はてなキーワード: ソーシャルメディアとは
少なくない数の海外オタクが日本の美少女アニメを切っ掛けにトランスジェンダーになっているらしいけど、日本では起こっていない事なのに、何故海外では起こるのだろう。
https://blogs.feministwiki.org/socjuswiz/2019/10/20/masculinity-anime-and-gender-dysphoria/
トランスジェンダーの議論に多くの時間を費やしている人は、遅かれ早かれ、アニメに夢中で、アニメの女の子をソーシャルメディアのアバターに使用し、かわいいアニメの女の子に関連するミームを共有し、トランスジェンダーであることを自認する若い男性が大量にいることに気づくでしょう。すぐ。それを確認するための統計も何もありませんが (研究するのは奇妙なことでしょう)、この相関関係は偶然を超えているようです。この記事では、5 年間を費やした者として、この現象の背後にある力学についての理論を提示します。 + 4chan のアニメ コミュニティに何年も所属し、同時期に非常に軽度の性別違和と自己女性化傾向を発症しました。
https://archived.moe/lgbt/thread/7538520/
アニメが私をトランスジェンダーにしました 匿名 2017年1月8日(日) 18:53:57 第7538520号ビュー
アニメを見て自分もトランスジェンダーであることに気づいた人はいますか? かわいいアニメの女の子を見ると性別違和の感情を抱く可能性はありますか? 私は以前はシスジェンダーの異性愛者であると自認していましたが、今はそれほど自信がありません。ホルモン剤を投与したほうがいいでしょうか?私は今、トランスジェンダーオタククラブに所属していますか?
の翻訳。執筆者はステットソン大学の心理学教授、クリストファー・J・ファーガソン。
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2020年に起きた比較的マイナーな(トランプ大統領や新型コロナと比較して)炎上ニュースの中に、ジャーナリストのアビゲイル・シュライアーの『あの子もトランスジェンダーになった SNSで伝染する性転換ブームの悲劇(Irreversible Damage)』をめぐる論争があった。
本書は、みずからのトランス男性として認識するティーンエイジャーの「女子」の急増は、性別違和やトランスジェンダリズムが原因ではなく、社会から疎外されたアイデンティティが社会的な影響によって、本来他の精神疾患を持っている少女たちが誤って自分をトランスとして認識しているためだと主張している。
この本に自分の家族や娘を重ね合わせ、娘たちが直面している現実の問題を語っていると考える親もいる。(原注:シュライアーの見解を反映し、生物学的性別のみを反映することを意図しているため、ここでは「娘(daughters)」という用語を使用する。) しかし、多くのトランス活動家たちは、この本をトランスフォビックであり、敵対的であり、より広くトランスの人々にとって有害であるとして非難している。そのため本書への販売反対運動も広まっている。*1
私は最近この本を読んだので、ここに感想を述べておきたい。はじめに言っておくと、これは複雑で微妙な問題だと思う。しかし、現代の言論は、感情的な議論のどちらの側にも、ニュアンスや複雑さを認めることはめったにない。
基本的に以下のふたつの状況は傍から見てほとんど区別がつかないことは、残念ながら確かだ。a)トランスであると自認する青少年を含むほとんどの個人は本当にトランスであり、医学的な移行から恩恵を受けるであろうということ、b)青少年としてトランスであると自認しているが、境界性パーソナリティ障害やその他のパーソナリティ障害、自閉症スペクトラム障害など、アイデンティティの混乱を引き起こすような他の精神的健康状態にあり、これらの個人は医学的な移行からあまり恩恵を受けないかもしれない、ということ。
第一に、「ジェンダーは社会的構築物である」というスローガン(シュライアーがその大部分を支持している)に反して、ジェンダー・アイデンティティは視床下部に存在し、そのようなものとして、ほとんど不変であることが神経生物学的証拠から判明している。端的に言えば、トランスジェンダーは、ある性別の身体を持ちながら、別の性別の脳を持っているということだ。そのような個人は、尊敬と思いやりに値し、嫌がらせやいじめから解放されるべきであり、自分の好む代名詞や名前が尊重されるべきであり、恋愛、結婚、子供を持つこと、養子をとることも自由であるべきなのだ。
同時に、境界性パーソナリティ障害は、多重人格障害(解離性同一性障害)や双極性障害など、他の有名な精神疾患と併発したり、誤診されたりすることが多いという証拠もある。したがって、トランスであると自認する人の一部(すべて、あるいは大多数ではないことは確かだが)が、アイデンティティの混乱というより広範な問題を抱えている懸念もあるにはある。
本書を読んでいて、私はいくらか批判的にならざるを得ない点があった。その主なものは、シュライアーの科学への関心が、時として表面的であるという懸念であった。もちろん、これは本書に限ったことではないが、このようなセンセーショナルなトピックでは、科学的議論のいくつかにもっと精妙な検証が要求される。シュライアーは、この分野の学者たちのデータや意見を掲載し、リサ・リットマンの「急速発症型性別違和」*2と呼ばれる物議を醸した研究(過去にはこの研究自体が議論の対象となったが、研究の是非はともかく、科学的には嘆かわしいものであった)など、重要な(しかし是非の多い)研究をいくつか取り上げている。
ジェンダー・アイデンティティが生物学的なものに基づいているという考えを、それを示唆する証拠が豊富にあるにもかかわらず、シュライアーが平気で否定するのには呆れた。ある時、シュライアーはこう書いている。「XX染色体が刻印された女の子の脳が男の子の体に宿るというのは、生物学的にナンセンスだ」。染色体とは関係なく、子宮内でのアンドロゲン暴露が視床下部の発達に影響を与え、性自認に影響を与える可能性はある。そのことを理解していないこの見解に、私は顔面蒼白になった。
もちろん、この見解はシュライアーの創作とは言い難く、第二波フェミニズムにまでさかのぼる〈ジェンダー・クリティカル〉なフェミニスト(一般的に、この非常に論争的な議論においてトランス活動家と対立する側)を反映している。実際、この論争で興味深いことのひとつは、伝統的な右派と左派の対立というのではなく、左派を標榜する2つのグループの間の感情的な蔑視がしばしば反映されていることだ。
