はてなキーワード: 通底とは
『北斗の拳』が大ヒットした当時、学校の見学旅行でプラネタリウムを訪れたことがある。その際に、解説役の女性ナレーターが、おおぐま座・北斗七星について語る場面で「誰ですか?『死兆星が見える』なんて言っている人は」とジョークを挿入してきたことを、場内が爆笑の渦に包まれたことと共に、今でも記憶している。
『北斗の拳』がヒットして以降「北斗七星は死を司る星辰(星座)」という認知も、神話伝承にそれほど明るくない人々にまで普及した。特に、プラネタリウムでもジョークに用いられた「死兆星」は、たとえ天文学的な正式名称(ミザールとアルコル)を知らなくても、当時の少年ジャンプ読者で知らぬ者はいないと言っても過言ではない。
この北斗七星の柄杓の柄の端から2番目の星が、二つの恒星から成ることを見分けられるか否か、それを尋ねることで兵士の視力を検査するという手法が、古代エジプトでは採用されていたという。しかし、古代エジプト人が寿命の長短を判定するのにこの二重の星を利用していたか否かは、寡聞にして知らない。西欧の星座伝承の大部分は、古代エジプト以外で言えば、古代バビロニアや古代ギリシア・ローマ等に起源を持つと思ってさほど間違い無いと思うのだが、これらの方面でも寿命の長短を見分けるのに使われたという形跡は、今のところ見かけた記憶が無い。単に私が不勉強で知らないだけかもしれないので、有識者の意見を知りたいものである。
死兆星の元ネタとして、とりあえず直ぐに思いつくのは、この二重の星が日本では民俗的名称として「ジュミョウボシ」と呼ばれていたことであろう。この名称を個人的に初めて知ったのは、星空に関する多数の優れた本を著し、我が国における少年少女の天文ファンの数を増やすことに貢献した、作家・野尻抱影(SF作家・野尻抱介のペンネームの元ネタである)の本で読んだ時であった。野尻抱影の本には、次のようなことが記されている。
この名の由来は、二重の星を見分けられなくなった者は、それから遠からず一年かそこらで、御迎えが来ることから付けられたものらしい。主に、漁業従事生活者たちの間で用いられていた名称のようである。海上での航海が主要な部分を占める漁業において、視力の良さは要であった。そのため、視力の衰えは即ち食い扶持を稼げなくなることを意味し、そこから、星が見えなくなることで寿命が来たのを悟るという話になったのであろう、と。
つまり、ジュミョウボシは、死兆星とは正反対に、見えなくなることが死の予兆というわけである。おそらく『北斗の拳』の作者たちは、星が見えなくなるよりも、見えるように変化するという現象にした方が、視覚的に表現することが容易である(見えない星では絵に描けない)という漫画表現上の要請から、これを改変したものであろう。
これ以外に、北斗七星が人間の生死に関わる星辰として語られる起源を遡れば、中国は東晋の時代の人・干宝が著したとされる志怪小説『捜神記』に収められた物語に行き着くことになる。
原典の漢文を読んだわけではないし、若い頃に読んだ日本語訳(私は平凡社東洋文庫で読んだ)の記憶を掘り起こすだけだが、おおよそ次のような物語である。
「或る農夫が、息子と共に畑仕事をしていたところ、その傍らを方士が通りかかった。方士が、農夫の息子の相を見て『この子は、このままでは十六の歳で死んでしまう』と彼らに伝えた。驚いた農夫が、方士に『それを避けるためにはどうすればいいのか』と尋ねると、或る策を授けてくれた。方士の言葉に従って、農夫は、用意できるだけの酒と干し肉を携えると、南の畑の桑の木が植えられた場所へと赴いた。
方士が教えてくれたとおり、南の畑の桑の木陰では、二人の老人が囲碁に打ち興じていた。囲碁に夢中になっている老人たちは、農夫が傍に来たのにも気づかない様子であった。方士に言われたとおり、農夫は無言のままで、酒と干し肉を老人たちの手元にそっと差し出した。碁を打ちながら老人たちは、差し出されるままに干し肉を食べ、酒を飲み続け、農夫はお代わりを差し出し続けた。さんざん飲み食いし終えた後で、ようやく二人の老人は、農夫の存在に気がついた。
二人のうち、険しい顔つきの老人が『何者だ貴様は?いつから傍にいた?人間が儂らの傍で何をしておる?』と責め立てたが、方士に言われたとおり、農夫は平身低頭して無言を貫いていた。すると、柔和な顔つきの老人が『この者が振る舞ってくれた酒と干し肉を、儂らは楽しんだのだ。そう怒るな』と、怒る一人を宥めた。そして『この者に、酒と干し肉の返礼をせねばなるまい』と柔和な顔つきの老人が言うと、険しい顔つきの老人と共に何やら帳面を捲り、農夫の息子の寿命が『十六』と記されている箇所を彼らは見つけ出した。険しい顔つきの老人が、渋々それを『六十』と書き換えると『これでよかろう。もう去れ』と農夫に言い渡した。農夫は無言のまま、二人の老人に頭を下げて感謝の意を示すと、その場を去って家に帰った。
家で待っていた方士に農夫が一部始終を伝えると、方士は『これでお前さんの息子は、もう心配が無い』と言った。農夫が『あの人たちは何者なのですか?』と尋ねると、方士は次のように語った。
『あの者たちは、北斗と南斗である。柔和な顔つきの方が南斗六星、険しい顔つきの方が北斗七星である。人は南斗から生まれ、その生涯は星々の間を辿り、北斗へと還る。それで、人が寿命を延ばすためには、北斗に祈りを捧げねばならないのである』と」
現代人の目から見た感想を率直に言えば「これ、お人好しの農夫が、単に詐欺に遭っただけじゃねえか?」と思うところであるが、それは置いておく。
天空の天体、太陽や月や星や星座の動向が、地上世界で生きている人間に影響を及ぼす、或いは逆に、人間の運命その他の動向が、星など天空の現象に反映されるという考え方は、洋の東西を問わず広く見られる文化現象である。そういう意味では『捜神記』の物語も、ごくありふれたものだと多くの人は思うかもしれない。
しかし、私が『捜神記』の物語を面白いと思うのは、最終的に北斗七星と南斗六星のように夜空で目立つ星座が重要な役目を果たすにせよ、社会的に見れば無名の人にすぎない農夫の息子のような人間にも、個別に対応するような名も無き天空の星が存在しているという考え方を示している点である。
古代ギリシアには、現代の民主主義政治の源流があったけれども、無名の市井の人であっても天空の星との結び付きを得ることが出来る、という古代中国のような発想には至らなかったようである。してみると、天空の星との結び付きに関しては、古代ギリシア・ローマは、神話の登場人物レベルの選ばれた者にのみ許されるという選民思想だったわけである。そう考えてもらえれば『捜神記』の物語のユニークさを分かってもらえることと思う。
北斗七星・おおぐま座のように、明るくて目立つ恒星とそれらが形作る星辰(星座)は、自然と人目を惹くものだから、古今東西の人類の記録に残されている。金星・火星・木星などの惑星もそうである。太陽や月は言うまでもない。しかし、観測技術が発達するまでは、星辰(星座)の構成員になるほどの明るさを持たない目立たない星々のことは、一々観測して天球上のどの位置に存在するのか、動いているのかいないのかと確かめることは非常に困難であったことは想像に難くない。しかし、事実として夜空には、命名も位置確認も追いつかないほどの無名且つ無数の星々が存在することを、昔の人は知っていたのである。科学的な知識を持つ我々現代人よりも、むしろ昔の人々の方が、実感としてそれを知っていたはずである。現代の文明社会のように至る所に夜間照明がある条件下とは異なり、太陽が沈んで「本物の夜の闇」に包まれて空を見上げた昔の人々の肉眼には、文字通り無数の星々が見えたのだから。現代人も、もし口径が大きい双眼鏡の力を借りて夜空を眺める機会を得たならば、その時は、名前も知らない星々の多さを実感して驚くことだろう。私は今でも時々、双眼鏡で星空を見て感嘆する。
こういった、存在することは分かっていても昔の技術では天球上の位置を確定することが困難であった無数の星々については、占術師たちが「実は、天球上の無数の星々は、消えたり現れたり移動したりしているのだ」と主張したとしても、民衆も確認しようが無く、比較的簡単に信じてもらえたことだろう。恒星の間を動き回る「惑星」、何処からともなく現れる「彗星」、明るさの変化する「新星」など、変化を示す天体現象が現実に見られることも、占術師たちの主張を補強してくれたに違いない。
