昭和天皇の写真を燃やした作品について左翼はヘイトではないとか不敬ではないとか適当な屁理屈を並べ立ててこれを擁護した。
そういった写真を映像であれ何であれ繰り返し行うことは、その対象に敬意がないばかりか、感情を持たないからこそできることだ。
例えば包丁を持った人間が誰かを刺し殺そうとしているとしよう。
まともな人間であれば殺意があったとして踏みとどまる善良な心があるものである。一線を越えてしまうというのは心がある故に歯止めがかからなかったからこそ意味を持つのである。
これが左翼であれば一線というものはない。良心の呵責に苛まれることなく淡々と人を刺し、悪意や罪の意識なく対象を殺したと認識するまで包丁で刺し続けるだろう。
よくよく考えてみればああいった人間と対話をして分かり合おうという発想そのものが誤りだったのかもしれない。彼らの言う対話とは一方的且つ上からの教育ないし指導ないし説法を言うのであり相互理解とは無縁のものだ。ただひとつの正解があり、教育や指導をすれば必ず正解に導かれる、悪(とみなしたもの)も改心する、そういう洗脳を対話とするわけだ。知恵者は弁舌で相手をマウントする。マウントされたものはそれに従う。なるほどトップダウンである。余談だがYoutuberのヒカルはそういう素質がある。頭角を現すに足る能力だろう。
かつては原爆が広島長崎に落とされ、多くの同胞が命を落とした。記録映像は言うまでもない凄惨なものであり、見るものに強い拒否感を齎すものだ。児童が見たくない、親が見せたくないというのも頷ける。それは我々には心があるからであり、心があるからこその反応だ。
同じことは東日本大震災にも言える。東日本を襲った津波は世界中の人々を悲しませた。当時の映像は311が近づくに連れレコメンドに現れる。その動画を見るものは恐怖を覚えるだろう。少なくとも、その神の怒りとも喩えうる現象を間近で感じた我々にとっては、思い出すために忘れたいというほどのものだったはずだ。
首里城が燃え落ちたことで多くの沖縄県民は依って立つ土台を改めて奪われたのであり、その悲しみは本土人の私には理解の及ばぬ深さであるはず。また建て直そうなどと軽々薄々なことは言えない。建て直したところでそこにあるのはかつての首里城ではないのだ。少し話を逸らすが、本土では全く流通しない2000円札を森喜朗が余計なことをしたとか言う人をたまに見るが、あれほど沖縄県民に無理解な意見もないよなと思う。沖縄県で多く流通している2000円札、しかし本土では出回らないそれを便益だけで説明できるとは思わない。そこの温度差は常に意識しなければならない。
さてその首里城が火災に遭ったことで、多くの左翼が悲しみを表明している。表現の自由戦士もだ。しかしは私は疑問に思うのだ。コイツらは悲しみを表明する資格が果たしてあるのだろうか、と。
「たかが再建したレプリカじゃん」「燃えてはじめて完成するアートってあるよね。映像に映っている人たちの悲しみはまさにアートに突き動かされた人の気持ちそのものだよ」とか思っているのではないだろうか。私には彼らの模範生じみた意見を見るたび「内心そうは思っていないだろホラ吹き」と思ってしまうのである。
だからこそ問いたい。お前らは本当に悲しい気持ちになっているのか?
心あるならば意見を表明してみろ。