シュライアーはまた、インターネットに時間を費やしすぎることが少女たちにトランスであるという認識を抱かせる原因になっている、という考え方に奇妙なほど執着している。彼女は、ソーシャルメディアが精神衛生にどのような影響を与えるかについて、ジャン・マリー・トゥエンジ*3の研究を引き合いに出すが、トゥエンジの主張の多くがかなり徹底的に否定されていることを読者に知らせない。彼女がこの種のモラル・パニックにしばしば戻るのは気が散るし、急速に発症する性別違和という概念自体がモラル・パニックなのではないかと思わせられた。
とはいえ、彼女の論文を完全に否定する気にはなれない。実際のところ、トランスであると自認する女子の割合が本当に増えているのか、あるいは増えていないのかについて、きちんとしたデータは存在しないようだ。私の交友関係でも、伝聞的に、このようなことを耳にする機会が少しずつ増えてきているが、伝聞は証拠ではないし、もっと確かなデータが必要されている。
境界性パーソナリティ障害に加えて、性別違和も自閉症スペクトラムの思春期の女の子に多いという研究がある。この意味で、青少年が公言する性自認を、それ以上の診断的評価なしに医学的移行への動きとして受け入れるという肯定的アプローチには、明らかなリスクがある。これが、医学的移行に対するこのアプローチに懐疑的な最近の英国の裁判所の判決の背景にある理由のようである。
私たちは、どのような青少年が医療移行への迅速な移行から最も恩恵を受けるか、またどのような青少年がさまざまな介入からより多くの恩恵を受けるかについて、より良いデータが必要である。いずれも、トランスジェンダーの権利と福祉、そして彼らに課せられた敬意を損なう必要はない。学者には、急速に発症する性別違和が実在するかどうかを研究する余地が必要である。私は、査読と科学的再現性と訂正がこの問題を解明すると確信しているが、ツイッターの怒りに応じる形での科学的検閲は問題を混乱させるだけだろう。
結論として、ここには検討すべき有効なアイデアがいくつかあると思う。しかし、特にアイデンティティ・ポリティクスが激化している時代には、データの複雑さや困難な状況のニュアンスを考慮する意欲と、より多くの情報が必要であることを認める知的謙虚さを持った、より多くのデータに基づいた研究が必要である。
私は本書のどのような部分が論議を巻き起こしているかを理解するためだけなく。本書に反対する立場から検閲しようと努力する向きにも一読を薦めたい。しかし、科学について慎重かつ忠実な本を期待していたのであれば、この本がそうでないことは確かであり、その点で、本書がトランス・コミュニティで集めた否定的な反応はまったく理解できる。将来、質の高い、事前登録された、オープンサイエンス、インターネット検閲の努力から解放された科学的な取り組みが行われ、この複雑な問題をより明確に理解できるようになることを願うばかりだ。
*1……本書に対する販売反対運動が巻き起こったのは日本だけではない。
Amazonは同書のジェンダーの取り扱いに対するスタンスへの懸念から有料広告キャンペーンを打ち切ったものの、販売自体は行ったため、ヘイトに反対する従業員グループから販売中止の要請を受けた。結局Amazon社は「Amazonのコンテンツポリシーには違反していない」として、販売を継続し、その態度に失望した一部従業員はAmazonを辞めた。
また、大手量販店のターゲットではやはり論争を受けてオンラインでの販売を中止したが、翌日に再開し、三ヶ月後に再度中止した。
ここで興味深いのは、販売反対運動が出版社に対してではなく、販売プラットフォームに対してなされたことだ。日本でもヘイト本を扱っている書店に対する苦言などはたまに見られるが、反対活動によって販路を閉ざし実質上の販売中止させようという動きはあまりない。アメリカではAmazonが書籍販売について(日本より普及している電子版を含め)かなり独占的な勢力を占めていることなども関係しているように思われる。カナダでは図書館に対しても貸出の中止を求める請願が出されたという。
ちなみに出版元であるRegnery Publishingは保守系の老舗で、過去にはインテリジェント・デザイン説を擁護する書籍などを出し、そのたびに批判を受けてきた。『あの子もトランスジェンダーになった』で「エモやアニメ、無神論、共産主義、ゲイ」などが批判的な文脈で持ち出されるのもこうした文脈に沿っている。
*2……本書がサポートしている rapid-onset gender dysphoria (ROGD、急速発症型性別違和)はリサ・リットマンによって2018年に提唱された概念であるが、臨床的・科学的な証拠が不十分であるとして医学的診断としては認められていない。
*3……アメリカの心理学者。2017年に iGen という本で若年世代のナルシシズムとインターネットの関係を書いた。が、同書は多くの批判を受けた。
いくらなんでも一括りにしすぎだと思ったので、少し反例を出す。
賛成 フランス、中国、ロシア、ブラジル、サウジアラビア、エジプトなど
棄権 イギリス、カナダ、ドイツ、イタリア、ウクライナ、日本など
賛成 フランス、スイス、マルタ、日本、中国、UAE、アルバニア、ブラジル、エクアドル、ガボン、ガーナ、モザンビーク
わかりやすくなるよう欧米および西側諸国を左側に寄せているが、見ての通り温度差はそれなりにあるんである。特にフランスは突出していて、今回の紛争が始まってからだいぶパレスチナ寄りである。
英仏は親パレスチナ、独は親イスラエル SNS 言語で温度差(日経新聞)
https://www.nikkei.com/telling/DGXZTS00008000U3A121C2000000/
面白い記事だったので、保存していた。(どうせあとでホッテントリ入るだろうと思っていたらかすりもしなかった)
X、Instagram、YouTubeなどを言語および国ごとに親パレスチナと親イスラエルの割合を調査したものである。
まず言語別であるが、英語、フランス語、スペイン語で親イスラエルより親パレスチナの方が上回っている。
さすがに反ナチス教育が盛んなドイツ語圏ではほぼ常時親イスラエルが上回っている。が、それでも親パレスチナと拮抗する場面があるのは見逃せない点だろう。
つまり単純に言語で見た場合、欧米が親イスラエルの一枚岩である、とはぱっとみ言えない結果になっている。
ただ、英語、フランス語、スペイン語は現地以外(アフリカ、グローバルサウスなど)でも使用されていることを踏まえると、これだけで判断するのは難しい。そこで国別を見てみる。
特筆すべきはイギリスで、国連ではアメリカとの連帯を見せることが多い彼の国だが、親パレスチナが大幅に上回っている。おそらくこれは移民の人口割合が多いためだろう。
そしてフランスだが、こちらはまた別の意味で面白く、そもそも中立派が7割と群を抜いて多い。親パレスチナ、親イスラエルと傾いてること自体が少数派であり、その中でも親イスラエルは最も低く10%を切っているのである。
端的に言ってしまうと、それはあくまで「ユダヤ資本(の関わりが深い政治有力者やメディア、企業)」であって、欧米社会そのものではない。
