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はてなキーワード: 刊行とは

2021-03-25

anond:20210325140808

じゃあ専属契約結んでないようだし、他の書き込み見ると他社から刊行予定あるみたいだし、兼業らしいし、出版確定していない作品を10万文字単行本何冊分だこれ)を書くのは状況的に難しいということを素直に編集相談するしかないんじゃないかな。

 

ここに書き込んでしまった時点で関係者には誰か分かってしまうわけだけどもそれでも最後の所は誠実に行くしか無いと思う。

anond:20210325144544

出版エージェントは駄目だと思う

わいも本一冊分の原稿を闇に葬られそうになったことがあって揉めて

エージェント相談しようとしたんだが

契約とかの話をする前に

「これから刊行予定の本があればその内容を細かく教えて。刊行半年後ならもうプロットあるでしょ? メールで送って。今すぐ」

とか全然関係ない(揉めた相手じゃない出版社)会社刊行予定を根掘り葉掘り聞かれて

契約してからなら話すけど今は話せない」って言ったら

「じゃあ何も言えることないです」

電話を叩き切られた

anond:20210325135615

記事書いた増田です。

他社での受賞・声掛けから刊行予定があるので、投稿サイトココナラにまで手が回らないのが現状。

対価をいただけるのならそれでも書ききるけど……。

もしサイト投稿するなら没になった案とかを好き勝手に書きたい。楽しそう。

2021-03-22

映画秘宝の件での私見

最初から編集部とやらが問題解決できるとは微塵も思ってないのだが、何故か編集部とやらが対応する体の文書を出した時点で終わってた。

編集部解決に向けて動くのなら、そもそも解決するまで雑誌刊行するのか否かが肝にもなるが、解決してないけど雑誌刊行続けた。

漏れて来る内情は、内ゲバ状態で、頑張ったんだけどなんら進展してませーん。

町山智浩は外向けは当事者ではないふりをして、裏では正論断じて、俺の通りに動けと指示してただけ。挙句、切られた。

雑誌フリー編集者ときが、なぜクレーム処置ちゃんとできると錯覚した?

2021-03-19

雑誌映画秘宝』の記憶(15)

今回も引き続き、雑誌映画秘宝』の中に蔓延っていた「ボンクラと云う『甘え』」について考えてみます。このような風潮が同誌の内部に醸成された一因として、町山智浩高橋ヨシキらが「恵まれ境遇に生まれ育った/生きている」ことの影響を考えてみる必要が有ると思います

と言うのも、恵まれ境遇で生まれ育った/生きている人間にとっては「生きるか死ぬか」と云う状況や「生き延びる為には泥水をも啜る」と云う覚悟は、所詮他人事」であり、だからこそ彼らは身勝手なまでに好き放題できたのです。

これまでの投稿で私は「雑誌映画秘宝』内部では一部の人間により業務の『私物化』が起きていたのではないか」と云う仮説を述べました。そして、この仮説に符合するような動きが『映画秘宝』最新号に見られました。

それは、同誌にアニメ作品特集記事掲載されたことです。この動きは「高橋ヨシキらが居なくなった『途端に』」と言えます。そこに私は「新体制となった『映画秘宝編集部から、読者を始めとする外部の人間に向けてのメッセージ」が込められていると考えています

そのメッセージとは何でしょうか?

私はそれを「これまでの『映画秘宝』では高橋ヨシキら『切り株作品好きの派閥』の一存で、アニメ作品などの特定ジャンルに関しては肯定的に取り上げないように抑圧されていたが、これからの本誌は変に気兼ねすること無く幅広いジャンルにも目を向けるように努めて変革する」と解釈しています

仮にこの解釈が正しいならば、映画を紹介・批評するメディアとして実に「まっとうな態度」と言えるでしょう。

投稿(13)でも述べましたが、雑誌映画秘宝』が生き延びるには、読者層を拡大することが避けて通れない課題でした。仮にアニメ作品を取り上げても、それが正しい戦略か否か、直ぐに読者層の拡大と獲得に繋がるのか否かは未知数です。しかし少なくとも、従来の『映画秘宝』が好んだ、自分たちと異なる趣味や嗜好を排斥するような閉鎖的で排他的な態度を、反省して改めていくという「ポジティブ可能性」を感じさせるものであることは確かです。

路線模索して読者層の拡大を図り、それにより雑誌の生き残りに努める姿勢を打ち出した新体制映画秘宝』の姿は、過去の同誌を主導していた『切り株派』よりもよっぽど「生きることに真剣かつ必死である」ように私には見えます。謂わば「生きる為の切実さ」を感じます

これとは対照的に「読者の拡大なんぞ知ったことか!」「アニメが好きな奴らに読んで欲しくなんざ無えよ!」と云う強気な態度を取り続けてきたのが、高橋ヨシキら『切り株派』に主導権を握られていた従来の『映画秘宝』でした。

おそらく、彼らにとっては「『たかが』雑誌の生き残りの為に、女やアニメ好きに媚びる必要は無えよ!『そんな』事をするぐらいなら潰れた/死んだ方がマシだ!」と思えたのではないでしょうか。

この「思えた」「できた」と云うのが重要な点で、これは「そうすることが『できる』と云う『可能』」を表す物言いです。こんなことを「思える」上に「実行できる」のは、それをできる「余裕」が有るからです。

人は「食べるための苦労」をせずに済む「恵まれ境遇」なればこそ、「生き残る為に泥水を啜るなんて、みっともない真似するか!」と云う態度も取れるのです。

町山智浩高橋ヨシキ早稲田大学出身であることは、ファンウォッチャーにはよく知られた話です。入学金や授業料が高額な有名私立大学に通うことが可能であった、こんな「お坊ちゃんたち」に、生きる為に泥水をも啜るような覚悟が生まれるでしょうか?もちろん「否」です。

そうです。彼らの本質は、何処かの首相の息子と同じく「お気楽身分のお坊ちゃんたち」なのです。

ちなみに高橋ヨシキは、英語フランス語ペラペラらしいですね。これは素直に凄いと思いますよ。しかし、そんな彼が非・都市部居住者や非・富裕層をあからさまに侮蔑する姿を見る度に、私は赤塚不二夫漫画登場人物であるイヤミ連想しつつ「やっぱり外国語能力人間性の間には関係が無いんだなあ」と再確認する次第です。

柳下毅一郎東大出身者ですが、柳下ファンウォッチャーからは「翻訳・文筆の仕事だけで食えているのか?」「食う心配をしなくて良いぐらいに実家が太いんじゃないの?」と言われている様子です。少なくとも「爪に火をともして暮らしている」とか「糊口をしのいでいる」といったイメージは抱かれていない様子です。まあ、浮世離れした人間でなければ、海外シリアル・キラー事情に詳しい特殊翻訳家稼業とか無理でしょう。

てらさわホークは…私はよく知りません。

恫喝DM事件以降に露呈した『映画秘宝』内部の対立於いて高橋ヨシキの側に立つ『切り株派』ライター人脈を見ると「普段会社員をやってます」的な人間が目立ちます。これは「食い扶持に悩まなくて済むから映画秘宝』の売り上げも気にせずに済む」と云う条件にも当て嵌まるように思えます

もっとも、この人たちの場合自分で働いて身を立てているのですから、決して「お気楽身分のお坊ちゃん」ではありません。少なくとも、奥様の稼ぎに助けられつつTwitter芸人としての活動に日夜勤しんでいる、何処かの誰かさんとは雲泥の違いです。

しかし、切り株派の「お気楽身分」とは、結局のところ「他人負担押し付ける」ことで成り立っていたに過ぎません。彼らが好き勝手にしていた分の尻拭いを負担していたのが、他ならぬ洋泉社です。洋泉社としては雑誌刊行を「商売」として成立させたかったのに、それを雑誌の作り手たち自身が「私物化」することで台無しにしていたのです。そう考えれば、休刊から復活を遂げた『映画秘宝』が、町山智浩らの古巣である宝島社に拾われなかったのも容易に理解できるでしょう。

泥水を啜る覚悟も持たず、負担他人押し付ける。このような姿勢については、まだまだ話を展開できそうですが、また長くなりました。

今回は一先ずここまでにします。アーメン

2021-03-18

雑誌映画秘宝』の記憶(13)

前々回の投稿(11)で言及した『映画秘宝』内部で起きていた「業務の『私物化』」について、引き続き今回も述べようと思います

ムック形式が好評だったこともあり、90年代の終わりに雑誌化・大型化を見事に果たした『映画秘宝』は、傍目には順風満帆に見えました。しかし、初期の同誌を読んでいた方々ならばご存知のとおり、若者購読者を想定した誌面作りとはお世辞にも言えませんでした。初期の『映画秘宝』がそのターゲットにしていた購読者とは「子供時代70年代映画館テレビで観た映画についての記憶を、編集者ライター陣と共有する大人」だった訳ですが、当時そんな条件を満たしていた人たちは、私も含めて既に「立派なオジサン・オバサン、若しくはその仲間入りも間近な人たち」でした。そのままで購読者高齢化によって、ジリ貧に追い込まれるであろうことは明らかでした。

したがって、雑誌映画秘宝』が将来的にもビジネス継続して生き延びるためには、長期的な戦略として「より広範で多様な読者層を開拓すること。それも、特に若者層』と『女性層』を購読者として積極的に取り込むこと」を選択するべきでした。しかし、こんな事を今さら書いても、後の祭りです。

承知のとおり、それとは正反対戦略を『映画秘宝』は選択しました。いや、何らかの戦略選択したと言うよりも、むしろ「長期的な戦略など、当時の『映画秘宝編集者ライター陣は露ほども真剣に考えてはいなかった」と言う方が正確かもしれません。

覚えている方もいるかもしれませんが、高橋ヨシキが『映画秘宝』の表紙デザインとして、邦画から引用した「裸の女性が荒縄で緊縛されて馬に跨がる残酷エロ画像」をコラージュして仕上げたことがありました。この表紙について、町山智浩は「この表紙じゃあ女性が手に取り辛い(=買い辛い)」とボヤいていました(※注)。雑誌の「顔」である表紙がこんな状態だったぐらいですから高橋ヨシキの頭に「女性購読者を獲得すること」など微塵も無かったことは明らかです。

既に述べたとおり『映画秘宝』は「女子供から映画を取り戻せ!」をスローガンにしていた訳ですから、むしろいか女性が手に取り辛い(=買い辛い)デザインにするか」について考えた上で、高橋ヨシキ意図的かつ積極的に「女性が嫌がりそうなデザイン」に仕上げたのだと考えるのが妥当です。きっと、このような表紙を作っていた時の高橋ヨシキは「オレたち男だけの輪を乱すような奴(=女性)は、お呼びでないから帰った!帰った!」「この表紙デザインを見たら、きっと町山さんも喜ぶだろうなあ!」と云う気持ちを込めていたことでしょう。(※注:ところで、町山智浩も本気でボヤいていたのではないのだろうと私は思いますが、そう思う理由については別のところで述べます。)

近年は真魚八重子などの女性執筆者が『映画秘宝』に登場する機会が増えてはいましたが、それで町山智浩高橋ヨシキの芸風が改まったようにはとても見えず、むしろ却って「これでもオーケーなんだ!こんな芸風でも女は許容してくれるんだ!」と彼らの勘違い助長したと云う可能性すら有ると私には思えます。仮にそうだったとしたら、真魚八重子の頑張りが報われていなかったことになって、非常に気の毒な話ですが。

また、これも既に過去投稿でも述べたことですが、比較的早い段階から映画秘宝』は、ごく少数の寄稿者(例:山本弘)を除けば「アニメファン蔑視・敵視・嘲笑する」と云う態度を明確に打ち出していました。この「アニメ叩き」の姿勢は同誌において長く一貫していたと言ってもよく、恫喝DM事件が発覚する直前にも「『鬼滅の刃』は絶対に観ない!」と、訊かれもしないのに自分たちの方からアピールに励んでいました。

もちろん、思想信条自由に照らして考えれば、編集者ライター個々人が「何か」を嫌うこと自体は許されるべきです。だから対象が「萌えアニメファン」だろうと「女性」だろうと何であろうと、高橋ヨシキらが個人的に何かを嫌うことは自由範疇あると言えるでしょう。極端な話、内心だけに留めて現実世界で実行に移しさえしないのであれば、性的マイノリティ/人種民族etc.に対するネガティブ気持ちを持っていても許されるでしょう。

しかし、その上で問いますが、当時の編集者ライター陣がわざわざ誌面を使ってまで「女嫌い」や「萌えアニメ嫌い」を盛んにアピールしたり、ゲイを繰り返し「ホモ」呼ばわりして嘲笑し続けて、雑誌映画秘宝』を売ると云うビジネス全体にとって、何か良い成果を招いたでしょうか?結果的には、女性萌えアニメファン性的マイノリティはもちろんのこと、それらに該当しない人たちにすらも「何だか映画秘宝』は排他的雰囲気があって嫌だなあ。近づくのは止めておこうか」と思われ、遠ざけられただけに終わったように私には見えます

そうして「未来購読者」に成っていたかもしれない人たちも見す見す逃してしまって、長期的に見れば大きな損をしたのではないですか?もしも、編集者ライター陣の個人的な好みに拘ったことによって、ビジネス未来が失われたのだとしたならば、それについての責任を彼らはどう取るつもりなのでしょうか?

