はてなキーワード: アニメーションとは
最近Youtubeのショートでこの二人の動画が流れてくるので
じゃあ講演以外でなにをやって活躍しているのかなって気になって調べてみたけど・・・これはヒドイ
アニメーションとしてはショボイし、話も見ていられなかった
これなら無理に動かさずに朗読劇に静止画つけるだけでよかったのではと思う出来
同人活動って揶揄してるコメントも見かけたけど、クラファンの支援者がかわいそうだなって思った
オタキングとホリエモンとあなたがつくる。みんなのアニメプロジェクト!
https://camp-fire.jp/projects/view/694
君たちはどう生きるかを見てきた。思ってたより面白かったけど俺のみたいジブリ映画とは違っていた。
この映画を見に行く直前にゼルダのティアーズオブザキングダムをクリアしていた。
俺が見たかったジブリはティアキンの中にたくさん詰まっていたなあとしみじみ思ったのだ。
宮崎駿は作家だから、新しい作品を作るたびに過去作の焼き直しみたいなことはしたくないだろう。
ましてや年齢的にもこれが最後かと思いながら作るわけで、どうしたって自分がなにを作りたいかということを突きつけられたんじゃないだろうか。
そう考えると俺の好きなジブリ作品は宮崎駿にとっては既に過去のもので、同じことはしたくないと考えるのは当然だと思う。
それに、君たち~もジブリの映画としての面白さも十分あったと思う。目が釘付けになるような色彩やアニメーションはそれだけで美しい。
だけど俺が見たかったジブリというのはもっとシンプルな冒険活劇だったのだ。
今までとは違う世界観で、違うキャラクター達が、自由自在に動き回って、ひとつの物語を完成させる、そういうのが見たかった。
それはもう叶わない事だし、それでいいんだと思う。
なんだか寂しいなと思う。
でもティアキンをやっていて、俺はこのゲームの中にすごくジブリ映画的なものを感じた。
今までのゼルダシリーズで物語としてそこまで入り込んだものはなかった。
前作のブレワイは衝撃だったけど、それはゲームとしてであって物語はいつものゼルダだよなという感じ。
しかしティアキンに関してはシナリオ部分でめちゃくちゃグっときてしまった。なんならちょっと泣いてしまった。
そしてビジュアル、アニメーションともに、まさにジブリ的ななにかを感じまくった。
グラフィックなどは基本的に前作ブレワイとそれほど変わってないと思うけど、宮崎駿の新作が上映されるタイミングとカブったというのもあってか、
自分はティアキンをプレイしながら改めてこれもだよな、ここもっぽいなあと、とにかくジブリ作品からの影響を強く感じずにはいられなかった。
必要以上に手足をバタつかせちょっとやりすぎなくらい早いモーションだ。実際の移動距離からするとお前もうちょっとうまく走れないか?と思ってしまうほどドタバタしてる。
これはもちろんジブリ作品の登場人物の動きからの影響だと思う。
アクションはゲームとしての気持ちよさが優先されるので、さすがにジブリほどの間を持たせた動きはできないけど、細かいところの緩急の付け方もきっと宮崎駿作品を参考にしてるんだろうなと思う。
コログ族はもののけ姫のこだまからインスパイアされてそうだなとか、料理のビジュアルとか、風景、ギミックデザイン、ありとあらゆるとこにジブリ的ななにかを感じる。
これはパクったとかそういう次元の話ではなく、ジブリ以外にもたくさんのリファレンスがあって、それらから生み出されたオリジナルなものであるのは間違いない。
ただブレワイを作る時のイメージとして、ラピュタを筆頭にジブリ映画のイメージはかなり強く意識されていたんじゃないだろうかと想像してる。
ブレワイは間違いなく傑作だけど、俺の中でそれはあくまでゲームとして、という事に過ぎなかった。
数あるゲームの中では間違いなく傑作なのだけど、映画や小説なども含めたコンテンツの中ではRPGゲームのシナリオというのはそこまで良いと思えるものはほとんど無かった。
特に任天堂のゲームはシナリオはあくまで分かりやすく、エンタメに振り切ってるので重要なのはあくまでプレイの部分。
ただティアキンに至っては、シナリオ自体がひとつラインを超えてきた感がある。
そのアイデアと、そのビジュアル化は完全に「これもうジブリじゃん」と俺は感じてしまった。
でもこれこれこういうストーリーで、こんな映像なんですよって見せたらどんな反応をするのかとても興味深い。
基本ネタバレなしでふんわりと書く。
公開と同時に見に行って色んな人にどうだった?と感想を聞かれたけど、人に感想を伝えるのが難しい映画だ。
そう自分が思うというってことは、自分はこの映画好きなんだなと確信している。
駄作だと思うものはたやすく説明できるのだけど、好きな作品を人に語るのはいつだって難しい。
強いて言えばタイトルは損してると思う。個人的な思い入れはあったと思うし骨格なのかもしれないが内容と照らし合わせると合ってはいないと思う。
やはり宮崎駿は言葉を尽くすタイプではなく、体感させることで感じ取ってほしい人なのだと思った。根っこはやはりアニメーターだ。
宮崎駿作品には分かりやすいエンタメ部分と対で、不気味で謎めいた少し怖い感じのする要素というのが必ず入っていた。
言ってしまえば「生と死」であり、どちらが欠ければどちらも成立しないものであって、それは宮崎作品の根底に常に流れているものと自分は解釈している。