力を持った人やメディアが号令をかけている姿、それが外野である我々からは「欧米はイスラエルを支持」として映って見えがち、というだけである。
そして、その情報戦略はいまのところあまりうまくいっていない、といっていいだろう。
それを見誤って、人道休戦に向けて動いている人、市井の人々の実際の動向をなかったことにするのであれば、彼らの思う壺であるだろう。
Scientific Reportsに掲載された最近の研究では、より多くのビデオゲームをプレイすることは知能の向上と関連していることが示されています。
“現在、様々なメディア媒体で、一般人であるお相手、そのご親族や関係者の方々に対して、そして、私の親族、関係者に対しても、誹謗中傷やストーカー行為、許可のない取材や報道がなされています。”
https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2023/11/17/kiji/20231117s00041000773000c.html
「なんでファンのせいにされてるの?」って言ってる人達は、この”様々なメディア”をテレビや雑誌(マスメディア)のことだけだと思ってるのかな?SNS(ソーシャルメディア)もメディアなんだけど
サイレントマイノリティの方々、見ているだろうか。サイレントマジョリティーじゃないの?と思うかもしれない。サイレントマイノリティは今作った造語だ。どういう意味かというと、いくらうるさく喚いても誰からも関心を持たれず、「サイレント」であるように見られる、思想的マイノリティの人々のことである。あなたならば、有名人がなぜ有名であるのか、あるいはなぜ特定の事象が流行しているのかについて疑問に思っていることだろう。
この世の中が次のような世界であったならどうか。あなたはプレイヤーであり、周囲はNPCである。NPCたちはあなたの発言を意図的に無視するようにプログラムされている。あなたがいくら努力しても、あなたが成功することも、有名になることもない。あなたが「アノ人たちのようにちやほやされたい」と嘆くが、その願いが叶うことはない。
1億人の「敵」は、誰が評価されるべきかどうかについて、社会的取り決めをしている。これはイイネされるべきだとか、彼はフォローすべきだとか、そんな具合である。これは一種の「社会構築主義」とも言える。真理は社会が決めるという主義のことだ。連中は客観性を否定するため、常に政治的に物事が決定されるという信念を持っている。「数の力」があらゆるところに存在し、あなたは「評価されるべき対象」の外側にいる。
さて、ここで質問である。このような地獄で、あなたはどのようにして満足して暮らせるだろうか。愛の反対は無関心であるというが、まさに世界があなたに対して無関心なのである。あなたを愛する人がいない中、どうやってNPCを出し抜くのか。
ソーシャルメディア(SNS)とは何か、という質問に対し、あなたは「データの狩場」と答えることができる。あなたがいくら真剣に向き合って、心の声を打ち明けたところで、連中はあなたに無関心である。であるならば、連中のありとあらゆる発言を「データ」と考え、それを分析することに楽しみを見い出せば良いのである。NPCをプログラムと考えるなら、そのソースコードを解読するわけである。あなたを人間とみなさない連中を、人間とみなす必要はない。
気をつけてほしいが、連中はそうはいっても法律を作り上げているし、あなたも法律に守られている。いくら連中がゾンビに見えたからといって、法律違反をすることは避けなければならない。連中の中には沢山のスパイが潜んでいるが、そういった非合法の輩でさえ、法律はむやみに破ったりはしない。
まずもってあの吊し上げがかなり異様だったからな。
あの事件のときに、日本歴史学協会(色んな歴史系学会の寄り合いみたいなやつ)が「日本中世史を専攻する男性研究者による、ソーシャルメディア(SNS)を通じた、女性をはじめ、あらゆる社会的弱者に対する、長年の性差別・ハラスメント行為」を糾弾する声明文出してたんだけど、俺にはめちゃくちゃ異様に感じられた。
http://www.nichirekikyo.com/statement/statement20210402.html
日歴協の声明って、過去のを見ればわかるけど、「学術会議問題で政府を批判する」とか「建国記念の日に反対する」とか「貴重な遺跡を保全してくれ」とか「ロシアのウクライナ侵略に反対」とか、そういう、何といえばいいかわからんけど「大きな問題」に対する声明が多かったんだよね。賛否は別にして、こういった問題になら、学会の寄り合いがわざわざ声明を出すのもわかる。
http://www.nichirekikyo.com/statement/statement.html
でも、呉座への糾弾だけ、公人ではない個人に対する攻撃で、なんだか異様なんだよな。呉座のやったことが良いか悪いかといえばそりゃ悪いけど、日歴協に日本学術会議とか建国記念の日とかウクライナ戦争とかと並んで声明出されるレベルで悪かったか? って言われると、そこまででもねーだろ、バランス失してないか? って思うよ。万引き犯に向けて発砲してるみたいなやりすぎ感がある。
考えてみてほしいんだけど、たしかに呉座は知名度もあって、大河ドラマの監修に抜擢されたりしてたけど、たかがテニュアトラック助教やぞ? 終身雇用でも何でもない助教のやらかしで、歴史学界全体がこうも右往左往する必要があったのかね。直接の雇用者である日文研が右往左往したのはまあわかるけど、何であそこまでの蜂の巣をつつくような大騒ぎになったのかがまるでわからん。
ネット上で害悪垢を運営して、見ず知らずの他分野のテニュア持ち准教授を誹謗中傷してました、なんて、見聞きしてきた中ではもっとやべーやついるしな、程度の感じ。同じ分野の若手研究者に圧力かけて発表済みの論文を修正させようとしたり単著で剽窃やら出典捏造やらをやらかしたりした教授(ちなみに女性)はのうのうと逃げおおせて「あいつヤバいんだよね」と陰口叩かれながらも世間ではそこそこ名の知れた研究者として通ってるし、そういうの見てると呉座へのオーバーキルがますますわけわからなくなる。
センシティブな問題への態度というのは己の身に降りかかる己の責任だ。リベラルがお墨付きを出して担保してくれというものではない。
リベラル指導層の方針には絶対服従しなければならないが、リベラル指導層は責任をとらない。
普通は文春とか新潮とか、読売、日経が報じるのを読んで参考にしよう、口に出すのはそれらが書いてからにしようという態度になる筈だ。
プチブルメディアに責任を負わせよう。(朝日、毎日、東京はリベラル指導層だから責任はとらないよ)
迂闊な行為で自分の評判が下がり兼ねず、それにはソーシャルメディアのアカウント凍結や利用禁止処分、会社での人事評価等の影響があり得る。
キャンセルされたくなければ、言論を自主規制しろという恫喝ですね!