当時の『映画秘宝』の萌えアニメ叩きムーブに関しては、こんな出来事もありました。ある時、俳優加藤雅也に対するインタビューを行った際、わざわざ「最近若い奴らは、萌えアニメなんかにウツツを抜かしているんですよ!」と御注進に及んだのです。もちろん、そのインタビュー記事の中では、それに対する加藤雅也の「『萌え』ねえ…」というリアクション言葉を「例の見慣れた太いゴシック文字」で強調することも忘れませんでした。つまり当時の『映画秘宝』は「あの加藤雅也サンも、萌えアニメなんか好きな奴のことは見下して馬鹿にしているんだゾ!読者の皆も後に続け!」と、虎の威を借る狐のスタイル萌えアニメファン嘲笑することに勤しんでいたのでした。それにしても、何の脈絡も無く突然「萌えアニメが云々」とか言い出したので、インタビューを受けていた加藤雅也も反応に困ったのではないでしょうか。加藤雅也についての面白い/興味深い話を読みたい読者の立場からすれば「何でインタビュアーがいきなり『オレは萌えアニメが嫌いだ!』と自己主張を始めるんだよ。お前は主役じゃねえだろ。お前の自己満足にスペースを割くぐらいなら、もっと加藤雅也言葉を載せろよ」と云う感想を抱くしかありませんでした。きっと、このインタビュアー脳裏には、読者の存在及び読者のニーズなどは思い浮かびもしなかったことでしょう。

上で述べたような行動に熱中していた『映画秘宝編集者ライターたちは、ただ単純に「『自分たち欲求』が充たされて気持ちが良かった」のだろうと思います。もちろん自分欲求を充たしたいと思うことは人間として当然ですし、仕事を通じて欲求を充たすことが出来れば、こんなに幸せなこともないでしょう。しかし、それをするならば良識と限度が必要不可欠です。わざわざ無駄に敵を増やし、未来購読者を失ってまで「自分たち欲求を充たすこと」を優先したことは、仕事(ビジネス)として必要なこと、正しいことですか?

ひょっとしたら「眼の前の『利益』を捨ててまで『信念』(=嫌いな奴らを大っぴらに嘲笑すること)を貫くことが出来るから、オレたち(=『映画秘宝』)はスゴいんだ!」と、『映画秘宝切り株派は自分達に酔っていたのかも知れません。しかし、それは別にスゴいことではありません。

洋泉社としては、雑誌映画秘宝』の刊行を「遊び」や「無償ボランティア」として、ではなく「まっとうなビジネス業務」として行っていた訳です。それには先ず雑誌が売れること、それも短期的にだけではなく長期的に売れることが先決であり、その為には更に、購読者を増やすことが何よりも重要でした。したがって、これらの重要事項こそが『映画秘宝製作チームに対して洋泉社が何よりも先に求めたことだったはずです。「何よりも先に」です。

それなのに、購読者を増やさず、と言うよりも増やす為の努力を端から放棄して、逆に無駄に敵を増やすことにだけはキッチリ勤しんでいた訳ですから洋泉社にとって『映画秘宝』の編集者ライター陣は、さぞかし頭痛の種というか獅子身中の虫というか、実に困った存在だったと推察されます

こういった「まっとうなビジネスであれば求められて当然の事柄」には応えようとせず、何よりも先ず「自分たち欲求を充たすこと」を優先して仕事に臨む、これこそが私の言う「業務の『私物化』」なのです。

この文章を読んでいる方は、試しに想像してみて下さい。もしも貴方が何処かの会社などに勤務していて、社員一丸で協力して赤字解消や顧客開拓などに努めねばならない時に、赤字を垂れ流したり顧客どころか敵を増やす行動にばかり勤しむ同僚が社内にいたとしたら、しかも、それに勤しむ理由が「自分気持ちいから」とか「これをやると○○センパイが喜ぶから」とかだったら「テメエの『趣味』の為に業務を『私物化』するんじゃねえよ!」と言いたくはなりませんか?単に「職業人」としてだけではなく「社会人」としても失格でしょう。

このように『映画秘宝』の行動は、とても「長期的な利益を考えている」とは思えないようなものばかりでした。岩田和明による恫喝DM事件を見れば分かりますが、ごく最近の『映画秘宝』内部でも「長期的な利益を考えず、自分気持ち良くなることを優先する」と云う風潮が継続していたことは明らかです。更に、岩田和明が退職するからと云う理由だけで、のんさんの連載を打ち切って雑誌の「売り」を無くすように仕向けたことも、これまた雑誌全体のことを考えない「自己中心的な行動」でしょう。

仕事に関して「長期的な利益」について考えると云うことは「自分よりも若い世代に残す未来」について考えること、つまり責任感の伴う態度」です。これに対して「業務の『私物化』」とは、仕事に臨むに当たって「今」の「自分」のことしか考えないこと、つまり無責任な態度」です。

映画秘宝』は、彼らが「精神年齢の幼稚な奴ら」と見なして嘲笑していたアニメオタクや「馬鹿宣伝に騙されて底抜け大作を観に行く奴ら」と侮蔑していた女性と、彼ら自身とを勝手に比べて「自分たち(=『映画秘宝』の編集者ライター)はアイツらと違って『大人の男』なんだ!」と周りに向けて盛んにアピールし続けてきました。しかし、果たして彼ら自身は本当に「大人」と呼ばれるに値する人間だったでしょうか?

雑誌未来」よりも「自分たち欲求」を優先し続けてきたことを、中心メンバーによる「業務の『私物化』」と呼ばずして何と呼べば良いのでしょうか?「身体大人頭脳はコドモの幼稚な遊び」でしょうか?

高橋ヨシキら「切り株派」が居なくなった2号目にあたる『映画秘宝』に、アニメ作品の特集記事掲載されることが予告されました。この「居なくなった途端に」と言っても良い動きを見るに、おそらく「切り株派」が彼らの一存で他の派閥編集者ライターに対して「『映画秘宝』でアニメ作品を扱うなよ!」と有形無形の圧力を掛けていたことは、想像に難くありません。そのような圧力存在したとしたら、一部の人間の一存で企業努力可能性を封じられていたことになるのですから、これもまた「業務の『私物化』」です。

「今」の「自分(たち)」のことしか考えない「無責任な体質」なのだから、年下の女性に対して恫喝DM攻撃を行ったり、自分たちよりも年下のフリー女性編集者に対してパワハラを行ったりするのも、何ら不思議ではありません。告発を受けるまで、何一つ疑問に思わなかったのは「本当」でしょう。何しろ彼らの頭に有るのは「自分(たち)のこと」だけなのですから

奈良さんがパワハラ告発した後に柳下毅一郎が出した、あの謝罪文としての体を成していない文を読んだ時も「ヨシキくんが報われて欲しい」とか、被害者を置き去りにしたことを書いていて「本当にどこまでも『自分(たち)のこと』だけに終始するんだな」と私は思いました。東大を出たぐらいだから間違いなく柳下毅一郎は頭が良いはずなのに、被害者を含めた「他者存在」に対して満足に想像力を働かせることも出来ず、謝罪文一つまともに書けないとは流石に想像できませんでした。子供か。

映画秘宝』の中心メンバーとも呼んでもいい人間たちが「業務の『私物化』」をし続けても恥じなかったのは、彼らの根底に有る「ボンクラと云う『甘え』」の精神だと私は思います

しかし、長くなったので、一先ず今回はここまでにします。

同棲相手同棲以前から私物勝手メルカリで売っていた

追記

予想以上に読まれているようで驚いていますありがとうございます

頂いたブコメトラバはあとでゆっくり読ませていただきますが、

私の書き方が悪かったようで一部誤読されて居られる方がいらっしゃるようなので補足させていただきますと、

私=男、同棲相手=女 です。

追記2※

起きたらますますまれていて驚きました。みなさまありがとうございます

昨日は増田で吐き出したからか、早い時間眠ることが出来ました。

これだけでも書いて良かったと思います

はてなは私を人間と認めてくれず、毎回の如くはてラボ人間性センターに飛ばされるのはストレスですが……)

いただいたご意見、ご提案ありがとうございます

多くて個別にお返しするのは難しいですがいくつかお返しします。

増田が引っ越せ

については、もともと追い出した後に自分も引っ越す予定でした。

ただ、今の物件原状回復等を考えた際に追い出してからの方が効率が良いと考えたのと、

私が引っ越しても相手居座り続けた場合にどういう扱いになるかわからなかったというのがあります

この物件は借りた当初から2人で暮らしておりましたが、契約時は入居人数を1人で契約しており、

それがバレた際のペナルティのようなものがどうなるのか想定出来ていません。

そこらへん併せて弁護士相談してみろっていうのはそうかもしれないです。ちょっと調べてみます

お金に関しても、同世代よりは稼いでいるとも思いますが、使う金額も多く、お恥ずかしながら多くあるわけではありません。

カードローンとかで借りることも考えてはいます。少し我慢すれば一気に返せるとは思うので。

また、物件最近オンライン内見出来ることは知ってますが、

自分の目できちんと内見して決めておきたいというのがあり、(正確に言うと壁を叩いておきたい)