ただし、庶民が自分個人の運命専用の星を天空の何処かに持つことができたとしても、自分の意志でその星を動かせる訳では無い。天空の星の動きでも人生でも、同じことである。王侯であろうと庶民であろうと、現代人であろうと昔の人であろうと、人生を己の自由にするというのが困難なことに関しては、立場は同じである。自分の人生がままならず、自由意志で動いているのではなく、自分以外の超越的な何者かによって動かされているのではないかと感じるという感覚は、古今東西の汎ゆる宗教的な思索の出発点となる。
この何者かに動かされているという感覚を『捜神記』の筆者は、南斗・北斗の両老人が打つ囲碁の対局という形で表現している。つまり、ここでの囲碁の盤面に配置されている碁石とは、夜空の無数の星々の象徴ではあるまいか。将棋やチェスの駒とは異なり、碁石は没個性的である分だけ、名も無い星に擬えるのには都合が良い。囲碁という遊戯の起源がどのようなものであるか、それを現代人の我々が確実に知ることは不可能であろうが、もしかしたら、星々の配置を操作することによって人間の運命を変えようと働き掛けるような、呪術的儀礼としての遊戯にその起源の一端を持っているのかもしれない。
もっとも、これはあくまでも個人の勝手な空想に過ぎないので、南斗六星から北斗七星へと星空を動くというのであれば、この場合には囲碁よりもむしろ双六の方が象徴的な遊戯には相応しいのではないか、といった具合に幾らでも異論を唱えることは可能と思う。
それに、南斗と北斗の囲碁の対局結果は語られていないので、囲碁の対局によって星々が動かされ、運命が左右されるという仮説は、正直に言えば我ながら牽強付会であることは否めない。まあしかし、たとえ学問的専門家ではなく、実生活に役立つわけではなくても、こういった空想をすることは非常に楽しいので、なかなか止められないのである。
農夫が酒と干し肉を提供した行為が、祈願の対象である神への御供え行為であることは無論言うまでもないが、この他にも、無言を貫くという後代の神事や魔除けにおける物忌と通底する行為が見られる点や、南斗・北斗の翁神に邂逅する場所が霊樹の一つである桑の木の傍である点など、興味を惹くところがまだまだある。いずれまた暇を見つけて『捜神記』を再読してみようかな。
ザイオンス効果という言葉を初めて知った。wikiによると以下のことなんだそうだ。
単純接触効果(たんじゅんせっしょくこうか、英: mere exposure effect)は、(閾下であっても)繰り返し接すると好意度や印象が高まるという効果。1968年、アメリカの心理学者ロバート・ザイアンスが論文 Zajonc (1968) にまとめ、知られるようになった[1]。
ザイアンスの単純接触効果、ザイアンスの法則、ザイアンス効果などとも呼ばれる。対人関係については熟知性の原則と呼ばれる[2]。
はじめのうちは興味がなかったものも何度も見たり、聞いたりすると、次第によい感情が起こるようになってくる、という効果。たとえば、よく会う人や、何度も聞いている音楽は、好きになっていく。これは、見たり聞いたりすることで作られる潜在記憶が、印象評価に誤って帰属されるという、知覚的流暢性誤帰属説(misattribution of perceptual fluency)で説明されている。また、潜在学習や概念形成といったはたらきもかかわっているとされる。
図形や、漢字、衣服、味やにおいなど、いろいろなものに対して起こる。広告の効果も、単純接触効果によるところが大きい。CMでの露出が多いほど単純接触効果が起きて、よい商品だと思ったり欲しくなったりするのである。
Z世代に顕著と元増田はいうのだが、上記定義をみると、広く言えば、むしろ日本の集団主義的な組織風土をドライブするメカニズムに関係しているように思えるね。単純接触効果を組織内でうまくつかって「うちわ」の安心感を醸成してゆく、というか。
従来の日本の組織というのは、年配者が半ば強引に、単純接触の機会(パワハラ的指導、飲みにケーションが最たる例)をつくり、すでに組織内で支配している層に居心地のいい「うちわ」感を若者に覚えさせてゆくプロセスを通じて、世代間の組織風土の持続性が図られてきた。80年代、上司の室田日出男が新人部下の中井貴一をオルグして毎晩カラオケについていったように(ふぞろい世代)。
そういう見方をしてみると、要するに、ザイオンス効果をとらえて、Z世代の特徴かというと、よくわからない。
恐らく、ザイオンス効果自体は変わらないけれども、変わったのは環境なんじゃないかな。Z世代以前以後で。
Z世代以前と以後では、世の中の居場所、選択肢が急速変化している。
80年代のティーンの居場所は、学校かゲーセンか、盛り場、塾だったし、学校が嫌になった場合の逃げ場が限られていた。
通信手段も、携帯電話は存在しなかったから、友達からきた電話を親が先にとる時代だった。娯楽も限られていた。
消費者の選択肢が少ないから、メーカーもプロダクトアウトな発想で、繰り返しCMを流し、消費者に刷り込みをかけてマスな製品を作ってしまえば市場を席捲できた。ソニーのウォークマンが典型。これもザイオンス効果のひとつといえる。
マスな動きに取り込まれる(流行に乗る)ことが取り残されない条件だったし、会社でも上司に従うしか、居場所を見つけられない時代だった。
政治選好的にも、当時の自民党VS社会党というのは、絶対的な安心感を与えていて、とにかくうちは自民党、うちは問答無用で、昔っからおたかさんみたいな時代。
そして、学生から社会人など、環境が変わるたびに、通過儀礼的に「その空間での安心感はこれだ、こういうやり方してりゃいいんだよ」と新参者は叩き込まれる。
しかし、90年代以降の動きというのは、情報革新によって、ニッチな居場所、環境が急激に増えた時代。あるいは気が付くことができるようになった。
ニッチな環境がどんどん増えて、自分で居場所を選べるようになった。
政治も細川政権以降、離合を繰り返した。会社組織も働き方や仕事の仕方に、多様性を認めるようになってゆく。その最初のきっかけは80年代、転職というムーブメントだった(リクルート)。
しかし、自分で転職したり、ニッチな空間をみつけて得られる安心感というのは、自分の欲求ニーズにジャストミートをするという意味では安心だが、例えば自民党を疑いもしない時代に比べると、寄る辺のなさを感じるものであり、かつてほど盤石ではなく流動的で、大きくもない。
そしてかつてのような大きな主体に取り込まれることの安心感が少なくなっているんだろうと思う。
昔だったら、そういう大主体は自分から探すものではなく、人生のステージがあがると、会社の上司が象徴するように、待ち構えているものであって、
飲みにケーションの洗礼をあびて、数年で組織に同化していった。同化の過程は最初は激烈でキツイんだけど、集団に慣れると逆に居心地がよくなるのだ。
ザイオンス効果という言葉をあえてつかって、前世代の特徴をいえば、オルグする、という意味で、プッシュ型のザイオンス効果。紙の新聞メディアもその典型で、世の中の標準的な考え方というものをテレビや新聞などのメディアを通じて受け入れるプロセスが存在した。
しかし、情報通信革命がもたらしたニッチな空間、居場所への気づき、というのは、自分から自発的に、その時々で感じている不安・ニーズを解消する場所へ向かえるようになった、という意味。
自分から安心を探し出す、という意味ではプル型のザイオンス効果。簡単に答えがみつかるからSNS依存を深めてしまう。自分の疑問や不安は自分からググればなんとなしに答えが見つかる、という。Togetherは都合のいいようにあたかも大勢の人が考えを共有しているかのような細工をして答えを提供してくれる。電子掲示板やSNSの、自分と似た意見や思想を持った人々が集まる場で、自分の意見や思想が肯定されることで、それらが正解であるかのごとく勘違いする、いわゆるエコチェンバー効果が議論されるようになったのも2000年代初頭。
こういう時代には、何が標準的な考え方で、支配的な考え方なのか、それを新聞などマスなものを通じて確認する、ということが難しくなっている。
SNSなどを通じて自分の求めている何かを見つけてしまえる安心感と引き換えに、いろいろな人がいろいろな場所に安心を見出すようになって、マスなものにピントが合いにくくなってしまった。
だけれど、恐らくザイオンス効果がプッシュ型であれプル型であれ、本質的に、よりマスなものを求めて安心する、という傾向は変わってないんじゃないか。
一方で、プッシュ型のオルグからうけるストレスに、自分で答えを探すことによってすぐにすり抜けてしまう、ここにZ世代の特徴があるかもしれない。
昔だったらほかに選択肢もないことから、ちょっと我慢して順応せざるを得なかった組織も、今ではそのストレスから逃れる手段も選択肢も豊富。
