はてなキーワード: 絶叫マシンとは
動物園とか水族館とか美術館ってただ見るだけ。たまに動物と触れ合えるとかあるけど別に触れ合う必要ないし。
スポーツ観戦だってただ見てるだけ。観客参戦!みたいなイベントがあるなら面白いのにそういうのないし。
遊園地だったら絶叫マシン乗ったり、色んな場所を探検していて別世界が体験できる。
東京に行く理由の100%がディズニーだし、大阪に行く理由の100%がUSJだし。
関東民だけじゃなく全国民が、ディズニー以外行く意味が無いって思ってるしUSJも同じ。
コロナ前まで全国民がゴールデンウイークにディズニーとUSJしか行かないくらいだったし。
というかゴールデンウイークにディズニーかUSJに行かないのはもう非国民レベル。
ディズニーとUSJ以外は何も面白くもなく、ただ見てるだけで何も面白くないからみんな行かない。
ああ、富士急ハイランドがあったけどあれ、山の中だし。
わざわざ山にまで行きたがる人なんていないし、世界で一番人気のディズニーとUSJしか行かない。
世界で一番人気の観光施設ディズニーとUSJは、そりゃ世界中から来るよな。
東京ディズニーランドは全世界で一番人気で最強のテーマパークとして不動の一位。
ユニバーサルスタジオジャパンは全世界で二番目に人気のテーマパークで不動の二位。
日本で誕生した純国産のディズニーやUSJはそりゃ人気になると思う。
アメリカ人も日本人が作ったミッキーマウスを永遠に褒めたたえるだろうなぁ。
武蔵大学北村紗衣先生のディストピア文学の読み方が話題になっている。「ディストピア文学を自分の住んでいる日本に結び付けないのは問題」が話題になるのも当然で、数多くの専門家が北村紗衣先生の教えに反しているためである。
フィクションに限っては、人はユートピアよりもディストピアが好きだ。その心理は、ホラー小説や絶叫マシンを楽しむ心理に似ているのかもしれない。エンタテイメントとして「死」を疑似体験することで、私たちは命の価値を噛みしめ、平凡な日常の輝きを見つめ直すことができる。それと同じメカニズムで、「お話」としてのディストピアに浸ることによって、自分が身を置いている現実の良いところを再確認し、フィクションのディストピアが未来の現実にならないようにするには何を心がけるべきなのかと考える機会を得る。(書評 ディストピア・フィクション論…円堂都司昭著)
自分が今いる良いところの再確認(「日本はディストピア作品みたいになってない(これからもならないようにしよう)」)は、ディストピア作品が自分のいる場所を描いているとして読むことの真逆である。
「こうなったら嫌だな」とは思いつつも、現実感はありませんでした。ただヒトラーやスターリン下の世界では、こういうことが起こり得るのかなとは思いましたが。(社会人になって1984年を読んだ感想)
フランスの作家による新たなディストピア小説の出現だ。(略)終盤で一度ならぬ“どんでん返し”がある。本作はある種、現在のアメリカ、あるいはアメリカに象徴される利潤追求第一の物質的競争社会に対する、シビアな警告と挑戦状ともいえるだろう。(『透明性』/マルク・デュガン 書評)
(小川洋子著)『密やかな結晶』(英題The Memory Police、スティーブン・スナイダーさん訳)も「神話のような響きがあり、寓話(ぐうわ)でも、ディストピアでもある」と評された。帽子、リボン、小鳥、様々なものが消滅していく島で、秘密警察が消滅が滞りなく進むよう監視の目を光らせる物語だ。
日本では1994年に刊行された作品だが、選考委員は「何年も前に書かれていながら、あまりにも現代的で目を見張らされた」と驚きを口にした。米トランプ政権下などでフェイクニュースが横行して真実が失われ、コロナ禍で人々が集まる様々な活動が控えられる現実が作品世界に重なった。(興野優平)=朝日新聞2020年9月2日掲載(ブッカー国際賞、「ディストピア」がキーワード 小川洋子「密やかな結晶」も最終候補)
イギリスの文学賞選考委員であるが、ディストピア作品をアメリカと関連付けている。
