はてなキーワード: 多面的とは
当事者の主張に耳を傾け、証拠に基づいて、中立・公平で公正な判断をすることが必要だと考えています。最高裁として判断すべき事件数の多さと事件の多様さに直面して、最高裁判事の使命の重大さを改めて痛感しています。
詰まるところ、中立・公平で公正な裁判を迅速に行うことが求められているのだと思います。結論に至る過程をできるだけ分かりやすく示すことも大切だと考えております。また、裁判所としては、情報発信をさらに進めていくことが望まれるように思います。
就任直後に関与したGPS捜査に関する大法廷判決が、刑事手続き法に関する近年の最も重要な判決の一つであるだけに強く印象に残っています。
注:令状のない全地球測位システム(GPS)捜査は違法とした大法廷判決(17年3月)
任命権者が判断すべき事項ですので、回答は差し控えさせていただきたいと思います。
憲法改正の是非などは国民が判断し、決めるべきことで、憲法を尊重し擁護する義務を負う立場にある者としては、回答を差し控えさせていただきたいと思います。
前項と同様の理由により、回答は差し控えさせていただきたいと思います。
私の考えは、当審に係属した具体的な事件について判断する中で示すべきものと考えております。
注:16年参院選の「1票の格差」を合憲とする多数意見(17年9月)
今後当審にも関係する事件が係属する可能性がありますので、回答は差し控えさせていただきたいと思います。
全体的に見れば、課題はあるものの、うまくいっているのではないかと考えておりますが、制度の運用上、裁判員の負担軽減に配慮することが必要だと思います。
判断の誤りを避けるため、様々な観点から証拠評価をしっかりと行い、手続きを適正に運用することが重要だと思います。
死刑の存廃などについては国民的な議論が大切だと思います。一般論としての回答は差し控えさせていただきます。
法改正に向けた法制審の審議には私も参加いたしました。改正法は現状を改善する方向に向けた重要な一歩だと考えております。今後、関係者がそれを適切に運用していくことが大切です。
私は最高裁判事就任前には法曹養成教育の一端に携わっており、様々な課題があることを痛感しておりました。関係者の地道な努力が実を結ぶことを願うばかりです。
裁判を行うという点では変わりがないと思いますが、両当事者の主張・立証をしっかりと踏まえた適切な判断を可能な限り迅速に行うことが大切だと思います。
課題は多いとは思いますが、利用者の利便性向上の観点から、手続きの電子化の導入に向けた検討が行われてよいと思います。
人生はうれしいこと、腹立たしいことの連続ですが、法科大学院教授時代の教え子から司法試験合格の報告が届いたことは最近うれしく感じたことの一つです。
趣味はウォーキングと読書(乱読です)。いままでに大変多くの人と出会い、その出会いを大切にするようにして参りました。特定した「尊敬する人物」の名前を挙げるのは難しいように思います。好きな言葉、座右の銘というほどのものはありませんが、研究者のときには、どのように小さなものを執筆する場合であっても、常に「全力投球」を心がけておりました。
多分野の書物を乱読するのが趣味ですので、特定の書名をあげることは難しいように思います。小説でいえば、人の生き方を描いたものに感動したり、歴史的な事件を題材にしたものをとくに面白いと感じたりしています。
誠実と共感を信条とし、意識的に多数の観点から見ることを心がけてきました。更に広い視野から見直しながら、バランスのとれた適正な判断ができるよう努めたいと考えます。個別事件の問題と法解釈の問題、更には社会的影響や将来にわたる問題などが混在している事件に接するとき、頭を悩ませることが多いです。
迅速さを含めた質の高い判断が期待されていると考えます。常に社会の進歩・変革に即していくとともに、安定感のある判断が求められているのではないでしょうか。最高裁においても、分かりやすい判決に留意したいと考えます。
外国人の親と子どもの退去強制処分事件、フィリピン人母の子どもたちの国籍事件、台湾ハンセン病訴訟、様々な会社更生事件など、多数の事件が心に残っております。子どもの人権や自立性の確保が難しい事件、あるいは、多数の人々の利害の調整が難しい事件が一番記憶に残るように思います。
憲法改正については、議論のもと、各国民が決めることであり、その解釈適用に当たっている裁判官が発言すべきではないと考えます。
憲法9条については、国民一人一人が考えていく問題であり、裁判官が一般的意見を述べるべきではないと考えます。
注:16年参院選の「1票の格差」を合憲とする多数意見(17年9月)
具体的事件にかかわる点については、意見を控えさせていただきます。ただ、一般論として言えば、裁判所は、法令に照らして厳密に検討しているものと考えます。
裁判員制度については、全体としては順調に進んでいると思います。ただ、迅速さを含めた適正な刑事司法の理想に向けて、一層の工夫や研究が欠かせないと考えます。
誤判はあってはならないことです。それを防ぐには、各裁判官が、客観的証拠を重視するという裁判の基本を再確認しながら、多面的に考え抜くことが重要と思います。
死刑制度の存廃などは、国民の意見により決められるべき立法の問題と考えます。
刑事司法改革関連法の影響などについては、最高裁判事として意見を言う立場にはありませんが、今後各制度の趣旨に沿った運用が積み重ねられていくものと考えております。
司法、ひいては法曹界は、専ら人によって支えられていますので、志の高い誠実な法曹候補者が増えていくことを願っております。
国をまたぐ争いであっても、スピード・費用・公正さに着目されるのは変わりません。また、裁判官が広い視野を持ち、必要な場合には専門家の助力も得られるよう、工夫を継続することが重要と考えます。
司法手続きにおける国民の負担をできる限り減らしていくことが重要です。電子手続きの活用も、そのメリット、デメリット双方を検討しながら、適する分野につき進展していくのではと期待しております。
うれしかったのは、この数年、何人もの日本人科学者がノーベル賞を受賞したこと。夢をかきたてられました。
好きな言葉は、誠実と共感です。裁判、特に民事裁判は、命令や説得ではなく、心を開いて話し合い、それぞれの立場や考えを共有することが重要と考えております。
趣味は、読書、特にSFと経済関係です。SFでは、J・G・バラード、スタニスワフ・レム、レイ・ブラッドベリなどが好きです。SFは、思考や感性の幅を広げてくれるものと思います。次いで、音楽鑑賞(シャンソン、カンツォーネなど)。元々天文学者志望だったので、星を見て宇宙について思いをはせることも好きです。
すごくいいと思うけど、
次数制限上仕方ないけど最初に「多面的な対応」と書くと問題意識が見えにくくて読み手の頭が整理されない。
「世代・性別・所得についての格差」が特に大きいことをデータで示して、「なのでこの3つの格差に対するアプローチを提案します」とすると読みやすい。
あと
経済的な不平等の問題はいまや公的な議論の最前線であり、その原因は多面的だ。日本においても世代・家庭・男女・所得間など様々な格差があり、それぞれに異なる原因がある。これらの格差を打開する為には、多面的な対応が必要である。従って私は、日本の格差是正の為に三つの政策を提案する。
一つ目の提案は、年金の給付方式に積立方式を追加する事だ。この政策の目的は、年金の世代間格差を緩和する事だ。現在年金は、既に受給が始まっている世代は納付額より受給額が多い一方で、将来的に受給額が納付額を下回りかねない状況にある。この不平等を解決する為には、国の年金を受け取る退職者が、賦課方式と積立方式のどちらでも受け取れる様にするべきだ。これにより、納付額が受給額を下回る事が無くなり、受給額の世代間格差が緩和される。少子化が進んだドイツでは類似したリースター制度が実施されたが、日本でも同様に制度改編を実施するべきだ。
二つ目の提案は、母親を対象とする児童手当の確立だ。この政策の目的は、育児環境の格差と、男女間の給与格差を是正する事だ。教育費や保育施設利用費の支援を行う事で、家庭間の教育格差や環境格差を緩和する。さらに母親を対象に支給する事で、男女間の給与格差を緩和する。日本は先進国の中で育児に対するGDP比支出が最も低く、育児における環境格差が大きい。東大の進学率と両親の収入が相関を示すという調査もある。男女の地位格差も先進国の中では大きい。これらの格差は、今後の社会保障を安定させる為にも、是正する必要がある。将来世代の担い手は、社会全体で積極的に支援するべきだ。