今作はその「不気味で謎めいた少し怖い感じのする要素」に遠慮がなくなっていて割りと初っ端から前回で「死」という概念が前面に押し出されていく。
物語が中盤に向かうにつれ、これはいよいよ恐ろしい内容になってしまうのか?と内心少しワクワクしながら展開を見守った。
しかしそこはエンタメ鬼宮崎駿、ありとあらゆるセルフオマージュとも呼べそうなモチーフやキャラと、アート寄りなイメージとがカオスに混在した世界でゴリ押ししてくる。
後半に至ってはもはや人間キャラの感情面が唐突に感じてしまうくらいビジュアルイメージに圧倒されるものがあった。
これまでの作品に比べると、特に直近だとぽにょなんかと比べるとアニメーションの質、作画魂みたいなものはちょっと劣ってる気はした。
そのかわりアートが素晴らしくて、偶然なのか狙いなのかよくわからないんだけどギリギリのバランスで成立してるような稀有なものを見た気がする。
個人的には、宮崎駿作品は正直ストーリー部分の謎とかはあまり気にしてない。
ストーリーとしてなんらかのテーマを語らせるタイプのピークは自分はもののけ姫だと思っていて、それ以降はより抽象的な概念が強くなっていってると思ってる。
宮崎駿本人もなにかのドキュメンタリーで「このシーンがすごくてだからこの映画が好き、そういうもんなんですよ」と言っていて「そんなもん説明セリフで言わせる事じゃないんだよ」という思いはあるんだと思う。
今作もセリフは変に説明的なところは全然なかった。簡潔に会話の流れでしか説明しないというは踏襲されている。というか今作はそれが更に加速されてるので大人が見てても「今のどういう意味?」となる場面はけっこう多かった。
正直説明不足なのは間違いない。エンタメ作品としてそれはどうなのかというとどうなんだろうという事もある。
しかし自分は「風立ちぬ」が宮崎駿の最後の作品ではなく「君たちはどう生きるか」が最後の作品だというなら納得できる。
監督本人のコメント「なんだかよくわからないものを作ってしまった」これに尽きる。(これよく言うけど)こちらとしても「なんだかよくわからないものを見てしまった」という気持ちだ。
そしてこのなんだかよくわからないものを見たという感覚に浸っていたいという気分にさせてくれた。
たくさん読んでくれて嬉しい。元は友人とのTwitterDMが下書きになっていて雑な文章だから申し訳ない。なので以下、こちらの意図が伝わってないコメントに返す。
・この物語の各パーツ・キャラを現状のジブリのメタファとする解釈はこの児童文学作品を矮小化していると思う。あまり好きではない
→全く同意見で、書いた通り普段はテクスト的に解釈するのが好きです。矮小化されてしまってるのもそうなので、これだけが「正解」だとは微塵も思ってないし書いた通り自信はない。今回は宮崎駿の最後の作品、って思いが自分に強すぎて作家周辺の解釈がまず出たのだと自己分析している。作品そのものの解釈は海燕さん他書いているのがよかった。
→お前みたいなやつがいちばんダメ。観ろ。観ずになるほどすんな。
・一般向けではないというけど、次世代へのバトンや家族の話って極めて普遍的で、ジブリや宮崎駿のことを知らなくとも皆それぞれ自分の物語を重ね合わせて見ることができる作品だと思うよ
→この辺りは宮崎駿は自己言及と普遍的テーマを重ねて両輪でやっている気はする。
・あの作品の登場人物を実在のジブリ周りの人物に置き換える読み方はわかるけど非常に下品だと思っているので、する人を否定はしないけど、それが正解だと言って押しつけたりする風潮にならなきゃいいなと思っている。
→おおむね同意見で、自分もホッテントリに上がったことが押し付け風潮の一助になるのは避けたい。作家論は作家論でしかないし、それは基本的に狭い解釈になってしまうから、「正解」ではない。ただ言葉遣いとして、この人が作家論を「下品」としているのは、なんというか令和だなぁと思った。
前半はまぁ、とりあえず置いておいた撒き餌みたいな稚拙な解釈なので、「正解」ではありません。(一貫性の形成願望をとりあえず満たしておくために書いた、と思って欲しい)
むしろ、この作品は唯一解を求めたがることも含めた後知恵的な意味よりも、もっとプリミティブな意味を伝えようとする作品だと思います。だから自分の感想の本質は後半です。そこのところ言葉足らずだったみたい。
追記ここまで
初日に見に行って、いろいろ考えつつ見たが、たぶんほとんどの人が「意味わからん(けどジブリっぽくて面白い!)」ってなるやつだと思ったので、自分なりの考えを書いてみる。ちなみに全然自信はない(その理由は最後に書く)
見た人の多くは、ラストにかけてのメインストーリーラインがよくわかんねえとなると思うけど、同時に物語にいくつもの象徴や比喩が込められていることも、なんとなく察すると思う。
個人的な結論を先に書く。(自分は普段はテクスト論的に物語を読むのが好きなのだが、作家論としてこの作品が見えた。)
まず、内容で感じたのはセルフオマージュの多さ。「紅の豚」の死出の飛行機葬列が海の船になったり、ハウルの泥の人形が殺生できない住人になったり。老人の描き方はジブリの各種キャラを思わせたり。
オマージュ元には特にトトロが印象に残るように思って、抜け道や森から出た暗がりの風とか、ワラワラとか、宮崎駿はトトロ気に入ってたんやなと思わせた。まあワラワラは鈴木敏夫の入れ知恵な気もするし、観客へのサービスって感じかな。
