はてなキーワード: 召集令状とは
戦争反対の主旨には同意するけど、読んでから言及しような。「希望は戦争」ってそんな無責任なお気楽な文章ではないよ。
「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。
http://www7.vis.ne.jp/~t-job/base/maruyama.html
苅部直氏の『丸山眞男――リベラリストの肖像』に興味深い記述がある。1944年3月、当時30歳の丸山眞男に召集令状が届く。かつて思想犯としての逮捕歴があった丸山は、陸軍二等兵として平壌へと送られた。そこで丸山は中学にも進んでいないであろう一等兵に執拗にイジメ抜かれたのだという。
戦争による徴兵は丸山にとってみれば、確かに不幸なことではあっただろう。しかし、それとは逆にその中学にも進んでいない一等兵にとっては、東大のエリートをイジメることができる機会など、戦争が起こらない限りはありえなかった。
丸山は「陸軍は海軍に比べ『擬似デモクラティック』だった」として、兵士の階級のみが序列を決めていたと述べているが、それは我々が暮らしている現状も同様ではないか。
社会に出た時期が人間の序列を決める擬似デモクラティックな社会の中で、一方的にイジメ抜かれる私たちにとっての戦争とは、現状をひっくり返して、「丸山眞男」の横っ面をひっぱたける立場にたてるかもしれないという、まさに希望の光なのだ。
しかし、それでも、と思う。
それでもやはり見ず知らずの他人であっても、我々を見下す連中であっても、彼らが戦争に苦しむさまを見たくはない。だからこうして訴えている。私を戦争に向かわせないでほしいと。
しかし、それでも社会が平和の名の下に、私に対して弱者であることを強制しつづけ、私のささやかな幸せへの願望を嘲笑いつづけるのだとしたら、そのとき私は、「国民全員が苦しみつづける平等」を望み、それを選択することに躊躇しないだろう。
「お母さん食堂」を問題視しているフェミって、女は家事・育児をやるべきだと言う性的規範について何か言っているだけでしょ。
それに比べれば、長時間労働や甲斐性、年収、それに徴兵義務まで負わされている男性の性的役割に比べれば大したことない。
北欧や中欧諸国では、経済力の無い女性は恋愛も結婚も出来ない社会になっていて、あそこまでやって始めて男女平等と言える。
2020年からオランダでは女性に対しても召集令状を交付し始めた。
「お母さん食堂」について声を上げるのであれば、男性側は冷静に「経済力の無い女とは恋愛も結婚もしない。女も徴兵せよ。」と発信し続けるだけ。
うちの父はひとでなしではない。
ただ、怒りで我を忘れたとき、自制がきかなくなるだけだ。
その不安定さと、不安定である自分を黙認できてしまう狡さはどこから来るのか。
わたしはずっと疑問だった。
実際、なんでもない思い出話として、虐待としか言いようのないエピソードを聞いたこともある。
殴ることへの罪悪感の薄さは、きっとごく普通に殴られながら育てられたことによって生まれた。
当然のこととしてきた常識を、父は疑っていないだけなんだろう。
でも感情は納得しない。
わたしは再び、なぜと繰り返した。
なんでうちの父は殴られて育ったの。
そして、ある推察を得るに到った。
父を殴って育てた、祖父の推察だ。
若者というだけで召集令状が来るような頃、祖父は同年代より早く正真正銘の家長となっていた。
階級的にはたかが知れているだろうけど、ともかく内地で新兵の訓練に当たった。
祖父はどんなふうに訓練をつけたのだろう。
当時の軍隊では体罰が横行していたと聞くけれど、祖父も殴っていたのか。
そうして、お国のために玉砕しろと言って、新兵を戦地へ送り出したのか。
そもそも、友人たちが次々に出征していくのを、祖父はどんな思いで送り出していたんだろう。
今となっては分からない。
祖父は内地で終戦を迎えて家に帰ったけれど、祖父と同年代の友人たちはほとんど誰も帰らなかったそうだ。
その状態で、待たせていた妻と幸せな家族を築けと求められことは、どんな気持ちになるのか。
祖父はひとでなしではない。
