はてなキーワード: 先進とは
体罰、暴力、いじめ、根性論など旧日本軍の陰が色濃く残る忌むべき競技。
一刻も早く無くなれと切に願ってる。
メジャーは「アホなアメリカ人のお遊び」としか思わない。黒人が少ないことからお察し。でも科学的なところはちょっと好感アリ。
オリンピックでメダルを取った?人を殺す競技のメダルなんて要らねーよ。
あっ嫌い。
チャラい
長い、つまらん
そもそもオリンピックが嫌い。
どこの国も(特に日本)(←これ重要)貧乏人差し置いて金持ちが観戦するために何千億の金使って…
あー応援する気になれない。
日本的で醜悪。
スポーツじゃねえよ。
NHKが関わってるのも駄目、耐えられない。
世 界 標 準。
「他人に知識がある前提を求めるのは馬鹿」と言ってるはてな民もフットボールのことを知らない人は即刻バカにするのは当然。
ブンデス、リーガE、プレミア、セリエA、リーグアン、知ってて当たり前。知らない人間は差別の対象。
先進的なヨーロッパに非常に根付いているスポーツで、日本は遥かに遅れてる。
まず高校サッカーという野蛮な大会は即刻止めて有望なフットボール選手はクラブのユースに一本化しろ。
全国の小学校の芝生化は急務。場所がなければそのへんの野球場壊して作れ。文科省はこれやってから解散しろ。
世界標準に追いつけ。
フットボール選手は他のスポーツ選手と違い、知性に溢れ、清潔感があり、たとえ高給でも庶民感のある素晴らしい人達。
日本人フットボール選手はまだそこまでのレベルではないが、いすれ追いつけるように善処すべき。
FIFAという組織が少し残念。でも、トップ以外は素晴らしい形態の組織。さすがフットボール。
子供ができたらプログラミングと同様に必ずフットボールをやらせたい。
http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/989697
このネタ、定期的にやってくるね。見るたびにほんとクソだなって思う、こういうこと平気で言うアーティストって。
結局、世の中の事象を表面的にしか捉えられない極めて残念な頭脳の持ち主だってのが露見するからこういうのはできるだけ見たくない。
CCCDやレーベルゲートCD(以下CCCDに統一)は、別に必要が無いのに突然作られたわけじゃない。ビジネスとしてそれが必要だと判断されたから作られた。それが成功か失敗かに関わらず、産業を護るための1つの手法として作られた。
当時、音楽の世界を猛烈な勢いで襲ってきたのは、「印刷技術の陳腐化」と、「それに伴う経済圏の破壊」だ。
音楽が、中世のパトロンに音楽家が養われていた時代から先に進めたのは「印刷」の技術のおかげだ。楽譜を印刷し、アナログレコードを印刷し、そしてCDを印刷することで音楽をお金に変えることに成功した。1つのマスターを大量に印刷し複製すること、その「印刷」が特別な技術であったからこそ、そこに金銭的な価値が生まれ、音楽を金に変えることに成功した。
マネタイズが上手くいった場合の恩恵などいまさら語ることではないと思うが、その金がさらなる設備投資を生み、最高峰の音楽スタジオを作っただけでなく、作品の多様性、文化としての多様性をも生んだ。1作品の売上で1度失敗したらすべてが終わる世界ではなく、大衆に広く伝わる音楽から、極めてマニアックでありながらしかし深く深く誰かの胸に突き刺さるような、採算を考えたら許されるはずのない作品さえも許容できる余裕が生まれた。80年代、90年代の音楽を見ればそれは一目瞭然であり、多様性こそが文化としての豊かさだというのは誰の目にも明らかだ。それもこれも、マネタイズが上手くいっていたから可能になったことだ。
この辺の「ありがたみ」を、元記事の音楽家などはきっと理解していないんだろうと思う。もっとも恵まれた時代に活動し、勝手に思うがままにできていた世代特有の傲慢さ。プラットフォームを築き上げることがどれだけ大変で、それを維持することがどれだけ重要なことか、まったく理解していないんだろう。いい歳こいてるくせに。
それらの恵まれた状況をもっとも大きく変えたのは、「家庭用パソコンにCD-ROMドライブが搭載されるようになった」ことに他ならない。その時点で「印刷」の専売特許が失われ、「印刷」が家庭レベルに落ちた。誰でも印刷ができるようになってしまった。ここでいう印刷とは、CD-Rに焼く行為のみならず、HDDにデータを取り込む、そのデータをコピーする、これらすべてがつまるところ「印刷」だ。誰でも自由に印刷ができるようになった時点で、そこに金銭的な価値を維持できるような専売性は無くなった。
それをいち早く察知したのは、アップルとグーグルだ。彼らはしきりに「おまえの持っているCDをパソコンに取り込め」とけしかけた。とにかく入れろ入れろとしきりに促した。同時に「その取り込んだデータをどうするかはおまえ次第だから知らないけどな」と、極めて狡猾な態度をとり続けた。スティーブジョブズが本当に音楽家を救いたかったのだとしたら、やるべきことは人々にCDをパソコンに入れさせコピーさせることでは無いことは彼も気付いていたはずだ。気付いていながら彼は巧みにポジショントークを繰り返し、自社製品を売り、むしろ自社製品が音楽を救うとまで言ってのけた。そして、それに音楽家たちはまんまと騙された。
音楽をパソコンにさえ入れさせれば、後はユーザーが勝手にコピーするなり、ネットにアップするなり、金も法も関係なく勝手にやり始めることを彼らは知っていて、それを積極的に促した。
なぜ彼らはそれができたかといったら、それは「彼らは音楽に投資をしていなかったから」に他ならない。制作費やスタジオ設備に一銭も出していないからだ。音楽CDプラットフォームを作ると同時に音楽制作も始めたソニーには、ビジネスを通じて音楽文化を育てる気概があった。対してアップルは音楽制作には一切触れようとしない。彼らは単に、はちゃめちゃコピーマシンと、投資はせずに回収だけするプラットフォームを作り上げただけだ。
そうやって彼らが「パソコンにじゃんじゃんCDを入れちゃって~」とやり始めた時、当然、それに抗わなくてはならなかったことを想像もできないようなら、もう一度中学生からやり直した方がいい。
コピーコントロールCDという名前が表すように、コピーをコントロール、つまり「印刷」をコントロールする必要があった。そうしないと、音楽を育むための全ての経済圏が破壊されてしまうからだ。指を咥えて待っているわけにはいかない。対策を講じなければならない。
明らかに不利な立場だった。何もしないと責め立てられ、やろうとすると「考えが古い」と叱責される。アップルやグーグルが上手かったのは、いかにも「先進的で素晴らしいパラダイスを目指している」ようなイメージをアーティストたちへも擦りこむことに成功していたことだ。その先に実際には何もなくても、イメージさせてしまえば勝ちだ。あの頃のみんなに「10年後、音楽はアイドルと大人数ホストサーカス団しか残ってないよ」と教えたらどんな顔をするだろうか。
実際にはCCCDの技術はあまり褒められるようなものではなかったし、それは作った側も認めている。技術とアイデアが足りなかったのだとは思う。しかし同時に、何もしないわけにはいかなかったこともちょっとは理解してやったらどうだ。いい大人なんだから。