三つ目の提案は、累進課税の累進度の引き上げだ。この政策の目的は、前述した社会保障制度の財源を確保する事と、低所得者と高所得者の格差を是正する事だ。日本は上位一パーセントの所得階層所得割合が10%を超えている。応能分配の法則から見れば、現在の状況は不平等だ。累進度を引き上げれば、高所得者層の富は低所得者へ社会保障として再分配が可能となる。従って、累進度は引き上げるべきである。
これら三つの政策により、現在の世代・家庭・男女・所得間の格差を是正する。同時に、将来の担い手である児童の支援を行う事で、財政健全化を図る。これを持って、さらなる格差是正に向けた社会保障の拡充を目指すのである。
(979字)
正確に言うと、たとえるならばある議案が決まったとかそういう事柄は「ふーんそうなんだ」と納得までは出来るんだが
その議案はどこの層に良くてどこの層には都合が悪いだとか、他の事柄をピックアップしてこれとは相性が悪いんじゃないの?とか
多面的に見ることや、多面的に情報を収集するのが苦手だ。政治自体に興味を持つ事ができないのも原因なんだろう。
中学受験の時見ていた週刊こどもニュースのような誰か解説してくれる番組か何かが出てこないかなと常々思ってる
国会の中継にオーディオコメンタリーを入れ、関連したニュースも流すコンテンツなんかあったら面白そうである
俺の病名教えてくれよ。
上京してすぐに打ちのめされた。
部屋探し中に東日本大震災が起き、混乱のさなかで決めた物件がとんでもない湿気ハウスで、いつ漏電してもおかしくないと業者の人に言われたので契約をキャンセルしたら、感じの良い大家の婆さんから散々罵られた。
この経験は俺に東京への強烈な苦手意識を植えつけた。東京の人間は信用出来ない、腹の底ではきっと俺を……
しかし、くだらないプライドで地元に帰ることなく孤独に生きている。友達なんかできるもんか。
でも、それでも、友達を作るチャンスはあった。
面白くて尊敬できる、個性的な女の子と仲良くなりそうになって、何度か大学から最寄り駅まで一緒に帰ったりもしたが、「俺は死ぬまでこの人の面白さの全てを理解できない」という多面的にしょうもない考えと「俺はこの人より面白くなれない」という劣等感が頭をグルグル駆けまわった結果、彼女とコミュニケーションを取ることができなくなった。
笑いの趣味が近い、物静かな文学青年と仲良くなりそうになった時は、「嫌われたくない」一心で連絡を絶った。
趣味は合わないけど、なんとなく波長が合いそうな気がした高校の同級生と再接近した時は、彼に誘われて入った同級生たちのグループラインでの彼の発言が俺に対するあてつけにしか思えなくなって絶交した。
カウンセリングに行くのが一番だということは理解している。でも、行く勇気がない。何言われるかわからないし。傷つくかもしれないし。何度も行こうとしたけど、結局いけずじまいで7年目。
病名なんだろう。薬飲めば治る系のやつだといいな。薬出ない系は辛そう
小学校では2018年度、中学校では2019年度から道徳教育が「特別の授業」として教科化する。道徳科の指導・評価方法も変わり、文部科学省はその在り方の一例としてノートやワークシートを用いた教員と子どもとの人格的対話を挙げている。
このような対話では子どもが教員に自らの感性や価値観、普段は口にしない本音などをさらけ出すことになるため、教員と子どもの間の信頼関係が欠かせない。しかし、教員もまた一人の不完全な人間であることから、両者の相性によっては子どもの人間性、道徳性の否定につながりかねないと感じる。とりわけ狭い世間に生きる小学生は教師の考えを絶対視しやすく、「先生の価値観」と「自分の価値観」を相対的に捉えることが難しい。そのため、子どもに「自分の価値観や感性は間違っている」という自己否定的な感情を抱かせてしまうかもしれない。
また、前述のような対話的指導では、子どもが「先生に読ませることを想定した文章」を書く可能性もある。子どもは大人の世界に本音と建前が存在すること、学校で教わる自由や平等などの理念を大人がかならずしも重んじていないことを知っている。彼らがその矛盾に気づいていながら教員の求める「模範解答」を汲み取り、自らの感想として書き記すということになると、子どもが早くから欺瞞を覚え、言葉を信じない態度を身につけることにもなりかねない。
もちろん授業中の活発な議論で多面的な視点を養い、自己と他者への理解を深める点で道徳の授業は意義深い。しかし、そこで得たものは子どもひとりひとりの胸のうちで咀嚼されるべきものであり、生徒に感想を書かせて評価するやり方は危ういと感じる。
教員の指導力向上を含め、新しい道徳教育の導入には慎重を期さなければならない。素直な子どもが素直なまま育ち、同時に素直でない子どもが否定されることのない社会であってほしい。(N)
私は呪う。人の幸せを呪う。
やり方は簡単だ。幸せを歌う奴らに、嫌な一面を見出すコメントをつけるだけ。
そもそも、幸せなどと言っている奴らはすべからく思考停止しているのだ。どんなものごとも多面的であり、マイナスの可能性は常に潜んでいる。それに考えが及んでいないのだから思考停止であるし、まさしく幸せな頭をしているとしか言いようがない。
そのお幸せな頭を現実に戻してやっているのだから、この呪いが正しいと信念を持つことができる。
しかし、この呪いをかけるという行為には、トリックが含まれている。私は幸せになれないというトリックだ。
どんなものごとも多面的であり、マイナスの可能性は常に潜んでいるのなら、幸せになるにはマイナスの可能性を無視しなければならない。だが、私の行為は常にマイナスに目を向ける行為であり、つまり私は幸せになれない。
それでも、考えるということが正しいと私は思う。幸せよりも真実の方が大切である。
知らぬ者は幸いである?それは真実だと思うが、その幸せはいらない。
なので信仰者としての立場を極力排してなぜ胡散臭いのか、本当はどうなのかを考えてみます。
最初からいいますが、僕は新興宗教自体を胡散臭いとは考えていません。
身も蓋もない言い方ですが、キリスト教はユダヤ教の新興宗教ですし、仏教も日蓮宗や浄土宗、臨済宗は密教系とは重要な教義が異なっています。
私はカソリックですが、米大統領選でも注目されるモルモン教や福音派などのプロテスタントは明らかに新興だと言えます。
基本的なことですが、この点をまず明らかにしておきたいと思います。
ではなにが胡散臭いのかというと、相当分がみなさんと宗教の接点ですれ違いが起こっていることになります。
そして悲しいことですが、本気で胡散臭い活動も当然ながらあります。
宗教側からみなさんへの第一の接点は布教活動になると思います。
僕が通っていた大学でも注意書きが掲示されていましたが、家に押し掛けてくるのは胡散臭さレベルが高いので敬遠するのに越したことはないでしょう。
商売と一緒で「売ってくれ」とお客さんが来るのが最高の営業ですが、現代日本ではこれはほとんど期待できないでしょう。
ではどのように新しい信者を獲得するかというと、団体としての活動や宗教活動を通じてということになります。
代表的な新興宗教には宗教活動以外にも莫大なお金をつぎ込んでいるものがあります。
PL教団の花火大会や、米ソルトレークシティのモルモン教の大寺院などはその代表的なものです。
このような活動には伝統的な宗教も古くから関与してきました。宗教は伝統的に文化・芸能活動の庇護者であったのです。
長い歴史の中ではそれに対する反発もありましたが、現代日本でもその恩恵に多く与ることができます。
例えば東京観光や京都観光には寺社仏閣がつきものですが、その観光価値は一般の方には庭園や天井画や襖絵、建造物にあるのが現実だと思います。
そのような文化活動は信者と、一般の方の両方に働きかけるもので、難解な教義を介さない身近な存在として宗教を感じてもらうことができるのだと思います。
新興宗教には巨大、特徴的な寺院を建造するところが多くあると思いますがこの理由はちょっとわかりません。
ただこのような建造物を建てたからと言って、教主や教団幹部の懐に直接お金が入るわけではないということは留意しなければならないでしょう。
教義は信仰者にとっても難しいものです。カソリックでは洗礼を受けるにはちゃんと勉強をして認められなければなりません。
本来ならばどの宗教でも教父にあたる方に接するのが第一歩になるでしょう。
ただ、いきなり相手のホームグラウンドに行くのは恐いですから興味のあるお寺(教会)に電話してみるのはいかがでしょうか?
