はてなキーワード: ランダとは
これほんとにそれ
ランダマイザの A と B に入れてるのが
男 男
女 男
男 女
これになってるから2/3とかでるのあたりまえ
女 男
これは片方が男の場合 じゃねえんだよ
なんだよ
なんでこんなことがわかんねえかなあ
「片方が男のとき」
だから
B が男の場合 A を不確定要素にするなら
だから
A B
男 男
女 男
男 女
男 男
こうなるんだよ
けっきょく二分の一じゃねえか
A男 B男
A男 B女
A女 B男
A男 B男
A女 B女
が存在しないように設定されてるんだよ
この前提が覆るんだよ
それを含んでも
A女 B女
A女 B女
が追加されるわけだから結局3/6ってわけだ
そうでなきゃ片方が男って因子が反映できないだろ
たたた倒せたー!
初バトルから何度手持ちの中で組み替えても勝てなくて一年以上放置してたけどやっと倒せたー!
初見時、主人公が80レベル、仲間(変換が面倒だからこれで書くよ)が60後半。
仲間はどれも一撃死。主人公が耐性無視の防御力重視防具でギリギリ残る。そして他の技でオチる。
このゲームの死亡はベンチに落ちる仕様だから、普通の復活手順は
で2ターンかかるんだけど仲間が一撃死するんだからジリ貧どころかマッハ貧。
クラウ・ソラスに予備動作もクールタイムも無く毎ターン撃ってくるとわかったときは絶望した…
なんとか序盤を耐え切り攻勢できるか?というところに飛んでくる全体魅了!一気にパターンが崩れて壊滅する。
仲間の魅了とかの耐性ってわかりづらく結局主人公に耐性持たせて頑張るんだけど主人公の負担がマッハすぎるし今回攻略するまで無効アクセサリーがなかったから根性で1/3ぐらい魅了係のアモンを削っても耐性を貫通して乙る。
なんとかデバフをかけきって全員がギリギリ耐えられるようになったかと思えば
静寂の祈り→ラスタソウル→クラウ・ソラスでいきなり攻撃力4段強化クラウ・ソラスが飛んでくる。乙る。
デバフは必須として序盤を超えるにはバフなしでクラウ・ソラスを耐える必要がありさらにバフを積む必要がある。もちろん軽減したとはいえ大ダメージの回復も必要。
殴る暇ある!?
(クリア後に攻略を見たらバフデバフは3回に抑えるのではなく2回に抑えるべきだそうで。忘れてたよー)
極悪単体攻撃が特徴なボス戦だけど、対策としてヘイト管理みたいなタンク戦術ができない。
多分隊列の概念もないと思うから4人等しく大ダメージがふってくる。
しかも耐性無視だから、今までのようにレベルが低めでも役割や愛着があってつれまわしてる仲間を使うとかはできない。
道中すべて法則とか考えず適当に合体させまくって進行した結果か、強い味方を図鑑から探してみても、なんかぜんぜんブフ系覚えてる高レベル悪魔がいないの!
まあ技はソースでなんとでもなるんだけど、でもデフォで活躍できそうな仲間が全然居ない!
いやあるけど、普通のRPGに比べたら仲間はまったく成長しない。
クラウ・ソラスを耐えるにはステの体が50後半は欲しいなと見回してもそんな仲間は居ない。
かといって育てるのもかなり時間がかかるし上昇ステってランダムだよね?辛い。
今までちょっと苦労したボスは耐性を見比べてコイツで行けそうって体質型採用してたんだけど、今回は体目当てで募集したらだれも基準をクリアしてないの!辛い!
適当合体のツケで御霊もそろってないしだいだいそれで体をドーピングするのもかなりリソースが必要で面倒!
ゴリ押ししようと今まであまり使ってこなかった特殊合体や御霊合体をしようとしたら80レベルという終盤特有の費用のインフレがひどい。
普通に10万単位でマッカが飛んでいくのに収入は1戦1000ちょっと。やろうと思えば複数セーブできるとはいえ試行錯誤であれもつくってこれもつくってはやりにくい!
アクセサリー素材集め中にマッカビームを食らったときは本気でやめようと思った。(カンギテンだから宵越し銭金で50%だけどな!)
あとその稼ぎに付随して主人公のレベルが上がっちゃう。工夫で勝ちたいのに結果的にレベリングで勝てた感じになって辛い。
打撃耐性<炎無効以上 を目安にメギドフレイムを無視できるように。メギドラオン?あきらめよう!
おめめピカピカになった人。
久々にプレイしたらアレックスの感動的なムービーにデモニカスーツがダサくてダメだった。やってると慣れてくるんだけどね、耐性薄れてた。
剣 なんでも。使わない
ドラゴンベストとリングの素材集めが辛かった…シルキーどこに出るのよ…ファフニールもドロップ率渋い!
打撃吸収・炎反射
不屈の闘志(未使用)
メギドラ
体目当てで採用したら技がぼろぼろだった。
ラスタキャンディ目当てにヴィヴィアソースを使ったらついでについてきたマハブフーラがメイン火力になりました。
打撃耐性・炎反射
メギドラ
セイオウボソースでメデアラハンと招来の舞踏を継承させたデバフと回復役。幸運にランダマイザがブーストでついていたので隙があればデバフも。
毎ターン全体全回復を打つのはゲーム性を否定しているようで嫌だったけど、そうも言ってられなかった。
打撃耐性・炎吸収
ランダマイザ
そしてなぜか持っているデバフ。
スキルの追加無しのオリジナルのままで通用した意外な仲間ナンバーワン。
ジオダインはお供のことしか考えてなかった対アレックスの唯一の有効打になりました。MVP
ねえよんなもん!