孫にはやさしい祖父だったし、昔のひとには珍しく体調不良の祖母に代わって父の弁当を作ることもあったそうだ。
自分だけ生き残って、未来を生きていくことを、祖父はどう感じたのだろう。
耐えがたく、許されないことに感じられたとしてもおかしくはない。
そのくせ、出世話で自尊心を満たし、死を免れた我が身の幸運をひけらかす道を祖父は選ばなかった。
祖父の目にはどう映ったのか。
殴って、殴った自分を許容させて、ほら俺は悪いことなんかしていないと自己正当化したくてたまらなくなった夜。
そういう夜があったとしても、理解はできる。
酒に溺れ、妻子に手を上げた理由を察することができる。
今ならば祖父に何が起こっていたのか説明してくれる言葉がある。
当時はなかった。
第二次大戦が終わったばかりの日本で、戦争の精神的な後遺症は見逃された。
少なくとも、祖父は見逃された。
誰も祖父を、父を、救わなかった。
誰もそんなことは追求せず、もはや戦後ではないと言われ、時が流れた。
わたしは殴られて育った。
もはや戦後ではないんだろうか。
本当に、戦後ではないんだろうか。
それなら、なんでわたしは殴られたの。
この身を苛む恐怖はなんなの。
誰のことも責められないで、わたしが悪かったのかと疑いながら生きていくの。
日常が突如として非日常に一変し、そこで清濁飲み込んで成長する主人公、
その割に寄生獣の域を一歩も越えられない。というか、足元にも及んでいない。
僕はこれを読んでいる層と、いわゆるネット右翼は完全にシンクロしているとみている。
彼等の中にあるのは、一言でいうと「終われ、こんな世界」である。
まるで見通しの立たない自らの不遇が、ご破算になる日を心待ちにしているのだ。
そしてそれを成す為の、現時点で一番現実的な手法は「戦争」である。
戦争がドンパチおっ始まって、核でもなんでも世界中に落ちろと。
とにかく、全てをリセットしたい。それが願いだと思う。
「自分はちゃっかり生き残っている」のである。ここが非常にあつかましい。
が乱立することは間違いない。
もともと、「匿名で表明される立場」に、力などあるはずもない。
しかし、それが大きな塊になり、力を持つ時代と環境になってしまった。
心底、恐ろしいと感じる。
A.誰も変態と呼ぶべきではないよ
良くわからないのが「世の中そうなってはいない」という事実が存在したとして、それが一体何を物語るというのだろう。
世間がそうだからといって「あなた」がそれに即した思想信条を持たなければならない理由は?
進め一億火の玉だ、お国の為に戦うぞ、というのが「世間」の風潮だったら竹槍でB29に立ち向かう訓練をするタイプだよね。
そして「それ」は現実にちょっと前の日本という国で起きた話なんだ。
戦争で日本が勝てるとか本気で思っていた国民が何割いたのか私は寡聞にして知らないのだけれども「お国」が怖くて多くの人達は従うしかなかった人もいるんじゃないのかな?赤紙、という召集令状が来るのを誰もが恐れていたのに送り出す時は涙を隠しながら万歳三唱をしていたという話はいろんな文献に載っている。
「世間」というのは、だから恐ろしい、というよりは「世間」を理由にしてはならない、と思う。ましてや「思想」を行政に委ねるなどという行為は余程慎重にしなければ危険極まりない行為だと思う。
とてもではないのだけれども「感情」によって思想を委ねるような大事なことを決定するような事は避けるべきだと思う。
勿論、「未成年者が性的な陵辱を受ける行為を肯定的に描く行為」を気持ち悪いとか怖いとか言う気持ちは十分に理解するし、そうした事を言いたかったり法の整備を願う気持ちを否定はしないよ。
個人的には他人に肉体的・精神的危害を与えない事なら何をやっても良いと思ってる。
SMだって怪我したり死んだりしなければ良いんじゃねえのと思う。八王子の監禁王子の裁判がこないだ開かれて話題になっていたけれど、ドアを部屋の中から出られないようにしてるとかは流石にどうなんだろうねえ、と思う。檻に閉じ込めるプレイはあるけど何日も監禁するのは流石にどうよ、と思うからね。余程当事者同士の了解がなければやったら裁判になる事だってあるでしょ。