そしてここから感じたのは、宮崎駿の人生が細かく千切られ散りばめられてるということ。
ていうことで、物語の根幹と宮崎駿の人生に準えてラストで明かされる物語の根幹をよんでみる。やっぱりラストについては大事だよな。
結論から書けば、空から降ってきた大岩は宮崎駿の才能、ギフト。宮崎駿は大叔父でありあの世界は宮崎駿によって作られた作品の集合でジブリそのもの。その血を引く主人公は宮崎吾朗や孫だと思われる。ただし、内面は宮崎駿が投影されていて二重のモデルがいる主人公になっている。駿はジブリを継いで欲しかったが、吾郎は拒否した。ジブリは駿の引退宣言とともに崩壊して、皆それぞれの暮らしにもどった。端的に言えば、それら経緯への駿の内面の告白、なんだと思う。つまり、スタジオジブリ(と駿)のために作られた物語なんだと思っている。
昔。降って湧いた才能に取り込まれた駿は、作品の世界から出なくなった(家庭を顧みなかったりしたんだろう)。そして世界の創造に励み、海や森の美しいファンタジー世界と、ユーモラスで残酷な鳥に代表される多くの愛すべきキャラクターを生み出した。
時々挟まれた、大岩が怒ってるとか。あれは才能から来る作品へのこだわり、そこから発される憤怒なんだろうな。時々駿キレてたし。
ただ、老いてきた。積み木を重ねられなくなった。積み木を安定させることも苦労するようになった。だからこの世界・ジブリの後継者を探して、館に主人公ら血族を引き寄せ始めた。(この辺りの傍迷惑さについての自覚が、人生を総括し始めた老境の駿らしい感じがする)
関係ないけど、インコの王は唯一宮崎駿に謁見できて最後に世界ぶっ壊したし、たぶん鈴木敏夫なんだろうなと思う笑
そして物語のラストで吾郎はジブリを継ぐのを拒否し、焦ってしゃしゃり出た鈴木敏夫がぶっ壊してジブリは崩壊した。でもそれを受け入れて?(この表現は適切じゃないかも。ただ眺めて?)老兵は去る、ってことを、ラストで宮崎駿は表したかったのだと思う。
総じて、人生全体を眺めて、ある程度中立的に感情も整理しながら、比喩的な物語と人物に落とし込んだ。そして達人のアニメーションで、それが分からなくとも万人が楽しめる2時間にした。
主人公が、みずから頭を傷つけて、それを最後の最後に告白し、汚れているから自分は継げないとジブリ世襲を拒否するシーン。
あれはなんかほんとに個人的な事件が、駿や吾郎にあるんかなて感じもするけど。いずれにせよ、今まで子どもをイノセントに描いた宮崎駿が、この主人公にはドロドロしたものを罪悪感と共に植え付けているのは、自身や自分の子どもみたいな、客観的に見られないし理想化もできない存在としてマヒトを描いているんだと思う。そしてそれが「真の人」って名前なのが、正直な曝け出しなのかなって感じさせる。
でもここは、ちょっと未整理。
まあたぶんに一義的な狭苦しい解釈なんやけど、とりあえずここまでは言語化できた。
ただ、ここまでこうして書いた考察について、正直自信がないというか、こうして作品が言語化されることを拒否している作品である、ということことを、作品を見ている最中からずっと感じてきていた。
子供のころからジブリ作品を見て、宮崎駿のひねくれた人物像も知ってるから、この作品は明らかに異質だとわかる。観客へのサービス(配慮)が欠けている。
はっきり言って、一般向けではない。大衆、子供に映画を作ってきた宮崎駿やジブリは、今までこんな映画を作ったことがない。上記のような一応に意味の通る解釈を自力でできる人間はとりあえずいいが、そういうことをしない人が圧倒的多数で、それが大衆なのだ。だから、今回のような、作品の展開の速さや密度、抽象度の高い映画は、一般向けとは言えない。自分が見た初日夕方の回は平日なのにほぼ満員で、しかし上映終了後のほぼ全員がタヌキに化かされたような顔をみんなしていたぞ。(正直自分もそんな気持ちだったので笑えた)
しかし、ここでそれを鑑みても面白いのが、この作品の「面白さ」は皆が感じているらしいということだ。
そして、これと同時に、自分のような批評する目線で映画を見る者は、それはそれで大衆客と別な側面で拒まれている気がした。何か見る者の賢しい批評を拒んでいるように感じた。
以下に、その理由を書く。自分の感想としての本質はむしろこっちだ。言語化しづらいのだが、見た人にはなんとか伝わるように書くと
となる。
例えば、食事のほおばり方。たとえば、黙ってうつむく表情。たとえば、真人がうそをつくときの顔。みんな圧倒的に生き物らしい。生命力を感じる。みんないびつで、あいくるしい。(カワンゴがお説教されたアレとは本当に真逆な、きわめて何か、生命に対する賛美を感じます)
これらすべてが、芝居をしている。客に直接的な理解を与える。この人物の感情や、物語における人物の立ち位置(正しい方向かどうか)など。あらゆる情報を、言語での理解を超越して、身体的・ダイレクトに観客へ伝わる。
作劇のうまさや間の取り方、ちょっとした身のこなしや振る舞いの描き方。それらすべてがアニメーションなのに自然で、本当にほれぼれする。達人のアニメーションは今でも健在だし、それはスタジオポロックみたいなのにもマネできてない駿の達人技だと思う。
で、それらの生理的な表現が今作で上げる最大の効果は「生理的な感覚として、見る者に言語の範囲外で意味を伝える」ことだと思う。
