はてなキーワード: 首里城とは
「自衛隊は憲法違反。だから自衛隊は解散せねばならない」「自衛隊の前提を当然とする日本国民はネトウヨ」とする必要がある。ところが、今やリベラル自身が「自衛隊がいるから改憲は不要」とか言い出す。
憲法の条文が1文字も変わってないのに、なんで日本の護憲派は、半世紀もたたないうちに、意見が180度変化するんだよ。頭いかれてるんじゃないか?
かつては、暴力を奮ってでも、住民票の受取拒否など、それこそ憲法違反な行為をしてでも、自衛隊員を自分たちのそばから追い出そうとするほど嫌っておいて、今困ったら「助けてください」だって? 馬鹿も休み休み言えよ。
http://www.asahi.com/2004senkyo/news/TKY200406300351.html
「憲法の明文の規定と照らし合わせれば、違憲であると言わざるを得ない」と述べ、旧社会党時代の94年に「自衛隊を合憲」とした党の見解を変更する考えを示した。福島氏の個人的な考えであり、党として見解を変更するかどうかは、中期的な指針である「社会民主主義宣言2005」を採択する来年秋の党大会で正式に検討される見通しだ。
https://www.jcp.or.jp/seisaku/006-0609/kenpou9jyo_yougo.html
そして私は、自衛隊が憲法違反といわれるのがいやなら、憲法九条を取り払うことでこの矛盾を解決するのではなくて、世界に誇る憲法九条の完全実施に向けて、憲法違反の自衛隊の現実を一歩、一歩変えていくことこそ政治のつとめだ(拍手、「そのとおり」の声)、こう考えるものであります。(拍手)
http://www.asaho.com/jpn/bkno/2008/1117.html
https://ajda.jp/publics/index/124/
憲法学者の7割が「違憲」の存在と語り、又、小学校の教科書では《自衛隊については憲法と照らし合わせて様々な意見が交わされている》とされ、中学校・高校では《政府は合憲と解釈し学界や判例には憲法違反もある》と記されています。
この様に憲法に根拠が無い事から日陰者扱いをされ、支える家族もつらい思いをしているのが現状です。我々は24時間365日、命をかけて日本の平和と安全を守ってくれる自衛隊の皆様に「自衛隊さんありがとう」の感謝の気持ちを込めて『自衛隊』を憲法に明記し自衛隊に誇りと名誉の回復する活動を青年部会の輪を広げ、47都道府県に組織するべく邁進致します。
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/703510
「入学書類は受け取らない、帰れ」と怒鳴ったという。当時20歳の海上自衛隊士長、大旗清さんの経験だ。仕事に生かそうと選んだ電気工学科。自衛官だからという理由で一度も受講できないまま1年後に退学した。
大学側は一時、入学を保留した。当時の本紙に「事実上の不許可」と書かれた対応は、反戦運動をする学生たちが学内封鎖や授業ボイコットに及び、本人にも危害が加わりかねないため-とされた。一転して入学を認めた後、予測は当たった。
首里城跡にあったキャンパスに通う大旗さんを見つけると、追い出す学生たちがいた。時に竹ざおや棒、拳で突き、蹴り、石を投げた。教室に連れ込んで2、3時間、150人ほどで詰問した末に「帰れ」「入学認めないぞ」などと怒号を浴びせた日もあった。
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/687565
日本復帰前後の自衛隊は県民の激しい反発を受けた。配備が本格化すると、自治体が自衛隊員の転居手続きを拒否。成人式への参加を拒まれるなど、地元の「反自衛隊感情」は、一層高まった。
http://w01.tp1.jp/~sr10697360/kiginomidori.html
66年12月に同学会委員長に選出され~67年12月まで2期つとめましたが、思い出深いのが全学で闘われた自衛官入学反対闘争です。工学部院生協議会を中心に60年代に入って取り組まれてきたこの闘いはついに全学学生大会・全学ストにいたり、奥田総長との大衆団交で「京大
『医療に協力したら何が帰ってくるの?』という先日話題になった投稿。
正直、私はなにも帰ってこないと思っている。なぜなら、私が「もしコロナがなかったらやっていたこと」は、「コロナが終息した後の世界」ではもう二度と手に入らないものだからである。
少し自己紹介をする。私は現在高校3年生だ。つまりは数日後、共通テストがあるわけで、その直前にこんなものを書いている時点で気が触れているのがわかってしまうのだが、以降は割と感情に任せた文章なので、途中少し話が逸れても許してほしい。
