はてなキーワード: アニメーションとは
初めに言わせて頂きたいのは、この話は
という話ではない。
「トランスフォーマーは新しく入ってきたファンが嫌な思いをするかもしれない界隈なので両手を上げて歓迎しにくい」
という話だ。
どうしてこんな話をするのかと言うと、今年新しく公開された映画、実写映画「トランスフォーマー ビーストの覚醒」によって新しくこのトランスフォーマーというジャンルを好きになってくれる人が増えたからだ。
トランスフォーマーというシリーズは私も大好きだし、1985年から続く長寿シリーズだから数十年来のファンも多い。
まずトラブルを起こす人、モラルに欠けている人がこの10年余り見ていてもかなり多いこと。
トランスフォーマーは1985年に「戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー」というシリーズから始まったのだが、このシリーズの動画があまりにもYouTubeにもニコニコ動画にも無断転載が多い。
しかも、「戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー」の他のシリーズも無断転載が多く、酷いと「公式が配信していた動画があるなんて知らなかった。ニコニコ動画で見ていた」なんて人もいる。
もっと酷い話だと、「このシリーズが見たいのにサブスクがない」という人に「ニコニコ動画(またはYouTube)で見れますよ!」なんて違法視聴をリンク貼りつけてリプライする人もいる。
「戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー」シリーズはその続編に「戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー ザ・ムービー」「戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー2010」などがあるのだが、それらは今サブスクリプションでの配信がなく、それについて話題にすると違法視聴を勧めてくる人がかなりいる。
酷い人だと「ザ・ムービーはニコニコ動画で見ました!」なんて普通に呟いている人がいる。
長く続いているシリーズなので、もちろんトランスフォーマーという作品で二次創作をしている人もいる。
でもここでもトラブルが多い。
Tumblr、Deviantartというサイトがあるが、数年前からIDWパブリッシングにて出版されていたトランスフォーマーのコミックシリーズの作画に携わる人達はここに「今回の話でこういったカットを描きました」などの進捗を上げている人がいる。
そこに挙げられたアメコミの一部、または無断転載されている電子版のページからキャラクターを丸ごとトレースしている人や、公式の画像を上から塗りつぶして絵を上げていた人などが数年前から問題になっている。
また、二次創作には付き物のカップリングでも派閥が生まれ、「〇〇さんが解釈したこのCPはいい、このCPはダメ」など言われて攻撃されてしまう人もいる。
ここまでだったらどの界隈だって有り得ることだ、と思われるかもしれない。
しかし、ここまで上げてきた違法視聴の問題や、アメコミの内容の流出など、公式に問い合わせても対応されない、または、問い合わせフォームがない、ということが10年あまりもあったとしたら?
実際にこのトランスフォーマーというジャンルの運営に携わっている団体は上記に挙げた問題に対策をしてくれたことが全くない。
違法視聴の問題は放ったらかし、サブスクも限られた作品しか見れないという問題も対応されたことがない。
BDが出されている作品もあるが配信されている作品数もサービスも圧倒的に少なく、「紹介されたのに見れない」という作品も多い。
さらに元々子供向け作品であったのに、変形トイなどはおもちゃ売り場での市場展開が縮小された上に値段が高騰し、限られた場所でしか買えないなど、「長くついてきたファン」ばかりをターゲットにしかしていないのも問題だ。
しかし、公式にも問題があるとはいえ一番の問題はファンである。
見たい作品に対してサブスクや円盤を勧めてくれる人ならまだいい。
上記のように違法視聴をリンクで勧める人もあれば、酷い人だと「公式の原語版アニメーションの配信を違法DLし、字幕をつけてニコニコ動画に上げる」なんてする人もいる。
他にも公式にきちんとしたガイドラインがないことで勝手に公式のキャラクターについての絵を受けてお金を貰う活動をしている人もいる。
さらに、随分前からガンダムでも話題になっているが、シリーズが長く続いていることからキャラクターの解釈が分かれ、描いた作品やキャラクターについて考察した呟きなどに勝手に訂正の講釈を書き込んできたり、「キャラクターが分かっていない」などと噛み付いてくる人が居る。
それだけならまだ避けようがあるのかもしれないが、先ほど挙げたような派閥としてキャラクターを描く人、CPを描く人を推す人達の集団で叩いたり、などがあり、それに巻き込まれた結果、「新しく入ってきたがアカウントを丸ごと消してジャンルから去るしかない」という人も数人見かける。
また、二次創作で描いた作品、文章などを丸ごと模倣される、晒されるなどして作品とアカウントを消してジャンルを去らなければならなかった人もいる。
こういった理由で、トランスフォーマーというジャンルについて私は
「作品を好きになるのはいいが、この作品をメインジャンルとして付き合ったり、界隈の人と深い繋がりになるのはやめた方がいい」
と思っている。
新規確保が難しいジャンルだからか、一度「キャラ、CPが好き」というと純粋に同意してくれる人もいるが、イベントに参加した時ブースで長々と立ち話をして他の人が本を買えない状態にしたり、頼んでいないのに「あなたの解釈は間違っている」などリプライを送る人もいる。
それによってイベント参加で嫌な思いをしたり、二次創作を楽しくやりたかったのにその気持ちを踏み躙られる人が出て欲しくないのだ。
しかしトランスフォーマーのファンは自分達が良くないことをしていると考えている人達があまりにも少ないので体制が改善されたことがない。
トランスフォーマーというシリーズは作品こそ新しいものが数年置きに出ているが、見てみると初代の「戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー」のシリーズの大筋やキャラクターの焼き直しが多い。
これはファンが新しい作品を出す度に「初代のような作品感がいい」「キャラクターも初代から出ているものがいい」と訴え続け、制作陣の中にこういった考え方の人もいれば、「こういった路線でなければ古参のファンから人気は受け続けられない」といった考えを運営陣に持たせた結果、過去にいたキャラと全く同じ名前のキャラクター、そして同じようなストーリーがずっと焼き直され続けていくことになったのだ。
つまり、「初代のアニメシリーズを見ていなければ話やキャラクター背景が分からないが初代のアニメシリーズはサブスク配信がない」「サブスク配信がないことを理由に違法視聴を勧めることを辞めないファンが一部いる」という負のループがずっと続いている。
そこへ新規ファンを両手を上げて歓迎するということはかなりしにくい。
もし、これから新しくトランスフォーマーのファンになりたいという人がいるならば、このシリーズは「作品が好き」という程度に留めておいた方がいいと思う。
深入りしてトラブルに巻き込まれたり、嫌な思いをして欲しくないからだ。
実際既にこの界隈は「あの界隈こんな事件があったよね」と囁かれることも多く、居るだけで「この界隈にいるということは何か問題がある人なのではないか」と言われて悲しい思いをする人を出したくないのだ。
以上がトランスフォーマーという作品を好きになってくれるのは同じ作品を愛するものとして大いに嬉しいが、界隈に参入するのはすこし考えた方がいい、と私が考える理由である。
ファンが増えてくれるのは嬉しいが、長くこのシリーズのファンを続けてきた1人として、良い例だけではなく、注意喚起も必要だと思ったからだ。
この文が何人の人の目に止まるかは分からないが、長くトランスフォーマーシリーズを愛してきた人も、これからトランスフォーマーを見ていこうという人も、そして私も、改めてこのシリーズとの付き合い方、ファンの人との付き合い方を今一度考えたいと思う。
チッ
わざと聞こえるように舌打ちを打つ。
いくつかポップアップブロックのフリーアプリを試したけど今回の射精通知だけはスルスルとすり抜けて来やがる。
日本中の人が眼球装着式インプランタブル端末を着けて社会生活を送るようになりもう10年以上経つが、この迷惑コードが社会問題になりはじめたのはつい最近だ。
コンタクトの識別範囲と認識性がどんどん向上するのを逆手に取って、街中の標識や店舗の壁などに透明に加工した旧来式のrMQRコードを貼り付ける迷惑行為が多発してる。
数十年前の日本でよく見かけたという電柱等に色紙で貼られた違法不動産広告の現代版である(こっちはポップアップブロックで弾かれる事が多いが)。
私が踏んだコードは悪質で、肉眼では判別できない身体的特徴と電子情報化後の誤差を修正した個人判別機能を悪用し、24時間以内に私で何人の奴が抜いたか通知してくるアホみたいなブラクラだ。
私が生まれるずっと前、まだ世界中の人達がスマートフォンという小さな板越しにしかネットワークにアクセス出来なかった。
AIの進化も貧弱で、まだまだ紙の媒体が様々な場面にあったという想像もできない社会。
その頃も盗撮が大きな社会問題となり、2023年には刑法が改正され厳罰化が進められたはずだった。
