はてなキーワード: ふぞろいとは
そりゃもう、アン・ルイスの「六本木心中」でしょ。おぎのめちゃん以前にアン・ルイス姐さんだよ。
大学の広告研究会がパー券売って、六本木のディスコでやるパーティーで一番盛り上がる曲。
頭数がそろわないときに、タダでいいから来てよって、パー券が回ってきてたから、よく知ってる。
そういうのと、ブルーハーツやナゴムレコード、トランスギャルなどが同時代ね。全くの異世界。
あたしは後者側で、友達の彼氏(KOか何かの広研の人)のつながりで
六本木のパーティーに頭数として動員されてた。というかタダ酒飲みに行ってた。
尾崎豊もチャゲアスなんかも同時代。あたしはどっちもろくに聞いたことない。ダサくって。
「若者の気分」として広く共有されてたのは、あとはサザンの「いとしのエリー」かな。
バイパス沿いに新規開店した無印良品の店舗でふぞろいバームクーヘンを四つくらい買って、チャリのカゴに乗っけて秋空の下を帰りたい
じっさい、噂レベルではあるが、無印良品の店舗ができるって話はある
秋という季節、消滅したのか?と思ってたけど、最近の気候はまさに秋と言うべきで、たいへん心地よい
今年の秋には間に合わないだろうけど、もしかすると来年秋には間に合うかもしれない 無印良品の開店
バイパス沿いだったらチャリで2〜3キロくらいなんで、全然行ける距離だ
バイパス沿いの歩道は広くて、人はほとんど歩いてないし、道は真っ平なんで、非常に快適にチャリに乗れる
そういうガタつきにあわせて、エコバッグに入った、無印良品の不揃いバームクーヘンが揺れる
赤いペラペラのエコバッグの生地を、秋の陽光が透かして、不揃いバームクーヘンがうっすら赤い光に包まれている
空にはほとんど雲がなく、かなり青い
そういう場面が想像される
それはマジでいい場面だと思うんすよ
無印良品はできてないし、ホントにバイパス沿いにできるのかわかんねえし、ホントにチャリで行こうと思うのかわかんねえけどな
でも、できたあかつきには、絶対行きてえ 秋の晴れた日にチャリで行きてえ
「バスの揺れ方で人生の意味がわかった日曜日」のような話で、不揃いバームクーヘンの揺れ方で俺の人生の意味が見えてくるだろうと思う
そこにはある程度の確信がある
最近あんまり仕事が忙しくなくて、ストレスも少ない感じがあり、それはいいんだけど、そうすると増田を書く気力というか能力というか、そういうものがあきらかに減衰する感じがあって、ちょっと怖い
まあ増田なんか書けなくたってまったく問題はないんだけど、とはいえ、一時期はもう、画面に向き合ったらドンドン指が走っていきますわよ〜ッ!って感じだったのに、いまやホント、なんにも書くことありませんわねぇ……としか思えないのは、やはり、人間として劣化してんじゃねえか?という感じがする
ただ、まあ、何もないですねえ……
生活に変化がなさすぎるのかもしれないなと思う
家・職場・スーパーマーケットにしか行っていないから、波風が立たなくて、なにも出てこない
近所の川沿いなんかを散歩するだけでもあるいは結構違うのかもしれないと思う
川っつうか、なんつうか、アレかな、近所のスーパー銭湯、アレに行けばいいんじゃないかな
でも最近はあまりに暑すぎて、銭湯の帰りの暑さだけで、風呂に入ったというのを帳消しにするほどの汗をかくことが目に見えているから、どうも気が乗らない
バイパス沿いに無印良品の店舗ができるっつう話があって、俺はそれを心底楽しみにしている
無印良品の店舗ができたら、チャリを漕いでいって、ふぞろいバームクーヘンなんかを買って、それも複数買って、それをチャリのカゴに乗せて、やったぜ〜ッとか言いながら帰りたい
できれば秋の晴れた日であってほしい
そうやって終わりたいと思う
ザイオンス効果という言葉を初めて知った。wikiによると以下のことなんだそうだ。
単純接触効果(たんじゅんせっしょくこうか、英: mere exposure effect)は、(閾下であっても)繰り返し接すると好意度や印象が高まるという効果。1968年、アメリカの心理学者ロバート・ザイアンスが論文 Zajonc (1968) にまとめ、知られるようになった[1]。