バフデバフをかけ終わったら全回復とマハブフーラ!CO-OPは大事!
主人公はアイテムの最速利用を利用して宝玉を投げ!MP回復を投げる!
ラスタソウルがきたらデカジャの石を投げる!投球制限など知るか!右腕が壊れるまでアイテムを投げ続けろ!
とにかくアモンの効くかわからない魅了とメギドラオンの事故が怖いからアモン集中狙い!トールは殴る!
デバフのおかげでたまにクラウ・ソラスも外れるからアールマティもメギドラる!
流石に初見から10レベルも上げたら後攻全回復でメギドラオン込みでもセーフみたいで。
強敵が出るたび仲間がアイテムを使えたらもっと楽なのにねとよく思わされます。でもアイテム最速使用の仕様とトレードオフなら少し悩むかも。
そんなせわしない仲間のお世話係なママさん主人公は今後どうなるのか。
カオスルートの結末とは!?ラスボスの強さとは!?LやNルートでもアレックスと戦うのか!?周回するほどやる気があるのか!?
ツイート主さんの話の趣旨からは逸れるしアレはただの例でしかないというのは重々承知の上で、西洋風ファンタジーの文章に袈裟斬りっていう文字列は馴染まないなあと思いますね。
それは置いておいて。
言葉というものの流動性は常々言われているところではありますが、穿った見方だの徐にだの、伝わればそれでいい、誤用も広まればいずれ辞書に載るんだし、という見解もありますよね。
私もどちらかと言えばその立場なんですが、しかしTPOというか、厳密に書かねばならない文章もあるじゃないですか。
ここで袈裟斬りの話と繋がってくるわけですが、まあ単純に伝わればいいというものでもなく文章全体との調和や対比は考えるべきだと思っています。
やっぱり、ゴドネス王が魔術師ランダルクを宝剣ザスウェルトの一刀のもと袈裟斬りに斬り捨てた、とかなんか嫌なんですよ。
いやめちゃめちゃ適当な文なんですけど。
おれ自身がキモオタクなので、おなじキモオタクの性欲に対して嫌悪感があるんだよな
だから「お手軽チート・ハーレム!」みたいな雰囲気じゃなく、ハイファンタジーっぽかったり、世界設定に魅力を感じたりする作品を選んで読むんだけど、キャラクターを登場順に並べたら2〜3番目くらいに絶対美少女が出てくる
ダンジョンを孤独に探索する、みたいなことがあらすじに書いてあったのに、いつのまにかカジュアルに美少女が出てきていて、パーティを組むみたいな話になっている
たとえば未知の孤島に流れ着いたみたいな展開からスタートする話があったとして、島ではじめて出くわす他の人間はほぼ確実に美少女
ゾンビクライシスで必死こいて生きる中、偶然助け出した相手は当然美少女
モンスターに転生して森をウロウロしているとき、聞こえてきた悲鳴の主は美少女
俺は無人島でキモい男がキモい男と出会い、テンション下がるな〜と思いながらもなんやかんやで仲良くなったりしてほしいんだ
現代社会に突如現れたダンジョンに潜る中で、主人公だけが知ってしまった重大な秘密 その共有相手はキモい男でいいじゃん
結局キモい男が一番信頼できるし、一番気を遣わなくて済むじゃん
「キモい男みたいな内面の美少女と仲良くなり、男友達みたいな感じで雑に接しつつもなんやかんやで性処理もしてもらうようになる」
これキショすぎる
「キモい男と仲良くなり、打ち解けたところで下品な話もするようになって、モンスターの性器を切りとって一緒にオナホを作ってみる」
俺はそういう展開のほうがまだ受け入れられる
まあ、女を出すなとは言わん
初対面でいきなり容姿の描写をしまくって、その後も折に触れて「街を歩けば通行人が振り返る」みたいな描写を入れてくるのはマジで最悪
「クラスで15番目に可愛い」くらいのポジションの、普通の人間を出して欲しいんだよな
全然可愛くなかったら許せるんすよ俺は
小説、漫画なんかと違って、美少女を出すのに画力とかが必要ないんだよな
それで、主人公の周りの人間を全員美少女にしてるのはキモいし、なにより没入感が削がれる
主人公の才能がすごいから天才が集まってくる、みたいなのはまだわかる 必然性というか、少なくとも理屈づけがある
パーティメンバーが全員有能なのは許せても、全員美少女なのはマジで許せない
それは作者による世界への不当な介入だし、そういう要素が見えるとすべてが安くなる
【ワシントン=横堀裕也、船越翔】日米豪印4か国の協力枠組み「Quad(クアッド)」は、人工知能(AI)や半導体などの最先端技術分野での連携を強化する。台頭する中国に対抗し、民主主義など共通の価値観を持つ4か国が協力し、国際的な研究開発競争やルール形成を主導する狙いがある。今月13日、科学技術担当による初の閣僚級会合をオンラインで開き、連携に向けた議論を本格化させる。