その場合は長時間家を空けることになるので不安というのもあります

一応自分の部屋に工事無しで鍵をつけられるのを取り付けて鍵をかけられるようにはしたので、

部屋に入られる心配は余り無いと思ってはいますが、

共用部や2人の物置部屋として使っていた部屋の物等は現在でもかなり不安です。

来月中とか遅すぎる

これはその通りかと思います

まり会話をしたくないのですが、今月中に出ていくよう言いたいと思います

死ぬ死ぬ詐欺みたいなことをされるので、強く出れなかった部分もありますが、

私に迷惑をかけないなら死ぬも生きるも好きにしろ論法で行きたいと思います

相手の親に連絡して~~

相手の親との面識はありませんし、仮にあったとしても恐らくこの選択肢はありません。

というのも、相手父親には暴力振るわれて嫌と思ってるみたいですが、

母親にはべったりでよく2人で食事したり遠出したりしており、

今回の件も母親相談しているようです。

一昨日位の夜に夕食と酒を買いに行って、帰ってきてから洗面所で手を洗っていた際に相手から声をかけてきたのですが、

その際に言われたことは「私の母親がここに住むので名義変更みたいなこと出来ないか」です。

一切無視していましたが、親を含めてやばすぎるだろ…と思いました。

ですが、相手がどこまでをどのように親に伝えたのかは不明です。

しかしあのべったり具合を見ると、「メルカリで売ってるのバレちゃって出て行けって言われちゃった」的な感じで

説明してて、その上で「母親がここに住むから名義変更」とか言ってきてたとしてもなんら私の中に違和感はない程度には信用できないです。

なぜ最初に気づいた時点で縁切りしなかったのか

本文に書いたように、

・以前から私の推しのグッズをメルカリやグッズショップ安価で売っているのを見つけては購入して私に(タダで)くれていた

・私の推しを売るようなことはしていなかった

引っ越し時の箱にそのまま入れて眠らせていたようなグッズ類であることが多かったため、眠らせておくよりは…という意識もあった

というのもありますが、

家事等を率先してやってくれていて、かなり任せていた部分があった

・なんだかんだで一緒の生活は楽しかった

というのもあります

すごく怒っている気持ちは当然あるのですが、

では一緒に住んでいた期間はどうだったのか?と問われると間違いなくそれは楽しかったと言えるのです。

多分、恋人とか同棲とかそういうのを抜きにして、

「たまに一緒に出掛けるオタク友達」くらいの関係性だったらすごく良かったんじゃないかと思っています

追記2終わり※

ーーー

ちょっと精神状態よろしくないので変な文章が見られるかもしれません。

また、増田に書くのも初めてで、長文自体まり書く機会が無いため、乱文乱筆になるかもしれませんがお許しください。

心のやり場をどうすればいいのかアドバイスいただけないでしょうか。

お互いある程度好きなコンテンツが被るオタク同士だったので2年以上前同棲を始めました。

同棲相手メルカリヘビーユーザーで、売り・買い共に相当数行っているということは以前より知っていました。

ある時、ふとしたことから私の同棲前に集めたグッズがメルカリに出品されていることに気づきました。

ただ、私はこの時は特に相手咎めるようなことはしませんでした。

その理由として、以下のような理由がありました。

・以前から私の推しのグッズをメルカリやグッズショップ安価で売っているのを見つけては購入して私に(タダで)くれていた

・私の推しを売るようなことはしていなかった

引っ越し時の箱にそのまま入れて眠らせていたようなグッズ類であることが多かったため、眠らせておくよりは…という意識もあった

とはいえ、そのまま野放しというのもどうなのか…という意識もあったため、たまに思い出したかのように、

「私の私物メルカリ勝手に売ってるっしょ?」的なことを言うようにしていました。

それ以降売るのをやめるならやめるでそれで良し、「実は売ってました、ごめんなさい。」と言ってくるならそれはそれでよし、と思っていましたが、

「そんなことしてない」と言うだけで、特に辞める気配はありませんでした。

私も四六時中その相手メルカリページを見るようなことはしておらず、思い出したらチラ見するくらいのものでした。

ある時、とある物が無くなっていることに気づきました。

それはゲームセンターとある音楽ゲーム一定プレイすることでランダムで一つもらえる缶バッジで、

私の推しキャラを手に入れたくて3つ入手したものなのですが、推しが出なかったため自室の机の袖によけておいたものです。

同棲相手が私の推し缶バッジをどこからか入手してきて私にくれたので、その時に以前とった3枚は…と思い出して探したのです。

かに机の袖によけていたはずなのに、無くなっている…と気づいてすぐに、同棲相手に「ここに置いてあった缶バッジ知らない?」と声をかけたのですが、

「知らない」という言葉が返ってくるだけで、私も「どこか別のとこからフッと出てくるかも」という感じでその場は流したのですが、

ふと、「もしかしてメルカリに出品されているのでは?」と思いメルカリを見に行くと、案の定出品されていました。

「知らないって言ってたのに…」とかなりイラついて不機嫌にはなったのですが、

その時は出品者ページを余り詳しくは見ていませんでした。

が、その翌日再び見に行くと出品されていた缶バッジが消えており、過去のSOLDの物が目に入ってしまいました。

それはとある雑誌付録として付いているグッズ類で、私の推しではなかったもの推しと同じユニットメンバーのグッズです。

そして、それは頂き物でした。

頂いたのはもう5~6年程前のことで、当時関わっていたプロジェクトを離れることになった際の送別会の際に頂いたものです。

私はそのプロジェクトにいわゆる特定派遣で関わっていたのですが、その中の一部分野に詳しくなり過ぎた結果、私専任のようになってしまった分野の業務がありました。

ある時、「案件も増えつつあるのに一人しか出来ないようではまずい、チームを作ってチームで対応出来るようにしよう」という話が出て、私がそのチームのリーダーになり、同時に私の下につけられた人が居ました。

当時25くらいの私よりも恐らく年齢は10ほどは上で、私が高卒なのに対しその人は大卒、私が特定派遣なのに対してプロパー社員でした。

プロジェクトの参画時期とその分野の業務知識くらいしか当時私が勝っているようなものはありませんでした。

にもかかわらず、その人は私をリーダーとしてきちんと立ててくれ、ミスを指摘しても素直に謝ってくれる人でした。

チームリーダー的なことをするの自体が初めてだった私に対してさっとフォローしてくれるようなこともあり、

年齢や学歴やその他諸々が自分より下な私に対して内心で思うところは多々有ったのではないかと思うのですが、

少なくとも私には一切その素振りを見せたことが無い人でした。

豪快に話して豪快に笑うような人で、私は彼を気のいい兄ちゃんのように思い、そして尊敬していました。

そしてその人の前職は上記の「とある雑誌」を刊行している会社でした。

私は別にオタクであることを大っぴらに話はしないものの隠してもいなかったので、彼と雑談している際に前職の事を聞いてすごく驚き、色々聞いた覚えがあるのですが、

その際に「付録の余りとか貰えたりするぞ!」と言っておりすごく羨ましがったことがありました。

彼はその時の会話を覚えており、私がプロジェクトを離れる際に前職の友人に声をかけ、余りの付録を貰ってきてそれを私にくれたのでした。

お酒の席だったこともあり、

めっちゃ嬉しいけどこの中に推し居ないですwwwwwwww」

「じゃあ交換にでも使えwwwwwwww」

的な会話をしたのですが、結局その当時は交換は見つからず、そのままにしていました。

彼とはプロジェクトを離れた後も頻繁ではないですが、ちらほらやり取りがあり、また呑みにも行ったりしていたのですが、

私がプロジェクトを離れて約2年後くらいに交通事故で亡くなりました。

その話をプロジェクトの別の知り合い経由でしばらく経った頃くらいに聞いて、すごく悲しかったのですがその際に

「あの貰ったグッズもう交換に出せないな」と思ったことをよく覚えています

そしてそのグッズがメルカリに出品され、そしてSOLDになっていました。

私はすごく怒り、そして怒鳴り、その場で別れる旨と、家から今月とは言わないから来月中には出ていけということを伝えました。

その際に「メルカリに出品しているのに気づいてないと本気で思ってたのか?」ということを言い、相手は「もうしません」を繰り返していたのですが、

私の気持ちは完全に冷めており、関係を元通りにするのは絶対に無理と思っています

結局、来月中には出ていかせることにし、今現在は同じ家内に居てもほぼ会話をしない状態になっています

同棲相手厚顔無恥にもまるで何事も無かったかのように声をかけてくるのですが、一切無視しています

ただ、私の気持ちというのはこの同棲相手勝手に出品したことへの怒りは勿論あるのですが、

・なぜメルカリ私物が売られていることに気づいた時点で縁を切っておかなかったのか

とか、

・どうしてもっと頻繁にチェックして売られる前に気づけなかったのか

とか、

・どうして他のグッズと一緒の場所に保管して同棲相手に見えるようにしてしまったのか

等、後悔も多々湧いてきてこの気持ちをどうしていいのかわからなくなっています

私のこの気持ちをどこにぶつければ良いのかわからなくなってずっとぐるぐるしています

同棲相手が悪い。というのはあるのですが、上記のように後悔もあり、気持ちの全てをぶつけていいとは思えていないし、

恐らくその踏みとどまりは正しいことだと思うのです。

そのうち時が経てば風化するのではとも思っているのですが、現状は同棲相手存在を知覚する度に憤懣遣る方無いのです。

恐らく彼が生きていたのなら「あの貰ったグッズ、同棲相手メルカリ勝手に売られちゃいましたwwwwwwwwすみませんwwwwww」的な話を呑みの席でして、

彼も恐らく爆笑しながら「嘘だろwwwwwwwww」的な事を言い、根掘り葉掘りあったことを聞いてきて、すごく楽しい時間があったのだろうなと思うのです。

そして、なんだかんだでこのグッズが売られた件は許せていたのでは無いかと思うのです。

しかし、彼は居ないのでそうはなりません。

この気持ちをどうすればいいのかわからないのです。

まり頻繁にお酒を飲む方ではないのですが、最近はずっと夜になるとスーパーお酒を買ってきて飲んでいます

そして、大喜利ギャグアニメを見ながら笑っているのですが、布団に入ると眠れず朝5時頃みたいな状況です。

私の方が先に出ていけば……と思われるかもしれませんが、

部屋の名義も私で私一人のみ住んでいることになっており、家賃の支払いも全て私、インターネット電気水道ガスの名義も費用も全て私。

家具家電もほぼ私の物という状況で、そもそも収入

年代の平均年収よりも割と高い金額を頂いている正社員の私と、

週1~2レベルバイトするフリーターというありさまで、私の方が先に出ていくというのがかなり難しい状況です。

また、この件があってからはいつ私の物が盗られるかという不安もあり、ホテル等に一時的に出ていくというのもしたくありません。(現在コロナの影響でフルリモート勤務になってはいます仕事もあり、朝10時くらいから働いています

どなたか、この現状で、なにか心を落ち着かせる良い方法を教えていただけないでしょうか。

長文乱文失礼しました。ここまで読んでくださった方いらっしゃいましたらありがとうございました。

2021-02-25

腐女子自分からすると「腐女子は隠れていた」って主張謎すぎるんだけど

なぜなら私自子供の頃に一般書店の全年齢区分で陳列されていた全く隠れてない非公式二次創作BLアンソロジーのおかげで腐女子になったか

今となってはそういった本も少なくなった印象だけど、当時は、様々な作家を集めた性描写もある非公式二次創作アンソロジー本、同人作家が今までに出した二次創作同人誌をまとめた作品集、定期的に刊行される雑誌、どれもオタクショップではない一般書店に売られていたよね。

子供の時分にこういうのに触れたのは私に限った話でもなく、ネットを見れば上記の本を意識せず読んで腐女子になったって話はそこそこありふれた話だし、それとは別に「当時子供で何も知らずに書店で購入してショック/不快な思いをした」という書込みも珍しくないぐらいに見たことがある。

オリジナルBLもここ数年でようやく一部作品18禁販売し始めたけど、長年性描写ガッツリ作品が全年齢で書店に並んできたし今でも並んでるよね

こういった事を考えると「腐女子が隠れていた」なんてのはお世辞にも言えないと思うんだけど

しろ子供への距離という点だと隠れていなかったってのが事実なんじゃないの?