自分の考えていることを吐露してそれで答えが受け入れられないものであれば、それは相手方の落ち度でしょう。
元増田のアプローチは、まず文字に当たるということですが、どの宗教でもその本質は活動です。
「wikipediaは参考文献に含まれない」とはよく言ったもので少なくとも宗教で学ぶというのは不適当ではあると思います。
完全に新興の宗教は別として、多くの新興宗教は既存の宗教の派生です。なのでそれぞれの教義には数百年単位の積み重ねがあり、
一人でそれを理解しようというのはだれにとっても不可能でしょう。ただしその本質というものはシンプルで良いものであると私は信じています。
長い人類の歴史の中では宗教と歴史が分離されていたことの方が少ないでしょう。
それはさておき、宗教が政治を無視できないのは宗教が人の本質にアプローチするものだからです。
人の生活に直結する政治とはどうしても重なる部分があるということが宗教が政治に関わっていく要因でしょう。
「波動」や「飛行」というのを聞いたときの胡散臭さは相当リアルに感じます。
それはそれとして一歩引いてみれば仏教用語の因果や因縁、「宇」や「宙」というのは非科学的な概念ではないでしょうか。
これらを科学的に検証することはできませんが、明らかに科学と矛盾するものとしてキリスト教の進化論や地動説を否定があります。
私自身は技術者として生計をたてていて、人は猿から進化して、地球は太陽の周りを回っていると思います。
非科学的ということが宗教を損なうのはその真実性を損なうからだと思います
これはどこの宗教でもつきものだと思います。検証不可能なことは証明できませんし聖典は多面的な読み方ができるため科学的な検証には向いていません。
「聖典が正しければ寺院(教会)・教義は正しい」そして「寺院(教会)・教義は正しければ聖典は正しい」というような循環論法に陥りがちです。
これに対しては僕が言えるのは「あなた自身の考えて」という月並みなものです。あなたが一歩を踏み出してよい教えに導いてもらえることをお祈りしています
「価値」とはなんでしょうか。
しかし前売りでのこのような市場にて飛び交う価格は、あくまでもタレント看板だけの「タレント価値(ネームバリュー)」であって、
有名著名タレントだからというだけに殆ど依存された状態にあります。実際の中身はここでは完全に度外視された状態にある・・
これが実に不透明であり、不安定であり、実態のない価格になる・・。
とある、何代にも渡り市場の中でステータスを確立して来た、Aという人気ベストセラー自動車が新型をリリースすることになったとします。
「今まで総じてよいデザインだったし、エンジンも作りも他より毎度抜きん出ていたから、今回も良いに違いないだろう」という前評判は生まれやすいでしょう。
これはいわゆる「期待値」。実車の写真やスペック等、メーカー発表も何もない状態の中、価格だけを先に発表。
それを受けて早くも市場にて、期待値のみで価格が変動、高騰していく・・
中身を全く把握されないのに、定価と過去の実績や経緯から生まれた「期待価格」だけで市場価格が先行していく・・こんなことはあり得ませんね。
ライヴに特化すれば、これがあり得るとし、事前にオークション販売にて価格が釣り上がって行くことが、果たして健全な商法なのか!?と。
「事前価値」はあくまでも「仮の価値」なわけです。決定価値ではない。
もし本当にオークション販売など主催者がやるとすれば、せめてゲネプロのプロモ映像やステージ写真等を参考資料として、事前に揃え明かさなければならないことになります。
ライヴとは、行って初めて分かる、「開けてビックリ玉手箱」の要素が本分でもありますから、それはそぐわない。
だからゆえ、プランに基づいた「制作費」を基礎に定価を定め、なるべく均等広範に売ることが結局はベターなのです。
「高額転売」のみに言及特化しようとするため、その手法のみに知恵を講じようとしますが、それ自体はよいとしても、
その有り様がライヴ興行のあり方や根本的構造、ひいては多くのファンの純然なものまで大きく揺さぶり変えるとすれば、
メリットに対してデメリットの方が勝ってしまう、ということでしょう。
よって、オークション販売などは多くのアーティスト側が望まないことは容易に想像がつきますし、
長いプロモーション活動の中に位置づけられるライヴを、点ではなく線で勘案しているアーティストサイドとしては、
このようなやり方は不健全であると認識するでしょう。無論、時として特別な企画を全面にし、このような方式がとられることは有り得るでしょうし、
またそのような他のアーティストとは一線を画した、特異なアーティストが現れることもあり得るでしょう。
そしてそのアーティストが独自手法で探求していくという活動を行うことも、それはそれとして構わないとは思いますが。
但し、後者の場合そうした「広範な音楽市場から分離した」、「二極化や孤立化された」状態で長く売っていくことはおそらく至難の業であり、
極々狭い領域と特定ファンだけしか対象にしないと端から決め打ちし、僅かの利益で細々と生きていくとするならそれでもいいでしょうが、
そう望むアーティスト等皆無に等しいでしょう。
ライヴにおける本当のWin-Winとは、グッズや付加要素で、小手先だけで埋めるのではなく、多くのファンが一律に目の前のステージにて
アーティストの価値を共有する、ライヴ自体の価値を共有する、そのボルテージや反応によって更にアーティストが昇華する・・
その場その時だけの特別な空間でボールを投げ受けし合う・・ものにも多少よるものの、そこが核であり、それをファンもアーティストも期待します。
その本分を中心に置けば、ファンが二極化してしまうような売り方は受け入れられない、となるでしょう。
なので、高額転売に対する方法論は、諸悪の根源とも言える手法を販売元が公式的に成り代わり行うことではなく、
本人確認等のテクニカルなものを探求し構築、法的な整備、そしてファン側のモラル・・多面的に、同時に回して機能させることが総体的な抑制となるってことでしょう。
で、本文についてですが。
これには複雑な興行の仕組みをある程度把握せねばならないと思いますし、多面的に勘案する必要のあることと思いますから、
一口にはとても言い切れないのですが、挙げられる複数の想定された大半の理由は少々穿った見方過ぎてどれも該当しないでしょう。
しいて言えば、6と10は関連性がある・・。
根本的に音楽業界・・とりわけアーティスト側の総じた意向としては、音楽は誰彼身分問わず公平広範に広めたいという核がありますので、ライヴも同じとみなしています。
今回の件で経済学者等の一部から「市場原理」等を基にした理論展開がありますが、元々音楽という文化はその原理とは異なる、同じにならない、
同じにしてしまうと理念の部分とは乖離してしまうので、独特のスタイルで発展して来た産業ともいえます。
先述の投稿内容とリンクすることですが、ライヴに特化した場合、オークションのようなスタイルにすることは、
仰るように転売等の抑制や排除に何らかの作用があるとしても、本来の理念とは逸脱してしまう・・ざっくり言えば