【写真】台湾の離島「たった2日で砂浜が消えた」…中国船が採取
閣僚級会合は、米議会の独立委員会主催の国際会議の一環として開かれる。米国からはオースティン国防長官やジェイク・サリバン国家安全保障担当大統領補佐官、エリック・ランダー科学技術政策局長などが参加し、日本からは井上科学技術相が参加する予定だ。
会合では、競争力強化の方策を協議するとともに、先端技術の人権侵害などへの悪用を防ぐため、倫理面も含めた国際ルール形成に向けた議論も行う見通しだ。経済安全保障の観点から、機密情報の流出阻止や半導体の安定供給なども主要テーマとなる。
最先端技術は経済成長に直結し、防衛力の優劣も左右するため、各国間の開発競争が激しくなっている。バイデン米政権は今年3月には次世代コンピューターや通信技術、半導体などの開発支援に今後8年で1800億ドル(約20兆円)を投入する考えを打ち出した。
一方、中国は機密情報の安全なやりとりに必要な「量子暗号通信」の実証実験に成功するなど、次々と成果を上げている。さらに、中国当局が新疆ウイグル自治区の少数民族追跡のためにAIによる顔認証ネットワークを利用しているとして、米欧などが問題視している。
バイデン政権は同盟国の技術力を結集して開発競争に臨むとともに、自由や人権に配慮した形での国際的な規制を実現するべく、クアッドを軸に民主主義諸国との連携を深めていく考えだ。
◆Quad(クアッド)=日米豪印の民主主義の4か国で連携し、インド太平洋地域の法の支配などを推進する枠組み。Quadは「4」を意味する。
これは素晴らしい連携
せやなー。
最近のリズムマシン系だと、そういったドラムマシンから継承したスウィング機能、タイミングのランダマイズ遅延なんかは標準的についてるもんだしね。
近年の音楽ブーム的にも、特に海外のビート音楽隆盛に伴って、リズムのズレの魅力にスポットが当たっていた。ヒップホップのビートやそれを継承したチル・ローファイヒップホップもブレイクビーツにあえてズレ、人間味を出すことに拘っていたし、凄腕のドラマーはその機材的なズレをあえて再現することまでしていた。
きっとそういうのも機械的なビートの正確性はコンピュータに勝てないから、人間にできることは何か?正確性とは異なる快楽はないか?の模索の過程だったんだろうね。
でも音楽ソフトの進化は早いから、これから驚くようなビート、人間から出てこなかったリズムや音の発明なんかが出てくると思うわ。良い今のイタチごっこだね。
A Time of War 発売前(2009年6月3日付) CATALYST 社 battleblog のエントリ。備忘的に訳しておいたものだし、なにしろ10年以上前なので、和訳の精度には問題があるかも。しかし英語の原文が閲覧できない状態になっているので、原文と突合せてのチェックができない。どこかに原文が保存されていればぜひご教示願いたい。また、誤りなどのご指摘もあればよろしくお願いします。
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「A Time of War」 バトルテックRPGのジレンマ
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このRPGは、バトルテックシリーズの中では常に赤毛のままっこで、うまいことなじむ方法を見つけられたためしがない。バトルテックがもちろんちょっとばかり変わっているのは救いにならない。バトルテックは純然たるボードゲームではないし、純粋な卓上ミニチュアゲームでもないし、RPGでもない……だがそれら全ての要素は備えている。この点は、バトルテックをクールなものにすることに一役買っている。それに、バトルテックの25年間にわたる繁栄にも一役買っていると私は信じている。
しかしながら、プレイヤー達がしばしばもっとも強く求めるのは(少なくとも長年の、そう何年もの観察に基づいて言うのだが)、彼らの(ボードゲームの)キャンペーンにRPG的要素を付け加えることだ。完全なRPGスタイルのゲームをプレイするプレイヤーもいくらかはいるだろうか? 確かにいる。しかし、彼らは少数派だ。
じゃあ、そういう完全なRPGとしてプレイするプレイヤーだけでなく、RPGの要素を一部ひっこぬいてボードゲームのキャンペーンに付け加えたいというプレイヤーも満足させるようなRPGを作ってみろってことか?