恐ろしい事にその頃の盗撮というのは実際に小型のカメラを人力で運用する非常にアナログなタイプで、中には学校の教師が逮捕された事も沢山あったという。
もう人間には手をつけられないレベルで加速度的に自立進化を続けているAIは、誰でも簡単に購入できるこのコンタクトレンズ式情報端末上に地球一個分の情報をネットワーク接続なしで瞬時に再現できる。
ディズニーランドも、マチュピチュも、国会議事堂の中も、パブリックスペースに関してはエアコンの通風口に貼られてる少し剥がれかけたメーカーのシールまで簡単に目の前で360°再現可能だ。
レンズ登場後はその日視界に入ったデータを完全にバックアップする事が日常となり、盗撮という概念は希薄化した。
荒い画像からも簡単に個人を特定し、修正した画像から様々な描写を行うフリーソフトが無数にダウンロード出来る。
静止画も動画もなんならデフォルメしたキャラクター化を行って漫画やアニメーションやゲームまで音声と音楽付きでAIがものの数十秒で作り上げる。
もちろん無料だ。
つまり、いつでも誰でも簡単に好みの人物や空想の人物を登場人物としたエロ本やAVやゲームやアニメを作成できるという事だ。
相変わらず自動車の自動運転はまだ実現していないのに、こういう進化は実に早い。
射精通知のコードを標識に貼り付けたバカ男は既に通報済みで逮捕されているのだが、警察も私もポップアップの消し方が分からない。
犯人も海外製の怪しいフリーソフトを使っているので、自分の欲求を満たす以外の事は知らない。
本当にクソだ。
ネットではちょっと名の知れたタレントや有名人になると、この回数が24時間で100万や1000万の大台に乗ると言うのだから恐ろしい。
人工子宮の一般化で母体出産と性行為の斜陽化が進む現代では、このようなアナログ式の性行為への欲求を隠しきれない願望が変態男に渦巻いているのかもしれない。
自分の中でのアニメオタク(特に萌えオタ)に対する嫌悪感が一体何なのかきちんと考えてみた。
すると恐るべき結論に達してしまった。これから書くことは正直私も断言して良いものかどうか躊躇している。しかし、アニメ文化の発展のためにも、心を鬼にして書かなければいけないことだ。
今までも、そしておそらくこれからもずっとそうだ。これは岡田斗司夫のような豚野郎の言う「オタクは死んだ」でも、東浩紀のような豚野郎の言う「読者の質が悪い」でも、宇野常寛のような豚野郎が言う「萌えオタはクズ」でもない。もっと根幹に関わる重大なことだ。そして恐ろしい事実だ。
まず、オタクがオタク向けに作ったオタクアニメが大きな評価を得てきたことは今まで一度たりともない。
名作を作ったクリエイター側は言うまでもなく、『ガンダム』の富野由悠季は仕方なくアニメの現場に降りてきた人だし、『攻殻機動隊』の押井守は元々映画監督志望でジャン=リュック・ゴダールを敬愛していてたまたまタツノコプロの求人が目に入ってアニメ業界入りした人だ。
「でも、今は世界的にアニメブームが起きているじゃないか」と萌えオタがブヒブヒ言ってきそうだが、それは幻想である。まず90年代後半に盛んに言われた「ジャパニメーションブーム」を取り上げると、これは岡田斗司夫がオタクの地位向上のためにでっち上げたものだ。本人も後にそれを認めており、外からの圧力に弱い日本でオタクが市民権を得るにはそれしかなかったと言っている。この岡田斗司夫の苦肉の策に電通や村上隆が乗っかり、ジャパニメーションブームという虚構ができあがったのだ(元々別称だったジャパニメーションという言葉を良い意味として輸入したのが村上隆である)。
まずは、宮崎駿。アカデミー賞も受賞し、名実ともに日本を代表するアニメーション監督といった地位を得ているが、その作風はアニメ界ではむしろ異端である。スタジオジブリ的なもの、宮崎駿的なアニメは本人にしか作れず、その作風を引き継ぐような後継者は未だ誰一人いない(宮崎駿の後進育成が下手という話ではない。宮崎駿に影響を受けた人間が外で宮崎駿的なアニメを作ったっておかしくないのに、そんな人は日本にはいないのだ。海外ではどうか? そう、モンスターズインクを制作したピクサーが後継にふさわしいだろう。言うまでもなく彼らはアニメオタクではない)。
宮崎駿にはオタク的なるものを避けて避けてやっと今日の地位を築いたという歴史がある。オタク的なものを避けて世界的評価を得た、これは非常に重要なポイントだ。
押井守もその一人だ。『うる星やつら』を制作し、オタク向け監督の一人で終わるかもしれなかった彼は『機動警察パトレイバー2 the movie』や『攻殻機動隊』においてオタク向けアニメ的想像力を捨て去ることで作品の強度を確立した。『ビューティフル・ドリーマー』はどうなんだ、という声があるかもしれない。これには後に押井守がこう語っている。「劇場版第一作『オンリーユー』を作ったとき、原作者やファンが喜ぶことを全部詰め込んだ。上映されると当然原作者やファンは満足したようだが、作品的には酷い代物だった」。この諦観によって『ビューティフルドリーマー』は作られた。オタクから距離を取ることで傑作に仕上がったのだ。
他にも大友克洋の『AKIRA』だって一見すればわかるようにオタク的な想像力から離れたものであり、渡辺信一郎の『カウボーイビバップ』だってそうだ。
オタク監督だと言われるウォシャウスキーやタランティーノだって、ウォシャウスキーはSFの人で決してオタク的想像力に耽溺しているわけではないし、タランティーノは高校中退して一日中映画を見まくっていた怪物だ。
エヴァンゲリオンを無視しているじゃないか、と言われるかもしれない。確かにエヴァはオタクがオタク向けに作ったオタクアニメであり、社会的現象を起こすほど大ヒットしている。だが、これ一本でもってオタク的想像力の勝利にはなりえない。何故ならオタク外にも評価されたオタク監督は庵野ただ一人、例外中の例外なのだ。その庵野ですら、オタクの偏狭さに嫌気がなして反オタクに改宗した。その事実をオタクは裏切った、とこれまた偏狭さを見せて批判している。
このようにオタクがオタク向けに作ったオタクアニメで傑作が生まれたことは、一件の例外を除いて存在しない。オタクが喜ぶ想像力や「萌え」なんてものは全然強度を持ち合わせていない(十年前にオタク的想像力でオタクに受けていたクリエイターの今の地位を思い浮かべて欲しい、それが十年後の山本寛や新房昭之の姿だ)。
むしろ、オタクの好みに少しでも外れると烈火のごとく怒り、作画監督が少しでも個性を出すと作画崩壊と騒ぐその類まれなる偏狭さは害悪だと言ってもいい。
オタクはオタク的な想像力から外れるような、例えば『スーパーミルクチャン』や『TAMALA2010』のようなアート的アプローチから生まれた傑作を評価できない。どちらも発売時にはタワーレコードに平積みされ、オタク的想像力は一瞬で敗れ去った。
それどころか『フリクリ』をオサレだとかラベリングして嘲笑するほど、子供のような舌でもってクレームをつけて回っているのだ(『フリクリ』はガイナックスが作ったオタクアニメじゃないかという屁理屈が聞こえてきそうだ。ガイナックスは今や庵野の反オタクキャンペーンによってオタク的な人間は駆逐されており、鶴巻は反オタクの急先鋒である)。
そして、それは明らかにアニメの進化を阻害している。その理由を書こう。
まず、オタクが大好きな絵柄、要するに萌え絵はアニメーションに不向きなのである。あの頭と目が大きく、等身が低くて身体か華奢という構造は、見た目通り人間的に動かすというのは困難だ。だから、どのアニメにおいてもよく動くと言われるものは萌え絵から距離を取っている。萌え絵を選択すると自動的に紙芝居的な動きが縛られたものしか作れなくなる。ディズニーが萌え絵を選択せず、あのような絵柄なのは動かすことを念頭に考えているからだ。
しかし、アニメオタクは萌え絵以外の絵柄のアニメを「絵が変」と言って嘲笑し、批判する。ここがアニメオタクの一番の問題点であり、私が害悪と言い切る理由だ。
例えば近年稀に見る傑作である『鉄コン筋クリート』を例に出そう。この作品も「オサレ」「絵が変」といって批判されているが、この作品こそアニメーションの快感、動くことの快感を思い出させてくれるものはない。画面の中を縦横無尽に動き回るキャラクター達が見るものの心を掴んで離さない。そして、それはアニメオタクが「変」といって批判するその絵柄が貢献している。もし、この作品が萌え絵だったらここまで動くものになってはいない。現にそんな作品はない。
そして、アニメーションの快感を蘇らせたのがオタク外のマイケル・アリアスだったことは非常に重要だ。アニメオタクはアニメーションのことがわかっていない。だから、スタジオジブリ的なものをピクサーに取られ、アニメーションの快感をマイケル・アリアスに取られてしまうのだ。
もう一度言おう。オタク的想像力は強度を持っていないし、オタクが好むアニメ絵はアニメーションに向いていない。アニメーションに向いているオタク的じゃない絵を排除するその思考はアニメの進化を阻害している。
アニメオタクが本当に現実逃避ではなくアニメのことを愛しているのなら、今すぐアニメを見るのをやめて即刻退場することだ。それが一番の貢献だ。
映画「君たちはどう生きるか」を観てきた。
・うまい言葉がみつからないけど、アニメーションとしては、スタジオジブリの集大成といってもいい、すごい映像作品だと素直に思った。
・「インコ」というジブリ史上でもっともキモ可愛なキャラクターが爆誕しているので、それだけでも見る価値がある。早くグッズ欲しい。
・唐突に色々な出来事・モンスター・アイテムが目まぐるしく登場するので、初見で理解が追いつかない感もあったが、むしろ神話的で良いと、魅力的に感じた。たぶん、わざとそういう配置にしてる。
