はてなキーワード: おひさまとは
8月15日の放送から、「オードリーのオールナイトニッポン(ANN)」の「チン!」のコーナーのテーマが「グッドトゥース・バッドトゥース」になった。
「こんなリトルトゥースは素晴らしい」というグッドトゥースと、
どうやらANN内のノリや用語が乱用されていることを受けてのものらしい。深夜ラジオのノリや用語がリスナーに乱用されること自体は比較的よくあることで、いままで聞いてきたほかのラジオ番組でも経験してきたし、オードリーのANNの周辺でも今回の問題の前から多少はあった。しかし、日向坂の冠番組(現「日向坂で会いましょう(ひなあい)」)のMCをオードリーが務め、さらにANN内のノリがひなあい内でも多く使われるようになり、たくさんの日向坂ファン(おひさま)がANNリスナー(リトルトゥース)に加わったことで、ANN外でのノリや用語の乱用が増え目につくようになった。
確かにANN内のノリや用語はふさわしい場面で使えば面白い。だからこそひなあいのスタッフはANN内のノリを台本に加えたのだろうし、実際それで番組はより面白くなったと思う(すべてがふさわしい場面で使われていたかは少し怪しい)。(加えて、自分だって、なれるものなら若林になってひとを笑わせたりアイドルといい距離感で仕事をしたりしたい。)ところが、ANN内のノリや用語がふさわしい場面は以外と少ないし、あったとしても使えば使うほど減っていく。ひとを不快にすることだってある。
後出しの「グッドトゥース」アピールのようになってしまうが、ノリや用語の乱用には辟易していたし、ANN内での若林の発言を聞いてからはひなあいを観ても気が気でないことが多かった。それでも傍観しているしかできなかったが、たどり着いた先がこんな結末でとても悲しい。
芸人はラジオを大切にするひとが多いと聞く。これは完全に想像だが、若林はとくに、10周年全国ツアーへの懸け方やInstagramのプロフィール
を見ても、よほどラジオを大切にしているのだと思う。そう思うと余計に悲しい。
すべてが悲しい。
怒ったときや嬉しいときに「プップップッ」と鳴くぷっぷちゃん。
最近寒くなってから体が冷えるのか、お腹の調子が断続的に崩れがちになっていた。
うずくまって丸くなったり歯ぎしりしたりで、先日には救急医療センターのお世話になったり。
この時のお腹のガスが抜けきらなかったみたい。
しばらくチモシーだけの食事をあげてくださいと言われた。ペレットはガスが溜まってしまうらしい。
体力も削られていたようで、痩せて骨が浮き出ているぷっぷちゃんはかわいそうに思えてきていた。
そしてとうとう運命の日。
前日には一緒のベッドで寝てあげた。
夜中少し苦しそうだったけど、丸いうんちやお水も少し飲んでくれて少し安心していた。
しかし今思い返せば様態は思ったほど楽観視できない状態だった。
リュックにカイロをたくさん貼って出発したけど、病院に連れて行く途中でクタッと倒れてしまった。
ぺちぺちしても次第に動きがなくなり、脚をばたばたさせたり最終的に頭を支えられなくなったのか完全にぐったりとなってしまった。
寒い中長い間連れ出しちゃってごめんね。最近うんちょも出て水も少し飲んでいたから、ここまで体力が急激に奪われるなんて思ってなかったんだ。
もしあと5分早く帰ってバスに乗って最寄り駅まで連れて行けていたら。
もし途中クタッとなったところで上手くタクシーを拾えていたら。
そんな可能性の話をしてもしょうがないけれど、最後は手の中で看取れてよかったと思う。
下手に動物病院にあずけていたら、様態が急変して看取れなかったかもしれない。
その点で、死に目に一緒に居られてぷっぷちゃんも嬉しかったかな。
駅では喚き散らして通行人に変な目で見られたり、病院では大声で泣いちゃったりしたけど、ママも頑張ったんだよ。
病院では心臓マッサージもしてもらったけど、5分以上蘇生することなく逝っちゃったね。
正直ペットショップではとても元気で跳ね回っていてどの子よりもパワフルだったから、あっけない最後には茫然とすることもあったよ。
も〜、最後まで温かくて生き返ると思ったじゃん!
