はてなキーワード: 小川洋子とは
ケーブルテレビSTBでは見られない場合があるようなのでBSパススルーとか
地域によってはSTBで見られるようになったかもしれないので最新情報要確認
・02 ナデシコ(科
・03 母屋(を取られる
・05 消費者(庁
・06 [すべて][4答]ニューヨーク ロサンゼルス シカゴ ヒューストン
・07 マイケル・ジャクソン
・08 [近似値]30.1(キログラム
・13 ピエール
・14 『あたしンち』
・15 プロポリス
・18 半月(切り
・19 早田ひな はやたひな
・22 [3択]人 の名前
・25 貴乃花
・26 [国]ドイツ
やさしい人間になりたいよね よく生きたい
もっと、しゃんとした女性というものになりたいなあ。それはとても難しいのだけれど…
さっき街で見かけた男の子、ミニスカートを履いていたんだけれど、立ち振舞や所作がとてもうつくしくて不意にきゅんとしてしまった!なんて素敵なんだ~~
江國香織さんの文章、やっぱり好きだ~~ 言葉の一つ一つがうつくしいのに、胸がきゅっと締め付けられるような心地…
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SNSでこういう投稿をしてる女は儚げな雰囲気を纏っていて、大抵の場合平均以上の容姿をしているが、普通に学生時代いじめっ子だった女も多い
彼女らは昨今の「思慮深くて繊細で少し陰のある女の子はなんか良い」ブームに全身全霊で乗っかっているだけだからだ
クラスのキモい男子のことは普通に菌扱いしてたし、友達が席を外した瞬間に悪口を言い出していた
大抵の場合そういうマイナスな過去は、「幼かったあの頃の私」という、なんかうつくしい感じのものとして処理される
あと、江國香織も最近読み出しただけである 江國香織か小川洋子
儚げな女に気を付けろ!
たまに、本当に気性が繊細で普通に本とかアートが好きな女もいる
そういう女は、大事にしたほうがいい
短歌の名歌が知りたいを見て、ふと今読んでいるエッセイが穂村弘だったことを思い出した。
もうすぐ読み終わるから次に読むエッセイを探してるので、もし良かったらみんなの好きなエッセイを教えてほしい。
仕事帰りに、ちょっと疲れててもさらさら読めるような、そこまで分厚くない文庫本が嬉しいな。
過去に読んで特に好きだったのは小川洋子「カラーひよことコーヒー豆」、キリンジ兄弟の2冊「あの世で罰を受けるほど」「自棄っぱちオプティミスト」、谷崎潤一郎「陰翳礼讃」、星野道夫「旅をする木」です。
id:sonzinc さん ←ごめんなさい。書き方分からずここで返信しました。
具体的にタイトルも教えてくださりありがとうございます。父の詫び状あたりからチェックしてみようかと思います〜
武蔵大学北村紗衣先生のディストピア文学の読み方が話題になっている。「ディストピア文学を自分の住んでいる日本に結び付けないのは問題」が話題になるのも当然で、数多くの専門家が北村紗衣先生の教えに反しているためである。
フィクションに限っては、人はユートピアよりもディストピアが好きだ。その心理は、ホラー小説や絶叫マシンを楽しむ心理に似ているのかもしれない。エンタテイメントとして「死」を疑似体験することで、私たちは命の価値を噛みしめ、平凡な日常の輝きを見つめ直すことができる。それと同じメカニズムで、「お話」としてのディストピアに浸ることによって、自分が身を置いている現実の良いところを再確認し、フィクションのディストピアが未来の現実にならないようにするには何を心がけるべきなのかと考える機会を得る。(書評 ディストピア・フィクション論…円堂都司昭著)
自分が今いる良いところの再確認(「日本はディストピア作品みたいになってない(これからもならないようにしよう)」)は、ディストピア作品が自分のいる場所を描いているとして読むことの真逆である。
「こうなったら嫌だな」とは思いつつも、現実感はありませんでした。ただヒトラーやスターリン下の世界では、こういうことが起こり得るのかなとは思いましたが。(社会人になって1984年を読んだ感想)
フランスの作家による新たなディストピア小説の出現だ。(略)終盤で一度ならぬ“どんでん返し”がある。本作はある種、現在のアメリカ、あるいはアメリカに象徴される利潤追求第一の物質的競争社会に対する、シビアな警告と挑戦状ともいえるだろう。(『透明性』/マルク・デュガン 書評)
