はてなキーワード: ミステリアスとは
騙されてる俺は。
俺が正しい意味でソシャゲーをはじめたきっかけは忘れられないアイドルマスターシンデレラガールズで高嶺の花により四条貴音のSRが実装されたからだ。
不意打ちだった。
「モバマスは765がゲスト出演するぐらいだからやらなくていいわ 誰が一昔前のCGIゲーなんてするかよバーカ」
そう思ってた。でも四条貴音(ガチで好き。好きすぎて原さんから転移された王将好きからくるらぁめん設定のせいで毎年誕生日に小麦粉の麺を捏ねてる。)を出されたら…こちらも抜かねば無作法というもの…。
俺はコンプガチャに愛されていたので4万円ぐらいで揃えることができた。4万円!?当時の手取り18万で4万!?アホなの?
そこでサイゲームスを知った。
神撃のバハムートもやった。やるとデレマスでガチャ回せたしドリンクという名の通貨を貰えたからだ。
プリコネは…すまんが覚えてない。
硬派オタクを気取っていたのであんなゲームやる人間になりたくなかった。アイマスにどっぷり浸ってるのに。
”ソシャゲー”じゃなかった。
いやソシャゲーには違いないが、今まで見たソシャゲーとは一線を画する戦闘システムと、編成をしていて、俺はハマってしまった。
ハマりすぎてアイマスのライブに行く新幹線のチケット代金をガチャに回して夜行バスで行くぐらいハマった。
確信があった。結構初期にミンゴスが声を当ててるヴィーラちゃんという子がいた。
「サイゲめ。アイマス声優をバシバシ使ってきやがる。」と感じていた。てか戸松までいた。
「これはくる。原由実のキャラが。」予感は2年ぐらいして当たる。ザルハメリナというキャラが実装されて俺は天井をした。迷いはなかった。
4万円でアホなことしてる自覚の有る人間が9万円ガチャに打ち込むなんてな。限定キャラでもないのに。
それで燃え尽きてやめた。
その頃にはもうデレマスが完全に独立しており、ミリマスが765パワーを使いながら独自展開していたので本家以外のアイマスからは足を洗った。(その後シャニマスにハマる。)
そしてプリコネだ。
もうこの頃にはサイゲアンチだった。サイゲを批判したいがためにゲームをしていた。
俺はサイゲに牙を向くし、なんならこの時期は毎日HRTの犬の写真をRT取り消してはRTして取り消してはRTしていた。これいうとHRTにはアカウントバレそう…でもないか結構してたよね皆。(当時はもうKMRだったけど)
ゲームははっきり言って一昔前のソシャゲーみたいなもんだが、よく動くし気にならない。チアキングの声をしたキャラを引いてしまったが最後、「宴のはじまりだ!」とかいってたらだいたい終わってた。
ドハマリしすぎてプリコネすれでバブってた。一年ぐらい。なんならチエルのせいで重症化してた。が、なんか急に目覚めて「あ 俺サイゲームスは許せないんだった」って思ってやめた。課金はしてない。
んで、ワーフリを「憎しみが消えてしまったら 君を殺せないから」って理由で避けて、
ウマ娘がきた。
歓喜だった。
ウマ娘なんてぜってー流行らねぇ。アニメの出来は良かった(※)が、ちょこちょこ出されるゲーム画面に、内部情報リークみたいなの聞いて
約束された敗北の剣、絶対敗者、白ひげ海賊団…もうそれにしか見えなかった。
でもプレイもしてないのに批判するのはスジが通らないので、初日にリセマラを終えて(メジロマックイーン+SSR3枚でたらOKとしていた)プレイした。
(※補足しておくと、この頃のサイゲアニメは基本しっかり作られたいたからちゃんと見てた。神撃のバハムートはちょっとアレだったけど絵は綺麗だったし、ゾンビランドサガやグラブルはすごかった)
ドハマリした。
なんなら今でもやってる。
お金もいれた。
BDBOXも予約した。
メジロマックイーン引くために貯金ちょっと崩した。天井だった。
ミステリアスな感じに、食い意地がはる。天然も入ってる。石川のイキリ金魚、なんやいね白石とはまた違う方向でのジェネリック四条貴音。
サイゲが許せない。
助けてくれ。
設定をコピペして考えるに、
可憐:ピアノが得意なお嬢様タイプ。楽器演奏に付き合ってもらえそう。
花穂:チアリーディングをしているドジっ子。リアルでドジっ子はあまり役に立たない…。
衛:スポーツが得意なボーイッシュ。持病でウォーキングぐらいしかできなくなったが、三日坊主を矯正してほしい。
咲耶:オシャレが好きな小悪魔。なんでもいいから服買って来てほしい。ジーパンとタートルネックだけでいい。
雛子:12人の中で最も小さい、素直で元気。身体が小さいと狭いところに入れるとかで重宝できるのだろうか。
鞠絵:本が好きで、遠慮深い。蔵書整理とか?積ん読の一部は代わりに消費して廃棄してもらってもいいぐらい。
白雪:自分を「姫」と呼ぶ、料理好き。量は少なめで塩とか砂糖を使わないで美味しい料理を作ってほしい。
鈴凛:発明が趣味の、理系。電子回路設計や機械設計やプログラミングを代わりにやってほしい。スゲー生活が楽になるな、おい。
千影:魔法が使えるらしい、ミステリアス。オカルトは興味ないけど、売れてる本は自己啓発でオカルトなんだよな。本書いて。
春歌:ドイツから来た、大和撫子。大和撫子の価値が分からんが、とりあえず🍵でも入れてくれると助かる。
四葉:イギリスから来た、自称名探偵。物を良く紛失するので重宝しそう。論理的思考で人生相談にも乗ってくれそう。
亞里亞:フランスから来た、泣き虫。異性に泣かれるのが一番困るんだが…。というか、スゴイ名前だな、他もだけど…。
なぜなら異性はもちろん、自分も時間と共にチャームは劣化していくわけで、
そうなると資本主義的価値観というか、いかに実生活やビジネスで役に立つかに自然と特化して考えていくというか、
少なくとも自分はそういう視点でしか他人を見れなくなってくるわけで、
逆に考えるなら12人の妹とは、他人から要求される能力を箇条書したもの、とも言えるわけであり、
・街に「ヤバい勢力」が攻めてきた想定でいかにして生き残るかの妄想
・「ヤバい勢力」のせいで世界人口が極端に減少した世界でいかにサバイブするかの妄想
・知人や親戚が集まる場でクイズ番組を見て自分がことごとく正解し称賛される妄想
・災害に遭ったらどうするかのイメトレ
・その場でポッと生まれた名前もないキャラ達のコメディを何度もリピートする
・カッコいい人名を考える
・荒唐無稽な嘘を考える[例:冬の白い息を集めて作った綿は暖かくて快適ですよ]
・歌が上手くなる妄想
・ハリウッド映画に一癖ある脇役として出演し一躍注目を浴びるがほとんど素性を明かさずミステリアスな存在のままでいる妄想
・たいめいけんみたいなすごいふわとろのオムライスを作る妄想(実際に何度か試みて失敗した)
・世界中の犬が狂犬になって人を襲い始めたらどうやって逃げるかの妄想
・モンスター的な存在を処理する機関の飄々としたベテラン隊員が跳ね返りの強い新人のピンチを余裕で救う妄想
・いない妹に慕われる妄想
・いない妹を見舞う妄想
・いない妹を看取る妄想
・閉鎖的な集落で行われる残酷な儀式から逃げ延びた子が大人になって復讐に戻る妄想
・いない妹に慰められる妄想
大学を卒業してすぐ今の会社に入った。明日で社会人2年目になる。
今日、頭にくることがあった。カチンときたというよりは、悲嘆や諦めに近い。
苦しかった1年間の話を聞いてほしい。
「先輩」の姿を初めて認識したのは、去年の4月半ばだった。
ひとつ上の先輩のSさんとお手洗いに行く途中、4階の端っこの方から彼が歩いてきて、すれ違った。
その人の顔をちょっと見ただけで私は、視線をSさんの方に向けた。大らかな感じの人だと思った。
3回もすれ違う頃には、同じ階の別の課で働く先輩だということがわかった。小柄なSさんが手を振り回すみたいにして、先輩のことを嬉しそうに語っていた。笑顔が素敵だって。
その時には、少し気になっていた。いつか話してみたいと思った。
「先輩」の見た目を表現するのは難しい。イケメンではない。中肉中背で、体つきがガッシリしていて、雰囲気が優しくて、視線が鋭い。
お客さんと話をしている時でも、優しい感じと怖い感じが交互に伝わってくる。
どんなキャラクターの人なのか全然わからないし、読めない。ミステリアス? こんな人は初めてだった。
なにより、笑顔がすごい。マスク越しだけど、きっと素敵な笑顔なんだろうなってわかる。子どもみたいに屈託のない笑顔が、直球で胸にドーンと響いてくる。
Sさんほか、同じ世代の先輩方(でも年下)と一緒にご飯を食べている時に、あの人(Tさんとする)の話題が出ることがある。その度に箸を止めて会話を聞いていた。
35代の半ばくらい。何かのスポーツで全国大会に出たことがある。雰囲気が独得。自分のことは人に話さない。思ったことは何でも言う。仕事ができる。役職はもってないけど、何千万円にもなる企画を自分で作って通している。後輩にマウンティングとか一切しない。冷たい感じに見えるけど、話してみると温厚……ということだった。
この1年間、記憶に残っていることをいくつか挙げる。
5月になって時差出勤が始まると、朝早くから職場に行かないといけないことが増えた。
ある朝のことだった。職場の窓口で掃除をしていると、Tさんが向こうから歩いてくるのがわかった。この窓口を通り過ぎようとしていた。
先輩の速度が急に遅くなった。向こう側の壁にあるポスターを眺めていた?