これはジレンマであり、このゲームの3つの版を通して解けない問題だったのだ。
最初のRPG(1986年刊行)は RPGの方へ向かうための骨子程度のアバウトなもの(すくなくとも、その頃はそうだったのだ。ひどくクールだが、びっくりするほど短かった)で、大量のスペースを世界設定に関する資料に割いていた。
第2版(1991年刊行)はほぼ同じ道をたどった。つまりは「メックウォリアーキャラクター作成ルール」と、大量の設定資料だ。
第3版(1999年刊行)はがんばった。「メックウォリアー作成ルール」以上のものをめざしてルールに肉付けをし、どんなキャラクターもプレイできる多彩なRPGルールになった。いろいろなことについては正しく行われたんだが、この第3版もまたボールを落っことした。一番の問題は、バトルテックのボードゲームからかけ離れてしまったことだ。(私は個人的にこのルールブックのディベロップに参加した。その頃はそれが正しい編集方針に思えたのだが、後知恵で見れば、大いに間違ったルートだった)
「A Time of War: The BattleTech RPG」はこれらの問題を「修正」しようと試みている。それは第3版同様に多彩なRPGだ。強力なキャラクター作成システムを備え、特徴(trait)と技能(skill)の章にも大きく紙幅が割かれているので、どんなタイプのキャラクターでも作成できる。
しかし、第3版と違うのは、そこが戦争についての世界であるということを認識しており、そのように調整されている点だ。加えて、「A Time of War」は第1版や第2版のようにバトルテック・ボードゲームの不可欠な一部となっている。現行のバトルテック・ボードゲームのルールブック・シリーズと合わせると、この特徴はさらに顕著だ。
我々は今後出るボードゲームのルールブックについても、現行のシリーズに結び付け、できる限り簡単なプラグ・アンド・プレイが可能となるように大変な努力をしている。そんなわけで、「A Time of War」はこの分野においては最初の二つの版より優れたものになるのだ。
この版は、ボードゲームに直結する戦闘ルールと、タクティカルコンバットの両方を含んでいる。「バトルトループス」ボックスセットゲーム(1989年刊行)を覚えているプレイヤーにとっては、これは実質的にはバトルトループス2でもあると言えるだろう。
そしてもちろん、プレイヤー達がこの世界に飛び込むのを助ける設定資料集は大量にある。
かてて加えて、GMがプレイヤーを熱中させる面白いゲームを運営するのを助けるという点では、これまでよりもはるかに優れたツールを提供しているハズだ。その証拠にGMセクションを見てみよう。54ページもの長さがあり、私はその全体がGMの役に立てばいいなと思っている。
無論、究極的には、結果は諸君が遊んでみるまでわからない。それにはもう2、3ヶ月かかるだろう。海外での印刷と輸送にかかる時間は厄介なものだ。しかし、この本の制作全体をみれば、完成は近づいている。
ああ、それから最後に一言。フォーラムのどこかで見たが、なぜこの本のタイトルがボードゲームのコアルールブック(「Tactical Operation」や「Strategic Operation」など)とぜんぜん違うのか、と不思議がっているスレッドがあった。
ボードゲームの上級ルールブックとは毛色の違うタイトルにしたその理由は、“「A Time of War」はバトルテック・シリーズへの第2の入口だから”というものだ。たとえば、ボードゲームに興味のないRPGのプレイヤーがこのRPGを手に取れば、それは「もう一つのSF世界」への機会になるだろう。
ボードゲームのコアルールブック第1弾「Total Warfare」は、バトルテック・シリーズへの最初のエントリー・ポイントとなるべく、テーマに合った魅力的なタイトルをつけた。「A Time of War」(バトルテックでは以前にも何度も使われたフレーズだ)も、「Total Warfare」と対をなす魅力的なタイトルだ。そして、同じような雰囲気にフィットするが、より個人的な印象を与える――RPGという視点を反映しているのだ。
もし我々がオカシくなって、ボードゲームのコアルールブックにぴったり合わせた「上級RPGルール」をラインナップに加えることにしたなら、「上級ルールブック」のテーマに合わせて、この本を『Irregular Operations』とでも名づけただろうが。
ではまた次回!
ランダル
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以上。
カプコンのアクションゲームに胸を熱くさせ、任天堂で育った人間だ。
それでもまだまだ新作PVを見ては心ときめかせて、今はFF7Rを少しずつ進めている。
歳のせいか、リメイク版ではクラウドが可愛くて仕方ない。そんなゲーマーだ。
格闘ゲームを初めて触ったのは、ストリートファイター2だ。
幼少期、友達の家でわちゃわちゃ騒ぎながら対戦した。
波動拳を打つことができるTくんが猛威を振るったが、友達同士の対戦は無性に楽しかった。
負けるたびにコントローラーを交代して、みんなで打倒Tくんと、一丸となった。
キングオブファイターズ、ギルティギア、鉄拳やバーチャファイターなど、
ただ、どれもひとりで遊んだことはない。
友達の家や、ゲームセンター。あくまでも、その場で遊ぶだけの対戦ツールとしての楽しみ方だ。
だから、ひとりでうまくなるために一生懸命努力したことはなかった。
昔から勉強も、授業を聞いているだけでそれなりにテストの点は取れたから、
きっと、似たような感覚だったのかもしれない。