(小川洋子著)『密やかな結晶』(英題The Memory Police、スティーブン・スナイダーさん訳)も「神話のような響きがあり、寓話(ぐうわ)でも、ディストピアでもある」と評された。帽子、リボン、小鳥、様々なものが消滅していく島で、秘密警察が消滅が滞りなく進むよう監視の目を光らせる物語だ。
日本では1994年に刊行された作品だが、選考委員は「何年も前に書かれていながら、あまりにも現代的で目を見張らされた」と驚きを口にした。米トランプ政権下などでフェイクニュースが横行して真実が失われ、コロナ禍で人々が集まる様々な活動が控えられる現実が作品世界に重なった。(興野優平)=朝日新聞2020年9月2日掲載(ブッカー国際賞、「ディストピア」がキーワード 小川洋子「密やかな結晶」も最終候補)
イギリスの文学賞選考委員であるが、ディストピア作品をアメリカと関連付けている。
身も蓋(ふた)もない本音で支持を集めるトランプを見て個人的に想起したのは<3>庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』(新潮文庫・497円)だった。(略)「感性」がつぶしにかかる戦後民主主義ひいては人間の文明という「知的フィクション」を守るために薫くんは戦っているのである。だが勝ち目は見えず、敗北すなわちディストピアの到来が覚悟されて終わる。「知的フィクション」に、たとえば「ポリティカル・コレクトネス」(差別や偏見を含まない言葉遣い)などを代入すれば、トランプ危機との近しさが見えるだろう。 (ディストピアの予感)
日本を舞台としたディストピア作品をアメリカと結び付けている。
果たして今後、世界はどうなっていくのか。世界情勢とともにディストピア小説の動向を追ってみると、新たな発見があるのではないでしょうか。(【ディストピアとは?】「監視社会」や「行動の制限」などの“あるある”から徹底解説。)
ディストピア作品を世界情勢に結び付ければ発見があると書いている。
トランプ氏は、メキシコ国境の壁、難民やイスラム圏からの入国制限など過激な政策を進めているが、「独裁者を彷彿(ほうふつ)とさせる姿がこうした小説を連想させるのかもしれません」と山口さんは推測する。(好調ディストピア小説 トランプ政権誕生で脚光!? 小松左京さん「アメリカの壁」も電子書籍で)
文芸春秋では「小松さんはSF作家であると同時に優れた文明史家でもある。小松さんの鋭い洞察に触れることで、米国でいま何が起きているのか考える契機になるのでは」と話す。(同上)
批評家の佐々木敦さんは「トランプ氏の存在自体が戯画的。以前は考えられなかったようなことが起こっている」と指摘。「現実がフィクションを超えてしまった。今を知るための手がかりとしてディストピア小説が読まれているのでないか」とみている。(同上)
(北村紗衣先生の教えでは、間違った解釈や浅薄な解釈となる)日本以外に結び付けるというディストピア作品の解釈は、学生だけではなく、書評の専門家にも多く蔓延していることが実例で明らかになった。「アメリカはディストピアだ」と言っておけばよいといった間違いで浅薄な解釈が、日本のみならず、イギリスの文学賞選考委員にまで広がっていることは、驚愕すべき事実である。数々の専門家も間違えている、「ディストピア作品を新しく、深く解釈するために、自国に結び付けることを常にしなければならない」というディストピア作品解釈の素晴らしい方法を公にされた武蔵大学と北村紗衣先生に感謝し、世界中の人にぜひとも広めてほしい。
久しぶりにキウイを食べた。皮を剥いて食べやすいように切って…という作業は初めてやったから、そういう意味では初めて食べたとも言える。
キウイという果物は比較的マイナーなほうだと思う。そりゃあもっとマイナーなものはいくらでもあるし、10人に聞けば9人は絶対に知っているものをマイナーだなんて!という感じもするのだが、イチゴとかブドウとかリンゴとかパイナップルとかが持っている華やかさのようなものをキウイはどことなく欠いているような気がするのだ。そのあたりの点で俺はキウイがけっこう好きだ。