「おはようございます」と声をかけた。すると、こっちをサッと振り向いて、「おはようございます」って返してくれた。
笑顔が思ったよりすごくて、目が合いそうになって、うつむいてしまった。
それから、チャンスがある時はこちらから挨拶をするようになった。
夏が始まろうとしている頃、トイレから事務室に帰る際に先輩とすれ違った。その時に声をかけられた。初めてのことだった。
みたいなことを言われた。1分くらい会話をして、最後に「頑張ってね」って言われた。ありがとうございますって言おうとしたけど、声が詰まって小さくなった。
秋頃、背中まで伸びていた髪を切った。
かなりショートになった。髪の重さがなくなってすっきりしたな、と思いながら階段を昇っていた。
2階と3階の踊り場にいる時、上を見ると彼がいた。作業着姿で、何かのメジャーのようなものを片手に持っていた。
彼も、お疲れ様ですと言った気がする。
階段をまた昇り始めて、Tさんとすれ違う瞬間、私は階段を走って駆け上がっていた。すれ違うのが怖かった。違う。怖い、と思ったのはすれ違った後だった。すれ違う前に抱いた感情はわからない。無意識だった。
その後も、廊下などですれ違う度に声をかけられた。
服装の話や、人事異動の話や、Sさんが元気がないので声をかけてほしいとか、仕事での苦情とか、いろんな話をした。
Tさんに話しかけられる回数は、ひと月で3回はあっただろう。
1年間、ずっとそれだけだった。
一緒に街を歩いたこともない。
ラインのIDも知らない。
携帯電話の番号も交換していない。
お互いの出身地も知らないし、血液型も知らないし、好きな事だってそうだ。
Tさんのことが好きだった。
目を合わせ続けることができないし、話の最中には嫌われないようにニコニコしてるし、稀に一緒に仕事をすることがあると、失敗しないか気が気でない。
でも、Tさんは私に興味がなかった。
2日前のことだ。
昼休憩の時に、Sさんが嬉しそうに話してきた。Tさんに髪型を褒められたと。
髪切った?って聞かれて、そのあと、「似合ってるね」と言われたと。
さらにその後、Sさんの残業時間が多いのを気にして、「無理はするな」と怒られたって。
私は先輩に怒られたことがない。
Sさんはいわゆる小動物系の女子だ。小柄で、柔らかそうな見た目で、笑うと顔がくしゃっとなって、女の私から見ても魅力に溢れた人だと思う。
性格もいい。誰に対しても愛想があって、廊下ですれ違いざまに男性の上司から足の裏で蹴られそうになった時も、その冗談に付き合ってあげていた。
昨日の夕方、帰り際だった。Tさんが私に声をかけた。
「お疲れ様です」と言って、私の近くに来ようとしたので、早歩きで1階まで行った。先輩は、後ろをずっと続いていた。
外に出て、駐輪場の近くまで来たところで、「体調が悪い?」と後ろからTさんの声が聞こえた。
無視して歩いていると、自転車に乗ろうとする私の前に立ち塞がるみたいにして、「苦手なら言ってくれ。もう話しかけないから」だって。
ふざけるなよ。くそ野郎。人の心を踏みにじって、もて遊んで。その気がないなら廊下で声かけるなよ。くず。
一瞬そう思った。
家に帰ると涙があふれてきた。
朝の掃除が終わって、コピー機に用紙を足している時、先輩がまっすぐこっちに歩いてきて、「昨日はごめんね」と謝ってきた。
「もういいです」って返した。
それから何分か経って、トイレに向かう途中で、本当にこれでよかったのか不安になった。
先輩を許したい。でも、許したくない。
25才までに結婚したいと思っている。私には、あと1年半しかない。その貴重な時間を、先輩への片思いに費やしてしまった。
Tさんと付き合いたい。でも、Tさんを許せない。でも、まだ好きだと思う。
涙が止まらない。
推しは白い髪のミステリアス系少年キャラでここではN.K.としておく
厳密にいうと髪は真っ白ではなくてそれも良い
もともと作品自体はあまり知らなくて、ネットでふと見た推しを最初は気持ち悪いと思っていたけどそのうち興味が湧いて
気がついたときには推しのためだけに作品の履修を心に決めていた
ネタバレをいろいろ見てしまっていたことは悔やんだけどそれでもなお新鮮な驚きがあった
主人公くんが異様な状況で驚き慌てているところに優しく現れる推し
推しの謎の好意を受ける主人公君に場所代わってほしいと思ったのは一度や二度ではない
しかし主人公君と推しの関係性や美しい対称性を考えているうちにそこは主人公君の場所なんだと納得して代わってほしいとは思わなくなった
ネタバレ見て知っていたが推しの本性はアレだから二人の蜜月は長くなかった
推しはある目的のために一人でこっそり入った謎の部屋であの世界の真実を知ってしまっていたのだ
手が固定された磔になって腹に神話の槍を刺されてる白い体の衝撃
他人の手で殺されることを選択するに至る覚悟は最初戸惑ったがそのうち深く納得した
グッズの出し方が露骨だったのはまだいい
許しがたいのはシリーズ5作目(リメイクなどは抜きで数えている。3作目といった方がいいか?)なにあれ
「希望は残っているよ、どんな時にもね」推しはそんなこと言わない
他のキャラもいろいろおかしかったからとても正史とは認めたくない
常人には理解できないことばかり言ってて主人公君を好きな理由もよくわからないナギちゃんを
白い髪白い肌に白い半袖シャツで
シンジくんの少年らしい声と心地よくオーバーラップする人外っぽい喋り方のナギちゃんを
ついでに
例のセリフはi love youとi like youのどちらが良いかで揉めてたけど私はどちらも同じくらい間違い派
いいながら色んなスタッフが引っ張ってきた設定集みたいなものに
承認印を押して、公式化していくフローを観ていくような映画だったな。
特に後半。
・特に村での暮らしはファンサービス満点で、大人になった同級生に
慰められるあたりは結構感動した。
・保守的と言われようとも、大人になることをきちんと丁寧に描いていた。
・とはいえ、新劇はアスカとレイのキャラが旧劇と違い過ぎていて、
ずっと違和感が拭えなかった。シンでも結局……
・アスカ:PTSD少年の口に無理やりレイション捻り込んだり、そっくりさん死ぬのを
黙ってみてたりとか、ツンデレじゃなくて単に非人道的なだけでは……
・アヤナミ:どのアヤナミも「知能にハンディキャップがある方」になっていて
受入れがたかった。母の面影を持つミステリアスな少女はどこに……
保守的な結論であっても、丁寧に人間を描こうとする意思を感じた。
(たとえそれがテンプレであってもある個人が確固たる意思を持って
・Qでの投槍回収タイム始まる。
何故、ニアサーの原因シンジくんにされてるのか(みんなのやりきれない思い
何故、ゲンドウは……
何故、梶さんは……
何故、……
何故、……
何故、……
NAZE、……
・でも、こっちとしてはそもそも庵野さんがQで投槍したからじゃねえっすかみたいな。
・ここにきて「俺が責任取るから」って言われても、まあ、そりゃそうでしょとしか。
・最後はシンジ君が真のパイロットになって世界からエヴァを無くすEND。
→最後にまどかちゃんが真の魔法少女になって世界から魔女を無くすENDを
10年前に見た俺らとしてはよ……?
・真希波 ENDってやばくね?DQ5の公式嫁がデボラに書き直されたのと等しい。
・アニメーション映画としてやっちゃいけなかったのでは?という箇所多し。
→シンクロ率∞パーセントを言葉で説明(見た目は破のエヴァ初号機のママ)
→などなど
・「もうエヴァ待たなくていい」「庵野さん本当にお疲れさまでした」「これで終われる」「ありがとう」
という気持ちが溢れてきたのは確か。
・でもそれってどうなの?まず「面白かった!」かどうかが大事なのでは?普通に考えて。
・とはいえ60歳の色々と背負っているおじさまに30歳後半の大人が、様々なものを仮託するのも
もう色々ときついし、無茶だし、適当ではないので、とにかく「お疲れ様でした」という感じ。
わかり手さんの予想がだいたい当たっていてすごかった。
やはり日ごろからメンヘラを人間観察しているので詳しいのだろうか。むしろわかり手氏にエヴァ作ってみてほしい。
監督はTV~旧劇場版は非リア充マインドで作ったが、新劇場版はリア充マインドで作った。オーディエンスは何を見せられているのだろう。監督の心情を、人生を見せられているのかな。一言でいえば旧劇場版から新劇場版にかけて非モテがモテになれました。というサクセスストーリーだった。某キャラと某キャラが子づくりしてその子供が出てくる所もリア充感を加速させる。グッズ販売にぬり絵とか自由帳といった子供向けアイテムがあるのもそれに油を注ぐ(親子でエヴァを見に来る人がおるんやろか?)