当時、全てのレーベルがCCCDを出していたわけではない。人を「犬」呼ばわりするほどCCCDが嫌なのだったら、違うレーベルからリリースすればよかったではないか。契約などのせいでリリースせざるを得なかったのだったら、裁判でもやって争えばよかったではないか。制作費をしこたま出して貰って、ワガママもできるだけ聞いてもらいながら制作をしていた人間が、気分でボロクソに言うのって本当に程度が低いと思う。
CCCDは正式にはコンパクトディスクでは無い。redbookのCD-DA規格に準拠していないからだ。つまり厳密なことを言えば、CCCDに対応していないCDプレーヤーにCCCDをぶち込むのは、CDドライブにフロップーディスクをぶち込むのと大して変わらない。
ここで「だからプレーヤーが壊れたのは自己責任」などとは言いたくないし、その辺りは確かにソニーやエイベックスのやり方や啓蒙の仕方、技術には問題があった。 だが、何かしらの対策をしないといけないのは明白で、それに対して失敗したからといって上から目線でボロクソに言うのはまったく関心しない。
実際、あれからCCCDは多くの非難を浴びた。ほぼ同時期に、アップルはiTunesにまったくもってクソみたいに使いにくいDRMを自ら導入し「ほら、使い辛いでしょ?」とお決まりのポジションで言ってのける演出をし、そして業界全体が「コピー禁止やDRMはやってはいけない」という風潮になり、まんまとIT屋の餌食になった。 すぐ近所でゲームや映画DVDは「私的複製を許可するけど、鍵は外したら怒るよ」というクレバーなやり方を開発し、一定の効果を上げコントロールできているというのに、音楽だけは「複製は許さなくてはならない」という空気に飲み込まれた。そんな馬鹿な話はない。それもこれもアップルとグーグルの熱心な啓蒙のおかげだ。
そしてレーベルやアーティストは制作費が出せなくなった。 自宅で制作したような貧乏臭い音のショボイ作品しか作れず、過去の遺産にしがみつくしかなくなった。若いアーティストたちはどんなに才能があろうと、お金を掛けた制作をさせてもらえずバイトをやめることができなくなった。毎晩、叙々苑弁当を食わせてもらってた上の世代がこぞって「音楽をタダで聞かせればファンが増えてもっとカネになる!」とかいうアホみたいなIT屋の理論を鵜呑みにし業界をその方向へ誘ったがために、明らかに業界は縮小し、文化は萎縮し、これから先の若い才能は音楽などやらなくなってしまった。
おまえが良識のある音楽家たちを「犬」呼ばわりするなら、おまえはあいつらのポジショントーク、セールストークを無邪気に信じこんでお花畑を目指してたITの「犬」だろうが。 mn3
地元が戦場となっただけに背走する軍隊からは大量の脱落者が生じる。
だが、その一方で増田家は致命的な一撃を敵にむけて放っていた。
増田中弐にひきいられた船団は、彼の旧領をめざして一路、西進。
途中で嵐に遭い、三万人のうち一万人しか残らなかったが、
指揮官の不屈の闘志に牽引され、満月の大潮を活かし軍勢を増屋近くに上陸させた。
このことを増田家(士)東征軍はまったく察知していなかった。
老兵ばかりの居残り部隊が送った急使は旧増田家(九)の陸橋部分で片っ端から始末された。
これは、忍びたちの働きによるものだ。また、占領されて日の浅い現地住民も増田家(士)に非協力的であった。
そして、西方での驚くべき活動が、当主たちの耳に入る頃には、みやこ周辺の情勢も、のっぴきならないものに化けていた。
増田軍の手癖の悪さが原因である。常に文明の先進的地域を占領し続けてきた増田軍には略奪癖がついていた。
それがみやこを前にしても発揮されてしまい人々の恨みを買った。
最悪なのは宗教施設にまで手を出してしまったことで、増田軍は強烈な反発を招いた。
前の支配者向けに用意されていた一揆が新しい支配者向けに発動され、占領軍に出血と分散を強いる。
しかも、旧増田(七)領の西方国境城塞群は整備しなおされ、一揆勢を招き入れて強力な迎撃体制を整えていた。
増田軍は進退窮まった。一度も負けていないのに、増田島の覇権をめぐる戦争を失おうとしていた。
逡巡の後、現実を認められない家臣たちを物理的に排除して、増田家の当主はみやこからの撤退を決意する。
だが、すべては遅すぎた。
今度は増田家(八)の南海岸側の船団が三万の上陸部隊を満載して陸橋部に突進、かつての経験を活かして上陸を成功させたのだ。
そこに増田家(九)の旧臣が続々とあつまり、臨時の砦を築き、破却された山城を修繕した。
本領を回復した増田中弐も援軍を送り込んできた。彼の船団から嵐ではぐれた二万から合流する者もあった。
本拠への帰還をいそぐ増田軍は一揆勢の追撃を受けながら、この足止め部隊と衝突した。
彼は八万から五万に減った敵の鋭鋒を受け止めず、陣地を活用して逸らし続けた。
勇猛で後のない敵の攻撃で陣地は次々と陥落したが、そのかわりに敵は貴重な時間を失った。
しかも、陸橋の後方では新しい陣地が建設されつづけていた。さながらアキレスと亀の状態である。
武具が傷つき、腹を減らした増田軍(士)の有様は無惨なもので、ついにやせ我慢の限界を超えた。
陣地ではインフレが発生し、ひとにぎりの食料が非常な高値で取り引きされた。
ちょっとしたことでの諍いから殺し合いが発生するのも日常と化してしまう。
そんな有様も増田同盟軍の忍者は逐一上司に「ウェーイ」「キィヤー」☆報告「……」等と報告した。
「そろそろか……」
増田大学は増田中弐から送ってもらったある部隊に連絡を取った。増田匿兵衛に授けられた計略を実行するときだ。
その夜、前線の陣地からは増田家(士)が多用する戦闘用熊、武熊の雄叫びが繰り返し響いた。
こうして、彼らの本拠地が占領され、帰る場所もないことを敵に知らしめたのだ。
実際はまだ縁辺部を侵しただけだったのだが、心理的な効果は絶大だった。
ちなみに本来武熊を使役する立場の増田軍では武熊は食料に化けてしまっていた。
絶望した増田軍からは自殺者や脱走者が続出し、当主も弟に後をたくして腹を斬った。
一週間後、増田家は完全に降伏した。最弱の将と軍が、最強の将と軍を倒したのだ。
前回
http://anond.hatelabo.jp/20160616041243
次回
オープンなネットはイケハヤのような、SEOが小器用なだけの頭の薄っぺらい人間たちがうっほうっほやってる世界になりつつあるよな。
https://www.facebook.com/taizoson/posts/10153788960804492?pnref=story
僕には経営者としてかねてからの疑問がある。ほんとは違うと思いたいので、誰か下記の僕の意見に反論してくれませんか。
かつて世界を席巻した日本の電機メーカー、先日取締役会で揉めたコンビニの最大手、安くて高品質と市場を席巻したカジュアル衣料メーカー、テレビショッピングでいちばん有名な会社、プロ経営者を雇ったがクビにした教育産業の最大手、そして通信などで成長した日本で最も有名なIT起業家の会社など、最近後継者についての話題がすごく多い。
事業を大きくした創業者は、会社の成長もさることながら後継問題がいちばんむずかしい、とよくおっしゃる。「企業は存続してこそ社会に貢献できるのだから、100年続く会社になるように企業文化を創っていきたい」と皆さん口をそろえる。中には徳川幕府だって300年続いたのだから、うちも300年だと言う方もおられる。誰とは言わないが(笑)
なんで?