特に、個人的な感想として、もっとも印象深かったのがキリコという登場人物だった。
キリコは異世界(塔の世界)に迷い込んだ眞人が最初に出会う案内人(漁師)であり、『千と千尋』の湯屋の女中のような主人公との関わりを連想させるキャラクターだとも思う。後に、その正体は主人公(眞人)と同時に異世界に入り込んだ従者(老婆)であることが作中で明かされている。
はじめは、この案内人は老婆であったキリコが異世界で変身した姿なのかと思ったが、どうも違う。この若い姿のキリコは(恐らく)数十年前に異世界(塔の世界)を訪れていた、若き日のキリコなのだ。
そして、眞人と同時に異世界に侵入したはずの老婆キリコは、若き日のキリコより、木彫の人形として眞人に託される(映画ラストで、この人形が老婆キリコに変化することから、これが依り代のようなアイテムになっていることは明らかである)。
しかしなぜ、老婆キリコは異世界で木彫り像に変身しなければならないのか?それは、パラドックスの回避の為、時空が混然一体となった異世界(塔の世界)には、2回目は入れないルールがあるからではないか、と考えた。
ではそうだとして、何故、異世界に侵入していないはずのその他の従者(老婆)たちも、老婆キリコと同様に木彫り人形として異世界で登場していたのか?この関係は紐解く必要があるように思う。
一つは、現実世界からの老婆キリコは、他の従者(老婆)たちと同列に、この異世界(塔の世界)には不在であることを示すたんなる装置としての(木彫り人形の)意味合いはあるだろう。
では、他の従者(老婆)たちも若き日のキリコと同様に、過去に異世界に招かれていたということなのか?この点については、実は、キリコ以外の従者たちは、ワラワラ様が現実世界に生まれ、育った姿なのではないかと思うのだ。つまり、彼女たちは大叔父が作った異世界に魂の起源・体験を持つので、作中の異世界では木彫り人形として描かれたのではないか(2回目は入れないルール)。つまり、過去に異世界と縁があった存在であることのメタファー(暗喩)が木彫り人形なのだと思う。
そう考えると、丸くて小さくてもふもふした従者(老婆)たちと、背筋の伸びた老婆キリコのキャラクターの対比も分かりやすい。異世界でのワラワラ様とキリコの関係性を、現実世界でも再現しているというわけだ。
そして、実はキリコは大叔父の血縁者なのではないか。つまり、血筋的にも大叔父・ヒミ・眞人と関りのある重要な役割を担う存在だったのではないか。
異世界(塔の世界)では、大叔父とその血縁者しか主体的に世界に影響を与えられない……という風に理解ができそうな台詞・描写も作中にあったと思う。だから、異世界での鳥達は変容・進化?してしまったし、直接の血縁ではない眞人の父は異世界には入れない。他方で、ヒミは火を操る神通力により世界を浄化?破壊?する役割を与えられ、キリコは循環と再生を扶ける役割が与えられているのだ。
作中序盤で描かれる現実世界での老婆キリコは、他の従者たちと違って、なんとなく可愛げがなく、めざとく狡賢い性格として描かれている。しかし、あの異世界で描かれるように、面倒見がよく逞しく凛々しい姿が、キリコの内面なのである。だから、老婆キリコは、眞人を心配して廃墟の塔までついてきてしまうのである。
ここまで考えると,老婆キリコが作中でもっとも印象深く愛しいキャラクターに思えてこないだろうか。
↑↑↑以上↑↑↑
SNSなどでストーリーが分かりにくいという前評判をみていたが、物語の構成は『千と千尋』や『トトロ』と同様で、トンネルを抜けた先の異世界で試練を経た主人公が、何かを現実世界に持ち帰る構造であり、ファンタジー系のハヤオ作品の中ではむしろ分かりやすい部類だと感じた(個人的には『ポニョ』とかの方が難しくてついていくのがしんどかった印象)。
UT言うてもJUnitとか関係ないTシャツの話ね。UNIQLOがコラボして出してるTシャツ。
数年前までは、とても買いたくなるレベルではないしょうもないものばっかりだったけど、シン・ゴジラとか進撃の巨人のとかそこそこ有名タイトルとやっとコラボし始めてちょっと買ってみたのよ。
コラボ言うても安いから、質はあんまよくないんだろうなと思ってたけど、ビックリするぐらい良いね。ちゃんと単体で着れる厚みあるし肌触りも良いし。しまむらのやる気のない印刷しただけの安物Tシャツとは出来がちがう。
この点だけでもうユニクロ再評価したくなったね。ちょうどズボン無くなってきてたからセール品も買ったりして。買うことに余り抵抗が無くなってよかった。ズボンも見た目スーツっぽく見えるのも出してくれてるお陰で買うのにそこまでためらいがなくなったんだろうな。
なんとあの有名アニメーションのピングーのUTも出てる。ところがどっこい、サイズが赤ちゃん用。
大人用のはない。なんでだ?
Noot,Nootでも海外ネットユーザーに人気あるだろうから、そこらの有名シーンを持ってきてTシャツデザインに落とし込めばそこそこ売れるんじゃないっすか?
ゴジラはほぼ見たことなくて近作もシンしかみてないけど唐突に昭和ゴジラへ行った。
採用理由はふらっと見るなら知名度があるヘドラかなと思って選んだ。
(モスラ・キングギドラ・メカゴジラはシリーズもの過ぎる気がして避けた。)
テーマソングの「かえせ! 太陽を」は結構好き。でも汚れちまったときたら悲しみにが脳に割り込み処理されて困った。
同時に流れる海のヘドロもよくできてると思った。
映像と言えば試験管やシャーレのオタマジャクシのCG?はよかったし、チャレンジングなアニメーションも今から見ると昭和実写映像より見所があったし被害地域とシームレスになる演出はええやん!て思った。ミニチュアとかも予想よりはマイナスにならず気にならなかったけど、テレビへの映像のはめ込みはなぜか、かなり気になった。我ながら細かい。
ヘドラの造形もいいよね。目が横型でまぶたが外側になっているのがお気に入り。瞳が赤いのもいいしおたまじゃくしよりかはデメキンっぽいなと思ってた。ただ飛行形態はちょい雑かなって。あと光線の出る場所ももうちょっとこだわって瞳孔から出すか涙腺を意識するかしてほしかった。なんか目の辺りから適当に出してた印象。
対してゴジラは、うーん…クソダサくない?もっとダサいゴジラも居ると思うけど単体で見てもなんかね。首あたりが。やっぱ着ぐるみに首長は合わないよなあとゴジラが苦手な原因を再確認。でもなぜか最終決戦ではそこらへん気にならなくてかっこいいまであった。謎。
飛行シーンは最初見たときそりゃねえだろって気持ちとまあいいかぁ!って心が二つある~。最初飛ぶのはもう昭和人センスだからかと許せたけど、せめてポーズはもうちょっとあっただろといいたかったし、許した後にヘドラを掴んでカムバック飛行したときはそら許せませんわなぁ!となった。掴んで飛ぶことありきで最初の単独飛行もあのポーズになったと理解してやっぱ許せねぇ!ってなるよ。
怪獣映画はまあ怪獣プロレスを期待してるしゴジラの過去シリーズのどこかはそういう傾向になったらしかったことも見たことあったんだけど。それでも(思考が)人っぽいなあと感じることがあった。
ヘドラはゴジラを掴んで飛んでいい感じのくぼみに落としてヘドロ攻めするところとか。余談だけどこのシーン、ヤギコン好きな人にはたまらないだろうなと思う。ドロまみれであがくゴジラ、えっちくない?
ヘドラと鳴き声で意思疎通してる風なシーンがいくつかあったけど意味を推察することはできなかった。後述すると思うけどゴジラの立ち位置もわからなかったし。
一番辛かったのがしつこく繰り返される腕をちょいちょい(こいこい?)動かす場面。変則でちょっと顔を触って腕ちょいちょいもある。
あれまっっっったく意味わからんかった。最初は「帰れ帰れ」かと思ったけど終盤でもしてるし、「俺はやるぜ」的なヤンキーポーズなのかなと捉えたけれど、いやいらんだろ。俗っぽすぎる。人っぽい。人外生物の威嚇でも成立してない気がする。なんだろ、当時流行っていたポーズのオマージュなのかな?とにかくゴジラが独り腕を動かすだけのシーンが出るたびにテンポも死ぬし人っぽいしイライラした。
さらに悪い知性でいうと最後の人類の兵器をゴジラが活用して倒したこと。人類が一度動作させたのを見ていたならわかるけど一度も動かなかった謎の建造物を活用して倒したのは(偶然にしても)最悪だった。しかも一度ならず活用している。最後の執拗な死体損壊からの徹底的な焼却は動物的本能で飲み込んだけど、ゴジラが自分の熱線より強い人類兵器を(熱線を使い)活用して倒したのは賢いゴジラというよりは強者の生物的プライドがないゴジラだなぁと感じた。もう少しシナリオでカバーできた部分だと思う。(ゴジラは他でも賢いしコミカルな・俗な動きもするヤツだといわれればそうだろうけど)
ウルトラマン風ポーズは…一瞬だしサービスシーンとして許すよ。
そんな感じで作品の悪い部分はだいたいゴジラに集中する。そもそもゴジラは水爆実験の放射能汚染で誕生したんだっけ?詳しくないんだけどたしかそんな風だったと思う。で、人類への怒りとか警鐘をテーマとして少しは背負ってたのかな。
そんでヘドラが公害汚染から生まれた怪獣で、ある意味被害者の会の友じゃない?人っぽい動きするなら人っぽく共感が生まれそうだけど。
それをヘドラから人類を守るってのはなんかなぁ。執拗に人類を狙わず海でひっそり暮らせってスタンスならわからんでもない(からゴジラの腕クイクイは最初、余計なことせず帰れ帰れの意味じゃないかと考えた)
過去作で人類との和解があったのか既にヒーロー路線に入っていたのかはわからないけど、そんな人類(地球?)の守護者的なのはガメラさん担当じゃないのん?って。ガメラもしらんけど。今回空飛ぶし。それガメラさんちゃうの?って。後追いの後追い?