小学生の女の子が30歳の年齢差がある男の人と恋愛沙汰になっていいかについては法律云々を除外して考えるなら精神的に未発達な部分があるからもう少し待ちましょう、としか言いようがない。日本国籍を所有しているなら16歳になれば婚姻出来る。
逆に言うなら16歳で婚姻出来るのに18歳未満の「未成年者」が性行為をする事は法律で認められているにも関わらず、その表現を抑止しようとする合理的理由が説明されていないのは謎といえば謎だよね。
で。同性愛。まー、釣りで書いてるのかなって思うけど、これは趣味とか嗜好とかじゃなくて生まれついてのものだから。中には思想的理由から同性愛に走る人もいるんだけれど、同性愛というのは左ききとかと一緒で「なおす」とか「かくす」ものではないし「いけない」ものでもない。個人的にはスカトロだろうがSMだろうが隠さなくたって良いと思ってるし、私も散々はてなダイアリで書いて来たように女装をして外出とかしてた人間なんだけど、恥というのは「世間」という構造が産み出したものであり、その世間というのは何処に存在するかというと「人からどう見られているのか」という眼差しそのものであり、結局は「私を眼差す私」なんだって事に気づいたりする。それを「世間」という存在するかしないマジョリティに肩代わりさせて言ってるに過ぎないって思ってる。世間という曖昧もこもこな、それこそ非実在世間とでも言えば良いんだろうか、「みんながそう言ってるから」っていう「みんな」って誰と誰と誰なんですかって話なわけで、そもそも数的に多かったら正解なのかとか従わなければならない具体的根拠は何よって話なわけですよ。
http://anond.hatelabo.jp/20100324111235に「感情論で人を裁くのか」という話が書かれているのだけれども感情で人を裁く事があるという事実をもってして、気持ち悪い、怖いという「感情」で思想を法の下にひざまずかせて良い根拠にはならないと思うよ。
気持ち悪いとか怖いというのは個人の価値基準でしかなくて、それを言い出したら「怖いというあなたが怖いので、怖いというのをやめてください。そうしないと私の恐怖を取り除く事はできません。どうしてもやめないのなら法にするべきです」と言ってしまう事だって出来るでしょ。
先ず、いろんな「人」と逢い、話を聞くこと。趣味や嗜好以外の「人」の部分で話し合えない人というのは殆どいない。
少なくとも私は出逢った事はない。
大抵の意見の相違は「ぼたんの掛け違え」を超えるものではない。人はそれをエゴと呼ぶ。
例えば私はうんこは食わないし、食いたいとも思わない。目の前でうんこを食うプレイを見たいとも思わない。
同じように「未成年者が性的な陵辱を受ける行為を肯定的に描く行為」を見たいとも思わないし、極端な話そんな描写満載の漫画とはこの世の中から抹殺されてしまっても構わないとすら思っているよ。
だけれど東京都((ではなくてもどの行政でも良いけれど))が「法律で」表現に対して「あれは駄目、これはオッケー」と決めるのってどうなんだろうね、本当にそんな事をして良いの、という疑問がある。だからちゃんと話しあおうぜ、というのが私の考え。
個人的には子供にロリエロを見せる事はないでしょう、と思うんだけど、じゃあビニール袋に封入したらロリエロ野郎が減るわけじゃないよね、とも思う。ロリエロ読めないと犯罪しちゃうぞゲヘヘヘヘって言うわけじゃなくて、増える事はないかもしれないけれど減る事もないんじゃね、と思う。規制されたら減りましたとか増えましたって数字は知る限り存在しなくて、じゃあ規制しても良いだろって事を言い出す人もいそうなんだけど規制しても「隠される」だけで、まあそれで安心っていうのはなんか変な話っていうか、臭い物に蓋をしたらもう安心みたいな何も解決になってないじゃんっていう。まあ解決しようもないんだろうけれど解決しようもない事にわざわざ法律という網を被せなければならない理由が「怖いキモい」はどうなのかなあ、と思うし、エロロリにビニール袋被せても状況は変わらないと思うよ。ハレンチ学園は禁止にならないって話もあるように絶対「漏れ」る表現が出て来て、じゃあそうした「漏れたもの」を見て不快に思ったらどうするの?規制強化を訴えるの?その先にあるのは何?って思わないのかな、思わないか。