「ン万円にもなるチケットを時に若年層にも買わせてしまうことの道義的・倫理的問題が立ちはだかる」、ということでしょうか。
“いやいや、現実的に既にそうなっていて、それでも購入する者がいるじゃないか・・”という声もあります。
そこで重要になるのは、その客は積極的能動的な意思にあり「高額でも惜しまない、それだけの価値が有るのだ」としているのか、
それとも「本当は定価で買いたいが、手に入らないので仕方なく他所から買うしかない」とする“消極的理由”が背景にあるのか・・。
正確に分類把握することは難しいですが、おそらくは後者が多いだろうと思われます。
声明にもあるように、高騰することは次回やその他のアーティストライヴ、CDやグッズ等といった広範のセールスに影響が及んでしまうという
売り手側とファンの首両方を絞めることになる・・ということでしょうね。単発だけのライヴやその収支、ファンに拠る一つだけの出費や意思だけで観るならまだしも、
長期的・総体的に観れば決して好ましい販売方法とはいえなくなる、と。
一方でそのような販売体制は、販売するプロモーター側からすると、販売期間が定められ、短期間の中で売り捌かねばならない特性上では、
手間やコスト的な側面に加えて、金銭の計上的にも販売動向の数字上でも、販売管理全般がし難くなる・・。
結局アーティスト側、販売側、ファン・・どれを取っても利点は少ないと考えているわけですね。
勿論転売対策は必要であり、ファンサイドや転売屋方面に向けた「啓蒙」だけで解決するとは端から思っておらず、
取っ掛かりとして先ず大々的にこの件を打ち出し、モラルと共に広範で問題認識や議論を巻き起こしていく、最初のステップだと捉えているようです。
また、法的側面でデリケートな部分が障壁ともなっており、もはや業界内で何かテクニカルな手法をとっただけで解決しない領域に来ている・・
そのため行政方面にも間接的に問題提起させたいという意向は、既に明かしています。他方では、行けなくなった客に対する救済措置、
http://anond.hatelabo.jp/20160809152948
2ch辺りでアニメアンチたちのアニメ批評なんかを眺めてる時も、理解の断絶を感じることが多い。
アニメは言語化しないぶん、より意図を汲み取れないで妙な邪推してしまう人が多いよね。
偏差値というか、ASD傾向がある人あたりが、想像力障害ゆえに突飛な解釈をする→
長文で説得を試みられてもコミュニケーション障害ゆえ納得できない→
感化される人も増える、ってサイクル。
ものごとの妙味って複雑で多面的な要素が絡み合っているものだから、
でも言語化できないまでも、おおかたの人はなんなく汲み取れるんだよね。
本筋のメッセージ性とかの大事な部分を。だから総体的に評価ができる。
もう脳内補完をしてあげる事ができなくなり、理解が途切れてしまう。
結局自分の思い描いた筋書きしか受け入れられないようになってしまう。
このようにファジーな文脈解釈をするのに高度な脳機能が必要となる一方で、
作品にネガティブな印象を与えるには一面的なことを短文で罵倒するだけで十分。
健全なメンタルの人でも、その一面のネガティブ解釈に注目してしまえば、
こういうネガティブサイクルが、ネットのそこかしこで見られる。
それでどんな話題においても、プロ水準の造詣の深さや視野の広さを持っている人の声よりも、
素人のパワフルな罵詈雑言の方が支配的になるし、正義面をするのもうまい。
一番象徴的なのはヤフコメかな? でも最近のブコメも大差ないかな。
まあ、啓発が進んでる分野では、ネット素人の意見がプロのそれに近くなる場合もある。
たとえばエスカレーターは歩くなとか。
とはいえ、それはただ素人集団が条件反射的に流れに乗っているだけで、
彼ら一人一人が毎回書き込むたびにプロ並の思索を巡らしているわけではないようにも感じる。
こういうところが、ネットの闇でありネットの限界だと思うのよね。
ASDは自閉症スペクトラム障害、アスペルガー症候群をさした言葉です。
トラバで指摘されて気づいたけど、
ASD特有っぽいやたら神経質な指摘をする人と、その指摘に乗っかってDisを始める人は
必ずしも同一とは限らないと思う。
http://www.sankei.com/smp/politics/news/160510/plt1605100003-s1.html
自民党は五月、今夏の参院選から選挙権年齢が「18歳以上」に引き下げられることを踏まえ、公立高校の教職員の政治活動を禁じる教育公務員特例法を改正し、罰則規定を設ける方針を固めた。早ければ今秋の臨時国会に改正案を提出している。同法は「政党または政治的目的のために、政治的行為をしてはならない」とする国家公務員法を準用する規定を定めているが、罰則がないため、事実上の「野放し状態」(同党幹部)と指摘されていたという。
改正案では、政治的行為の制限に違反した教職員に対し、「3年以下の懲役又は100万円以下の罰金」程度の罰則を科することを想定している。
また、私立学校でも政治的中立性を確保する必要があるとして私立校教職員への規制も検討する。これまで「国も自治体も、私立には口出ししない風潮があった」(同党文教関係議員)とされるが、高校生の場合は全国で約3割が私立に通学する実情があるとしている。
党幹部は「私立でも政治的中立性は厳格に守られなければならない」と指摘。小中学校で政治活動をした教職員に罰則を科す「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法」を改正し、私立高の教職員にも罰則を適用する案が浮上している。
日本教職員組合(日教組)が組合内候補者を積極的に支援するなど選挙運動に関与してきた過去を踏まえ、組合の収支報告を義務付ける地方公務員法の改正についても検討するという。
※
記事から分かるように、自民党は「政治的中立性を守らない教職員に罰則を与える方向」で行きたいという事は以前から言われてました。じゃあその政治的中立性を誰がどうやって判断するのか?に対する答えが以下の投稿フォームです
(文面が変更されたのでTwitterで拾った前の文面の魚拓です)
↓
自民党文部科学部会では学校教育における政治的中立性の徹底的な確保等を求める提言を取りまとめ、不偏不党の教育を求めているところですが、教育現場の中には「教育の政治的中立はありえない」、あるいは「子供たちを戦場に送るな」と主張し中立性を逸脱した教育を行う先生方がいることも事実です。
学校現場における主権者教育が重要な意味を持つ中、偏向した教育が行われることで、生徒の多面的多角的な視点を失わせてしまう恐れがあり、高校等で行われる模擬投票等で意図的に政治色の強い偏向教育を行うことで、特定のイデオロギーに染まった結論が導き出されることをわが党は危惧しております。
そこで、この度、学校教育における政治的中立性についての実態調査を実施することといたしました。皆さまのご協力をお願いいたします。
※
????
子供たちを戦場に送るな」ってのが政治的の強い偏向教育の例なのでしょうか?
