素になると判断が難しくなるのではないだろうか。下着広告においては、「性的消費目的ではない」ということが明白であるため、「エロく見るほうが悪い」という切り捨てに一定の妥当性が与えられる。しかし、こういった未定義エリアにおいては、表現者と受け手のどちらかに、一方的に責任を押し付けることが難しくなる。
これらの思考実験を前提とした場合、「かわいい」「綺麗」あるいは「性的」「エロい」というのは、外形上非常に線引が難しいと認めることになるだろう。ある人にとって単に「かわいい」だけの格好が、別の人には「性的に」映ることは避けられない。また、性的消費の意図が表現者に存在したかどうかを基に判断をするというのも、同様の理由で困難が予想される。さらに、仮に性的な消費を前提として表現された性的な要素だとしても、どこまでが許される「性的さ」で、どこから先が自粛すべき「過剰な性的さ」なのかについても考えなければならない。
今回の乳袋については、個人的には、性的な消費を前提とした性的な要素であるが、過度に性的とまでは言えないかな、という認識である。オタク表現に馴染んでいるためのバイアスが掛かっていることには自覚的であるが、なんとなく肌が露出していなければセーフという気もする。また、表情について言うと、これは恐らく性的な消費を前提としていないであろうと考えている。作者は単に宇崎ちゃんのうざさを表情で表しているだけのように見受けられる(これをアヘ顔とは呼ばないであろう)。
繰り返しになるが、このような受け取り方は、私個人のものであり、人によって異なるであろう。それ自体が悪いことであるとは、私は考えていない。
多様性は大切にするべきであり、多様性を大切にするのであれば、お互い似好き放題やって、相当な衝突が発生しない限りはお高いに許容しよう、という考え方がある。仮に、件のポスターが性的であったとしても、「そういう表現が好きな人もいるよね」で終わらせることができるのであれば、それで全ては解決する。一部のポスター擁護派からはこのような世界を理想とした言動が見受けられる。
しかし、この考え方は現実世界においては、非常に運用が難しい。「相当な衝突」の定義が人によって異なるからだ。ある人にとって些細なことが、別の人にとっては大問題というのは、それこそ多様性を前提とするれば数多く発生するだろう。そうなった場合、結局は社会的なすり合わせが行われて、自主規制として運用されることになる。私個人としては、なるべく多様性を尊重する観点から、多少気に食わないことがあってもスルーするのが美徳であると考えている。しかし、だからといって他人に対して「それは些細な問題であるからスルーせよ」と強要するのは良しとしない。件のポスターを女性差別の問題として扱う場合、その人にとって、それは些細な問題ではない可能性がある。多様性の尊重とは、相手に黙認を強要するための武器ではなく、互いの価値観をすり合わせて妥協点を見つける営みであるとも言える。もちろん、そのようなすり合わせは非常に高コストであるし、お互いに面倒である。繰り返しになるが、自由を維持するための不断の努力とはこういうものなのだろう。
ポスター擁護派の中には、仮に宇崎ちゃんが過度に性的であるとして、そこを指摘する必要性はあるのか、と問う人もいる。件のポスターを女性差別や性犯罪と関連付けて批判する場合、他にもっと重大な問題が存在するのではないかという指摘である。私自身は、この指摘は意味をなしていないと考えている。仮に、宇崎ちゃんのポスターが性差別上問題があるのであれば、それが他の案件に比べて社会的に些細な影響をもたらさないとしても、指摘することは問題がない。もちろん、リソースが有限である以上、より重大な案件からあたるべきだという意見には一理あるが、それを強制することは誰にもできない。あるいは、ポスター批判派は単にキモオタもしくはオタクコンテンツが嫌いなだけなのではないか、という指摘もある。この点については、個人の内心がわからない以上、そこを議論しても無意味である。しかし、どのようなチベーションの人が存在するとしても、言論それ自体にはロジカルに対応する必要がある。論者自身の姿勢への批判と、議論内容そのものへの批判は分けて考えるべきであろう。
極端な話では、なる可能性はある。すでに述べたとおり、規制は強化される方に圧力がかかりやすい。ポスター擁護派はこのような自体を避けるために、無理に譲歩する必要は無い。最も、私自身はこの点については、あまり心配してはいない。仮にあらゆる肌の露出を性的とみなす言説が現れたとしても、現在の日本において多数派の同意は得られないであろう。
ある意味ではミラーリングが起こっているのだが、「男」という言葉を「雑に」用いた意見に対する反発が、少なからずあるように思われる。これはすでに多方面から指摘されていることであるが、「多くの」男性にとって、性犯罪あるいはセクハラというのは実際のところ未知の事象であり、「多くの」男性は、少なくとも自らが犯すのは避けるべき行為であるという倫理的、良心的な規範を持ち合わせている。このことが逆に女性が日々感じている女性ゆえの困難さへの無理解につながるのだが、一方でその困難さへの責任を「男」というまとめにより自身へも向けられたとき、その男性にとっては困惑しかない。これはある女性が「女性」として差別されるのと同じく、ある男性が「男性」として差別されている相似形と言える。「多くの」男性は、このような女性の困難さに対して同情的であるし、不正義だと考えるであろう。しかし、一方であなたもその片棒を担いでいる、と責められるのは理不尽であると考えるのではないだろうか。女性であるという理由でハイヒールを強要されることを良しとしないのであれば、ある男性は男性という理由だけで責任を押し付けられるべきではないし、罵倒を浴びせられるべきではない。このような行為は、男性でも女性でも、アメリカ人でも日本人でも傷つくことである。差別は良くない。単純だが、これは切実な問題である。本当に傷つくのだ。
ある属性の人々が憎まれるのは、過去にその人達が行ってきたことのせいである、という考え方もあろう。しかし、どうか、属性で人を憎むのはやめることはできないだろうか。「罪を憎んで人を憎まず」とまで言うつもりはない。なにか嫌なことがあったときに、原因となった個人を憎むのは、あるいは避けられないだろう。しかし、その原因となったその個人の属性までを憎むようになってしまうと、文字通り憎しみの連鎖が始まってしまう。気持ちは分かるけど、なんとか堪えられるといいと思う。難しいけど。また、議論においては、そのような発言は大いに弱点になるので戦術的にも避けたほうが無難ではある。
