はてなキーワード: 非リア充とは
ネットで自分より上手い絵とかギタープレイを観てウツになるわけだけど、
山田玲司、Bバージンの頃は面白かったけど、環境運動とか始めてからつまらなくなって、
今はYouTubeで流してる動画いくつか観てクソだと思ったけど、
自己肯定感が低い奴は、端的に言えば自分はクソだからできなくて仕方がないよね、みたいに逃げてる、というのは本当だと思うし、
根本的にたどっていけば自分軸がないから、なぜ人間は生きるのか、人生の意味とは何かにたどりつく問題なんだよな
自己肯定感を低くすることで、結局は面倒事とか、本質的な問題とか、努力から逃げてるわけだし、
フリーレン評とかは頓珍漢で、一緒に出演してる氷河期世代のフリーレン大好きな奴が言ってることの方が正しいと思ったけど
自分はフリーレン刺さらなかったけど、山田玲司の、これってつまりヴァンパイアモノだよね、ぐらいしか同意できるところがない
あとは氷河期世代の奴の方が、流石フリーレン刺さった人間だからだろうけど、言ってることがまともだったな
自己肯定感が低い人間に他人は近寄ろうとはしないし、結局ぼっちになる
だけど、ぼっちちゃんの救われているところは、ギターが天才的にうまいというところ、あれが自分軸にかろうじてなってる
そういえば、イングヴェイ目指す人って意外と少ない、みたいなのをYouTubeでも観たけど、
あまりに別格とか、バケットヘッドだっけ?ケンタッキーのバケツ被ってギター弾く人、あれとかも自分には圧倒的に無理だと思わせた人だったけど、
滅茶苦茶すごい人を観ると、自分にふたをしてしまうというか、あそこまで上手くなくても俺は十分だから、みたいになっちゃうんだよな
でも、速弾きだけが能力ではないし、ブルースとか逆に音を詰めてはいけない、いかに間を空けるか、音を減らすか、みたいになるわけで、
あと、速弾きは女性に意外とモテない、攻撃的なフレーズはモテない、甘いフレーズを弾くべきみたいだし、
まあ、モテるかどうか、他人の評価だけを自己肯定感の拠り所にするのは危険なわけだけど、
結局は、自分が駄目であっても構わない、俺は俺、これでいいのだ、と思うことで自分を律するしかないのだな、と思いました
いずれにせよ、他人の評価をあてにする、他人と比較する、という自己肯定感は崩壊しやすいんだよね
人間いつか老人になるし、病気にもなるし、そうなると若い世代とか、健常者に、どうやったって負けることになるわけで、
そうすると一気に自己肯定感が崩壊するし、そうなると努力を放棄してしまう、努力を放棄すれば尚更能力は下がり自己肯定感が減る、の繰り返しなわけで、
最終的には、俺の絵はこれでいい、俺の音はこれでいい、に到達するのが目標だと思うんだよな
ただ、この辺って逆に理系の方が不利になるんだよな
数値的にジャッジがしっかりしてるってのは、俺はピカソみたいな絵を描けばいいとか、そういうアートの世界と違うわけで、
アートは負け惜しみ?というか、俺は俺だから、みたいなのが通じるし、運が良ければそれで一発逆転もありうるんだけど、
理系というか、スポーツなんかもそうだけど、数値で完全にジャッジされる世界だと自己肯定感は保ちにくい
俺はこの方向に勝機を感じてるから、俺はこの方向性が好きだから、みたいに研究してても、それだけでは生きていけないくなる日が来るだろうし、
その点で考えるなら、絵とか音の方が基本は自由な世界なわけで、他人に認められなくても続けることは可能なわけだし
ぶっちゃけ、ジミヘンとか、上手いとか下手とかでジャッジできるプレイじゃないんだよね
あれも下手っていうこともできるし、奇才レベルで上手いとも言えるわけで
まあでも、結局どういうギタリストがモテるのかみたいな議論のYouTube観たけど、結論が顔とかルックスってのは正しい気がする
バス江の森田枠の俺がどんなに上手かったとしてもモテないと思うし
ぼっちざろっくで、音楽なら陰キャでもチャンスがあるみたいに言ってたけど、実際売れてるのって陽キャか陽キャの下だよね、どう考えても
昔はさーオカマをネタにしたり何なら敵キャラにしたりしてたじゃん。
名前がさ「非理谷充(ひりやみつる)」って言うんだけどさ、これ非リア充から来てんじゃん
しかも設定がさ
黒い光を浴び、暗黒のエスパーとなった男の名は非ひ理り谷や 充みつる。バイトは上手くいかず、推しのアイドルは結婚、さらには暴行犯に間違われ警察に追われていた彼は、力を手に入れたことでこの世界への復讐を誓う。
公式サイトより
あのさぁ。なんつーか踊る大捜査線イズムを感じるんだよな。