なぜ存続してこそ社会に貢献できる(=存続しないと社会に大きく長く貢献できたと言えない)、と言えるのだろうか。
存続はしていてもたいして貢献してないことだってある。「売上は社会に貢献して顧客からもらえた対価なのだから、売上が伸びてるあいだは立派に貢献してる証拠じゃないか」「雇用を生み出し続けてるのだからそれだけでも貢献しているじゃないか」などの声を聞くのだが、それはその会社がなくなって別の新しい会社がそれを担ってもいいわけで、「存続してこそ社会に貢献できる」というテーゼを論証したことにはならないと思う。
つまり、存続することと、社会に貢献することとは関係があまりないと僕は思うのだ。それどころか、長く続いている大企業は、分業と縦割りとルールの細分化が進んで制度疲労を起こし、「自己疎外(=働けば働くほど、自分でやっていることが自分のものと感じられなくなっていくこと)」を生み出しているようにしか僕には見えない。
スタートアップ原理主義者の僕には(笑)、必要以上に大きくなりすぎた企業は「自己疎外製造装置」にしか見えないのだ。だからといって共産主義に近い社会主義を礼賛しているわけではもちろんない。ほんとはいろいろ考えているのだが、この文脈においては、単に「アンチ大企業主義」と分類されても僕は全然差し支えはない。
昔であれば、大資本・大組織でないとできない大きな仕事が存在しただろう。しかしこれからの時代には大企業のアドバンテージというのは実はあまり(個人的には「ほとんど」)ないと言っても過言ではないと思っている。
そしてそれは、人工知能とロボットの発達によって、愕然たる事実として現在よりもさらに鮮明にあぶり出されるはずだ。
僕はそのように思っているのだが、僕が違う(それとこれとは関係ない)と思っている、
「企業は成長し続けて大企業となり、そして長期間存続し続けることこそが社会に大きく貢献することなのだ」
ということを誰か力強く理論づけてもらえませんか。
http://www.tez.com/blog/archives/post5052.html
スタートアップがより大きな力を得てより急速に成長するためにも、より大きく、より長い繁栄をして、企業価値を大きくすることを目指すことが必要だと考えられますし、その場合の繁栄の鍵は、いかに「情報処理のハブ」の地位を確保し続けるか、ということに集約されると思います。
だから、企業がより大きく、より長い繁栄を目指すことは、否定されるべきではないと思います。もちろん単なるステークホルダーの思考停止ではなく、他の(「信用」を担保する)理由があるからこそ、大企業として長期間存続し続けるわけですし、社会に大きな影響を与える企業として長期間存続し続けようという意志のないところに大きな企業価値が生まれることは無いはずです。
孫 泰蔵 「信用資本論」とでもいうべきとても示唆に富む論説ですね。
まず、信用という機能の本質が「思考停止」だからこそ信用は一定の「慣性」を持つ、というのにハッとさせられました。経営者もそこに働く従業員も、会社を長期的に存続させるのが是、というところで思考停止してるなといつも思ってたのですが、それは外部からの信用という思考停止ともリンクしているのだということに気づきました。
また、長期的に存続しうる形態としては「メタ」な存在しかないだろうと私も考えていました。しかし、その際に長期的に「メタ」として存在しうる価値やアイデンティティーってなんなんだろうなあと思うのです。資金であればVCなどでも十分提供できるわけで、スタートアップが嗜好する資金以上のなにかを持ってないといけないわけですが、それはなんなのだろうとずっと考えています。そこも「信用」なのかなあ。
そして、「大企業が自らの存続をあきらめることではなく、既存の『信用』に新たな『信用』がぶつかって倒そうとすること」が「古い組織の制度疲労を打ち壊し社会全体を活性化させるのだ」というのはまったく同意です。
しかし、現在の日本では挑戦者がまだまだ全然少ない状況です。この状況を打破したいのですが、能力的に優秀な人が、挑戦者になって打倒するのではなく、むしろ後継者になりたがろうとする人が多いこの状況(例えば、兄がやってる「アカデミア」という後継者育成機関にすごい優秀な人がいっぱい来てるんです!あんたたちは孫正義の後継者なんかじゃなくて起業家を目指さんかい!と心のなかでいつも苦々しく思ってるんですよね(笑))をどうやったら打破できるのかなあと思案しています。
既存の信用にぶつかって倒した新たな信用の成功事例をつくるしかないですよね・・・そっか、俺が頑張ればいいのか。頑張ります!
孫 泰蔵 ありがとうございます。
そして「そこも信用」なんだと思います。
話がややこしくなるので本文には入れなかったのですが、日本では米国のVCは全部が全部イケてると思われがちですが、実は逆にファンドのうち上場株式のindexをアウトパフォームするものはわずかで、9割前後はindexを下回っています。つまり米国とはいえ、ほとんどのVCファンドは「上場株index投信を買った方がマシだった」ということになってます。しかし米国の上位5%のファンドは常に高いパフォーマンスを上げています。
リスクの高いベンチャー投資でなぜ長期にコンスタントに高い成果が上げられるのかという理由は、まさにVCが行うべきことの本質が「信用の供与」だからじゃないでしょうか。例えば「セコイアが投資したベンチャー」は(もちろん背後に技術トレンドの調査やきちっとしたDDがあることに加えて)「セコイアが投資してるんだからイケてるんだろう」という期待が働くからこそ、いい経営陣やいい従業員が集まり、いい投資家が付き、いい取引先やいい顧客が付くので、結果として本当にいい会社になってしまうという「予言の自己成就」が発生しているのではないかと思います。
ポートフォリオで多数のベンチャーに分散投資すると、仮に失敗したベンチャー成功したベンチャーをならしてポートフォリオ全体として利益が出たとしても、必ずしも「あのVCが投資したベンチャーはイケてる」という期待は働きません。「投資したベンチャーを全社必ず成功させるぞ」という長年の努力をすると、そうしたミダスタッチ(「魔法」)が使えるようになるんじゃないかなと思います。
ベンチャーは先進的であるがゆえに、単独でポツンと存在しても、それがいいものか悪いものか、一般の人にはわかりません。「世の中で最も大きな情報の非対称性が発生するもの」だと言えます。だからこそ、そういう「信用」を供与する投資家が増えることこそが、現状を打破する大きな力になると思います。
亀山 敬司 俺も「会社を続けるために稼ごうぜ!」と言ってるけど、社会貢献とは関係ない。会社が続いて大きくなると俺が楽しいからやってる。だから「辞めたあとは俺のこと忘れていいから勝手に楽しめよ」と社員には言ってる。会社なんてただの人の集まりだし、くっ付こうが分裂しようが、べつにDMMの名前が残らなくてもいっこうに構わない。
300年続けたいとか言ってるやつは、何を続けたいと言ってるのかわかんないけど、ピラミッドでも残したいんじゃない?亡霊の自己満足だね。
昔は「社員の未来を雇用をどうやって守る」とか思い悩んでいたが、「過保護で要らぬお世話だな、いい歳の大人は自分で考えな」になってきた。とりあえず後継者は立てるだろうが、そこからは別の会社だから残りたいかは自分で決めなって感じ。
大企業が長く続くのは、良し悪しで言えばちょっと悪し。ゆとりが有り過ぎると頭が悪くなるし、いい気になっちゃうし、内戦に明け暮れる。良い点は、まずしいスタートアップが時々見上げながら「俺もいつかあの大きなビルに入って、きれいなおねえちゃんを秘書にするんだ」と俗っぽい夢を見させてくれる。
悪い部分が大きくなれば勝手に自滅するので、自然に任せといても大丈夫。
そもそも社会貢献も基本はやっぱり自己満足だね。経済成長や新しいテクノロジーが社会を幸せにするとも限らないんだし、自分たちの活動が徳か悪徳かもよくわからん。でも、こんなふうにいろいろ考えるのは、自分だけのことを考えた自己満より、マシな自己満だよね〜!