(自分は新海誠の映画が昔から好きなのだが、新海誠が「星を追う子ども」でやりたがって、でも全然できなかったようなことを、中盤くらいまでで軽々と全部やり尽くして、更に塗り替えていったような印象が途中した。)
はっきり言って、中盤以降は物語のテンポが速すぎて情報量も多すぎて、物語が何を表現しているのかまったくわからないし考える余裕もなく、何もかもを押し付けられていくだけのように感じるのだが、いち観客として言えば、作劇がうますぎてずっと楽しくて画面にずっと惹き寄せられたままで、一ミリの退屈もなく最後まで面白かった。作品が何を言いたいのか理解できねぇのにコレなのまじ意味わかんねぇ。ユーモアと人物の芝居とテンポと心地よさとその他あらゆる作劇でずっと作品世界へ惹き寄せ続けるの、冷静に考えてすごすぎる。
理解として言えば、言語の範囲外で生理的に伝わってこようとする情報が、最速で理解できる。だから理性で作品に好悪を判断つけたくても、生理的な理解が先に面白さを伝えていて、判断を保留し、物語が表す「意味」が分からない気持ち悪さをいったんわきに置く(打ち消す、わけではないのもポイント)
たまたま映画見る前に考えてたのが、美輪明宏のモロの演技や紅白のヨイトマケの唄なんだけど、あれもなんか、生理的に分からされる凄みがあるよな。あれと同質の、生理に訴えかけてくる理解が、この作品の全体にあった。
だから意味深がセリフが物語上の「意味」として理解できなくても、なんとなくわかっちゃうわけ。ああ、「そういうふうに」感じてるんだなぁ、って。
自分が書いたものも含め、なんか色々考察とか出てくると思うんだけど、この作品に関して自分はもうそんなのに大した意味を感じていない。いや言葉で説明することは俺も試みたと思うんだけど、そういった理解や「意味」は後からやってくるものであって、それより先にあるこの一次的な身体的感触の強さが、現在進行する映画鑑賞の今、圧倒的な作品だった。肌感覚で腹の底から湧き上がる力強さは、言語的理解を拒否して圧倒する。そんなプリミティブさ。
プリミティブな、といえばものすごく情報量が少ないように感じられるかもしれないけれど、ただそこで言う「情報量」ってつまりキロバイト的な情報の多寡でしかなくて、生理的な質感や圧倒的な情報の圧が含まれてない。この作品はそういった生理的な質感や圧、すごみをもってして最後まで観客をエンターテインする作品だった。面白さが言語の範囲外で生理的に伝わってこようとするんだよな。
「語り得ないことに関しては、沈黙せねばならない」という言葉があるけれど、宮崎駿は言語で語りえないことを語れる。対して、自分たち観客は語れないが、しかし生理的に理解している。
自分が最初の考察に意味を感じない、といったのは、考察の当たり外れよりも「こんな小賢しい考察なんぞしてんじゃねー」的なギルティ感覚がするからだ。賢しらぶってることが怒られそう。それこそ、宮崎駿に叱られるカワンゴみたいな、「意味」や思考の中だけに生きて現実に生きる生命を見ようとしていないと叱られている気が(これは完全に自分の勝手な感覚なのだが)する。強いて言えばそれが、本作のタイトルのごとく自分に突き付けられたお説教だったかもしれない。
一般には訳が分からなくてもいいし、読み解く材料も与えないし、理解されなくても面白くしなんか感覚的には伝わるでしょ?みたいな感じが、ただ壁を感じるし、見る人は選ぶと思う。ジブリ作品に壁を作ったことって今まであんまりないと思うんだけど、たぶん風立ちぬで少しやって、「あ、好きにやってもいいんだ」みたいなのを、それこそ庵野秀明とエヴァから知ったんじゃねーかwみたいな気もしていて、そして老境にさしかかりジブリの崩壊を見ながら、いろいろなことを感じ考えながら職人芸ですべて盛り込んだのが今回の作品なんだと思った。だから、一部の人の批評や感想、特に老人の走馬灯とかボケたとかみたいなのには全く賛成できない。
ふ〜ん、なるほど?→うんうん…→パヤオ〜!!成長したな〜!!→え…?ん…?→まてまておいおい→あーあーあー→後半宮崎駿とジブリの悪いところ全部出てる💢
前半のまま自己の内面を見つめて母と義母との葛藤を描く映画作ればよかったのになんで途中で方向転換しちゃうの〜〜!?!?
塔のエピソードとかあんなん後付けバレバレだっちゅーの!!なんで最初そんなに真面目に自己の内面について考えてたのに後半になるにつれ主人公をストーリーを進めるだけのコマにしちゃうの!?
最後とか僕母親を性的対象として見てます、みたいな内容になったけどいいの?!?こんな女の子に抱きつかれたい、みたいなロリコン(ジジイ目線)とマザコン(主人公目線)が悪魔合体した最悪の展開になってたけどいいの!?!?
いやわかってる!!前半から後半への急展開は原因はコンテ進めながら同時進行でアニメも作っちゃうからだよね!!いつものやつだよね!!知ってる!!そういうとこやぞ!!!
宮崎駿は絵コンテを進めないし、期限はあるのに制作も滞るし、尻叩きするために鈴木敏夫のいらんテコ入れもまじってしっちゃかめっちゃかになって、後半につれて話の展開が雑になり、最終大団円風に終わる でも細かい部分を見るとわからないことだらけだし、とりあえず終わらせないとという焦りが作品から滲み出ている
ハウルや千と千尋と全く同じパターンである なんにも!!成長!!してないのである!!