2021-02-22

松山ケンイチの“嫁呼び”に女性視聴者が怒り「この発言はマズい」

https://news.nicovideo.jp/watch/nw8975090?news_ref=50_50

言葉狩りがすぎる

まず漢字の「嫁」と和語の「よめ」は分けて考えるべきで、「よめ」は「良い女(め)」という意味から

夫が妻を「よめ」と呼ぶのは少なくとも平安時代からあった

そのとき漢字表記は「婦」だが、「よめ」には息子の妻という意味と夫の妻という2つの意味がある(倭名類聚鈔より)

明治刊行通俗古事記神代巻では、イザナギイザナミのことを「愛(うつく)しい我が汝妹(よめ)の命(みこと)」という文章があり、明治でも夫の妻を「よめ」と呼んでいた

常用漢字では「よめ」を表す漢字は「嫁」しかなく家にいる女という構成をしているために意味がそちらだけに引っ張られているが、日本語和語)においては、「よめ」は夫の妻であることは大昔から連綿と続いている

関西だけで残ったのか分からんが、関西発祥というわけではない

ことさら「よめ」呼ばわりを悪と決めつける理由はない

2021-02-20

シャニマスお気持ちnote読んだ

一言で表すなら、「くそ、しょーもない」

 

そもそもプロデューサー(アイドルマスターの支持者、プレイヤー総称)がアイドルキャラクターに対して抱いているイメージって、二次創作に近いものがある。

 

仮に「夜もダンス練習をする頑張り屋さん!」という描写があったとしたも、自分はその世界にいるわけではないので、実際はプロデューサーの前でそう見えるような演技をしているのかもしれないし、非効率練習無駄作業をしているのかもしれない。

その事実否定することは、誰にもできない。そんなことあるはずないと、鼻息を荒くすることしかできない。

 

プロデューサーは、自分にとって都合のいいところを都合よく解釈して、「○○ちゃんは、素直に甘えられないだけで実は優しい子」「○○ちゃんは、サボり魔に見えるけど、実は事務所一の熱い子」みたいな偶像を作り出して崇める生き物なのだ

 

これが二次創作的でなくて、なんだというんだ。

 

今回取り沙汰された腹黒キャラにたいしても、「あなたプロデュースするアイドルは、腹黒なんですね。」「同じシナリオですが、何故かうちのアイドルは腹黒じゃないんです。」で終わればいいじゃないか

 

他のプロデューサーがどう言ってるかに対して文句を言うのは、同人誌を読んで「○○ちゃんは、プロデューサーのお○んこだけが大好きなんだ!他の男のおち○こを咥えて喜ぶなんて、○○ちゃん本質を捉えていない!」と叫んでいるのと同じだ。

刊行物に書かれたことや編集部に怒るのも、それはお門違いだ。そのキャラクターを「腹黒オタサーの姫」と描写したのは、あくまプロデューサー意見であり、編集部がそれに何かを感じだんだろう。

(もっとまともな文がなかったのか、とは思うが、総投票数から察するに、誌面に載せるに値するまともな回答がなかったのだろう。)

プロデューサー個人意見に対しての文句は、編集部ではなくプロデューサーにしたらいい。

できるもんならな。

 

2021-02-19

雑誌バックナンバー読み放題のサブスク欲しい

きょうの料理とか暮らしの手帖とかdanchuとかのバックナンバー読みまくりたい。刊行されてからの全部そろってたらひとつ雑誌で月額1000円出しても全然かまわない。

バックナンバー読み放題はマンガ雑誌には以外と向いてなさそうだと思う。読みきりが多めの雑誌とかだと良さそう。創刊から文藝春秋ぜんぶとかもすごそう。

ムックとかも含めれば別冊宝島読み放題があれば最高。一生暇潰しには困らなさそう。増田はどんな雑誌が?

2021-02-13

[]渡辺慎一「侵略ニャッ」完結

地球侵略しにきた猫星人(ただのしゃべる猫。ただしハイテクマシンを持ってる)の話

地味にスキだったけど終わっちゃった

まあ隔週刊行雑誌で1年ちょい連載できたんだからいいほうか

後半はずっと掲載順も最後の方だったしなあ

猫星人(しゃべる猫)が地球おもしろおかしく過ごすってだけでレギュラーになれそうだったのに

悪徳会社をこらしめるとか猫轢いた人間洗脳とか猫カフェを作るとか多頭飼い崩壊を救うとか変に社会派?っぽい方にいっちゃったのがなあ

イカ娘と似てるんだから侵略っていいつつのほほんまったり日常系でよかったのに

ねこかってるだけあって猫の絵はうまい

2021-02-07

勝手に削除から考える文芸時評論理

 『文學界2021年3月号の新人小説月評に関して、評者の荒木優太氏が「末尾が勝手に削除された」とTwitterに訂正願いを投稿、ほどなくして『文學界公式アカウント反論ツイートをした。

 のちに荒木氏は『マガジン航』で「削除から考える文芸時評倫理」と題する文章を発表し、背景を説明した。

https://magazine-k.jp/2021/02/06/ethics-in-literary-criticism/

 まず騒動時系列を把握しよう。

 最初荒木氏の①【訂正のお願い】ツイート2月5日19時半前、②『文學界』の反論ツイートは同日9時過ぎ、その後30分と間をおかず、荒木氏は「とりあえず」との留保付きで③追加説明ツイートを行なっている。

 ④『マガジン航』への掲載は翌日である

 では「削除」に至った経緯について、両者の主張を見てみよう。と言っても、経緯の主張については対立するところはない。

 1. 問題の3行を含む原稿を『文學界』が受け取る。

 2. 『文學界』が「批評としてあまり乱暴すぎるのでもう少し丁寧に書くか、それでなければ削除してほしい旨申し入れ」る。

 3. 荒木氏が「では、末尾に『全体的におもしろくなかったです。』と付け加えてください」と伝える。

 4. 『文學界』が「改稿していただけないのであればその3行は削除します」と申し入れる。

 5. 荒木氏が「『お好きになさるとよいでしょう』、ただし『その事実SNS等で吹聴する』」と返答する。

 6. 削除された状態刊行される。

 7. 「勝手に削除された」と荒木氏がTwitterで吹聴する。

 以上である

 さて、ここからが本題である。『文學界』のツイートは一貫して、「勝手に削除された」という「認識」をめぐるものである

 先ほどの経緯を「削除」の一点に絞って書き直してみよう。

 1. (略)

 2. 『文學界』が「削除してほしい」旨申し入れる。

 3. (略)

 4. 『文學界』が「削除します」と申し入れる。

 5. 荒木氏が「お好きになさるとよいでしょう」と返答する。

 6. 「削除された」状態刊行される。

 7. (略)

 『文學界』の立場としては、まず削除してほしいと提案し、聞き入れられない(どころか批評たりえない(と彼らが判断する)改稿を提示された)ので削除を宣言し、荒木氏が認めたので実際に削除した=「勝手に削除したわけではない」、ということになる。すなわちここでの「勝手に削除する」は、A「著者に一切の了解を得ることなく不掲載とする」ことを指す。

 荒木氏の立場としては、編集部意向で、B「最終的な確認なく削除された」=「勝手に削除された」ということになる。

 つまり問題はこういうことだ。

 「勝手に削除してもよいという合意」の上で削除が行われた場合、それは「勝手に削除された」と表現できるのか?

 一見して難問だが、前件と後件の「勝手に削除」は、指しうる範囲が異なる。Aの意味は「合意」とそもそも相容れないため、前件ではBのみを指しうる。一方で後件は問いの形式なのでAとB両方指しうる。しか命題「〜場合、それは『勝手に削除された』」が真となるのは両件ともBを指す場合のみである

 では荒木氏のツイート時系列に話を戻すと、最初の「勝手に削除された」という荒木氏の言葉は、ここでは後件に相当する。しかし前件はそもそも提示されていないために、AとB、どちらを意味するとも解釈できる状態である。それに対して『文學界』の経緯説明は前件を説明するものであり、ここでようやくBの意味での解釈のみが妥当であることがわかるようになる。

 言い直すと、A「著者に一切の了解を得ることなく不掲載とされた」と荒木氏が主張しているように読めるため、そこに出てくる表現勝手に削除された」は、B「最終的な確認なく削除された」のみを指しうるのだと、『文學界』は反論したのである

 これを踏まえると、「Bでしか解釈できないはずの表現を、Aとも解釈できる状態で公にした」荒木氏側には、『文學界から反論されるだけの落ち度があると言えるだろう。

 荒木氏を擁護しうるとしたら、以下の主張が妥当である場合だ。

 「物理的に手出しできない」という不均衡な関係ゆえに形式同意せざるを得なかっただけで、本来的には一切了解していない、すなわち前件自体が間違っているのだから、Aと解釈すべきである、という主張である。なるほど、物理的に手を出せないのは明らかにである。だが、「ならば同意せざるを得ない」と即座に結論づけられるのか。これは言わば「抗拒不能」を争うもので、論理から法の領域に踏み込んでしまうだろう。

 ここで可能性として生まれるのは、「6. 『削除されなかった』状態刊行された」パターンである。ではなぜそうならなかったのか。『文學界』側が「論理的に適当でないのだから削除するほかないではないですか」という論理的な抗拒不能に陥っていた場合である

 本論では『文學界』側にこの主張が成り立つかを『マガジン航』に掲載された「削除から考える文芸時評倫理から考えてみよう。

 荒木氏は「削除されなかった」場合作家が反応を示した場合を想定して、こう書いている。

そもそも作家から「反応」があったからといって、なんだというのか。怒りたければ怒ればいいし、月評に不満なSF作家樋口恭介がしたとおりウェブ反論文を書いてもいい。場合によっては私はそれで反省するだろうし、或いはやはり自分の正しさを確認するだけに終わるかもしれないが、その過程のなかで新たに発見できるものもあるだろう。

 ちょうど1年前の『文學界新人小説月評に対し、作家樋口恭介氏が反論した例(https://note.com/kyosukehiguchi/n/n54a493f4d4f4)を挙げ、自身の評言に対しても同様に振る舞えばよいではないかと述べている。

 樋口氏の件では反論に遭った両評者とも、作品内容にある程度触れ、自らの解釈をある程度開陳した上で否定的評価を下している。よって樋口氏は両者の解釈そもそも成り立たないことを説得的に示し、古谷から不適切であったと謝罪撤回を得ることに成功している。非常に健全批評的やりとりだった。

 ところが荒木氏の問題の3行には解釈がない。解釈提示されていないのであれば、樋口氏のように「それは誤読だ」と反論することもできないだろう。荒木氏自らが提示たこの事例との比較から、「反論余地を与えない表現批評たりえない、単なる悪口である」という論理が――「論理的に適当でないのだから削除するほかないではないですか」――容易に導かれる。

 荒木氏は「文学作品は作者による産物であると同時に、読者がもつ解釈格子次第でいかようにも姿を変えるものだ」とも述べている。なるほど、その解釈格子を通して得られた感動は「読者が固有の仕方で編み出した創造物」であるという論も含めて同意する。ところが荒木氏は続けて、「読者に伝えたいのは、私のもっているつまらなさや無感動も、いくぶんか自己責任もつところの私自身にとっての大切な創造であるということだ」と述べる。結論はこうだ。

私の最大の、というより唯一の武器は、面白いものには面白いといい、つまらないものにはつまらない、という、正直であることのほかない。

 荒木氏の論理では創造なのは「(無)感動」である解釈のものはそれを生み出すためのフィルターである。そして荒木氏が月評に書こうとしたのは「全体的におもしろくなかったです。」の一言、すなわち「感動」である

 だが、樋口氏の事例との比較で明らかなように、批評文に求められるのは、評者の感動=感想などではなく、それを生み出すにいたったフィルターであるところの解釈である解釈には確かに属人的な部分もあるが、ある程度規範的な部分もあり、さもなくば書き手自身から反論も成り立たず、「過剰解釈」が氾濫する。なるべくそ規範的な解釈をもって評価を下すのが評者の使命であろう。評者個人の正直な感想など、正直言って全く興味がない。文芸誌を買ってまで読書感想文を読みたくなどない。

 月評の制限字数わずであるため十分に論が展開できないというのならば理解できる。ところが『マガジン航』には多少なり岸作の解釈が載るのかと思えば、ここでもやはり「簡単な紹介と個人的所感」にとどまる。「個人的所感」などどうでもよい。