で。ちょっとだけ寄り道的に自分語り。
私はローマンカトリックをあつく信仰している両親の元に生まれた。
従って幼児洗礼を受け、物心ついた頃には「日曜には教会にいくもの」と決まっていた。
キリスト教の事について知らない人もいると思うけれど、当たり前のように東京都の青少年うんたらなんかよりずっと厳しい戒律がある。知ってる人もいると思うけど「汝、姦淫をするな」というアレね。
まー、アレはモーゼの十戒って奴でキリスト以前に存在した言葉なんだけど、って話をしはじめたら長いんで省略するんだけど、「汝、姦淫をするなかれ」の「姦淫」をどう定義付けるかというのかって言う話なんだけど「結婚したら貞操を守れ」とか「レイプすんじゃねーぞ」って思われてるかもしんないんだけどそうじゃなくて結婚する迄貞操を守りましょう、一度相手を決めたなら、他の異性を性的な眼差しで見たり、あるいは心の中で「良いな」と思ってはならない、というのが「姦淫するな」という事です。
結婚する迄貞操を守れとかって、某掲示板の人達が手を叩いて喜びそうだけど、じゃあ「あのコかわいいな」ってちょっとでも思ったら姦淫の罪っていうのも大変だよね。でもまあそれが当たり前だと思っていた私にとっては助平な話をするクラスメイトとかその手の本を持ってくるクラスメイドが大嫌いだったし憎んでもいたし反発もした結果、いじめを受けた。
で。18歳になるくらいまでこうした事の意味がわからなかったりしてロクに友達も出来ない儘、図書館にある本だけが自分にとっての情報源だったんだけど((私が子供の頃はインターネットなんて存在しなかったからね))、いろいろと読んでいるうちに「自分の考えは間違っているのではないか」と思うようになった。
その理由の一つに「自分は左ききである」というのが起因している。キリスト教は特段に左利きに対して定めているわけではないのだけれど「神の偉大な右の手」みたいなフレーズが出てきたり十字を切るとか聖体拝領とかを左手でやると物凄く怒られたのね。自分はだから、自然に左手を使ってしまう自分を「悪い子」だと思っていた。
そんな体験を持つ私が敢えていう。思想信条は国家が抑制してはならない。どんな神を信じるのかが自由であるのは、神を信じない自由が保障されてこそなのだ。あなたはキリスト教を信じる事が法律で決まったら、それに従うのだろうか。こういう書き方をするとキリスト教を馬鹿にしていると思う人がいると思うのだけれど、決してそうではない。私の父はキリスト教と共に生き、教会とともにあり、キリスト教に多くの貢献をし、多くの人に愛されながら逝った一人だからである。私の父は父なりの人生を歩み、幸福であったと確信している。
しかし、父は父、私は私なのである。
それぞれの人生が異なるように、何を信じ、何を信じないのかを決めるのは、その人に委ねられるべきであり、決して行政の手に委ねられてはならない。
さて。私は自称売れない絵描きとプロフィールに示している、利害関係者の一人だからポジショントークだと言いたい人もいるらしいんで、可能な限り利害関係にないと思われるところから発せられている反対表明のリンクを書いてこのエントリを締めたいと思います。勿論、下記のリンクを示す事が私の言説の正しさを示すものでも、未成年者児童に対しての表現抑制を主張する人の意見が間違っている事を証明するものでもありません。単純に「こういう人達が、このような立場から意見を表明している」という事実を示したうえで「どう考えるのか」を皆さんが考える一助となれば、と思い、示しています。
http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/report/data/100318_3.pdf
日本弁護士連合会による反対表明。
http://www.jla.or.jp/kenkai/20100317.html
http://miau.jp/1268478000.phtml
miauによる反対表明。
http://nbi.sfc.keio.ac.jp/files/statement_20100312.pdf
ネットビジネスコンソーシアムによる反対表明。