ほんとにギリギリまで生きてくれてありがとう。一緒に居られて幸せだったよ。
ぷっぷちゃんも同じこと思ってくれてるといいな。
深夜2時59分にはぷっぷちゃんが夢に出てきた。丑三つ時の滑り込みセーフかよ。
最後に看取るときも抱きしめてたから、うっすらまだ手のひらにぷっぷちゃんの匂いも残ってるよ。
たまにコードをかんでダメにしたとき、お尻を叩いてごめんね。痛かったよね。
うさぎじゃないみたいで、むしろねずみみたいな色と顔でとても可愛かった。
大人になるまで育ててあげられなくてごめんなさい。ぷっぷちゃんが大人になるところは少しだけ見たかったです。
いっぱい寝たら、お化けになって戻ってきてくれると嬉しいな。
次もし新しい子を迎え入れるとしても、ぷっぷちゃんがお化けとして見守ってくれたら安心だから。
もう死んじゃったから、生きてる子に縄張り譲って仲良くしてくれるよね笑
ぷっぷちゃん以上の子が見つかるとは思ってないけど、ピンとくる子がいたら迎え入れるね。
ずっと大好きだよ。
増田書けるくらいならいいパンティーとは何事だパンティー!!ギリギリ、文章として語尾パンティーでも何となく意味が分かるような文体をとるなパンティー!久々の全休日の朝から語尾パンティーを注意する立場にもなってみろパンティー!増田を開いてパンティーで検索して、いきなりの語尾パンティー、お前との遭遇だぞパンティー!!やれやれパンティー。僕は射精したパンティー!!!これはパンティーに興奮したという意味ではなく、村上パンティーネタだぞパンティー。俺は、休日の朝から語尾パンティーを注意するような人生を送ってるパンティー・・・。とにかく、語尾にパンティーはやめなさいパンティー!!
追記:
過去、いいパンティーについての言及をした記憶があったので貼っておくパンティー。目ん玉おっぴろげてよく読むといいパンティー。
いいか悪いかで言えば完全に悪いパンティー!!そのニュアンスぐらいはトラバから読み取れよパンティー!!みんなが怒ってるパンティー!おひさまも怒ってるパンティー!!ルールルルールーパンティー!今日もいいパンティー!!!
では折衷案というか、一人称がおペニペニはどうだパンティー?書き換えるとこうなるパンティー。
これなら統一感があって、このキャラはおちんちんがメインパンティー(メインパンティーって何だパンティー?)なんだなとみんなも納得してくれるパンティー。もちろん、おちんちんに関係があるなら何でもいいパンティーが、統一感を見せてほしいパンティー。ブラジャーとパンティーの統一感があったほうがいいだろパンティー?
そのビショビショの美女美女、よく見るとまだ若い。そのままじゃいけねえってんで、
「ちょいとそこのお二人さん、見たとこ十六七じゃないかい。濡れたままじゃ体に障る。風邪を引いちまう。風邪は万病のもと。若い身空で西方へ旅立っちゃしょうがねえ。すぐそこに熊ってやつのうちがある。しばらくのあいだ、一緒に雨宿りしちゃどうだい」
とこう誘ったんだ。そうしたら驚いたねえ。とたんに雨は小降り、おひさまさあっと差し込んだ。狐の嫁入り。娘二人はにこりと笑んで「今、帰ります」って言うが早いか、くるっとトンボを切った。するとそこにはキツネが二匹。一声鳴いてひゅっと消えた。おキツネさんに化かされたのは悔しいが、奮いつきたいほどのべっぴんさん。熊つぁんにも見せたかった。
ああ、それは惜しいことをした。松よ、娘さんに年を聞くのは良くない。松、年聞かば、今帰り、コン。
もう一度読んでいただけませんか?難しい言葉は一切使っておりません。
まず、「恩着せがましい交友関係」ってどこにかかるんでしょうか?国語力、足りてます?
そういう意味合いの言葉は一切書ないどころか、真逆の文章です。
匿名の日記と言及のやりとりで、誰が誰かもわかりません、そこでどうやって恩に着せるんでしょう?
「何か嫌味を言ってやろうという」意地の悪さを感じる文章です。
「おはようございます」「こんにちは」にさえ、悪意を用意してしまえるほどに意地悪な人なのかな?
私の元の発言に、そういう部分がないので、実質まったくダメージはないけれど、
この増田さんは、勝手に何かをねつ造してその感情のはけ口にしたくて、キャンキャン吠えてる。
太陽光にあたって、お散歩でもしてくださいね。お天気いいですよ。
疲れたら、おひさまの香りのする毛布にくるまって、ソファでお昼寝してみてね。
だってほら、今日は。「すいすいすいようび~」じゃないですか。
ステキな午後をお過ごしください。
結局それって自分次第じゃない?