 解釈ができないのであれば、あるいはするまでもないと思ったのであれば、端的に書かなければよいだけの話であり、結果として「勝手に削除された」のは理の当然であろう。

 ある意味当事者となった川上未映子氏はこうツイートしている。

 テキスト論理もなく書かれた感想に怒りで反応する皮相な「緊張感」だけが漂う場を、批評とは呼ぶまい。

追記2021年2月8日

 反応をいただいたのでいくらか補います

 まず公平性を期すためあえて本論執筆者自身の考えを明確にすれば、「『文學界編集部の削除対応は、抗議ツイートまで含めて手続き問題はないが、合理的ではなかった」というものです。

 仮に削除せずに全文ママ掲載し、岸・川上両氏から編集部に対して抗議が来た場合、やりとりの履歴はあるのですから「改稿あるいは削除を提案したが聞き入れられなかった」と説明すればよいでしょう。改稿・削除を要求した理由が両氏への忖度だけなのであれば――「裏工作して保身に走る編集者」なのであれば、交渉をした時点ですでに保身は成立すると言えます

 あるいはもし仮に改稿・削除提案荒木自身の体面を守るためというお節介だったとしても、誌面から削除したところで荒木自身SNSで当該の評言を公開することは避けられないわけです。

 それでもなお最終的に削除の決断をした。非合理的でしょう。「批評を載せるのだ」という編集部としての決意表明のようなものを感じます(これは解釈を経て創造した感想です)。

 無論、コメントでいただいたように、「そもそも読者は批評を求めていない(批評を求めていない読者もいる)」可能性はあります。誌面にどのようなものを載せるか決めるのはまさしく編集作業なので、この場合問題は「作者が作りたいものと受容者が求めているものが違う」ことです。

 ただし荒木自身批評を書こうとしているので(「「批評言葉」かどうかを編集部判断するのがお門違いであり」と主張している以上)、問題の3行を読んで「読者は批評を求めていないのだから問題ない」として荒木氏を擁護しようとすると、逆に氏を裏切ることになります

 よって、時評の存在意義や読者の需要コメントでいただいたように「別の話」なわけですが、それはそれで議論されるべき問題なので取り上げました。

 最後に、本論文末の「緊張感」は、わざと誤読のように用いていますコメントでおっしゃる通り、「テキストへの真摯さ」が本来の緊張感ですが、テキスト論理がないので当然この本来の緊張感も不在です。それとは別の、感情的応酬という緊張感しかないのだ、と表現するために括弧付きで「緊張感」としました。最後までお読みくださりありがとうございます

2021-01-26

劇団雌猫が嫌い

劇団雌猫が嫌い。

最初に知ったのは「悪友」っていうコミケで売られた同人誌

TwitterRTが回ってきて、「浪費」っていうテーマ面白そうだと思って通販で買った。

読んだら面白かった。

私もオタクで、そしてめちゃくちゃ浪費している。

読んでて、わかる!!という事ばかりだった。

面白かった!とツイートもした。

「悪友」はその後も別のテーマ刊行されて、なんとなく買って面白く読んでいた。

劇団雌猫の活動時系列はよく把握してないし、最近は知らないけど、「悪友」がいつの間にかすごく話題になってて、同人誌だったのが商業出版されて、その本が売れて、イベントとかもやって、漫画化もして、ドラマ化もしたのは知ってる。

私も途中までは追ってた。オタクの女の事が書かれていて、わかる!!と思いながら読んでた。

いつから「嫌い」になったのかよくわからない。

モヤモヤしたものはずっと感じてた。

私は劇団雌猫が嫌いなんだなってはっきり自覚したのは、「一生楽しく浪費するためのお金の話」って本を読んだ時だと思う。

「一生楽しく浪費するためのお金の話」はオタク活動で浪費しつつ将来のためにお金も貯めましょうみたいな本。

知らねーよと思った。

お金貯めてる余裕なんかない。お金貯めてたらオタク活動できない。お金貯められるようならオタクなんてやってない。

浪費がテーマの本出してたくせに、何手の平返してんの?と思った。

劇団雌猫のアンチスレみたいなのがあって、そこを見るようになった。

他にも色々見る内に、劇団雌猫の人達はみんな高学歴で派手な職業お金持ちで恵まれた人なんだって知った。

それを知って、劇団雌猫がもっと嫌いになった。

私は学歴なんかない。

家が貧乏大学に行けなかったし、頭も良くないか奨学金借りて大学行こうとかい気持ちもなかった。

田舎高卒で小さい会社就職して、誰でもできるような仕事やってる。

それでもオタクをやるのは楽しくて、イベントのある時は東京遠征して、Twitterでできたオタク友達とも楽しくやってた。

でも劇団雌猫の人達を見てたら、自分がすごくみすぼらしく思えた。自分って底辺なんだなって思った。

劇団雌猫の本を絶賛する人達も嫌いになった。

私は高卒だし、投資できるような頭も余裕もないし、デパコスなんか買えないし、ギリギリ生活しながらオタクやってる。

劇団雌猫の本を絶賛する人達は皆高学歴投資ができる余裕があってデパコスも買えるんだろうな。

生きる世界が違う。

同じ女のオタクなのに。

私の手取りは16万だ。恥ずかしいから年齢は言えない。

好きな漫画を買って、同人誌を買って、アニメDVDを買って、安い服とプチプラコスメ買ってたら貯金なんかできない。

貯金するにはオタクやめるしかない。

からはいつも早く結婚しろって言われてる。

このまま生きていったら、別に好きでもない人と結婚してこの田舎専業主婦になるか、最近流行の子供部屋おばさんとして一生を終えるんだろう。貯金全然してないし、家は貧乏から、将来はもしかしたら生活保護になるかもしれない。

どのコースでも劇団雌猫の人達と、劇団雌猫を絶賛する人達と比べたら底辺人生だ。

高校の時に必死勉強して奨学金貰って、劇団雌猫の人達卒業したような大学に行けばよかったの?

そうしたら私も「一生楽しく浪費するために投資する!」とか言えたの?

デパコスも買えてブランド物の服も買えたの?

結局、最初に買った「浪費」の同人誌も「私達、こんなに浪費しててヤバイでしょ(笑)」みたいなものだったんだな。カッコ笑いがついてるの。「こんなに浪費しててヤバイけど一流大学出てるし仕事も充実してるし同人誌商業化して大ヒットしたし漫画化もドラマ化もしたし、すごいでしょ」って言い換えろ。

私みたいな学歴もなくて貧乏でつまんない仕事してて将来もないオタク存在しないのと同じなんだろうな。

オタクするのは楽しい、でも何で生きてるのかわからない。

劇団雌猫が本当に嫌い。

2021-01-24

恋愛感情がわからない

半年前に処女を捨てる機会があった。

職場の先輩と二人で飲みに行って、終電が無くなって、先輩の家で飲み直すことになった。

今まで誰とも付き合ったことがなかったし、キスしたことも、もちろんその先も経験がなかった。

いつかは経験するだろうと思っていたそれの時が来たんだな〜と他人事みたいに思った。

先輩と喋るのは楽しかったし、趣味も合ったし、だからその日は割と飲んでいた。3軒ハシゴした。

私は酔うと楽しくなっちゃっていろいろどうでも良くなっちゃタイプなので、

仕事で関わる人と体の関係を持った後のいろいろとかは特に気にしてなかった。その時が楽しかったので。

先輩の家に着いて、おすすめウイスキーとかをご馳走になってるうちに、隣に座ってきたり、手を握られたりして、だんだん酔いが覚めた。

距離が近くてドキドキとかもないし、手を握られて緊張とか嬉しいとかもなかった。

どう振る舞うのが正解なんだろうな〜って考えてた。

先輩のことは好意的に思ってたけど、その感情は男女問わず友人に対して持ってる感情と一緒だなってその時気付いた。

私は今日先輩と飲んでて超楽しかったけど、先輩的には今のこれがメインだったのかな〜って思ってちょっと残念な気持ちになったりした。

先輩はもう完全にそういうモードに入ってたのでされるがままおとなしくしてた。

私は恋愛経験がほぼ無くて、いつまで処女でいるのかを悩んだりもしてたので、丁度いい機会だからこのまま捨ててしまおう〜とかも思った。

体の関係を持ったら好きになっちゃタイプが身近な友達にいたので、私もそれかもしれないから成り行きに任せようみたいな気持ちにもなった。

でもいよいよのときになって全然入らなくて、力抜いてって言われたけどどう力を抜いたらそこの力が抜けるのかが全然からなかった。

こちらとあちらのサイズ感が全然違くて、これどうやっても入らなくない???とか考えてた。

先輩が何回かトライしてたけどやっぱり入らなくて、痛いですって伝えたら止めてくれた。

結局そのまま抱き着かれて眠った。そうやって寝るのは悪くないなって思った。

次の日の朝、会話もそこそこに家に帰ったけど、なんというか感情の整理がつかなくて

とても仕事をする頭になれなくて2日くらい仕事を休んだ。

あのまま私が痛みに我慢してれば丸く収まったかなとか、

そもそも大人がサシ飲みして「この後俺の家くる?」「行きます~!」ってなったらそれはOK意思表示になるのかなとか、

もしそうなら先輩に恥をかかせたことになるのかなとか、

先輩と飲むのは楽しかたから、2軒目で切り上げて帰ってたらまた飲みに行けたかなとか、

そもそも飲んでて楽しかったのは私だけだったのかなとか、

今は幸い一緒のプロジェクト無いけど、次顔合わせるときどんな顔すればいいかなとか、

そんなことを考えながら過ごしてた。2か月くらい。

結構引きずってた。

3か月目くらいからはすごい推せる映画出会ってそれに夢中だったからあまり先輩のことは考えなくなってた。




昨日、久々の休みだったので手の込んだ料理を作って一人で飲んでた。

なにを飲んだか覚えてないけど家で一人だからべろべろになってしまって記憶曖昧で、

確か先述の推せる映画登場人物の一人がアセクシュアルなんじゃないか、みたいなツイートを見かけたんだと思う。

いたことはあったけど意味はわかってなかった。

それについて検索したら診断のページが出てきて、軽い気持ちでやったけど、まあ自分普通異性愛者だと思ってた。

私には同性愛者の友達がいて、理解してるよみたいな態度で見守ってたけど、

それに対して自分のことは「普通の」異性愛者だと思ってるあたりお前はなんにもわかってねえよと今は思います

シスジェンダー

心と体の性が一緒

・アロマンティック

恋愛感情を持っていない

アセクシュアル

性的欲求がない

・ノンバイナリ

自分のふるまいに性別のこだわりがない

診断結果を見たときに、自分の中にあったいろんな経験とか情報とかが正しくあるべき場所しまわれたな、みたいな感覚があった。

今まで二十数年生きてきてこんなに納得したことはないなって思った。

私の恋愛経験がないことに関して、友達に「いつかいい人が現れるよ~」って言われることが多かった。

これはアロマンティック・アセクシュアルあるあるワードらしい。

でもまあこれはネットの診断であって、そのうち恋愛感情を抱くこともあるでしょうって思ったけど、

これはアロマンティック・アセクシュアルの人が良く思うことらしい。

あることの証明はできるけど、ないことの証明はできないってこういうことかって初めて身をもって知った。

気持ちのやり場がなくてアセクシュアルについて(多分)国内で唯一刊行されてる書籍ポチりました。

同級生の恋バナが全然理解できなかったり、

ドラマ映画に出てくる「こんなに好きなのに・・・!」的セリフにピンと来なかったり、

全部自分経験不足故と思っていたけど、そもそもそういうの持ってなかったんだな。

LGBTの人はパトーナーが出来たりとかで周囲の人にカミングアウト必要が出てくる場合もあるけど、

ロマンティック・アセクシュアル別に何も言わなくても死ぬまでやり過ごせるかもしれないなって思ったら、

私は家族・友人等誰にも言わないかもな、と思ったりもした。

もしも今後パートナーが出来て、相手カミングアウトしても、「それって俺に対してってだけでは?」となるのでは?