「子供たちは戦場に送るべき、という教育をすべき」or「子供たちは戦場に行くべきか否か議論させる教育をしてはならない」って読めますよね
少なくとも「子供たちを戦場に送るな」という教育、教師の言葉は政治的中立性から逸脱していて自民党にとっては気に入らない教育である事がこの文面からは分かります。
またこの文面がどういう風に上の産経新聞記事と繋がるかは自民党プライバシーポリシーより推測できます
https://www.jimin.jp/privacy_policy/
↓
自由民主党本部ではホームページやメールマガジン(News Packet)などにおいて、ご意見の投稿やアンケート調査、機関紙誌・メールマガジンの購読申込のほか、さまざまな企画への参加募集を行っています。これらのサービス提供の円滑な運営に必要な範囲で、ホームページ利用者の情報を収集しています。
1.個人情報とは
個人情報とは、以下の情報により特定の個人を識別できるものをいいます。
・その情報のみでは特定の個人を識別できないものの、他の情報と容易に照合することができ、これにより特定の個人を識別できるもの
利用者の個人情報を無断で収集することはありません。個人情報を収集する際には、利用者の意志による情報の提供を原則としています。 利用者から提供された個人情報は、次の目的の範囲内で使用します。
・ 利用者の特性を把握するため、アンケートなどのデータ作成、分析
・ アンケートや各種企画・購読申込などで必要な確認やお知らせ
・ その他なんらかの理由で利用者と接触をする必要が生じた場合
3.使用制限
利用者より提供のあった個人情報は、上記2.の範囲内で利用します。
個人情報を利用者の同意なくこれ以外の目的で利用することはありません。
※
つまり投稿フォームで寄せられた情報は「自民党の政治活動」として利用されてしまう可能性があるという事。そして政治活動の具体的内容については一切書いてない。
「政治的中立性から逸脱しているという情報が寄せられた教師の個人情報」をどう使おうとそれが政治活動であるならば、問題はない事になります。
色んな疑問点が浮かびます
・この政党がずっと与党のままでいる確証がないのにこんな事をする権限があるの?例えば他の党がこれをやったら大問題にする人たちがいるでしょ?なんで自民党はいいの?
・ただの政党がこのような個人情報を収集する理由は?仮にこれが罪になったとしても「警察」ではなく「政党」が個人情報を得る理由って何があるの?
・「政治的中立性」というならば「子供たちを戦争に行かせる」という教師だってダメだと思うのにそれが例文にあがってない理由は?
・なんで批判にまともに答えずに文面を削除したのか?謝罪及び訂正はしないの?
まぁそれでも「子供たちを戦場に行かせるな」と言った教師は教職員として不適切であり、そういう教師には罰則があるべき。と考える人はいるのでしょう。そういった考えは個人的には理解出来ませんがどこに投票するのも自由です。こう思う人たちはどんどん自民党に投票すればいいでしょう。
ただ、この投稿フォームの文面が不適切だと思った人は「この投稿フォームを作った政党には投票しない」という選択肢があります。
世の中には自民党以外にも政党はたくさんあります。自分の知る限り、自民党以外に「教師への密告フォーム」を作った政党はありません。このサイトが気に入らない人は別の政党に入れるという意思表示をして対抗する事が出来ます。
この情報が投票の上で参考になれば幸いですし、皆さんよく考えて投票しましょう。参院選は明日です。
(現在の文面は変更されていて以下の文章になっています。自民党内で「安保関連法は廃止にすべき」という意見と「子供たちを戦場に行かせない」という意見が同列に扱われた事が推測できます)
https://ssl.jimin.jp/m/school_education_survey2016?_ga=1.59801455.395835691.1409157024
↓
党文部科学部会では学校教育における政治的中立性の徹底的な確保等を求める提言を取りまとめ、不偏不党の教育を求めているところですが、教育現場の中には「教育の政治的中立はありえない」、あるいは「安保関連法は廃止にすべき」と主張し中立性を逸脱した教育を行う先生方がいることも事実です。
学校現場における主権者教育が重要な意味を持つ中、偏向した教育が行われることで、生徒の多面的多角的な視点を失わせてしまう恐れがあり、高校等で行われる模擬投票等で意図的に政治色の強い偏向教育を行うことで、特定のイデオロギーに染まった結論が導き出されることをわが党は危惧しております。
そこで、この度、学校教育における政治的中立性についての実態調査を実施することといたしました。皆さまのご協力をお願いいたします。
今、映画を年間200本見るという人の記事が話題になっている。
「結局は個人の嗜好。嗜好の近い人の紹介するものを見ればよい」
この手の、「価値基準と評価」という事柄について、ずっと考えていることがある。
大学に上がり、できた友人が美味いものが好きで、自分からみて驚くほど色々なところへ行き、楽しんで食べていた。
サークルに同期がいて、彼もあまり食に興味が無いタイプだったのだが、
「確かにミラノ風ドリアは美味い。コスパもいい。しかし、奴はサイゼリヤ以外の場所にあんまり行ったことがない」
と、食べるのが好きな方の友人が言っていた。
食好きの彼は、和洋中問わず、一度食べれば実に細かく味を把握する。
食に関することだけは該博な知識を持っており、外国の料理や文化にも妙に詳しい。
しかしその一方で、コンビニおにぎりの冷たくしっとりしたごはんが好きで、よく喰らっている。
駄菓子も好きで、体型はお察しの通りであるが、いつも幸せそうだ。
なんの話だったか。
「食の部屋」であれば、食に関する、記憶や知識をしまっておく部屋である。
例えば、「行きつけのこじんまりした喫茶店」は、手に届きやすいテーブルの上に置く。
「めったに行けない高級中華の店」は、上のほう、手の届かない棚の上にある。
「高級な中華の店は、誰でも名前を識っているから偉い」とか、そういうことではないのだ。
そういうことではなくて、単純に「自分の中でどう判断して何処にしまうか」なのである。
配置の問題だ。
味、値段、接客態度、内装、知名度、立地、一緒にいく人や使い方…
「食の部屋」でいえば、食に興味があるほど、詳細な基準があるはずだ。
某ファミレスは親しみやすい。ファミリーに優しいし「柔らか青豆の温サラダ」は最高にコスパが良い。
しかし、同じエスカルゴでも、フランス料理店で食べるものとは若干違う。違ってしかるべきである。
「どちらも同じように美味い」と感じられる者は幸いであるが、高い方が気の毒でもある。
恐らく、多く/深く経験を積んでいる人間のほうが、精緻で充実した部屋を作れるはずだ。
単純な上下でなく、諸々の価値基準を考慮して三次元的に配置された記憶は、きっと役に立つ。
映画の話に戻る。
おそらく、「映画の部屋」も、ほぼ誰の脳内にもあると思われる。
その膨大なデータが、きちんと部屋に配置されしまわれていない(ように見える)からではないだろうか。
なぜ、その映画をここに配置したか。その価値基準が分からない、というように見える。
映画が好きであれば、映画というものの歴史が頭に入っていて、その歴史においてこの映画は
どういう流れを汲む、どんなポジションの作品か、ということが見えているはずだと思う。
例えば、GoogleのPlayストアをたまに見るけれども。
「このアプリはほんとにクソだぜ!」とか「神だぜ!」とかレビューが書いてある。
アプリに限らないが、残念なレビューやコメントだな、と個人的に思うjのは、
こっちは、その製品の長所や短所が知りたくて見ているだけである。
また、ネットで見かける「オススメの本/映画/漫画ない?」系も若干不思議を感じる。
勿論、はじめからそれほど期待はしていないのだろうし、当たれば八卦で面白いのはわかる。
が、オススメするほうもされるほうも、相手の年齢も嗜好も何ひとつ知ろうとすることなく、
「オレが面白いと思った本」を無邪気に薦めていく。
そりゃ、面白い本はごまんとあるだろうけれど、その判断基準を聞かなくていいのだろうか。
「この本のどこがいいの?」「うん、このヒロインが俺の初恋の人に似てるんだよね」
みたいな理由だったらどうするんだ。いや、それはそれで面白い本との出会いかもしれないが。
散漫になってきたけれども。言いたいのは。
物事を上下でなく、色々な価値基準から観て、知識の部屋にマッピングしていくのが大事だと思う。
食べ物や服や住居はだいたい、その価値にみあった値段がついているが、
文化・芸能・娯楽などに関してはその限りではない。だから見えづらいけれど、
畳み掛ける話し方はいつ身についただろうか。自分の学び方がこのような話し方と近いからか?と思っていたが、自分の過去の経験から別の見方も出来る。
勉強を教える時など人に説明する時、相手が理解した、または相手に思いつかせた時に相手が「もうその話わかったから…」と言ってしまうことがある。本当はもう一つ加えて理解しておいたほうが良いだろうということ(実際加えて説明したいと思っていることの方が本質的に重要だと考えていること)がある時でも、それを聞いてくれなくなってしまう。本当にそこまで理解が到達していたのなら確かに冗長である。しかしそうでない場合、加えて「じゃぁこう言われて分かる?」のような高圧的な質問をした場合に、相手を萎縮させてしまったり、相手の怒りを買ってしまう。