ところで、先程から使っている「多くの」という表現であるが、ここに闇が潜んでいるのではないか、という指摘もある。社会は階層や年代、あるいは地域ごとに特性があり、私が感じるところの「多くの」というのは、あくまでも「私の身の回りでは」の話となる。ある女性にとって、身の回りの「多くの」男性が、その女性にとって好ましくない特性を備えているという状況は、恐らく確率的にありえるし、どちらかというと、そういったことは特定のグループにおいて偏って発生するのではないかとすら推測できる。私が前述した、「多くの」男性が倫理的、良心的な規範を持ち合わせているという言説についても、同意できない人はいるであろう。
インターネット上の議論においては、そういった各人の異なる背景が共有されないまま発言が行われるため、話が非常にややこしくなってしまう。ある人は、身の回りの男性を原因とする数多くの困難を経験した上で、その経験に基づいて何かを述べるのであるが、そのような経験は必ずしも前提として共有されていない。そのような発言を、同様の困難を経験したことのない人が見た場合、大げさだったり、被害妄想が激しいか、あるいは単に攻撃的な人物の発言のように写りがちである。このような両者の異なる認識は、それぞれ異なる経験に基づいたものであるから、それぞれ「正しい」のである。そして、正しいからこそ厄介であり、それぞれが無意識に持っている別々の前提をすり合わせないままに議論を続けると、平行線のまま話が進むことになる。Twitterのような短文のプラットフォームでは、なおさら背景が共有されないまま議論が行われることになりやすい。
以上のことを考えるに、もしも発言の中に「常識」や「普通」あるいは「当たり前」「当然」「明らか」といった言葉を使っていた場合は、特に考え直したほうがいいかもしれない。あなたにとっての「常識」は非常に限られた範囲でのものである。しかも、これらの言葉は「正しさ」をニュアンスとして含有していることから、それに当てはまらない人(恐らく沢山いる)に対する悪意と捉えられやすい。当然ながら、「異常」とか「おかしい」とか「論外」といった強い表現はなおさら安易に使うべきではない。これらの言葉は人を傷つけるし、ロビイングの戦術としても周囲の理解を得にくくなる。すでに「主語が大きい」ということはよく言われるようになったが、これらの表現にもできるだけ留意するようにしたい。
まだ続くのすごない?
これであなたは安いと思うだろうか、高いと思うだろうか。
某"マンガ制作研究組織"(サイトにそう書いてある)が設けている様々なコースのひとつに「持ち込み先・進路相談」というコースがある。
これを担当している"漫画ソムリエ"のコースを選択すると「パーソナル萌え診断(マンガ占い)」というオプションが選択できる。
「持ち込み先・進路相談」は、昨今はメジャーな出版社かマイナーな出版社か、紙媒体か電子媒体か、そして少年漫画か少女漫画か青年漫画か、はたまたアダルトか百合かBLかTLかレディコミか…と雑誌も多種多様なので、自分の作品はどの雑誌に沿うのかな…とお悩みのあなたにピッタリの持ち込み先を教えてくれる、というもの。
そのオプションの「パーソナル萌え診断(マンガ占い)」は事前に好きな漫画作品を5つ挙げ、そこからあなたの萌えを導き出してくれるというもの…。
その「パーソナル萌え診断(マンガ占い)」を求めて「持ち込み先・進路相談」を申し込み、オプションにチェックをつけた。
僕は持ち込み先なんかはどうでもよかった。ただ"推しキャラ"が欲しかったのだ。
僕の好きなキャラは、太った女性だ。しかもあまり若くない太った女性。
「ぽっちゃり熟女」とは違う。なんだかそれだと性的対象として見ている気がするし、あくまでマスコットとして「このキャラ応援したいな!」と見ていたい。
「バブみ」ともちょっと違う気がする。母性は求めていないし、というか巨乳じゃなくても別にいい。(バブみ=巨乳じゃない!という意見もあると思いますがここはスルーで。)
今一番みなさんに伝えやすいキャラクターだと「AKIRA」の"おばさん"ことチヨコもかなり理想の女性キャラなのだが、こういうキャラって他の漫画にいないっすかね〜と漫画好きの人に聞くと、だいたい「あーそういう感じね(笑)」と中二病を見る大二病みたいな目で見られてしまう。
ということで、古今東西の漫画を知り尽くす漫画ソムリエなら僕の苦悩も救ってくれようと思い、この度相談してみた。
あと普通に面白い漫画も知りたいと思ったので、とりあえず5つ漫画も挙げようと思ったが、突出して5つというものが見つけられなかったので「〜〜で〜〜な感じの漫画が好きです」と書いておいた。
結果を先に書きます。
僕の求めるババアは得られませんでした。
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相談はオンラインチャットで行われた。(対面での相談もあるようです。)
まず先に挙げた5つの漫画、ではなく「〜〜で〜〜な感じの漫画が好きです」の文章を読んで、漫画ソムリエは「えーと、こういう感じではなくてですね…」となにか困った様子の語り出しになった。
というのも「パーソナル萌え診断(マンガ占い)」というのは 5つの漫画をピックアップ→その中で特に好きな点をピックアップ→そこからあなたの中に潜在する萌えを発掘する、という工程だったのだ。
つまり「王道少年漫画Aと王道少年漫画Bと王道少年漫画Cと王道少年漫画Dと王道少年漫画Eが好きです!」と申告すると「なるほど…あなたは友情・努力・勝利という図式が好きなんですね」「ナルホド!!」という感じ。(さすがにこれはやりすぎだけど。)
だから「〜〜で〜〜な感じの漫画が好きです」と僕が書いたのは最初から占い結果を言っているようなもので、先方からするともう特に何も言うことがないのだ。
当初の望み、ババア探しだ。
僕「◯社の〇〇という雑誌でやっている〇〇ってあるじゃないですか、あれの主人公◯の友達の◯さんが最高なんですよね」
漫画ソムリエ「うーん、主人公◯まではわかるんですが…ちょっと調べてみますね、…この大きいキャラですか?」
僕「はい」
相談は難航した。
いやこれは若すぎますね……。これはデブっていうか巨乳、しかも「あらあらうふふ」のバブみ系ですね、別にそこありきじゃなくていいです……。あーそれは同性愛の作品ですよね、そうじゃなくてただぬいぐるみ的に見たいんですよ……。これはギャグじゃないですか(怒)。うーん、いや、バブみじゃなくてですね……。
最終的には漫画ソムリエも手詰まりになってしまい、60分を過ぎても必死に作品を探してくれた。良心的だ。