それから、ここで私がしたいのはあくまでも感情の吐露や、いわゆる「若者」と呼ばれる私のリアルな気持ちを皆さんに見ていただくことであって、だから医療に協力するかしないかとか、そういう論点を作り出すことではない。
Twitter上なんかでもよく言われるのは、私の世代であるこの2002年〜2003年生まれは災難続き、みたいな話で、いわゆる大学入試がセンター試験から共通テストに変わる世代、修学旅行の行き先でことごとく見たいものが修繕中(日光東照宮・清水寺・首里城)の世代、である。
それに加え、どうやらWikipediaを見るとゆとり教育から脱ゆとり教育へのちょうど移行期間の世代であるらしい。
まあ、何かと災難続きな学年らしいことがわかる。でもそういうのは結局、文章にすると大変なように聞こえるネタなだけで、これまでそんなに「自分は大変な年代に生まれた」と自覚したことはなかった。
しかし去年の夏、私にとっての最大の災難が訪れてしまった。高校の文化祭が開催できないことが決定したのである。たかが文化祭、と思われるかもしれないが、私の高校の文化祭は、多分、殆どの他の高校の文化祭よりも意味が重い。
全学年がクラスごとに劇やミュージカルを行うのだが、毎年夏休みを返上して行われる(本当に毎日学校に行くので夏休みは実質ない)準備のおかげで、特に3年生の劇のクオリティは、かなり高い。魂のこもったものになっている。初めて見た時ひどく感動して、他の高校の見学もしていないのに、それだけでこの高校への志望を決めたほどだ。
しかし、コロナ禍においては、「ひとつの教室の半分のスペースに何十人ものお客さんを詰め込んで、窓にもドアにも段ボールを貼って外光を遮り、換気扇はともかくクーラーもまともに効かない教室で80分間ぶっとおしの劇」を行う文化祭は、「三密」以外の何ものでもなかった。
代替案として、最初はそれぞれの劇を配信で、という話だったのが、同じ教室内に数人以上いてはいけないとか、横2メートル以上開けてないといけないだとか、どんどんよくわからない規制が加わって、最終的に劇はできなくなった。
実行委員の生徒も、なんとか開催に漕ぎつけようと奮闘してくれた先生たちも、悔しい思いだったと思う。
文化祭がやりたくて高校に入ったのに、今年の夏は今まで一番熱い夏になるはずだったのに、それが目の前で突如奪われたのである。私にとっては、野球部員にとっての甲子園と同じくらいの意味があった。私のこれからの人生が輝くものになるかどうか、文化祭にかけている。大袈裟だとわかっているが、それぐらいに思っていたのである。
しかし、1番暑い日が来る前に、私の青春は帰らぬものとなった。
みんなで夜遅くまで残って暑い中だらだら作業することも、他のクラスに勝とうと歌の練習を頑張ることも、帰りにコンビニでアイスを買い食いすることも、二度とできない。
高校で過ごした年月が二度と戻らないのは、大人の皆さんならきっとよくご存知だろう。卒業してしまったらみんなバラバラになる。あのメンバーは、あの教室は、あの夏は、二度と戻ってこない。私のものだったはずの青春は、もうどこにもない。
このやるせなさ、虚無感は、去年一年で文化祭に限らず何かを失った人にはきっと伝わると思う。
今、正直に言ってしまえば、私が1番今欲しいものは、大学の合格でも、はたまた給付金でもなんでもない。いつになっても帰ってこないもの。どれだけ医療に協力しても手に入らないものだ。
けれど、医療に協力しなかったとしても、結局1番欲しいあの日々は帰ってこないから、せめて家族や友達を守るために、私は外に出ない。
残りの受験期間を、存在するのかどうかあやしい「楽しいキャンパスライフ」のために、どこかもやもやした気持ちを抱えたまま生きる。きっと、何年経ってもこのもやもやは消えることはないだろう。
令和の酷いことリスト
ざっとリストアップしたけど、誰が振り返っても酷いことばかり起きてるのは間違いない。
令和とか言うクソ時代の責任が誰にあるのかずっと考えてて、今のトップかなって思ったんだけど、彼を責めるのは筋が違うって気付いた。
どう考えても、我がまま通して途中で自分の任務を放り出して辞めてったあいつが悪いんじゃねえかって思ってる。
京都が雨続きでうんざりしていたところ、天気予報を見ると沖縄だけ晴れているので、7/11-13に旅行することにした。
多少コロナが増えてきたとはいえ一日十人程度の京都、しかも京都市ではなく田舎の、未だ感染者ゼロの自治体の住民なので、行くことに躊躇はない。
これで「誰かに移したらどうするんだ!」なんて言う奴は、何でお前は死なないのと言いたい。お前が生きて活動してる限り、誰かにコロナを移す可能性はゼロじゃないんだからさ。
もちろん手洗いとマスクは徹底するが、熱中症もあるので屋外ではマスクは外す方針とした。一人旅なのでどのみち喋ることはほとんどない。