身も蓋(ふた)もない本音で支持を集めるトランプを見て個人的に想起したのは<3>庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』(新潮文庫・497円)だった。(略)「感性」がつぶしにかかる戦後民主主義ひいては人間の文明という「知的フィクション」を守るために薫くんは戦っているのである。だが勝ち目は見えず、敗北すなわちディストピアの到来が覚悟されて終わる。「知的フィクション」に、たとえば「ポリティカル・コレクトネス」(差別や偏見を含まない言葉遣い)などを代入すれば、トランプ危機との近しさが見えるだろう。 (ディストピアの予感)
日本を舞台としたディストピア作品をアメリカと結び付けている。
果たして今後、世界はどうなっていくのか。世界情勢とともにディストピア小説の動向を追ってみると、新たな発見があるのではないでしょうか。(【ディストピアとは?】「監視社会」や「行動の制限」などの“あるある”から徹底解説。)
ディストピア作品を世界情勢に結び付ければ発見があると書いている。
トランプ氏は、メキシコ国境の壁、難民やイスラム圏からの入国制限など過激な政策を進めているが、「独裁者を彷彿(ほうふつ)とさせる姿がこうした小説を連想させるのかもしれません」と山口さんは推測する。(好調ディストピア小説 トランプ政権誕生で脚光!? 小松左京さん「アメリカの壁」も電子書籍で)
文芸春秋では「小松さんはSF作家であると同時に優れた文明史家でもある。小松さんの鋭い洞察に触れることで、米国でいま何が起きているのか考える契機になるのでは」と話す。(同上)
批評家の佐々木敦さんは「トランプ氏の存在自体が戯画的。以前は考えられなかったようなことが起こっている」と指摘。「現実がフィクションを超えてしまった。今を知るための手がかりとしてディストピア小説が読まれているのでないか」とみている。(同上)
(北村紗衣先生の教えでは、間違った解釈や浅薄な解釈となる)日本以外に結び付けるというディストピア作品の解釈は、学生だけではなく、書評の専門家にも多く蔓延していることが実例で明らかになった。「アメリカはディストピアだ」と言っておけばよいといった間違いで浅薄な解釈が、日本のみならず、イギリスの文学賞選考委員にまで広がっていることは、驚愕すべき事実である。数々の専門家も間違えている、「ディストピア作品を新しく、深く解釈するために、自国に結び付けることを常にしなければならない」というディストピア作品解釈の素晴らしい方法を公にされた武蔵大学と北村紗衣先生に感謝し、世界中の人にぜひとも広めてほしい。
たとえば遊園地に行ったとき絶叫マシンに乗るかどうかは個人の自由だ。SNSで不快なユーザーの発信を受け取らないようにするのも自由だし、嫌いなテレビ番組を見ないのも自由だ。
嫌なものは、それが法律で義務化されていたり、それをしないことで他者の権利を侵害するのでない限り、しない権利がある。
政治だって同じだ。一定数の人は日本の政治には辟易としている。
国会の会議やマスコミの報道では連日、政策の内容と何ら関係のない政権批判が繰り返されている(これ自体が国民の知る権利を侵害していると思う)。
いい年こいた大人同士が一般企業の会議や取引であればまず相手にされないような幼稚な言動の応酬をしている様を見るのは、気分を害する人がいるのも当然である。
そんなものを真剣にフォローするくらいならば、趣味や仕事に熱を入れようと思うのは自然であるし、当然認められるべきことである。
政治に無関心でいることは当然認められる権利であって、そうすることによって当人が不利益を被ることはあってはならない。よく、
などと嘯く連中がいるが、見当違いも甚だしい。これは「税金から給与を貰っている人は、国民が承認したこと以外に金を費やしてはいけない」というくらい滅茶苦茶な理屈だ。
もう30年も前の話だが、子供のころ、家の近所に「国見ランド」という遊園地があった。
ジェットコースターも無いような小さな遊園地だが、小学生のころだったか、親に連れられて1回行った記憶がある。
山の斜面を利用して作られた高低差のある遊園地で、山に穴をあけて作られたトンネルのようなお化け屋敷が怖かった。
特に派手なお化けは出ないのだが、出口の明かりが見える場所でいきなり床が振動するのがビックリ要素だった。
その廃墟に一度入った事がある。
国見ランドの裏手の山に仏舎利塔があり、ちょっとした散策ができる道があったのだ。