ストレスから逃れた先に、当面の安心感はあるかもしれないが、マスなものに比べれば脆弱だ。
それはパーツパーツでちょっとした安心感を消費するものであって、全体として組織が自分を傘のようにかばってくれるような安心感ではない。
それはむしろ、自分で集めた安心、時代のキーワードを寄せ集め、組み合わせてコンセプトを自分なりに構成していかなければならない。
上司の説教など、プッシュ型を避けてしまえた結果というのは、つまりそういうことだ。しかし、そういう構成力というのは、若者の経験、能力、資質にどうしても依存してしまう。
自分自身をふりかえってみても、そういう試みというのは、一時しのぎになりがちだ。安心をみつけるのはほんとに安易になった時代だ。
しかし、だんだんわかってくる。マスなものも慣れてくる。経験を重ねるとみえてくるものが増えてくる。その経験値の差が今の時代に、なんとなく世代間の差のように映じているんじゃないだろうか。一昔前だったら、そんな個人的な経験値など全くどうでもいいものだったと思う。
若年層の政治的な保守性というのは、保守の理念への信頼ではなく、
寄る辺のなさからなんとなしに選択されているんだろうと思える。
もう一度繰り返すと、ザイオンス効果自体は、安心を求める日本社会において、Z世代を特徴づけるものというよりは、全世代に通底するものかもしれない。
「あ〜なんかひまちゃん(本間ひまわり、にじさんじライバー)との匂わせがどうこうとかいう荒らしがいろんな配信に来てたししょうがないか、大変だな」
そう思って動画を開くと、アクシアは怒っていた。「かわいい」という言葉に対して。
アクシア・クローネの怒りについて、みんな意味わかったのか? 俺はわかってないと思った。なぜなら感情的だし、誰も言ってこなかったことを言っていたから。わからなくて当然だろう。
結局「アクシアが彼女(本間ひまわりのこと、彼女なんかではなくよくゲームを一緒にしているだけの関係)と配信してるぞ!」みたいな荒らしが各配信に無限に来ていたということは活動休止に至ったトリガー/キッカケでしかなかった感じがした。
アクシアは、にじさんじに入ってからずっと苦しんでいた。俺は知らなかったからびっくりした。
リスナーやファンの一部が過剰にアクシア・クローネをひたすらに「かわいい」と消費していること。俺はそれはなにも悪くないし、アクシアのなかでも実際嫌悪の延長線上にそういうリスナーがいるだけで嫌悪の根源ではないだろう。過剰に「かわいい」と消費するリスナーがさらにエスカレートして、どうなるか。ナメるようになる。「自分はアクシアよりも上位の存在だ」と自己認識し、それを発するようになる。そうなったリスナーこそアクシアの抱える嫌悪のど真ん中にあって、配信上で触れていた「母親ヅラしたリスナー」「うちのアクシアをよろしくお願いします」の発言者がそれに当たっている。要はなんなのかと俺が考えた結果は、「自分のことを明らかにナメて上から来てる視聴者が自分のファンには居て当然みたいな雰囲気になったら、そりゃあすごいストレスだな」ということだった。
活動者と視聴者は当然対等な関係であるべき。これは決して否定できないことだと思っている。多くの人は対等であろうとし、できるだけそうなるように活動し、視聴をしている。視聴者が特にその活動者を応援しているのであれば、それはなおさらだ。だからこそアクシアは明らかに上位からモノを言ってくるリスナーをストレスに感じるようになった。そしてその悪質なリスナーが頻繁に使う言葉が「かわいい」だったのだ。ストレスが溜まれば溜まるほどに、「かわいい」と言われること自体が嫌になっていく。これはアクシアが弱いからそうなったのか? 他の活動者はそんなこと負担になってないし。俺はそうは思わない。人間としてそうなるのは当然だと思う。もちろんアクシアの言う通り「活動当初から違和感があった」という価値観も助けてのことではある。
そうして活動を続けて1年。溜まりに溜まったストレスは謂れもない荒らしによってアクシアの限界を超えてしまった。その末に発されたのが、活動休止を報せる動画での感情だ。活動者は感情をあらわにするべきではないと、賢い者たちは言う。それは間違いのない理想であって、みんなそう目指していくべきだ。それはそう。でも、その理想に殉じて去っていった人がどれだけいるだろう。俺は、正しさに殉ずるよりも、間違ったことをしてでも俺の見られるところにいて欲しいと思う。しかも、感情の発露によって活動者の気持ちに少しでも整理がつくなら、なおさら。
荒らしや誹謗中傷は問題だけど、それは幸い現代において法的対処が日々有効になっていってくれているのでこの際憂慮しなくても良い気がしている。そもそも俺自身、アクシアとひまちゃんが仲良くてなんの問題があるのかわからんし。言いがかりでしかない。どちらかにガチ恋している人はまあ、お察しします、って感じだけど。そもそもガチ恋ファン活動にはリスクがつきものなんだから、初めからリスクがある行為でリスクを考慮してない人なんているのかよ。ガチでガチ恋している人が今回の荒らしや誹謗中傷に関わっているのかどうかさえ俺は疑問だわ。ひまちゃんに昔から付きまとう熱心なアンチ、アクシアの活動パートナーでもあるローレン(ローレン・イロアス、にじさんじライバー)にまつわる問題のアレコレによって生まれたアンチがこんがらがって大きな荒らし・誹謗中傷がうねって大きくなっちゃったのかな、と思ってる。
だから、トリガーとなった誹謗中傷よりも、ストレスとして大部分となった「かわいい」扱いについての方が考えるべきだろう。
当たり前の前提を話すと、活動者に対して「かわいい」と声をかけることが間違ったことには絶対になり得ない。そんなの、この世界が間違いだらけになってしまう。そう思ってる人も多いだろうし、俺自身世界は間違いだらけとは思うけども。
でも全く問題がないのか問われれば俺は「NO」と言う。そして多くの人は「全く問題がない」と考えて日々生活している。そこのギャップ/認識のズレが今回の問題として表出してきたように感じた。
では、どんな問題があるのか。
にじさんじEN男性Vtuberは約束された成功を見事にモノにし、大躍進を遂げた。当時、俺はその様子を見て嬉しく、晴れ晴れとした気持ちになっていた。
それと同時に、少しの杞憂が俺の中でもたげていた。「日本語をうまく話せない男性に対して『かわいい』と言うのはちょっとひどくないか?」という杞憂だ。これは本当に杞憂にしかならず、実際みんなリスナーの応援を正当に受け取って日本語が上手くなっていった。
日本語がうまくない男性に対して「かわいい」と言うことにどのような問題を俺は感じていたのか。
まず、世界中の男性全員が「かわいい」を褒め言葉として受け取ることができるだろうか。絶対に100%にはなり得ない。この事実がある。これは生まれ育った環境や個人の価値観によって醸成されてしまうものだ。これについての正誤を論じる気はない。個々の価値観による差異、個性と言っても差し支えない範囲であり、それゆえに正されるようなことでもないと考えているからだ。それに、「かわいいと言われることを嫌がるのは自らを女性扱いされていることを嫌がるということに繋がり、それは男性が女性を下に見ているからではないか」という批判も予想され、それは正しい批判として論理は適っている。しかし、「かわいい」と言われることを嫌がるのは性差のような根本的な問題ではなく、もっと表面的な問題だと俺は思う。語感やニュアンス、言葉の持つ雰囲気としての好みの問題ということだ。それは無意識下表層における感覚であり、自覚することが難しく、それゆえに訂正することも難しいことにように捉えている。例えるなら、ハエトリグモをかわいいと思う人もいれば、気持ち悪いと思う人もいるというようなことに近い。ハエトリグモが人間に無害であり、益をもたらすことさえもあると頭の中でわかっていても、どうしても気持ち悪さが拭えない人を責めることはできない。気持ち悪いと感じる人も、ハエトリグモのその機能を嫌悪しているわけではない。それと同じように「かわいいと感じる感情」を気持ち悪いと思っている人は少ない。「かわいい」という言葉として表に出てきていることが嫌なだけなのだ。
「かわいい」という言葉に内包されているニュアンスとして、「かっこいい」「上手くやっている」ことの否定ということがある。「かわいい」=「ダサい」ではなく、「かわいい」という言葉の一部分に「ダサい」というニュアンスがあることを否定できない、というレベルのことだ。問題は、その部分の割合が男性個々によって違うということだ。だから、ある男性は嬉しく感じ、ある男性は「ダサい」というようなことを暗に言われたと感じるということになる。