というか私が相手立場だったらそう思う。

友達に言っても、「それって彼氏ができなさ過ぎての勘違いとか思い過ごしでは?」って言われそう。

私もそう思う。

両親に言って「そんな冷たい/寂しい人間に育ったなんて」なんて言わせてしまったら居たたまれない。

どれもネガティブわたし妄想です。

子供が欲しいってずっと思ってたけど、彼氏が欲しいとか旦那が欲しいとか思ったことなかったかも、そういえば。

本が届いて読んだら、やっぱり別に私は異性愛者で勘違いだったかもとか思うかもしれない。

けど、誰にも恋愛感情を抱かないとか性的衝動がないとか二十数年の実績が物語ってますよとも思う。

先輩とは、なんか、私が自分のことを把握していなかった故の事故みたいなものだったんだなって思った。申し訳ない。

先輩は会社の別の拠点人間だけど、前はちょくちょくわたしがいる拠点に来て仕事してた。

最近見ないけど、来なくても仕事できるように調整してるのか、来てるけど私が気づいてないだけなのか・・・

どっちにしろ気まずいんだろうな。飲み仲間として好きです。

ビール飲んでいろいろぐるぐる考えてたら書き出してしまった。

絶妙タイミング必要情報にぶち当たるあたり、やっぱりこの世は予定調和で出来てるんだなと確信しなおしました。

結局処女は捨てれてないな。

今まで一人での趣味時間謳歌してきたし、友達とも楽しくやれて来たので、今までと何も変わらないじゃんとは思います

半年から始まったこもやもやがひと段落した気分です。

行き場がないので増田に流します。

自分に対しては酒を控えろとは思います

2021-01-21

シェルブリッド 幾原邦彦

今だに続刊が出ないものかと待ち望んでいる小説

SFロボットもので異星人による遺伝子改良で大型の宇宙船のようにつくりかえられた人間や、

通常の人間より遥かに優秀な人類種となったジーメジャー支配する世界に、

普通人間ジーマイナー少年立身を夢見て悪戦苦闘するジョブナイル小説

2巻だけ刊行されてるんだけど、ムチャクチャいいところで終わってるんだよ。

続き読みたい。

永野護によるデザインが素晴らしい。

異世界勇士 高千穂遙

日本ファンタジー小説元祖とも言われる小説

日本ファンタジー元祖にしてハイファンタジーではなくて、異世界ものというのが面白い

現代日本から召喚されたものの、役に立たない勇者だと悪口を言われたりするが、

異世界の中に遺跡として残っていた科学文明機械をあやつりだすことでリスペクトされたりする。

最後ものすごく切ない。

シュナの旅 宮崎駿

もののけ姫の原型とも言われる漫画絵本

裏表紙小麦の穂が描かれているんだけど、

その小麦の絵をトレースして美術の授業の課題として提出したら、

メチャクチャ上手く描けているなと美術教師に絶賛された。

すぐトレースとバレたが。

やっぱり宮崎駿って絵がうまいんだなあと感心したのを覚えている。

2021-01-18

無職転生』はなろう系の元祖ではない

無職転生』のアニメが好評である

このアニメのために新しい制作会社まで立ち上げたという気合の入りようで

その美麗な作画と丁寧な翻案には原作ファンからも称賛が集まっている。

その評価とともに、

無職転生こそなろう系の元祖である

無職転生異世界転生のテンプレを作った」

といった言説が広まりつつある。

これは本当なのだろうか?

結論から言えば誤りである

無職転生』が「なろう」に投稿されたのは2012年11月だが、

これは『魔法科高校の劣等生』や『ログ・ホライズン』が書籍化されて人気を博し、

ヒーロー文庫が創刊されて「なろう」から刊行ブームが始まったあとのこと。

「なろう」というウェブサイトが飛躍的な拡大を迎えていた頃であり、

いわば「黎明期の終わり」あるいは「成熟期の始まり」というタイミングだった。

そして、その頃には既に多くの「なろうテンプレ」が出揃っていたのである

投稿タイトル
2010年4月13日ログ・ホライズン
2010年10月16日Knight's & Magic
2011年4月12日異世界迷宮奴隷ハーレム
2012年3月30日オーバーロードArcadia版は2010年5月9日投稿
2012年4月20日Re:ゼロから始める異世界生活
2012年10月18日異世界居酒屋「のぶ」
2012年10月29日盾の勇者の成り上がり
2012年11月22日無職転生

モンスターものの『オーバーロード』、

グルメものの『異世界居酒屋のぶ』、

パーティ追放ものの原型である『盾の勇者』、

さらに『無職転生投稿わずか一ヶ月後には、

テンプレを徹底的にパロった『このすば』が投稿されている。

既に「なろうテンプレ」が認知され、

そこから様々なアイディアが生まれていた時期だということが分かるはずだ。

異世界で生まれ変わって幼少期からスタートする」という展開に限っても『Knight's & Magic』が先行するし、

無職転生』作者自身が『奴隷ハーレム』『ヒール最高』『魔生』といった当時の「転生ものからの影響を公言している。

(もちろん、そうした転生テンプレは「なろう」が源流でもなく、さら二次創作SSへと遡れる)

自分の好きな作品を「斬新だ」「原点だ」と思いたい気持ちは分かるが、

事実に反することを言いふらせば要らぬ反感を買ってしまうだろう。

無職転生』は「テンプレを作り出した」からではなく、

テンプレをもとに完成度の高い物語を作り出した」から素晴らしいのである

2021-01-08

世界ピクニックアニメ微妙だった

世界ピクニック原作が好きだ。洒落怖が好きだし、百合も好きだ。勘違いだと分かっていても「私のために書かれた」と思えるくらい自分の好みにストレートだった。

コミカライズも好きだ。『スパイラル』、『天賀井さん』の水野英多だ。さすがに原作に比べると……と思いつつも、おおむね満足できるものにしてくれている。

なので、裏世界ピクニックの評判を下げたいという意図はない。

この先はただただアニメ版の内容について罵倒しているので、どうか原作を5巻まで買ってから読んでほしい。というか、原作だけ買って、この日記は読まないでください。

プライムビデオ

https://www.amazon.co.jp/dp/B08RHTTWFD

GYAO!

https://gyao.yahoo.co.jp/title/5fe5aa72-7dda-40e2-8b9b-d79a5f694f5e

原作電子版の1~4巻の合本が1月17日まで1375円(1冊340円!)なので今すぐ読んでください。

https://www.amazon.co.jp/dp/B08QCS76K1

アバン

空魚と鳥子の初接触

空魚が「人間!?」と口パクで喋る。何かおかしいな、と思った。

原作に当たると、“不意を打たれて、言葉が出なかった”とある別に原作一言一句まで覚えているわけじゃなく、「声を出して反応ならぬ反応をする、しかもその際頭が動く」というシーンに違和感があった。心理ネーム口パクで処理するのはアニメ的な演出ではあるので、目くじらを立ててとやかく言う場面ではないけど。

人間です」というおうむ返しも微妙。人語を介しているなら人間だし、あるいはそうでなかったとしても判別はできないので、原作のとおり「生きてます」の方が自然

くねくねの見た目

私はなんとなく、人間かかしヒトガタ・ニンゲンムーミンの「ニョロニョロ」辺りを混ぜたような見た目を想像していた。が、アニメだと『ハルヒ』の神人のようなデザインになっている。

自分解釈が唯一の正解だ、などと驕るわけではないのでそれ自体別にいいんだけど(神々しすぎて田んぼにいそうじゃないなとは思うけど)、『ガンバ』のノロイみたいになるのが残念すぎる。くねくねの怖さって、「不思議ものがいる」「不意に見てしまい、見続けてしまう」「その結果、壊れる」というものであって、「攻撃的な見た目の『敵』に攻撃される」というものではないと思う。『不安の種』みたいな「気持ち悪い」であって、「怖い」ではあってほしくなかった。

見返していると、冒頭から違和感に気付く。1カット目が「ウルトラブルーなのだくねくねに当てられたファーストカットは、無力なまま死んでいくことへの恐怖が描かれているはずだ。それを「裏世界の深部」と表現するのは誤っている……というか、情緒理解していない。

空魚がくねくねに呑まれるシーン

ここもひどい。原作にはこうある。“止まらない目眩の渦に呑み込まれるように意識が落ちていく。”

アニメでは、水たまりが突然深くなり、そこに溺れていくさまが描かれる。溺死ではなく、地面に足がつかず溺れるような描写はまだ、イメージ映像として理解できるけど、その次のカットが鳥瞰で、水たまりには誰もいない。つまり、本当に「落ちた」と表現している。

鳥瞰のカット鳥子がいないのは、カメラ的に丁度切れているんだろうけど、切る意図が分からない。目の前で沈んだのなら助けられるけど、人がいることが見えないまま水たまりに呑み込まれても、動けないだろう。

鳥子嘔吐

このシーンは、完全なギャグだ。原作だと、「うえっ」と言い、舌を出すにとどまっている。今まさに敵に襲われている、という場面で、二人して背を向け、四つん這いになって吐き真似をしている(もしくは、ギャグ的な演技だが実際に吐いている)。リアクションが大げさすぎて、真実味が削がれている。

OPCHiCO with HoneyWorksであることからも、また「ハヤカワ・ジュニア・ブックス」という新レーベル原作1巻を刊行することからも、子供向けアニメとしての側面があることがうかがえるので、この「翻案」を悪いと言ってしまうのはよくないのだろう。

モノローグが少ないのもこのためと思われる。『鬼滅の刃』がアニメであそこまで子供から人気を得たので、子供向けに焦点を合わせるという売り方は間違ってはないと思う。それが裏世界ピクニックでやることなのかは疑問だけど。

ラスト鳥子が足を滑らせるシーン

これは原作を読み返して気付いたのだけど、原作だと水たまりに嵌りそうになっている。これは最初から嵌っていた空魚との対比であり、ある種、「助け合うことでイーブンになった」と読み取れる。

アニメでは崖から落ちるよう改変されている(一応、その下に水たまりはあるのだけど)。何故こう改変したのかというと、「滑る」「滑り落ちる」ことを分かりやすビジュアル化したかったのだろう。子供が見ると定した場合アニメ版描写の方が分かりやすいだろうし、これに関しては一概に悪い改変とは言い切れない。

Aパート

冒頭

ちょっと絶望的な始まり方だった。まんま原作と同じ流れだ。小説受け手想像力に依存するのである程度場面を飛ばしても問題がないけど、映像化するのならその辺はちゃんと補完してほしかった。

前述のとおり(というのは私が勝手に思っているだけなので見当違いかもしれないけど)、モノローグが大幅にカットされているので、余計に理解しづらくなっている。

六面体のアップ→OP→走る二人という唐突な場面転換ののちに、埼玉大宮ロケーションが映し出されるが、不自然に人がおらず、そこが表世界なのか裏世界なのは判別がつかない。無意味に確定できない情報視聴者不快にさせるので、アバンからAパートをまともに繋ぐ気がないのなら、せめて人の営みを描写してほしかった。

怪談くねくね』」という紹介

私が1話で一番引っ掛かったのはここ。そもそも私は「くねくね」を「怪談」だと思っていない。実話怪談洒落怖)については原作自身単行本で記しているので譲るが、少なくとも、「怪談くねくね』」と演目のように言うようなものではないと思っている。

リッチアニメだったなら、くねくねの紹介の際にイメージカットではなく、書き込みをそのままアニメ化とかしてくれたのだろうけど、それを望むのは贅沢すぎか。

六面体について

空魚は「私たちだけ映っていない」と述べる。

アニメでは、アバン最後とこのシーンで二回、六面体を描いている。その二つの場面で模様(?)が違うので、映像的に語れたと判断したのだろうけど、「鏡面なのに私たちだけ映っていない」くらいは言ってもよかったのでは。ほんのり光っているし、CGを貼りつけて背景を描画し続けているわけでもないし、一見して鏡面だと分かるのかな。「自分たちが映っていないことを除けば何の変哲もないキューブ」と原作から読み取っていたので、ちょっと違和感があった。