1日は24時間誰にでも平等にやってきます。それを梅雨と考えるか、やりがいのある「試練」と考えるかどうかはあなた次第です。
あなたが梅雨なんかに負けたくないって思えば、梅雨は梅雨じゃなくなるし、梅雨だと諦めるなら、それもあなたの人生です。
でも、そんなに簡単に諦める人には決して人生の「晴れ」はやってこない。
簡単に梅雨だと認めてしまう人は、努力もせずに愚痴ばっかり言ってる人。
努力もする前から梅雨は自然現象だから仕方ない。悪いのは○○だ、なーんて社会や他人のせいにする。
そうやって自分に「壁」を作って、自分をさらけ出さない。そんなんだから梅雨になる。そんなの悲しいでしょ。
ジメジメした負のオーラで、自分自身を梅雨模様にしちゃう弱い人。だから人も離れていく。
結果を出してる人たちはちゃんと努力してる。自分に厳しく、他人に優しく。
あなたが心の中でちゃんと「晴れ」を作っていけば、梅雨は梅雨じゃなくなる。
梅雨入りしたって世間では言うかもしれないけど、大切なのは自分は自分。それを忘れちゃダメ。
俺の頭皮の状況がよろしくないゆえに起こってることなので、一般ピーポーには縁遠いものと思われ。
頭皮が極度に乾燥して、髪の生えてるところ全体がペリペリとめくれるんだわ。
皮膚科の先生がおっしゃるには湿疹ということで、脂漏性皮膚炎だとかそういうものではないということだ。
頭皮がひび割れしててな。まあフケなんだが。このひび割れが大層気持ちよくペリペリとむける。
この剥けるときに、毛穴のカタチに従って、突起物がいくつかとれる。水平にすると、つららのようになる。
体の弱い私を育てるために、当然専業主婦だった。
布団のシーツも2日に一回は洗濯。いつもおひさまの香りのする布団で眠る。
学校帰りに塾に行くようになってからは駅で待ちあわせて一緒によるご飯を食べる。
父親にどんなに怒鳴られても離婚しない忍耐強い母。
母が一人で遊びに行くことなんかない。
昔からの友達に遊びに誘われても「娘の面倒を見なきゃいけないから」と家を出ることはなかった。
私が大学生になっても同じことを言っていた。
私からしたら子育てのために何もかも失った人間にしか見えなかった。
3歳のころには「お母さんは私がいなければもっと幸せなんだろうな 」と思っていた。
十分に愛情は受けていたのだけど、どうしてもそうとしか思えなかった。
お母さんは可哀想な人
私は生まれてこなければ良かった
いつも寂しい寂しいと言っている。
何もかもを犠牲にして子育てして、還暦過ぎて娘に無視される私の母親はとても可哀想にみえてしまう。
とても好きで尊敬していてこの人と一生居たいと思って
しかしびっくりするほど上手くいかなかった
多分お互いずっとストレスを抱えたままの夫婦になっていたと思うので
ストレスの原因は多くの人が私が悪いと言うような事だ
私は家事が一切出来ない
家事なんて誰でも出来る
今は家電が云々という人が居るが
取り込んだり畳んだりは出来ない
「家事が出来ない」
というのを許せない人だった
清潔で小奇麗な家で
タンスに綺麗にたたまれた服を着て
美味しい手作りのご飯を食べて
彼にとって「家庭」というのはそういうもののようだった
彼も家事をするから私にも半分くらいはやってくれという様な人だった
一緒に暮す以上当然の言い分だと思う
「出来ない」
でよく喧嘩してそれが溝になっていたと思う
そして今私はどうしているかというと
伴侶となった人は私が家事を出来ないことで文句を言ったことは一度もない
たまたま夫の身内に家事が全くできない女性と結婚して上手く出来ている夫婦が居たのもある
しかし今思うと
彼とは単に合わなかっただけなんだと思う
「性格の不一致で」
今ではよく分かるようになった
今彼がどうしているのかは分からないし知る手立ても無い
どうか彼が彼に合った人と幸せで居てくれたらいいなと思う
http://anond.hatelabo.jp/20130919170741
斉藤由貴がデビューシングル『卒業』を発表した1985年2月、同名のシングルが他に2作、チャートインしていました。菊池桃子の『卒業』と尾崎豊の『卒業』です。毛色の違う尾崎は別にして、ここでは斉藤と菊池、斉藤版『卒業』と菊池版『卒業』を比較してみましょう。
「80年代女性アイドル格付」では私は斉藤を8位、菊池を9位にしましたが、記録上の実績では菊池の方が上です。菊池はオリコン1位のシングルを6枚出していますが、斉藤は『青空のかけら』1作のみです。ただし、1985年から1989年まで、年間の順位で菊池が斉藤を上回ったのは1985年のみで、菊池は1988年と1989年には年間100位以内にチャートインしていませんが、斉藤はしています。斉藤の方が息が長いアイドルだったことがうかがえます。