そもそも破の時点でシンジくんが成長してしまってウジウジしておらず男らしくて置いてかれてしまった感してたがその路線の延長だった。「そうだよな!非リア充だよな!」つって拗らせたやつらが共感してファンを集めたTV~旧劇場版だったが。新劇場版では作品がわりとリア充になったのでリア充になれないオーディエンスは置いていかれたことになる。
これはつまり、ぼっち・コミュ障・非リア充芸でガチ恋営業してファンを集めた地下アイドルやVTuberが、急に恋人できて結婚して引退してファンを捨て去り置いけぼりにするような構図と重なって見える。そう、声優の「ご報告」でCDを割るやつと同じで。表では恋人いませーんムーブしておきながら水面下でちゃっかり人生を進捗させていてある日突然手のひら返しするのだ。アイドルもVTuberも声優も監督もみんな置いていくんだ。結婚したのか俺以外のヤツと・・・
今後の後世に語り継がれるエヴァンゲリオン像は、非リア充こじらせ系と、リア充系に二極化して語られていくだろう。
昔のインターネットは非リア充のすくつだったが、いまはもうリア充に占拠されてしまい、いつまでもリア充になれずに拗れている者の居場所は狭まるばかりなのか・・・。
これ、少しのネタバレを説明したうえで「こういったような(ろくろ回す)イメージのエヴァを信じて期待していた人は、こういうネタバレがあるんで、ショック受けるので見ないことを推奨する」という熱気溢れる記事を書く人が現れるだろうね。予言。キャラ愛が強すぎる人とか、二次創作するうえでのイメージ崩したくない人向けとか。
======
前半、ポカポカムードが長く続いて(どうすんだこれ..)ってなった。でもなぁ。庵野監督のことだから上げて落とすの繰り返しだしなぁ虚淵みたいに。そんでまぁまぁ期待を裏切らない感ある展開であったが、なんだかあっさりとスルーされた感があり、というかそこでシンジくんが急に大人になったターニングポイントでもあるのだがもうちょっと拗れてほしかった。
途中、ここ笑うとこ?真剣なとこ??って気持ちの緩急が激しく揺さぶられてどうしたらいいのか良くわからなかった。あと戦闘シーンでBGMが急に劇画チックな特撮みたいになるのも庵野監督ぽかった。親子喧嘩シーンまるっきりウルトラマンやね。良い。
テーマのひとつに「犠牲」があるのかもしれない。色んなものが犠牲になっているし、自らを犠牲にして誰かになにか託す者もいれば、家族が犠牲になった恨みもある。非リア充にはできない、リア充の肝が据わった男らしい覚悟。明日世界が滅ぶとしてもすいかの種を植える。覚悟と達観と1日1日を大切に暮らす話。そのへんはシンゴジラからの地震や台風とか災害のイメージなのかな仮設住宅が立ち並ぶところなんかまさに。無人在来線爆弾のようなものも登場する。
虛淵をイメージしているのだろうか、セリフに「円環」って何度か出てくるのまどかマギカ意識している?オマージュ?2回目を見てあらためて終盤のシンジ君のセリフよく聴いたらまるっきりまどかだった。シンジくんはアルティメットまどか。いや逆なのかな、旧劇をオマージュしたまどマギ、それををオマージュした新劇、っていうこと?そのへんの関係よくわかんないや。
xxxもyyyも大人になったのは、つまりはエヴァの呪縛が解けたという意味だ。"人間"の"大人"になったということだ。非リア充のガキが、リア充の大人になった話だ。たとえ金太郎飴みたいにそっくりな量産型であっても、自我を持ち、成長できるのだという希望の話。就活や大学生のファッションや髪型なんかがしばしば"量産型"と揶揄されることへのオマージュ、エールかも知れない。
見ながら思ってたけどゲンドウくん喋りすぎじゃない?説明しすぎ感はあるなー。Qの反動のAなのかな。それ以外にも答え合わせ、ネタバレ、種明かしがたくさんあり、スッキリはしたけど謎が減りすぎてミステリアスさや考察や二次創作の余地やが減った気もする。そんな考察なんてしてないでエヴァの呪縛(ダブルミーニング)から解かれておまえらもリア充になれ。やめやめ。解散。おしまーいみたいなメッセージなのだろうか。そんな印象も覚えた。
=====
(↓以下は自分の語彙力が不足していて、なぜダメなのかがうまく明文化できていない。より語彙力の高い人がうまいこと説明してくれるのを期待)
毎度恒例の精神世界電車のゲンドウが下車した以降の早足に一人ずつ問題解決していくパートは、なんだか雑な感じを受けてしまう。 駆け足に答え合わせ、辻褄合わせされたような...
全体の映像を通して言えるのは、ミックスが未熟な音楽を聞いているような印象を受けてしまう。シーンによって映像の解像度の差が気になるというか、質感の統一感が低い箇所があるというかうまくいえない。あのリアル綾波フェイスがとくに浮いている印象がしてしまうんですが・・、斗和キセキの1000万円かけて作った生首みたいでシュールなんだ。
すごくエヴァらしい!と感動するシーンもたくさんあるんだよ、例えば前半の村でアスカがシンジにカロリーメイト(2400kcal)を無理やり食わせるシーンのカメラワークがすごい。フレーミング、ロール、レンズズームをグリグリ動かしているような映像的にすごいし、構図もエヴァらしいと思った。
ピンク髪の人、北上だっけ?全体的にあの人のセリフが空気を悪くしてズレた感じにしてしまっているのが残念だった。でも親の仇でキレるシーンは良かった。けど、納得して脱力しての引き下がる理由とか心情の変化が良くわからんかった。
あれだ、昔の人間なら電子メールでビジネス文章を書くが、ナウなヤングは仕事の連絡すらLINEだったりするのでチャラくて薄くて軽い文章しか書けない、そういうTPO違いの文章のような嫌悪感なのかも知れない。最近では仕事の会議や講演なんかもライブ映像配信なので、YouTubeのノリで「わくおつ~」とか新人がコメントしちゃうやつだ。もう俺も老害だと思うとつらい。
それ以外にも、なんだか薄ら寒いメタをちょくちょく差し込んで来るのでその度に調子が狂うというか、音ゲーでタイミング外してうまく演奏されなかった小節みたいな印象を受けてしまうま🦓。
先述のとおりシーン毎に気持ちの切り替えが追い付かないというか、いま笑うところ?シリアスなところ?という空気読みに苦労してしまう。これってアニメ艦これでもそうだったよね・・・。
わからん。睡眠不足状態で見てしまったので脳が働いてない可能性はある。
後から見なおしたり、誰かの解釈を参考にしたりすると、また違った見え方もする。
あと、ゲンドウがにゃるらさんの提唱する理想郷、twitter2のコンセプトみたいな話を早口気味でするのおもしろかった。差別も貧富の差もイジメもなんたらもかんたらもない世界みたいな。
にゃるら絵日記10話「Twitter2(だれも社会や政治の話をせず、毎日みんなでアニメを観たりゲームをしたりして1日がおわるマジで楽しいSNS)」|にゃるら|note
にゃるらさんありがとう。
これはNiziUの話である。NiziUを知っている、なんなら詳しい人が読んでいる体で書いているので、そこはよろしく頼む。
リクの話がしたい。NiziUのエネルギッシュなリスこと大江梨久さんの話だ。18歳の溌剌とした女の子で、関西弁で話し、飾らずによく笑いよく怒りよく泣く子だ。歌に定評があり、サバイバルオーディション番組では素人にも関わらず第二位でデビュー権を勝ち取った逸材でもある。
そんなポテンシャルの塊なので、当然リクの人気は高い。Nizi Projectから追いかけていた私としては、リクが当然センターで一番人気になると思っていた。いや、一番人気はビジュアルクイーンと目されるアヤカか、可愛いの天才ミイヒかもしれないが、いわゆる努力家で、ひたむきで、むき出しの、応援したくなるアイドルとしてはリクが一番で、そういう売り方になると思っていた。
オーディション番組の最終回で一人だけブルーの髪をしてセンターに立つリクを見た時、Make You Happy(以外メキハピ)のサビを歌うリクを見た時、私は自分の見立てが間違っていなかったと思った。しかしながら、同じメキハピの中で、やけに目立つ子がいるのにも気づいた。マユカだ。
マユカはリクの親友で、なにかと好成績だったリクとは異なりいつも脱落寸前、大人しくて主張の薄いタイプの子だと思っていた。最終回近くでようやく個性を出して、そこから巻き返してデビューにこぎつけた。
デビュー後も、マユカは大人しい、優等生路線だと思っていた私は、メキハピのPVの中で金髪に染めて垢抜けた、滑舌良くラップをする可愛い女の子を見た時に、ギョッとしてしまった。これまでの薄味のマユカとギャップがありすぎる。そして、マユカは垢抜けたビジュアルやラップのセンスの良さに加えて、ひたむきな性格(なにせマユカはダンスレッスン代を自分のバイト代で賄っていた)、ドラマティックな出自(マユカはオーディション補欠合格→一次審査の東京合宿で脱落寸前からの合格→最終審査まで成績が振るわなかった中でのデビュー)の効果もあってか、デビュー後に一気に人気を博した。それこそ、リクの人気を追い抜くくらいに。