にじさんじENの男性メンバーの完全ではない日本語に対して、「かわいい」と評することへ戻る。日本語話者が他言語話者の不完全な日本語に100%ポジティブとは言えない言葉をかけることは、ほんのわずかではあるがレイシズムの傲慢さを俺は感じた。だからこそ杞憂をするに至った。「頑張ってて偉い」「(日本語話者の)自分より上手い!」から皮肉を感じるのは完全に受け取り方や文脈の問題であり、「頑張ってて偉い」「自分より上手い」という表現自体は100%ポジティブだからそう伝えればなんの問題はないはずだ。それを男性が100%ポジティブに受け取ることができない表現「かわいい」と言うことには違和感を感じてしまう。何より、「かわいい」と言っている側はなんの悪意がないことがより恐ろしく思う。女性にとって「『かわいい」と言われることは良いことだ」というステレオタイプ的な考え方が未だ社会では通用しやすいことは、女性側を苦しめていることが多いが、男性側が今回のように不快に感じることも起こり得る。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いということわざが頭から離れなくて嫌だ。
明らかにアクシアを侮って「かわいい」と発する少数の人間のせいで、「かわいい」と今まで言っていた人たちがきっと傷ついたろうと思うからだ。坊主憎けりゃ〜は明らかな皮肉なので、今回のような悲劇にまで皮肉のような通底を見出している自分が嫌だからだ。
先述したように、俺はアクシアの感情の発露は間違っていないと考えている。彼が限界だったこと、そして感情を発露して表明することで気持ちの整理がついた部分がきっとあるだろうと思えること。なにより、黙って去るのではなく、アクシア自身が「アクシア・クローネ」として活動を続けるための動画であることがわかるから。
彼は動画の中で妄想やそれに端を発する創作活動についての嫌悪感を語った。でも、それはほかの活動者みんなが言っていることだ。「自分の目の届かないところで配慮を忘れずに隠れてやってね」もはや活動者視聴者みんなに知れ渡った暗黙の了解を再度言っただけにすぎない。それなのに、肯定的な自分の目から見ても感情が乗ってしまったせいで、妄想や創作活動を否定するように聞こえてしまう。賢い者たちが感情を見せるべきではない、という理由がよくわかる悲しい現象が起こってしまっている。
でも、この現象もまた、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、のシステムが適用されている。妄想のなかで「『かわいい』とひたすら消費することができるアクシア・クローネ」を肯定するような創作活動を、明らかにアクシアを侮った発言をする視聴者が好んでいるからこそそういう感情が乗ってしまったのだろう。
つまり、アクシアはきっと「かわいい」と発している者、ガチ恋や夢と言われる創作をする者を心から嫌悪しているわけではないと俺は思う。ということが言いたい。これは俺個人の解釈だし、もはや祈りに近いものでもある。きっとそうだ、というような。
「かわいい」と感じる感情や、ガチ恋や夢とカテゴライズされる想念自体をアクシアは否定し嫌悪しているわけではなく、「かわいい」と表現されること、「ガチ恋や夢を押し付けてくる行為」を否定し嫌悪しているだけで、それは誰しもが持っていておかしくない考え方だ。
「かわいい」と感じる感情は、言葉として表に出るまでは「かわいい」ではない。もっと大きな「良い」という思いとも言えるだろう。決して「かわいい」と表現しなければならないものではない。APEXでミスプレイをして面白けば、「草」と言えばいいし、仲間想いでやさしい一面を見せれば「尊い」と言えばいい。顔が良すぎて最高な気持ちになれば恥ずかしくても「顔良すぎ、好き」と言えばいいだろう。
そして、「かわいい」という言葉は決して罪のある言葉ではない。ただ、人を傷つけるリスクがわずかにでもある言葉とわかってその言葉を使うのと、何も考えずに使うのとでは全くちがうはずだ。少しだけ頭の片隅にその棘を意識するだけ良い、それだけのことで難しいことではないはずだ。
それだけで、アクシアはきっと楽しく活動をしてくれると俺は思う。
そして、今までちゃんとしたファンとしての想いを持ってガチ恋や夢などの妄想を営んできた者たちは、今まで通り配慮を怠らず、隠れてやっていけばいいのではないだろうか。難しいことかもしれないけど、俺はそう考えている。ちゃんとした考えを持っているファンは、今まで通りちゃんとしてれば良いと、アクシアの動画を見て俺は思った。
アクシア・クローネは、正しいファンを否定し嫌悪するような人間性を絶対に持っていないと、確信を持って言うことができるから。
生物学的に女性は男性に比べて肉体的な強度が低く、肉体労働には基本的に向いていないんだが
世の中の多くの仕事はわりと肉体労働な部分がありその点で女性が活躍できる場が狭められている。
純粋に同じ技術を持っているなら肉体的な強度が高い可能性が高い男性を取る方が効率的。
忙しくなった時に男性ならちょっと徹夜でみたいなことになるが女性には同じ業務量を言い渡しにくい。
そもそもそんなこと自体がなくなればいいだけですよね?というのは簡単だが、
例えばワインでは1ケース(12本入り)購入すると重さは20キロを超えることも珍しくない。
普通の体格をしている男性ならちょっと重いかな程度だが、普通の体格の女性にはなかなか厳しい。
一気に数人、数十人分を作る大衆中華などでは片手でクソ重い鍋を振りまくらないといけない場面もあり
女性にはかなり厳しい職場となる。男性にも厳しい職場でもあるので女性にはなおさらそう。
そうなったときに適材適所で「男は力仕事でしんどいところ」「女性はそれ以外のところ」と主張すれば
当然男性の反感を買う。
女性も男性でもきついような肉体労働を行うことになれば、当然離職率は高まる。
飲食の現場なんか男でもバンバン逃げ出すくらいしんどいんだもん。
故人的には「女性がどんどん参入することで、今は力が弱い人間にはできない仕事に技術的な革新が起きてどんどん楽になっていけばいい」と考えているが、今の料理業界は部活と一緒で「俺もきつい思いをして仕事を習得したんだからお前もそうあるべきだ」というマッチョイズムが通底しており、なかなか道は遠いなと感じてしまう。
かみ田の単行本、悪魔みたいにキミは立ってたが非常によかったので勢いで筆をとった。何を書くか。適当に好きなエロ漫画挙げるか。同人含めるとキリがないから商業で。数はぁキリがいいから10でいいか。思いついたら書くから順位もベストもないよ。
あと性癖は雑食で使う比率も巨乳の方が多いけど釣るためにロリコンとしておこう。
増田でエロ漫画レビューってOKなの?って思ったが[エロ漫画感想]というカテゴリがあるからセーフっぽい。
女性上位ぎみに女児が男を誘惑する蠱惑系ロリです。可愛い系の顔に陰影がしっかりした体が好みなの。エッチも女の子主導だけどしっかり感じて楽しんでるのがいいですね。
ロリが好きな理由に(人妻やNTR系が好きなのと同じく)背徳的な要素が必ず含まれているという点がある。女児に手を出すのは真っ黒犯罪なワケでリアルなら女児は完全な被害者。男は加害者弁解は罪悪と知りたまえ。だけどエロ漫画ではそれが逆転できるんですよね。女児に手を出したというのは男が犯罪者になるという「弱み」であってそれを握った女児が普通は加害者である男の生殺与奪の権を握れるわけです。(この展開は未成年全体でJKでもあるからロリ要素ではないけど)
そういった中で女児からの「お誘い」の色気、受身ではない積極的な主体性。最高にファンタジーで最高にエロいですね。そこにちょっと陰の雰囲気をまとわせればなおよし。
方向性は砂漠に似てるっぽいけどこちらの方がだいぶ読みやすかった。
エロ漫画読者が一番喜ぶことはなにか。それは漫画を書いてくれることです。特に原稿不足に喘ぐ姿が見れるLOでは同人やパトロン系と共存しつつも取られているな感がありますね。
次に書くさらだの単行本も出ちゃったし、読んじゃったしで最近LOに好きな作家が減った・たくさん出ている号が減ったと感じていたときに出てきてくれた作家です。それから体感、コンスタントに作品を提供し続けていてくれて、個人的にここ数年LOをひっぱってきた人です。ありがたし。
作風は概ねエッチ好きな女の子が楽しむ女児メイン視点で明るめで開放的です。女の子はやわらかぷにぷに目で、ぽっこりおなかや大きめな胸の子も柔らかそうでヨシ!