北朝鮮みたい。
その1 → https://anond.hatelabo.jp/20231004185146
余談であるが、共同親権問題がおかしい連中のコンテンツになっているのも在特会が関係している。
この蕨デモが隆盛の頃、その活動家が児童相談所を攻撃するようになった。親権に考慮して児相はそれまでDVに関して及び腰だった。結局親の元で暮らすので強権を振るうのはナンセンスで親の説得メインだったのだ。
だがその方針を切り替えて国が積極的に家庭に介入、子供を連れて行って保護してしまうようになった。これは欧米先進国の流れに沿った路線変更だ。
すると子供を無理に連れていかれた親は困惑する。そしてそんな親の情報を在特会活動家達が聞きつけた。そして在特会傍流が児相攻撃デモをやるようになった。
しかし児相が強権で一時保護するなんてケースは当然虐待が関係している訳で、そんな親の側に立っていいのかという問題がある。そしてその正しい判断は当然に彼等には出来ない。
今でも児相で検索すると「何も虐待してないのに児相に誘拐されるって本当ですか」というシンパによるワザとらしい質問などが沢山ヒットすると思う。
そんな彼等がやがて片親の連れ去り違法化と親権の問題で共同親権を主張するようになった。
故に共同親権ではDVの有責配偶者の擁護という文脈を纏うようになったのだ。
連れ去りの違法化と共同親権はセットだというのは正論だが、こうしてDV擁護の文脈で活動する人士らのコンテンツとなったままなので正論を言っても仕方がない。
法律の世界で正統的な議論で上書きされれば良かろうが、そうではない現状ではマズイ文脈と人脈をずっと引き摺っている。
2005~2007年頃に掛けて治安が著しく悪化していると感じる人が増加し、中には「怖くて家から出られない」等という人も出てきた。
だが実際には日本の歴史上かつてない程に治安は良く、犯罪認知件数は過去最低であった。
またこの数年前には少年犯罪が凶悪化しているとの感覚が共有されて実際に少年法が厳罰化される改正があった。
だが実際は少年事件件数もそのうち凶悪事件件数も過去最低だったのだ。
この体感治安と実際の認知件数の乖離問題はブログで数字を出して議論され、それがマスコミに参照されるようになり、体感治安の悪化に反して実際の治安は過去最高という事が周知されるようになった。
数少ないネット言論の生の功績だ。
こういう過去もあるのに、浅黒外人の行為は何でもかんでもクルドという単純な方法に引っかかっているのは単純に情弱バカであろう。
この手の外国人問題は排外主義の問題にも繋がるからセンシディブである。迂闊な行為で自分の評判が下がり兼ねず、それにはソーシャルメディアのアカウント凍結や利用禁止処分、会社での人事評価等の影響があり得る。
であれば普通は文春とか新潮とか、読売、日経が報じるのを読んで参考にしよう、口に出すのはそれらが書いてからにしようという態度になる筈だ。
そこで何故agora出身ライターなのか?また産経の記事を読んでも、その記事がちゃんと取材して書かれているのか?当該ライターの書き込みだけで書いてないか?は確認するものだろう。産経は2chの書き込みで記事書いたりツイートで記事書いたりという間抜けをしてきた新聞である。
そしてこういう問題に関してリベラルは向き合うべきだなどという意見が人気を集める。リベラルは多文化共生のような浮ついた意見を言うものだから責任を持てという事だ。
「市議会でクルド人の不法行為の取締り強化を議決した」という件の発議はここにある。https://kawaguchi.gsl-service.net/doc/2014072300126/file_contents/202306tsuukokusho.pdf
中身は見て判る通り、半分は犯罪認知数と納税状況の確認、半分は共生への具体策である。外国人の国籍の明示はしていない。
これに対して「共生とかの浮ついた」と言っている訳でバカである。意見書の取締り強化は警察への要請、半分はトラブルを減らす多文化共生の具体化を市に訴えている穏当な内容だから意見書が通ったのだ。
そしてこれをもって、川口市はクルド人への対決姿勢を示したと喧伝している奴がまともかどうかは自分で考えたらいい。
これはよくある方法だ。例えば幸福の科学は国連でスピーチをしましたという記事を出した。だがそれは国連本部のレストランで数人相手に話したものだった。
NHKはロシアのクリミナ侵攻の直後のサミットで「安倍総理が提唱する中国包囲網について話し合われました」と報道した。当然クリミア侵攻後にそんな事を議論する余地はない。議題に出しただけだ。そしてこういう報道でクリミア侵攻後にロシアへの経済制裁を緩めたり北方領土をエサにされる事の危険性は周知されなかった。
そしてセンシティブな問題への態度というのは己の身に降りかかる己の責任だ。リベラルがお墨付きを出して担保してくれというものではない。更にこういう態度は学校のホームルームの内面化である。
これで石井などの言説に引っかかってる奴らって都会に住んでいないのだろうか?都会では既に店員も客も外国人ばかりだ。建築現場なんて過半数が外国人になっている。安倍政権が移民政策に舵を切ったのだからそうなるに決まっていた。
増田は外国人が多い地域で大家をやっていて、外国人を入居させて起きた問題というのが結構ある。特に酷かったのが、中国人が勝手にまた貸しでシェアハウス化させていて、その勝手入居者が偽造旅券を売っていたという事件だ。空港警察から電話があり捜査に協力、当該契約者は追い出した(日本の大企業勤務だ)。その際、日本人の保証人の勤務実態調査の為に張り込みもした。
でもそれでagoraライターみたいなのの記事に賛同するかと言ったら絶対しない。何故ってクソの役にも立たないから。
危ないから賃借契約を渋くするだけだ。でも物件がボロイ場合は客付けが悪くなるから妥協する。都会ではそうやって共存してるのだ。甘い顔をするだけじゃなくて時に法律や殴り合いしてるのが共存なの。
そこで社会人に訴求する媒体で書けないような連中の単純なやり方を真に受けて「共生という綺麗ごとだけじゃ済まない」ってしたり顔で言ってるってどんな平和な田舎に暮らしてるんだ?
ドラレコ映像集みたいな雑な動画には「川口」なんてテロップ入れたサムネの動画がアップされてるんだよな。で、見てみると外人が事故起こしたってだけ。でもコメ欄には「クルド人が」というバカ米が並ぶ。15年来の符丁なので通じるって訳だ。サムネに「クルド人」と入れるとbanされるからそういう符丁を使う。もうそういうコンテンツになってるワケよ。で、ヤフコメ、twiiterに続くそういうコンテンツの一つの中心がはてななんよな。
現代社会では、人々は無意識のうちに消費者としての受動的な生き方に馴れている。この現象は、iPhoneの購入においても顕著である。この小さな画面の中で、人々はコミュニケーションの大部分を行い、情報を受け取り、そしてエンターテインメントを楽しんでいる。しかし、この便利なデバイスは、実際には人々の創造性を制約し、受動的な存在へと導いている。
iPhoneの透明な利点に魅了されるあいだ、我々は独自の創造の道を踏み外す可能性がある。常に他人の作ったアプリやゲーム、ソーシャルメディアに囚われ、自分自身の創造力を発揮する機会を失っている。
対照的に、ポメラはそのシンプルさと機能性で主体的な生き方を支援する。ポメラDM250のようなモデルは、文字入力に特化した機器であり、他の多くの機能を排除している。これにより、ユーザーは集中力を高め、創作活動に専念することができる。
ポメラを使用することで、余計な情報やアプリから解放され、自分自身の思考と向き合うことができる。キングジムのこのモデルは、現代の情報過多の世界で、集中力と創造力を高めることを支援してくれる。
主体的な創造者としての道を歩み始めるためには、ポメラのような道具を選択する勇気が必要である。ポメラは、我々が真の創造者としての人生を再発見する手助けをしてくれる。