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結論。
漫画ソムリエは広く浅く知識を所有している。それが仕事だからだ。
狭く深くとなると、それは研究になってしまう。仕方のないことだ。
ニッチな好みを持っている方は、これからも共に苦しみましょう。
(この1時間強の中で「作家のためのSNS運用講座」も同時に受けて、これについても色々書きたいことがあるんだけど、増田って続きは書けるのかな?初めて投稿するのでわからない。)
あぁもうバカ…。「なんで罵倒されるのか分からない」って?お前が議論する価値も無い無知のバカだからだよ。
思想及び良心の自由は、表現の自由などの各種精神的自由権の前提となるものとして把握される。その内容が内心の自由であることから、他者の人権との抵触による権利の制約や、政策的目的による制約が極めて限定的にのみ許容される権利であり、最大限保障される権利である。なお、近年では、思想・良心の自由は思想・良心を形成する自由や外部に表明する自由も保障しているとする説も有力に主張されている。
また、思想及び良心の自由は、民主主義・民主制が機能するための最低限の自由としての側面も有する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95%E7%AC%AC19%E6%9D%A1
些細なことなんだけど、自転車に乗せてあったライトとモバイルバッテリーを盗まれた。8年半ぶりだ。
近所の小学校が避難所になったので、朝片付けの手伝いに行った。外に出たらとっても空が青かったから、やっと水が引いた川の土手に出てそのままサイクリングロードをぶらぶらと走った。
真っ青な空と、いつもよりずっと幅の広い川はなんとなく知らない世界みたいで、不謹慎にもとても気持ちが良かった。
お腹が空いたのでラーメン屋に入って外に出たら、自転車に付けてあったフロントバッグが開いていた。
そのときはいかんいかん、開けっ放しで走ってたかななんて思ったんだけど、家に帰ってよく見たら、底の方に入れてあったライトとモバイルバッテリーだけがピンポイントで無かった。
他にもタオルやら工具やら入ってたので見落としてたんだけど、確かにライトとバッテリーだけが無かった。
やられた。盗まれた。
うっかり落としたかな、どこかに忘れたかな、なんて思ったけど、1ミリ秒でその思索は打ち消した。間違いない、さっき充電が終わって、この手でバッグに入れたんだよ。
ライトはボロボロのUSBライトだけど、バッテリーは買ったばかりのアンカーのPowerCore10000だ。ふざけんなよ。3回くらいしか使ってねーんだよ。
自転車に置きっぱなしだったのは油断だったけれど、ジッパー開けて盗っていく奴は完全な悪だろうが。
すぐに、前にも同じことがあったことを思い出した。
あの日俺は仕事で、自転車に乗って都内を走り回っていた。自転車で動けたのが俺だけだったから、災対やらなんやらで大忙しだったんだよ。
そんな夜、自転車に付けてあったライト2個と、モバイルバッテリーを盗まれた。よく覚えてる、eneloopのモバイルブースターだ。
盗まれたことそれ自体よりも、その時なんとなく必要だと思ったから盗っていくという行動を取る奴がいるということにひどく困惑した。
モノの値段云々よりも、自分が良ければいいっていう屑野郎がいることに戦慄した。ほんの些細なコソドロのせいで、人間ってクソだなとすら思って酷く落ち込んだ。人間には、悪がある。なんとなく、クリストファー・ノーランのダークナイトを観た時のような気分だった。
盗っていった奴に言いたかった。お前には、そのライトは必要ない。
忘れかけてた時に、またやられた。
俺のモバイルバッテリー返せよ。ふざけんなよ。てめえ、人の良心を返せよ。
必要な人がいると思ったから持って行ったんだよ。クソが、返せよ。俺の、バッテリー、返せよ。
お前はこんなところは見てないだろうけど、許さねえからな。
これ https://www.hagoromofoods.co.jp/carboff/
すごくおいしいというものではないけど、ベースパスタとかAll-in PASTAとか、明らかにパスタでないものがパスタを名乗って跳梁跋扈する昨今ではかなり良心的というか、普通にパスタと名乗っていいパスタだと思う
Amazonで買ったばかりの頃は「堅くてまずい!」と思っていたんだけど、紆余曲折の上、普通に食べれるようになったので、その知見をメモしておく
AmazonでCarbOFFを検索すると、まず間違いなく1.6mmのAmazon限定商品が引っかかると思う
一般的なパスタだと1.4mmより1.6mmのほうが一般的だから、Amazonがはごろもフーズに作らせたのかな…などと思うが、真相はよくわからない
とはいえ、これを最初に買ってはいけない。おいしく食べる方法があるのかもしれないが、たぶん高難易度だ
後述するが、CarbOFFはなぜか公式のゆで時間を短めに書いており、1.6mm-15分となっているが、そんなんでCarbOFFが茹で上がるわけがない
結果として、堅くてまずい「糖質オフだから」というエクスキューズのパスタのようなものを食べる羽目になる
1.6mmは買ってはいけない
それで何を買えばいいかというと、Amazon限定ではない1.4mmのCarbOFFだ
なんでか知らないが、1.4mmはAmazonからは販売していないので、マーケットプレイスから買うことになる
配送料無料のやつは、楽天の商品に比べても良心的だと思う(楽天だと、大量に買わせるか、送料無料をうたって商品の値段に送料が含まれていたりするので
1.4mmを買ったとして、これをパッケージに書いてある10分で茹でると、堅い
なので14分茹でる
これはAmazonのページに書いてあったものをそのまま取り入れた
標準ゆで時間は10分ですが、若干硬めの食感ですので、通常の硬さがお好みの方は13~15分ゆであげることをおすすめします。
さっきパッケージを確認してみたが、どこにも「若干硬めの食感ですので、通常の硬さがお好みの方は13~15分ゆであげることをおすすめします」などということは書かれていない
これで罠にはまる人は多いのではないだろうか
14分茹でると、割と普通の食感になる。たぶん食べ比べれば差異はわかるのだろうが、ゆで時間が短いときの「あきらかにパスタではない」食感はなくなると思う
これ https://www.amazon.co.jp/dp/B07PPS1V9N
調理方法を知らない頃にCarbOFFに絶望して買ってみたのだが、パスタではない。どちらかというとうどんとかラーメンに近いと思う