もちろん新作が出ると手を出して、オンラインで対戦したこともあったけれど、
画面の向こうの誰かの存在を感じることができず、
「昔遊んだ格闘ゲームとは、なんだか違うゲームだな」と首を傾げたりして、
それよりデビルメイクライでお手軽簡単なかっこいいコンボを試したり、
無双シリーズでバッタバッタとザコ敵を薙ぎ払うほうが、遥かに楽しくて、気持ちよかったのだ。
そんな折、『グランブルーファンタジーヴァーサス』という格闘ゲームが発売した。
ソシャゲのグラブルを題材にした、2D格闘ゲームだ。(ストリートファイター2みたいなやつだ)
格闘ゲームは自分にとって敷居の高いものだと思っていた私だが、
グランブルーファンタジーヴァーサス(以下GBVS)については、ちょっと手を出してみようかな、と思った。
理由は3点。
ひとつはネット上の付き合いのある友達が、何人かプレイすること。
近年はDiscordなどのボイチャ環境が整ってきたため、小学校の時のあの間隔を味わえるのではないか、と淡い期待を抱いたのだ。
これなら格ゲーの浅瀬をちゃぷちゃぷしていた自分でも、そこそこ戦いを楽しむことができるのではないだろうか。
3点目。これが大事だった。そもそもグラブルをやっていた自分にとって、
あのかわいいキャラを操ることができるのは、非常に楽しそうだったのだ。
ジータちゃんが最初から使えないことには憤慨したものの、それはじゅうぶん手を出すに足る理由だった。
プレイするたびにすぐ辞めるのが、いつもの私の格ゲーにおけるパターンだ。
今回もそうなるんだろうな、という予想が、どこかにあった。
ともあれ「またすぐ辞めてるw」と友達に冷やかされるのも、悔しいので、
続けるための努力はするべきだろう。
さて、始めるとなれば、キャラ選びだ。
これが大事であるということは、今まで数多くの格ゲーに挫折していた私は痛いほど知っている。
まるで永遠の伴侶を決めるかのように、慎重になるべきだった。
私はペルソナ4が大好きで、その格ゲーが出るということで、狂喜乱舞したことがある。
その際は、最愛の伴侶として千枝ちゃんを選んだ。千枝ちゃんと添い遂げようと思ったのだ。
けれど……私は、挫折した。
キャラ愛だけではどうしようもならない壁が、そこにはあった。
私は千枝ちゃんを愛することができなかったのだ。
その反省から、今回は好きなキャラにこだわるのはやめよう、と思った。
できるだけ気楽にお付き合いができるような、そんな人だ。
私は『カタリナ』という女騎士を選んだ。
本家グラブルにおいて、カタリナさんはそれほど人気の高いキャラではない。
女性キャラとしてはむしろネタ枠で、グラブル内で連載されている4コマ漫画でも散々弄り倒されている。
私自身も、ヴィーラさんは好きだったけれど、カタリナさん自身にはいい印象も悪い印象も、なにも抱いていなかった。
なので「まあ、ジータちゃんが追加されるまで、お付き合いをお願いします」という気分で、彼女の手を取った。
彼女はこんな不誠実な私にも、「よろしくな」と微笑んでくれた。
交際を始めると、カタリナさんは確かに動かしやすいキャラだった。
必要なパーツはなにもかも揃っている。炊事も洗濯も掃除もできて、さらに素直な性格だ。
実際、カタリナさんはどのプレイヤーからも「強いキャラ」と言われていて、
自分がうまくなればなるほど、誰にだって勝てるポテンシャルを秘めているらしかった。
一緒にゲームを始めた、格ゲーに詳しい友人は「君がカタリナを選んでほっとした」と言ってくれた。
間もなく、格ゲーにおいて、操作が簡単である、ということの重要性を私は初めて思い知ることとなる。
少し話は変わるけれど、
誰もがグー、チョキ、パー以外に、
ギョス、メランダ、ポポポチーノ、アラモ、ショポーリ、スイギョー(適当)などなど、
30個ぐらいの手をもっている。
スイギョー、ショボーリ、パー、ニャフ、など4つの手に勝てる。他の24個の手とはあいこだ。
こういったことを、毎瞬毎瞬、頭の中で考えながら、試合を進めていくゲームだ。
難しいのだ。
複雑なルールが覚えられない私にとって、カタリナさんは救世主だった。
カタリナさんは、グー、チョキ、パーの三つさえ覚えれば、だいたいなんでもできた。
他キャラが30個の手を使いこなしてくる中、カタリナさんの手は三つで足りた。
初めて見る相手に、「えっ、なにその技!? どうやって対応すればいいの!?」と度肝を抜かれる攻撃をされても、
自分で調べてみれば、「なるほど、これは実はチョキで勝てる手だったのか……」とすぐに答えが用意されている。
対戦して、一方的にやられて、自分で調べ物をして、そしてまた対戦をする。
すると今度は、相手のゾゾゾジゾという手に勝てるチョキを用意した私が優勢に戦える。
対戦相手も私がチョキを連発するようになると、そのチョキに勝つ手を用意してくる。
これを繰り返していくと、私はいつの間にか、さっきまで手も足も出なかった相手と五分に渡り合えるようになった。
楽しい。
楽しくて、毎日GBVSをやった。
昨日あれほどボコボコにされたフェリに対して、一晩練習しただけで、それなりに勝てるようになるなんて。
すごい。
どんなに強い相手でも、カタリナさんがいれば「いずれは勝てるようになるかも」という希望を抱いた。
今まで私は格闘ゲームを誤解していたんだ、と気づいた。
私は格闘ゲームはゲームの上手い人がやるゲーム、という認識でいた。
バイオハザードでゾンビに一度も捕まらないようにスイスイとプレイする人が遊ぶものだと思っていたのだ。
けれど、違った。
格闘ゲームというのは、非常に複雑なジャンケンで、相手の行動に対してこれをすれば勝てる、という手を用意しておくゲームなのだ。