このような経験から、最終的な纏めの話を中心に「素早く畳み掛けてかつ加えたい重要な話をゆっくりにして話す」という習慣ができてしまっていると思われる。
実際この畳み掛けるような纏めの話を有益に感じられる思考を持つタイプを持つ人間も存在する。これを有益に思う人間は、物事をしっかりと理解するまで纏めたがらない性質を持っている。これが自分の学び方と一致している。だからそういう人間には話し手が高速に纏めつつ、ときどき理解の確認として本質をつくような ー あるいは重箱の隅をつくようなことかもしれないが ー 新しいことを挟んでいく方法は適切かもしれない。しかし話をすぐに要約して、それを生き方としてきた人間の場合、畳み掛けがただの冗長説明となる。そのような場合は相手にストレスと倦怠感を与える。他にも、話をある程度聞き、途中自分で要約し、更にその纏めが正しいかを必要最小限の労力で行うことの出来る人間の場合、冗長説明は話し手が舐められるだけである。また、話の内容への興味による集中力の増加が少ないと思われる人に対して、畳み掛ける話はそれが唐突に感じられて、ただ聞き取りづらいだけである。声の調子が強くなれば、些か威圧的だとも思われてしまうだろう。
結局は相手の様子をよく観察して話す必要がある。話し手の過去の経験から、誰もが独善的に畳み掛ける冗長な話し方が必要だと思ってはならない。
…という冗長な文章。長い三行でと言われる奴だな。
ここを読んで統計的差別という用語があるのを知り、自分なりに考えてみた。
統計的差別とは属性別の統計データ(または経験)をもとに個人を選別することで、例えば企業の人事で、女性は勤続年数が短いというデータがあるので長期的成長の必要な役職に就けないようにするとか、経験的に博士課程の人は融通が利かないことが多いので採用を見送る、など。
「統計的」とあるが、「オタク的外見とコミュ技能の相関」のようにちゃんとした調査データでなく経験をもとにしたものも含まれるのだろう。
調べてて思ったのは、統計は個人評価に使用するには向いてないはずでは?ということ。しかし実際にはそのような使い方はよくされているわけで、これは人を評価することの難しさからきてるのではと思う。
個人を評価するのが難しい場合、その評価に責任を取れないので安易なわかりやすい選択、言いわけのしやすい選択をしがちになるのでは。またコストの面からも多面的で丁寧な評価でなく簡便な評価軸を使ったものが好まれるのだろう。
足切のように自覚的にやってる場合はともかく、そういうつもりでない時でも言いわけのために統計を使った属性での評価に重みを置きすぎてしまうことがあるのではと思う。
もう一つ重要なのはポジティブフィードバックループで、これはランチェスター第二法則のように、試行を繰り返すことで極端化する現象のこと。統計的差別も、繰り返されることで統計データ上の差がより大きくなっていくわけである。
例えば「女子は理系に向かない」という社会イメージが女子の理系科目の成績低下につながり、それがまた社会イメージを強化し更なる成績低下につながる、というもの。
僅かな差しかないはずのものが大きな差になったり、本来は差がないはずのものが最初に間違ったイメージをもったため実際にデータ的な差ができてしまったりするのである。
> そういう相関が生じる要因についてはいろいろあって、統計的差別が行われていること自体も要因の一つかと。たまたま容姿に優れなかった人が、既に存在している統計的差別で切り捨てられ、コミュニケーション技能を伸ばす機会を摘まれる、とか。
と、まとめのツイートにあるように予言の自己成就的なことが発生してしまうので、一見判断は正しかったように見えてしまい、問題があることを認識できなくなってしまうことが、"この統計的差別というやつは、差別意識などより遥かに根が深く、対抗する難易度が高い" ということなのかなと思う。
さらに思ったのは、統計的差別の逆のパターンというものがあるのではということ。統計データ(または経験)をもって差別することの逆に、統計データをもって差別を忌避することもあるのではないだろうか。
普通の人と同じように社会に混じってコミュニケーションを取ろうとしても差別されることが多いとわかってる人は、積極的にコミュニケーションを取ろうとしなくなるのではないか。そしてそれがまたコミュニケーション能力育成の機会を失わせてしまうということになってしまう。
https://www.mededge.jp/b/huap/14009
http://www.sciencenewsline.com/news/2015052714510039.html
器量の良くない人はイケメンと比べ、普段は差別されないが何か好ましくない行為を行った場合に、イケメンがそうした場合の倍、悪い評価を得るというもの。
そういう人の犯罪はイケメンの犯罪に比べ印象に残りやすくなったりもしそうである。
統計により社会が見た目で評価を変えるのがわかっているなら、見た目の悪い人は自発的に社会との関わりを減らすことが適応戦略となる。しかし今度は積極的なコミュニケーションをしないことを理由に差別を正当化されたりする。
社会の差別が元となって発生してる状況なのに「コミュニケーションで傷つきたくないのだろう」と原因にされたり、「キモがられないように努力しろ」と改善の責任を押し付けられたりする。
社会とコミュニケートする難易度がますます高くなってしまってコミュニケーションの忌避を強化するというループにはまってしまう。
このように差別される側が統計データ(というか経験則)をもとに、ドツボにはまる選択をしてしまうことはよくあるのではないだろうか。そもそも、統計データで個人を評価するのはあまり好ましくないが、統計データで社会を評価するのは正しいわけだから。
表面から見ると問題行動を起こしてるのが非差別側であるせいでこの問題は発覚しにくく、統計的差別以上に対応しづらいのではと思う。
ところでこのまとめはツイートの順序を入れ替えたり会話をつぎはぎしたりしてて、かなり恣意性の強い編集になってるように思えるのだが、どうだろうか。
フェミニズム関連ではこのような恣意的な引用を用いた印象操作をちょくちょく見かけるのだが、はてブではあまり問題にならずに受け入れられてることも多いので、そーいうものなのだろうか。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/takayukifukatsu/20150907-00049112/
http://b.hatena.ne.jp/entry/bylines.news.yahoo.co.jp/takayukifukatsu/20150907-00049112/
実はこれは、「劇場のロゴのパクリではない」と言っているだけだ。上手にていねいに解説しているが、話の趣旨そのものは組織委の見解と同じだ。その点は、増田が指摘したとおり。
しかしながら、組織委の見解はピントがずれているし、その意味では、深津貴之 氏の見解もピントがずれている。そのことを解説しよう。
劇場ロゴのパクリはもともと争点となっていない。これを話題にしたのは一部の人だけ(もしくは初期だけ)だ。
前者は、著作権の問題だ。これは、パクったかどうかに関係なく、単に似ているということで、著作権上の問題が生じる。このことは、劇場側の弁護士が主張したことだ。
後者は、サントリーのバッグや、五輪の展開例や、多摩美のポスターなどで、画像の盗用があったことだ。これを「パクリ」と指摘した。
要するに、「劇場ロゴとの類似性」もあったし、「パクリ」もあったのだが、「劇場ロゴのパクリ」は、もともと争点になっていないのだ。
その意味で、深津貴之 氏の見解そのものが意味を持たない。ありもしない仮想敵を攻撃しているだけだ。藁人形論法であるにすぎない。
「劇場ロゴのパクリ」というものを、彼がいくら否定しようが、それは、ありもしない怪物を攻撃するドン・キホーテと同様であり、もともと存在していない対象を否定しているだけにすぎない。
「劇場ロゴのパクリ」はなくとも、チヒョルト展のパクリはあったと認定できる。なぜなら原案では、右下に余計な赤丸があったからだ。
このような赤丸は、文字とは無関係の装飾要素であり、まったく不要なものだ。実際、他の文字では、このような余分な要素はない。
http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/b/bunbuntokuhoh/20150828/20150828225213.jpg
なのに、T という文字でだけ、余分な赤丸の要素が追加されている。この文字だけにある特異な現象だ。
このことからしても、これがチヒョルト展のパクリであることは明白だろう。
(仮にパクリでなければ、赤丸は中央上または中央下にあるはずだ。それが佐野デザインの9分割のポリシーだからだ。)
さらに、状況証拠もある。「そんなことは覚えていない」と弁解したことだ。素人じゃあるまいし、プロならば、これほどのデザインをあっさり忘れるはずがない。
とすれば、「覚えていない」と言った時点で、嘘をついている。あるいは、ジョブズ並みの「現実歪曲空間」に入っていることになる。そのいずれだとしても、パクリはあったことになる。(ただし本人が正直に申告していないだけだ。)
3.専門家に任せるか?