鳥子が扉を開けるシーン

緊張感がない。空魚は棒立ちで、ゲートに無頓着。そのまま次のカットに移るが、今度は空魚が茫然自失で立ち尽くしている。アニメなのだから、ここは「大慌てする空魚」と「扉が開いて=ゲートが消滅してしま憮然とする空魚」で対比させてもよかったのでは。

扉が開いても、前述のとおり商店街に人がいないので、現実世界に引き戻されたという絶望感もない。

空魚のモノローグが削られているので、この時点で裏世界が空魚にとって特別ものだったと、視聴者には分からないのに、次のカットはいきなり鳥子が空魚を慰めている。極力モノローグ排除したいのなら、ここでこそイメージカットを使うとか、原作どおりに進行させるのではなく回想なりを入れるとか、空魚に鳥子に対して語らせるとかしてもよかったのでは。ただ原作をそのままなぞってアニメにするのは、誠実な仕事とは思えない。

空魚のスマホ文字化けしているシーン

アップで画面を映して、点滅しているだけなので、「ちょっと調子が悪いときスマホ」くらいにしか見えない。もうちょっと引きで撮るとか、平常時の画面をフラッシュバックさせるとかしないと、どんな異常が起きたのが分かりづらい。

六面体もそうだけど、裏世界のもの・裏世界に触れたものをやたらと発光させるので現実味がなくなってしまっている。日常侵食されていくふうには演出できなかったのかな。

大学構内でカラテカが二人の会話を聞いていたというアニオリ

うーん。いやあ、まあ、そういうこともあるだろう。「こいつ、後の話で出てくるんだぜ!」って、知ってたら自慢できるだろう。オッドアイ前の空魚と偶然出会っていた可能性もあるだろう。これは……ねえ。別にそんな、全然あれじゃないんだけど。遊び心だし。なんか、変に必然なっちゃったというかさ、ねえ。

鳥子勧誘シーン

金銭についての会話が丸々カットされている。あくまで空魚は打算で動いた、という建前があるからこそ、二人の関係は成り立っているのではないか

終電、なくなっちゃったね」は別に事実を口にしているわけじゃなくて、「帰りの足がなくなったから、ここで泊まるのも仕方ないよね」ということだ。大金に目がくらんだからあの危険な裏世界にまた行く、初めて会った人間と行動を共にする、そういう言い訳があるから空魚は動いたんじゃないのか。

アバン授業料奨学金の話をしているのに、ここでリアリティのディティーである携帯電話の修理なんかをカットして、主人公動機づけができていないのは問題だ。

エレベーターでの会話

「空魚ならそんな話、聞いたことあるんじゃない?」に対して、原作では返答しているが、アニメでは無言で、頷きもしない。くねくねについての知識があるのなら、ここでも語るのが自然……だけど、モノローグを使いたくないか無視させたのかな。

5階で乗り込もうとしてくる人物は、くねくねビジュアル以上に残念。このシーン……というより類話の怖さというのは、「何の変哲もない人間」というのが肝だと思っている。あくま日常範疇に、怪異存在侵食している、というのが怖いのであって、発光して明らかにお化けですって面した化け物が走ってきても、それは全く怖くない。

心霊写真だ、と言って渡されたのに骸骨が浮かんでいたら笑ってしまうだろう。一見すると普通の人なのによく見たら首が180度捻じ曲がっていた、という不和が怖いのだ。

Bパート

くねくね考察カット

個人的に、怪異同士や無関係神話群を結び付けて考えるのが好きなので、ここがカットされたのは悲しい。私は裏世界怪異たちを「人間意識をハックした結果、最も効率的に恐怖を感じさせるもの洒落怖だったので、そのテキスト抽出し、対象に見せている」だと思っているので、その場合だと「くねくねの正体」なんかを考えても何にもならないから、カットしても問題ないんだけど。

くねくねとの戦闘

くねくねのせいで目眩や倦怠感がある、ということだと思うんだけど、アニメでは空魚が銃声に驚いて身をかがめ、鳥子は銃が効かないことでへたり込んだように見える。くねくねと「目」が合った瞬間に空魚をアップにするとか、くねくね特性を分かりやす描写したカットが欲しかった。

現状把握のシーンでは、二人にくねくねが迫ってくる。くねくねって別に直接的な接触攻撃してくるわけじゃなくて、「遠目で見ていたらいつの間にか気が狂っていた」というものであって、原作にある遠近感が狂うというのも、アリス症候群的な話なんじゃないのか。悠長に二人で会話している間に攻撃的な見た目のくねくねが直接襲ってくるという、よく分からない絵面になってしまっている。

「分かる」シーン

原作を読んだ限りだと、オカ板の書き込みと「わかった! わかった! わかった! わかった!!」は、空魚が実際に声に出している。アニメではどこまでが心理ネームでどこから発声しているのか分かりづらい。

ただ、ここは私が原作特に気に入っているシーンなので、過剰に意識しているだけかもしれない。錯乱した感覚、脳を内側から侵食されていく不安定さが、テキスト表現されているのが好きだったので、映像化するとその辺の演出が変わってしまうのはしょうがない。

ラストカット

鳥子の「打ち上げってしたことないんだ」がアニメではカットされているが、冴月-鳥子-空魚という関係性で鳥子処女性を描いているので、百合的にはここがカットされたのは残念。

次回予告

打ち上げギャグとして処理されてしまっている。非日常である世界との対比として、表世界リアリティを保たなければならないのだけど、商店街のシーンといい、配慮が足りていない。

OPでは普通作画打ち上げが描かれているし、「ファイル5」では中間領域のために必須の場面なので、おまけとして、意図的にギャグで崩しているのだろう。

前述のように子供向けアニメとして作られたという私の読みが正しかった場合、このコーナーの存在理解できる。『鬼滅の刃』も本編とは関係のないギャグ風の次回予告をしているからだ。

その他

引きの絵がCGなのは何も言わない。『ラブライブ』はライブシーンで作画CGを組み合わせていたのが特徴的だったし、『裏世界ピクニック』もそういうアニメ、ということなのだろう。

アニメ監督の川崎逸朗氏によると“2021年アニメ新番組(中略)その全てがコロナ禍で作業されてきたもの”とのことなので、何なら、今後もこういった形式アニメは増えていくのだろう。

https://twitter.com/itsuro_k/status/1346667359788879874

空魚と鳥子、声逆じゃない? 別に不満とかではないんだけど、空魚の方が高音で鳥子の方が落ち着いた感じだと思ってた。そりゃまあ、オーディションりあるわけで、そこで逆パターンもやって結果こっちになったんだろうけど。これは完全に私の好みです。

いいところ探し

OPCHiCO with HoneyWorks

さすがに私でも知っている。ティーンのことはよく分からないけど、これはいいことなのでは。

オフィーリアと土佐衛門

オフィーリアと土佐衛門はいいアニオリだと思う。ただ、汚い例を先に出して、「オフィ―リアと取り繕ってみたけど本心では土左衛門呼びしている」の方がよかったと思うけど。

子供原作を読ませている

ウダウダと書き連ねてきたけど、アニメ化に際してこうやって実際に子供原作を読ませているだけで満点なんじゃないかな。子供ネットロア知らんでしょ、と思ってたんだけど、どうやら普通に知っているようでよかった。「日本おかし現代妖怪図鑑」なんて本も出ているらしく、妖怪都市伝説と同じくらいの認知度があるんでしょうか。

https://www.hayakawabooks.com/n/n194591ad11e3?magazine_key=m109bc51b7ac7

原作を読んでいるので不満が爆発したけど、初見だと楽しめるのでは。洒落怖ベースにした創作なんつーものを広めていいのか(面白さが理解してもらえるのか)とは思うけど、アニメ化で間口が広がるのはいいことだと思う。

所詮私はツイッターで騒いでる人なので、全然、みなさんは原作読んだりアニメ見たりしてください。裏世界ピクニックは最高に面白いので。

2021-01-05

A Time of War 発売前(2009年6月3日付) CATALYST 社 battleblog のエントリ。備忘的に訳しておいたものだし、なにしろ10年以上前なので、和訳の精度には問題があるかも。しか英語の原文が閲覧できない状態になっているので、原文と突合せてのチェックができない。どこかに原文が保存されていればぜひご教示願いたい。また、誤りなどのご指摘もあればよろしくお願いします。

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「A Time of War」 バトルテックRPGジレンマ

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 このRPGは、バトルテックシリーズの中では常に赤毛のままっこで、うまいことなじむ方法を見つけられたためしがない。バトルテックがもちろんちょっとばかり変わっているのは救いにならない。バトルテックは純然たるボードゲームではないし、純粋な卓上ミニチュアゲームでもないし、RPGでもない……だがそれら全ての要素は備えている。この点は、バトルテッククールものにすることに一役買っている。それに、バトルテックの25年間にわたる繁栄にも一役買っていると私は信じている。

 しかしながら、プレイヤー達がしばしばもっとも強く求めるのは(少なくとも長年の、そう何年もの観察に基づいて言うのだが)、彼らの(ボードゲームの)キャンペーンRPG的要素を付け加えることだ。完全なRPGスタイルゲームプレイするプレイヤーいくらはいるだろうか? 確かにいる。しかし、彼らは少数派だ。

 じゃあ、そういう完全なRPGとしてプレイするプレイヤーだけでなく、RPGの要素を一部ひっこぬいてボードゲームキャンペーンに付け加えたいというプレイヤーも満足させるようなRPGを作ってみろってことか?

 これはジレンマであり、このゲームの3つの版を通して解けない問題だったのだ。

 最初RPG(1986年刊行)は RPGの方へ向かうための骨子程度のアバウトなもの(すくなくとも、その頃はそうだったのだ。ひどくクールだが、びっくりするほど短かった)で、大量のスペースを世界設定に関する資料に割いていた。

 第2版(1991年刊行)はほぼ同じ道をたどった。つまりは「メックウォリアーキャラクター作成ルール」と、大量の設定資料だ。

 第3版(1999年刊行)はがんばった。「メックウォリアー作成ルール」以上のものをめざしてルールに肉付けをし、どんなキャラクタープレイできる多彩なRPGルールになった。いろいろなことについては正しく行われたんだが、この第3版もまたボールを落っことした。一番の問題は、バトルテックボードゲームからかけ離れてしまたことだ。(私は個人的にこのルールブックのディベロップに参加した。その頃はそれが正しい編集方針に思えたのだが、後知恵で見れば、大いに間違ったルートだった)

 「A Time of War: The BattleTech RPG」はこれらの問題を「修正」しようと試みている。それは第3版同様に多彩なRPGだ。強力なキャラクター作成システムを備え、特徴(trait)と技能(skill)の章にも大きく紙幅が割かれているので、どんなタイプキャラクターでも作成できる。

 しかし、第3版と違うのは、そこが戦争についての世界であるということを認識しており、そのように調整されている点だ。加えて、「A Time of War」は第1版や第2版のようにバトルテックボードゲームの不可欠な一部となっている。現行のバトルテックボードゲームルールブック・シリーズと合わせると、この特徴はさらに顕著だ。

我々は今後出るボードゲームルールブックについても、現行のシリーズに結び付け、できる限り簡単プラグ・アンド・プレイ可能となるように大変な努力をしている。そんなわけで、「A Time of War」はこの分野においては最初の二つの版より優れたものになるのだ。

 この版は、ボードゲームに直結する戦闘ルールと、タクティカルコンバットの両方を含んでいる。「バトルトループス」ボックスセットゲーム(1989年刊行)を覚えているプレイヤーにとっては、これは実質的にはバトルトループス2でもあると言えるだろう。

 そしてもちろん、プレイヤー達がこの世界に飛び込むのを助ける設定資料集は大量にある。

 かてて加えて、GMプレイヤーを熱中させる面白いゲーム運営するのを助けるという点では、これまでよりもはるかに優れたツール提供しているハズだ。その証拠GMセクションを見てみよう。54ページもの長さがあり、私はその全体がGMの役に立てばいいなと思っている。

 無論、究極的には、結果は諸君が遊んでみるまでわからない。それにはもう2、3ヶ月かかるだろう。海外での印刷輸送にかかる時間は厄介なものだ。しかし、この本の制作全体をみれば、完成は近づいている。

 ああ、それから最後一言フォーラムのどこかで見たが、なぜこの本のタイトルボードゲームのコアルールブック(「Tactical Operation」や「Strategic Operation」など)とぜんぜん違うのか、と不思議がっているスレッドがあった。

 ボードゲーム上級ルールブックとは毛色の違うタイトルにしたその理由は、“「A Time of War」はバトルテックシリーズへの第2の入口から”というものだ。たとえば、ボードゲームに興味のないRPGプレイヤーがこのRPGを手に取れば、それは「もう一つのSF世界」への機会になるだろう。

 ボードゲームのコアルールブック第1弾「Total Warfare」は、バトルテックシリーズへの最初エントリー・ポイントとなるべく、テーマに合った魅力的なタイトルをつけた。「A Time of War」(バトルテックでは以前にも何度も使われたフレーズだ)も、「Total Warfare」と対をなす魅力的なタイトルだ。そして、同じような雰囲気フィットするが、より個人的な印象を与える――RPGという視点を反映しているのだ。

 もし我々がオカシくなって、ボードゲームのコアルールブックにぴったり合わせた「上級RPGルール」をラインナップに加えることにしたなら、「上級ルールブック」のテーマに合わせて、この本を『Irregular Operations』とでも名づけただろうが。

 ではまた次回!