パスタソースに絡めれば、一応そこそこ食べられるが、一体何を食べているんだろうかという感覚になる
企業努力は感じられるが…
「CarbOFF 茹で方 おいしい」みたいなので検索すると出てくる
これも、初期の頃にやってみた
一応、柔らかくはなる…なるが
ラーメンの風味はまあ我慢できたか、重曹を入れるととにかく吹きこぼれやすくなるので、いちいち鍋を見張っていなければならない状況は、適当に料理を済ませたい状況と相反する感じだった
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Amazonのレビューを見ると「堅い」「まずい」が目立つが、糖質オフでちゃちゃっとご飯をすませたい向きには大分ありがたい存在なので、それなりに評価されてほしい
民度の低下が嘆かわしい
アニメから入った人なら分かると思うが、アニメ派に原作ネタバレでマウントを取る奴がやたらめったら多いのである
アニメしか見ておらずアニメ化された範囲までしか原作を知らない視聴者に本誌や単行本のネタバレをする読者は配慮というものを知らないのだろうか
アニメ派はただ純粋に楽しみたいだけなのに鬼滅民にはネタバレ配慮の心がない
Twitter、TikTok、YouTube、Abema、ニコニコ、pixiv、Google、Wikipedia、その他インターネットのあちこちで原作ネタバレが横行している
鬼滅のタイトルやキャラ名や画像を調べるとネタバレを踏む、なぜこんなにも民度が低いのか
アニメ派のこのような悲痛な叫びは鬼滅民の卑劣なネタバレテロにより途切れるどころか増加する一方である
なんと、鬼滅やキャラ名で検索しようとするとまず表示される検索候補でネタバレを踏んでしまうのだ
もちろん検索すると原作既読者による原作未読部分のネタバレが飛び交っている
本誌や単行本の感想や考察を発売されたものを購入したからといってふせったーなしでべらべら喋る奴は自重や配慮という言葉を知らないのか
原作に一銭も落とす気のない人間がこれからも鬼滅を楽しむためにも検索に引っかからないよう原作勢は鍵をかけろ
おすすめをオフにしてトレンドの地域を日本から適当な他国に設定すればトレンドでネタバレを踏むこともなくなるが、日本のトレンドがどうしても見たいもしくは知性がないので設定を変えることはできない人のことも考えてほしい
劇場版製作発表で原作読者はテンションが上がったかもしれないが、自衛はしないが配慮は求めるアニメ新規を大切にしろ、トレンドに上がるほど呟くな
鬼滅読者をフォローしているとスクロールするだけで本誌ネタバレツイートが目に入ってくる、どうしたらいいんだ
「本誌」や「単行本」や「バレ」などネタバレになりそうなワードをミュートするのは手間だからしたくない
手間暇かけてミュートしても、本誌バレなどの注意書きすらなしにミュートをすり抜けて二次創作絵や漫画など画像で原作のネタバレが飛んでくる
iPhone公式アプリの機能でメディアのプレビューをオフにすれば画像や動画のプレビューが非表示になるが、なぜわざわざそこまでしなくてはならないのか
PCでTwitterを見るときはブラウザに拡張機能「GoodTwitter」を入れて「Stylus」を入れて画像を表示しないユーザースタイルをインストールすれば画像を非表示にできるが、アニメで追いたいだけで単行本を買ったり本誌で応援する気はない人間なんだからそこまでの労力を払わせないでほしい
「公式アカにリプライ飛ばすマンをブロックする奴」を使えば指定したアカウントやツイートにリプライしているアカウントを一括でブロミュできるが、公式へのリプライでネタバレをしている人を見て文句は言えてもアプリ連携してさくっとブロックはできないことだってあるかもしれない
「Twitter Block Chain」、いわゆる全ブロ砲を入れてネタバレ感想や二次創作を呟いたアカウントやアカウント名やプロフィールにネタバレ配慮しないことを明記しているアカウントを見かけるたびにフォロワーの一括ブロックを繰り返せば理想の世界が近づくが、巻き込みブロックが恐ろしい、自衛したいのにさせてくれないと嘆く割にはネタバレをするアカウントをフォローしている時点でブロックする思い切りが足りない、巻き込みブロックに対するなんやかんやはこちら(http://cr.hatenablog.com/entry/2019/09/18/232252)のでもでもだってちゃん向け質疑応答が参考になると思われる
TLをトップツイートの優先表示から最新ツイート表示に切り替えると「いいねしました」は表示されないが、自分がフォローしている相手がネタバレツイートをRTはしなくてもいいねすることにより「いいねしました」でネタバレを踏むことがしばしばある、フォロー先にはフォロワーに気を使っていいねではなくブックマークに追加機能を使ってほしい
また現在どうやら効果はなくなったらしいが、何かの間違いでTwitterが正気を取り戻してくれたときのために以下のワードをミュートしておくことをおすすめする
suggest_ranked_timeline_tweet
suggest_pyle_tweet
suggest_activity
suggest_who_to_follow
suggest_recap
suggest_recycled_tweet
suggest_activity_tweet
suggest_recycled_tweet_inline
新UIになってからブロックリスト機能が使えないのはプロモーションを出すアカウントを一括ブロックされないための対策なのだろうか、「GoodTwitter」を入れるとブロックリスト機能も復活するので便利である
拡張機能「Twitter One Click Block」を入れると相手のホームに飛ばなくてもツイートからワンクリックでブロックが可能になるが、まさか「自衛徹底してるのにネタバレが視界に入った、ブロックしたが面倒をかけさせるな」と主張する人間がこの時短ツールを入れていないはずがないので当初割愛したことをお詫びする
ネタバレやネタバレRTを流してくるアカウントをフォローしているのは自分だが、リムブロミュートができることやRTの非表示設定があることも知らないし、知っていても自分ではなく相手に譲ってほしいのでそういった機能の活用ができない人もいることを慮ってほしい
本誌や単行本を読んでいる人間には、アニメ派に配慮して、Twitterで原作のネタバレになる感想、考察、二次創作をやめていただきたい
TikTokってニコニコYouTubeを抜かして現在無断転載の急先鋒だと思ってたけど違うのか?