なんにもというのは嘘、前半の少年の内面への向き合い方は今までの宮崎駿作品に観たことないぐらい自分の弱さを言葉少なにアニメーションで描いていて素晴らしかった なのになんで…なんで…
そして何より一番腹立ったのは過去のジブリ作品の焼き増しをめちゃくちゃやってたとこ!!!ジブリのパロディとして落ちるなよ!!昨今の国内外のジブリブームをみてウケるぞと勘繰って鈴木かどっかがテコ入れしたんだろうけど、「ジブリっぽさ」を表層でなぞるなよ!しかもジブリ本人がよ!!!
高尚ぶって「おまえたちはどう生きるか」って説教垂れてんじゃねーよ!!これがお前らの生き様かよ!!!おまえは!!!どう!!!生きたんだよ!!!
今作は千と千尋以上にメタファーの連続だから、メタファー込みで読み解く必要がある
例えば以下の様なメタファーがあると俺は思ってる
これでもまだ一部だけど
青鷺⇒鈴木敏夫
真人⇒宮崎駿の分身、少年時代の駿/未来を生きていく若者達の象徴
・俗世に背を向けて内的世界に耽溺し少女に母性を求め続けた表現者としての宮崎駿の自己否定
・この先の未来を形作っていく若者達へ向けた「俺(たち)の真似をするな、自分自身の道を切り拓け」っていう警句
・「鈴木さんは嘘つきです」
の3本にまとまっている
ちなみに石の塔っていうのはユング心理学的には深い意味があって、今作ともめちゃくちゃリンクしてると考える
石の塔のユング心理学的な意味については以下URLがわかりやすい
http://www.j-phyco.com/category2/entry54.html
この話は難解という感想をよく見るが、その実は全く逆で、宮崎駿が監督作品として一貫して伝えたかった事を、教養のない愚かな大衆の為に限りなく簡潔で単純なストーリーに落とし込んだ結果、宮崎駿自身も「訳が分からなくなった」作品である。
この作品は宮崎駿の自叙伝であることは既によく知られているが、彼の内面やバックグラウンド、そしてこれまでの作品で彼が伝えたかったテーマの一貫性を保っている。
彼はそもそもこれまでの作品にも自分と周囲の環境とを幾度となく投影してきた。ただし、それは一部のマニアにしかわからないものであった。今回は、そのベースに加えて現実の宮崎駿自身の回想を複雑に絡ませて投影されているだけでなく、そのものずばりで作品のオマージュという形で追想しているのだ。
そしてここからが重要な点だが、当然それは単なる追想ではなく彼が監督作品で一貫して伝えたかった「生きるとはどういうことか」というテーマに対して「自分はこうしたがダメだった」のだというメッセージになっている。
戦闘機の風防を量産する軍需工場の経営をしていた父のもとで軍国少年として育ち、裕福ながらも厳しい家庭で母の愛を十分に受けることができなかった宮崎は、敗戦後左翼に傾倒して東映アニメーションで高畑功と出会い、強い影響を受けて監督作品にそれを秘めるメッセージをこめてきた。
これまでの監督作品で散りばめられていたオマージュや背景設定には、子ども向けの作品でありながら大人には「鑑賞者の教養」をもってして強烈な現代資本主義と衆愚政治に対するアンチテーゼが展開されてそれこそが深みとして楽しめるものになっていたのだ。
だがそれは一部のマニアだけが知るものとなり、実際に「大人」である大衆が想定以上に教養がなかったがためにジブリ作品のストーリーやアニメーションとしてのレベルの高さといった表面的なものばかりが「良い」とされ、宮崎駿や高畑功が伝えたかった事は伝わらなかったのである。
それでも宮崎駿は諦めず、本作のアオサギたる鈴木敏夫にそそのかされて愚かな大衆と私腹を肥やす連中のために作品を作り続けた。いつか伝わるだろうと鑑賞者を信じて。
いや、もう飛べないのに何度も何度も鈴木敏夫に首根っこをつかまれて。
そうして作った過去の作品たちだが、まるで伝わらなかった。そして彼は遂に「諦めた」のである。「諦観」にも近いだろう。戦後の日本人が当然に持っていた強く気高い教養は、戦後75年高まるどころか全く失われてしまった。
まさに劇中のインコのように、脳みそが小さく何も考えることができない、ただぴーちくぱーちくインターネットで喚き、特異なものを攻撃する。コンテンツをひたすら消費する愚かな大衆に対する、宮崎最後の強烈にシニカルな表現である。
そして現代日本人を代表するように庵野のような表現と個人主義的な自己実現による自己救済、新海のような風刺のない純潔な大衆作品、そして特に何もない残せていない息子が残った。中盤から終盤にかけて、継母のタッチが明らかにジブリのキャラではなく、庵野や新海といった顔の印象を残しているのは、「俺はこう生きた、お前らもあとは好きにやれ」という餞であろう。
こうした自身の溜まりにたまり、ある種の呪いに近しい諦観を、いよいよ吐き出し昇華せんと最後の力を振り絞って、教養が無くてもそれとわかるように単純かつオマージュもジブリ作品にし、走馬灯のように仕立てた。大叔父は死期を間近に控えた自分自身であり、13個の積み木と世界はスタジオジブリそのものである。自分自身が、自分自身に対してケジメをつけた作品なのだ。
「作家は経験したことしか書けない」は宮崎駿とて例外ではない。自己を総括するように、母性に対する渇望と周囲の女性達との思い出が上手く母・継母・見守るおばあちゃんたちといった具合に添えられている。