深津貴之 氏の見解の主要な点は、「専門家に任せるべきだ」ということだ。
しかしながら、今回の最終案を決めたのは、専門家である審査員ではなく、素人である武藤事務総長だった。
http://www.yomiuri.co.jp/national/20150904-OYT1T50016.html
ゆえに、「(決定を)専門家に任せるべきだ」という主張は成立しない。現実には専門家には任せられず、素人が勝手に決めてしまったからだ。(そして佐野最終案に決まった。)
また、今回の主要な争点は、デザインの良し悪し(デザインのジャッジ)ではなくて、五輪エンブレムとして採用するか否かだった。
デザイン的に良し悪しを判断する(ジャッジする)のならば、専門家が決めてもいいだろう。しかし人々が批判したのは、デザインの良し悪しではなくて、五輪エンブレムとして採用するか否かだった。そこでは、次の諸点が問題となった。
・ その法的争点は、類似性の有無であって、パクリの有無ではない。
・ トートバッグではパクリが判明した。(彼は犯罪者だと判明した。)
・ さらに、続々とパクリが判明した。(彼は大犯罪者だと判明した。)
・ 原案と最終案がまったく違うと判明した。(組織委は嘘をついた。)
・ 原案では、最終案にある大きな円がなかったと判明した。
(大きな円を選考理由とした初期の説明は嘘だったと判明した。)
・ 最終案を決定したのは審査員たちでなく事務総長だと判明した。
これらの問題が続々と判明した。このことから「五輪エンブレムとして採用するには適切ではない」という民意が生じたのだ。こういう民意を無視して、「専門家の判断に任せよ」というのは、問題をデザインの面だけに限定しており、きわめて視野が狭い。まったく、問題の所在を理解していないと言える。
自分の専門領域のことしか理解できない人を「専門馬鹿」と呼ぶ。
今回の問題は、「劇場ロゴをパクったかどうか」というデザイン界だけの問題ではないのだ、と理解するべきだ。そもそも、「劇場ロゴをパクったかどうか」というのは、もともと争点になっていなかったと言える。(劇場側だって、そのことを争点としない旨を主張している。商標法違反ではなくて、著作権法による類似を争点とすると主張している。)
今回の問題は、上で列挙したようなさまざまな問題が絡み合っている。ここで「劇場ロゴとのパクリではない」なんていうどうでもいいことを持ち出して、「専門家の言うことを聞け」と述べるような主張は妥当ではない。むしろ専門家こそ、民衆の声を聞くべきだ。
最後に一つ。
深津貴之 氏はデザインのことは専門家に任せるべきだと主張する。しかし今回のエンブレムは、エンブレムのデザインとしての良し悪しで決まったのではない。展開力で決まったのだ。つまり、布地の柄物のパターンの出来映えのような見方によって決まったのだ。
そもそも、(原案の)丸と三角と四角というデザインは、あまりにも単純で凡庸であり、これを「美しい」「見事だ」と思うようなデザイナーはいないだろう。なのに、心の底では「くだらん」と思いながら、はっきりと口に出せない。「展開力が優れている」と言われると、「なるほど」と言って承諾するだけで、「エンブレムとしてはあまりにも凡庸な図形だ」という本音を口にできない。
自分の(デザイナーとしての)内心の声を聞くことができず、説明された「展開力」なんていう言葉を信じてしまうようでは、デザイナーたちの良心というものを信用できないのである。
専門家は、民衆の声を聞くべきだ。そしてまた、自分の心の声を聞くべきだ。「あの原案はあまりにも凡庸だ」と、自分の心の声が訴えているはずだ。
追記。
id:sisya 参照元のエントリを全然読解できていないように見える。単に似ているだけでは盗用にならず、依拠しているかどうかが重要。もう少し元記事を読み返すことをお勧めする。
本項の話を全然読解できていないように思える。「(劇場ロゴと)似ているか、依拠しているか」というような話題は、争点にはなっていないというのが、本項の趣旨だ。そんなことはどうでもいいから関係ない、という趣旨。
だいたい、そんなことは、たいていの人は話題にしていない。著作権を争点にしているのは、ベルギーの弁護士だけだ。日本人のほとんどは、そんなことに関心を持っていない。関心を持っているのは、id:sisya さんや id:allezvous さんぐらいだ。
この事件の問題点は、ベルギーの裁判で勝つかどうかじゃない。そんなことを話題にしている人は、ほとんどいない。(そもそも裁判が成立するかどうかもはっきりとしない。訴えの利益がないので、却下されるかもしれない。そうなったら、著作権を争点にするのは、すべて空論になる。)
もちろん、本項でも、著作権を問題にしていない。そもそもベルギーロゴとの関係も問題にしていない。(ベルギーロゴとの関係などはどうでもいい、という趣旨。)
依拠性によらず類似性だけで著作権法違反を問える、と主張しているのは、私ではなくて、ベルギーの弁護士 http://bit.ly/1VMxON2 です。詳細は、このリンク先にある週刊新潮の記事に書いてあるので、そちらを読んでください。
一般に、ロゴのような単純な図形では、依拠性というものは(証明のしようがないので)問われず、類似性だけが問題となります。たとえば、ミッキーマウスの著作権では、単に似ているだけで問題視されます。いくら「真似したわけじゃない」と主張しても、「似ている」だけで問題視されます。
なお、本項では、著作権についての「分析」なんかしていません。著作権は本項では話題になっていません。ついでの形で、1行か2行、ちょっと引用ふうに言及しただけです。
id:bros_tama あの記事は“五輪エンブレムのデザインで何が問題であったのか”について書かれているんです.本来どうすべきであったか,解決のためにはどうする,とかはこれを踏まえて考えなくちゃいけないんだよね,という話です
それを前提とした上で、“五輪エンブレムのデザインで何が問題であったのか”ということは、今回の騒動ではほとんど意味がないことだ、というふうに評価しています。五輪エンブレムのデザインなんか、あまり重要ではないんですよ。デザインじゃなくて、これを採用するかどうかが問題なんです。
端的に言えば、「パクリデザイナーの作品を五輪に正式採用することの倫理的な是非」です。ここでは倫理的な問題があるだけで、美術的な問題はありません。美術的なことをいくら論じても、今回の騒動には何の関係もない、というのが、本項の趣旨です。
本質とは関係のないことをいくら解説しても、そんなことはどうでもいいことだ、という趣旨です。
誤解があるかもしれないので解説しておくと、私は別に、深津貴之 氏の見解を否定しているわけではない。素人向けに専門家が詳しくデザインのことを解説しよう、という努力は立派なものだと思うし、有益でもある。
ただしそれは、あくまで今回の騒動のオマケふうのエピソードとか裏話であるにすぎない。楽屋裏の話。こっそり井戸端や酒場でおしゃべりするための話題。
今回の騒動は、佐野デザインを五輪エンブレムに正式採用するかどうか、ということだ。それは、「採用しない」という形で、一挙に解決した。これだけが問題であったからだ。
一方、劇場ロゴとの類似性とかパクリとかは、ほとんど話題になっていない。だから、こんなことはどうでもいいことだ、というふうに評価している。
深津貴之 氏の見解を(間違っているとして)否定しているのではなく、(本質とは関係ないものとして)軽視しているだけだ。勘違いしないでほしい。
その後、状況が少し変化したようです。次の質問に答えようとして、気づきました。
id:Eizo0000 何と戦ってるんだ。
この問題を専門家(つまりデザイナー)に委ねるべきで、大衆がこの問題に口出しするべきではない、という発想を問題視しています。そのことは、本文中で引用した箇所で、下記のことです。
しかしながら、この箇所は、今では次のように書き直されました。
深津貴之 氏が、元の文章を書き改めたので、本項において問題視したことは、かなり色褪せてきたとも言えます。
「大衆はデザインには無知なんだから口出しするな」というような方針が、少しは改まったのだとすれば、本項は一定の役割があったと言えるでしょう。
※ 「集約されていまう」というタイポは、原文のままです。
id:honma200 結論とかまとめを書かないから散らかりすぎてて良く分からん。
まとめ:
この問題の本質は、最終案が劇場ロゴのパクリであるかどうかではなくて、考案者があちこちで画像の盗用をしたという問題である。つまり、デザインの問題ではなく、法律違反をした作者のデザインを五輪に採用するかどうかというという倫理面の問題である。したがって、この問題をデザインの専門家に任せておけば済むというわけには行かない。「デザインの専門家に任せよ」という主張は、今回の問題の本質からは外れている。
今回は貼るだけにしておく。
真善美の探究【真善美育維】
【真理と自然観】
《真理》
結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。
“ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのか, と。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”