急進的な著者の本が主流紙で書評されることは、ましてや好意的に評価されることは滅多にない。デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングローによる『万物の黎明』は例外である。わずか2ヶ月前に出版されたこの本は、すでに世界で最も影響力のある英字新聞や雑誌の多くから賞賛を受けている。
著者のアナーキズムの主張に疑問を呈する書評家でさえ、「3万年にわたる変化に関する岩盤の前提を覆す見事な新説」(アトランティック誌)、「多くの大陸と数千年にわたる文明に関するめくるめく物語の数々、そのすべてが自由であることの意味に取り組んでいる」(ワシントン・ポスト紙)と称賛している。また、ソーシャルメディア上の左翼的な投稿者たちからも、好意的なコメント-場合によっては絶賛!-が寄せられている。
しかし、以下に掲載する2つの書評は、いずれも唯物論的人類学者によるもので、この本の人類史に関する記述は、大量の反対証拠を無視しており、その政治的主張は観念論的で自発主義的であると論じている。どちらの書評も特に、女性抑圧の原因を考察していないことに批判的である。
クリス・ナイトはユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの人類学上級研究員で、アフリカにおける人類の起源を研究するチームの一員である。著書に『Blood Relations(血のつながり)』など:Menstruation and the Origins of Culture』、『Decoding Chomsky: Science and Revolutionary Politics』などがある。The Dawn of Everything』の書評はTimes Higher Educationに掲載された。
ナンシー・リンディスファーンとジョナサン・ニールはともに人類学者として訓練を受け、人類の進化、階級社会、性的暴力についての本を執筆中。ナンシーの近著は、リチャード・タッパーとの共著で『Afghan Village Voices』(アフガニスタンの村の声):Stories from a Tribal Community, 2020』である。ジョナサンの近著は『Fight the Fire: Green New Deals and Global Climate Jobs』。The Dawn of Everything』の書評はエコロジスト誌とブログ『Anne Bonny Pirate』に掲載された。
本書は楽しく、有益で、時には爽快である。また、根本的なところで支離滅裂で間違っている。ヨーロッパに洞窟壁画が現れ始めた頃からの、比較的最近の先史時代について学びたいのであれば、必読の書である。しかし、人類が最初に笑い、歌い、話し、芸術、儀式、政治を創造し始めたのはなぜなのか、どうしてなのかを知りたければ、きっと失望するだろう。
この本のタイトルは深刻な誤解を招く。『万物の黎明』? 『お茶の時間』の方が正確だろう。ホモ・サピエンスがヨーロッパに到着する何万年も前にアフリカで始まった文化の開花を体系的に横取りし、この物語はあまりにも遅く始まる。
欠点はあるが、この本は広報の勝利である。フリードリヒ・エンゲルスが『家族、私有財産、国家の起源』を出版して以来、左翼知識人や活動家が人類の社会的起源や先史時代の過去について学ぶことにこれほど興奮したことはない。
短い書評では、本書の幅の広さと博識を伝えることはできない。その核となる政治的メッセージは露骨だ。平等主義の狩猟採集民が生活の中で共産主義を実践したというエンゲルスの話は神話である。『万物の黎明』はエンゲルスを見事にひっくり返している。第4章の結びの言葉を引用すれば、「私有財産に "起源 "があるとすれば、それは聖なるものの考え方と同じくらい古いものであり、おそらく人類そのものと同じくらい古いものであろう」。デヴィッド・グレーバーは、マーシャル・サーリンズとの共著『王について』の中で、神の王や森の精霊のような想像上の超自然的な存在が常に人々に対して権威を行使してきたことから、国家権力の原理は人間の条件の不動の特徴であると主張している。
よりによってアナーキストが国家の必然性を受け入れるのは逆説的に思えるかもしれない。しかし、本書はそのメッセージに重みを与えている。そう、著者は言う。アナーキスト的な自由は実現可能だが、それは貴重な瞬間や飛び地に限られると。もうひとつの世界は可能である」という革命的スローガンはもうたくさんだ。その代わりに、グレイバーとデイヴィッド・ウェングローは、「階層と平等は、互いに補完し合うものとして、共に出現する傾向がある」と主張している。ある場所で自由を手に入れるには、別の場所での抑圧を受け入れるしかない、と彼らは言っているようだ。
著者たちはダーウィンの自然淘汰理論に違和感を抱いており、現代の進化論を「社会進化論」と混同している。現代の進化論は科学的であると主張するが、実際は純粋な神話である。グレイバーとウェングローは、進化論をまったく認めない人類の起源についての視点を、読者が真剣に検討することを期待しているのだ。
彼らが認める唯一の科学は応用科学であり、この場合は「考古学的科学」である。彼らは、政治や社会生活については、古代の人類の「頭蓋の遺骨と時折出てくる火打石のかけら」からは何も読み取れないと主張することで、「万物の黎明」の年代をわずか4万年前とすることを正当化している。この言い訳は、人類の最もユニークな特徴である芸術や象徴文化が、これまで考えられていたよりも3、4倍早くアフリカで生まれたという、説得力のある最近の証拠に照らすと、弱々しく見える。その証拠とは、骨や石だけでなく、ビーズ、幾何学的な彫刻、埋葬品、砥石や絵の具壺などの工芸品である。
彼らが "フェミニスト "と呼ぶ人物(実際には進化人類学の第一人者サラ・ハーディ)が、現代人の本能と心理を形成する上で集団的育児が重要な役割を果たしたことについて興味深いことを言っていることは、グレーバーとウェングローも認めている。しかし彼らは、「エデンの園は存在せず、一人のイヴも存在しなかったのだから、そのような洞察は部分的なものにしかなりえない」とコメントしている。この種のトリック--この場合は、ハーディの研究が "アフリカのイブ "の年代測定より200万年前にホモ属が出現したことに焦点を当てているという事実を無視すること--は、明らかに人類の起源研究が追求する価値があるという考えそのものを損なわせることを目的としている。
グレーバーとウェングローは、初期の平等主義を "有害な神話 "として否定する一方で、狩猟採集民の多くが "自称自慢屋やいじめっ子を地上に引きずりおろすために、嘲笑、羞恥心、敬遠など、他の霊長類には見られない戦術を総動員している "ことには同意している。ではなぜ彼らは、私たちの人間性を規定する本能や能力が平等主義的な生き方によって形成されたという考えに敵対するのだろうか?
私たちは皆、社会的・政治的に対等な人々と笑い、歌い、遊び、交わることができるとき、最も幸福を感じる。しかし、グレイバーとウェングローは、この事実を土台にする代わりに、狩猟採集民の祖先も同様に、攻撃的な男性による嫌がらせや虐待、支配を選んだかもしれないと言っているようだ。進化人類学者クリストファー・ボームが描く、反権威主義的抵抗の中で形成された道徳意識の高い社会に対する反論をまとめると、狩猟採集民の祖先は一貫して平等主義を好んでいたという彼の考えを、彼らは「初期の人類をさりげなくエデンの園に投げ返している」と表現している。