個々の生産能力や思想は世代交代を起きることで大体いい感じになると(当たり前の話として)思うんだけど、今の日本の少子高齢化のことを考えると日本で世代交代は全然進んでいなく、またこれからも全く世代交代されないように思える。
若者の私としては、今の50,40,30代の倫理観や価値観が今後2,30年近くメインストリームに居座られるのは非常に迷惑で悲観せざるおえない。
旧来のテレビや新聞といったメディアがここ数十年全く進歩せず同じようなコンテンツばっか作っているのを見ると、先進国っていうのは先進している途中に育ったやつが一番楽しく人生が送れるようにできてんだなということがわかる。
最近とても気になっていることにテレビに出ている芸人が40代以上ばかりだという現象がある。正しい新陳代謝が起きていない腐った芸能界のせいもあるだろうが、そもそもの視聴者がここ数十年同じ相手にし続けているというのが一番の理由だろう。
かつて十一を数えた増田家のうち、すでに四家が領土を喪失した。
明日は我が身に同じ苦難が降りかかることを恐れず、あるいはその恐怖から逃れるために
最北の増田家(一)は、せっかく手に入れた増田領(二)を増田家(三)に奪われ、増田島の北に押し込まれている。
そこで、ゆいいつ残された海路で増田家(四)と連絡し、増田家を挟撃することを目標にしている。
だが、増田家(四)は他方面も抱えており、なかなか色よい返事をしてこない。
増田家は足りない兵力を補うため、豊富な資金を放出して北方の異民族を傭兵にしはじめた。
滅びた増田家(二)であるが、落城前に降伏したため、当主以下おおくの人物が生き延びている。
現時点の増田島では城主切腹の代わりに城兵を助命する風習はさいわい存在していない。
そもそも攻めた増田家と守った増田家も親戚なので、あまり目覚めの悪いことはできなかった。
旧増田領が失陥したあとも、旧増田衆の大半は人質がいるために、増田家(一)で働かされている。
しかし、根無し草の使い走り状態に耐えかね出奔するものが後を絶たない。
サバイバルに成功した増田家(三)は、被害をおさえて増田家(一)を確実に詰め、
地道に南北軸の鯖街道を一層整備して増田家(四)の急襲や北方三家統一後の兵力移動に備えている。
現状では増田家(一)との海上での戦いが最も激しかったりする。
主な戦力:譜代衆、カラトラヴァ騎士団、旧増田家(二)国人衆、水軍衆
恐ろしき当主がひきいる増田家(四)であるが、周辺諸国に比べると勢力の伸張に劣る結果になっている。
最初につぶして手に入れた増田家(六)領は四方に通じる土地であり、
土地を交易路に活かせればよいのだが増田家(七)が潰れてしまったことで、その意味も失われてしまった。
増田家(八)が商売相手なら大量輸送が可能な海路を使えばいいのである。
仇敵である増田家(五)との休戦を何とか成立させたが、敵意は残留しているため、
まだ北にも南にも進めずにいる。
プリンセスめいキングに定評のある(新情報)増田家(五)は、はやばやと地方勢力としての生き残りを模索しはじめた。
彼らが陰に依る大樹に有望視しているのは前から繋がりのある増田家(三)であるが、
国力差が大きくなりすぎたら家臣扱いされてしまう。発言力を確保するためにも戦力増強は必要なのであった。
しかし、現実は西で接する増田家(八)からの散髪的な攻撃を受けはじめ、領土は守り通しているものの、
消耗戦により頭が寂しくなりはじめている。
無惨にも最初に滅びた増田家(六)の名跡はいちおう姫を捜し出した増田家(四)が継いだ形になっている。
だが、増田家(五)も縁のない土地をこじつけで治めるノウハウは豊富なので、内政状況は悪くない。
いずれ旧増田領が大規模な戦場になることが多くの島民に予想されていて、人口の流出が進んでいる。
主な流出先であった増田家(七)が先に戦場になったのは皮肉であるが、そこから人が戻ってきているわけでもない。
占領されたて増田家(七)領では、増田家に保護されていた宗教が水面下で一揆の準備を進行させている。
新領主が自分たちの既得権益に少しでも手を入れられたら実力を誇示する構えだ。
それどころか、領主が変わったのを奇貨として、権益ではなかったものまで既得権益に組み込もうと図った。
さいわい増田家(七)の公文書が無事だったため、それには失敗したが、
頭の弱い雑魚ナメクジ当主を言いくるめて増田領(八)での布教活動を認めさせた。
軍事方面では北方の国境要塞には占領軍の支配に抵抗する旧増田家(七)の武将も一部に存在する。
しかし、皮肉にも旧主が地方軍の反乱をおそれて中央集権体制を構築していたため、
独自に補給する組織のない地方軍の抵抗は長続きしないものと観測されている。
増田家(八)は成功体験によって妙な自信をえた。それがプラスに働くか、マイナスに働くかはまだ未知数である。
占領地行政の関係もあり、元々強かった文官系人材(ただし彼らも戦場に立つ)の力がいや増している。
当主は「領内の全公衆便所に紙運動」をはじめた。財政的に無理なので相伴衆が当主に先回りして誤魔化している。
「東に進み、西は防御」の方針だけは当主が便所でうなりながら確定させた。
主な戦力:官軍、譜代衆、地侍衆(草を含む)、傭兵軍団、水軍衆
主な家臣:増田大学、増田出羽守、増田金吾、増田中弐(元増田家(十)当主)ほか
動きの鈍い増田家(九)であるが、増田家(士)の圧力が刻々と増しており、
東での火遊びをする余裕が失われつつある。
彼らには戦力を集中して決戦に勝利するしか生き残る道はない。
国力の差を領内で戦い補給を円滑にすることと、内線作戦による各個撃破で埋める計画である。
主な家臣:増田うこん
陥落した増田家(十)の領地は、剽悍で飢えた増田軍(士)が賢者モードに入るまで散々劫掠された。
中心地の増屋を筆頭に先進地域のダメージはきわめて大きく、他の地方へ散っていった住民も多数にのぼる。
だが、増田(十)領といえども人口の大半を占める層は他の地域と大差のない一次生産者の人々であり、
増田家(士)も一度破壊しているが、全体が文明の価値に暗いわけではなく、
元当主が増田家(八)に加わり再起を図っている。後から彼の元につどう旧臣も多い。
増田家(士)に迷いはなかった。彼らにとって天下統一とは目の前に現れる敵を倒し続ければ自然と成るものなのだ。
前回
http://anond.hatelabo.jp/20160606192640
次回
http://anond.hatelabo.jp/20160608191431
開始時点
http://anond.hatelabo.jp/20160529195407
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増田 |
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増田島。モンスーン気候に含まれ大陸の東岸に位置するその諸島では多くの家が覇を競い、謀略と決戦による離散と集合を繰り返したあげく、十一の家が生き残っていた。
一つ目は増田家。
増田島の北端部に位置するこの家は北方の豊かな資源を中継する立場にあり、回船によるすいすい水上交易で莫大な財産を築いていた。威信財を重視する家風がもたらす物欲のせいか増田家では内乱が起こりやすく、せっかくの資金力を安定して外征に投じることができなかった。厳しい冬の気候も遠征の障壁となっている。しかし、大量動員されたときの傭兵軍団の力は本物であり、革新的な当主にひきいられて都へ上ったことも何度かある。
本拠は増湊。
前述の増田家の南東に位置する増田家では、婚姻外交が盛んであり、周辺諸国や有力家臣のほとんどと血縁関係を有している。送り込んだ夫人とその侍女団によるもはやスパムめいた文通による諜報活動が増田家の地位を巧みに保ってきた。反面、他家の内輪もめに巻き込まれることも多く、いまいち地域の主導権を掌握できないでいる。
結婚はそろそろ分家に任せておけ。戦争せよ。が、新当主のモットーである。本拠は増谷。
三つ目は増田家。
増田家の南西、そして増田家の西に位置する増田家は、古代先住部族の血が濃く、やや異質な存在である。増田家内部でもその意識が強いため、かえって先進文化を取り入れることに熱心であり、増田海を利用した通商が盛んに行われている。北の増田家とは海上交易権をめぐるライバルでもあり、自分たちの土地よりも交易先の港で激しく干戈を交えている。ぶっちゃけ非常に迷惑である。両家の争いは都の外港である増瀬を炎上させたことがあり、そろって出入り禁止を言い渡された。
前代当主は大の鯖好きであり、そのために港を手に入れた。
本拠は増浜。
四つ目は増田家。