なぜゴジラが現れるのかってのはもうこの時代ですでに考えないお約束になっていたのだろうか。(住処の海をヘドロで汚染された怒りが拡散させそうなヘドラにも向いてたのかなぁと考えている)
公害テーマもわりと淡々としていて、ヘドラが出現したことによる人類全体への警鐘・反省感はやや薄い。いえね、本当に100万人集まって公害反対できればよかったねと言いたいわけではないの。あの彼ら以外のメディアとかの人々のヘドラの出現やその原因についての反応が結構淡白で、公害から生まれちゃったかーしゃーねーどうやって倒すべかなって雰囲気。まさに当時の人々そのままで風刺しているとも言えるけどね。環境を綺麗にするとか体内のヘドロを浄化するとかでアンチヘドラするんじゃなくて(ゴジラの初登場含め)焼却してまえ人々は退避してまえとヘドラへの向き合い方は普通のいち怪獣だった。だから公害はあくまで当時取り上げたテーマで、反公害への"強い"メッセージ性はそこまで感じなかった(無いとは言わない)。見る前の印象が「かなり異色中の異色作」だったから、視聴後はギリ普通の作品の範疇かなと印象を落ち着かせた。
ゴジラの最後のひとにらみが警鐘だ、と解説されてもうーん。わからんかったよ。人が作った兵器で倒して人にメンチ切るのはダサいと感じた。ただ「人原因のヘドラを俺に尻拭いさせんなよ」的な怒りは伝わった。悪く外して読むと「兵器ちゃんと使ってお前らで始末つけろや」みたいな(ゴジラさんのプロレスで壊れたんだけど)
不満たらたらな部分を多く書いたけどヘドラの怪獣の出来はいいしテーマもいい。人間部分もそんな悪くない。昭和映画と身構えても全然見れる映像だったし、トータルでいうと悪くない作品。ゴジラがあまりよくないとは逆に言えば別にゴジラ好きじゃない人間には減点になりにくいのかもしれない。
あ、あとゴジラさんなんかリジェネかかってません?目がつぶれっぱなしのヘドラに比べてヘドロが落ちてたりとダメージ描写はあるけどピンピンしててずるいと思いました。
https://anond.hatelabo.jp/20161107160144
3日まで総集編2本と劇場版1がなんとyoutubeで公開されている。急いでみた方がいい。
リズと青い鳥も時系列的には重要で、こちらはアマプラで見れるから劇場版1の前に見るのがよき。
総集編とはいうが構成も良く、初めて見る人でもあらすじが分かり感動を損なわない作りになっている。
さて会場風景等の素晴らしさを以前感動して書いたのだが、あらためて見直したので演奏面について語りたい。
京アニの日常作画や風景描写、例えば1期の久美子が走るシーンなどはもちろん素晴らしいのだが、吹奏楽経験者としては演奏シーンの凄さを改めて言いたいのだ。
まず前提として「運指が音と合っている」という素晴らしさは感動モノだ。
バンドシーンで描かれるギター1本一場面の描写が正確なことに初めて感動したのはいつのことだったか。あれも京アニだったが、今作では進化どころか別次元に突入した。
55人ものキャラが多種多様な楽器でそれをやっているのはアニメの素人ながら狂気しか感じない。
音程を操る場所が基本4つしかないので同じ指なのに違う音が出ている、という状態になる楽器だ。これはトランペットやチューバなども同様である。
それを肩の動きや息の入れ具合で音程に変化をつけていることを、アニメーションにしていることに感動を覚えるのだ。
吹奏楽、声楽では当然のように言われるが身体は楽器である。そこを描いてこそなのだが、実はこれは実写俳優ですらなかなか再現できていない。
金管以外で、主に指で音を変える木管楽器でもアプローチが鋭い。
「リズと青い鳥」のオーボエ演奏。最初、奏者のみぞれちゃんは固まったまま吹いている。学生演奏あるあるなのでそのままでも問題はないが、彼女が音大を目指すことになったあと演奏がアマチュアを超えるシーンがある。
そこではオーボエ特有の力強い息、と楽器を回すような演奏が描かれる。感情を入れた瞬間を、アテレコ演奏と汗の吹き出しで表現するアニメや実写は多いが、ここまで楽器の特徴を捕えて完璧に表現されると涙が出てくる。
それにオーボエのリードを作るシーンは最高だ。吹奏楽界隈のひとはこのシーンで失神した人が出たとも言う。
さらに、「リズと青い鳥」で苦悩したフルートが確変したオーボエに合せてついていくシーンが劇場版1で描かれる。そのときのフルートの姿勢。実はリズ〜の方では(気にはならなかったが)肘をあげすぎるという改善点があったのだが、劇場版では美しい姿勢で吹いているのだ。
これはフルートあるあるで作画のミスではなく、明らかに、練習した成果が現れているものであり、そんなの誰が気づくかよと思うのだが、こうして経験者は気づくのだ。
ここまで作中であまり取り沙汰されてないパートだが、それだけに見せ場のコンクールシーンで、突然ウィンドマシーンやラチェットと言う管楽器奏者にすら知名度の低い楽器をなげこんでくるから正直草が生える。視聴者混乱する。おそらくウィンドマシーンを正確に描写した初めてのアニメだろう。
インパクト重視パートかと思うと、スティックの動きの正確さに唸る。
鍵盤打楽器の腕の運びも勿論のこと、例えば譜面にはrollとしか記載されてないシーンで奏者は沢山叩く必要があるのだが、曲に合わせある程度の音粒、数を揃えていく必要がある。
初めてみたときはwhat's happened!?だった。細かさで言えば木管楽器演奏を超えている。ティンパニ演奏シーンは鳥肌モノだ。
4日に公開されるアンサンブルコンテスト編。中篇らしいが、どうも噂によると打楽器がフィーチャーされるとかなんとか。もう楽しみでソワソワしている。
引き絵でも滝先生の指揮が正確だとか、語り足りないくらいだが、このへんで終わろうと思う。
本編のアニメーションを楽しく見ていただけに、アニメ終了後の公式の対応に本当にガッカリした。
「機動戦士ガンダム 水星の魔女」のあらすじを三行でざっと書く。
・紆余曲折あって、苦難を乗り越えた二人は最終的に結婚(したと思われる描写がある)
アニメ本編は大盛りあがりでSNSでも大きく話題になっていた。
私は同性愛者でパートナーである彼女と毎週楽しく見ていました。
女性同士の恋愛が国民的知名度のアニメーションで描かれていること、またその二人の物語にSNSでポジティブな反響がある様子をみて「時代は変わったな~」と感慨深かった。また、作中の恋愛関係抜きにしても、毎週どうなるかわからない展開に視聴者としてハラハラドキドキさせられたし、毎週心待ちにしていた作品だったんだよね。
最終回二人の結婚を見届けることができて本当に嬉しかった。生まれて初めてだよ、作中のキャラの結婚を祝うケーキ買ったの。あれは最高にうまかった。
それがですよ。今週発売されたガンダムエース(KADOKAWAのガンダム専門誌)でちょっとした事件があった。
最終回を迎えた主人公とヒロインを演じた声優さん達のインタビュー。
それを読んだファンは「ああ、やっぱり2人は結婚してたんだな!」と盛り上がった。
というのも、物語のフックとして「最終的に2人は無事結ばれるのか?」という軸があったにも関わらず、最終回で結婚式の描写がなかったり、最終回直後の特番で声優陣も主人公とヒロインの結婚に一切触れないという、不自然な前提があったりしたからだ。
主人公とヒロインの結婚を祝福したいファンは飛びつき、エヴァの最終回ばりにおめでとうおめでとうと連呼した。
それが、発売後に急遽インタビューから「結婚」の2文字が消された。
Kindleって、発売後の本にアップデートかけられるんですね。初めて知ったよ。
当然ファン達はなぜ??と思うわな。KADOKAWAの問い合わせフォームから削除の理由を問い合わせたって声も多く見かけた。
https://twitter.com/G_Witch_M/status/1685628114125340672
いや、なんかもう怒りを通り越して、ただただガッカリした。
一編集者の憶測による文面がそのまま誌面に出るなんてことあるの?という違和感が拭えないし、修正漏れした編集部が悪いんで!と言わんばかりの釈明にもひいた。
いや、そういう問題じゃなくない??
そもそもなんで「結婚」の2文字を、発売後の雑誌にアップデートかけてまでわざわざ削除しなくちゃいけなかったのかって話なんだよ。
「一人一人の捉え方、解釈にお任せ」する、の真逆の姿勢じゃないか。
あれだけ作中で明確に2人は結婚したという描写をしておきながら、それでも結婚したとは公式に明示したくないってことでしょう。
最初は「大きいIPだし、同性愛がタブーの文化圏での配信や多言語対応を見越しての対応なんだろうな」と思ってたんだ。商業的な理由だと。
実際シンガポール版では一部のシーンがカットされていたし、中国では配信が予告されているものの、配信ができない状態が続いている。ただ、実際に配信に支障が出るのであれば、先のように台詞のカットや編集など、ローカライズで解決するべき問題だろう。
よくよく考えると日本でしか発売されていない雑誌の、しかも出版後のインタビューの2文字をわざわざ削除する必要あるのか……?と。
結局、
「公式で女性同士の恋愛・結婚を描いているにも関わらず、それを公式に明示してはならぬというレギュレーションがあり、それに反したため雑誌は修正された」
ということのようだ。
ただ、そのレギュレーションがなんのためにあるのか、さっぱりわからないんだよ。
だって、主人公とヒロインの関係を軸にしたガンダムで、結婚したって作中でも明確に描写されているのにだよ?