こんなにシンプルなゲームだったのか……と目からウロコが落ちた。
もちろん、それを教えてくれたのは、カタリナさんだった。
「カタリナさん、本当に強いね」
「なあに、私を上手に操ってくれる、キミがいてこそだよ」
カタリナさん……。
いつの間にか、私にとって彼女はかけがえのない大切な存在になっていた。
よくよく見れば、顔もめちゃくちゃ美人だった。
(余談だが、先日本家グラブルにおいて開催された水古戦場においてカタリナさんが使えて嬉しかった)
私はカタリナさんとともに、反復練習、そして調べ物を続けた。
負けては調べ、負けては勝てる手を考える。
少しずつ成長していった。
共に初めた友人はSSランクというメジャーリーグみたいな場所に旅立っていったけれど、
私もAランクというマイナーリーグでそこそこ戦えるようになっていった。
なによりも、自分が徐々にうまくなっていくのが楽しかったのだ。
私の実力があがると、カタリナさんはますますその力を発揮し、期待に応えてくれた。
いや、違う。私がカタリナさんの期待に応えれるようになったのが、嬉しかったのだ。
私のそばでは「キミは日々強くなっていくな」とカタリナさんが微笑んでくれていた。
彼女は出会った頃よりわずかに……いや、明らかに綺麗になった。(私は強めの幻覚を見るようになった)
途中のバージョンアップでもともとの本命であるジータちゃんが追加されても、
私はカタリナさんのまま、GBVSを続けていった。
「本当に、私でいいのか……?」と恥じらうカタリナに、私は大きくうなずいた。
「当たり前だよ。私にとって、カタリナさんがグラブルなんだ」
社会人ゲーマーになると、とにかくゲームの時間を捻出するのが大変だ。
積みゲーもたくさん増えてきた。
そんな中、回転寿司のように、次々と新しいゲームに手を出してはクリアーしていくのが、私の最近のスタイルだった。
ストーリーのないゲームに時間をかけるのは、無駄だと思いこんでいた。
けれど、GBVSは違った。
それだけ多くの時間、私はカタリナさんと共に過ごした。
そして、4月28日。
バージョンアップの日がやってきた。
先に言っておくと、カタリナさんは確かに強かった。
「仕方ないさ。格闘ゲームというものは、バランスが大事なんだ」とカタリナさんは寂しそうに微笑んでいた。
だから、ある程度の弱体化が入ることについては、私も納得していた。
「しょうがないよね。調整ってよくある話だし」
といっても、これは『頭で』納得していた、というだけの話だ。
よく格ゲーでは「修正しろ」だの「弱体化はよ」だの、声が多く上がる。
実際に私も、スマブラDXで友人のフォックスに宇宙の果てまで蹴り飛ばされた際には「修正しろ!」と叫んでいた。
だけど、私は本当の意味での『修正』という言葉を知らなかったのだ。
なぜなら今まで、本気で格闘ゲームに向き合ったことなどなかったからだ。
カタリナさんが弱体化された。
私の顔はたちまち青ざめた。
唖然とした。
メインで使用する近Bがなによりも、破格の弱さになっていたのだ。
近Bという技は、どんな状況でも万能に使える最強のチョキであった。
多くの手に勝つことができて、コンボでも重要な役割を担う、カタリナさんの愛刀であった。
なによりもモーションがかっこいい。レイピアを高速で振り下ろすと、空気を切り裂くようにそのしなりが見て取れる。
カタリナさんの力強さ、そして剣に懸ける想いがこれでもかと伝わってくる、袈裟斬り。それが近Bだ。
その近Bが、死んでいた。
『硬直を増やしました』『認識間合いを狭くしました』というそのたったふたつの言葉で、
カタリナさんの手触りはまったく変わっていた。
私は震える声で問いかける。
「カタリナさん、カタリナさん、大丈夫……?」
するとカタリナさんは笑顔でこう言うのだ。
そう、気づいた。
たったひとつの技が弱くなったそれだけで、カタリナさんは、
私が2000試合も共に歩んできたカタリナさんは、
まったくの別物になってしまったのだ。
私の結婚したカタリナさんは、もうどこにもいない。
これからは近Lという、漫才のツッコミみたいに手の甲をぺちっと突き出して柄で殴る技を、メインに使わなければならない。
「近Bか? しかしあの技は、使ったところで仕方ないだろう」
このカタリナは苦笑いをする。
「ガードされて1フレーム不利だ。立ち回りで振るような技じゃない。私はそういう戦い方はしないんだ」
違う。私のカタリナさんはそういう戦い方をする人だった。
私のカタリナさんはどこにいったの?
ちょっとずつヒット確認ができるようになっていった遠Cが弱体化されたことなんて、どうだっていい。
色んな所からヘイトを集めているJUなんて、削除してくれたって構わない。
だから、近Bを、近Bを返してくれ。
せめて微不利じゃなくて、五分にしてくれ。
私のカタリナさんは、2000試合で少なくとも近Bを2万回以上は振り回した。
その技が、処刑されたのだ。
格闘ゲームの『調整』がどれほど恐ろしいものなのか、私は初めて味わった。
セーブデータが消えるんじゃない。自分が今まで積み上げてきた『努力』が無かったことにされるのだ。
ただ受け入れることしかできない突然の交通事故に遭ったような気分だ。
有名プロゲーマーが「なによりも調整を恐れている」という発言をした際に、私は「そういうものか」と思っていた。
弱くなったキャラを捨てて、すぐに強いキャラばっかり使う人のことを「キャラに愛着がないんだなあ」と思っていた。
バカだった。
私のカタリナさんは、間違いなく近Bを主軸に攻め込むカタリナさんだった。
だけどもう、そのカタリナさんはどこにもいない。
別物だ。
「でもどうせ弱体化されるんだろう」という想いを抱いて、遊んでいくのだろうか?