入港禁止を言い渡された増田海側北方の二家の縄張りに横から失礼する形で頭角を現してきたのが増田島の背側にある増田家である。もともと繊維の有名な産地であったが、一般には無骨な武人と思われながら実はトップセールスに優れた一面をもつ当主によって、繊維の染色から加工、納入までもこなす重商国家へ変貌を遂げつつある。
植物性繊維の染色に欠かせない明礬の鉱山の帰属を巡って、二つ目の増田家の南にある増田家と激しく争っている。
本拠は増館。
五つ目は増田家。
増田島最大の平野部を領有する増田島南東部の増田家は比較的あたらしい家であり、この時代を象徴する存在である。高度にシステム化された統治機構と徹底的な遠交近攻策によって平野部を平らげて来た。
しかし、近年は領土拡大に伸び悩みはじめており、また農業以外の産業育成にも苦戦している。四つ目の増田家と泥沼の戦乱状態にあるが、敵の求めているものをいまいち理解できていない( ・ิω・ิ)。
六つ目は増田家。
古くからの名門である増田家は、いわいる主語が大きくなった例としてよく知られる。きわめて機会主義的で行き当たりばったりの外交政策をとって来たため周囲に味方がまったくなく、いままでのツケを払わされつつある。それでも、他家の当主を低能とやたら罵倒する。
増田家が攻め込んできた時だけは、普段はいがみ合う増田家も同盟を結んで侵略者を撃退したという。そして撤退する増田軍の背中に塩をまく。敵に塩を送るの由来である。
本拠は増台。
七つ目は増田家。
商業の結節点である増津をおさえる増田家は財政的に非常に豊かであり、宗教と結びつく禁断の政策によってますます富を集積している。本来は宗教施設にしか使用できない角度とかにうるさい石垣技術をもちいた国境城塞群は難攻不落であり、増田家の富に垂涎する敵の侵攻をにべもなく、はねのけ続けている。女装癖の当主は勤勉で、年中むきゅうで働いている。しかし、増田島を統一する意欲には乏しい。
長く続く戦乱が武器産業に利益をもたらし、彼らが共依存する宗教にも信者獲得の機会を与えているからである。
本拠は増津。
八つ目は増田家。
都の周辺を押さえる増田家はいちおうは天下の号令者の立場にある。だが、前代未聞の宮中脱糞事件を含む不祥事続きで尊敬を完全に失っており、洛書にあざけられない日はない。結果、「都の地方勢力」に堕している。
支配する人口は非常に多いが文化的な反面、戦争に向かない人材の割合が多く、暴力による意志の強制にも成功していない雑魚ナメクジである。
本拠は増居。
九つ目は増田家。
増田島の長く狭い陸橋部を支配する増田家は律令制時代の駅長にはじまる豪族の出であり、社禝を守りじわじわと支配地をひろげていった結果、豪族からの二段JUMPで西増田島一の勢力と謳われるまでに成長した。
彼らが都の増田家を制圧してしまわないことは長年の謎とされている。下手に関わっても火中の栗を拾うだけであり、遷都などすれば柔弱な気質に染まると中興の祖が言い残したことが影響しているらしい。西方には年々攻勢を強めており、完全制覇がなれば都を抑えにでるとの観測もある。
本拠は増州。
十番目は増田家。
古代から大陸に対して開かれた湾港都市、増屋を支配する増田家は渡来人の血が濃く、一族の中には毛の色が増田島人一般とは異なる者までいる。大陸から導入した兵器を大量運用することで戦術や武勇の不足をおぎない周囲の弱小勢力を打倒した増田家であるが、より大規模な九つ目の増田家と十一番目の増田家との戦争では、文明力の差を軍事技術で埋められ、苦戦している。最後の三家の争いを特別に増田三国志と呼ぶこともある。
本拠は増屋。
十一番目は増田家。
増田島南端に位置する増田家は武勇の誉れ高く、それ以上に攻勢を一方向に集中できる利点を駆使して、勢力を拡大してきた。なお、家中は新参者に限らず犠牲になる粛清の嵐であり、酒の席はいつもピリピリしていたと言う。大喜利に滑った人間には容赦がない――が大喜利を強要する。
本拠は増林。
さあ以上、十一家の中で増田島の支配権を握るのは、どの家だ!?きみも当ててみよう。
次回
『ズートピア』はオーウェルの小説『動物農場』のディズニー流のアップデートである。舞台こそ農場という本来動物がいるであろう場所から都市、街に移されて、動物たちの文明化もはるかに進んでいる。また、田舎と都会という多層的な背景を採用し、人間社会の複雑さがさらに反映され、戯画化されている。戯画化で思い出したが、古くから動物を擬人化させて描かれた物語は数多くあり、日本でも代表的なのはその名の通り、『鳥獣戯画』であろう。その中でも『動物農場』がモチーフとされていると断定できるのは、こと権力の逆転が物語の節目として描かれているところだ。さらに、『動物農場』の結末が、「動物主義」という思想を掲げながら搾取的な社会構造が生み出されたのは、人間とほとんど見分けがつかない"2本足で立って歩く豚"であることを考えると、もはや『ズートピア』は『動物農場』の続編的な作品ではないのかと思えるほどだ。
しかし、私が主に取り上げたいのは『ズートピア』と『動物農場』の相違そのものではない。『動物農場』のアップデートであるなら、そもそも『動物農場』という作品が生み出された背景がそうであったように、『ズートピア』もまた同様に"子供向け"に戯画化されたものではない、ということだ。つまり、ある一定のディズニー並びにハリウッド作品を観る際にどうしても想起してしまう"勧善懲悪"とも呼ばれる単純な力関係に留まる作品として論じてしまうのは、この作品が描いている(我々が住む"先進国"社会に酷似した)社会形態のを、グロテスクなものとして描いているという事実を見落としてしまう、ということだ。
「グロテスク」が具体的にどういう性質を指してるかは後に詳しく取り上げるとして、まずは『動物農場』との相似を洗い出そう。『動物農場』では既存の権力の持ち主である人間を打倒しようと農場内の長老である豚が呼びかけた後、その長老と同じ種である豚が主導となり人間の打倒と、権力の奪取を果たす。権力の逆転が描かれた後、そこからさらにその権力が腐敗し、かつての権力の持ち主と酷似していく様を描いている。『ズートピア』でも同様に、権力の持ち主である肉食獣を追放し、草食獣が権力を得る。しかし、その後の社会様相の腐敗として描かれるのは、『動物農場』のそれとは違うものである。この肉食獣が追放される背景は、砂川秀樹が「男色は近代社会化以前には受容されていた」という言説に対する反論として、近代社会以前から否定的に捉える見方があったことを挙げ、それが近代化社会以降にゲイに対する「病理フレーム」が形成されたことの背景にあるという指摘していたケースと酷似している。すなわち、ズートピアという街にあてはめるなら、冒頭の子ども劇において近代化・文明化というものを"進んだもの"とする言説が背景にあるからこそ、その言説が暗に導き出す"野生"というスティグマが、肉食獣という属性に表象として充てられた、というわけだ。草食獣であり小動物であるジュデイが警察官を、肉食獣の子どもが税の査察官を目指すということを、それぞれの属性と"相反するもの"への志向(だからこそ"自由"や"可能性"の提示となる)として挙げられていること自体に、すでにこの世界を形成する言説の中に、後に肉食獣が「病理フレーム」の中に収められることを暗示している。
『ズートピア』と『動物農場』でそれぞれ権力の腐敗の在り方が違うのは、『ズートピア』が主題として据えているのは、差別が未だ存在する社会においての振る舞いであり、また、そうした社会と対峙することの難しさであるからだ。だが一方で『動物農場』と共通しているのは、たとえ既存の社会構造の不当な点を糾弾したものであったとしても、新たに権力に座する者が、特定の属性を以てして社会的地位を不当に貶めたり、あるいはその逆に持ちあげたりすること。つまり、権力の立場にあるものが、いち個体が否応なしに複合的にまとうあらゆる属性の中から任意の属性を持ち出したり、あるいは見出したりして、それを根拠に権力側の良いように用いることそのものが社会の腐敗を招く、と指摘している点にある。こうしたケースは今日の"先進国"社会においても行われている。そのあらゆるケースの中でも、創業者であるウォルト・ディズニーが、かつて「赤狩り」と呼ばれたハリウッドにおける排除運動に加担していたという記憶を持つディズニーにとっては、なおのこと無縁ではないだろう。なぜなら、その赤狩りこそ、『動物農場』が受容されたのと同じ背景の中で起きた現象なのだから。つまり、『動物農場』が、"反スターリニズム、反ソ連"として受容された時代のイデオロギーの中に回収された結果招いた、「赤狩り」という別の形での全体主義化を経た後の問題提起をする為、違った様相の社会の変化を描く必要があったのだ。では、その必要とはいったいどういう形のものなのか。