リクはマユカが大好きで、マユカの成績が振るわないことを我ごとのように悲しんだり、合格した時も号泣したりしていた。一方のマユカもリクのことが好きで、二人は親友、リクマユコンビ🖤なんて呼ばれている。でもリクよ、マユカはお前がなるはずだったシンデレラガールの座にどっかり座り、大量のファンを獲得している。本来、素人から二位で合格したリクこそがシンデレラガールと呼ばれるべきだし、ひたむきで頑張り屋さんの応援したいアイドルは、リクのキャラクターであるはずだ。
マユカはカメレオンと呼ばれ、曲によって雰囲気が変わるのが持ち味と言われているが、マユカの人気はミステリアスさよりも好感度、親しみやすさ、懸命さに基づいている。「マユカは曲によって表情が一変するのに、素の状態だと素朴でかわいい、いい子なんです」とファンたちはマユカに酔いしれる。一方のリクはエネルギッシュなリスというキャッチフレーズの通り、愛嬌があり明るいムードメーカーのような位置付けであるが、しかしながらそのポジションは激戦区だ。セレブ美女ラッパーのリマも、トップダンサーでクールな美人のリオも、歌がうまいハーフ美人で末っ子のニナも、「明るくて愛嬌がある」と形容されている。しかもこの三人は、それぞれラップ、ダンス、歌と抜きん出るものがあり、ビジュアルがツンとした美人にも関わらず、「明るくて愛嬌がある」のだ。そんな中だと、リクだけは見たままズバリ「明るくて愛嬌がある」タイプである(リクはたいそう愛らしい顔立ちをしているが、美人というタイプではないのでギャップはない)。また、リクは歌が上手いというのもその通りだが、歌が上手いメンバーは前述のニナも、人気一位二位を争う可愛いの権化ミイヒ、オールマイティリーダーのマコもいる。バラエティに強い、という意見もあるが、NiziUは韓国に滞在する時間も長いので、日本のバラエティ番組に特化しているのがどの程度役に立つのか、現状は不明である。つまり、リクは本来、「シンデレラストーリーでここまでやってきた、一生懸命な女の子」のキャラを手放すべきではなかったのだ。
リクは毎日楽しげだ。顔中でニコニコ笑っている。最近は垢抜けて、お姉さんらしい雰囲気も出てきた。しかし、歌割も減り、段々と役割が薄れていくリクを見ていると、歯噛みしたい気持ちになる。マユカは新曲でラップのみならず、サビまで歌った。ここまできたら逆にリクがマユカの担当であるラップを代わりにやるしかないのだが、リクのラップはまだ披露されていない。リクは、アイドルらしいアイドルだ。余白があり、1年後には見違えるような進化を遂げるポテンシャルを秘めている。そういうリクが、9人の真ん中に立つ姿が見たいのに、マユカの人気を見ていると、なんとなく不安になる。リクよ、リクペンよ、「リクマユ🖤」とか言っている場合ではない。ここが踏ん張りどころだ。リクを推してくれ。シンデレラガールはリクだと自覚してくれ。なお、筆者はアヤカ推しだ。
透明ディスプレイの使い方が上手い。映像が宙に漂っているよう。
2年前のOPムービーは良かった。コロナ禍の影響で出演者は別撮りにするしかないにしてもああいう路線はできないものなのか。
番組に客観性を持たせるという意味でサブちゃんが顧問的位置に座ってるのは個人的に賛成。でもサブちゃん話してるとき加藤一二三みたいだななんか。
いきなり三連ちゃんは各スタジオのPAの調子が実際に放送してどうなのか確認したかったからか?
やっぱりはじめてことで混乱してるところがあるのかも。
いつもいい曲あてがって貰ってる。衒いがないけど耳に残ってきれいにまとまったポップス。
平野紫耀はピッチが甘い(違和感あるほどではないけど)が声質で誤魔化されてる。ハスキーボイスに細かいビブラートが混ざってくる感じが初期の森進一ぽい。
実は弱ペダに出てた人が一番上手いのではないか、コーラスパート担当だったけどうまく溶け込んでる。
メインボーカルの男の子が変声期できつそう。でも当てふりにすると空々しいだけだから歌うしかないのか。
ワイプ芸でアイドル連中が賑やかしになってた。こういう時にジャニーズは勝手がいい、だから重宝されるのか。
氷川きよしの大幅な路線変更で後釜っぽい見られ方してるんだろうな。
「肌が合う」と生々しく歌った後で「惚れたねほの字だねほっほー」とぶりっ子かますの、ファンからはどう写ってんだろう…
SMEが推してる若手実力派女性歌手ってAimer、milet、Uru辺りだと思うんだけど、なんで他2人と比べてキャリア浅いmiletなのかな?と思ってしまった。
今年のAimerは「SPARK-AGAIN」が、Uruは「あなたがいることで」が結構ヒットしたのに、miletが披露したのは去年リリースされた曲だしなあ。
AimerもUruもミステリアスなキャラでテレビ出演は慎重だし、キャリアがある分序盤の枠だと声掛けづらいとかそういう事情なのだろうか。
ただ観客がいないだだっ広いホールの真ん中でレーザーに照らされながら歌う様はMVの再現のようでなかなか見応えがあった。
オリンピックと大河/朝ドラに全フリしたような人選。しゃべりは芸人に任せてる。
今回はサブちゃんと徹子にどう相手するかが一つの課題だったのか。
南キャン山ちゃんがチコちゃんに恐々と相手してるのじわじわ笑えてくる。
審査方法は今回データ連動を利用した視聴者投票のみ、視聴時間に合わせて投票数が変わる仕組みで大泉洋も言っていたがよく考えたものだ。
アイドルオタクは推しのために興味のない演歌もちゃんと見ろということだ。
「今年は踊らないの?」って件をウッチャンがめんどくさそうにあしらってるのが一番印象に残った。
ああいう、場の勢いでやってみたら上手く行っちゃって後々ややこしくなることってままある。
今年はNiziUと坂道グループが対比される構図だったけど、振り付けとか曲そのものの難易度はそんな大差ないように見えた。ただちょっとNiziUのほうが丁寧。
秋元康の歌詞ってイケイケどんどんで人を励ますような描写が少ない。AKBや坂系に限れば「働け、進め、若くて可愛い子に惚れた」ということしか歌ってない気がする。
「イントロがあってAメロがあってBメロで溜めてサビがきて、で、それぞれ律儀にキーやリズムパターン変えてて」っつうJ-Pop特有の歌劇調のスタイルが通用しなくなってきたなと思う。「夜を駆ける」も「香水」も「Make You Happy」も実はループミュージックの構造を成していて、リズムパターンやコード進行を大きく変化させないクラブやヒップホップミュージックの方法論に従っている。ダンスが身近になったりSNSの拡散が馬鹿にならなくなった今だとそういったどこを切り取ってもさまになるスタイルがどんどん主流になりつつある。J-Popらしいコテコテの曲は「紅蓮華」のような映像作品とのタイアップか、デートの雰囲気作りにちょうどいいバラードでしかみられなくなり、そのうち今の演歌のような「中高年向け音楽」という扱いになるかもしれない。
スカートの裾を振り上げる振りは衣装が独特な造りだから出来ることで、こういう衣装の意匠と振り付けが連動していたりするのがかっこいい。
サビの「No!no!no!」の裏で被せられてるシャウトの声は誰なんだろう。いい声してる。
だんだん大泉洋に対するウッチャンの態度がやさぐれてきてるけどどうなるんだこれから。
演歌歌手でもないのに往年の代表曲歌わせられるのは陰りが見えてきたサインかもしれないんだよな…
「Ultra Music Power」歌うときの知念の声が年々伸びなくなってきてるのが切ない。
八乙女光ってEXIT兼親に似てるよね?入れ替わってもしばらく気付かれなさそう。
こういう若い女の子が集まってるグループで1人欠席があったりするとなんか不穏な気持ちになる。
SnowManは欠場。いつ誰がコロナに感染してもおかしくないからNHKのプロデューサーはこの2、3ヶ月肝を冷やしてたんだろうな。
篠原ともえには悪いけど、Perfume(ライゾマ)の演出とかに見慣れちゃった今はただでかいだけじゃ白けるんだよな。
もう普通に歌わせてあげたって。
尼崎のヤンキー数原くんはこの王子様衣装をどう思ってんだ。衣装合わせのときに「キンプリと間違えてんのか?」って愚痴ってそう。
無観客ライブでエア握手してる紹介VTRからして可笑しすぎる。
良心的存在であるウッチャンですら吹き出してしまう衣装のセンスはどうにかならなかったのか。
元SMAPメンバーですらドアップきついときあるのによくこんな煽ったカメラワークをやるな。
洗練されたコードや譜割に独創的な詩世界。シンプルな衣装と舞台演出が曲の完成度やパフォーマンスを際立たせていて良かった。だからこそ最初の寸劇は蛇足に感じたけどこれはご愛嬌か。
坂本冬美はかっこいい老け方してる。ツンデレな温泉宿女将とかやたら頭のキレるベテランパートみたいな役どころでドラマに一回出てほしい。