そんなサービスのユーザーが何言っても寝言にしか聞こえないことは置いておいてまあとにかくTikTokにはネタバレが溢れていて原作未読にとっては地雷原である
TikTokでは鬼滅関連の動画や画像がたくさん投稿されている
そしてそれらの動画を見るとなんと高確率でネタバレをくらってしまうのだ
そもそも公式配信プラットフォームではない以上全て無断転載動画なので鬼滅で検索する時点で何かが間違っているがそんなことは考えられない人間のために尽くしてほしい
コメントはデフォルトで非表示なのでわざわざ見ようとしなければ見ることはできないのだが、コメントを見るのをやめられない体質のためコメントでネタバレを踏んでしまうのだ、勘弁してほしい
それはそれとして初めてTikTok触ったけどリア厨の今の住処がここなんだなあと思いました
無断転載画像での切り貼り加工動画、そしてそれを壁紙配布、YouTubeでよく外国人がpixivとかから自作ではないファンアート勝手に加工して動画作って上げているのを見たことがあるけどあんな感じでもうなんかお腹いっぱい
ミュート機能もないしブロックしてもおすすめに出てくるしTikTokは不便である、そしてこんな無法地帯に自分から突っ込んでネタバレ踏みました!って主張する奴の気が知れんわ
でもリア充動画によって心にダメージを負ったのでTikTokアンインストールしました
いやカップルは何も悪くないしコメント欄もリア充への怨嗟が湧くことなく和気藹々としてるのはTwitterなどよりよほど平和なのだが文化が違う
驚くべきことに、気をつけていてもYouTubeで鬼滅の刃と検索すると鬼滅のネタバレが出てくるのだ
鬼滅動画のコメントはアニメ派にとっては原作読者のネタバレで溢れている、スルーができないアニメ派にとってはコメントを見なければ済む話ではないのである
そもそも鬼滅の刃はYouTubeでは公式配信されていないため、ネタバレ配慮を求めつつYouTubeで検索をかける時点で何かが間違っている気がしてならないが、とにかく許せない
ブラウザに拡張機能「Video Blocker」を入れると、特定のチャンネルや動画を非表示にしたり、指定したワードを含むチャンネルや動画を非表示にすることができるため、これを使って鬼滅をワードミュートするだけでおすすめにも表示されなくなり不意のネタバレ被弾は防げるのだが、動画が映っている目の前の箱や板を使って調べることもできない人間がいることを動画投稿者は知らないのだろうか、無知とは恐ろしいものだ
なんという不測の事態、公式配信動画のコメントに原作既読者のネタバレがあるなどとは神ですら予期できなかっただろう
コメント非表示するだけで解決するが、コメントで数年前に連載されて単行本化済みの原作ネタバレなど予想できるはずもない
何より自分一人に非表示機能を使わせることで解決しないでほしい、自分以外の人々がみな良心に従ってネタバレコメントを控えてくれれば解決する
コメント関係なく動画の内容でネタバレ? 動画を作るほどなんだから投稿者はお前と違って原作をきちんと読んでいるんだよ(元ネタを知らない人間への配慮がないとはなんと残酷なのだろう、そもそも元はYouTube無断転載動画サイトに子供のための夢の国並みのクリーンな治安を期待する方がおかしいなどとは老人の言うことだ)
百科というコンテンツ名を見てアクセスしてネタバレを踏む、体を張った芸なんだよな? ネタで言ってるんだよな? ネタバレ伏せるかどうかは編集者の善意次第だって分か…分からない?…百科というのはある科目についての知識をまとめたものだから当然その科目についての詳しい情報が載っているんだ、国語辞典とか英和辞典使ったことある? 肝心な部分いちいち伏せられてたら意味ないってわけよ
繰り返すけどコメント非表示機能って知ってる?(新規に配慮して原作既読者は全員ネタバレコメントを控える、それができなければ民度が悪いということだ、実現可能性などという甘えたことはぬかすな)
吃驚することに鬼滅の刃の二次創作を漁ると鬼滅の刃のネタバレを踏んでしまうのだ
いったいどうしてなぜこのような不思議なことが起きるのだろうか
ミュートすれば絵も文も目に入らないが、自分にミュート機能を使わせるのではなくpixiv会員全員がネタバレ防止を肝に銘じて各々の投稿をしてほしい
バレあり表記は作者の善意によるものでありあれば親切、仮になくても責められることではないという良識はアニメ派の非常識なのだ
特に逆行ものはある程度まで原作が進んだ状態でそれより前の時間軸に戻るというジャンル上、原作ネタバレが含まれているのは至極当然の話だが、そんなことも理解できない頭の持ち主のためによくよく注意してほしい
投稿日がアニメ化前の作品についても、投稿された時点ではアニメのみ原作未読への配慮という概念が存在し得なかったことを差し引いても、確認不足という自分の落ち度は存在しない、原作ネタバレとはそれだけの"罪"である
いや二次創作がたくさん投稿されているSNSを自分から閲覧しておいてネタバレ踏んだんですけど!って怒る人マジでいるの? 非実在藁人形でしょそんなん、実在したら実録ホラーすぎるわ、ネタで言ってるんでしょ
ランキングで勝手に目に入ってくるとかミュート使えないの? 二次創作は見たいけど原作ネタバレは踏みたくないの? 自分ではなく二次創作の作者のせいなの? こいつ頭が終わっておる でもそれくらい狂ってなきゃ原作未読で二次創作に手を出して作者に文句をつけるなんてイカれた真似できねえや 尊敬はしないね
ニコニコ大百科と以下同文
えっと…ええと…何言ってるのかよく分からないけどとにかくネタバレは悪
画像検索したらネタバレを踏む、 画像は見たいけどそこにネタバレがあるのは理解できない、許されない
詳しい情報を知りたくて検索したら配慮も伏せもないネタバレを踏んでしまった、何事もご新規様の新鮮な感動のために重要な部分は伏せる、隠す、そういった配慮の精神が全人類に美徳として備わっているべきなのにインターネットには剥き出しのネタバレがごろごろ転がっていて地獄の有様である
Googleサジェストの検索候補でネタバレを見てしまう問題はPCでもiPhoneでもAndroidでもChromeの設定でオフにできるし検索履歴も消せるが、Googleで鬼滅を調べることや調べたらネタバレが出てきた被害を訴えることができても避ける方法を調べて実行することはできない情報弱者に強者は配慮すべき
えっと…手の打ちようがない…
自分からWikipediaで調べてネタバレ踏んだわーつれえわーってマジで言う人マジでいるんですか?
こわ〜…正気か…?