誰の、何を守るためのレギュレーションなんだろうな。
最終回で結婚していた主人公のスレッタとヒロインのミオリネは本当に幸せそうだった。
「人の数だけ正しいがあるもの。いつか必ずどこかで間違うのよ。それでもできることをするの。この先も」
差別や争いが絶えない世界で、この台詞に励まされた私のような人は多いと思う。
現場の制作陣やキャストは、むしろ厳しい制約の中でよく最終回まで描ききってくれたなと感謝している。
私は本当にこの作品が好きだし、観ることができてよかった。
ニンテンドースイッチのゲーム50本遊んで感想書いたのでまとめ(23〜47)
携帯電話で展開していた探偵・癸生川凌介事件譚シリーズの第十弾。
シーズン1最終作ということで、今までの縦筋として伏線が貼られていた過去の事件、永劫会事件がついに描かれる。
今までの癸生川シリーズ全部盛りな贅沢な作品で、ミステリらしい意外な展開、文書の書き方で読者を騙すもの、マルチサイトの構成の妙、小説として情緒的な染みる文章と、良かったところが沢山ある。
シリーズを通じての伏線が回収される展開も多いため、必ず全作遊んでからここに辿り着きたい。
人によってはこの作品をシリーズで一番に据える人がいそうな、ゲームとしての完成度は抜群だった。
携帯電話で展開していた探偵・癸生川凌介事件譚シリーズの第六弾。
マルチサイトシステムを導入していて、伊綱さんと、生王の視点を行き来しながら事件を追う。
構造自体に仕掛けがある系の作品になっていて、ミステリやってる感がかなり強い。
人によってはこの作品をシリーズで一番に据える人がいそうな、トリックの魅せ方としての完成度は抜群だった。
携帯電話で展開していた探偵・癸生川凌介事件譚シリーズの第四弾。
もちろん、ミステリらしい意外な展開や、文章での表現を利用したトリックなどもあってそちらも楽しめる。
人によってはこの作品をシリーズで一番に据える人がいそうな、物語としての完成度は抜群だった。
株式会社オレンジのロマンティックミステリの第二弾で、女性主人公が事件を捜査して解決しながら男性キャラといい感じになっていくストーリー。
普通の女子大生が突然マフィアのボスになるという突飛な開幕ながら、割と丁寧で良い意味で地味な捜査と解決をしていく。
とはいえマフィアのボスらしく、違法行為をしてでも事件の手がかりを集めるところなんかは今作独自の魅力があり、このシリーズは女性主人公の成長も魅力なんだけど、今作ではマフィアのボスらしくなっていくという本当にその方向で成長していいのか? と困惑しながら遊ぶことになる。
そして本当にマフィアのボスらしくなっていくのが本当に面白くて、好きなところだ。
あのルートレターのシリーズ的には続編に当たる角川ミステリシリーズの第二弾。
奇作、怪作としか言いようがない前作とは違い、しっかりと地に足が着いた丁寧な良作だった。
主人公の八雲マックスが映像作家としての矜持を持つプロに徹する人間性なのも好印象で、熱苦しいものの痛快な好男子で好きなキャラだった。
またもう一人の主人公新人女優のリホも駄洒落に拾い食いと評されるひょうきんなキャラで、主人公がどちらも魅力的な作品だった。
株式会社オレンジのロマンティックミステリの第一弾で、女性主人公が事件を捜査して解決しながら男性キャラといい感じになっていくストーリー。
主人公は他人の死を夢で予知できる能力を持っているが、メイドという立場なのでそれをありのまま報告しても信じてもらえないので、色々と工夫して殺人事件を阻止するという展開。
この夢で見た予知の死を覆すという展開が短編連作的に続くのだけど、どれも同じ人、攻略対象で主人として支えている男性キャラの死を予知するため、何してもこの人死ぬじゃん、とシリアスな笑いを感じてしまったのは不謹慎だから反省したい。
貴族と平民という立場の差のエピソードなどは興味深く、伝えたいことの取捨選択がしっかりしてて短いボリュームながらしっかりまとまっている好きな作品。
ニンテンドーとコーエーテクモがバディを組んで送る超贅沢なアドベンチャーゲーム。
タイトルの通り二人組の関係性がかなり重要なキーワードになってくるが、あくまでバディなので男女問わず楽しめる王道なストーリー。
舞台となるミカグラ島に住む市井の人々にもサブエピソードがいっぱいあって、モブキャラが活躍する展開が大好きな自分としてはそちらの方向も嬉しかった。
ヒーローを目指す主人公のルークに延々とずっと辛い展開が続くので、遊ぶ手が止まりかけるほどだったのだけど、バディのアーロンがそれを引っ張り上げる展開が熱くて沸る燃えるゲームだった。
女の子は万華鏡、といえば何をやっても良いと思ってるゲロカスな美少女デスゲームもの。
ふわふわした可愛い4人の美少女が、罵倒有り暴言有り暴力有り可愛げ無しのデスゲームに巻き込まれながら、剥き出しの人間性を露出していく。
そんな残酷なデスゲームの間に、いかにもな可愛い萌えな過去の日常パートが挟まり、この落差の凄まじさが独自の味わいになっている。
罵倒シーンの声優さんの熱演も見所で特に茜屋日海夏さん演じる五条風華の暴言は下品すぎて、日常パートでの可愛さとの差が凄かった。
ダンジョンRPGの老舗エクスペリエンスが送るホラーアドベンチャーで、怪異の噂をDRPGのような探索パートで調べてから、RPGのボス戦のような怪異との対決パートに挑む構成で、テキストが主体のアドベンチャーゲームらしくない画面構成になっている。
とはいえ、要するにで言うと、事件の手がかりを見つける捜査パートと、容疑者を追い詰める尋問パートみたいなもので、怪異と言いながらも探索パートで手に入れた情報からフェアに対決パートの選択肢を推理可能なように作られている。
RPGっぽいパラメーターの表現はフレバーに過ぎず、テキストをしっかり読むことが大切なので、そういうゲームが苦手でも問題なく遊べた。
印人と呼ばれる仲間を連れて探索するのが特徴で、中年男性ながらかなり露骨にツンデレキャラで萌える真下悟さんが僕はお気に入りだ
○普通
三つしか記憶を保持できない主人公が自身の恋人をなぜナイフで刺したのかを巡るサスペンスなコマンド選択式ADV。
時系列が未来から過去へ進んでいくため行き来する渋谷の街のモブキャラ達にも物語があり、当時の雰囲気を感じられる。
フラグを記憶出来るにも三つだけという設定をシステムに落とし込んでいるのが見どころ。
ただし、この試みが成功しているのかは若干疑問が残り面倒なだけだったかもしれない。
編集者で美女としての自覚が強い木戸いづみが担当作家の鏡月正宗からの無茶振りで事件を捜査することになるコマンド選択式ADV。
物語としての起伏は少なく、ミステリというよりはクイズの趣きが強い。
美女を自称するいづみの強引な聞き込みパートが面白く、話がテンポよく進む。
携帯電話のゲームからの移植だが背景絵のクオリティが高くあの当時に遊んでいたらまた違う感想があったかもしれない。
うらぶれた探偵の狗神エイジとお嬢様刑事の鷲宮ヒナのバディもの。
舞台の池袋に住む市井の人々の協力を得ながら様々な事件を解決しつつ、エイジの相棒でありヒナの兄が死んだ真相も追う縦筋の物語もある。
協力者の面々がかなり優秀な人が多く、主役の二人よりも探偵として優秀なのでは? と思ってしまう良い意味でのテンポの良さが楽しい。
システム面では、よくわからないミニゲームや、頻繁に挟まる話に区切りがついているわけでもない暗転など、運営型スマートフォンゲームの移植故のシステム的にしっくりこないところがあった。
少女同士の恋愛を描きつつ、幾つかの日常の謎を解決する公称ジャンルは百合ミステリ。
ただ、ミステリ部分は少女同士の恋愛を際立たせるための背景のようなもので、あっさりと進んでいく。
その分、恋愛に関する描写はかなり多めでかつ濃厚なもので、恋と友情の差を自覚しつつ、はっきりと恋愛的な意味で好きになっていく過程が描かれていた。
それだけに短編連作で4つしかエピソードがないのは、良い意味で物足りなかった。
携帯電話で展開していた探偵・癸生川凌介事件譚シリーズの第九弾。
白鷺に紅の羽の裏を描く、と言っても時系列や人間関係のそれではなくて、モチーフ的なというか、表現が難しいやつだ。
癸生川シリーズを通しての、探偵は何のために事件を解決するのかを端的に示した短編になっている。
テーマ性の塊みたいな剥き出しの作品なので好き嫌いは別れそうだけど、僕はかなり好きな方だ。
携帯電話で展開していた探偵・癸生川凌介事件譚シリーズの第八弾、元々はDS版の移植である。
久々にスピンオフ短編やマルチサイトではなく、いつメン達のいつもの構図。
ただ、ボリュームが多いのにいつもの構図をやるせいで、伊綱さんの推理がひっくり返るのが、少しもったいなさを感じてしまった。
あくまであのいつもの構図は短編や中編だから決まるもので、長編にはあまり向いていなかったかもしれない。
携帯電話で展開していた探偵・癸生川凌介事件譚シリーズの第五弾。
ちょっと今まではとは毛色が違い、いつものレギュラーメンバの出番も控え目で雰囲気もホラー寄り。
とはいえ、我らが名探偵癸生川凌介が出てくるシーンは格好良く決まっている。
彼をなぜかホッとすると評するのは、なるほどな意見で、なかなか自己分析が出来ているセリフだと思った。
携帯電話で展開していた探偵・癸生川凌介事件譚シリーズの第七弾。
今作はちょっと箸休め的なスピンオフな短編で、正直ちょっと読みどころはあまりない。
犬可愛い可愛いゲームと一言で終わっても良いぐらい犬は可愛い。