ただ、ひとつだけ言わせてほしい。
ありがとう、カタリナさん。
あなたのおかげで私は、強くなるために努力することの大切さを知りました。
あなたのおかげで私は、格闘ゲームの楽しさを初めて知ることができました。
あなたがいなくなったグラブルを愛せるかどうかは、まだわかりません。
もしかしたら別の恋人を見つけて、恥知らずにグラブルを続けるのかもしれません。
ありがとう、カタリナさん。あちらへいっても、元気に近Bを振り回してください。
まあいうて、新しいカタリナさんでも、それなりに戦えそうではあるんだけどね……。
操作感が変わる調整は、やっぱつれぇわ…………。
まぁ参院比例だし、サポーターになる程ではないが一番支持できるのは立憲だったから、須藤に入れなければ他の立憲候補か政党名を書いただけだが。
当選してからしばらくしてMMTにかぶれているツイートは見ていたんだが、昨年末からこんな調子である。
これから帰りの新幹線で「MMT現代貨幣理論入門/L・ランダル レイ」を読みます。僕はMMTが日本経済を救うものだと感じているのでもっと理解を深めたいと思います。#今日の読書
消費税を5%に減税し、10兆~15兆円規模の補正予算をすればデフレ脱却できるんだそうです。とにかく生活困窮者を早く救わなければいけませんね。
「通貨発行権を有する政府は財政破綻に陥らない。ということは税によって財源を確保する必要はない。したがって税は財源確保の手段ではなく物価調整や所得再分配などの経済全体を調整するための手段」と中野剛志先生が「奇跡の経済教室」で書かれています。目から鱗です。
素朴な印象で庶民の味方をしてくれそうだったから期待していたのだが、この調子では次入れる事はない。読書報告も半分くらいはMMTの本だ。自分はMMTに詳しい訳ではないが、"通貨発行権を持っていれば財政破綻しないので、税で財源確保の必要が無い"というのを鵜呑みにされてしまうともうついていけない。ここまで極端な事をすれば円は大暴落し、生活困窮者の生活はさらに困窮すると思うからだ。大阪都構想、消費税減税もしくは撤廃、MMTによる極端な財政論のような一発逆転これさえすればすべてうまくいくみたいな事は起きえないと思ってる。消費税の多寡にかかわらず、適切な再分配がされていれば生活困窮者も救われるはずだ。北欧のような福祉国家でも消費税は0どころか、20%以上である。消費が低調なのは、所得が上がらないことと将来不安からだ。安易な一発逆転策に溺れるようでは全く支持できない。
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』が目前に迫っているというのにまだまったく心の準備ができていない。大波が押し寄せてくるのを確かに認めながら、砂浜で引き波に足を取られたまま呆然と立ち尽くしてしまっているような、そんな状態だ。
『Once upon a Time in...Hollywood』というタイトルをはじめて聞いたとき、マジで引退しようとしてるの…!?と思った。現時点では「10作品撮ったら引退する」と言っていたり(今回が9作目)、「今度のが大ヒットしたらこれでおしまい」と言っていたりまだ判然としないのだが、そういうゴシップ的な憶測はさておき、このタイトルが持つインパクトはあまりにも大きい。セルジオレオーネな意味合いもさることながら、それ以前にこの響きだ。
『昔々、ハリウッドで』。響きとしてあまりにも最終回すぎるのだ。仮に『クエンティン・タランティーノ』というドラマがあって、その主人公クエンティン・タランティーノが監督した作品が、ドラマの1話ごとのタイトルになっていたらと考えてみてほしい。第1話「掃き溜めの犬ども (Reservoir Dogs) 」、第2話「三文小説 (Pulp Fiction) 」、第3話「ジャッキー・ブラウン (Jackie Brown) 」、第4話「ビルを殺れ (Kill Bill) 」、……と進んでいって、第9話「昔々、ハリウッドで」である。どう見ても第9話で最終回じゃないか。こんなに引退作にふさわしいタイトルってなかなかないと思う。
なんてことをメモしていたら、タランティーノに子供が生まれるとのニュースが飛び込んできた。引退について語るのを話半分に聞きながら、だがこれで子供でも出来たりしたら本当に映画撮らなくなるかもな……とか考えていたのだが、うーん、思ったより早かったなあ。つまりこのところとみに饒舌になっていた引退話は、子供が生まれるという予測のもとに展開されていたわけだ。それにしてもさ。田中裕二に子供が生まれたり、タランティーノに子供が生まれたり、そんな日が来るなんておれは考えたことなかったよ。
といっておいて何だが、タランティーノの言う「引退」について想像するとき、たしかに寂しくはあるけれども、意外と悲観的な気持ちにはならないというのが今の正直な気持ちだ。
というのは、ひとつには、映画監督以外のフィールドでの仕事が見られる可能性に期待しているからだ。これは本人も言っていることだが、本を書いたりしたいらしい。タランティーノが書いた批評本なんて出たらぜひ読んでみたい。もしかしたら小説を書くかもしれない。それこそパルプなフィクションを。あるいは脚本を書くかもしれない。脚本タランティーノ × 監督デヴィッド・ロバート・ミッチェルなんて映画がつくられたら……など夢想するのも楽しい。