土曜の昼なのにほとんど人が歩いてない。牧志駅から向かったので、県庁側は違ったかもしれないが、それにしても大きな土産物屋に客はゼロ。店員が暇そうに立っている。
やはりどの県も観光業はやばい状況である……誰かが行かないと。
とはいえ着いたばかりで荷物は増やせないので、申し訳ないが通り過ぎて壺屋焼物博物館へ。
こちらも来館者は他には二人くらい。見る分には見やすいのだが、どうしても心配になる。
隣の陶芸センターも客ゼロで、二千円の酒器を買って『やちむん通り』に向かうが、やはり人影はほとんどなし。
国際通りに戻ってレストランへ入るも客は自分だけで、一人で山羊刺しなどを食べる。
よりによってこの前日、基地の中で感染者が数十人見つかったとのこと。
途中で普天間宮の洞窟を見せてもらった後、海中道路を通って、浜比嘉島のホテルに投宿した。
登るのは辛いが青空に石垣が映え、天守からの海の眺めも最高である。今帰仁、中城は訪問済みなので、残る世界遺産は座喜味城のみだ。
向かいの休憩所で土産を買ってからバスを待ったが、四十分ほどの間に購入者は自分だけだった。
沖縄そばやブルーシールアイス、もずくやグルクンの天ぷらを食べる。
二階が海の資料館になっており、コロナ対策に連絡先を書く方式だった。前の人が書くのが遅くて待たされたし、個人情報を書かされるのは少々不安。大阪の追跡システムが広まればいいのに。
ここも日曜なのに泳いでるのは数人で、海の家は採算取れてるのか心配になる。
一人海水浴は手間がかかる割にあまりやることはなく、ナマコが多い海底を見てから10分ほどで上がってかき氷を食べる。
この日は途中でマスクを紛失してしまい、離島ではドラッグストアもなく、ハンカチを巻いて代用する羽目に。
予備を一枚持って行くべきだった。
海中道路から離島側は『うるま市有償バス』というマイクロバスだが、いつも結構乗客がいて、マスクをしてないおじさんもいたけどまあ喋ってなかったから大丈夫だろう。入口に消毒液があるのは嬉しかった。
バスを降りて、コロナで封鎖されたビーチを横目にシルミチューに向かう。
帰路の二人とすれ違っただけで、他に人影はなし。さすがに霊場となると人がいない方がありがたい。
鍵のかかった洞窟の前で、柵越しに雰囲気ある聖地を思う存分拝んだ。
意外だったのが中にあった大正時代の石碑に、日章旗が二つ描かれていたこと。別に撤去したりはしないんだな。そりゃそうか。
三十分歩いてホテルに戻る。汗が噴き出す暑さ。
「気温だけなら真夏の京都の方が高いし大したことないかも?」とか思ってたがそんなわけはなかった。
しかし車のめったに通らない島の道路を、さとうきび畑を眺めながら歩いていくのは趣があるな。
最後に行くのは首里城。12年ぶりだが、まさかあんなことになるとは。
以前にはなかったインフォーメーションセンターができていたが、こちらも寂しい状態。
守礼門で視界に入るのが数人、城内では係員しか見えないことも。
コロナのせいと火事のせいと両方あるのだろうけど、沖縄最大の観光名所でこれは心が痛い。
有料エリアでは再建工事中で、壁の向こうでクレーン車が働いている。
焼け残った龍柱や、燃えて髭だけ判別できる龍の飾り、遺構などを見学した。悲惨な事件だったが、今しか見られないものだからね。
前は入れなかった東のアザナの展望台では、狭いのもあってさすがに多少の客が滞留していたので早めに退散。
珍しかったが、本州で使える自信がないので、駅で切符を買って千円札に替える。
空港で職場へのお土産を買って伊丹に戻った。うちの職場は旅行を叩くような陰湿な人はいないからね。
帰宅途中にニュースを見たら、米軍の感染はうるま市の肝高公園で無許可BBQしてたからって。
よりによってうるま市かよ! まあ米兵には会わなかったし……。
俺はキャンペーンに関係なく行くのでどっちでもいいのだが、観光地の閑散ぶりが本当にやばいので、多少の感染増は覚悟して決行するしかないのではと思ってしまう。幸い重症者は少ないようだし。
大阪の知事は「まず近場で」と言ったようで、それも分かるけど近場は五月六月にもう行ってるんだよな。
嵐山も金閣銀閣も龍安寺も三千院も平等院も東大寺も通天閣もガラガラだった。
やはり地元の人間は、「いつでも行ける」観光地にはなかなか行かないのだな。
京都の人は京の名所には行かないって、前々から言われてるしね。
宿泊や土産を考えても、やはり遠くから人を呼ばないとどうにもならんのじゃないかなあ。
もちろん自分が周る分には人は少ない方がいいし、五月末の誰もいない祇王寺の、青紅葉と苔が溶け合う風景には感動した。
でもその時は、こんな京都は今だけだな!と思ってたんだ。
あれから一ヶ月半後に、まだ回復しないどころかさらに悪くなりそうとは予想しなかった。