だが、この作品は紛れもなく宮崎駿の自伝かつ遺書であり、「君たちはどう生きるか」はこれまで一切メッセージが伝わっていなかった人間達に対する、まっすぐな問いかけである。
追記:
残念なことに、この作品を観て本当の意味で「あぁこれはねぇ~」と嬉々としてはしゃいで満足するのは岡田斗司夫ぐらいで、上記のような内容を今にYoutubeでレビューをするだろう。
事前情報なしで見たから俺も感想を自分で作り出して放流する。超ネタバレだけど許して。適当にたたき台にでもして。
ジブリで見たことのある◯◯を色々な場面で感じ取れたので良かった。それを書いてたら長くなったからそれ単体で放流。ネタバレ怖い人は今日の夕食でも残してってよ。
はじめに、絵が超ぬるぬる動くからびっくりした。最初、空襲で町が混沌とする様子は印象が強すぎて忘れられない。急いで外に出るために着替えるシーンは、ただ服を着てるだけなのに焦る気分になった。火事の燃えカスや灰が舞うシーンですらヌルヌル。火事に騒然としてて、街の人みんなが動いているようなシーンは、見るところが多すぎて目が足りない。主人公視点の走っているシーン(人混みを分けつつ進む、火が強すぎて目が開けられない、危ないから下がって!と叫ぶ大人の手が映る)はアニメーションなのにリアルだった。予約できた席がドルビーアトモスの高い席しか無かった(そこしか残ってなかった)が、ここのシーンだけで掌を返した。
はじめにあ〜〜ジブリ見に来たな……と実感が湧いたのも空襲警報のシーン。何かが起きている事に気づき、思わず廊下を走り出すシーン。廊下を裸足で全力で駆けるシーン(カメラは正面)はジブリ。(自分調べ)
お屋敷の婆さんたちの描き方は千と千尋の神隠しを思い出した。シワが多く腰は曲がっていて集まると話が止まらないという特徴も、監督が抱いているイメージなんだろうなと勝手に思った。サバ缶やコンビーフ、砂糖で盛り上がるのもめっちゃすき。
対照的に、塔の世界における姉御肌の人もジブリではおなじみだった。力強くヨットを引くシーンは迫力があった。キビキビ漕ぐ、魚もさばける、「あんたも手伝いな!」は正直聴きたかったやつ。
手作りした弓矢が勝手に加速するシーン。ちょっともののけ姫のシーンを思い出したからか、本気でアオサギに当たらないかドギマギしてしまった。加速して迫ってくる感じ、風切り音が恐ろしい。
ジブリ序盤における「今日からここが君の部屋だよ」概念、あるよね……長年使われてないけど、綺麗な状態なのがポイント高い。柄付のベッドが本当にすき。閉まりが悪い窓がだいたい悪さをしている。
ジブリにおける別世界で、大変な目にあいながらも運良く転がり込んだ先で、べらぼうに美味い飯を食う概念。これも好きすぎてたまらん。「あんた、どこから来たのさ」「かくかくしかじかで……」「ふーん……頑張りなよ」みたいなやつ。救われる。
飛行機のコックピット?の骨組みを父親が「綺麗だろ?」って言ったときに「美しいですね」が出てきた部分は風立ちぬを思い出した。飛行機の持つ、工業製品らしからぬ曲線美は見る人が見ると魅力があるのだろうと思ったり。
バスのエンジンをかけ直すシーン。バカうるさい振動と焦げ臭そうな匂いを強烈に感じた。正直今の世界では二度と見ないだろうけど、昔の人にとっては大事な原風景だろうなと思う。
禁忌の間における紙、紙垂の表現も畏れ多くてゾクゾクした。入り込むと露骨に態度を一変させ、まとわりついてくるのもどこかで見た景色でニヤついてしまった。シーン的には、それどころじゃないシーン。
インコ王が積み木をぞんざいにして謎の石が癇癪を起こすシーン(破裂したのかよく分からん)があるけど、あのシーンにはもののけ姫の祟神らしさを感じた。おどろおどろしい液体が顔にまとわりつく感じが堪らない。
最後に理想郷を壊して帰るのはラピュタぽくもあった。隣に居た女の子はお母さんだし、破壊の発端は手が出るのが早い傲慢な王だし色々条件は違うけども。なにげに一緒に行動した可愛い女の子が若い頃の母親なのやばくない?母性……というか性癖出ていないか?
最後のCGぽさが残る岩がめちゃくちゃ怖かった。全部の事象を筆致のあるアニメーションでやる中でのフルCG謎岩はまさにこの世のものではないような雰囲気があった。アニメの線画と比べて、明らかに解像度も高いんだけど、それもこの世の物とは粒度が違う(物質が違う)ような雰囲気を感じられた。CGと手書きの両立が一番引き立つシーンだと感じた。考えすぎかもしれん。
●強引に締める
何が言いたかったかとか意味を見出すとするとすごい偏った考えしか出なかったのでこれは別の機会に書きたい。一言で表すと「やっぱ神は下々の存在に興味ないよな」に尽きた。どう生きたいかって話なら、俺はアオサギみたいになりたいよ。
生きるか要素:完、以降、ジブリ異世界ファンタジー(千と千尋ではなくハウルとかそっち方向)
スパイダーバース(anond:20230712105437)も良かったけどやっぱり大天才パヤオ
シン・エヴァンゲリオン劇場版:||が10点だとしたら、パヤオ新作は1000億点ですかね
『風立ちぬ』で素晴らしいアニメーション以外はがっかりした人は今回は観てもいいよ
今回パヤオは徹底に振り切った、それを許した周囲の人々もマジでかっこいい
(もしかして庵野監督も振り切ればエヴァはワンチャンああなった可能性はあったのか?)