キウイの表面には毛が生えていて、多分皮のまま食べたらヒドイことになるのだろうと予感させる。俺は幼少期に桃にかじりついて痛い目をみた記憶があるので毛のある果物を必要以上に恐れているフシがあるが、それはそれとしてキウイの見た目は凶悪だと思う。小川洋子の小説に少女が山積みのキウイに次々かじりついて顔を果汁まみれにし、その汁がまるで涙のようだった云々というシーンがあってたいへん文学的だったが、その文学性より先に心をとらえたのはオイオイキウイは剥いたほうがいいぜ…という思いだった。
キウイとキュウリは語感が似ているし、色も断面の雰囲気もなんとなく近い。だから子供の頃はイマイチ区別が曖昧で、キュウリが育ったらキウイになるとか、あるいはその逆であるとか、そんなことを思っていたような気がする。頭の中にあった表記もたぶんキューイとかキュウイとかそんなものだったと思う。実際の発音もそんなものだから仕方がないのかもしれない。
先日ツイッターでこの記事が流れてきて読み、ずっと心に引っかかっていたので筆者さんが読まれることがあるかはわからないですが、一人の異性の立場から気になったことを書かせていただこうと思いました。
大きなお世話と思われるかもしれませんが、筆者さんを批判するつもりも、書かれてあることに対する怒りでも、男性批判でもありません。
>昔は女が憎くてたまらず(それなのに優しくされたくてたまらず)ネットで女叩きをしていた。
筆者さんをかつていじめた「女」や、「弱者男性」が「敵」とする「女」以外にも社会には女性が存在しています。
ネット上や現実世界で、女叩きをしている人が叩く女性は上記以外の女性であることが多いように思います。
自分が危害を加えられたわけではない、“ただ自分が憎い「女」”という性が当てはまる、叩いたところで自分に危害は及ばない、自分が傷つくことのない相手を選んでいませんか。
憎い「女」を叩くことで、「弱者男性」と近い立場にある女性(いじめを受けた、容姿に恵まれない、男性に危害を加えられたことがある、貧困でギリギリの生活をしている…)を傷つけているかもしれません。
(坊主憎けりゃ袈裟まで憎いのかもしれませんが)
「優しくされたい」「支え合う女」
とはどういうものを望んでいるのでしょうか。
自分と近い価値観を持っている相手と話をして、相手に自分を理解して欲しいのか。
お互いに尊重しあえるような相手と、支え合いながら生涯を共に生きていきたいのか。
自分にとって都合のいい、自分の心を癒してくれて、自分を認め受け入れて生活面でも性的にも望むことをしてくれるアイドルのような若くて可愛い美少女を求めているのか…
とありますが、
「恋愛」や「性欲」を一旦置いて、日常で関わる女性を「女」ではなく自分と同じさまざまな内面をもつ一人の人間として向かい合うことで、
また筆者さん自身が女性や社会に対する考え方や認識を少し変えてみることで
「結婚」はわからないですが、受け入れてくれる女性に出会えるかもしれません。
「おっさんが嫌がるおっさん」を女性は嫌がらないのでしょうか?と、疑問が湧きました。
「男が怖がる男」も怖いですが、「男を怖がる男(筆者さんや女叩きをする男性)」も
(私自身低身長なので性別問わず小学5年生以上なら襲われたら負けると思うので
>男同志の関係が築けていたなら、多分女なんてどうでもよくなる。
女を叩いてる時間、そのコミュミティだけは同性の強い肉体を持つ仲間がいるんだ。
「女叩き」が女性を叩く男性間の共通言語というか、コミュニケーションツールとなって、それをしている間は気持ちが繋がることができるんですよね。
「敵」を攻撃することで繋がる関係じゃなくて、もっと前向きで明るい関係を、同性とも作れたほうが筆者さんの気持ちにも将来にも良いような気がします。
>男は怖いが男を怖いと言ってはいけない気がした
男が怖い男性はたくさんいると思うので、現実で言うのは相手を選ぶと思いますが、ネットやSNSで誰かを攻撃するためではなく、自分や自分と同じ気持ちを持っているかもしれない他人のために、素直な気持ちや考えたことを吐露することはどんどんしたらいいのではないでしょうか。
憎しみを、他人を攻撃する原動力にするのではなく、自分を含めた将来の社会のために使えたらいいなと思います。
余計なお世話ついでに、本読みませんか?