全部好きすぎて単行本はどれでもいいけれどこれか初単行本の妹モノが好きです。
たまにインピオ書いてくれて助かる。
ロリ挙げるなら避けないかな。圧倒的リアル感の圧倒的ファンタジー作家。
とにかく気持ちいいことが大好きな女児というドエロいファンタジー存在を描きつつ、そこに男のエロに食いつく焦りであったり女児の無知さだったりで糖衣することですごい(ファンタジーだけど)リアル風さが出て興奮を煽られる。
逆に「売り」みたいなので事務的に処す子もそれはまたリアルで、またキスやフェラで感じるまでは行かないあくまで「穴ありき」さもエロい。
こんなに都合の良い存在が手に入るチャンスがあればいいのになあとつい思ってしまうのである。
純愛ものって苦手なんだけど、イチャラブに反してプレイが激しいのでギャップでエロい。女の子の発情してる感がつよつよのエロエロです。
作品は特に近作の「妹とノリでエッチした件」連作がずば抜けてクリティカルヒットしてるんですが、収録単行本は7/28発売で未読なのでこちらで。気になるなら「妹TRIP」の方をぜひ。
ロリもの、特に近親相姦ものの特色として、性に対して誤った倫理観を植えつけることができるというものがあります。所謂無知シチュにも通底する部分もありますね。それ自体が洗脳じみて背徳的なのですが、さらに一歩進んでそれがいけないことだと女児が成長とともに理解したうえで誤った行為を受け入れるというのはさらにさらに背徳的で、そういった近親相姦はもはや3乗4乗といったE=mc^2を軽々と超える破壊力を有します。それ以外にもいろんな方向性がありますが、インモラルな父娘ものでまとまった一冊です。
ロリの描き方にもいろいろあってあばら骨が浮くようなスレンダーなのからまだ肉が胸と尻に行かないもちもちとしたイカ腹幼児体形なのまでさまざま。それぞれによさがあります。
この作家はとくにかくプニプニな女児がいい!って時に。年齢はさらに下めで園児、園ジぇる寄り。+太眉属性です。プレイは激しくボテ腹までいくので尖り具合がすごい。刺さってしまったら返しがついているので覚悟しましょう。こんなの供給すくないぞ。
エロ漫画って男で抜いてるときと女で抜いてるときってありませんか?この作者は圧倒的に「感じてる女の子で抜いてるなぁ」と思う作風です。小さな体で限界いっぱい感じてる姿がエロすぎてヤバい。一貫してほぼ胸が膨らまない平坦な体でこれだけエッチにかけるのはもう脱帽です。
(王子様系と違って)男の子に間違われたり混じったりするボーイッシュが描けるのはロリの特権!そういった中性的な魅力もロリにはあるのです。そしてそんなロリがメスになる。いいですね。
SNSでもすこし前に流行った男水着チャレンジ。あれはいいものだ…。
笑顔が光る可愛い女の子たちと、ちょっと多めなおしっこ要素もついてきてボーイッシュが好きならアリアリです。
ただサンバ衣装はかなり厳選されるなー。僕はちょっとないです。
近親相姦する兄妹の「日常」の一部を切り取ったような作品が非常に素晴らしい作家。
行きずりの女の子もいいけどやはり今までの関係性が伺える長い付き合いの女の子や妹といったものはバックグラウンドを感じさせてディティールが深まりますよね。
昔は作品ごとに女の子の顔?の好みの当たり外れが大きかったが、ここ2冊でぐっとまとまり個人的に安定したので印象深く思い出し。
でも一番印象深いのは過去作の「ドライアウト」で作風も珍しいながら子が親に言う「あんたの穴ってさ なんのためにあいてんの?」というセリフ。女児が犯られる作品で放つこのセリフが親子の関係性合わせすごく記憶に焼きつきました。
メイトレジェンドやリョナキングを読まない自分の限界はこれぐらいかなという作品。たぶんほとんどの人はムリなはず。さすがに女児の堕胎まで商業誌でやるのはめったにないでしょう。
子供の家庭内の陵辱というのは、ただの監禁と異なって子供単独で逃げ出すことが難しいという点があるでしょう。自立できない被保護者である子供はひどいことをされていると自覚していても家を飛び出すということが容易には出来ません。そういった中での睡眠姦もまた独特で、薬で眠ったままや一度きりではなく、逃れられない家の中での逃れられない日常の眠りを脅かされるわけで、眠ると何かされるとわかっているが眠らないわけにもいかず寝ても覚めても地獄という様相です…。
好きというとただでさえアレな人間性がさらに疑われますが、ロリレイプものとしてレベルたっけーな…(げんなり)という感想です。
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10じゃ全然きかんな!ただ好きな作品を挙げるというよりロリってこういうのがあるよねって方向性でいろいろ思い出してみた。それでも純愛や大ベテランや淡い感じなのは好みじゃないので偏りある。
それから竿役にキモデブおじさんがあんまりいない…好きだけどそういうのは同人が主戦場かな。
なんとなく作家+単行本の形にしたけど結局、エロ漫画って最新話が一番エロいことがほとんどなんだよね。EB110SSみたいないろいろ変えてる作家は別だけど、EB110SS含め全員常に研鑽してるからすごいよね。何人か過去作挙げたけどもし興味が出て気に入りそうなら挙げたやつじゃなくて最新巻から読もうね。そっちがおすすめ。
政治とカルトの問題がにわかに注目を集めている。この問題の根っこの部分には、まず選挙運動における人手不足がある。現状選挙運動のためのボランティアに報酬を払うことは禁じられている。金持ちが財力に物を言わせてスタッフを大量動員して他を圧倒するようでは健全な民主主義が成り立たないので必要なルールであろう。だが結果として、無償奉仕をいとわない人員を大量動員できるカルトの政治的影響力が高まってしまっている。そこで表題の通り、「選挙休暇制度」を提案する。従業員に対して年間7日前後の「選挙休暇」を認めるようすべての企業に義務付ける。各選挙事務所がボランティア参加者に活動証明書を発行し、参加者がそれを勤め先に提出するようにするのがよかろう。ただし実際には、衆院解散から40日以内に選挙が行われるため、「選挙休暇」取得のための職場での調整が難しいかもしれない。もっともこれは選挙期間が短すぎるために議論が深まらないという以前から指摘されてきた問題と通底しており、むしろ選挙期間を延ばしたり、解散から選挙実施日までの期間に最低日数(例えば30日とか)を設定したりすることで対応すべきかもしれない。
もう一点。当選後も政治家の「人手不足」は続く。秘書のことだ。統一教会は多数の私設秘書を政治家に送り込んでいることが知られている。この点に関しては国費であがなわれる公設秘書(政策秘書、第一/第二秘書)の枠を拡充するべきだろう。現状3人の枠だが、不足しているがゆえカルトに入り込まれている。焼け太りと言われそうだが、必要な出費を惜しむべきではない。文通費のようなあいまいで国民の監視の目が届きにくい形態ではなく、きちんと公設秘書という目的を定めて予算をつけるべきだ。
最後に
https://togetter.com/li/1888551
オレの学生時代だった頃もう既に、露出を避けようと丈が長くなる傾向になっていた。
いつかは止まるだろうと思っていたが、まさかここまで身体のラインを隠したがるとは。
コメント欄によると、
ラッシュガードって、プールサイドで腕を怪我した事あったか? いや無い。ガードする必要はないはずだ。日焼け防止なら日焼け止めクリームを塗ればいい。脚も顔も保護できる。
なぜ、長袖にこだわるのか。その本音はやっぱり恥ずかしいからでしょう。
注意深く考えてほしい。ロリコンだからと言って無遠慮に視線を投げかける訳じゃないし、クラスメイトの体毛イジリもぽっちゃりしている男子へのいじめも、スク水を過保護化する事では、
最近の人気記事を思い出してくれ。“社会の歪み” 問題を提起した良記事だ。
ヘアドネーションという罪。「いいこと」がもたらす社会の歪みについて | ランドリーボックス
ヘアドネーションが善意で行われているのに疑いはないが、そこには多数派が少数派に圧力を掛けて、多数派に合わせるコストを薄毛の人たちに負わせてる側面がある。
オレが近ごろ主張してる、「女子ニュースキャスターを VTuber にすればいい、っていう考えは大間違い」にも通底する。男性ニュースキャスターに比べて女性ニュースキャスターは、美人だとか、スタイルがどうとか言う邪悪な基準でジャッジされてしまいがちだ。でも、「だから VTuber を雇用して完ぺきな見た目を与えれば、VTuber の人気にもあやかれるしwin-winだ。」…という考えは短絡的にすぎる。
恥ずかしさの問題から目を背けて、ただ隠すのを当然とするだけでは、事態はより悪化するだろう。
※末尾に追記2(5/7 19:26)、追記3(5/8 01:45)を付与。
※園子音氏に関する一部表現を修正。週刊誌報道を認めての謝罪ではないと判断したため。こちらで係争中と見られる件の善悪についての判断をするのは不適切と判断し、関連する記述は削除した。(5/8)
何故、フェミニストの中では「たわわ」がNGで、園子温は"無罪"(論じる必要がない対象)なのか?何故、オタクがバッシング対象で、ホストは共感の対象なのか?フェミニストの性質の中にその答えが眠っている。
「フェミニストの活動家達には、何故こんなに一貫性が無いのか???」
こんな事を一度でも思った事のある方は、少なく無いのでは無いか。
何故、フェミニストは、実際の被害者が居ない「たわわ」にお熱になるのに、被害者と称する女性からの訴えが週刊誌に載った園子温にはさほど関心を示さないのだろうか。
何故、フェミニストは、「海、似合って無いね」動画における反応のようにインドア派の男性(というかオタク)への蔑視を隠しもしない一方で、実際に女性を搾取するホストに対しては、さほど怒りの声を上げず丁重に扱ってしまうのだろうか。
何故、成人指定でも無いお色気漫画のゾーニングを強く求める一方で、BLに対するゾーニングに抵抗し自由を求めてしまうフェミニストが出て来てしまうのだろうか。