1985年は菊池の全盛期で、菊池版『卒業』もオリコン1位になっています。斉藤版『卒業』も6位ですから、新人の実績としては大健闘だったのですが、その時点では菊池版の方が実績を残したのも確かです。しかしどうでしょうか、あれから30年近く過ぎて、言及される頻度が高いのも、記憶に残っているのも斉藤版『卒業』の方ではないでしょうか。それは楽曲としては斉藤版の方が出来がいいからだと思います。
松本隆はもちろん松田聖子プロデュースで知られますが、聖子以外に提供した楽曲の中にも佳作傑作はずいぶんあって、石川秀美『ゆ・れ・て湘南』、薬師丸ひろ子『Woman~"Wの悲劇"より』、斉藤由貴『卒業』『情熱』は白眉の出来です。
それは嘘ではないけれど
でも 過ぎる季節に流されて
逢えないことも知っている
のところですね。集団から浮き上がっている、集団の中では流されない冷静な批評眼が提示されています。
これは私のある種の偏見かもしれませんが、女性による批評評論の多くは自己憐憫の主観が強すぎて読むに堪えません。平均のラインが男性よりもずっと低い。けれども最高水準の批評家何人かを選べと言われればおそらくそれは女性ばかりになるでしょう。批評に限らず創作でも感じることですが、女性全般の平均は低いけれども最高水準の女性の書き手は男性のトップと比較してもなお傑出している。そう感じることが多々あります。
斉藤版『卒業』における松本隆の作詞は、そうした女性の高度な批評眼を的確に捉えています。彼もまた超一流である証です。卒業と言う感傷の中にある冷静な眼差し、これを書いた松本隆もすごいし、これを歌わせようと思わせた斉藤由貴もすごいですね。菊池桃子の『卒業』もいい曲なんですが秋元康は男目線なんですよ、やっぱり。松本隆はさすがに年季が入っているだけあって、頭がいい女性の批評眼と言うか冷たさと言うか冷静さ、しっかり捉えていますね。けれども、これを菊池桃子が歌ったら似合わないと思いますから、秋元康は菊池桃子と言うフォーマットに沿った詞を作っただけかも知れません。
ただ、菊池桃子『卒業』と斉藤由貴『卒業』、ヒロインの立場は似通っているんですよ。どちらも、付き合っている/付き合ってはいない、は別にして初恋の男性を都会(東京)へと送り出す立場です。
4月が過ぎて都会へと
旅立ってゆくあの人の
素敵な生き方
うなづいた私
何だか物足りない、妙に物分かりがいい感じがします。対して、斉藤版『卒業』では、
止まった時間を結びたい
だけど東京で変わってく
諸般の要素があるから一概に作詞家の優劣はつけられませんが、出来上がったラインだけを見れば、『卒業』合戦は松本隆の圧勝なのは明らか、少なくとも私はそう思います。ただ、菊池桃子の歌ではヒロインがぼんやりとしているのはわりあい一貫しているんですね。『Broken Sunset』では彼氏からいきなり「他に好きな人が出来た」と切り出されても、「泣かないように目を閉じた」、それが精いっぱいの感情表現なんですね。重要なのは、菊池桃子にこういう歌を歌わせたい、こういう歌を歌うべきと作家や製作者が考えてサジェストした歌がそういう歌なんだということです。
女性なり女子なりが持っている批評性をみじんも感じさせない、幼女のような聖女のような、どこか現実離れした世界を菊池桃子は歌っています。男目線の少女の歌ですね。
対して、斉藤由貴の楽曲のヒロインは遥かに色彩が豊かです。デビュー曲の『卒業』からして、片思いの相手に対する批評が含まれています。斉藤由貴はそういう歌を歌わせたくなる、躍動感のあるアイドルです。
斉藤由貴の個性が、ライターを刺激して、それが結果的に神曲ばかりになった、ライターと歌い手の幸福な結合が斉藤由貴の楽曲にはあります。
斉藤由貴は一般に演技が上手な女優と見られています。もちろん下手ではありませんが、まず役柄の幅が狭い。活発でお転婆な少女(女性)が困難にたいあたりでぶつかって、周囲を動かしてなんとかなってゆく。このタイプの役、仮に斉藤由貴型と呼んでおきますが、こう言う役が非常に多い。