あれはなんですか? 我々には救えぬものじゃ
言うまでもないと思ってたけどWikipediaにおいてネタバレはどう扱われるかのガイドラインの記事をよく読んでね
以下引用
"ウィキペディアの記事にはネタバレがあると一般に予想されます。ネタバレという理由によって、該当する記述をウィキペディア上から除去することは認められません。また、非表示にしたり読み飛ばすためのリンクを設けたりするなど、読者の目に入りにくくするための特別な配慮もすべきではありません。そのような動機によって中立的な観点、百科事典としての在り方、完全性、その他の記事の品質を司る要素を妨げてはいけません。"
アニメ化を機に原作に金は払わないけどアニメ化前から原作を追っている読者にネタバレ死ね殺すとかのたまうキッズが増えましたね
週刊誌に何年も前から連載していてその頃から応援しているファンがいる漫画に対して単行本も本誌も買わないしできる限りの自衛もしないが文句だけは声高にネタバレ配慮は求めるお前、お前の民度というよりリテラシーが低いんだよ、永遠にROMってろ
続き
近年,人格障害者の関係していると思われる事例をネットで見かけることが多くなってきた.例えば
また一見すると分かりにくいが以下の比較的有名なプロジェクトにも人格障害者の関わっている痕跡を読み取ることができる
gentoo linuxの昔のドキュメント(もう残っていないらしくリンクを見つけることはできなかった)には,gentoo linuxの前身となったFreeBSDがベースになっているプロジェクトが,人格に問題のある人が開発に関わった結果,頓挫した話が記載されていた.
このドキュメントは人格障害という言葉が一般に知られるようになる前に書かれていたため,人格障害について明確に記述されてはいないが,どう見ても人格障害者の関わった事例であった.おそらく人格障害について広く知られるようになってから削除されたのではないかと想像する.
ここで人格障害について知らない人のために解説をしよう.人格障害という言葉が広く一般に知られるになったのは,この本が原因ではないかと思う
Stop Walking on Eggshells) Paul T. Mason , Randi
Kreger (2006)]
この本(以下ではSWEと呼ぶ)は医者ではなく人格障害者と日常生活で関わってしまって苦労した著者が,なんとか苦痛に満ちた生活の原因を探すため調べた情報がわかりやすく記述されており,専門知識がなくても豊富な役立つ情報を学ぶことができる名著である.この本が出版される以前に,小さな町の本屋で人格障害に関する本が目立つ場所に平済みされていた記憶はないため,おそらくこの本がブレークスルーであったと自分は想像する.SWEは人格障害について知らない人が最初に学ぶ入門書としてもとても良い本なので,多くの人にぜひ一度読んでみて欲しい本である.
SWEでは(境界性)人格障害(BPD: Borderline Personality Disorder)の様々な定義が紹介されているが,ここでは以下の定義を紹介する.
Borderline Personality Disorder)と呼ぶ
自分の手足は動かしすぎると疲労するが,他人の疲労を自分は感じないので,疲労なく無限に動かし続けられる自分の手足=他人 となっているので周辺の人間はとても苦痛を感じることとなる.近年話題になる長時間労働問題の原因はこれではないかと自分は考えている.BPDの本人は日常生活に何の苦痛も感じないが,周辺で「手足」となっている人はとても苦痛を感じることとなる.この周辺の人はnon-BPDと呼ばれる.SWEの特に重要な点はnon-BPDという言葉を一般人にわかりやすく解説し紹介した点にあると思う.
non-BPDはBPDについて調べる重要な検索キーワードにもなっている.BPD本人は何の苦痛も感じないためネット上に書き込みをするのはnon-BPDの人達である.
non-BPDで検索するともっと具体的で生々しい事例をいくつも見つけることができる.
BPDよりもよく知られた人格障害でサイコパスというものがあるが,ネット上のサイコパスという単語は本来の意味からかなり外れたある種のバズワードとなっており,サイコパスという単語でネットを検索しても実生活で役立つ情報を見つけることは難しい.
以下のBPDの定義を思いだしてみよう
疲労なく無限に動かすことができる便利な道具として最も良く知られたものはコンピュータ(ロボット)だろう.つまり他人をコンピュータと認識しているのがBPDであると言っても良い.これが多くの長時間労働問題の原因と考えられる.ここで以下の面白い話題を紹介しよう.
人間=獣と違う論理的なもの から 人間=コンピュータと違う感情的なもの
への変化は,Windows95が発売された1995年から2010年ぐらいまでに少しずつ起きたように思う.これは,この(長い)時期に放送されていたSF映画であるスタートレックやスターゲイトを見るとわかる.
これについては後で詳しく解説する.とにかくコンピュータは人間の認知にとても大きな変化をもたらした. https://trends.google.com/trends/explore?date=all&geo=US&q=BPD:title=google
trandでBPDを検索してみると] 2004年から2012の間に倍になっている.上昇は緩やかな単調増加で減ることはほぼない.これは他人からコンピュータとして扱われる人が毎年増えてきていることを示している.
BPDの本人がBPDについて検索することはない.本人は自分は普通の常識人と認識しているからである(SWEなどの人格障害について解説する本では,人格障害者の多くは自分を普通の人と認識していることが述べられている).
SWEではBPDの原因の1つとして幼児期の過剰な甘やかしを挙げている.幼児が泣いて両親がすぐに何かしてしまうと,泣けば自動的に世話してくれる自分の手足の延長として他人を認識してしまう,というものである.
この状態のまま大人になると他人は自分の世話をするのが普通という認識が固定される.大人の場合は泣いたりできないので,かわりに嘘や脅しで他人を(手足として)操作するようになる.嘘つきというのは人格障害の肝となっている.
人格障害者の見分け方として嘘を誤魔化すためにさらに嘘をつくのは人格障害である,とSWEなどの人格障害について解説する多くの本では述べている.ちょっとした嘘なら誰でもつくが,さらに嘘を重ねるのが人格障害の特徴である.
本人は当然と思っている「他人が自分の世話をする」状況を維持するために「普通のこと」=嘘や脅しを日常的に行うため,周辺の人間は苦痛を感じることとなる.本人にとっては当然の普通のことをしているだけなので普通に日常的に嘘や脅しをするのである.
この時,コンピュータ(ロボット)という本当に自分の手足の延長になってしまう道具という概念が存在していると,さらに悪い状況が生まれると私は考える.エクセルの関数機能やプログラミング言語について少しでも知識があるならば最悪である.