特に3作目とかさ、犯人が当時問題になってた派遣社員(とネットオタク)だったのね。
わからんじゃないよ。鬱屈とした弱者が間違った爆発をして犯罪を犯しちゃう。あるよ。
だけどさ、鬱屈としてんのはそいつらのせいなの?って思っちゃうわけ。
そりゃ自己責任、努力不足って言えばそうだけどさ、椅子取りゲームに負けた弱者なわけじゃん。
その弱者をさらにいじめて何が楽しいんって俺は思ってしまうわ。
表現してることは「男は全員、潜在的な強姦魔」とそう変わらんと思うんだよな。
弱者男性がエスパー能力持ったら世界を滅ぼしちゃうんでしょwみたいな。
まぁ脚本上、どうせエスパー能力を与えて洗脳してる第三者がいて~みたいな展開で
非リア充にもクソどうでもいい救い()が与えられるんだろうけど。
いやほっとけよ。てめーらのその金臭い手で触ってくんな。
優勝 【悲報】青二才が岡田育に喧嘩を売るが軽くあしらわれ自滅する
https://anond.hatelabo.jp/20140704171301
人間はここまで情けないムーブができるのかという限界に挑んだ作品。全会一致で一位。
2位 いわゆる「みんなが大好き」が好きになれない
https://tm2501.com/entry/2015/04/30/193000
一行目のインパクトが凄くていまだに時々語りたくなる。二行目以降は読む価値がないという意味でもすごい。
3位 「娘の友達」というマンガが女子高生の皮を被った天使でおっさんを救済していく話でパない
https://togetter.com/li/1403314
読解力がないオタクの語るオタク語りはもはや完全に別作品になっていてたまに原作の面白さを越えることがある。その実例。作者にこの感想をぜひ読んでほしい。
4位 はてブオフに行ってきたけど…準強姦に加担させられた気分で不愉快でした
https://tm2501.com/entry/2014/07/13/130323
非リア充がリア充のサプライズ告白イベントに参加させられてムカつく、だったら共感を得られたのに「準強姦」と言い出してひんしゅくを買うその言語センスが凄い。俺が言われたら即名誉棄損で内容証明送る。およそ常人には到達しえない圧倒的な非モテ具合。普通の人間がこんなことを言ってたら「もうここで終わってもよい」という覚悟を感じるが本人は深く考えずにノリでこのワードをチョイスしているのがすごみを増している。
5位 野球の素振りの帰りに、警官20人と酔っぱらいに囲まれた話
https://togetter.com/li/1630899
一昨日スペースで友達とだべってたら5年ぶりくらいに青二才の話題が出てきた。青二才の書いてた記事で一番好きなやつ紹介しようぜって話になった。 俺の知らない記事の話も聞けてすごく有意義だった。
「ぼっち・ざ・ろっく!」、通称「墓石」が、アニメ作品としてヒットすれば、まんがタイムきららは危ない。ヒットしなくても危ない。
当たり前のように使われてるが、どう考えても良い言葉ではない。胸を張って「私は陰キャだ」と言える人なんて居ない。ネット上(に限らないが)で「陰キャ」という言葉が出たとき、その言葉を言われた対象が賞賛の的になっていることは皆無と言っていい。明らかに「陽キャ」こそ上位の存在だと見做している。「陰キャ」であることを短所と見做すしかなくなっている。「ぼっち・ざ・ろっく!」の主人公を見て、名誉ある人物だと思う人はいない。そういう風にこの主人公は作られている。
昔は「リア充」「非リア充」という言葉がよく使われていた。ネット民である「俺」や「お前ら」は、まず「非リア充」の方に位置していた。しかし昔のネット民は「リア充爆発しろ」だのと攻撃的な姿勢でいた。それは冗談でもあり虚勢でもあったが、俺達こそ素晴らしいのだという感覚を得ることができた。「非リア充」であることに誇りをもっていたと言ってよい。またリアルでの充実というのは、恋人の有無に限らないことであって、趣味に熱中することができるならそれもリアルでの充実と言えた。「陽/陰キャ」という言葉の場合、現実が楽しいかという次元の話ではない。ただ人間性について判断しているのであって、いくらネットで面白いことができても、趣味に熱中したところで、「陰キャ」と言われれば「陽キャ」には勝てない。現に「リア充爆発しろ」に相当する言葉をまとに見たことがない。