塔の大おじさまはパヤオのことなんだろうけど、あの唯一無二の世界観と狂気と言えるアニメーションへの情熱を引き継ぐのは、血族であっても無理です
(あのアニメーション手描きだからな。改めておそろしいことよ。制作に携わった方々本当にすごい)
ただ、家族でトトロとか魔女宅とか千と千尋みたいなの期待して観に行くと、ちょっと内容違っちゃうので気をつけてね
児童文学の『怪物はささやく』をジブリ節全開に鮮やかにして、碇司令の独白(庵野くんの独白)やったやつです
エヴァ以上に観えないものみようするお友達がたくさん出そうな映画だけど、力こそパワーですべて振り切ったよ
自分はもののけ姫くらいからリアルタイムで見て、振り返ってカリオストロ以降は全作見て、本やインタビューもそれなりに追っているまあまあの宮崎駿ファンです。
千と千尋の神隠し、風立ちぬあたりがフェイバリットです。箇条書きで感想書いていきます
『スパイダーマン:スパイダーバース公開前』と『スパイダーマン:スパイダーバース公開後』ってレベルでアニメ史に革新を起こした作品の続編も
非常に素晴らしかった!!!!!100点満点💯!!!!!はなまる💮!!!!
ただ、せっかくだからこの革新的な映像は4DXで味わいたかったなぁ・・・・・・時間はあったはずなのにダラダラしていたら間に合わんかった
スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバースも、ハイオクリティーの3DCGとアニメーターによる手描き効果+特殊エフェクトが素晴らしい
その技術については、YouTubeやブログで詳しく語られているので省略
映画館で観た感じはどうかというと、めちゃくちゃに攻めたアングルとレイアウトで、
まるでリアルのジェットコースターやVRでドローンシミュレーションをしているかのような臨場感があった!!
(でもマジでぐるんぐるんするので、3DCG酔いしやすい人や体調の優れない人は、配信やDVD待ちをした方が良いかも・・・)
ストーリーは前作を見ていることを前提としていて、見ていない人は少し置いてけぼりになるかもしれない
日本での前作の興行成績はイマイチだったのに、本作の公開を決めた映画館は勇気あるなぁ・・・(しかも2部構成だぞ)
ただ、お話の内容は、スパイダーマンのマルチバースを描きたいが先行しているので、すごいアニメが観たいが主目的の人は前作を見ていなくても楽しめると思う
お話の内容は、ティーンエイジャーの自立/家族/いつものアメコミなので不快な要素はない
ただ、家族の描写は同じいつものアメコミでも『シャザム!』の1作目の方が良かった
『アクロス・ザ・スパイダーバース』の両親は非常に物分かりの良い親で、良いことは言ってくれるけど、すべてを言葉で片付けてしまうので、めっちゃハイコンテクスト、
(『シャザム!』の1作目は、ようやく探し当てた生き別れの母親が『そもそもあなたを愛していないのよ』『10代の私にとってあなたは負担だった』って言うめっちゃシビアな展開)
この映画を観て、パヤオがいなくなった後も、このようなアニメーションが作られるのであれば、今後も劇場アニメーションが楽しみだなぁって思った
日本もジブリ(パヤオやパクさん)に頼らない形で革新的なアニメ作品が作られる環境があればいいなと思った・・・・
ーーーーが、『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』も、監督の無茶振りで100人以上のスタッフが離脱の超過重労働だった模様wwwww
まぁここまで徹底したアート作品作ろうとすると、やっぱブラックになっちゃうのかも知れない
度重なる歳出増大の対策として、我が国は「演出税」の導入を検討しています。
本国が誇る文化「アニメーション」及び「コミックス」の、特定の演出に対して課税を行い税収を賄うことを目的としています。
○「やったか?!」税
強大な敵に立ち向かう際、序盤で強力と思われる攻撃を放った際に主人公級のキャラクタが発するセリフに課税を行います。
ポピュラーな演出に課税を行うことで安定した税収を見込みます。
課税率は当該演出を行ったエピソードを収録した放送及びメディアの売上に対し、10%を検討しています。
○「オレ、○○したら××するんだ」税
主人公級以外の副主人公が決戦等の重大な場面において発し、その後死亡する演出に対して課税を行います。
課税率は当該演出を行ったエピソードを収録した放送及びメディアの売上に対し、15%を検討しています。
○「わぁ~ ホワイトクリスマスだぁ~」税
イエス・キリストが張り付けの上、処刑された日時に合わせて雪が降る演出に対して課税を行います。
尚、当該演出は生涯独身者に対する配慮が一切認められず、極めて残酷なものであるため、課税率は150%を検討しています。
先日、Halle主演のリトルマーメイドを観ました。キャスティング発表時からすごく楽しみにしてて、本国で公開されてからもめちゃくちゃ評価が良かったので期待値爆上げの状態で行きました。鑑賞後も感動の渦にのまれて言葉が出ないくらいすごい映画でした。
はてな匿名ダイアリー書くの初めてだけど、この感動をもっといろんなところにシェアしたくて書こうと思います。
Halleの見た目がアリエルじゃないとか、演技力がどうのと、一部のアニメーションアリエルファンの人たちは批判してたけれど、私にとってHalleは本物のアリエルでした。