グレーバーとウェングローの基本的な論点は、政治的選択の自由に関するものである。彼らの考えを説明するために、人類学の古典であるエスキモーの伝統的な生活の説明を思い起こさせる。アザラシを狩る彼らは、夏の間は家父長制的な家族構成を確立し、冬の間は共同生活(夫と妻を含むすべてを共有する)に戻るだけである。私たち人類は、その本性上、大胆な社会実験に駆り立てられるのだと著者は結論づける。その結果、奴隷制度や人身御供、大量殺戮といった極端なヒエラルキーが形成され、破滅的な結果を招くこともある。しかし、遠い過去の良い点は、少なくとも現代のようにひとつのシステムに縛られることはなかったということだ。
この歴史は対立と交替に満ちているが、その周期性はエスキモーの周期性に倣ったもので、一方的な季節性である。グレイバーとウェングローは、ほとんどの狩猟採集民が季節だけでなく月の周期にも従っていることを知らないのだろうか。月経の満ち欠けと結びついた女性の儀式は、基本的に月によって予定されている。
著者たちが問いかける重要な問いは、"なぜ不平等になったのか?"ではなく、"なぜ行き詰まったのか?"である。彼らは自らの問いに答えられるところまで来ているだけに、そこにたどり着けないことに深い苛立ちを覚える。自らに課したハンディキャップのひとつは、女性人類学者による狩猟採集民の研究を見落としがちなことだ。例えば、適切な参照もなしに、彼らはモーナ・フィネガンの共産主義の概念に触れている。彼女は、コンゴの熱帯雨林に住む女性たちが、男性たちが筋肉質な勇気と優位性を発揮する可能性を示すよう意図的に促していることを記録している--男女間の「力の振り子」で優雅に降伏する前に、「ンゴク」と呼ばれる女性だけの儀式で男性たちをあざ笑い、反抗するのだ。しかし、グレイバーとウェングローは、この政治的知性の表現を認める代わりに、ここでの成果やパターンを見出すことなく、それに言及している。
なぜ私たちは行き詰まったのか?正しい答えは、人類が農耕に依存するようになり、太陽暦が月暦の儀式よりも執拗に優先されるようになったからだ。私が最もよく知る先住民、タンザニアのハザ族の弓矢猟師たちは、今でも彼らの最も重要な宗教儀式であるエペメを、新月前後の最も暗い夜に毎月行っている。
太陽と月の中間的な存在であり、世界中でたどり着いた無数の妥協案のひとつが、中世ヨーロッパで毎年行われていたカーニバルの伝統である。庶民が今でも大切にしている伝統は、家父長制の秩序を逆転させるこのライセンスだった。
残念なことに、この「新しい人類史」は、その始まりがあまりにも遅く、アフリカが物語から切り離されているため、女性の抑圧とマンネリ化した現在の苦境との因果関係を説明することができない。
グレーバーとウェングローの新著は、エネルギッシュで、献身的で、万華鏡のようだが、欠点もある。これは私たちに問題を提起している。
デヴィッド・グレーバーはわずか1年前に若くして亡くなった。彼の代表作である『Debt』は、部分的には思わせぶりかもしれないが、その野心は当時としては刺激的だった。活動家として、またオキュパイ運動や社会正義運動のリーダーとしてのデイヴィッド・グレーバーの活動は異例であり、模範的であった。LSEの人類学部門の同僚たちからの彼への尊敬と愛情は、そのことを物語っている。そして、彼の心は常に虐げられた人々とともにあった。
しかし、グレバーが善人であり、つい最近この世を去ったばかりであったからこそ、多くの人々にとって『万物の黎明』が、今後長い間、不平等の起源に関する理解の枠組みとなってしまう危険性がある。
本書の裏表紙には、レベッカ・ソルニット、パンカジ・ミシュラ、ノーム・チョムスキー、ロビン・D・G・ケリーといった、著名で立派な思想家たちからの賞賛の言葉が掲載されている。ケリーはその代表的な例として、「グレーバーとウェングローは、私がこれまで世界の歴史について考えてきたことを、事実上すべて覆した。この30年間で読んだ本の中で最も深遠でエキサイティングな本だ」。
この本は最近、マスコミでかなり注目されているが、このような賞賛が一般的な見方になったら残念である。
人類の進化と歴史における不平等の起源という問題は、私たちがどのように世界を変えようとするかという点で、非常に重要である。しかし、グレイバーとウェングローは平等や階級に目を向けることなく変化を求め、環境や生態系の説明を敵視している。これらの欠点は保守的な意味合いを持つ。
では、ここから。これは膨大な本の、乱暴で部分的な書評である。私たちは、グレバーが知的な議論の切り口を愛し、得意としていたという知識で自分自身を慰める。
この本の最後の段落、525-526ページで、グレーバーとウェングローは自分たちの立場を明確に示している。彼らはこう書いている、
例えば、他のあらゆる点で厳密な研究が、人間社会には何らかの「原型」があり、その性質は基本的に善か悪かであり、不平等や政治的意識が存在する以前の時代があり、このすべてを変えるために何かが起こり、「文明」と「複雑さ」は常に人間の自由と引き換えにもたらされ、参加型民主主義は小集団では自然であるが、都市や国家のようなものまでスケールアップする可能性はない、という未検証の仮定から始まる場合。
つまり、神話を打ち砕く者たちは、人間社会の原型は存在しないこと、不平等や政治的意識が生まれる前の時代は存在しないこと、事態を変えるようなことは何も起こらなかったこと、文明や複雑さが人間の自由を制限することはないこと、参加型民主主義は都市や国家の一部として実践可能であることなど、正反対のことを言っているのだ。
このような断定的な声明は、非常に大胆に述べられ、新しい人類史を書いたという彼らの主張を魅力的なものにしている。しかし、2つのつまずきがある。
第一に、彼らの主張そのものが、彼ら自身の政治的プロジェクトと対立している。第二に、証拠が彼らが言おうとしていることにそぐわない。
時系列表示のベースラインと比較して、Twitterのエンゲージメントベースのアルゴリズムは、感情的で敵対的なコンテンツを増幅し、二極化に寄与する可能性があると研究者は警告している。
さらに、アルゴリズムがユーザーに「見たいもの」を表示するという主張を批判的に検討した結果、ユーザーがアルゴリズムによって選択された政治的ツイートを実際には好んでいないことが発見された。
研究者は、エンゲージメント、ユーザーの表明された好み、および社会政治的結果のバランスをとるコンテンツランキングへのより微妙なアプローチの必要性を強調している。
質問に答えてみろ
表現の自由はどのような歴史的背景を持っていますか?どのような国や地域で発展しましたか?
表現の自由はどのような法的保護を受けていますか?国際的な条約や宣言、国内法や憲法などはありますか?
表現の自由はどのような倫理的原則に基づいていますか?人権や民主主義、多様性や寛容性などは関係しますか?
表現の自由はどのような社会的価値を持っていますか?創造性やイノベーション、批判的思考や公共討論などは促進されますか?
表現の自由はどのような制限や規制に直面していますか?検閲や暴力、名誉毀損やプライバシー侵害などはありますか?
表現の自由はどのような課題や問題に直面していますか?偽情報やヘイトスピーチ、テロリズムや過激主義などはありますか?
表現の自由はどのように実践されていますか?ジャーナリズムや芸術、教育や科学などは例として挙げられますか?
表現の自由はどのように発展していますか?インターネットやソーシャルメディア、人工知能やビッグデータなどは影響を与えていますか?
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表現の自由はどのような法的保護を受けていますか?国際的な条約や宣言、国内法や憲法などはありますか?
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表現の自由はどのように実践されていますか?ジャーナリズムや芸術、教育や科学などは例として挙げられますか?
表現の自由はどのように発展していますか?インターネットやソーシャルメディア、人工知能やビッグデータなどは影響を与えていますか?