フェミニスト諸兄は、胸に手を当てながら読んで頂き、自分に当てはまる点について、「アップデート」する事は出来ないか、じっくりと考えてみてほしい。
フェミニストは、「〜だから、ダメ」というタイプの論理を多用する。
フェミニストが火をつける炎上は、基本、この論理のタイプで起きる。
一方、フェミニストは「〜だから、良い」というタイプの論理を使用する事については慎重だ。
この論理を使用する場合、フェミニストでなくても言える以上の結論となる事は、あまりない。「性的表象」のような妙なフェミニスト用語を使うケースは滅多に見ない。誰もが「そりゃそうだ」と思えるレベルの、ある意味無意味な内容の時に、好んでこの論理を使う事になる。
これはどういう事を意味するのか。
フェミニズムは「何が良いのか」「何がダメなのか」という事の境界線をきっちり引くことに、正面から向き合っていない、ということだ。
そして、境界線がないが故に、個々の事象に対する良し悪しの判断が、個々のフェミニストに内在する、明確な境界線のない嫌悪の反応(つまりは「お気持ち」)に委ねられてしまう事になる。
「一人一派」と言う表現は、その現状を言い換えているだけに過ぎない。
次の論戦を見てみよう。
https://togetter.com/li/1873195
この議論で最も重要な指摘はCDB氏による以下のコメントである。
小宮先生は『まずUN WOMENの主張を理解せよ』と仰いました。なので、『UNWは広告表象を問題にしており、表現を修正すれば掲載可能である』と主張していると解釈されるのか、それともUNWは作品そのものが広告掲載に不適切であると主張している』と解釈されたのか、小宮先生の解釈を伺っています。
「たわわ」の広告表象が問題であるのか、作品が問題であるのか、という質問である。小宮氏はこれに直接回答する事を避けている。
小宮氏を少し擁護すると、これは小宮氏でなくとも回答が困難な問いであろう。何故なら、UN WOMAN側がどちらの解釈が適切なのかを提示していないからだ。そもそもフェミニズムが、この場合にどう判断するかという線引きに十分に向き合ってこなかったのだから、小宮氏にはどちらとも言えないのである。
UN WOMANのコメントがなければ解釈が出来ない、という構造は興味深い。つまり、結論が先にあって、その理論付けは後から行う、と言う実態を示唆しているからである。
多くのフェミニストの主張では、個々の事象に対して、それを許すか許さないか、についての個人の無意識的なバイアスに基づく判断が先にある。そこから理屈が逆算される形で構築されるのである。
最近、「当事者性がある人が批判するべき」「当事者性がなくても批判できるべき」と、シチュエーションによって主張が安定しない論者が話題になった。
理由は簡単で、その場その場で結論から後付けで理屈を構築しているからである。
シチュエーションによって、議論の構造と前提が異なるため、その場で自分に都合の良い形(言い換えると「お気持ち」)で論理を組む事になる。結果として、ダブルスタンダードな主張が散見される事になる。
良し悪しに関する客観的な物差しの不在はまた、男性に向ける物差しを自分に適用しないように巧妙にサボる事も可能にする。
「海、似合ってないね」という例の動画を見れば、これがジェンダー的にかなり多くの要求を男性に課している事は間違いない(性別を逆にして、スタイルの悪い女性に「海、似合ってないね」と言ったら大炎上するのは、火を見るよりも明らか)。しかし、何人かのフェミニストはこの動画を絶賛した。
それは、彼女らが自身の中にジェンダーについての規範をインストールしてこなかった事を強く示唆している。言い換えると、相手に求める厳しさを自分に適用していない、という事である。
「たわわ」や「宇崎ちゃん」に怒りながら、BLの不健全図書扱いに怒るフェミニストもまた、非常にわかりやすい例である。男女間で別の基準を適用することの狡さを、本人の中で言い訳をしながら共存させてしまっているのである。
フェミニストは、ダブルスタンダードと言われても意に解さない。
自分が悪者になりうるような基準を、そもそも自分の中に持たない(もしくは言い訳、という形でパッチを当てる)事で、「自分がおかしいのではないか」と懐疑心を持たなくても済む、という構造があるからである。
なので、フェミニストが自分が責められた時によく使うロジックは、「それには当たらない(だから自分は悪くない)」である。常に自分は(何やかやと言い訳をして)安全地帯にいることになっているのだ。
私見だが、
この文章を読んだフェミニストは恐らく「これは、きちんと書けていない。だから自分の話では無い」と矮小化するか、「この論理は破綻している。だから認める必要はない」と全てを排除するか、の大きく2つの類型に向かうのではないか、と予想している。
フェミニストの一部に非常に性格の悪い人間が居る。多分本人は気づいていないだろうが、周囲からは丸わかりである。これはフェミニズムが他責型の人間にとって居心地が良い構造にあることと無縁ではないだろう。
フェミニストは行動を起こした結果がどうなろうと、その事にはあまり関心を持たないし、結果に責任を取ろうともしない。ましてや「これはやり過ぎたのでは?」と思う事もない。
大量の人間を集めて、一人の人間を徹底的に糾弾するほど、社会的に強いメッセージを発している。にも関わらず、問題が起きても、誰も責任者が出てこない。これはあまりに情けない話で、呆れている。何故フェミニストはこんなにも無責任な人間の集まりなのだろうか?
オープンレターでもう一つ興味深いのは、「教授」などの肩書きをとても重要視している事だ。単なる署名であれば肩書きは不要であるはず。肩書きをつける事で権威を付けて相手を攻撃しようと言う意図を読み取る事ができる。
たわわの件でも「UN WOMAN」が日経新聞に抗議するというアクションが取られている。
演繹的な議論を嫌う性質と、結論ありきの権威主義は相性が良いといえば言い過ぎだろうか?
この文を読んで、「アカデミックなバックグラウンドを持つ人物かどうか確認出来ないからダメ」と考えるならば、それはつまり権威主義の病が膏肓に入っていると言えるだろう。
フェミニストは自分を省みないので、まともにこれを読まない人間がきっと多数だろうが、フェミニストでなければ首肯する点が多いのではないか。
また、上記の逆になるように行動するようなフェミニストは健全であるとも言える。皮肉ではなく、そのようなフェミニストであれば全力で応援したい。
他者にばかりアップデートを求めるフェミニストに自らのアップデートが出来るとは到底思えないが、実現すれば結果としてもっとジェンダー的にフェアな状況が生まれるように思える。
若い世代でフェミニズム離れが進むのは、こういうフェミニスト・フェミニズムの(卑怯な)特性に嫌気が差している部分も大きいと考えるからだ。
面白いなー。園子温への対応の話以外にも一貫性の無さを取り上げているのだけど、園子温の件を否定できれば俺無罪!!という感じのブコメが多くて興味深い。通底するテーマは批判するかしないかに関する基準の無さ、一貫性のなさだよ。園子温に対する考え方をちょろっと批判した、という程度では揺らがない部分。
BL無罪の人なんて、フェミニストの矛盾を体現するようなアクションだったけど、そこには全く目を向けない。まー、フェミニストは、自分に問題があるかもしれない、という論理は受け入れ無いということが良くわかる。
lacucaracha:
有罪だから語るべきものがない、って不思議な論理だね。UN WOMANが、園子温(や榊秀雄)のような現在進行形の問題よりも先に、たわわのように複雑な議論が必要な事象を糾弾したのは何故?
cinefuk:
「女性差別的な文化を脱するために」と、特定の人間を貶めるためにフェミニストが結集し、オープンレターを叩きつけ、失職に追い込んだのと比べると、今回は弱々しいですね。名指しでないオープンレターぐらいはあってもよかった。
(女性原作者のオープンレターをフェミニストの手柄にするような下衆しぐさはしませんよね?)
「たわわ」との違いは、園を免罪しようとする擁護が出なかったからでは。炎上案件は、フェミの批判より反フェミが盛り上げてる印象
たわわには反論すべき論理もあるけど、それ故に炎上の責任を負わされる、という構造があるのであれば、それは容認していいの?
ウクライナが抵抗したから戦争が激しくなった、みたいな論理ですよ、それ。
todomadrid:
園子温を支持しているフェミニストなんて存在するの?そしてそもそも、広告のバッシングは広告主や媒体、もしくは痴漢をバッシングしているのであって、オタクをバッシングしてるわけじゃないので勘違いでは。
何で「園子温を支持している」にすり替えてるんだよ。こういうフェミニズムの卑怯さの構造を説明したんだからしっかり読め。
フェミニストのオタクバッシングは結構見苦しいものがあるので、これも話をすり替えないように。だから、たわわと園子温事案の熱量の差は何だよ?という話をしている。
kohgethu:
誰が性的加害やらかした映画監督どもを無罪と言ってるんだ?奴らは粛々と社会的制裁を受けてるし騒がなくても罰せられている真っ最中なので騒ぐ必要が全く無い。もしも当人が足掻いたならたわわレベルに炎上するよ。
https://www.jprime.jp/articles/-/23703
Domino-R:
一昔前に、一部の女性が自分はフェミニストをやめたと、怒りながらに距離を置くのを見ていたが、理由が分からなかったんだな。
フェミニストとの議論を通じて気付いたのは、フェミニストの立論が場当たり的で、論理がなく、端的に不誠実だという事。何故か自己中心的で、話のすり替えに余念がないクズが多くて、腹が立つ事がやたら多いんだよ。
フェミニストは、ツイフェミに限らず、例えば立憲民主の中で、まともな議論を尽くさずに議員を辞職させたりしている。害悪が大きくなるばかりじゃん。その構造がクリアでなかったので、まず見える化をしようとして書いた。
今回まとめた特徴に合致しないフェミニスト、ほんと見つからないね。居たら連れてきてよ。1人でも居ます?