まず、そもそもの『ズートピア』(原題も"Zootopia")というタイトルから振り返ってみたい。誰もがその語感から、動物園("Zoo")とユートピア("Utopia")を連想するこのタイトルと、それが充てられた都市の姿や本編内で取り上げられている問題とを照らし合わせると、この名前が一種のミスリードを引き起こそうとしていることは誰の目にも明らかだろう。しかし、このユートピアに対するミスリードを行おう、という意図が製作者側にあることを考えると、一方でユートピア思想そのものを全く信じていないであろう、という可能性が高いものとして浮かび上がってくる。つまり、この作品世界はそもそも、主人公にとっての、あるいはそれに感情移入するであろう観客が考える様なユートピアを描こうという意図の下では成り立っていない、と考えることも決してできなくはない。では、それなら反対にディストピアを描こうとしていた、とするのもまた違うだろう。それこそオーウェルが『動物農場』の後に出したディストピア小説『1984年』で問題としているような、監視カメラシステムを駆使した管理社会は決してネガティヴなものとしては描かれていないし、作中で市長と並び権力の象徴として現れる警察だって、最後にはジュディに味方する。ズートピアに張り巡らされている権力構造が、一様に悪しきものに還元されるものとして描かれていないところを見ると、『映画クレヨンしんちゃん モーレツ!オトナ帝国の逆襲』において大人たちが夢中になる昭和の街並みのように、ユートピアを模したディストピアを描いている、とするのものまた違う。では何を志向していたかといえば、ただひたすら身も蓋も無く、我々"先進国"における社会の現在の姿を炙り出すことにこそ本作の力点がおかれていたのではないだろうか。
オーウェルが『動物農場』で描いたようにユートピアへの志向がある種のディストピアを生み出し、また『1984年』でディストピアは一方で誰かにとってのユートピアであることを描いてきたこと、さらに言えば今までのディズニー作品やハリウッド作品が数多く生み出してきた作品へ寄せられた批判を鑑みれば、主人公ないし観客のユートピアを描くことで何かの可能性を見出そうとする、虚構の作家なら誰もが夢見る境地との決別こそが、今のディズニーが走っている地点ではないか、とすら思える。だとするなら、管理化・全体化社会の兆しとして表象される監視カメラとの関係、後半で肉食獣と草食獣とが分断されてしまったと言われる前から存在する、小動物と大型動物との"棲み分け"をあからさまに感じる都市デザイン(マジョリティとマイノリティの形成はマクロでいうところの都市デザイン、ミクロでいうところの建築様式という、物理的な段階からすでに反映されている)、朝礼時には着席を強要しながら、大型動物に合わせて設計されてるが為に、ジュディが座ると署長の顔すら見えないサイズ感の机とイスが、ジュディが"認められた"後も変更は行われず、それどころかジュディとニックに同じイスを共有させること(1人分の席に2人が座らされているのである)や、かつてジュディに偏見としかいいようがない対応をしてきたことに対して何も悪びれもしなければ、むしろジュディに対して冗談を飛ばすほどの親密さを示してみせる警察署長の態度、そして何より権力に対して何も批判的な態度を持てそうにない警察という組織が持つホモソーシャルな性格をあけすけもなく描いているのは、それらに対して作品内で明確な批判が行われないということの薄気味悪さも含めて呈示しているのではないか。
だとするなら、本作が「子供向け」であるが為に、権力に対して批判的な態度を伴っていない、とするのは、少々早計ではないだろうか。確かに、ディズニーは子どもを含めた幅広い年齢層の支持によって成り立っている。しかし、その中には子供と呼ばれる低い年齢層の観客もいれば、それこそ子供の頃からディズニーに触れ続けた高齢の観客だっている。そうした状況の中で、こと任意の年齢層の観客だけ取り出し、それにのみフォーカスをあてようとするのは、作品がもつ性質を見誤ることに繋がるおそれがある。「子ども向け作品だからしょうがない」とするのは、すでに子供の在り方を規定づけるものでしかないのみでなく、未だ巨大資本によって子供たちが社会へ"馴致"されるべきだとすることへの別の形での肯定にも繋がる。しかし一方で、ディズニーが「子供向け作品」の地位に就いていることも、決して無視していいものではない。ならば、なぜディズニーはずっと「子供向け作品」であり続けたかを問わねばなるまい。結論から述べれば、それは「グロテスク」だからである。
これまで述べた「グロテスク」の定義は、マサキチトセが自身の論考のタイトルに用いた『排除と忘却に支えられたグロテスクな世間体政治としての米国主流「LGBT運動」と同性婚推進運動の欺瞞』 http://ja.gimmeaqueereye.org/entry/23399 に依っているところが少なからずある。しかし、ここで取り上げたい「グロテスク」については、美術的観点からのものである。どういうことかというと、ディズニーがアニメ製作者としての名前を不動のものにしてからずっと追及してきたのは、デザインと動きの"かわいさ"である。"かわいい"とされるものは、その多くが直線的なイメージではなく、曲線的なイメージによって、硬質なものではなく、柔軟なイメージによって構成される。これらの美学の根本を辿れば、動物や植物をあしらった、古代ローマの美術様式の一つである、グロテスク様式に辿り着く。ツイッター上で「モフモフ」と公式アカウントで形容された『ズートピア』を形成する美的様式は、根本からして「グロテスク」なものなのだ。この2つの「グロテスク」がピタリと重なり合うのは言うまでもなく、主人公ジュディの造形や仕草であり、冒頭に警察を夢見る彼女に暴行を働いたキツネ、ギデオンがウサギが(警察官を目指すに値しない)弱者たる徴として挙げた「鼻をヒクヒク」させる動きが、権力関係が決定的に転覆される場面の直前に配置されていることからもわかる。
「かわいい」は弱者の徴である。それ故に、その「かわいい」を極めたディズニーは、今日のアメリカを象徴し、公的な権力からも寵愛を受ける地位を築き上げた。つまり、『ズートピア』は、その地位を利用しつつ、現在のアメリカをはじめとする先進諸国の社会形態の描く"多様性"の脆さと「グロテスク」さを描くことと、またそのヒントや問題は、明白に誰かに取り上げられているわけでなくとも、世界のいたるところにある、この2つを描くことを目論んでいたのではないだろうか。その一例として、コロンビアの女性シンガーであるシャキーラ演じるポップスター・ガゼルのモデルとなっている動物であるブラックバックは、オスにしか角が生えていないこと。つまり、ガゼルはトランスジェンダーのポップスターであるということが、作品内で明確に言及こそほとんどされていないが造形として現れていることから見ても、決して拭い去れるものではないと私は思う。
色々な点で不用意な記事だったと思うけど、言いたいことはわかる気がする。
プリパラが性的かどうかはさておき(それは誰が判断するの?という問題があるので)、性的に消費されている、そんな局面は多少ネットを掘っていれば目にする。
それを知った上で、プリパラを見る女児(あるいは娘)に無邪気に接することができるかというと、多少のためらいがあってもいいのではないか。
無論プリパラの先進性はよくわかっている。男の娘キャラにそれは端的に現れているんだろうし、ブラ外しがどうこう叩かれていたが、それは正しさと正しさがぶつかりあった結果だろう。
そして、女児がプリパラを見ること、あるいは女児がプリパラを見ることを傍観することに対して何らかの断罪、ないし性的なニュアンスの感受をしたいのではない。
さらにいうと、「これは歴史的に反復しているものである」という指摘に反発するものでもない。
たとえば、CCさくら板の事情を知りながら娘がCCさくらを無邪気に見ている…そんな光景は用意に想像出来る。
ただ、僕が言いたいのは、そのような構造に対し、多少のためらいがあってもいいのではないか、
無論だからプリパラを見るのを辞めろというわけでは一切ないものの、上記の光景に接してググッと唾を飲む、そんな行為を許されるスペースがあって然るべきではないか?ということだ。
女児が無邪気にプリパラを消費する、そんな光景が社会的に消費される、そんな光景を見守りながら「オタク」が(多少の背徳感とともに)いささかのためらいを覚える、そんな光景があってもいいのではないか。
多分僕は、「ためらい」こそが人間が人間である由来なのだと無邪気に信じているんだ。
そんな安易さを自覚した上で、それでもこの主張をすることはできないのだろうか?
この主張が社会の片隅に登録されて、どこかの誰かの気持ちを動かす、そんな可能性にかけてみることは許されないだろうか?