1980 年代、心理学者のリチャード E. ペティとジョン T. カシオッポは、説得がどのように機能するかを説明する「精緻化尤度モデル」を開発した。ここでの「精緻化」とは、その情報をどれだけ注意深く考えるかという意味である。人々に注意深く考える意欲と能力がある場合、「推敲の可能性」は高くなる。これは、人々が関連情報に注意を払い、メッセージの議論の利点に基づいて結論を導き出す可能性が高いことを意味する。
他人を説得するには少なくとも2つの方法がある。最初の方法は「中央」ルートと呼ばれ、聞くメッセージを注意深く熟考することから生まれる。中央ルートが関与している場合、提示された情報を積極的に評価し、それが真実かどうかを見極めようとする。一方で「周辺」ルートが関与している場合、実際の情報やメッセージの内容以外の手がかりにさらに注意を払う。たとえば、誰かのメッセージの実際のメリットを考慮せずに、その人の魅力や教育を受けた場所に基づいてその人の主張を評価する可能性がある。
周辺ルートを通じてメッセージを受け入れる場合、中央ルートを通じてメッセージを受け入れる場合よりも受動的になる傾向がある。
有名な心理学者のスーザン・フィスクとシェリー・テイラーは、人間を「認知的守銭奴」と特徴付けている。彼らは「人間の情報処理能力には限界があるため、できる限り近道をするのです。」と書いている。
動機や議論を処理する能力が低下するにつれて、説得には周辺的な手がかりがより重要になってくる。
議論(中心ルート)の実際の利点を比較検討して信念を更新すると、周辺処理を通じて信念を更新する場合と比較して、更新された信念は持続する傾向があり、反論に対してより堅牢になる。慎重かつ思慮深い検討を通じて何かを信じるようになると、その信念は変化しやすくなる。
つまり、周辺ルートを通じてより簡単に操作される可能性がある。周辺ルートを通じて何かを確信している場合、操作者は周辺ルートをもう一度使用して最初の信念を変えることに成功する。
心理学者のレオン・フェスティンガーは、社会的比較プロセスに関する影響力のある理論の中で、人は自分の意見を他人の意見と比較することによってその意見の「正しさ」を評価すると示唆した。他の人が自分と同じ信念を持っているのを見ると、その信念に対する自信が高まる。
これらの考えを総合すると、人間の心の中には何らかのメカニズムがあることが示唆される。たとえそれが真実であっても、自分の地位を下げるようなことを言わないようにする。そして、たとえそれが嘘であっても、自分の地位を高めるようなことを言うように彼らを駆り立てる。
さらに、自身の評判がどうなるかという考慮が私たちの信念を導き、私たちの社会的地位を維持または強化するための一般的な見解を採用するように導くこともよくある。暗黙のうちに「この信念を保持すること(または保持しないこと)が社会にどのような影響をもたらすだろうか?」と自問する。
説得の周辺ルートに戻ると、多くの人がそれを信じている場合だけでなく、その信念の提唱者が権威ある人物である場合にも、何かを信じるかどうかを決定する。
オックスフォードの心理学者セシリア・ヘイズは、著書『認知ガジェット』の中で次のように書いている。彼らは、同じ年齢と性別の同じくらい身近な人よりも、大人が社会的地位が高いと考えるモデル、たとえば学校の校長を模倣する可能性が高い。
それでも、私たちが高い地位を持つ他人を真似するのは、彼らを模倣することで自分の地位が向上することを期待しているからだけではない。権威ある人ほど有能であると信じがちであるが、プロミネンスはスキルのヒューリスティックである。
研究者のアンヘル・V・ヒメネス氏とアレックス・メソウディ氏は、威信に基づく社会学習に関する最近の論文で、能力を直接評価することは「騒がしくコストがかかる可能性がある」と書いている。代わりに、社会的学習者は、モデルの外観、性格、物質的な所有物などから推測することによって、ショートカットを使用できる。
ここで、次のような疑問が生じる。周辺的説得による操作の影響を最も受けやすいのは誰か? 教育を受けていない人々のほうが操作されやすいと信じるのは直感的に思えるかもしれないが、研究によると、これは真実ではない可能性がある。
心理学教授のキース・スタノビッチは、「マイサイド・バイアス」に関する自身の研究について論じ、次のように書いている。「あなたはそれに属しているのは、それらはあなたの気質と生来の心理的傾向に適合しているからです。」
一流大学の学生や卒業生は、自分側の偏見に陥りやすい。彼らは「自分自身の以前の信念、意見、態度に偏った方法で証拠を評価し、証拠を生成し、仮説を検証する」可能性が高くなる。
アメリカのジャーナリストであり、『第三帝国の興亡』の著者であるウィリアム・シャイラーは、ナチスドイツの従軍記者としての自身の経験をこう語った。シャイラーは次のように書いている。「ドイツの自宅やオフィスで、あるいは時にはレストラン、ビアホール、カフェで見知らぬ人と何気ない会話をしているときに、一見教養があり知性のある人たちの突飛な主張に出会うことがあった。彼らがラジオで聞いたり新聞で読んだりしたナンセンスをオウム返ししているのは明らかでした。時には同じことを言いたくなることもあったが、まるで全能者を冒涜しているかのような不信感を抱かれた。」
同様に、ソ連崩壊に関する研究では、大学教育を受けた人々は高卒者よりも共産党を支持する可能性が2〜3倍高いことが研究者らによって判明した。ホワイトカラーの専門労働者も同様に、肉体労働者に比べて共産主義イデオロギーを支持していた。
今日の米国内のパターンはそのような調査結果と一致している。政治アナリストのデビッド・ショールは、「高学歴の人々は、労働者階級の人々よりもイデオロギー的に一貫した極端な見解を持つ傾向がある」と述べている。これは、問題に関する世論調査やイデオロギー的な自己認識にも見られる。大卒の有権者は穏健派であると自認する可能性がはるかに低い。
この理由の 1 つは、時間や場所に関係なく、社会の富裕層の方が地位を維持したり、地位をさらに獲得したりするために正しいことを言う可能性が高いためであると考えられる。
カリフォルニア大学バークレー校のキャメロン・アンダーソンが主導した最近の一連の研究では、社会階級が社会的地位への欲求と積極的に関連していることが判明した。より多くの教育を受け、お金を持っている人は、「他人の意思決定に影響を与えることを楽しんでいます」や「名声や社会的地位を得られたら嬉しいです」などの発言に同意する可能性が高かった。
ケイトー研究所がYouGovと協力して行った調査では、全米を代表する2,000人のアメリカ人サンプルを対象に自己検閲についての質問を行った。
その結果、高校教育以下の学歴を持つ人の25%が、政治的見解のせいで解雇されたり、雇用の見通しが損なわれることを恐れているのに対し、大学院卒の学歴を持つ人の割合は44%であることが判明した。
政治学者のジェームズ・L・ギブソンとジョセフ・L・サザーランドによる「口を閉ざす:米国における自己検閲のスパイラル化」と題された最近の論文の結果は、Cato/YouGovの調査結果と一致している。彼らは、自己検閲が急増していることに気づいた。マッカーシズムの絶頂期だった1950年代には、アメリカ人の13.4パーセントが「以前よりも自分の意見を自由に言えなくなったと感じている」と報告した。2019年までに、アメリカ人の40%が自分の意見を気軽に言えないと回答。ギブソンとサザーランドは、「自分の意見を言うことを心配している民主党員の割合は、自己検閲を行う共和党員の割合とほぼ同じで、それぞれ39%と40%である」と報告している。
この増加は特に教育を受けた層の間で顕著である。研究者らは次のように報告している。「自己検閲に従事する人々が限られた政治的資源を持った人々ではないことも注目に値し、おそらく予想外である…自己検閲は最高レベルの教育を受けた人々の間で最も一般的である…この発見は、以下のことを示唆している。社会学習のプロセスであり、教育を受けた人ほど、自分の意見の表現を妨げる社会規範をよりよく認識している。」