綺麗な歌声で、人間界について憧れてて、すごく自由奔放!表情も顔だけでなくて、歌声にものせることができていて、歌手のHalleはぴったりばっちりの配役だったと思います。
海の中でセイレーンのようにミステリアスで魅力的な歌声が流れるところ、あの声なら人魚神話が生まれても仕方ないと思ってしまいます。エリックが初っ端から人魚神話を否定してたのもすごく良かったです。
声がないのに表現力豊かに自分の気持ち、好奇心を伝えて、エリックからたくさんの話を引き出すところ、すごく可愛らしいシーンで今でも思い出してニヤニヤしちゃう。
馬車で馬の手綱をアリエルが持って大爆走したところなんか、ローマの休日のアーニャでしたね。すごく可愛らしい2人!やっぱり、エリックとアリエルのカップルは愛しい…
綺麗な声で上手すぎる歌を歌い上げるHalle、そりゃあアースラもあの声奪ってやりたくなりますね。
アースラと言えば!Poor unfortunate souls が本当に本当にかっこよくて、楽しかったです。あれくらい強くかっこよく歌える人じゃないとHalleに張り合いがつかないのかな?とも考えました。
アランメンケンとリンマニュエルミランダ、2人の作る楽曲を完璧に歌えるキャスティングになっていて、ディズニー映画で久しぶりにサウンドトラックからほとんどの音楽をダウンロードしました。
あと、日本人として嬉しかったのはアリエルのお姉ちゃんたちの1人に東アジア系の俳優さんが起用されてたことです。嬉しい。人魚姫に憧れた幼少期を過ごしてきたので、インナーチャイルドが喜んでました。
たくさんバックラッシュのコメント(主に日本語で)(英語圏は私が目にする限り少ない)をいろんなSNSで見かけるけど、黒人のHalleがアリエル役をするから嫌!という理由で、リトルマーメイド2023を観に行かないのは正直もったいない気がします。どんなもんか観に行こうくらいの気持ちで行って、ぜひ感動して映画館から出てきてほしい。
アリエルに興味ない人も見てほしい。本当に音楽が壮大で、水の中も、街並み(マーケット?)のセットも全部綺麗なので見てほしい。
みんなリトルマーメイド2023に圧倒されに行ってください。
どんどん映画界やアニメーション界でリプリゼンテーションが進んで、世界中のいろんな子たちがプリンセスになれる世界が早く来たらいいなと思います。私もアリエルになりたい!
乱文失礼しました。
フルートの絵って大体おかしいのでちょっとおかしい程度なら全然良いと思います!!!
とあるフィギュアで、フルートの構えが間違っていると話題になっているらしい。
具体的なのは他のメディアに任せるとして、たしかにそれらしい構えにはなっているものの微妙にズレていて惜しい感じだった。
ただ、フルートってシンプルで恰好がつきやすそうに見えて、実はキーが多かったり楽器のランクで変わったりでややこしかったり(より繊細な演奏をするために素材や形状が変わったりトリルキーとかが増えたりする)、楽器経験がないとどうやって音を鳴らしてるのかイメージ湧きにくかったり(瓶の口にフーってやるあれやで)、絵にしようとすると思ったより腕の角度が描きにくい感じで案外バランス取りにくかったり、と音色の割に余所者に優しさがない楽器でもある。
ので、よく間違ってるかデフォルメされている印象。
天下のディズニー・アニメーションでも左右の構えが違っているレベルの間違いを見かけたことがある。
そういうのに比べて、件のフィギュアはフルート自体はちゃんと作り込んであって、構えの雰囲気も概ねあっていて、ちょっとおかしいだけで上手と思った。かわいいし。原作しらんけど。
逆にフルートをきちんと描いてきちんと構えられている絵があれば「わーい!絵が上手だ!!!!」って(私が)思うので、安直に(私に)褒められたい創作者各位におかれましては是非チャレンジしてみて欲しい。
フルート構えてる姿って格好いいしね!
「キャラクターのイメージを著しく損なう表現は行わないように」というガイドラインが策定されて以降、ウマ娘運営がGoogleに対してウマシコ絵を著作権侵害コンテンツとして申請し続けている事実を知っているだろうか。
少なくとも今日までに17回も申請しているっぽい。最近のだとこういうの。
「ウマ娘 プリティーダービー」は、株式会社Cygames(以下、当社)が著作権を有する、スマートフォン向けゲームやアニメーション等において展開しているメディアミックスコンテンツです。 下記URL中の画像は、「ウマ娘 プリティーダービー」のキャラクター画像を無許諾で複製、翻案、公衆送信しているものであることを目視確認しました。 下記URL中の画像は当該キャラクター画像に依拠して作成されていることは明らかで、当社の著作権を侵害していると判断するのに足りうる類似性を有しており、更には著作者人格権をも侵害しているものであると判断した為、この度の申請にいたりました。
実際具体的なURLを調べてみると、確かにアウトなものばかりで運営がちゃんと仕事をしていることがわかる。
しかし「これもアウトなのか?」と思う絵もあった。
例えば、この絵。
肌の露出は肩回りのみ。
運営がダメと言ったらどうあがいてもダメなので、これからウマ娘の絵を描こうと思っている人や今描いている人は気を付けたほうがいいと思う。
DMCA申請は、一度通るとGoogleの検索結果に表示されなくなるので。
ウマシコと認定される具体的な基準をまとめると次のようになると思う。
最近チキンレースしてるんのかってくらい際どい絵を描く人多いし、あんまりやりすぎると描けるもの無くなっていくから気を付けよう!