書く仕事ばかりとも限らない。いまのところ引退を語るうえでタランティーノが前提としているのは「劇場公開用映画」の監督業であって、フィルムに対する彼の偏愛と執着も、その前提があればこそ要請されてきたものだったと思う。その最前線から(いったん)身を引いたとき、ある意味でそれは「引退」だが、またある意味でそれは「解放」ともいえるのではないか。何が言いたいかというと、Netflixなどでタランティーノがドラマシリーズを制作する可能性はかなり高いのではないかということだ。この期に及んでタランティーノが劇場用長編映画をデジタルで撮る可能性はほとんど考えられないが、これがドラマシリーズだったら話は別だ。
タランティーノがつくるNetflixのドラマがあったら、それはどんなものになるだろうか。そのヒントになるような発言が最近あった。自身の監督作に登場したキャラクターのなかで、タランティーノが今でも折に触れて思いを馳せる人物がいるという。彼が挙げたのはザ・ブライド、ビル、ハンス・ランダ、アルド・レインの4人。タランティーノはそれぞれの人物にまつわる、いわばスピンオフ的なサイドストーリーについての妄想を語っていた。
①ザ・ブライドが10年後、15年後、どうしているか。娘はどんな人物に成長したか。これは長いあいだ噂されてきた『キル・ビル Vol.3』がもし実現した場合のストーリーになるだろう。
②ビルはいかにして巨悪となったか。エステバン・ビハイオ、服部半蔵、そしてパイ・メイという3人の「ゴッドファーザー」との関係を通して、ビルという悪魔的人物のオリジンを描く物語。
③ハンス・ランダはナンタケット島でどんな生活を送っているのか。ナチスきっての「名探偵」だったランダが、戦後20年くらい経ったナンタケットで起こる殺人事件を解決してゆく物語。
④アルド・レインは戦後どうなったか。教科書に載るレベルの「英雄」としてアメリカに帰ったはずのアルドが、ナチスにおけるフレデリック・ツォラーのように映画に主演する…という話。
なにこれ超おもしろそうじゃん!!!!! 全部見たい。見たすぎる。小説でもいい。読みたすぎる。ここで思い出したのだが、そういえばタランティーノこそ、地味に自分の作品世界を相互につなげてきた人だった。別の映画に登場するキャラクターたちが生きる一つの世界について語るとき、若き日の彼はたしかサリンジャーを引き合いに出していたように記憶するが、これって今風の言い方をすれば「タランティーノ・バース」だ。もちろんタランティーノの世界がMCUのようになってほしいなんて気持ちは毛頭ないけれど、ジャンゴのサイドストーリーはすでにコミック化されていることだし、劇場用映画としてはおそらくもう実現しないであろうヴィック&ヴィンセント・ヴェガ兄弟の話だって、何かしらのかたちで語られる可能性は全然あるわけだ……ということを、妄想できることがうれしい。それにしても「私立探偵ランダ in ナンタケット」は見たすぎるだろ。
で、仮に、タランティーノがこの次に撮る映画が本当に彼の「引退作」になるとするならば、その一本はやっぱり『キル・ビル Vol.3』であってほしいと、私はそう願わずにいられないのだ。
話を元に戻そう。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の公開が迫っているのに心の準備がなにもできていないという話だ。この映画、タイトルからしてこの有り様なものだから、映画監督クエンティン・タランティーノのいかにも「集大成」という感じがしてしまうのだけれども、しかし実際はそうでもなくて、むしろ今までになく「タランティーノっぽくない」映画になっていたりするんではなかろうかと期待している。それはひとえにこの作品が、タランティーノ本人にとってきわめてパーソナルなものとなっているような印象を受けるからだ。
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』について、現時点で、私は予告編以外の情報をすべて遮断している。サントラにも触れてすらいない。だから実際どんな映画になっているのかはまったくわからないのだけれど、タイトルをはじめポスターや予告編を通して強く喚起されたのは、「郷愁」の念だ。それは1969年、大きな変革を遂げようとしていたハリウッドとその時代精神(タランティーノは "zeitgeist" という単語を本当によく使う)に対する郷愁であり、タランティーノ自身の幼少期へと向けられた郷愁でもある。しかしながらこの郷愁こそ、これまでのタランティーノ映画からはほとんど感じてこなかったものであり、ゆえに今作はどうにも「タランティーノっぽくない」ような気がしてしまうのだ。
タランティーノは、過去の映画や音楽からさまざまな要素をためらいなく取り入れることで自分の映画をつくってきた人だ。その特徴はたしかにタランティーノについて語るうえで欠かせないものだろう。でも彼の作品に宿る魅力を考えるうえでもっと重要なのは、そうした引用(あるいは盗用)のひとつひとつが、観客に郷愁を呼び起こすための装置には決してならないという点だ。観客を過去へといざなうことで「懐かしさ」に浸らせるのではなく、かつてとてもエキサイティングなものとして消費された文化の「エキサイティングな感覚」自体をそのまま現在に再現してしまえる才能。それがタランティーノのすごいところだと思うし、その意味で、郷愁、というのはむしろタランティーノの映画から最も遠いところにあった感情ではないかと思う。ところが今回の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』からは郷愁が強く香ってくる。そのダイレクトさがとても気になるのだ。それはとりもなおさず今作の特異な舞台設定によるものだと思うけれど、開映が迫っているためちょっともう書く時間がない。超中途半端。