ドラえもんに出て来る学校の裏山というのはあんな感じのサイズだと思う。
で、仏舎利塔から山道を散策していたら、期せずして国見ランドの裏の頂上にでてしまい、そこのフェンスに人が通れる隙間があったので、何となく入った。
廃墟になった遊園地は何もかも錆びていて、コンクリも荒んでいた。
大抵の遊具はそのままだったが、お化け屋敷の入口は、流石に危ないと判断されたのか土砂で埋められていた。
廃墟というのは危険がいっぱいなものだが、特に危なかったのは、ゴーカートのコースだった。
山の斜面を利用して作れていたので、ゴーカートのコースは山腹から空中に突き出すように広がる大きなプレートの上にあり、
そのプレートにはところどころ、プラスチックの採光窓のようになっている床があったのだが、それは廃墟になってバリバリに割れていた。
それが、特に柵とかブロックとかでの目印もないまま地面の延長にあるのだ。
覗き込むと、10mかそこら下の枯れたプールの底が見えた。
一人でビビりだったから気づけたが、もし友達と来てはしゃぎ回ってたら、気づかずに落ちて死んだ可能性があるなと思った。
ここで浮ついた気分に氷水だったからかは憶えてないが、少し慎重になって、できるだけ自然の地面である斜面を歩いて、一番下まで降りた。
振り返ってみてちょっとぞっとした。
ゴーカートのコースからスケートリンクに降りる道は、向かって右手の斜面と、向かって左手の鉄の階段があったのだが、階段の方は上から見ると普通だったが、下から見たら支柱が崩れ落ちてて支えが無い状態だった。
斜面を選んでよかった。
スケートリンクのある辺りが国見ランドの一番下で、お化け屋敷の入口やら、ロケットみたいな小さな絶叫マシンやらがあったが、それ以外には取り立てて何もなかったように思う。
どうやって帰ったのかは覚えていないが、正門を乗り越えて国見駅の方から帰ったか、また上りなおして仏舎利塔の方から帰ったのだろう。
今、その跡地は山の傾斜を利用して作られた広いマンションになっている。
自分が侵入したその日は、国見ランドが閉園してからおそらく2,3年といったところではないかと思うが、
建造物というのは堅牢に見えても、人の手入れがなくなるとあっという間に脆く使い物にならなくなってしまうのだと、実感した日だった。
けっこう急に有給とることになったのである。だが、絶叫マシン好きのおっさんに付き合ってくれる人がいない。
悩んだ末、1人で行くことにしたのは、シングルライダーがあるというのを、結構最近知ったからである。
しかし、自分にもデートで「俺は怖いから乗れない」と言えない状況に見舞われるような、ある意味で幸運な時間があったのである。
で、乗ってみれば案外大したことないどころか、案外乗った後爽快だったのである。
考えてみれば、あんなものは、ちゃんと本当の危険がないようにプロが設計して、これから何がおこって、何分で終わるか把握したうえで乗るのである。
そんな危険は危険ではない。人生には、もっと恐ろしいことがいくらでもあることを、人は年を重ねるごとに知るのである。
しかし、そうなったときには、一緒に乗ってくれる人がいなくなっていた。
まあ、そんな理屈はどうでもいい。
車は持っていないので、高速バスで行くことにする。
富士急にはアフタヌーンパスというチケットがあり、午後1時から入ると1900円ほど安い。
まあ、朝早くから出かけて、万一1人で居たたまれない時間が長引いてもつらそうなので、10時過ぎにバスタ新宿をでるバスに乗り、午後から入ることにした。
最初に目指したのはキング・オブ・コースターこと「フジヤマ」である。
シングルライダーは、有料の「搭乗優先券」と同じ入り口から入るらしい。
つまり、60分待ちの、友達同士や恋人同士で仲良くウキウキしながら順番をまっている人たちのすぐわきを通って乗り場に向かうことになる。
「なに、あのおっさん1人? いやだぁ」とひそひそ話でもされたらいやだなあ、と思ったが、そこは毅然と通り過ぎれば大丈夫だった。
だいたい、アンタが世間を気にするほどには、世間はアンタを気にしていない。
内心はともかく、外見上はみんな興味ないのである。
乗り場近くにたどり着くと、おお! 先着のシングルライダー仲間がいるではないか!!