ザイアンスの単純接触効果、ザイアンスの法則、ザイアンス効果などとも呼ばれる。対人関係については熟知性の原則と呼ばれる[2]。
はじめのうちは興味がなかったものも何度も見たり、聞いたりすると、次第によい感情が起こるようになってくる、という効果。たとえば、よく会う人や、何度も聞いている音楽は、好きになっていく。これは、見たり聞いたりすることで作られる潜在記憶が、印象評価に誤って帰属されるという、知覚的流暢性誤帰属説(misattribution of perceptual fluency)で説明されている。また、潜在学習や概念形成といったはたらきもかかわっているとされる。
図形や、漢字、衣服、味やにおいなど、いろいろなものに対して起こる。広告の効果も、単純接触効果によるところが大きい。CMでの露出が多いほど単純接触効果が起きて、よい商品だと思ったり欲しくなったりするのである。
Z世代に顕著と元増田はいうのだが、上記定義をみると、広く言えば、むしろ日本の集団主義的な組織風土をドライブするメカニズムに関係しているように思えるね。単純接触効果を組織内でうまくつかって「うちわ」の安心感を醸成してゆく、というか。
従来の日本の組織というのは、年配者が半ば強引に、単純接触の機会(パワハラ的指導、飲みにケーションが最たる例)をつくり、すでに組織内で支配している層に居心地のいい「うちわ」感を若者に覚えさせてゆくプロセスを通じて、世代間の組織風土の持続性が図られてきた。80年代、上司の室田日出男が新人部下の中井貴一をオルグして毎晩カラオケについていったように(ふぞろい世代)。
そういう見方をしてみると、要するに、ザイオンス効果をとらえて、Z世代の特徴かというと、よくわからない。
恐らく、ザイオンス効果自体は変わらないけれども、変わったのは環境なんじゃないかな。Z世代以前以後で。
Z世代以前と以後では、世の中の居場所、選択肢が急速変化している。
80年代のティーンの居場所は、学校かゲーセンか、盛り場、塾だったし、学校が嫌になった場合の逃げ場が限られていた。
通信手段も、携帯電話は存在しなかったから、友達からきた電話を親が先にとる時代だった。娯楽も限られていた。
消費者の選択肢が少ないから、メーカーもプロダクトアウトな発想で、繰り返しCMを流し、消費者に刷り込みをかけてマスな製品を作ってしまえば市場を席捲できた。ソニーのウォークマンが典型。これもザイオンス効果のひとつといえる。
マスな動きに取り込まれる(流行に乗る)ことが取り残されない条件だったし、会社でも上司に従うしか、居場所を見つけられない時代だった。
政治選好的にも、当時の自民党VS社会党というのは、絶対的な安心感を与えていて、とにかくうちは自民党、うちは問答無用で、昔っからおたかさんみたいな時代。
そして、学生から社会人など、環境が変わるたびに、通過儀礼的に「その空間での安心感はこれだ、こういうやり方してりゃいいんだよ」と新参者は叩き込まれる。
しかし、90年代以降の動きというのは、情報革新によって、ニッチな居場所、環境が急激に増えた時代。あるいは気が付くことができるようになった。
ニッチな環境がどんどん増えて、自分で居場所を選べるようになった。
政治も細川政権以降、離合を繰り返した。会社組織も働き方や仕事の仕方に、多様性を認めるようになってゆく。その最初のきっかけは80年代、転職というムーブメントだった(リクルート)。
しかし、自分で転職したり、ニッチな空間をみつけて得られる安心感というのは、自分の欲求ニーズにジャストミートをするという意味では安心だが、例えば自民党を疑いもしない時代に比べると、寄る辺のなさを感じるものであり、かつてほど盤石ではなく流動的で、大きくもない。
そしてかつてのような大きな主体に取り込まれることの安心感が少なくなっているんだろうと思う。
昔だったら、そういう大主体は自分から探すものではなく、人生のステージがあがると、会社の上司が象徴するように、待ち構えているものであって、
飲みにケーションの洗礼をあびて、数年で組織に同化していった。同化の過程は最初は激烈でキツイんだけど、集団に慣れると逆に居心地がよくなるのだ。