仮にwindows95がなかった(誰でもコンピュータが安く買える)1995年より昔はnon-BPD(コンピュータとして扱われる人)は少なかったとして,しかし,そのはるか昔から存在していた人格障害としてサイコパス(BPDと行動はよく似ているが内的心理状態は違うらしい)がある.サイコパスについて解説している(おそらく一番読まれている)本である
https://www.amazon.co.jp/dp/4794219296:title=- 良心をもたない人たち , Martha Staut
(2012)]
には,エスキモーにはサイコパスを殺してしまう慣習(クンランゲタ)があったことが述べられている.現代に置き換えるなら長時間労働で殺されるぐらいなら殺してしまおうという感じだろうか.そのため昔は,人格障害者は(殺されてしまうので)少なかったと解説されている.しかし現代ではnon-BPD(コンピュータとして扱われる人)は増えている.
BPDやサイコパスなどの人格障害について解説する本のほぼ全てでは,人格障害者からは「逃げろ」というアドバイスをしている.不運にもなんらかの人格障害者が隣に引っ越してきたら,自分も引っ越して逃げるしかないし,
職場にいた場合は辞めるしかない.ただしサイコパスの事例では辞めた後も嘘の責任追及などで追い込まれる事例も紹介されているので,安心はできない.先に紹介したgentoo linuxの事例では,FreeBSDベースのプロジェクトをうまくデコイとして使うことでなんとか逃げ切ったようだ(うまく逃げ切ったから今のgentoo linuxがある). 自分が想像するにgentoo linuxもFreeBSDと同じ「再攻撃」を受けたはずであるが,うまく乗り切っているようだ.non-BPDの多くの人達は「人格障害者と一度かかわるとある種の直感が鋭くなる」と言っている.直感で事前に危険を察知して予防できるようになるそうだ.最初に述べたlibavやsystemdに人格障害の関わりがあるという根拠も実は私の直感であってうまく説明できない.ただ,オープンソースと人格障害の両方の知識があるならば,みんな同じ判断を下すだろうと思う.SWEも「良心をもたない人たち 」でも直感の重要性について述べている.
BPDやサイコパスなどの人格障害について一般向けに解説する本の多くは事例の紹介が中心になっている.人格障害者本人が普通と思っている状況を維持するためにつく嘘や様々な行動は,工夫が凝らされており完全犯罪に近い.
普通は思いつかない工夫に満ちた方法が使われるため単純に類型化できないのもあり,個別の事例を紹介するしかないからだと思われる.とはいえgoogle trandの傾向からわかるように,BPDについて知っている人は増加傾向にある.
人格障害とみなされない(見破られない)ためにさらに巧妙な手段が近年は必要となってきている.ここでも人格障害を見破るために重要となるのは直感である.ここで直感というのは具体的には「良心をもたない人たち
」では「何かが変」と感じたら騙されている可能性が高いと言っている.
ただ直感でかたずけられてしまっては.なかなか気が付けない人も多いと思うため,ここでは近年巧妙になった人格障害者の手口について自分の気が付いた範囲で述べていこうと思う.
(と思ったけど気力切れ)
先に紹介した有名なオープンソースプロジェクトについて解説しよう
(と思ったけど気力切れ)
額面の多寡がこそ偉いんだたったら普通選挙はいらないですね。患者様(モンスターペイシェント)にそう面罵してみては。
私が信じるものの話をしたらいきなり「勝手にわたしの命を云々決め付けるな」って、誤読するのは勝手だけどそれで食ってかかるのは恥ずかしいですよ。
もう一度聞きます。あなたは何のために産まれてきたのですか?それを実現するために障害となっていることは何ですか?それを実現するためには、生まれ育ちが不本意ながら貧しい方々を恵まれた出自を持つであろうあなたがグチり倒すことはどうしても必要なんですか?
必要だと思うんだたったら、その崇高な目的を実現するのにもはや躊躇する理由などないはずです。内面の良心に従い思う存分ゴロツキ患者連中や医療界にブラック労働を押し付ける政権を黙認するゴロツキ有権者どもをおおっぴらに罵倒すればよろしい。その覚悟がないんだったらないなりに高給でも取るだけの人生をやってればいい。
↑という問いに答えたくないんでしょうが、論点ずらしをしたいがために『同じセクハラに苦しむ女性を「たいしたことないのに」と背後から打つ女性はたくさんいますよ』などという私にまったく当てはまらない藁人形まで持ち出してご苦労さまです。あなたも私と同じくらい、インターネット越しでゲスの勘ぐりするのが大好きな輩だということがわかって安心しました。
うちの父はひとでなしではない。
ただ、怒りで我を忘れたとき、自制がきかなくなるだけだ。
その不安定さと、不安定である自分を黙認できてしまう狡さはどこから来るのか。
わたしはずっと疑問だった。
実際、なんでもない思い出話として、虐待としか言いようのないエピソードを聞いたこともある。
殴ることへの罪悪感の薄さは、きっとごく普通に殴られながら育てられたことによって生まれた。
当然のこととしてきた常識を、父は疑っていないだけなんだろう。
でも感情は納得しない。
わたしは再び、なぜと繰り返した。
なんでうちの父は殴られて育ったの。
そして、ある推察を得るに到った。
父を殴って育てた、祖父の推察だ。
若者というだけで召集令状が来るような頃、祖父は同年代より早く正真正銘の家長となっていた。
階級的にはたかが知れているだろうけど、ともかく内地で新兵の訓練に当たった。
祖父はどんなふうに訓練をつけたのだろう。
当時の軍隊では体罰が横行していたと聞くけれど、祖父も殴っていたのか。
そうして、お国のために玉砕しろと言って、新兵を戦地へ送り出したのか。
そもそも、友人たちが次々に出征していくのを、祖父はどんな思いで送り出していたんだろう。
今となっては分からない。
祖父は内地で終戦を迎えて家に帰ったけれど、祖父と同年代の友人たちはほとんど誰も帰らなかったそうだ。
その状態で、待たせていた妻と幸せな家族を築けと求められことは、どんな気持ちになるのか。
祖父はひとでなしではない。
孫にはやさしい祖父だったし、昔のひとには珍しく体調不良の祖母に代わって父の弁当を作ることもあったそうだ。
自分だけ生き残って、未来を生きていくことを、祖父はどう感じたのだろう。
耐えがたく、許されないことに感じられたとしてもおかしくはない。