こっちに移動
俺は中学生くらいの頃までは「ひょうきんな変わり者」、高校~大学では「学校の端っこでワイワイやってるオタク」みたいな立ち位置で、社会人になってからは一般的な会社員として世間から爪弾きにならない程度には上手くやっているけど順調にライフステージを踏んでいる「立派な社会人」って感じでもなく、なんていうか自分がマス層に馴染めない人間みたいな自意識を抱えて生きてきていた。
ただ、自分は大衆に馴染めないみたいな自意識過剰を抱えていても、アンチ大衆的な思想ではないらしい。
例えば、政治の話。
はてなじゃ「自民党が政権与党に居座れてしまような世の中、間違っている!」みたいな意見は珍しくないが、正直、俺はその手の意見には全然共感できなかった。
俺自身、自民党に対しては特別推せる個人が自民から出馬した時に出ていた時に数回投票したことはあるが、そういう場合以外は基本的には投票することはないので、反自民でこそなけれど間違っても新自民ではないつもりだ。
だけど同時に、選挙の結果を見れば、自民が与党の座を譲らないでいることも、どこかの党が議席数を増やしたり減らしたりしたことも、まあだいたい民衆の望みに添えている党がその分だけ票を得ている妥当な結果だよなーって感想になるし、同じ選挙結果を見ても「大衆がバカばかりだからこんな結果になるんだ!」と吹き上がっている人達には正直嫌悪感しか湧かなかった。
あるいは、今、はてなで最も熱い、たわわ広告の話。あるいはそれらの連なるフェミニストによる表現規制の話。
俺はそれらの規制にはだいたい反対の立場を取っているけれど、原理原則的な表現の自由を掲げているような人たちにもあまり共感はできなかった。
表現の自由は最大限尊重されるべきだと思っているつもりだが、それでも100人いたら99人が「これは公共に相応しくない」と判断するようなモノは相応のゾーニングをされるべきとも思ってしまう。
たぶんそれは俺自身がグロ画像とか虫系の画像とかが苦手で、そういった表現と街中でバッタリ出くわさないように自分自身がゾーニングによって守られているということに自覚的だからだと思う。
だけどその上で、フェミー萌え絵系の表現規制に反対なのは、所詮それらの萌え絵に対する規制論調は『世間一般』では全然触れられもしない程度のモノで、一部の人が叫んでいるモノに過ぎないという認識だからだ。
世間的にはフツーにスルーされる程度の表現を一部の過敏な人の反応を理由にゾーニングしろというのは、まあ間違ってるよなぁという考えなので、規制には反対している。
思えばはてなに来る前、5chに触れていた頃でも、アイドルソング叩きとか、東京に集まる人ことへの批判とか、「馬鹿で無知な大衆によって劣悪なモノが人気を得てしまう」という趣旨の話題には全然のれなかった。
Twitterは今でもやっているけど、それは、Twitterは尖がった人はたくさんいるけど、人が多い分、全体で見れば(ネット民的な偏りはあるけど比較的)大衆的な価値観に落ち着きを見せるので、居心地悪く感じないからだと思う。
「選ばれるものは選ばれるべくして選ばれる」し、「自分含めた大衆はそれなりに賢くそれなりに妥当な判断をして生きている」という考えが自分の中には通底してあるんだろうなぁと、はてなの尖った意見と自分を相対化して自覚することができた。
こんにちは。Liella!の新メンバー追加の話をしましょう。
私はアニメ、1stツアーから入って2nd全通ファンミ全通しようとしてるくらいにはオタクになったので思うところはかなりあります。
きっと声豚以外には声優の結婚で発狂してる声豚の気持ちが分からないように、今回の気持ちも分からないと思うので何がモヤモヤしてるのか書きたいと思います。行き場のないお気持ち表明。あくまで個人の見解です。
1.新メンバーの追加のなにが悪いの?
Twitter見てたら坂道などのアイドルグループは卒業や新メンバーの加入がある、それと同じでは無いかという話がありました。
私個人としてはアイドルという括りで見れば、新メンバーの追加はアレルギー反応が出るほど悪い事だとは思いません。ただやはり気持ち的に納得できるかと言われれば微妙です。
坂道などの3次元アイドルとは違ってラブライブ!はいわゆる2.5次元です。Liella!はキャストがだいぶ前面に出ているので少し違うかもしれませんが、基本的にはキャラクターありきです。
リアルアイドルには人生があります。それこそ結婚することだってあるし、アイドル以外にやりたいことがあれば別の道に進むことだってあるでしょう。歳を取ればそもそもアイドルがきつくなることだってある。その結果としての卒業や新メンバーです。これは正常な新陳代謝の結果でしょう。
キャラクターありきのアイドルは2.5次元ですが、構図としては2次元のキャラクターがいて、それを演じる3次元の人がいます。大元は2次元なわけです。2次元のキャラクターはもちろんアニメの中では結婚するかもしれないし、卒業するかもしれない。ただ、アイドルとして生み出された時点で、言ってしまえばアイドル中心でそのキャラの人生が回っているはずです。のび太君はドラえもんに助けられてひみつ道具を使う存在として生まれたキャラクターだし、サトシはポケモンマスターになるために生まれたキャラクターです。それと同じでアイドルとして生み出されたキャラクターには最初からアイドルとしての宿命しかありません。言ってしまえば制作陣のマリオネットで、そこにキャラクターの意思なんてものはないし、尊重されようがない。卒業、新メンバー加入はキャラクター本人依存にはなり得ないし、新陳代謝の必然性はないわけです。
もちろんキャストの降板などで3次元に2次元が引っ張られることはあるかもしれない。でも今回はその必要性があったとは言い難いケースだと思います。だってLiella!は5人で充分回っていたんだから。
2.新メンバーの追加があるって予想できたよね?
予想できてたら実際に嫌なことがあっても悲しくならないんか?おおん?
Liella!を描くラブライブスーパースターはシリーズ初の全員が1年生キャラということで、これまたシリーズ初のサザエさん時空からの離脱、進級が容易に予想出来ました。それに伴って当然新メンバーという考えもありました。でも5人でピースして五芒星を作ったり、あれだけ5人でLiella!だという姿を見せつけられたら部活への新入生の加入はあってもLiella!への加入ではなく新グループなのかなと思うじゃないですか。Liella!への新メンバーの加入という可能性は見て見ぬふりしてました。嫌なもんは嫌でしょ。
Liella!の初期キャストが発表されて活動を始めたのは2021年の頭でまだ1年と少ししか経っていません。ただ、この間にいろいろなことがありました。1stシングルの発売、TVアニメ放送、計30公演近くにわたる1st、2ndライブツアー、1stアルバム発売。これ以外にも特にアニメ放映後のLiella!の活動ペースは異常で、数え切れないほどの露出がありました。今思えば5人でいる時間制限のある中で生き急いでいたんだという感想になりますが、その結果としてLiella!は5人だというイメージが強くなりすぎてしまいました。
ラブライブというコンテンツはアニメありきのコンテンツという色もまあ強くて、アニメ1期でも5人でLiella!だという所を非常に強く描いていました。ラブライブ優勝というシリーズに通底する目標があるのですが、1期最終話でLiella!の5人はラブライブ予選で敗北して終わります。私としてはこの5人でラブライブを優勝して欲しかった。新メンバーの加入で優勝しても、5人でダメだったけどもっと人数が増えたら勝てたみたいな穿った見方は免れません。ましてやこの1年強のキャスト陣の活動でLiella!の5人への思い入れはかなり強くなっていました。非常に残念でなりません。ファンの中のLiella!は5人のイメージで固まってしまっていて、新メンバーの加入でそれが崩されるというところでしょう。私もこれがいちばんの理由です。
もし1期が連続2クールで2クール目で新メンバーの加入ならどうだったでしょうか。1期と2期で1番変わったのはキャストへの思い入れ以外ないでしょう。ここに間髪入れていなければLiella!は最初から9人として割とすんなり受け入れられていたのではないでしょうか。私も最初に思いついたのですが「けいおん!」の中野梓がこれですね。
オタクというのは保守的でこだわりの強い精神疾患持ちばかりなので配慮が足りていません。
4.情報発表の時期
どうしてこんな何も無いド平日にこんな重要情報をWebページ、あるいは雑誌で出したのでしょうか。せめてキャストの口から直接聞きたかった。それこそ4月の頭にあった2ndライブでファンミツアーを発表した際に一緒に発表する内容だったでしょう。そうじゃなくても、なんならアニメまで伏せておいても良かった。アニメで上手い事加入会をやればここまで反発もなかったでしょう。ファンミツアーでサプライズ発表&登場とかいう考えうる限り最悪の手段ではなかっただけマシですがタイミングはもうちょっとあったと思います。