追記(5/17)
元増田です。
燃えそうにしか思えない話題なのに燃えなかったのはなんでだろ…。
酔ってて文章がゴチャゴチャしてるのは確かだけど。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160508/k10010512881000.html
個人的には一定の理解はしているつもりなのだが、カイシャとして差別していないかと言われたら返す言葉もない。きちんとカムアウトした形で応募してくれたあなたの勇気や、逡巡したであろうエントリーシートの写真。この仕事に興味を持って来てくれたあなたのことは、今も忘れない。
採用側のキモチとしては、「特に配慮を必要としない」方が優先されてしまう現状があり、零細中小としては、5名の採用枠に、20名も応募があったあの年、あなたも優秀だったけど、他にも優秀な方がいた。ただそれだけのこと。でも、「ワケあり」物件であったことが、採用しなかった理由に影響したのも事実。ワケの無い人なんて、世の中そんなにたくさんは居ないのも知ってるんだけど。
結局は特別な配慮を必要とする方に対してのインフラや理解ある職場環境が零細中小には用意できていなかった。面白い、この人採用したらどんなことが起きるかな、面白そうだなと言う好奇心先行のリクルーティングであった。しかし、合議制の採用選考の中では、"ワケあり物件"に手を出すリスクに対する恐怖心の方が、好奇心より強く出て結局落選となった。あの時のお祈りメールは暗澹たる気持ちで作成した。自分の力不足を再認識させられた。何ができただろう、何をしておけば良かっただろう。今でも考えている。
先進的な地域での先進的な取り組みのひとつとして、あなたの採用をしてみたかった。お堅い業界の中で異色のベンチャーみたいなウチのスタイルを気に入ってくれてたあなたのことを今も、多分ずっと忘れない。いつか一緒に仕事ができたら面白いだろうな、と今でも思う。志を失わず、同じ道のどこかでまた会えたら。
なぜニッポンから「腰巻きビル」は無くならないか - Togetterまとめ
このような建築様式を「腰巻きビル」と呼ぶのが一般的なのかどうか分からないのですが、日本国外にまったく例がないわけではありません。
Norman FosterによるHearst Tower (2006) というビルがありまして、これはたくさん賞を獲ったのですね。
マンハッタンのシアターディストリクトとヘルズキッチンの境界、コロンバスサークルから8番街を少し南下したところにあります。
Hearst Tower, New York City | Foster + Partners
何が評価されたのかというと…
要するに、懐古と復興の共存であり、過去と未来の架橋であり、そうなるべき文脈と必然性があったのです。
その観点で言うならば、日本の「腰巻きビル」にも同様の経緯を経たものが少なくないのは周知の通り。
これは歴史建築物を保全する取り組みとして、きわめて先進的であったと言えるのではないでしょうか?
文化財保護の必要性と、都市計画上の要請と、構造設計上の制約、これらの折衷案が「腰巻きビル」であるとしたら、なかなか面白い建築群なんじゃないかと思います。
そういう背景があるとしたら、ですが。
レスがついてたの気づかなかった。
可能性が高いと言うのは
不適切な方法と言うのは油と砂糖を大量に紛れ込ませた料理方法。
例えば、有名なファーストフードで衣で揚げたバーガーの肉を取出して
衣をはがしてみると分かるけど、ほとんど肉が入ってない。
肉を節約して脂ギッシュな衣を食わせてコスト削減+中毒化ができるわけ。
油を紛れ込ませる方法。これも気づかないうちにどんどん中毒になる。
一部の大衆が反発してるけど政治献金と中毒になった大衆の反対でどうしようも無い状況。
詳しく知りたければ良くまとまったドキュメンタリーのスーパーサイズミーとかがお勧め
イギリスは金出せば美味い店は美味かったのでこういうのは半可通の偏見だと思ってる(奴隷制度の撤廃はイギリスが一番早いとかフランス革命後のフランス人シェフの亡命先筆頭だぞとか、どうでもいいツッコミも可能だ
イギリスのハイクラスな身分の人でデブな人は少なくないでしょ?
そう言う人たちは危険性に気づいて、そう言うちゃんとした飯を食べてるから。
oooooo4150 今日はぎりぎりやな
23:57に投稿したので、日付が変わるギリギリだったってことですね。
「日付が変わるから早く投稿しなきゃ!」みたいな気持ちはないんですが、
生活のリズムとして、日付が変わる前に寝たいので、この辺りの時間に投稿することが多いですね。
furutanikaede はじめて読んだ。今まで飛ばしていたけど、なんつーか、単純接触の原理の影響を感じた自分にブクマ
増田っていう、全てのコンテンツが縦長に連なるサイトだからこそ、おこる現象かも知れませんね。
ただ、六歳なのに難しい言葉を知ってますね、うにの子に単純接触の原理を感じて、お姉ちゃんのような立派な女性になってくださいね。
僕も方言で、頑張るぞいや、と言っているわけではなく、
先進的な渋谷区に感謝する声優さんへのリスペクトで言っているので、
のりぴー語に突っ込むの難しいですね。
おつかれさん。
本当にこの週の土日は疲れました。
ただ、のど元過ぎればで、今となってはどうでも良い感じでもありますね。
hungchang よかったむきゅーとは。
むきゅー! は無休でも、無給でも、無窮でもないないです。(マジレス)
oooooo4150 朝食抜きすぎ
たまに食べても、電車の中とか、職場とかで、おにぎりとか食べるぐらいで。
体に良い悪いは兎も角、午前中の仕事のパフォーマンスが午後と比べて悪いってこともないので、
それは俺でも怖いなあ
でもそれだけじゃ警察に連絡しても決め手にならなそうだし、どうすりゃいいんだろうね?
誰かがアパートに入ったんじゃないか? という妄想? に駆られた日へのトラバですね。
今思うと、換気扇付け忘れて、シャワーを置く場所を間違えただけで、そんなわけないのに、
変な話ですよねえ。
まだまだ、心の病が治ったわけじゃないんだ、と思い直しましたね。
それはそれで、進化前のタネボーとコノハナの立つ瀬が無い気もして微妙ですね。
病気で行動不能に陥る回数が減るぞ
まじで
色々調べてるんですが、諸説あって難しいですね。
飲めば良いってもんでもない、という意見もあって、中々手を出せないでいます。
最近、オヤツをビスコにしてるんですが、意味ないですかね?(あるわけない)
お疲れ様です!
これからも頑張るぞいやです。
あのー、食事内容なんだけど肉(タンパク質)を意識して摂取したほうがいいですよ。
でも、あれなんでしょ、肉だけでも駄目なんでしょ。
うーむ、栄養の話は奥が深すぎて難しい。
菊やのアイスクリームラーメンとかあるので、ちゃんと考えれば美味しいかもしれませんね。
ごめんなさい、普通に間違えました。
ゲートキーパー"ズ"の話題を書いてたので、その流れでつけちゃいました。
msdbkm 全部書いてあった。お恥ずかしい。http://anond.hatelabo.jp/20160301221134 http://anond.hatelabo.jp/20160301221218 http://anond.hatelabo.jp/20160301221329
こちらこそすいません。
たしか、女探偵のアニメが無い、って書いたらブコメで大量に教えてもらえたっていう増田に乗っかっただけで、
msdbkm 王とサーカス、積みっぱなしだったんでした。思い出させてくださってありがとうございます。
そうえば、ミステリ感想ブログは別に運営してるので、そっちを更新した方がいいか?