「陰キャ」という言葉は、かつてインターネッツではほとんど使われていなかった。しかし2015年前後から急速に当たり前の語彙となった。この言葉はインターネッツ発祥の言葉ではないだろう。しかし今、こうして当たり前の言葉となった原因はネット民に、ネット掲示板にある。それはなんでも実況Jが2ちゃんねるの都となってからのことだ。その時期といえば、とある炎上に関わった弁護士が大いに叩かれていた。かつてのネット民の意識であれば、「俺達は弁護士よりも上」だと言っていただろう。しかしいつしか、「弁護士は俺達よりも下」になっていた。
そもそも人間の性質を二つに分けることは乱暴なことだ。世の中に、完全に「陰キャ」でしかない人はほぼ存在しない。完全に「陽キャ」でしかない人もいない。人間には必ず陰と陽とがある。5対5のように、両方のバランスによって成り立っている。そのバランスは時と場合によって3対7や1対9のように変化していく。誰を相手にしているか、どの場所にいるかによっても変わる。本人の気分によっても変わる。学校では無口でも家では饒舌なら、それだって本人の「陽」の側面が強まっていることになる。ネットでは強気になれるなら、それも「陽」と言っていい。ただし、そんな時にも「陰」の面はある。また、自分では「陽キャ」だと思っていても、他人からは「陰キャ」だと思われていることもある。自他の認識によって、人間の性質は変わる。
我々は、「陰キャ」という言葉を見たとき、「陰キャ」と呼ばれる人を見たとき、絶対に自分の中にある「陰キャ」の側面を実感している。全員が共感できるから、「陰キャ」という言葉はここまで当たり前の言葉になっている。「陰キャ」という言葉が捉える範囲があまりに拡がりすぎている。使う人のさじ加減によっても変わってくる。
人が自分や他人を判断する材料が、「陰キャ」か「陽キャ」かしかないとは、短絡的なものだ。我々の人を見る目は蒙昧で貧弱なものになってしまう。
現在まんがタイムきららでは、「陰キャ」という言葉を全面に押し出している作品が三つある(正確にはその一つの連載は終了している)。「ぼっち・ざ・ろっく!」と「ななどなどなど」と「むすんで、つないで。」のことだ。いずれも主人公が「陰キャ」と言われたり自称したりしている。しかしこの主人公三人は、同じ「陰キャ」であるにもかかわらず、共通点がない。「陰キャ」である状態が異なっている。
「ぼっち・ざ・ろっく!」の主人公はまともに人と話すことができない。言葉を発すると緊張の度が過ぎて、たどたどしい滑稽な姿になる。
「ななどなどなど」の主人公は、問題なく人と会話が出来る。ただ、自尊心が強く、気高く、高圧的に人と接してしまうため、人との不和を起こす。そういう人間性から、この彼女は「陰キャ」と呼ばれた。
「むすんで、つないで。」の主人公は、自分のことを「陰キャ」だと思っているが、周囲からは憧れの的となっている。容姿端麗で、成績優秀だとして賞賛されている。間違っても「陰キャ」とは言われていない。このように、自己へ下す認識と、他人から与えられる認識に差異がある
「会話が困難な人」「会話は出来るが人格に問題がある」「会話もできるし人格も整っているが、その人自身は不安を消せないでいる」。これらは完全に別物であり、違った性格を持った人物の集まりだ。それなのにこの三人は、「陰キャ」だと一つにまとめられている。こうした乱暴な処理がなされた結果、「陰キャ」の意味は広く曖昧なものになった。
「まんがタイムきらら」の枠に留まらず、今や日本では、人間は「陰キャ」と「陽キャ」のどちらか二つに分類されるようになった。しかし人間はそこまで簡単に分類できるほど、単純に造られていない。漫画の登場人物ですら、多種多様な性格をもっている。繊細な性格によって表れ出ている人間の姿を、真っ二つに分けることなど、とうてい出来ない。出来るとすれば、相当に乱暴な作業と言うほかない。
ひどく曖昧な意味をもっている言葉を平然と使う。普通の人が日常会話でつい使ってしまうのならまだしも、漫画家という表現者が使うのはいかがなものか。使うのであれば、考えた上でやらなければならない。考えた上で使うことが出来ている作品は、「むすんで、つないで。」しかない。
こういう考えもあるかもしれない。「陰キャ」がもう当たり前の言葉となった以上は仕方がない。その言葉をあえて使うことで、読者の共感を得ることが容易になる。確かに「ぼっち・ざ・ろっく!」は、「陰キャ」という言葉によって、現代の我々の思考を写し取った作品になっている。しかし、それがまんがタイムきららにとって、いかに異質で危険なことか。それを考えなくてはならない。
一時期のまんがタイムきららは、多くの嘲弄を受けてきた。きららからアニメ化される作品は「日常系」と呼ばれ、「中身がない」だの「美少女動物園」だの散々言われていた。