とはいえ、これだけ遊ばないのも勿体無いので通して遊べば良いと思うな。
携帯電話で展開していた探偵・癸生川凌介事件譚シリーズの第三弾。
三作目ともなると、いつメンのいつもの構図でいつものやつと簡単に評したくなっちゃうね。
とはいえ、シリーズを通しての縦筋なんかもで出して、探偵・癸生川凌介事件譚として好きになれる要素が増えていくキッカケも多い。
今作は割と聞き込みや証拠品集めからの推理が多く、今までの突飛な発想の飛躍が求められるものじゃないのも特徴的かつ、以降はこれが主になっていく。
携帯電話で展開していた探偵・癸生川凌介事件譚シリーズの第二弾。
前作の流れは踏襲しつつも、本格ミステリさながらの大胆なトリックが映える面白い作品だった。
とはいえこの類の方向性はしっくりこなかったのか、これ以降はもう少し社会派だったり、テーマ性だったり、文章の書き方で読者に対して何かを隠蔽する類の方向性になっていく。
物理トリックの類はゲームだと映えるんだけど、携帯電話の容量の少なさを考えると難しかったんだろうなあ。
携帯電話で展開していた探偵・癸生川凌介事件譚シリーズの第一弾。
名探偵癸生川凌介、その助手白鷺洲伊綱、彼らの事件をゲームにしている生王正生、いつもの面々のデビュー作。
伊綱さんと生王が捜査をしてそれらしき答えに辿り着くも、癸生川がどんでん返すいつもの構図は初見だと結構驚く。
携帯電話という限られた容量の中でしっかりとミステリをやろうとする気概が素晴らしい、
めちゃくちゃ豊富なスチル絵に軽快なBGM、そしてカートゥーン調のアニメーションでハイスピードに物語が展開していくSFもの。
テキストを読むことが主体のゲームって落ち着いた作品が多く、議論をしたり腰を据えてお話を聞いたりが多いんだけど、この作品はとにかく主人公たちが走る! 動く! 飛ぶ! と終始忙しなく動いてばかりで色々な物語が手早く展開していく。
テーマソングの飢餓と宝玉はオープニングテーマでありながら、作品の全てを包括するような歌詞になっていて、クリア後に聞くとまた違った感想になる曲で大好き。
ただ、このスピード感故に細かい部分の整合性や説明がカットされているのは好みが分かれそうかな。
とにかく全体を通じて奇妙な作品で、十数年ぶりに高校時代の文通相手との手紙を発見して、彼女に会いたくなりその地元島根に向かう。
こんな如何にもな青春振り返り系エモストーリーの導入だが、全くこんなストーリーではなく、罵倒、悪口、恫喝を繰り返す反社会的な主人公に振り回される恐ろしいお話。
ストーリーもリアリティラインがルートによって様々すぎて、突飛な展開が続くかと思いきや、現実的な着地を見せたりと、唯一無二な奇妙すぎる作品だった。
インディーゲーム開発者の女性二人の関係性を淡いドット絵の演技で描くナラティブアドベンチャー。
全てを文章で語らず、キャラクタの演技で語るストーリーが見所でかなり細かい演技が丁寧に表現されている。
また、途中で挿入されるゲームボーイライクなパズルゲームが、レベルデザインでなにかを暗喩しており、キャラクタがなにを感じたのかを、台詞や演技だけでなく、このパズルゲームでも表現しているのが今作独自の特徴的な部分。
なかなかハードで現実的な部分が多く、少し心に余裕がある時に遊んだ方が楽しめそうだ。
修学旅行で水中を走る列車に乗り込んだ学生たちの中で起こる殺人事件のお話。
スペインのインディーメーカーの作品だが日本のサブカルが大好きな人たちが作っているようで、そういうのが好きな人向けの小ネタがたんまり入っている。
とはいえ、ジェンダーや政治的な正しさを規定とした問題提起が挟まるなど、日本ではあまり見られないストーリーもあり独自の良さがあった。
殺人事件にまつわる解法も、トリックやロジックなどのあれこれではなく、人間関係の妙に重きが置かれているのも、ある種のらしさなのだろうか。
奇妙なホテルの一室で目覚めた男性がいきなり殺人事件の容疑者と報道されるニュースを見るところが始まるホットスタートな実写ゲーム。
短編ほどのボリュームながら、ゲームシステムを利用した演出や、繰り返しループする世界での面白コメディや、シリアスな男女の恋愛など色々な要素がみっちり詰まってる。
特にヒロインのサチムラアカネは、敵なのか味方なのか、頼れる強キャラなのか守るべき弱い子なのかが目まぐるしく変わる上に、扇状的なシーンも多く、演じている栗山千明さんの魅力が盛りだくさん。
この内容、すっごいわかるんだよな!!!
まず、全くどんな話かも全くわからずに、映画を見るという経験自体が、もうないだろう(特に私は)と思うので、もうそれだけですごい経験をした気がしてしまう。
そしてこんなに映画を見た多くの人々にどんなことを伝えようとしていたかを考えさせることができるジブリの、宮崎駿の、すごさ。
シン・ゴジラで石原さとみが「本当に怖いのは私たち人間ね」みたいなことを言ったことに比べたら、わかるでしょう。何も言わないという手法のすごさが。私たちを信頼していることが。全員にわからなくたっていい。
わたしはこの映画を「君たちはどう生きるか」以上でも以下でもないと思った。それは感覚的な言語表象の超越みたいなことなんだと思う。
この話は宮崎駿自身の人生でもあり、アニメーション業界の言及でもあり、そして私たちの人生でもあり、もっというと、そう、人間が抗うことのできない何か大きなもの、を感じさせるのだ。
だって細かい解釈は置いておいて、みんなの感想ってどこか本質的に似てるじゃん。何か近いじゃん。
わたしは大人になってから、魂をかけた取り組みをみるといたく感動してしまう。ピカソだって、自分の極めたひとつの表現方法を高めては壊し、高めては壊し、そのことに生涯をかけ、私たちはそれを知り、その過程を知らなくてもゲルニカに感動するわけじゃないですか。
今回の映画はそういった今までの人生の、アニメーションの、人間関係の、人間の発展の歴史の、国家の発展の、「破壊と想像」を感じるわけです。
物語には無限の可能性があるから、どう受け取ったかが違ったっていい。作品を世の中に公開した時点で、作品は作成者本人の意図を離れ、解釈される。新しい解釈が生まれ続ける。新しく生まれた解釈は、作成者本人にも届き、作成者自身がさらに新たな解釈を見出す。作成者がそれをインタビューで発信する。発信されたインタビューを見て、さらに解釈が生まれる。ずっと作品をめぐる解釈は、国を超え時代を超え個人を超えアップデートされ続ける。
まるでこの映画だね。映画の感想そのものも、映画の内容みたい。
今までの宮崎駿が作ってきた映画とかなり毛色が違う気がする。これが新たな挑戦の宣告だとすれば、わたしはもうすでに新しい挑戦の上で作成した映画をもう一本作ると思う。
いろんな人が解釈をし発信している。権威ある人の発信を見ると自分が間違ってたのかな?と思うこともあるけど,そう思わずに思ったことを書いてほしい。思うことは自由だ。わたしたちは「君たちはどう生きるか」のなかで巡り合うことができる。
アニメーションに関しては原液というより、完全に出涸らしでしたね。
90年代ジブリ全盛期ならまだしも、令和の時代にこの動画では正直古臭さは否めないです。
美味しいパンというのは、バターもジャムも適量塗られている状態が美味しいのであって、
べったりこぼれおちるほど塗られてるのは不味そうだなと思っちゃった。
→これはもともと期待してなかったのでOK。寧ろ割と明確なテーマを提示してくる割に抽象的な尖った進行をしてきて、そのバランスが楽しかった。
→これが悲しかった。
ほかのジブリ映画では必ず複数個あった「うおすっげ♡」みたいなアニメーションが薄く感じて悲しかった。(火事の場面はほえ~かっこいい絵だなぁとおもった)
妙に説明的な動きやセリフが多い割にあまり画面が動かなくてもっと振り切った独善的な描写にしてほしかった。(例えばアオサギから徐々に顔が出てくる感じとか、歯茎みたいなのが出てきた時点で皮被った異形なのわかるから一場面ごとに5cmくらいずつ出てくるんじゃなくてはよ出てこいやとなった。急につみきがスッと入る図が差し込まれて笑いそうになってしまった。)
みんなだいすきばーちゃんたちも、最初鞄漁ってもぞもぞしてたところでテンション上がったけど、それ以降これといった描写がなくてかなしかった。
大発生していた白饅頭もなんJ民みたいな恵体インコ達も、「キッモ♡」「オッかわいいね♡」「何食ったらこれ思いつくんだよ」みたいな感情があまり湧いてこず惹きつけられなかった。
否定的なことばかり言っていてもしゃあないので好きだったポイントも書く
主人公を引き留める割にスタスタついてきたり弓の命中にキャッキャしてたりと「なんかこのババア強いぞ…?」と感じ始めた流れが綺麗につながった気がして気分がよかった。
義理のかーちゃんがちょっと妙な話し方するなぁという程度で、他は特に気にならなかった。あいみょんが喋る声を知らなかったからかも。
ポスターのカッコいいイメージと違って四畳半の小津みたいなキャラだなあと思いながら見ていて、その印象が覆されることはなかったけどラストの締めが好きだった。解釈が分かれるところらしいが自分は主人公自身の心象投影+異空間との橋渡し役、みたいなキャラとして観ていた。単にそういうさらっと差し込まれるメタ描写が好きなだけかも。
こんな感じ。周回遅れだけど突っ込んでくれたらうれしい