そのくせ、出世話で自尊心を満たし、死を免れた我が身の幸運をひけらかす道を祖父は選ばなかった。
祖父の目にはどう映ったのか。
殴って、殴った自分を許容させて、ほら俺は悪いことなんかしていないと自己正当化したくてたまらなくなった夜。
そういう夜があったとしても、理解はできる。
酒に溺れ、妻子に手を上げた理由を察することができる。
今ならば祖父に何が起こっていたのか説明してくれる言葉がある。
当時はなかった。
第二次大戦が終わったばかりの日本で、戦争の精神的な後遺症は見逃された。
少なくとも、祖父は見逃された。
誰も祖父を、父を、救わなかった。
誰もそんなことは追求せず、もはや戦後ではないと言われ、時が流れた。
わたしは殴られて育った。
もはや戦後ではないんだろうか。
本当に、戦後ではないんだろうか。
それなら、なんでわたしは殴られたの。
この身を苛む恐怖はなんなの。
誰のことも責められないで、わたしが悪かったのかと疑いながら生きていくの。
英語民間試験中止を叫ぶ人達は日に日に勢いを増し、正義面を厚くしてるが、必ず負ける。負ける。大負けする。てか、あいつらのせいで、国の大学への介入がもっと強まる。
以下、これまでのおれなりの説明。
天下の愚策である英語民間入試を政権のわがままとして押し付けられる以上、どう着地させるかで、文科省の官僚と国大協で妥協したのが、国立大学における英語民間試験使用の義務化。(その前だと共通テストの廃止、民間入試のみに移行の方が問題としては大きく、そこで戦線を止めたいという思いが双方にあったはず。)
全く使用しないと決定したら、どんな報復があるかわからない。個別大学で使用しないところが出てきても「それは大学の判断だし尊重する」でかばい切れると、双方は判断し、やり過ごす事ができるはずだった。
そして、ボールは文科省の官僚が持ち、政権とお仲間の民間試験業者と調整することで、換骨奪胎、面従腹背して事が済むというストーリーだった。
けど、文科省の官僚がお仲間の民間試験側との調整に大失敗。言うこと聞かないし、聞かせられないし、採点事務とか民間癒着もバレバレでやるしで大失敗、炎上中。スケジュールが遅れに遅れてるのは文科省の無能さだろう。業者が言うこと聞かないなら、金で引っ叩くか、業者の言いなりで突っ走れよ。まわりから非難されて日和るからグダグダになるんだよ!!
で、国大協側は、この政策主導側の東大が自分達は叩かれたくないと小早川秀秋。単に東大の五神総長が、まわりの学長からいろんなことで非難されまくったせいで、最後の最後でちゃぶ台返ししただけで、自学のことだけしか考えてないよ、あの総長。
そして、非常に良心的な教育関係者や高校生達による反対運動も活性化(この反対運動が2017年時点でここまで大きくなってたら通常ルートで引き返せたかもね)。
マスコミや野党もこの民間入試のヤバさというよりもグダグダさに気づき指摘することは始めたが遅すぎる(共産党は2019年参議院選挙の公約に反対を掲げてるから偉い)。
既にインパール作戦は始まっていて、正常なボトムアップ型の調整や意見具申では収まらない。
反対派は「国大協が入試での使用義務を外す」→「各国立大学が使用中止を決定」→「民間入試システムを崩壊」させるというルートを考えてるし、理があると思っているが、
「国大協が入試での使用義務を外す」→「各国立大学が使用中止を決定」→「文科省ら、国立大学には未来のための入試改革を行う意思がないとみなして、入試使用しないところには報復すると宣言」→「今後の入試制度は政権が決める」ぐらいはやるという可能性に気づいてない。文科大臣、萩生田だぞ、なんでもやるぞ。
大学内の「内ゲバ」を理由に国が個別大学に介入してくるストーリーは、ここ何年間の大学改革の議論を見てればわかるはずだが、反対派は、あくまで正義を貫けば正義が守ってくれるという考え方に固執しているのでたちが悪い。自分に酔いすぎてる。
文科省の官僚からすると、行くも地獄、止めるも地獄。国大協側は止めることでの報復が怖いし、今のまま行ったところで骨抜きはできてるのでダメージは少ない。双方は一枚岩ではないけど、それなりにお互いの空気は読めていてプロレスできてるので、ここが総合格闘技化することはないしできないけど、反対派が煽れば煽るほど、ここに分断ができてくることがわかってない。「敵の養分」と指摘される理由である。
民間入試の導入を止めたいなら、単に入試の公平公正を求める入試論の話では支持は広がらない。というのは、この問題の被害者は受験生、約60万人(過去のセンター試験利用者数から)。人口の0.5%の話。2019年の参議院選挙の得票数からしたら、N国党の比例数より小さい話。
政権を主導する人達からしたら、公平公正とか、入試の正当性とか、どうでも良い話。
「大学業界の権益化」してる入試に、自分達の手を突っ込めたという実績が欲しいから、何が何でも無理やり自分たちの決めたスケジュール通りにやらせるだろう。
だから、大学や文科省の官僚や試験業者が、どうやってもスケジュール通りにできるわけがないと通常ルートで叫んでも意味はない。
けど、反対派はあくまで入試論として反対論陣を張っている。院内集会で高校生を持ち出してたが、そんな意見なんて怖くない。「可哀想だね。生まれた年と場所が悪かったね。」で終わってしまう。多分、世のおっちゃんおばちゃん達も「入試にはある程度の不公平はあるだろう。我慢しろ。」というぐらいの認識でしかない。
本当に止めたいなら、入試の話じゃなくて、政権のハラスメントなんだ、これは入試だけじゃなくて、政権の横暴を止める戦いなんだと論を拡大してかないと一過性で終わる。文化庁の補助金停止デモと共闘するぐらいの発想が必要だが、そんな呼びかけしないよね。あくまで入試ワンイシューで戦うつもりである。N国を見て参考にしてるのか。
政権批判につなげることができて、広がりが生まれれば政権が日和る可能性はある。萩生田にはスキャンダルがあるから、安倍が荻生田を切り、安倍の英断という形でのストップはあり得る。
また、経団連に働きかけて、経団連としては入試で英語4技能は測る必要はない、高校と大学の教育がしっかりその方向性を向いているなら良いぐらいのコメントを引き出せば、ブレーキにもなろう。
けど、反対派は国大協前と文科省前で英語民間試験導入廃止のデモを行うことに固執する。
ただただ、大学の中と外に不信だけを積み上げて、天下の愚策は実行されるだけである。
必ず負ける。それは正義の問題ではない。ただただ、英語民間試験中止派は頭が悪いし、ヒーローヒロインのポーズを取りたいがためである。