新聞でいきなりμ'sファイナルが発表された時と比べてマシだと言ってる人がいましたが、真剣にLiella!を追っている身としては5人のLiella!は死んだも同然なので正直比べられてマシだと言われても困ります。まあここもセンシティブな話なのでこれ以上はしません。
5.虹ヶ咲という前例
ラブライブシリーズに虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会というのがありますが、そこでも新メンバーの追加は行われました。この際にも大炎上しているのですが、この理由が加入シナリオの酷さです。今まで敵みたいな対立構造を作っておいて、はい新メンバーですなんて言われても受け入れられないでしょう。本当のところはシナリオに関わらず、そもそも新メンバーの加入を嫌がっている人もかなりいたのでしょうが、とにかくこの騒動で新メンバーは受け入れないみたいな土壌ができてしまったように思います。
ここら辺はセンシティブな問題で、私もそもそもずっと同じメンバーで活動してきたところにいきなり新メンバーが加入というのは受け入れ難いです。この問題を産んだのも時間ですが、解決してくれるのもまた時間の経過しかなく、アニメなどの供給の中でオタク側が気持ちの整理をつけていくしかないと思います。
ここで大事なのは時間が経って受け入れたとしても新メンバーの追加が正解だったとは思わないというところです。5人と9人で同じクオリティの展開をするなら、メンバー追加で燃えた分9人の方がマイナスです。逆に言えばスーパースター2期が神アニメになるなら掌を返すかもしれません。正直1期も虹のアニメで上がりすぎた期待値を余裕で下回って行ったので可能性はある。
最後に
朝起きたらTwitterのトレンドに「Liella」が上がっていて不祥事でも起きたか?と思って見たら新メンバーの加入で燃えているところでした。私も最初は絶対受け入れられないというレベルの拒否反応が出て、仕事のやる気も吹っ飛びました。
まあ朝2時間ほどTwitterで運営への文句を吐いてたんですけど言ってもしょうがないなと冷静になりました。新メンバーが追加されてLiella!の形が変わっても、今の5人が、伊達さゆりさんのことが好きなのは変わらないし、彼女たちを見れないくらいなら、仮に9人のLiella!を吐くほど拒絶したとしても歯を食いしばって見に行きます。嫌なら他界すればいいとか言ってる奴は人の心を理解できないモンスターです。そんな簡単な話じゃねーんだよ。久しぶりにオタクとして全力で熱をあげられるコンテンツに出会ったのにそんな簡単に捨てられるほど冷静じゃねえーーーー
やる気でなくて仕事しながらスマホ見てたんですが、10時に公式から発表ツイートがあって伊達さゆりさんが即リツイートしたのを見て、本人がそれでいいなら外野が言うことは無いなと思いました。本当のところは分かりませんが、夕方に彼女の言葉で発信してくれてやっぱり安心しました。好きな人に応援してねって言われたらいろいろ不確定な今の段階ではもうこれ以上は何も言えないです。ただ9人のLiella!が楽しみとはやっぱりどうしても言えないです。心の整理にはまだ時間が必要なので。
私は今のLiella!の5人がどうしようもなく好きだし、少なくとも彼女たちがやりきるまでは見届けたいと思います。2年生になって、3年生になって、卒業という日が来るのかもしれませんが、それまではここまで熱中させてくれた5人に一方的ではありますが恩を返すつもりで応援していこうと思います。アニメの出来が悪かったら別ですがなるべく文句は言いません。頑張ります。
自分はたぶんどっちかというと死刑廃止派で、だけど自分の大切な人がむごい殺され方したら「犯人を殺したい」と思うはず、という人間です。
日本における死刑の議論において、当然のように前提となっているのが「司法は復讐の代行機関(たるべし)」という考え方です。
たしかにそうであれば胸がスカッとするかもしれませんが、果たしてそうなのでしょうか?
結論から言うと、歴史的経緯からは「NO」です。このあたりの話はこちらのエントリがよくまとまっているので、一度読んでみてはどうでしょうか。
https://kihamu.hatenadiary.org/entry/20071206/p1
https://kihamu.hatenadiary.org/entry/20080707/p2
https://kihamu.hatenadiary.org/entry/20080816/p1
もう一つは、西洋における死刑の歴史を紐解かなければいけません。
西洋に限らず、アニミズムに端を発する文化圏ではしばしば生贄という慣習がありました。
これは自然や不運という「命を奪いに来る制御しがたいもの」に対し、あらかじめ命をささげておくことでそれを鎮めるという狙いがありました。
なので、何らかの理由を持って定期的に人を殺害するというのは文化的には自然なことであり、その標的となるのは罪人や余所者であることが多いのも納得しやすいでしょう。
また西洋における近代法や人権の考え方として、国家や権力というものは暴走し、それを個人(市民)がけん制しなければならないというものが基礎としてあります。
フランス人権宣言以降、西洋の法というのは個人を縛るものであると同時に国家を縛るものでもあります。
よって、西洋の諸国家には国家があくまで法に則して虐殺・恣意的な死刑を執行した歴史があり、その反省として死刑廃止がトレンドになっているという経緯があります。
日本でもたまに、政府高官が不審死することがあるでしょう。あれも広義の国家権力の暴走による死刑です。
「冤罪だったらどうする」論もこの辺に含まれるものと考えていいでしょう。つまり裁く側の権力が間違ってたらどうする?って話なわけです。
ここで困るのは、そうした西洋近代法の成立に通底する思想と、天下り的にそれを”輸入”した日本人の仇討ち感覚との間で、死刑だけが異質なものとして浮き上がってしまっているのです。
刑法論には「応報刑論」と「目的刑論」というものがあり、簡単に言えば「刑罰で犯人に同じだけの苦痛や損害を与える」というのが応報刑論で「刑罰でその犯罪を思いとどまらせる」というのが目的刑論です。
例えば次のような命題がそろっているなら、論理的に考えて死刑廃止に賛成する人がいてもおかしくないはずです。
・「司法は歴史的に見て復讐を代行する機関として成立したものではない」
・「死刑があるからといって凶悪犯罪を思いとどまる奴は少ない」(目的刑論)
・司法は歴史的に見て復讐を代行する機関として成立したものではない
⇒知らねーよ輸入したんだから。こちとら150年前まで仇討ちやってたんだよ。
⇒でも犯人殺してすっきりしたいじゃん?(応報刑論絶対正しいマン)
日本には死刑廃止に至る十分なロジックがないということなのです。
私も親や配偶者や子供を殺されたりレイプされたら、それ以上の苦痛を与えてやりたいと思う程度には俗な人間ですが、でもそれって俺の感情であって司法のあるべき姿とは限んないよな~とも思います。
光市の母子殺害事件なんかで遺族の男性が会見している風景をテレビでよく見ていました。
非常に痛ましい事件ですが、あのあたりから「遺族の感情を司法に反映すべき」みたいな意見が増えて、なんかモヤっとしていました。
そして裁判員制度までもを輸入した日本ですが、上のような議論を経ずに来ているので変なことになっているなと思います。
「うるせぇ、俺は加害者殺して気持ちよくなるんじゃ!」とクールジャパンな法整備をしてもそれはそれで結構なんですが、外国から「お前の国って法学無くなったん?w」って笑われるのがオチだと思います。
https://anond.hatelabo.jp/20210204104014
フェミニズムの愛すべき要素の一つに、共感や連帯を大切にするという価値観がある。誰かが泣いている時、証拠や事実検証は、大抵役に立たない。いの一番に、「私もあなたのために怒りたい」と表明し、それを実行しなければ社会は変わらないのだと、痛い目に遭いながら学んできた。これはフェミニズム界隈を通底するルールだ。誰かが被害を表明すれば、ただちに飛んでいって守り合う。客観的なデータに基づく結論は、提示するのに時間がかかるし決まって歯切れが悪い。だからスピードと攻撃力が高い「お前は差別主義者だ。私は傷ついた」と言い切る思い切りが習慣になる。
多分、Twitterがなければもうちょいまともだったんじゃないかね。
収入、学歴、容姿。共感で駆動するフェミニズムは、これら男性のステータスに対してどこまでもプリミティブな接し方をする界隈だ。フェミニズムが世間を席巻し、プレイヤーの絶対数が増えるにつれ状況は悪くなっている。
これも、結局「フェミニストの中で力を持った(フォロワー数が多い人間)」が、実は従来通りの男社会のコードに合わせるタイプの人間だったから、だよね。
お前ら深く考えずに回ってきた発言をRTしまくるからダメなんだよ。
古い世代の連中より高潔でありたいと、いつも願っていた。けれど蓋を開けてみれば、力不足ゆえに無害なだけだった。体に染み付いた被害者意識は、私たちがいじめ行為に至る際の非道な言い訳と成り果てた。
別にそこまで言わんでもいいじゃん。
今の過剰な力を放棄すればいいだけよ。