そういった意見に間違いがないわけではないだろう。一つの正解であるとも言える。
しかし面白い作品のあり方はさまざまであってよい。劇的な物語がなければ、作品として成立しないなんてことはない。キャラクターが死ぬのを見れば、それは悲しいシーンとなる。涙を流すこともあるだろう。しかしその涙は、純粋な感動のためではなく、感動という暴力を受けて涙を流しているだけかもしれない。
何気ないことに心を動かされることがある。そのことを追求したのが、過去のまんがタイムきららだった。何気ない瞬間の美しさを、美少女キャラクターに託していたのだ。そのためには、細心の注意を払ってキャラクターをつくらなければならない。例外もあるとはいえ、人の死があるわけでもない、激越なバトルがあるわけでもない、何か大会で勝ち上がっていく過程もない。ただそこにはキャラクターがいる。読者の感性に訴えかけるキャラクターを描かなければならなかった。それがかつてのまんがタイムきららの様式だった。そうしてきららは、いくつもの作品を世に送り出してきて、少なからぬ成功を収めた。
そんなきららが、今では「陰キャ」「陽キャ」という、曖昧かつ極端な言葉にとらわれてキャラクターを作ろうとしている。これは創作の妥協であり、怠慢だ。きららが今まで築いてきたものを否定している。いわゆる「なろう系」や異世界転生もののように、圧倒的な成功を得られるならまだ良い。しかし「ぼっち・ざ・ろっく!」に圧倒的な成功や勝利や名誉の獲得はない。
きらら編集部は、人々の口に上ることの多い「陰キャ」という語を、訳もわからず商機と見做して漫画に取り入れたつもりなのだろう。しかし、この「陰キャ」という言葉は、近年の「インターネッツ」の売り物の一つなのだ。「陰キャ」の隣には「ショウガイジ」があり、「すき家でチーズ牛丼を注文する男性」も陳列されている。周囲を見渡せば大量の炎上コンテンツがある。「ゲイ向けのビデオ」があり、「大物YouTuber」もあり、「ネットに強い弁護士」もある。
きらら編集部がもし「ショウガイジ」を選択していたら、問題視されただろう。しかしさすがに、きらら編集部は「ショウガイジ」がまずい意味をもっていることを知っている。だから「陰キャ」を選んだというのか。特定の人種を差別しているわけではないと判断したためにか。「陰キャ」という語が、「ガイジ」と紙一重の意味合いと動機で使われていることをきらら編集部は知らないのか。知っていてやっているなら邪悪でしかない。知らないからといって、何でも認められるわけではない。「陰キャ」を使っていいのは、人の気も知らず、自分のことも顧みず、悪口でも何でも好き勝手使うネット民だけでよい。
まんがタイムきららの編集長は、「雑誌とは社会の公器であることを認識しなければならない」という教えを守っているのだという。「常に新しいことにチャレンジする」ために、「意識的に尖った作品を多く掲載するようにしている」側面があるのだという。その「尖った作品」の第一として挙げたのが、「ぼっち・ざ・ろっく!」だった。まんがタイムきららは、尖った作品を作るために、社会の公器であるために、ネット民の小競り合い、煽り合いを利用したということだ。
きららアニメは、今までニコニコ動画で散々「ゲイ向けビデオ」のコンテンツと共演させられてきた。きらら作品のキャラクターが「ガイジ」扱いされることも多かった。きららアニメの大元であるきらら編集部は、ついに自ら「インターネッツ」の汚れた部分に浸かることを決めた。しかも「社会の公器」であるから、「ガイジ」のような過激なものは使えず、なるべく穏当な「陰キャ」を手に取って、「インターネッツ」の人々と仲良くすることを選んだ。
編集長のインタビュー記事 https://www.mashiro-writer.com/interview-houbunsha70th
もし「ぼっち・ざ・ろっく!」がアニメとして成功すれば、今後も「陰キャ」「陽キャ」という観点でキャラクターが作られるだろう。人間の性質を無理にでも二極化して行くだろう。過去の伝統を振り捨てて。
もし「ぼっち・ざ・ろっく!」がアニメとして成功しなければ、新たに売れそうな漫画を作り出さなくてはならない。約五年前のように、一年に三つも四つもきらら出身のアニメが放送される時代は終わっている。過去に人気を博した作品も続々と完結している。現状のまんがタイムきららに見込みがありそうな漫画は数少ないと言ってよい。アニメ化が決定した「星屑テレパス」を含めれば、あと四つほどだろうか。「ぼっち・ざ・ろっく!」はきららの最終兵器とよく呼ばれている。最終兵器とはまるで後がないかのような言い回しだ。