この型の初出は、1985年に放送されたNHK銀河テレビ小説『父(パッパ)からの贈りもの』です。これは日本最初期のコメディエンヌで文学座の重鎮だった新劇女優で演出家だった長岡輝子の自伝をテレビドラマ化したものです。長岡輝子はテレビドラマでは『おしん』の加賀屋の大奥様役(おしんに文字を教えた老女)で一般には知られています。斉藤由貴が出演した連続テレビドラマでは『スケバン刑事』の次、『スケバン刑事』の放送期間中に撮影・放送されたものです。
長岡輝子の父は著名な英文学者で、洋行のたびにお土産を買ってきてくれる、娘思いの父親でしたが、長岡が女優になりたい、そのためにパリで芝居修行をしたいと言うと、後押しをして費用も出してくれた、それが「父からの贈りもの」だった、そういう話です。『はいからさんが通る』っぽいというか、非常に『はね駒』的です。斉藤由貴の演技は、この斉藤由貴型、スケバン刑事型(『野球狂の詩』『スケバン刑事』『和宮様御留』『新十津川物語』)、その他型(『小公女セイラ』など)に分けられるとすると、圧倒的に斉藤由貴型が占める割合が高いです。
『はね駒』も『あまえないでョ!』でも『はいすくーる落書』でも『吾輩は主婦である』でも、『八代将軍吉宗』や『同窓会』でさえ、基本的には同じ演技、同じキャラクターです。敢えてスケバン刑事型と分けたのもしいて言えばという話であって、ああ、いかにも斉藤由貴の演技だなと思わせるには違いありません。2012年の朝ドラ『おひさま』でも基本線を踏襲していたのには、ある意味、さすがだと思いました。
丹波哲郎がかつて言っていたのですが、キャスティングの時点で、この役はいかにもこの人に合うと思われてキャスティングされているのだから、余計な役作りは不要、自分自身がその場に置かれた状態で演じればいいと言っていました。一つの方法論としては分かる気がします。斉藤由貴が役作りをどう捉えているのかは別として、結果的に役を自分の側に引き寄せる人だと思います。
役の後ろに斉藤由貴が見えて興醒めだ、というのではないんです。「役を自分に引き寄せる」型の人にはそういう人がいますね。そう言う人は多分、役それ自体に対する理解が足りません。他人に対するアンテナが弱いんじゃないかと思います。本質的にナルシストの人は役者には向いていません。
斉藤由貴は役として非常にリアリティがある演技を見せています。ただ、そのリアリティが斉藤由貴と言うフィルターを抜きがたく感じさせる、そういう意味ではたぶん、役そのものとは違います。斉藤由貴が実際にそう言う立場だったらこういう反応を返すだろうという意味では非常に説得力があります。ただし、そのリアクションは斉藤由貴以外では再現不能という意味において、役そのものには根差していないのです。
もちろん、役者の演技なんて誰の演技でもその人以外には、その人であっても再現不能じゃないかと言うならばそうなんです。その通りなんですが、自分と言うフィルターを演技の構築の上でどれだけ重視するかどうかで、役そのものからロジカルに構築するタイプと役を自分に引き寄せるタイプに分かれるのではないか、そう思います。その分け方ならば斉藤由貴は明らかに後者ですね。
続く
http://www.j-magazine.or.jp/data_001/commonness_4.html#001
http://www.j-magazine.or.jp/magdata/index.php?module=list&action=list&cat1cd=3&cat3cd=56&period_cd=3
http://www.j-magazine.or.jp/magdata/index.php?module=list&action=list&cat1cd=3&cat3cd=56&period_cd=5
ベビーブック 193,750→187,500→236,667
めばえ 220,834→212,500→203,334
幼稚園 215,000→191,250→165,000
入学準備学習幼稚園 103,750→95,000→98,000
おひさま 62,167→62,750→55,334
てれびくん 238,750→246,250→238,334
小学二年生 167,334→106,250→128,334
小学三年生 121,667→88,750→85,000
小学四年生 91,417→67,500→66,667
小学五年生 62,750→50,000→58,334
小学六年生 50,728→37,750→52,667
って作ってて思ったが読者からすれば
(2008年10月~12月)小学五年生50,000→(2009年4月~6月)小学六年生52,667
だよな。