自分の宮崎駿監督に対する身勝手な期待とか甘えを供養するために書く。今作品は期待半分、不安半分という気持ちだった。宣伝なしということだったし、宮崎駿監督作品を事前情報一切なしで視聴できる機会というのはおそらく最初で最後であろうと思ったので、早バレ等も避けるために数日SNS断ちして初日に見に行った。ただ映画館に向かう足取りの中で最後感じていたのは恐怖感だった。子供のころにもののけ姫を見たときの衝撃を再び与えられて、おっさんになった今再度、人生観を揺るがされるかもしれないと―。
さて、いざ蓋を開けてみると、途中まではリアル物なのかファンタジーのどっちなの?というドキドキや不安感。方向性が確定したときに期待感はMAXとなったが、それ以上膨らむことはなくしぼんでいった―。
美術、アニメーションの美しさは申し分ないが、ストーリーは感情移入できない半端な作りと言ったところで、結局、いつもの宮崎監督後期作品という他ない。今、振り返ってみると監督のキャリアハイとしての作品は千と千尋の神隠しあたりになるのだろうが、その千と千尋も後半から、この半端さの片鱗がある。例えば終盤、千尋は豚の中に両親がいないことを見抜くが劇中にその説明はない。しかしながら説明不足ではあっても、千尋とハクとの心のふれあいみたいなものが十二分に描かれているから、感情的に押しきれている。手を離すシーンとか思い出しただけで泣けるわ。
しかしながら、君生きはストーリーっぽいものや感情の揺らぎみたいな表現はあるものの、説得力というか、それ自体の根拠がはっきりと提示されないから、大抵の観客は感情移入できずに戸惑いを覚えると思う。例えば劇中で主人公の自傷行為や継母の拒絶が描かれるが、その感情の根っこが分からないので観客は困る。自傷はもっと構ってもらいたかったのかな?とか拒絶はやっぱり連れ子がうざかったのかな?とか想像はできるけど見てる側はそれを確定させる要素がないから、多分こうだろうとか理由を補完して見ていくしかない。つまり作品に気を遣う状態になるわけで、それは相当きつい。忖度は要求されるが、圧倒的な感情の「分からせ」がない(※)。監督が一人で突っ走ってる。観客は置いてけぼり。かつて宮崎監督は、見終わったあとに2階から出てくる感覚になるような映画がいいとか言っていたような気がするが(ソース探したが見つからず)、君生きは観客が一生懸命2階への階段を必死に探すものの見つけられないまま塔の中で迷子になり、最後にパヤオだけが悠然と2階から出てくるという感じだろうか(画・浜岡賢次で想像してもらいたい)。
あとはヒロイン?3人は多すぎる。実母に継母に婆さんでしょ?詰め込み過ぎて破綻する典型。正直、継母は全部削除して、序盤で実母エピソード増やして、実母を探しに塔に行く形にして、最後、実母ときれいに別れてで多少は形になったろうにね。もっとシナリオ段階で練ればいいのに…もったいない。
もう一つ、主人公が大叔父と話した後に、急にインコに囚われてるシーンになるが謎過ぎる。壁につながれた手が映ってからの下にパンしたときに、実母でも継母でもなくお前かーいってなったのが一番面白かったかもわからない。宮崎監督が過去、インディジョーンズの潜水艦移動を批判していたが( https://ei-gataro.hatenablog.jp/entry/20131030/p1 )、それと似たり寄ったりだろう。いくら異世界?だからといってワープしすぎである。
※ 宮崎監督とも対談したことのある養老孟司は「バカの壁」において強制了解という語をつかった(p.41)。例えば数学においては前提と論理を共有しているのであれば同じ結論に達せざるを得ない。ある定理の証明を正しく説明されたのであれば、その正しさを了解せざるを得ない。そういった強制力を強制了解と呼んだ。そうした強制力は感情においても成立する。例えば電車で子供が騒いでるのをぼけっと放置している父親がいたとして、普通はそれを理解できないが、もし父親が「実は母親が病院で亡くなって帰る所で、これからどうしていこうかと悩んでいたところなんです」と説明されれば、事情は理解できるだろう。事情が分かれば感情を了解できる。それは物語を受容する過程でも同じことが言えると思う。
なお、この流れで養老は他人の気持ちが理解できることを重視すると同時に、「個性」信奉を批判する。そんなに個性が大事かと。存分に「個性」を発揮している人は病院にいるという。白い壁に毎日、大便で名前を書く患者がいるらしい。芸術的にみればすごいかもわからないが、現実的には大変迷惑でたまらないだろうとのこと。奇しくも本作においては継母の美しい顔が鳥糞まみれになる描写があるのでそういう個性的なスカトロジー的芸術に理解を示す人はいるかもしれない。
こうした一見てんでバラバラに見えるような物語の断片も、もしかしたら宮崎監督だけには分かるのかもしれない。スピルバーグだか有名監督が誰にも分らない映画つくるのはホームムービー撮ってるのと同じだ的なことを言っていた気がするが、もしかしたら本当に宮崎監督はホームムービーを撮ってしまったのかもしれない。自分だけがわかる映画作品を作れるとしたら、映画監督としては最高の贅沢だろう。自分用の映画、私小説と言われたらなるほどという気もする。今回、宣伝がなかったという点でも符号する。これはもはや天才にだけ許された所業なのかもしれない(現実に実行可能という意味で)。
ナウシカだったと思うが、興行的に大失敗とはならなかったことから次の作品を作るチケットを手に入れたみたいな監督のインタビューがあった気がする。ジブリブランドが確立するまではコケたら次はない状態であったろうから、興行面は大変重視されたことだろう。つまり天才は大衆に合わせてくれていたわけである。しかしブランド確立された今となっては、大衆を気にすることなく好きな作品を作れるというわけである(ジブリの体制を維持できなかった点には目をつむるとして)。だから今もしかしたら「天才が本当にやりたかったこと」を我々は目にしているのかもしれない。
過去、パヤオ的感性としてはもっとアニメーション表現に全振りしたかったのだろうが、それじゃあ興行的に成立しないから、ストーリーもしっかりさせていたというのが過去の名作への向き合い方だったのだろうか。我々、一般大衆は天才の現実的な妥協のお陰で、(大衆的には)名作となる過去の珠玉を見せてもらえていたということなのだろうか。凡人が天才にちょっと付き合ってもらったという感じ。天才はちょっと退屈していたのかもしれない。大衆は今の退屈を嘆くのではなく、昔、天才に付き合ってもらっていたということを感謝すべきなのかもしれない。
この作品のそういった諸々の分からなさに対してなんとか理解しようとする感想や、なんとか説明しようとする解説記事などが上がっているのを見かけるが、なんとも物悲しい。めっちゃ面白い作品を骨までしゃぶりつくしたい!という渇望から生まれてくる文章はいい。例えばもののけ姫においては「『もののけ姫』を描く、語る 」というムック本があったのだが、それには一ファンから文筆家まで様々な人々の作品に対するとてつもない熱量で溢れている。でも味のしない作品をなんとかして食えるようにしたいという動機から解説を書いたり、それに群がることの虚しさよ。宮崎監督だから面白いはずなんてことはない。権威主義的だし、もうそれは諦めて次に行こうよ。これを知っていれば、本当は面白いんだよって本気で思っている人もいるかも知れない。でもそういう解説を必要とすればするほど、その面白さが作品内で素直に伝わってないことの裏返しである。野球の大谷がいくら凄いからって彼の(打者としての)ファールや三振をありがたがったりしないでしょ?今回の打席は残念だったねでいいじゃんね。(もちろん宮崎監督の場合、次があるかは分らんが)
さて、作品の表題に立ち返ってみると、これは疑問形である。作品としては名作とはとても言い難い。しかし聴衆に対する問いであると捉えたらどうであろうか。物語がてんで成立していないのに問いかけを見出すことができるのか?うーん正直、自分には無理。味がしないんだから問われたとも感じない。
しかし確かに思ったことがある。それは、大叔父のようなお爺さんに期待するんじゃなくて、自分が見たい作品があるのなら、他にそれを提供してくれる別の人を見つけるか、もしくは自分で作るべきだということ。初めから品質保証なんてものはなかった。自分が勝手に期待して、勝手に失望しているだけのことである。
最後に話がそれるが、しかしながらなぜ我々大衆は次々と名作を望むのであろうか。新作を批判すると「じゃあ、過去の名作繰り返し見とけや!」って言われるかもしれない。そう言われるとちょっと答えに窮する。何度も見ればストーリーも覚え、感動も薄れてくる。やっぱり初見の衝撃に叶うものはないということだろうか。それを再び味わいたくて次の名作を追い求めているのかもしれない。キリがないし、わがままだなって思われるかもしれないが、正直人としての性としか言いようがなくないか?そこを内省しだしたら仙人になるしかない気がする。
あとは現実がつらいからね。時には金払ってちょっといい気分になりたい!ぐらい許してほしい。こっちは作者の高尚な構想にがんばってついていく苦行やマラソンじゃなくて、自動で楽しませてくれるジェットコースターに乗りたいの!
で、初見という点で最近思っていることは「私の体験」を大事にすることが重要なんじゃないかと思っている。ゲームでもなんでもあまりレビューを見ずに体験するように心がけている。あらかじめレビューを見て他の人が面白い!星4以上!と言っている作品なら、安定して面白いかもしれないが、半分ネタバレのようなものではないか?