10年前くらいの洋楽でよくあったEDMみたいだけど、もはやキスマイはそういう歌を歌う集団って僕は納得してる。
中継主体であることで民放特番ではよくある局内を練り歩く演出が今回採用されたのは面白かった。
何歌うかとか演出がどうだとか本調子かどうかとかそんなこと関係なくただ出てくれるだけで満足できるか?そういう安心感があるか?っていうのが大御所か否かだと考えている。
その中でも今回トップクラスにホッとしたのは天童よしみの出演シーンだった。
もう天童よしみが歌うならば知らない曲でもジャニーズのねじ込みがあってもなんとも思わない。
さだまさしがライブ後にNHKの生放送でフリートークするのを見てる人意外といるよね。
さだまさしの歌を聞くと毎回「力抜いててこうも声が通るものなのか」と感動する。中音域ちょっと歪むのもかっこいい。
やっぱりJ-Popらしい転調をだんだん耳が受け付けなくなってる。音像はがっつりサブベース聴かせてて海外のメインストリームと混ぜても聴き劣りしないレベルだと思うんだけど、なんだろう。
小室哲哉に全く触れられてないのがどうしようもないけど悲しい。
鈴木雅之を嫌いな人ってあんまいないだろうけど、かぐや様から入って「夢で逢えたら」とか「ロンリーチャップリン」知らない層もやっぱり一定数いるのかな。
意外とジャスチャー激しい人だったのに今更気が付く。
毎年恒例の子ども向けの配慮コーナーだけど当の子どもに支持されてるかは疑問。
歌ってるときの二階堂ふみのすごく努力したのはわかるし見応えあるけど本職の人にはやっぱり敵わない感じ、歌手になる夢に挫折する「エール」の役どころにはまってたな。
いずれは誰かに歌い継いでほしい。
後半に続く。
アイドルグループ「嵐」が2020年いっぱいで活動を休止する。最後のテレビ歌唱は12月31日の「紅白歌合戦」だろう。
おそらく「紅白」で披露するメドレーにはNHKの「NHK2020ソング」キャンペーンとタイアップしていた「カイト」も含まれるはずだ。
本来ならば7月24日に東京オリンピックが開幕し様々な種目の試合結果に世間が一喜一憂しているはずであった。
嵐が7月29日に発売した「カイト」はオリンピックを初めとするNHKの各所キャンペーンで大々的に使用される意図があったことは明白だ。
また嵐自身の活動休止という事情を踏んで、20年以上に及ぶその活動の総決算、ファンへの忘れ形見として製作陣やリスナーはこの「カイト」を据えてもいた。
そして国家総力を挙げた一大イベントのアンセムと日本のトップアイドルの記念碑を兼ねたこの楽曲をトータルプロデュースし制作したのは、これまた稀代のカリスマとして君臨しているシンガーソングライター米津玄師である。
まあ、ここまでは周知され切った事柄であり別段僕が説明する必要もないのだが、日本という国の2020年という時代を背負うことを予め定められたこの激重プロジェクトに「カイト」はどのように応えようとしたのか僕なりに感想を書き連ねた。
米津は前年にもNHKのタイアップソングとして「パプリカ」の書き下ろしとプロデュースを行っている。
結果として「パプリカ」は2019年を代表するヒットソングとなったが、その一要因として歌唱グループであるFoorinの愛らしさと無邪気なダンスがあげられる。
バズヒットの現代において「パプリカ」も例にもれずそのダンスを真似するムーブメントが起きた。「パプリカ」がEテレで繰り返し流されたことやFoorinメンバーと同年代である小学生が親近感を覚えたことも相まって、運動会の催しとして「パプリカ」のダンスを披露する小学校が続出したことはこのヒットの象徴的出来事であった。
おそらく「カイト」のキャンペーンはこの流れを踏襲していた。「パプリカ」と同じように運動会で使用される想定はもちろんとして、「パプリカ」に親しんだ子どもたちの門出を激励する卒業ソングとしても使われることをNHKサイドは期待していたように見える。
ともすれば「高度な技術を持っていない素人でも合唱や伴奏がそこまで難しくない曲を」という注文が米津側に与えられたはずだ。現に「パプリカ」にせよ「カイト」にせよ歌唱音域は1オクターブ半以内にコンパクトに収まっている。コードもところどころ4和音がでてくるものの実際に演奏すればわかるとおり、転回系を利用すればほとんどコードフォームを変えることない上に指の移動も少なくスムーズな運びとなり難易度の高くない造りになっている。
(そうはいっても「パプリカ」の”晴れた空に種をまこう”のノンダイアトニックコード、「カイト」における”高く飛んでいくカイト”の激しい跳躍やサビでの拍の取り方など、個性的な米津節に我々は始め戸惑うのだが)
また学校教育の場での合唱曲として「カイト」を見たときコーラスワークの絶妙な塩梅は見事。基本ユニゾンだが、要所要所で二宮が3度上、松潤が1オクターブ下を歌っている。嵐はユニゾン主体だが大野がメイン、桜井がラップ、二宮が上ハモ、松潤が下ハモ、相葉がファルセットという役割分担がありアレンジしだいでは主メロとは別フレーズを歌うらしく、このメンバー構成を活かしたようだ。なにより飽きが来ないよう工夫しつつもそれを不特定多数の素人が寄せ集められて歌ったとしても収集がつく程度の複雑さに収めているのがいい。ブルーノマーズプロデュースの「Whenever You Call」ではブルーノ自身も加わりふんだんにコーラスを織り交ぜ比較的高レベルなパフォーマンスを見せていたが、とっつくやすさで比べると格段に「カイト」が勝っていた。
なぜ米津玄師はカイトというモチーフで曲を書いたのか。未来を切り開くポジティブさや成長のイメージとして飛翔体をモチーフに据える曲はあまたとあるがなぜ凧なのか。
同じくNHKのテレビ番組とタイアップしヒットした「地上の星」や「365日の紙飛行機」も飛翔するものから見た世界を歌っている。
これらと「カイト」の大きな違いはカイトは出発地点と着地地点が同一であるということである。
「地上の星」は上空を見渡すことのできる渡り鳥を超人的な視座をもった存在として捉え、それに動乱する世界を切り抜ける道筋を教えてくれと訴える曲である。「365日の紙飛行機」は惰性で飛ぶしかない紙飛行機を世相に揉まれる人の人生に準え愚直に一日一日を丁寧に過ごすことを説いた曲である。どちらも世界は常に変動的なものであり人は同じ環境に居続けられないという前提がありそれを踏まえてリスナーの冒険心を鼓舞する内容なのだ。
対照的に「カイト」におけるカイトは作中では常に同一のものとして描写されているため変化がない。そもそもカイトは糸で繋がれているため自由に飛んでいけない物体である。
さらに面白いのはこのカイトは最初から空に浮かんでいるということだ。”小さな頃に見た”からの冒頭4フレーズは、かつて”憧れた未来”は別世界の一番星の横に鎮座しているようだったとその様をカイトに例えて”ぎゅっと強く握りしめていた糸”というフレーズで夢に邁進していたことを説明している。それが二番に入ると成長した今では”カイト”や”憧れていた未来”は”とても古く小さい姿”で”右ポケット”に忍ばせておく程度のものになってしまったと幻滅に近い感情を吐露する。そして大サビでそれでもこの小さいカイトが嵐のように厳しい世間を生き抜く指標であり心の拠り所であることを告白する。
つまりカイトとは未来に向かって邁進する人間そのものの象徴ではなく彼らの先進の当たる親や先輩といった人々なのである。この曲が巧みなのはカイトを地上から見上げる立場であった主人公もまた今は後進から憧れを背負ったカイトであるという双方向性を示している点だ。
カイトへの郷愁や憧れを語りつつもサビでは”君の夢よ叶えと願う”。大サビに至っては”嵐の中を”からの2フレーズでカイトの先に焦がれた自身の憧れを歌いつつ、続く”悲しみを超えて”からは人々の模範となるカイトの先からの視点に移る。何よりすごいのは憧れを一身に集め自身の悲しみすら超越して前に進んでいけと言った直後に”糸の繋がった先まで”帰ろうと優しく口添えしているところだ。
人は絶えず不安や孤独に苛まれる瀬戸際で生きている。そんなきりきりした思いを汲んで「幼年期に自分を形成した、自分が無邪気でいられた場所や人はカイトの手綱を握る人のように自分の足元にある」「自分がカイトとなってもカイトを揚げる側だった頃の場所はなくならない」と安心感を与える文句を曲のハイライトに持ってくる米津玄師の慈悲深さや度量の広さには舌を巻くし、米津玄師がこの時代に指示される所以を垣間見た気がする。
「パプリカ」と「カイト」には”らるらりら”や”一番星”など共通するワードが散見される。また「パプリカ」出だしのキーはA、「カイト」出だしのキーはEであり下属調の関係となり、DかD#かの違い以外は殆ど同じ調である。サビでは短3度下のメジャーキー、つまり平行調の同主調に移るという同じパターンの転調を両曲とも行っている。