これは心強い。
おひとりさまの何がつらいって、自分1人が「おひとりさま」で耐え忍んでいて、世間のみんなはすべて二人以上で楽しく過ごしているのではないか?という不安がつらいのだ。
自分のような「おひとりさま」な同志が他にもいるのだという事実ほど、心強いことはない。
つまり、三人組や五人組が来たとき、あいた一席に同乗させてもらうのである。
しがたって、延々と複数人グループがくるとなかなか乗れず、「一般列より必ず早く乗れることを保証するものではない」旨の注意書きがある。
いつ席があくのか?という待つ感覚は、列がだんだん前に進むのは違うスリルがある。
突然、「はいどうぞ」と言われるわけだ。
案内されたのは、女子大生? 3人組と同乗する組み合わせになった。
隣になることになったお嬢さんにはお気の毒だが、まあ、これも運とおもっておくれ。
まあ、おっさんなどいないがごとく、ずっと3人できゃっきゃはしゃいでいてくれたのはありがたかったが。
なぜか自分と女子大生?1人が前、後ろにあとの二人が乗ることになったのだが、フジヤマの長いのぼりの間から異様にテンションが高く、ひとたびファーストドロップを落ち始めてから最後まで、ものすごい悲鳴だった。
停車してから、自分の隣にいた子が「ちょっとぉ、あんたら凄い声じゃんよぉ」と振り返っていたので、思わず笑ったら、「ほら、笑ってるじゃんよぉ」と言われてしまい、「いや、いい効果音でしたよ」といったら何となく喜んでくれたので良かった。よし。
一つ目が成功すれば、あとはもうなんの躊躇もなくなり、フジヤマ2回にええじゃないか2回、途中、「富士飛行社」という富士山上空を遊覧飛行するシアター型のアトラクションなどもはさみつつ、乗り倒してきた。
待ち時間は長くても15分程度。
一度など、乗り場についたらすぐ3人組がきて、心の準備もそこそこにええじゃないかに乗せられてしまった。
が、しかし。
富士急のいわゆる「4大コースター」のうち、シングルライダーが適応されているのは「フジヤマ」と「ええじゃないか」だけなのである。
しかしさすがに、みんなワクワクしてまっている列に一人で並ぶのは、心の負担が大きそうで踏み出せない。
というわけで、これからも、折に触れて富士急には出かけそうな気がしている。
ゆっくり家をでて、午後から入るという選択も悪くなかったようだ。
さすがに一日中コースター乗り続けると、体に変調をきたしそうでもあるし。
だから、願わくば、4大コースターすべてにシングルライダーを適用してほしい。
いや、ド・ドドンパと高飛車は一両に乗れる人数が少ないので、そこにシングルライダー適用したくないという富士急側の理屈はわかるのだが。
車の運転ってめちゃくちゃ怖くないですか?
だって、あんなデカイ鉄の塊を内部からコントロールして、しかもあんなスピードで。
しかも、自分のテクニックだけじゃどうにもならない事故とか、あるわけじゃないですか。急な飛び出しとか。逆走とか。いやーこわい。こわすぎる。
交通事故の死亡件数とかも、毎年すごいじゃないですか。もうはっきりデータとして出てますよね、危険度が。
俺、それがほんとに謎で。
なんか、車が無いと生活出来ない場所ってあるらしいじゃないですか。
俺、そんな場所に出張になったらどうしたらいいんすかね....
なんでみんな運転怖くないんですか?
たとえば俺の知り合いに、絶叫マシンに乗れないやつがいるんですよ。
絶叫マシン、事故なんて起きないじゃん!体感的にびびらせてくるだけじゃん!
お化け屋敷NGっていうやつもいますよね。でも、そいつの趣味、ドライブだったりするんですよ。
ゴキブリ退治できないやつ、いますよね。でもそいつ、週末に峠を攻めたりしてるんすよ。
恐怖心は主観的なもんだから、こんなの比べるだけナンセンスだっていうのは、理屈としてはわかりますよ?
それにしても!
「運転はこわくない」っていう社会のコンセンサス、ちょっと強固過ぎると思いません?
運転はめちゃくちゃ怖いです!みなさん、目を覚まして下さい!