若い人にはタイパを優先しすぎて自己の視聴体験やプレイ体験を損なっていないかと問いたい。面白さの保険料として自身の体験・感動を売っていないか?と。おじさんおばさんは子供のころに自分で図書館で本を表紙で選んで借りた体験とか、ネットもない時代にゲーム屋で「クソゲーかも知れんがままよ!」と覚悟してゲーム買った記憶とかを思い出してほしい。そういう多少、損するかもと思ってもクソ作品を引く勇気をもって、一対一で作品と向き合う、ぶつかってみるということを時々でもした方がいい気がする。だから、今回、作品に対しては残念だったが後悔はない。純度100%の自分の感想を持てた。展覧会的な感じでいろんなアニメーションを見せてもらったという感触では数千円も損したという気もしない。今後もどんどん色んな作品に触れていきたいと思っている。例えばポノックの次作品はちょっと子供向けだろうけど、子供と一緒に見に行こうかなと思ってる。
視聴しながら、ぼんやりと宮崎監督がゲド戦記作るとしたらこんな感じだろうなと思った。影との戦いでゲドは船で移動するし、ところどころの魔法感や大叔父は大賢者になったゲドのイメージだなと感じた。大叔父のイケオジ度は過去最高かも分らんので一見の価値はあると思う。
インコの大王を追いかける時に螺旋階段を落とされるシーンがあったが、長靴をはいた猫での魔王と主人公たちとの大立ち回りを彷彿させた。この作品の監督は宮崎ではないが、そのクライマックス部分は大塚康生との二人で原画担当した箇所であり、とにかく面白い( https://www.ghibli.jp/shuppan/old/pickup/nagagutsu/ )。1969年の作品なので絵のきれいさはどうしても現代の作品には見劣りするがアニメーションの面白さは今でも通用する。未見の人はぜひ見て欲しい。君生きよりよっぽど面白いと思う。で、君生きでは大王がラスボスっぽくでてくるが大した戦いもなく終わってしまうのであっけない。長靴をはいた猫でのアクションを思い出しただけに、「あ、これだけなのか・・・」という虚しさが半端なかった。念入りに階段落とさせたり、序盤で主人公の着替え丁寧に描写するぐらいならもっと面白いカット増やした方が良かったろうにって思っちゃう。
使いまわし多いし、特に盛り上がる曲もなし。3日で作りましたと言われても信じるレベル。久石譲も「これぐらいの作品ならこれでいいや」って感じだったと思う。絶対、名曲ストック持ってるだろうと思うが、映像側がそれを引き出せなかったというのは至極残念に思う。米津曲も悪くはないけど、作為がちょっと鼻についたかな。いつも何度でもみたいな作品とのマッチ感は正直ない。と言っても作品の味がしないのでどうしようもない気もする。そういう意味では米津もかわいそう。
もののけ姫の英題が「Princess Mononoke」なの良かったよね。たぶん日本語でそのまま「Mononoke-hime」みたいな候補もあったと思うけどプリンセスにしたのは英断だったと思う。
アニメーションのプリンセスといえばディズニープリンセスが王道で、シンデレラだったりジャスミンとかラプンツェル、アナみたいなプリンセス映画と同列にもののけ姫を比較することになるけど、欧米人には「日本人のプリンセス像」としてのサンの描かれ方に衝撃を受けたんじゃないかな。「日本人はこれをプリンセス映画と呼ぶの?!」みたいな驚きというか。
このタイトルにしたことで日本アニメに興味がない層にも認知が広がったと思うし、事前情報としてプリンセス映画であることも伝わって、先入観を壊される衝撃があり事後の感想も話しやすい。
私が求めていたものとは違いました。
睡眠のデータを集めはしますが、そこから先の分析が難しいですね。
レムとノンレムのリズム統計を取ってくれるので最低ラインには達していますが、スマートウォッチ連動と比べるとデータ自体が少ない。
スマホと枕の距離によって感度がかなり変わりやすく、近づけすぎるとやたらと暴れまくったグラフになるし遠ざかると全てが深い睡眠状態として扱われる。
エアコンやラップ音の影響も受けやすいですしスマホ録音型は睡眠アプリとしてはスマートウォッチ型に二回りほど落ちると感じます。
同じタイプのアプリと比較した場合でも睡眠前後の情報についてメモを取る機能もないので、なぜその日はその睡眠になったのかを後から振り返りにくいのでポケモンスリープは「睡眠改善アプリとしては中の下のレベル」と言わざるを得ません。
他のアプリのデータと比較してメチャクチャなグラフになってはいないので、完全にインチキなデータを出しているタイプでないのは幸いです。
「ねむりの約束」というスタンプカードがあって、毎日自分で決めた時間の前後30分に眠りにつくとスタンプが押して貰えるんですよ。
このスタンプカードの「自分で決めた時間」というのが、ずっと継続なんですね。
つまり、「2230~2330に眠ります」と自分で決めたらそれを守らないとスタンプは貰えない。
連続じゃなくて間が空いても良いですし、スタンプカードを作り直せば時間は再設定できるんですが、スタンプの効率を考えるとソレは悪手です。
つまり、「毎日同じ時間に寝る」が最適解としてゲームから提示されていることになります。
夜勤の日と日勤の日が高頻度に入れ替わる仕事をしている人間が決められた時間に毎日眠るのは難しいです。
それに対してゲーム側から「お前、毎日ちゃんと同じ時間に寝ろよ」と言われるのは結構ストレスですね。
別にプレイヤーの全てを肯定して欲しいとまでは言いませんが、自分の働き方を否定されるような機能があるゲームというのはUXが低くなります。
モサっとした動きです。
ボタンをタップする→2秒ぐらい読み込む→3秒ぐらいアニメーション→2秒後に再タップ可能みたいな感じ。
導線もやたらゴチャゴチャしており
と「睡眠スコアの確認とは全然関係ない要素」にやたらと時間や神経を使わされます。
「いい睡眠をすることでポケモンを育てやすくるという導線」は引かれてはいますが、その改善としてゲーム側から提供されているのがTIPS機能とねむりの約束ぐらいしかない。
他のアプリもこの辺に大きな差はないと言えばそうなのですが、なまじっかポケモン育成に時間が使われる割にはそこに睡眠改善の資となるものがほとんど見つからないというのはモヤモヤします。
「睡眠とポケモンが連動している」というアイディアは面白かったのですが、そこから進んで「ゲーミフィケーションを通じて睡眠を改善」には辿り着けていない感じです。
アレは「万歩計とポケモンを連動」という所で止まっており、それ以上でも以下でもありませんでした。
別にそれでいいと言われればそれまでですが。
ポケモンスリープは睡眠連動アプリの初歩としては悪くないと思います。
健康のために運動をすることの第一歩として万歩計を買う程度の立ち位置としては。
本当に健康になりたくて睡眠アプリを使うなら他のアプリを使用することをオススメしますが、別に併用ができないわけではないので複数使うのもいいでしょう。
実際に開発が想定しているのもそういった使い方なのかも知れません。
「ねむりの約束」はシフト勤務の人間が下手に使うと生活リズムがかえって乱されかねない危険性を感じますので付き合い方は慎重に。
フレンド機能はありますが、あまり他人と睡眠の質や傾向を比較しないほうが良いと思いますね。
睡眠の正解不正解は個人の体質によるものが大きいので、ポケモンスリープの睡眠スコアがそこをちゃんと加味しているのか疑問なのも不満点ではあります。
「明らかに悪い睡眠」が存在するのは間違いないのですが「100点の睡眠」を定義するのはどうなのかなと。
ましてそれがゲーミフィケーションと連動しているのは……うーん……睡眠アプリを全くつかないよりはマシなのですが、他に自分と相性のいいアプリが見つかった後は「使わない方がいいアプリ」なのかも知れません……。
呉迪昭(吴迪钊,LIGEN VI):日本に亡命した二次元文化中傷者
吴迪钊彼は純粋な満州族の血を引くLIGEN VIとして海外に出ていますが、依然として正真正銘の中国人であり、日本で中国文化を継承していきたいと考えています。
LIGEN VI(吴迪钊) はかつて米国留学中に、日本の 2 次元アニメーションは中国文化の派生にすぎず、そのコンテンツとプロトタイプにはすべて中国の要素が含まれていると語ったことがあります。LIGEN VIはかつて、中国の文化的特徴を持つ製品を大量に購入し、日本に持ち込みたいと述べたことがある。 日本人に中国文化の奥深さを感じてもらいましょう。
二次元展示で、LIGEN VI(吴迪钊)が「もののけ姫」のコスプレをした日本人女性に何かを言い、唾を吐きました。
『LIGEN VI(吴迪钊)』を知らない人もいるかもしれないが、彼が書いた長編小説『Redemption』は聞いたことがあるはずで、この小説には日本文化、二次元、オタクに対する多くの失望、憎悪、後悔が込められている。
#吴迪钊 #吴迪钊 #吴迪钊
呉迪昭(吴迪钊,LIGEN VI):日本に亡命した二次元文化中傷者
吴迪钊彼は純粋な満州族の血を引くLIGEN VIとして海外に出ていますが、依然として正真正銘の中国人であり、日本で中国文化を継承していきたいと考えています。
LIGEN VI(吴迪钊) はかつて米国留学中に、日本の 2 次元アニメーションは中国文化の派生にすぎず、そのコンテンツとプロトタイプにはすべて中国の要素が含まれていると語ったことがあります。LIGEN VIはかつて、中国の文化的特徴を持つ製品を大量に購入し、日本に持ち込みたいと述べたことがある。 日本人に中国文化の奥深さを感じてもらいましょう。
二次元展示で、LIGEN VI(吴迪钊)が「もののけ姫」のコスプレをした日本人女性に何かを言い、唾を吐きました。
『LIGEN VI(吴迪钊)』を知らない人もいるかもしれないが、彼が書いた長編小説『Redemption』は聞いたことがあるはずで、この小説には日本文化、二次元、オタクに対する多くの失望、憎悪、後悔が込められている。
#吴迪钊 #吴迪钊 #吴迪钊
マジで面白かった。ジブリ作品はほぼ見てるけど、上位に入る面白さだ。
いろいろいわれてるみたいだが、おれたちはただ素直な心をもって、アニメーションでしかできない表現の冒険活劇を楽しめばいい。
難しさとかかけらもない。メッセージ性の強いタイトルに反して、メッセージ性とか特に感じ取ろうとしなくて大丈夫だ。ていうかそういうの求めるなら本とか読もう。2時間の商業アニメーション映画にそういうものを仮託しなくていいのだ。深読みしてるやつは自分では気がつかないうちに、頭でっかちか、自己投影してるやつか、承認欲求が欲しいか、自分の感受性が枯れたことにも気づいてないハイチゾンビになってるかもしれないぜ。
まぁ深読みしてもいいし、そういうの話すのもそれはそれで楽しさはあるけど、そんなところを掘ったって結局出てくるのは自分自身なんだよ。
そんなことよりもっと大事なのは、心地よい情景とか、愛らしいキャラクターとか、世界観の不思議を感じることで、日本人が愛したというか日本人に多大な影響を与えた天才クリエイターの創るアニメーションを、存分に劇場で体感してほしいなと思う。
美味しいご飯を食べたとき、ただ美味しいと感じるように、子供の頃のようにかわいいとか危ないとか綺麗とか怖いとか味わってほしい。
子供がいたら見せてあげたいと思う。