これは「パプリカ」と「カイト」は同じ世界観にあり同じ事象を取り扱っているとみていいのではないだろうか。「パプリカ」も先人から思いを受け取ることや後進に託していくことについて語った曲であり、幼少期のシンボルとしてAやEのキーが設定されそこからの成長として短3度下への転調があると。
そう考えれば「パプリカ」内でミステリアスな”誰か”や”あなた”の存在、また”パプリカ”という言葉の意味も合点がいく。「カイト」の世界に照らし合わせればこの”あなた”は自分たちが進む道を作り上げたこれまでの先人たちや自分たちが歩む先の未来にいる自分自身のことだと見なすことができる。
パプリカとピーマンには明確な違いはない。ただ主観的に派手な色味であることや比較的甘味があること等で区別されている。ピーマンが実像の象徴とすれば、パプリカは子どもが憧れる華やかな夢のようなものなのだ。そしてパプリカの花言葉は「同情」「憐み」「君を忘れない」である。僕の解釈では”パプリカ”もまた子どもや次世代を見守りかつて子どもだった自分に郷愁を寄せる歌である。
よって「パプリカ」はサビにおいて、”花が咲いたら”つまり夢が叶えばその立場で私欲を満たすような「実になる期間」をすっ飛ばして後進育成のために種を蒔くことを誓い、自分の描いた夢が自分が憧れた上の世代に伝わっていてほしいと願っている。
「カイト」が下世代への決意を固める歌であれば「パプリカ」は上世代に向けた誓いを告げている。
「パプリカ」の”会いに行くよ”から始まるCメロは、憧れの先人がいる「カイトの先」の次元まで自分もたどり着いてみせるという宣誓なのだ。そして「パプリカ」の宣誓に対し「カイト」は”君の夢よ叶えと願う”と励ましのアンサーを告げている。
これに加えて5人組の子役集団であるFoorinと、ローティーンから20年以上活動を続ける5人で構成される嵐という、歌い手自身の対比や世代間の違いにも意識して両曲が制作されたとまでいうのははたして考えすぎだろうか。
「カイト」という曲は「パプリカ」の続編であり無邪気に夢を語っていた子どものその後を捉えた曲なのだと思う。荒れ狂う嵐のなかで傷つくことがあっても、かつての空を見上げていた自分のように下から羨望の眼差しを向ける子どものためにメッセージを発信し続ける姿を描写し、「パプリカ」から託された”らるらりら”がしっかり自分たちに届き溢れ出していると返答している。
そしてそんな自分を見守ってくれた親の様な存在や友人や”あなた”が投げかけてくれた思いは不変で誰でもそこに甘えたっていいと働きづめの同世代も励ます。
様々な期待を抱え自分を追い込みながら高みを目指すトップアスリートや人気絶頂のアイドルが抱えるドラマテックな感傷のみならず、信条のもと日々頑張る人々や未来に向かって前進する若者なら誰でも共感できる叙情が「カイト」にはある。
この物語は徳島の実家から独立しニコニコ動画からトップクリエイターへと様々な場面や人々を経ながら飛躍していった米津玄師自身にも当てはまる。
ジャニーズではデビュー以前で持ち歌のないJrメンバーがコンサートやテレビ番組で歌唱する場合披露されるのはもっぱら先輩の曲だ。このレパートリーには今は活動していないグループや退所した者の曲も含まれる。歌い継ぐことをテーマにした「カイト」をジャニーズJrが歌うときそこには確実に嵐のメンバーの幻影が守護霊のように現れる。この先何があろうとジャニーズが存在する限り嵐という存在が薄れていくことはないのだ。
オリンピックというドラマに加えるエッセンスや嵐というアイドルグループのメモリアル的な意味合いをしっかりクリアしながら、普遍的な人間の感情を見事に描写しただけでもとてつもないが、それでもなお米津玄師が作家性は微塵も薄らいでいないことでその才能の大きさを再確認させられた。ただの合唱向けのバラードとして割り切れないエッジがこの曲には確かにあって、そういう細やかなセンスが米津玄師足らしめているのだなと唸ってしまった。そしてそれだけの才能の上に立ちながらこの曲を自分のものにしている嵐のタレント性にも感心してしまった。
この記事は最低な性的搾取観点でのルッキズム万歳の記事であります。
性的搾取に反対のフェミニストやルッキズム否定派はこの記事を読むべき対象者でありません。
その上で文句を言ってきたらただのクソリプマンとして無視します。
Twitterでフォロワー数が多い女性コスプレイヤーを有名コスプレイヤーとして性的に興奮できるかどうかの度合いを採点します。
なぜこんなことを考えたのかというと最近コスプレイヤーが雑誌のグラビア枠に出てくることが多くなっており青臭い童貞の股間を熱くさせたかつてのグラビアアイドルと比肩する存在なのかを確認するためである。
つまりAKBや坂道系にグラビアページを取られて絶滅寸前まで行ったグラビアアイドルの進化系がコスプレイヤーなのかどうか私の股間の熱度で採点し検証したい。
https://tsusshiiblog.com/yuumei_kosupure_rannkingu
性的興奮度★★☆☆☆
可愛くて美人で先駆者という意味で大変リスペクトすべきコスプレイヤーではある。
巨乳であるしスタイルもあるのだが股間はいまいち反応しきれない。
グラビアアイドルというよりはコスプレに対する純度が高くエロ度が低い。
グラビアアイドルの進化系というよりは大成した純度の高いコスプレイヤーというところ。
童顔だがアラサーになっており、そろそろ年齢的にいろいろきつくなりはじめる円熟期。
顔が童顔で個性的なため似合うコスプレと似合わないコスプレの差があり、似合うコスプレを選べてない様子もある。
自家発電用には不向き。
性的興奮度★★★★★
急上昇中のコスプレイヤー。
AKB柏木由紀が若くなってコスプレイヤーになったような存在。
8年前から活動しており年齢は非公開。でも3サイズは公開している。バスト90cm。
とびきりの美人ではないが親しみやすいルックスに反則なナイスボディで股間を熱くさせてくる。
自分がエロい存在だということを自覚しており、下品にならない程度にあざといエロさをPRする能力がある。
自家発電用に向いている。
性的興奮度★★★★☆
急上昇中のコスプレイヤー。
コスプレイヤーというよりはモデル寄りのグラビアアイドルのような活動が多い。
自家発電用に向いている。
性的興奮度★★★☆☆
個人的にはぽっちゃりはあまり好みではないのでストライクゾーンに入ってないボール判定。
会社の元同僚によく似ており、本人ではないのかと疑っている。
年齢は非公開だが、10年前から活動している関係で最低でもアラサーの領域になる。(多分アラフォーだと思う)
グラビアアイドルらしい体型や露出をしておりエロさもある。ボール判定で股間は反応しないが。
合ってる人には自家発電用に向いている。
性的興奮度★★☆☆☆
コスプレよりもモデルやグラビアアイドルの活動が最近は目立つ。
童貞は股間反応してエロいと感じるかもしれないが、割とよく見る顔立ちなのでエロさの希少価値が低い。
年齢は特に公表していないようだが現役大学生なようなのでそれぐらいの年齢のようだ。
ナイスバディだが男の股間を殺すポージングができない。やや下手。それゆえかエロさも弱い。
性的興奮度★☆☆☆☆
年齢は公表しており26歳。
エロや露出は控えめで、えなこよりはまだ自分にあっているコスプレを選べている面あり。
自家発電用に向いてない。
性的興奮度★★★★☆
コスプレというよりはエロに振り切れている系統。股間にはビンビン来る。
褐色お姉様系なので性的にどうかの好き嫌いはやや分かれるタイプ。
合ってる人には自家発電用に大変向いている。
性的興奮度☆☆☆☆☆
最近はあまりコスプレしておらず、水着などの露出も減っている。
モデル方向に転進か。
当然股間には反応しない。
コスプレイヤーにもグラビアアイドルの範疇にも入らなくなっている。
自家発電用に向いてない。
性的興奮度★★☆☆☆
ちょっと特徴のある顔立ち。
多方面に活動しておりコスプレもグラビアもなくはないがなんとなく中途半端なマルチな方向に進んでいる。
エロい衣装や露出はするがエロいポージングはあまり取らずエロ度でも中途半端。
合ってる人には自家発電用に向いている。
性的興奮度★★☆☆☆
シュッとしたシャープなタイプの顔立ち。希少価値のある個性はある。
エロ度はほとんどないためストライクゾーンに入ってる人の股間にだけ反応する。
合ってる人には自家発電用に向いている。
性的興奮度★☆☆☆☆
コスプレの純度が高くエロやグラビアはほとんどしていない。モデルの活動が目立つ。
自家発電用に向いてない。
性的興奮度★☆☆☆☆
やや童顔系統の顔立ち。
コスプレの頻度は多い。
合ってる人には自家発電用に向いている。
性的興奮度★☆☆☆☆
童顔系統。
チラリズム派。エロい衣装やポージングはしないがチラリズムのこだわりが見られる。
自家発電用に向いてない。