疲れた。一つ一つなら許容できたことが、積み重なりすぎた。
音ゲーという性質上、声の無いアイドルがメインで活躍できないのは初めからわかっていた。
収益の大部分を占めるガシャの目玉SSRは人気のある子達で回していかなければいけないのもわかっていた。
この二点についてはどうしようもない。だから今後、それ以外の方法で声の無いアイドル達も輝ける何かを提供してくれるんじゃないかと思っていた。
ドレスショップの告知が出た時は、ついに来たと思った。色んな子に新しい衣装が着せられる日を夢見た。
ところが蓋を開けてみれば、既に専用衣装がある子達への限定衣装である。
かなり落胆した。ドレスショップがこの方針で衣装を追加していく限り、声の付いている子達にのみ専用衣装がどんどん増え続ける。
声のある子と無い子の間に付いてしまった大きな差を埋める施策を用意してくれたと思ったら、更に広げるものだとは。
多分、現状のアイドル格差については運営も何とかしたいと思っていて、
ゲームが軌道に乗ったら少しずつ対策を打ち出すのではないかなぁという楽観的すぎる希望は、その時打ち砕かれた。
それだけだったらここまで悲観的にならずに済んだ。
今後共通衣装も追加すると公式に明言されていたし、何も「デレステの」ユニット衣装だけが追加されていくとも限らない。
そんな折に立て続けに襲ってきたのが「特定の声無しアイドルへのコミュ追加」「美玲へのボイス付与」だ。
動きの無かったアイドルにコミュが追加されるのは一見良いことのように見えるが、
コミュのみが追加されたアイドルというのは「今後もしばらく新カードを追加する予定はありません」と言われたようなものだ。
モバマスからカード絵を流用できるRやSRすら追加する手間が惜しまれたということだ。
それから、美玲へのボイス付与。これは単体で見れば非常に嬉しい出来事だった。ただ、美玲にボイスが付いたことで決定的になったことがある。
今までは輝子SSRの背景にボイス無しアイドルである美玲が居たが、美玲にボイスが付いたことによって背景出演アイドルの声付き率は100%になった。
あれだけ背景出演アイドルが居て声の付いていない子は一人も写っていない。
ボイス収録の必要が無い背景への出演が何故こんなに声付きアイドルに偏る?
いや、美玲に声が無かった頃はまだギリギリ「偏り」と呼べた。100%と0%に分けられてしまったら、それはもう偏りですら無い。
薫ちゃんと仲の良い大人のアイドルといえばあいさんが居る。でも薫ちゃんのSSR背景に写っている保護者役アイドルは拓海と早苗さんだ。
響子と仲が良く、絶叫マシン好きという共通点がある沙紀が居る。でもジェットコースターを背景にした響子のSSRに一緒に写っているのは夕美と志希だ。
別に絶対にあいさんや沙紀を写せと言っているわけじゃない。アイドル達の間に新しい関係が増えていくのはいいことだ。
でも、あまりにも露骨すぎやしないか。これじゃまるで住んでいる世界が違う。
モバマスを元からやっているならアイドル間格差なんて慣れっこだろと言われることがあるし、それは実際にある。
本家モバマスだって未だに強SRどころかメダルSRすら貰っていないアイドルがいるのは本当にどうかと思う。
でも、モバマスは待っていればいずれ全員に強SRが行きわたる日が来ると思える。
たとえ五年以上経ってそれらをようやく一枚貰えるアイドルと常に最新コストのSRが貰えるようなアイドルが存在したって。
歩みの早さに違いはあれど全てのアイドルが一段一段階段を昇っていってるんだと思うことができる。
デレステは違う。声の有無というラインですっぱり区切られ、壁で隔たれたアイドルはいつまでもそこに留まり続けるイメージしか湧かない。
声の無いアイドル含め全員にクオリティの高い3Dモデルを用意してくれたことには感謝している。
ただ、上に書いた不満に加え、
・既存のMaster+譜面へのスライド追加および追加時のスライドの不具合の多さ
・GREATでコンボが切れる癖にメリットがあまり大きくない新スキルの追加
・MISSをPERFECTにできる新スキルの追加
・ドレスショップの衣装のクオリティの低さ(イラスト再現度の低さ)
・月末限定にCuインフレスキルを追加し、同時に今まで全属性のみだったパレード課題曲をCuにして開催という露骨さ
など、地味に萎える要素が連続で追加されて運営への期待値が下がり切ってしまった。
一度期待値が下がると渋すぎる上に副産物も天井も無いガシャや声付きアイドルの中でも偏りのありすぎる出番、
一向に直る気配のないフリック抜けなどについても気になりだし、ゲームをしていてもマイナスの感情ばかり湧いてくる有様だ。
アイドル達の事は一人残らず好きなのに。アイドルの歌に合わせて画面を叩くのは楽しいはずなのに。
離れるといっても石を貯める為にログインだけは続けると思う。