ザイオンス効果という言葉をあえてつかって、前世代の特徴をいえば、オルグする、という意味で、プッシュ型のザイオンス効果。紙の新聞メディアもその典型で、世の中の標準的な考え方というものをテレビや新聞などのメディアを通じて受け入れるプロセスが存在した。
しかし、情報通信革命がもたらしたニッチな空間、居場所への気づき、というのは、自分から自発的に、その時々で感じている不安・ニーズを解消する場所へ向かえるようになった、という意味。
自分から安心を探し出す、という意味ではプル型のザイオンス効果。簡単に答えがみつかるからSNS依存を深めてしまう。自分の疑問や不安は自分からググればなんとなしに答えが見つかる、という。Togetherは都合のいいようにあたかも大勢の人が考えを共有しているかのような細工をして答えを提供してくれる。電子掲示板やSNSの、自分と似た意見や思想を持った人々が集まる場で、自分の意見や思想が肯定されることで、それらが正解であるかのごとく勘違いする、いわゆるエコチェンバー効果が議論されるようになったのも2000年代初頭。
こういう時代には、何が標準的な考え方で、支配的な考え方なのか、それを新聞などマスなものを通じて確認する、ということが難しくなっている。
SNSなどを通じて自分の求めている何かを見つけてしまえる安心感と引き換えに、いろいろな人がいろいろな場所に安心を見出すようになって、マスなものにピントが合いにくくなってしまった。
だけれど、恐らくザイオンス効果がプッシュ型であれプル型であれ、本質的に、よりマスなものを求めて安心する、という傾向は変わってないんじゃないか。
一方で、プッシュ型のオルグからうけるストレスに、自分で答えを探すことによってすぐにすり抜けてしまう、ここにZ世代の特徴があるかもしれない。
昔だったらほかに選択肢もないことから、ちょっと我慢して順応せざるを得なかった組織も、今ではそのストレスから逃れる手段も選択肢も豊富。
ストレスから逃れた先に、当面の安心感はあるかもしれないが、マスなものに比べれば脆弱だ。
それはパーツパーツでちょっとした安心感を消費するものであって、全体として組織が自分を傘のようにかばってくれるような安心感ではない。
それはむしろ、自分で集めた安心、時代のキーワードを寄せ集め、組み合わせてコンセプトを自分なりに構成していかなければならない。
上司の説教など、プッシュ型を避けてしまえた結果というのは、つまりそういうことだ。しかし、そういう構成力というのは、若者の経験、能力、資質にどうしても依存してしまう。
自分自身をふりかえってみても、そういう試みというのは、一時しのぎになりがちだ。安心をみつけるのはほんとに安易になった時代だ。
しかし、だんだんわかってくる。マスなものも慣れてくる。経験を重ねるとみえてくるものが増えてくる。その経験値の差が今の時代に、なんとなく世代間の差のように映じているんじゃないだろうか。一昔前だったら、そんな個人的な経験値など全くどうでもいいものだったと思う。
若年層の政治的な保守性というのは、保守の理念への信頼ではなく、
寄る辺のなさからなんとなしに選択されているんだろうと思える。
もう一度繰り返すと、ザイオンス効果自体は、安心を求める日本社会において、Z世代を特徴づけるものというよりは、全世代に通底するものかもしれない。
とおりすがりがコメント欄をを染めてゆくのさ
僕らの心の中へもしみこむようさ
いつだっておかしいほど誰もが誰か disりdisられて生きるのさ
そっと手をのばせば僕らは自演できたさ
けどそんな時はすぎて 大人になりずいぶん経つ
星が輝くブクマが待ってる夕べさ
(セリフ)「バッタやイナゴたちが 小麦畑を荒らすように 田んぼを貪るように
僕らはなにに怒ってるのだろうかと 何度も口に出してみたり
熱心に考え 深夜に二次嫁のことを思って
誰かのために祈るような そんな気にもなるのか なんて考えたりするけど」
ふぞろいな心はまだいまでも僕らを やるせなく悩ませるのさ
くるしげに ずっと僕はブラウザを閉じて
大きなtextareaに 煮える腹の内を刻む