 ランダ

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以上。

2020-12-26

RRDいわく1944年10月25日日本戦時下でなかった

RRD と言えばはてな左派界隈を代表する人物の一人だが、どうも彼が1944年10月25日日本戦時下でなかったと主張しているようなのだ

 

発端は以下の記事についた彼のブックマークコメントだ。

記事の内容はツイッター朝日新聞社アカウントが紹介した戦時中女子挺身隊が出勤をする様子が合成により人数を水増しされているというものだ。

https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/asahi-photo">www.buzzfeed.com

 これ自体問題はないしかし、RRD 氏が奇妙な事を言いだしたのだ。

朝日新聞戦時中写真めぐり謝罪。「工場に出勤する女子挺身隊」は合成、Twitter掲載

ネタウヨ的には朝日新聞捏造したことになってるのね。さすがトランプ信者根城だけのことはある。そりゃ話も通じないわ。

https://b.hatena.ne.jp/RRD/20201222#bookmark-4695948251994769250

 

とのことだが、

 

発表によると、写真は、戦時中写真週刊誌「アサヒグラフ」の1944年10月25日号および、朝日歴史写真ライブラリー戦争庶民 1940~49」(朝日新聞社1995年)に掲載されていたという。

 

 

肝心の記事には1944年10月25日アサヒグラフ刊行されたと明らかに記述されているのだ。

さて、1944年10月25日はどんな日かというと、レイテ沖海戦が終わりマッカーサーレイテ島に司令部を設置した日なのだ

これはもちろん言う必要もない事なのだが、日本降伏したのは1945年だ。ポツダム宣言受諾日なのかミズーリ号上での調印なのかは議論余地はあるだろう。しか1944年10月25日太平洋戦争が終わっていたと言う歴史学者はいないのではいか?

よしんばいたとしてもかなり異端の説だろう。論文レベルではあるのかもしれないが寡聞にして存じ上げないので、id:RRD氏にご教示いただきたい。

 

また、太平洋戦争が始まった日も1941年これも異論はないだろう。日中戦争考慮してもそれらは太平洋戦争よりも早く始まっていた。

1941年から1944年日本戦時下というのも自然と導かれる。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/asahi-photo

ついでにいうとこの記事の他のコメントを読んでも戦時中朝日新聞社によって刊行されたと言う事実否定したり疑問を挟む人は彼以外に誰もいないのだ。

トップコメント朝日新聞社プロパガンダに協力した貴重な史料という内容である

彼とスターをつけた人間のみが奇妙な認識でいるのだ。

 

なぜ、こんな間違いを犯すのか?

1.内容が理解できない

2.終戦の日がわかっていなくて戦後朝日新聞社軍部プロパガンダをまとめた物と勘違いした

 

1.は流石にないと信じたい。2.も大概なので2.の間違いを犯したのだろうと思う。

 

俺ならこんな間違いをしたら恥ずかしくてコメントを消すだろう。

2020-12-11

武蔵大学北村紗衣先生の教えに反するディストピア作品解釈の数々

武蔵大学北村紗衣先生のディストピア文学の読み方話題になっている。「ディストピア文学自分の住んでいる日本に結び付けないのは問題」が話題になるのも当然で、数多くの専門家北村紗衣先生の教えに反しているためである

作家 宮部みゆき

フィクションに限っては、人はユートピアよりもディストピアが好きだ。その心理は、ホラー小説絶叫マシンを楽しむ心理に似ているのかもしれない。エンタテイメントとして「死」を疑似体験することで、私たちは命の価値を噛みしめ、平凡な日常の輝きを見つめ直すことができる。それと同じメカニズムで、「お話」としてのディストピアに浸ることによって、自分が身を置いている現実の良いところを再確認し、フィクションディストピア未来現実にならないようにするには何を心がけるべきなのかと考える機会を得る。(書評 ディストピア・フィクション論…円堂都司昭著

自分が今いる良いところの再確認(「日本ディストピア作品みたいになってない(これからもならないようにしよう)」)は、ディストピア作品自分のいる場所を描いているとして読むことの真逆である

膨大な読書量で知られる「現代知の巨人立命館アジア太平洋大学APU学長 出口治明

「こうなったら嫌だな」とは思いつつも、現実感はありませんでした。ただヒトラースターリン下の世界では、こういうことが起こり得るのかなとは思いましたが。(社会人になって1984年を読んだ感想

過去外国のことしか想像できていない。

翻訳家 鴻巣友季子

フランス作家による新たなディストピア小説の出現だ。(略)終盤で一度ならぬ“どんでん返し”がある。本作はある種、現在アメリカ、あるいはアメリカ象徴される利潤追求第一物質競争社会に対する、シビアな警告と挑戦状ともいえるだろう。(『透明性』/マルク・デュガン 書評

ディストピア作品日本ではなくアメリカに結び付けている。

イギリス ブッカー国際賞 選考委員

小川洋子著)『密やかな結晶』(英題The Memory Police、スティーブン・スナイダーさん訳)も「神話のような響きがあり、寓話(ぐうわ)でも、ディストピアでもある」と評された。帽子リボン小鳥、様々なもの消滅していく島で、秘密警察消滅が滞りなく進むよう監視の目を光らせる物語だ。

 日本では1994年に刊行された作品だが、選考委員は「何年も前に書かれていながら、あまりにも現代的で目を見張らされた」と驚きを口にした。米トランプ政権下などでフェイクニュースが横行して真実が失われ、コロナ禍で人々が集まる様々な活動が控えられる現実作品世界に重なった。(興野優平)=朝日新聞2020年9月2日掲載ブッカー国際賞、「ディストピア」がキーワード 小川洋子「密やかな結晶」も最終候補

イギリス文学選考委員であるが、ディストピア作品アメリカと関連付けている。

評論家 栗原裕一郎氏(村上春樹音楽で読み解く 共著者)

身も蓋(ふた)もない本音で支持を集めるトランプを見て個人的に想起したのは<3>庄司薫赤頭巾ちゃん気をつけて』(新潮文庫・497円)だった。(略)「感性」がつぶしにかかる戦後民主主義ひいては人間文明という「知的フィクション」を守るために薫くんは戦っているのである。だが勝ち目は見えず、敗北すなわちディストピアの到来が覚悟されて終わる。「知的フィクション」に、たとえば「ポリティカル・コレクトネス」(差別偏見を含まない言葉遣い)などを代入すれば、トランプ危機との近しさが見えるだろう。 (ディストピアの予感

日本舞台としたディストピア作品アメリカと結び付けている。

P+D MAGAZINE小学館による本情報キュレーションサイト

果たして今後、世界はどうなっていくのか。世界情勢とともにディストピア小説の動向を追ってみると、新たな発見があるのではないでしょうか。(【ディストピアとは?】「監視社会」や「行動の制限」などの“あるある”から徹底解説。

ディストピア作品世界情勢に結び付ければ発見があると書いている。

早川書房新訳版一九八四年担当編集者 山口晶

トランプ氏は、メキシコ国境の壁、難民イスラムから入国制限など過激政策を進めているが、「独裁者彷彿(ほうふつ)とさせる姿がこうした小説連想させるのかもしれません」と山口さんは推測する。(好調ディストピア小説 トランプ政権誕生で脚光!? 小松左京さん「アメリカの壁」も電子書籍で

ディストピア作品アメリカと結び付けている。

文芸春秋(40年前に発表された小松左京短編小説アメリカの壁』を電子書籍で発売)

文芸春秋では「小松さんはSF作家であると同時に優れた文明史家でもある。小松さんの鋭い洞察に触れることで、米国でいま何が起きているのか考える契機になるのでは」と話す。(同上)

ディストピア作品アメリカと結び付けている。

批評家 佐々木敦氏(元早稲田大学客員教授

批評家佐々木敦さんは「トランプ氏の存在自体戯画的。以前は考えられなかったようなことが起こっている」と指摘。「現実フィクションを超えてしまった。今を知るための手がかりとしてディストピア小説が読まれているのでないか」とみている。(同上)

ディストピア作品アメリカと結び付けている。

まとめ

北村紗衣先生の教えでは、間違った解釈浅薄解釈となる)日本以外に結び付けるというディストピア作品解釈は、学生だけではなく、書評専門家にも多く蔓延していることが実例で明らかになった。「アメリカディストピアだ」と言っておけばよいといった間違いで浅薄解釈が、日本のみならず、イギリス文学選考委員にまで広がっていることは、驚愕すべき事実である。数々の専門家も間違えている、「ディストピア作品を新しく、深く解釈するために、自国に結び付けることを常にしなければならない」というディストピア作品解釈の素晴らしい方法を公にされた武蔵大学北村紗衣先生感謝し、世界中の人にぜひとも広めてほしい。

2020-12-08

宅八郎死去」を完全スルー出版業界の闇

宅八郎死去」について

宅八郎死去」について、

日刊スポーツなど新聞社や、出版社系でないネットメディアは報じているが、

ポストセブンSPA!、文春、新潮講談社など出版社メディアは一切報じていない。

噂の真相系のリテラや、朝日系のJキャス、ブブカ系のBUNKAタブー、そしてナックルズまでも無視

Twitterなどで宅八郎の思い出を語っている著名人も、宅八郎とそれほど接点がなかった人ばかり。後は、軽く付き合いがあった編集者ぐらい。

宅八郎に振り回された作家田中康夫や小峯隆生(元週刊プレイボーイ編集)、SPA編集長だったツルシカズヒコ(今は共産党シンパに)などは一切無視している。

週刊ポスト編集部への乱入事件や、田中や小峯に対するストーキングなど、香ばしいエピソードが満載なのだが、小学館集英社にとっては触れられたくない過去なのか。

文春や新潮など、宅八郎とはあまり繋がりがない社まで無視なのは異常だ。

テレビワイドショーも大々的に取り上げるか、と思ったら、出版社に倣って?取り上げず。

TBSサンジャポ」なんて、宅はほぼレギュラー出演者だったはずだが。

宅は小学館事件以降、大手出版社出禁で、書籍刊行できたのも「太田出版」。

それにしても業界ごと「完全無視なのはどうよ。田中や小峯に、当時の心境を聞きに行くメディアライターはいないのか。

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