ここまで不満を書きなぐってすっぱり切れない自分が情けないが、
欠かさず上位SR取得まで頑張っていたイベントにも参加しなくなり、そこそこしていた課金もしなくなると
日に日にゲームへの執着が薄れだしているのを感じるので、そのうち自然消滅的に離れられるのではないかと期待している。
もちろんデレステの運営が変わってくれればそれが一番良いのだが。
今はもうデレステに期待を持つだけの気力が残っていない。
飛行機が嫌い。
中学生の頃まで家族旅行で海外によく行っていて、そのたびに飛行機に乗っていたけれど、今じゃ考えられない。
特に怖かった記憶はないのに、ほんの1年前に10年ぶりくらいに乗ったら怖くて怖くて泣きそうで死ぬかと思った。
少し揺れるだけでも体が緊張で強張り、常にジェットコースターに乗っている気分だった。もちろん絶叫マシンは大嫌い。離陸も怖い。
高速道路が嫌い。
山形に住んでいて、実家が宮城なので、帰省したり買い物に行くときは高速道路を使わないと行けない。
仙山線はしょっちゅう止まるから使わない。一度冬場に乗って、山寺駅で雪により止まった時は大変な思いをした。
高速バスは安全運転しているか確認したいから一番前の席にしか座れない。座れないときは次のバスまで待つ。
でも高速道路は怖い。高速道路を運転できないからいつも旦那に連れて行って貰うんだが、速度計は見れない。
トラックを追い越したり追い越されたりすると心臓がドキドキする。事故を想像してしまう。
軽自動車で高速道路運転してる人は自殺願望が強いのかなと思う。
お金溜まったら丈夫な車が欲しい。ジープとかベンツとか。半端な知識しかないから次買うときは車好きな友人にアドバイス貰おう。
嫌い嫌いというけれど、できればこの苦手意識なくしたい。
特に飛行機が嫌いだと旅行いけない。高速道路の嫌いさは我慢できるレベルだけれど、飛行機は我慢できない。
飛行機の離陸音を聞いただけで具合悪くなるのはせめてやめてほしいんだが。
生きにくい。
お前はかなり俺だ。
要は感情を発露させることを世界から承認されてないという感覚を持ってるんだよな。
そして世の中の人はけっこう感情の発露が得意で、すごくうらやましい。
俺もこれで苦闘中だけど、かなり難しいなあと思う。
一つは「無力感」に原因があるとも思ってる。自分は世界に流されるだけだという。だから怒りが湧いてこない。
一方、感情豊かな人は、例え流されていてもそうは思っていない。自分が人生の主導権を握ってると思っている。
この感覚を得るにはどうするか、それが俺の挑戦していること。
一つのカギは「恐怖感」にあると思う。臆病すぎることが世間に流されてる感の原因の一つではないか。
これを解消するために、色々工夫してトレーニングしてる(絶叫マシン克服とか)。
動物って、恐怖の量が適度だと、興奮して闘いモードか逃げるモードに入るんだけど、恐怖の量が一定を越えると突然おとなしくなってされるがままになってしまう。
肉食動物に食われるとき、食われる動物は驚くほどおとなしくなる。
http://news.goo.ne.jp/article/php/life/php-20090623-01.html
そこで何が起きたか。生徒の約半数は、事前にレクチャーしたとおりに、自分でスプレーカバーを外し脱出に成功した。しかし残りの半数近くの生徒は、ひっくり返っても止まったままで動かない。「どうしたんだろう?」と思い、水中眼鏡で海のなかを見ると、パドル(水を漕ぐ道具)を手にもったままじっとしている。つまり、ひっくり返ったその形のまま、止まっているのだ。通常予想される、「脱出しなきゃ」とか「どうしよう」とか、そういった動揺すらもない。何の動きもそこには見えない。おそらく彼らの頭のなかは思考停止状態で、真っ白になっているのだろう。完全にフリーズしているのだ。
↑ここで野口は、生命の危機でおとなしくなってしまった子を「生命力がない」と言っているが、端的に言えば臆病すぎて恐怖の量が基準値を超えたということだろう。肉食動物に食われる瞬間と同じになっている。
そしてそのあとの理屈バカに限って生命力がないという見方は慧眼だと思う。
おそらく理屈とは、人間が恐怖から逃れるために編み出した新しい武器なのだ。つまり理屈っぽい人間ほど臆病だ。
これは人類スケールではよい影響をもたらしたろう。そしてたくさんの恐怖を克服してきた。
ところが個人レベルでは必ずしもそうではないのだ。
俺は理屈バカだ。そして極度の臆病者だ。俺の理屈は人類に何も貢献しない。
だったら、だったら俺は自分の人生だけを考えて、過剰な理屈を放棄するべきなんだ。
俺はもうそうやって生きることに決めた。
ただ、理屈を放棄することがどんなに難しいか。
ブルース・リーの言う「Don't think! Feel!」。
目指すはそこなんだと気がついた。