興味深いことに、教育が自分の権力意識とマイナスに関連していることを示す示唆的な証拠がある。つまり、教育を受けていればいるほど、「自分が意見を表明しても、自分の意見はほとんど揺るがない」「自分の考えや意見は無視されることが多い」といった意見に同意する可能性が高くなる。
ミュンスター大学のリチャード・ラウ氏が率いる「他者の最良または最悪の見方:一般化された他者認識の尺度」というタイトルの論文を考えてみる。
研究者らは参加者に、ソーシャルメディアのプロフィールや動画に登場する人物を評価するよう依頼した。参加者は、「この人が好き」「この人は冷淡だ」などの発言にどの程度同意するかを尋ねた。その後、参加者は自分自身についてのさまざまな質問に答えた。
高等教育は一貫して、人々に対するあまり肯定的な見方に関係していなかった。この論文は、「人々の感情、行動、社会的関係を理解するには、彼らが他者に対してどのような一般的な見方を持っているかを知ることが非常に重要です…人々がより良い教育を受ければ受けるほど、他者に対する認識は肯定的ではなくなります。」と結論付けている。
したがって、裕福な人々はステータスを最も気にし、自分にはほとんど力がないと信じており、仕事や評判を失うことを恐れており、他人に対してあまり好意的な見方をしていない。
つまり、意見は、その真理値に関係なく、ステータスを与えることができる。そして、自分の地位を維持したり高めたりするために特定の意見を表明する可能性が最も高い人は、すでに社会のはしごの上位にいる人でもある。
未曽有の災害に襲われ、人々が情報を共有し交流する手段が限られていた時代、都市や村々では噂や伝説が急速に広がることがあった。中には、人々の恐れや不安を悪用する者たちによって広まるデマがあった。その中でも、特に影響を及ぼしたものの一つが「井戸に毒を入れる」という恐ろしい噂だった。
デマが広まる背景には、災害時に特有なある種の高揚と共に、人々の生活が厳しい現実や他人への不信感が絡んでいた。飲料水が貴重である状況下では、井戸水がコミュニティの命綱であり、その安全性は重要な問題だった。そんな中で、「井戸に毒を入れる者がいる」との噂が立つと、人々は恐れと疑念に包まれた。誰が信じられるのか、と。そのような分断が惨劇の元となった。
しかし、今日、正に現在進行形で井戸に毒を入れている者がいる。奴らは、この清浄であるべき情報という井戸に、今度こそ本当にデマという毒を着々と流し込んでいるのだ。
曰く、福島県で海洋放出が行われているのは処理水ではなく汚染水だ
全てそれを流布する目的が明白な、エビデンスを欠く非科学的デマである。被災地に対する差別と言っても良い。デジタル時代の我々は、インターネットやソーシャルメディアを通じて無数の情報に触れる機会を持っている。しかし、その中にはある意図をもって、真実とは異なる情報や誤った情報が拡散されつつある。新次元の認知戦の領域だ。このような誤情報やデマは、容易に我々の信頼を奪い、同胞の紐帯を解体し、考えや行動に影響を及ぼすのだ。
このような状況からもなお、我々は情報の信頼性を見極める能力を養うことの重要性を理解する必要がある。情報を鵜呑みにせず、その真偽を慎重に検証し、信頼性のある情報源に依拠することが求められているのだ。かつての「井戸に毒を入れる」というデマがもたらした惨劇と同様に、誤情報やデマも社会に大きな影響を及ぼす可能性がある。
無論我々は、未来に向け情報の海で的確な判断を下し、デマの毒から自らを守るために努力しなければならない。真実を尊重し、情報を通じてより良い社会を築くために、私たち一人一人が責任を持つべきなのだ。
しかし、その範疇に毒を井戸に入れている奴らを含めることはできない。意図を持ってデマを広める者に対しては、その行動の責任を問うために適切な手段を取る覚悟も必要だろう。何者がこの状況で何をしたのか、我々は克明に観察し記憶すべき時だ。
マストドンは、現在利用可能な多くの Twitter 代替手段の 1 つです (他には、Threads や Bluesky などを聞いたことがあるかもしれません)。私はマストドンを使い始めていますが、非常に楽しんでいます。ここでは、あなたも試してみることに興味があるかもしれない理由のリストを示します (そしてサインアップ (ttps://mastodon.social/) することでそうすることができます)。
1. 広告は無いほうがいい
マストドンは広告収入によって支えられていないため、有料広告や宣伝広告がタイムラインに強制的に表示されることはありません。
マストドンには、フィルター(特定の単語を含む投稿を非表示にする)、一時的なミュート(ユーザーからのコンテンツを一定時間「一時停止」できる)、自分のコンテンツを見ながら人々から「ブースト」(「リツイート」に相当)を非表示にする機能、(見たくない人や交流したくない人に対する)無制限のブロックがあります。そしてツイッターのような「アルゴリズム」はありません。アルゴリズムというのは、あなたが興味を持ちそうなものに基づいて、他の誰かがあなたのタイムラインにコンテンツを押し込んでいるのです。
3. 分散化
しばしば予測不可能な所有者の気まぐれに左右される他の多くのソーシャル メディア プラットフォーム (Twitter などを参照) とは異なり、Mastodon が構築されているプロトコルは分散化されており、コンテンツを制御する単一の個人や団体は存在しません。
プロモートされたコンテンツをタイムラインにプッシュするためのアルゴリズムや金銭的インセンティブがないため (上記の項目#1と#2を参照)、ユーザーが慣れ親しんでいるような、エンゲージメントを促進するために設計されたノンストップの「怒りを煽る行為 https://gizmodo.com/10-internet-rage-baiting-techniques-to-know-about-1850615967 」ははるかに少なくなります。
5. あなたのコンテンツに実際に興味を持っている人々のフォローを構築できる
ソーシャルメディアでフォロワーを増やすのは難しいことを知っています。あなたがソーシャルメディアの「群衆」のために「パフォーマンス」するのが好きなタイプでない場合、さらに困難です。Mastodonではありのままでいられます。
全体として、マストドンでの会話は、LinkedIn を含む他のソーシャル メディア プラットフォームよりもはるかに礼儀正しく、思慮深いものであることがわかりました。ランダムに返信に現れてあなたに怒鳴ることなく、微妙な議論をすることは実際には可能です。そして、そのような行為に関与したくない場合は、その人をミュートまたはブロックするツールがあります。
主にボランティアのコミュニティメンバーによってモデレートされているにもかかわらず、マストドンのコンテンツモデレーションは非常によく行われています。これは、 TwitterやBluesky でさえ現在起こっていることとはまったく対照的です。マストドンでは「コミュニティを守る」ことが最優先事項です。
Twitter (現在、特定の機能を利用するには月額料金が必要です) や他のソーシャル メディア プラットフォーム (広告主と共有されるユーザー データの形で料金が発生します) とは異なり、Mastodon のすべての機能を使用するのに月額料金は必要ありません (いつでも好きなときに投稿を編集できることも含まれます)。サーバー (「インスタンス」とも呼ばれます) を管理している人への寄付は、もちろん推奨されますが、必須ではありません。
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1380
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助平を言っても意味はありません。なぜなら、ウォレットと一緒にこの日記を追跡することは可能だからです。
全ては正確に調整されています。
この日記について誰かに話したことを私が感知すると、ヒデオがすぐに共有され、貴方のお知り合いが最初にヒデオを見ることになるでしょう。
その上、ヒデオはウェブ上にも投稿されます!その時、私は絶頂に達することになるでしょう!
この増田を開封した時点で時間は数えられます。(このダイアリーには時間が表示されています。)