ここから先はフォロワー10万人台のコスプレイヤーとなるため割愛する。似たような系統が多い。
思ったよりも女性の有名コスプレイヤーは性的にムラムラさせる存在が少なかった。
坂道系などアイドルやモデル路線に進みたいというコスプレイヤーが多いのかもしれない。
グラビアアイドルの現代版進化系が有名女性コスプレイヤーなのかと思っていたが調査の結果それは間違ったイメージだというのが分かった。
あくまでエロ路線で股間を熱く刺激させるコスプレイヤーが一部いるだけであり、メインストリームとは言い難い実態だった。
したがって股間を熱くさせる存在を求めるならばグラビアアイドルやAV女優が今も優れているようだ。
また有名コスプレイヤーとしてフォロワー数40万人の壁を超えるにはエロ度やグラビアがどうも必要なようだという傾向があった。
https://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/201202a/amp?__twitter_impression=true&s=09
この記事を読んで書いたものです。この記事自体に価値が無いのでこのエントリも価値がありません。
読み終えて、鼻で笑ってしまった。薄情者、と自分で書いているが全くもってその通りである。わたしはこの記事で取り上げられているオンエア!のユーザーで、少なくともこの記事の筆者よりは入れ込んでやり込んでいたと自負できる。もちろん、わたしが一番やり込んでいたとも言えないが。上には上がいるものである。推しのイベントでも最高で12位とかだったし。
さて、記事の内容に触れよう。
>>「 「『オンエア!』はいいゲームだったかもしれないけど、ソシャゲっていつか終わるものでしょ?」と思うかもしれない。けれどちょっと待って欲しい。今回の場合は、単なるサービス終了では済ませられない事情がある。
というのも、『オンエア!』はおそらく、当初の構想を消化しきらないまま、サービスを終了してしまったのである。」
別にオンエア!に限った話じゃないだろ、コレ。わたしが昔やってたソシャゲだってメインストーリーの更新が突然途切れ、1ヶ月以上放置された挙句にサ終が発表された。その間にあったキャラクターのバースデーイベントは当然開催されず、嘆かれながらも諦めと共にそのゲームは終わりを迎えた。(ちなみにこのゲームはクラウドファンディング企画が成功し、小説でのメインストーリー完結が達成されているが話が逸れるので割愛する。)(Twitterのフォロワーに読まれたら多分誰が書いているか一目瞭然な気がするが気付かない振りをしてくれ)
そんな訳で、別に珍しい話じゃ無いだろう。っていうか二部フラグはどう考えてもジェムのくだりじゃなくて「貴方の大切なものを頂きに参ります」の方だと思うんだがメインストちゃんと読んだか?ジェム云々は天音ひかり(※主人公、プレイヤーキャラクターのデフォルトネーム)が評価されている表現だと思うぞ。
>>「サービス終了が告知される約半年くらい前から、『オンエア!』にほとんどログインしていなかったのだ。」
よくまあそれで悲しい悲しいと騒げたな、と思った。オンエア!に対する気持ちはその程度だったんじゃないのか。わたしは推しが来れば課金し、各イベントを楽しみ、大型アップデートを心待ちにし、アップデートのためのメンテナンスによってログイン出来ない1週間ほどを嘆き、毎日毎日今か今かと待ちわびて、アプデによって追加されたメインストーリーの裏側を描くサイドストーリーも、批判の多さから修正されたメインストーリー自体も楽しんで読み、天音ひかりに向けたクソデカ感情が報われた(ここの評価は賛否両論だと思う)事実に胸を撫で下ろし、オンエア!をめいっぱい楽しんでいた。冒頭に書いた最高12位もアプデ後に取った順位である。なので、
>>「あの時もっと遊んでいれば……、せめて毎日ログインくらいしていれば……、というのは思い上がりかもしれないが、それでも実行していれば、今の私の心中を渦巻く複雑な感情は、少しでも軽くなっていたかもしれない。」
などと言われても鼻で笑うしかない。オンエア!をめいっぱい楽しんだわたしの悲しみより、オンエア!から離れていたこの筆者の悲しみの方が深い訳が無いだろう。
>>「いや、本当は薄々気が付いてはいるものの、現実から目を逸らしているだけなのかもしれない。いつまで経ってもRT数の増えない告知ツイートや、少しずつ長くなっていくイベントとイベントの隙間期間。運営からのSOSは、そんな形で確かに発されていたはずなのだ。
『オンエア!』の場合、筆者は作品から離れていたため、そのシグナルを見逃してしまった。などといっても、まあ、言い訳にしからないのだろう。」
わたしがお花畑なオタクだったからかもしれないが、それは無い。2周年を目前にして特設サイトをオープンし、池袋でのポップアップストアを控え、サンリオとのコラボグッズの販売まで告知してからのサ終発表だったんでそれは無い。もっと言うならアプデ後はファンがざわつくほど隙間期間が一瞬になっていたし、その後期間が空いたのはコロナによって収録が出来なくなり、どうするかの判断を決めかねていたからじゃないかと思う。それ以前から、Twitterで「オンエア」と検索しようとするとサジェストに「サ終」とか出るような状況ではあったしそれを知ってもいたけれど、それでもグッズはどんどん出てもちころりんの告知も出ていよいよ2周年で、終わるような空気は公式からは感じられなかった。サジェストだってソシャゲのサ終ラッシュで話題に上がってるんだと思っていた。(どうでもいいがもちころりんの他ユニットは発売されるんですか?)あと、前々から告知されていた声優アワードのイベントが終わった直後のサ終発表だったので、「露骨にサ終しますって空気出してるソシャゲでそんなのやってもなあ」という雰囲気が感じ取れて嫌だった……というわたし個人の感想はどうでもよく、おそらくそんな背景事情もあって、露骨なSOSは感じられなかったのだ。少なくともわたしには。まあ離れてたお前さんには分かんなかっただろうけども。
ちなみにサ終が発表されてすぐの、セルランサイトのアカウントではこんなツイートもあった。
https://twitter.com/game_idaa/status/1289134699869122560?s=19
もちろんこのツイートを鵜呑みにすることは出来ないししてない。そもそもの情報だってどんぶり勘定だとbioに書いてある。ただ、こういう風に言われる程度の売上だった、ということだ。
こんなところか。最後にひとつ、「煌めきの船上パーティー」なんてイベントはねえ。おそらく 「解決!ミステリアスクルーズ」のことを言ってるんだろうが。それじゃあなクソ175 せいぜいまほやくツイステあんスタえふごを楽しんでくれ
・銀髪率が高い
・はじめのうちは内面の掘り下げなどがないためキャラが掴めず、「容姿だけは好み」というパターンに陥る
・公式が少しでも人気になってもらおうと「人間味」を演出しようとした結果、ただのギャップ萌えキャラに成り下がる(料理が下手、可愛いものが好きなど)
※(ミステリアスキャラに限らず、キャッチーさを意識してギャップ萌えに走る方向性は多い。「会社ではデキる女上司だが、生活スキルはほぼない(料理下手だったり部屋が汚かったり)」もわりとあちがち)
・ユーザー側からもミステリアスさよりギャップ萌え部分ばかり注目され、ネタキャラとしての扱いが中心となっていく
※(二次創作だと「周りは容姿に惚れているが、本人は真顔orキメ顔で俗っぽいことを考えている」という類のネタが特に多い)
・やがて「そっちのほうが動かしやすい」ことに気付いた公式もギャップ萌えキャラとして通すようになっていく
・そしてユーザー側からは次第に「そういうキャラ」としての認識が定着していく
・結果「ミステリアス」属性は完全に死に絶え、別物のキャラに変質する
他にもありそうだけど、なんかミステリアスキャラどうこうより「陳腐なギャップ萌えを描くとこうなる」みたいになってしまった。
勿論タイトルは釣りで、カフカは全世界に影響を与えたユダヤ人かつオーストリア(チェコ)人なわけですけど。
独文学というとカフカ、カフカというと独文学。そんな感じですよね、実際のところ独(語)文学においてはトーマス・マンとかゲーテとか他にも様々な著名な作家がいるわけですけれど、カフカはその研究テーマとしては比較的ポピュラーな御仁であります。ユダヤ人の家庭に生まれ、生地である現在のチェコ=プラハの言語に依らずドイツ語にて創作を目指したカフカの、ミステリアスな人間性はその作品群に対しても同様に、謎めいたベールを投げ掛けています。