とか思って、王とサーカスも読んだけど、ゲーム日記で感想書いてないんですよね。
ただ、ミステリ感想ブログの方も更新してないので、なんやねん感があります。
”おちごとうんちょうんちょ。”
幼児語を使うのもほどほどにしようと思いました。
長居。
すいません、もう少し縮めればよかったですね。
Re-KAm よかった
oooooo4150 愛に溢れてる
htnmiki これは人生だな
ポケモンは大好きなゲームのシリーズなので、熱く語ってしまいました。
終わらないコンテンツとして、これからも末永く続いて欲しいです。
「ポケモンをプロデュースする会社」であるところの、株ポケが絶対に止めなきゃいけないことだったと思いますね。
もう何度考えても、アレだけは理解できない。
せめて、レア木の実とかにできなかったんですかねえ、
レア木の実なら、eカードのナゾの実っていう前例があったから、まだ納得できたのに。
空気清浄機を買え
あとマスクをしているだけでかなり違う
くる日はすごくくるし、こない日は全くこない。
空気清浄機は高くて買えなかったです。
マスクは外出るときは付けてます、アドバイスありがとうございます。
nezime ゆうきゅー
まだ有給はないので、欠勤って奴ですね。
oooooo4150 お大事に
ただ、結果、仕事を辞めたり、また去年の十月みたいなことにならなかっただけ、よかったと思ってます。
<h3>o- *</h3>
35歳前後だろ
親が重度のオタクだと、年齢を誤摩化せるんですよね。
買いましょう。
今年は全年齢向けのノベルゲやADVが大量に出るので、はずみをつける意味でも買いましょう。
aoi_tomoyuki そんなに面白いか。
面白い、というより身につまされるって感じかなあ。
そういう感じです。
まさに、その人たち周りのレビューを読んで買いました。
低評価ゲームファミリーとか言われてますが、あの界隈のゲーム発掘力ぱない。
やっすい中古のパソコン買って、乳首ねぶりスライムのゲームやりたいもん。
feita 狛枝というキャラが存在しているだけでダンロン2は名作だからな。次回作作ってるみたいだけどアイツを超えるイカレキャラが出てくる気が全くしないレベル。
イカレキャラのイカレ度合いで作品の善し悪しが決まるわけじゃないんですが、
とか言ってたら、まさにその狛枝が登場するアニメをやるという技を使ってきましたね。
ゲームの方はどうなるかわからないですが、とりあえずアニメを楽しみにしてます。
(嘘です、1のアニメを見た後で期待しろって言う方が無理だと思う)
c_shiika 最近、自分がわりとこういうダイレクトマーケティングに弱いタチだと分かって来たので、もう少し押されたら手を出してしまうかもしれない。
六月からのADVラッシュでも、ダイマを仕掛けられるような作品が続くことを祈ってます。
PS2の頃は、全年齢向けで恋愛要素が強いのは、まだ据え置きで出てましたが、
(KIDとか)
本を読む感覚と似てるので、どこでも読める携帯機が相性いいんでしょうね。
feita ファミ通かなんかで見た記憶あったが、なんかグレンラガンのカミナみたいな人が主人公なやつね。ダンロンや逆裁っぽいなら面白そうだな。
ほんまや、グレンラガンのカミナと、ネットハイの俺氏似てるな。
c_shiika 大人になってしまえば大人になるのもそんなに怖くはないんだなって思った http://orangestar.hatenadiary.jp/entry/2015/06/19/080000
なんか、この頃は仕事の不満がたまってたみたいですね。
一月の残業が多いのが悪いだけで、多分客観的に見ると、どっちが悪いとかなかったかも。
ごめんなさい、多い上に全体的な返信になるので、個別引用は無しです。
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20160209224138
あくまで、僕目線でしかないので、上司目線で見れば、別の意見があるのだなあ。
と、今では納得しています。
ただ、ちょっと、一月の残業が多くて疲れてたのが爆発しただけとも言えるかも。
面倒だろうけど、もうちょい野菜取ったっほうがええで
無休ですか。ご苦労様です。
山場は超えたので、今は楽チンです。
ただ、一月と二月の前半は大変でしたね。
ゆえちゃーのときとか、パパえさんの存在判明のときとかも思ったけど、
咲世界にも異性愛者の夫婦が日本国の法律に感謝して結婚しているってのは、
世界観の広がりを凄く感じるな。
僕視点だとなんかほとんどのキャラが先進的な渋谷区に感謝して結婚するタイプに見えるんだよね。
恵さんが
「友達と別れたくないだとか麻雀だとかそんな理由で東京のいい学校に転校しないなんて理解できないんだ」
と言っているけど、
これは家庭板とか小町だと叩かれそうだなあ。
まずそもそも、自分の仕事の都合(自分自身が奥さんと暮らしたいという気持ちもあるかも?)という気持ちがあるのであれば、
それをベースに説得するべきで、娘の和の意見を否定する必要はない。
その上で、
和の都合で恵さんが折れるか、
恵さんの都合で和が折れるか、
もしくは折り合いがつかないから、二人とも別々に暮らすか。
そういう選択肢を示して会話すべきであって、恵さん自身が理解できないから和に折れろ、というのは親と子の関係であっても理不尽すぎる。
(妥協をするのは和なんだから、和の言い分を否定するのではなく、恵さんの言い分をより認めさせる方向にしないと、理不尽)
せっかく、家族みんなでご飯を食べられる程度には会話が出来る関係なんだから、理解できない、なんて傲慢な物言いをするのは本当にもったいなく思える。
言い分がある和自身が言葉を尽くすべきだと考えてるかも知れないけど、和はアチガの皆と疎遠になってしまった、という体感としての事実があるから、
そうえば、本編時間軸では、心ちゃんは結婚ないし先進的な渋谷区に感謝しているのかなあ。
まだ心ちゃんに何があって遥さんと暮らしているかは判明してないけど、
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」という一節は著名だが、この「云ヘリ」は現代における「云われている」という意味で、この一文のみで完結しているわけではない。しかも、この言葉は福澤諭吉の言葉ではなく、アメリカ合衆国の独立宣言からの翻案であるとするのが最も有力な説である[2]。
「されども今廣く此人間世界を見渡すにかしこき人ありおろかなる人あり貧しきもあり冨めるもあり貴人もあり下人もありて其有様雲と坭との相違あるに似たるは何ぞや」
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言われている__人は生まれながら貴賎上下の差別ない。けれども今広くこの人間世界を見渡すと、賢い人愚かな人貧乏な人金持ちの人身分の高い人低い人とある。その違いは何だろう?。それは甚だ明らかだ。賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに由ってできるものなのだ。人は生まれながらにして貴賎上下の別はないけれどただ学問を勤めて物事をよく知るものは貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるのだ。」
ということである。
以上の言葉は初編からの引用であるが、虚実渦巻く理想と現実の境を学問によって黎明するといった、全体として学問の有無が人生に与える影響を説いている。 彼は攘夷の気分が蔓延していた当時に攘夷を否定し、また、「政治は国民の上で成り立っており、愚かな人の上には厳しい政府ができ、優れた人の上には良い政府ができる。法律も国民の行いによって変わるもので、単に学ぶ事を知らず無知であるのに強訴や一揆などを行ったり、自分に都合の良い事ばかりを言う事は恥知らずではないか。法律で守られた生活を送っていながら、それに感謝をせず自分の欲望を満たすために法律を破る事は辻褄の合わない事だ。」(意訳)等と、大政奉還から約4年半後の世相を考えればかなり先進的な内容だったと言える [3] [4]。
更に古文や漢文については「よきものではあるがそこまでして勉強するものではない」(意訳)と、意義を否定はしないが、世間で扱われている程の価値があるものではない、と言って儒学者や朱子学者が使うような難しい字句のある漢文や古文を学ぶより、まず日常的に利用価値のある、読み書き、計算、基本的な道徳などの「実学」を身につけるべきだと書いている[5]。
本書は数章を除いて、高等教育を受けていない者を読者に想定している。そのため当時の基準では平易な文章だといえ、小学校の教科書にも用いられた。難解な政治思想を平易に説明するため比喩が多く使われている。
違うよ。端的にいうと先進世界の暮らしに定着した価値基準のままでは
もう男女は出会えないし子孫は残せないし育てられないし、
ようやく産んでも病は増えるし少子化とともに労働人口は急減するしで、
全体的に生きていかれないだろうとおもうっていう話。
なあ、
http://kabumatome.doorblog.jp/archives/65856412.html これよんだか。
今はまだ皿洗い出来て幸せです!!とか漁師がいい!!農業最高!!食えるなら兵士傭兵お手の物!!鉱山素敵!
っていう後進国がすこしだけのさばるけど
そっちも1ー2世代したら同じことだろーな。
マトリックスまでもたどり着けないと思う。
たぶんギリシャあたりが「完全に破綻ですありがとうございました」でプゲラされてるくせに
一番進んだ姿なのかな。
キリスト教どころか仏教でさえ女には解決を用意しようとしなかったしできなかったんだけど。
今から全員女になれ、育児してリッパな子を残す、親を見取るだけがお前の仕事だっていわれたらどうなるのかなーって。
女が多めに抱えてきた育児の苦しみ、子が苦しむのを見る苦しみ、親が豹変していくのを見守る苦しみ、
システムの奴隷になる苦しみって今までは単なる派生問題でしかなかったし、
まともにとりあってこなかったから、「しばらく耐えろ(そのうち楽に死ねる)」しか答えはなかったんだよね。
女の方が個性が殺せず、文化がないといきていけない存在だったんだが、
「女子供は文化なんておもちゃをほしがってしょうがねえな」って男からはあつかわれてた。
「男も文化なんておもちゃをほしがってしょうがねえな」ってコンピュータからあつかわれるようになる。
パチンコとかスマホのガチャ石、退会できないウェブサービスとかで何度も騒動が起こってるけどあれが全生活分野に広まる。
もうひとより少しでもよい生活のための努力なんていらないのに。
コンピューターになだめすかされたくないと思う人間はまた体力か生殖力しかいらなくなる。
もうコンピューターでマッチングしてもらわないと恋愛もできない。
おそらく先進国では同じ発達障害を持つモノ同士が婚姻をして分化を強めていくんだ。
中庸の人間なんて居なくなるのに精神科医は「発達障害を原因とした鬱病のためのSSRI」を売り続ける。
これからどうするのかね、