本の世界は負け犬(この言葉は好きじゃないけれど)のために書かれたものや、
世間の言うところの負け犬が書いた本が古今東西山のようにあります。
文学なんてなんの役にもたたない、と思われるかもしれませんが、自分と同じようなことで悩みながら生きてきた人を世界中の様々な時代に見つけることができるかもしれませんし、自分以外の人間の視点で世界を見ることができます。
それによって今までとは違う価値観が生まれるかもしれないし、少しでも筆者さんが生きてゆく力となるかもしれません。
差し出がましいのですが少しだけ筆者さんに私が勧めたい本を…
・整形前夜(穂村弘)
・蚊がいる(穂村弘)
・もうおうちへかえりましょう(穂村弘)
・プリズン・ブック・クラブ コリンズ・ベイ刑務所読書会の一年
(アンウォームズリー)
・見える光、見えない光(朝永振一郎)
長々とすみません。
小川洋子さんの「妊娠カレンダー」を読んだ。妊婦の姉を見つめる妹の心情に、なんとなく共感してしまった。
新しい生命の誕生は幸福なことだというのが一般的な意見だと思う。しかし、お腹がまるく膨らんだ女の人を見たとき、私は幸せよりなにより、うっすらとした恐怖を感じてしまう。あのなかに、あの女の人ではない誰かもうひとりがいるのだ。それも、まだ未完成の誰かが。
よく、自分が妊婦になったときのことを想像する。うっすらとした恐怖はより鮮明になる。自分の中で自分じゃないものが息づいていて、そのいのちを作るのも壊すのも自分、と見せかけて実はそんなことはない。自分の手では決してどうこうできないのに、自分の体の中に「それ」はいる。宿っている。人間になるかもしれないし、ならないかもしれない。それを私は操れないのに。
「それ」は、赤ちゃん、というより、胎児だ。胎児、という言葉を聞くとき、私はその言葉と人間とをうまく結びつけることができない。胎児のイメージに近いのは、生卵だ。ぬるぬるしていて、すぐに潰れてしまいそうなところとか。
胎内のいのちのかたちを、うまく想像できない。そういう感覚は、「妊娠カレンダー」のなかで、妹が姉の赤ちゃんを「染色体」と考えていたのとすこし似ていると思う。
こんなことを考えるのは罰当たりなことなのかもしれない。私はいのちを正しくいのちとして認識できていないのかもしれない。想像ではなく本当に、私の胎内にいのちが宿ったとしたら、考えも変わるのだろうか。胎児に怯える自分の姿しか、想像できないのだけれど。
話は変わるが、新しい生命の誕生をまっすぐ幸福だと言えない理由は他にもある。
そのなかのひとつが、
「生まれる側は何一つとして、選べないまま生まれてくるから」だ。
私は、私を親に持ってしまった子どもがとても可哀想だと感じる。もちろん愛すると思う(さっきまで怖い奇妙だと言っておきながらなんという手のひら返しだろう。でも多分、そうだと思う)。一生懸命育てると思う。でも悲しいかな、どうしたって「向いてない」のだ。きっと上手にできない。もしかするとどこかで歪んでしまうかもしれない。その歪みって、いつかその子が直したいって思ったって簡単には直せない歪みだ。私に悪気がなくても、その子の一生は台無しになるかもしれないのだ。その子はただ、生まれてきただけなのに。
生まれることは幸福であると、そう子どもに思わせるような育て方を私は出来るのか?
そんなことを、よく考える。
現在の私は独身だし、相手すらいない。…というとなんだか結婚や出産に否定的なように見えるかもしれないが、別にそういうわけでもないのだ。友だちが幸せそうにしてるのは嬉しい。ただ今の感覚も嘘にせず、忘れずに残しておきたいと思った。だから書きました。読み返すかもしれないし、もう二度と読まないかもしれない。