カフカの文学をお読みになられたことはございますでしょうか。まあ僕もそれほど熱心な読者とは言えないかもしれないのですが、とりあえず『変身』・『城』・『審判』のほか幾つか著名な短編を読ませて頂きました。まあカフカの作品の特徴は、感情的な部分を敢えて抑制するところにあります。勿論十分に感傷的な部分を持った短編とかも散見されるのですが、基本的に、感情の伝達、あるいはその伝達の手段としての文学というものをカフカはあまり信頼していなかったのではないかとも思われるのです。というのは、基本的に作中人物達は様々な問題に取り囲まれていることが多いのですが、弱音を吐くことがあまりなく、ついでに言えば仮にその感情というものが滲み出るにしても、基本的にそれはレトリックや暗喩といった形によって示されるので、はっきりとした感情というものが作中に表れるということは稀なんですね。この辺に、カフカの抑制的な人格と、コミュニケーションそれ自体に対するカフカの立場というものが表れているように思われます。カフカは基本的にコミュニケーションというものを信用しておらず、また、コミュニケーションを通して自分自身の人生をくつろげるものに変える努力に関しても、冷ややかな見方をしてきたように思われるのです。
コミュニケーションという営みは人間と基本的に切り離せないもので、人間はそれを用いて自分の人生や他人の人生をコントロールしようとします。しかし、そのような一般的なコミュニケーションの立場と、カフカのコミュニケーションに対する立場は明らかに違うように思われます。とはいえ、カフカの立たされていた環境を考えれば、我々が用いるようなコミュニケーションのあり方と、カフカにおけるコミュニケーションのあり方との乖離は、さして驚くべきものではないでしょう。
つまり、カフカはユダヤ人でありかつオーストリア人でありかつチェコ人と呼べる極めて国家や国民性というアイデンティティが複雑に錯綜した人物であったからです。これはカフカ研究においては極めて一般的な基礎知識ですが、カフカは現在のチェコに当たる地域で生まれたにも関わらず、その日常においてはチェコの土着言語を用いずにドイツ語を用いました。また、当然のことながら創作においてもドイツ語を用いておりました。チェコで生まれながらにしてチェコ語を使うことを許されない――つまり、カフカは自身の持つ言語によってさえ一種の疎外を受けていたと言えるわけです。超基本です。
カフカにとってコミュニケーションとは――なかんづく、コミュニケーションを根本的に支える言語というものは――自身の人生をリラックスさせ、他者との間に健全なコミュニケーションを成立させる、我々における言語のあり方とは少しばかり違うものだったということです。カフカは生まれながらにして一種の異邦人であった、ということですね。この「異邦人」という記述はもはや陳腐な言い方なのでしょうが、しかしやはりこの視点はカフカを理解する上では切っても切れない重要な点となります。カフカはそのアイデンティティの複雑さ故に、生粋の異邦人でありましたし、そして彼が用いる言語やレトリックは基本的に、一種の生存戦略だったのです。要は、植民地支配を受けた国家の国民が土着言語を用いず宗主国の言語を用いるのに近い、生存戦略の一環として言語を用いる生活を送ることが、彼の人生においては定められていたのです。我々にとって言語と人格は複雑に結びつき、そして、自身の人格や感情を表す際に、極めて重要な役割を演じます。恐らく、この世界におけるほぼ100%近い人類が、言語に対してそれと同じ感覚を抱いていることでしょう。しかしカフカにおいてはそれは事実ではありません。
カフカの作品群において、カフカは言葉によって感情を語ることはありません。カフカが語る感情は、物語の構成に依存しているか、ないしは物語中における舞台装置によって、つまりは暗喩によってのみ語られることとなります。その、感情表現の大いなる欠落が、カフカの文章における特徴ですらあるのです。あるいは、それは仏教における「見立て」の感覚に近いかもしれません。つまりは、一種の擬似的な曼荼羅と言いましょうか、物事や物質をある特定の配置に並べ変えることで、何らかの物質を超えたメッセージを贈ろうとする試み。枯山水が現実の自然を表すように、カフカはある種の機械や道具立てによってのみ自身の感情を説明しようとし、翻って言うならば、カフカは直接的な表現によって感情を説明しようとなどしなかったのです。感情の欠落。
この「感情の欠落」が文学の特徴であることは明らかにカフカが作り上げた文学の一潮流と言えると思います。後年の作家であるトーマス・マンの文学においても、感情や内省と言うべき人間の心のあり方が、敢えて描かれない抑制的な文体の影を見ることができるように思われます。感情とはなんなのでしょうか? コミュニケーションや言語は、我々にとって慰めと言えるものなのでしょうか? カフカはそれに対して否と答えます。言語は、必ずしも我々に結びついていない。同時に、言語を基底として成り立っているコミュニケーションもまた、我々に属していない。我々は、根本的に言語によってコミュニケーションを取ることができない。
しかしそのコミュニケーションへの失望が結論ではないのです。何故ならカフカは、コミュニケーションに失望をしていてさえなお、小説をものしたのですから。
何故カフカは文学を書いたのでしょうか? 文学は自己表現である、という一般的な見方と、カフカの文学的なあり方には乖離があるように思えてなりません。カフカにおいては寧ろ、文学は自己から自己への感情の乖離です。いわば自己の自己に対する乖離そのものです。
そのような営みは、恐らくカフカの人間性に淀みを与えているようにさえ思えます。自己の自己に対する分離、乖離を通して、恐らく彼の感情も一部彼から乖離し、分離していたからです。そのような営みが、彼にとって一体何だったのか? それは我々には想像するほかありません。短絡的に考えれば、その営みは、その乖離と分離の営みは、単純な自己破壊的行為であったと断じれるかもしれません。自己から自己を分離し、乖離させることは、明らかに自己にとって好影響を及ぼす行為ではないからです。とは言え、彼の行為は本当にその自己破壊を目的にしていたのでしょうか? あるいは、世の人々が芸術家や小説家に対してしばしば言うように、彼は文学というものを用いて、彼の生命と生活の痕跡を世界に残そうとしたのでしょうか? それも、疑わしいと僕には思われます。つまり、カフカの文学はコミュニケーションに対する諦観なのですから。そこには、コミュニケーションや言語に対する深い諦めの影の姿を見て取るほかないのです。
結論から言えば、カフカが文章を書いていたのは、恐らく乖離を目的とした、逃避行動だったと言えるでしょう。そして同時に、彼は自己から自己を乖離させることによって、一般論的に自己省察を深めようとしたのでしょう。敢えて、自己から自己を分離させることによって、自己を省察可能な対象として対置する行為が、彼の文学の目的の一部だったと言えるでしょう。
このような記述は文学における一般論の範疇を出たものではなく、彼の人生や文学の目的は未だもって謎に包まれています。カフカに限らず、一部の文学者は、そして小説家は、コミュニケーションの媒体である文字や言語を用いながらに、コミュニケーションを諦めているのであり、つまりは何かを伝えようとしながらに、我々に対して何も伝えようとなどしていないのです。あるいは、最終的には彼らのような小説家の目的は、一言によって表せられるのかもしれません。
言葉では「嫌じゃない」って言われるんだけど、実際にしようとすると手でガードされる。
嫌じゃないことを再度確認の上で、胸とか触っても「くすぐったい」と言って嫌がる。実際に笑ってるからそれはある意味で本当なんだろう。
もちろん濡れないし、そうこうしてると、もう寝るねって言って自分の部屋に行ってしまう。
まだ結婚して一年も経ってないのに、セックスに誘うのが怖くなってきた。結婚してまだ一度しかしてない。
言葉では好きだなんだ言ってくれるけど、すごく空虚だ。普段の生活ではお互いに慈しみあってる感があるんだけど、この一点だけが辛い。
「その欲がないのに誘われる」のも辛いと思うし、自分ばっかり求めてるのって恥ずかしさもある。だから、誘うときも本当はその時にしたいのに、「今度しようね」とか、逃げ腰の誘い方になっている。相手が拒否しやすいように、かつ、自分が今否定されないように、という欺瞞だ。しんどい。
巷のセックスレス解消法は、「トキメキ要因」を作るだの、「ミステリアスな女を演じる」だの、不安感を煽るようなものばっかり。そういうの正直、嫌だと思う。そんなの恋人だったときでもう沢山だって思う。夫婦になってまでそんなことしたくないと言うのが正直な気持ち。だって不貞行為はもう許されないわけだ……お互いに。そういう覚悟があるから結婚したっていう気持ちがある。
こういう鬱屈した理想と現実とのギャップが行き過ぎると認知的不協和を起こして女叩きとかに走ってしまいそう。ネットでよく見る夫叩き、嫁叩きなんてくだらないって思ってたのに、そういうくだらないものになりつつある。
辛いなぁ……