私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。
我々の世界は質感。
また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居ない。この世界・感覚・魂(志向性の作用した然としてある意識)の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。
《志向性》
目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。
『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』
『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』
我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。
《思考》
『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』
『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』
『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。→言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』
考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。
《生命観》
『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』
『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』
生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。
生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。
*己と自の発展
己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体に作用して意識に影響を及ぼす。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。
然の理・然性
然の理・然性(第1法則)
世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。
しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?
言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。
これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。
例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。
そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。
愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。
私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。
しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。
同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。
「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」
神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。
あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。
【真善美】
真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。
善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。
△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)
千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。
美は活活とした生命の在り方。
『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』
予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることなく認識と相互作用してこれを成し遂げようとする生命の在り方。
《抑止力, 育維》
【育】とは或技能に於て仲間を自分たちと同じ程度にまで育成する, またはその技能的な程度の差を縮める為の決まり等を作り集団に於て一体感を持たせること。育はたんなる技能的な生育ではなく万人が優秀劣等という概念, 価値を乗り越え, また技能の差を克服し, 個人の社会参加による多面的共感を通じて人間的対等を認め合うこと。すなわち愛育である。
【維】とは生存維持。優れた個の犠牲が組織の発展に必要だからといっても, その人が生を繋いで行かなければ社会の体制自体が維持できない。移籍や移民ではその集団のもつ固有の理念が守られないからである。組織に於て使用価値のある個を酷使し生を磨り減らすのではなく人の生存という価値を尊重しまたその機会を与えなければならない。
真善美は生命哲学を基盤とした個人の進化と生産性の向上を目的としたが, 育と維はその最大の矛盾たる弱者を救済することを最高の目的とする。
相手の名前を刺青で刻むなどといった方法もあるが、それら全体を含めて両者の意見が完全に一致した現状と今後の一致について原則的な契約があることを他者に証明するのは証明書などもない関係上、式によって公知するしかない。
業務上のパートナーや生活福祉のパートナーでも愛がある可能性はある。その接点から関係を拡大していくこともありえる。
その逆方向からのアプローチとして、全体の信頼を確立した上で業務や福祉、生活を共有するということの理由として愛がある。愛は信頼を発生させる装置として働く。
契約の重要性や確実性を、語る愛で測るしか人間関係を説明できない現状、異性だからやたら好きになる、強力な枷となる前提を利用するほかなく、性差を利用した愛と同じ表現以外に性別関係なく手段がないため。
あこがれかの妄想の終着点。アニメファンの聖地巡礼みたいなもの。
信頼関係の公知が必要ない、契約の重要性を認識するために他者の反応を見たいという意向がなければ特に意味はない。
婚姻に証明書がないじゃん、同性ですんでるだけで認められたって認識がない → じゃあ証明書つくりましょう → 公的予算
同性愛者のコミュニティは発足したてで理解者もすくなく私たちは被害者だった → 公知活動には助成が必要だね
そういう取り組みに携わる人がいない → そういう人たちの雇用創出
あと、そういうのいいよねってほんとに思ってボランティアな人。
ぶっちゃけ異性のカップルでも数年以上同性しててなんでいまさら結婚、ってときには社会的な保障やら信用やら手続きやらが必要なときくらいで
共働きで年金や健康保険の種別が違うカップル(医師や看護師と作業員や自由業etc)なんかは結婚は子供の有無なんかでかわってくると思う。
なんかしらんがNHK深夜のニュース番組にソフトバンクの顧問が出てきて、
ひたすらソフトバンク礼賛垂れ流し。
いちおうグーグルのインド系役員を高額報酬で引き抜いたという話がまくらになってるが、
結局なにも説明せず礼賛に終始。この顧問というのが元民主党の国会議員の嶋聡で、
要するにソフトバンクの機密戦略なんかなんも知らないんだよな。
俺もちらっと見てたんだが、しかし改めて読むとすげえな無内容で。
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これまでの放送から 6月25日(木)|NHK「NEWSWEB」 http://www3.nhk.or.jp/news/newsweb/#agoThu
【嶋聡】報酬というのは長期的な面と多面的な面を見ていかなきゃいけないと思うんですね。長期的には、日本の企業というのは私どもだけじゃなくて世界で闘わなくちゃいけない。世界で戦うというのは例えばグーグルとかアップルとか、そういうところがライバルなわけです。このニケシュさんという人はグーグルのナンバー2をしてた人で、グーグルの頃に、数十億の、もう、上の方の収入を貰っておられたんですね。まあとくに今回、一時的な契約金も入ってますからこういう金額になってますけども、それだけの、グーグルで十分、世界的な、世界一のインターネット企業で働いておられて数十億円以上の金額を貰っておられた方だということが第一点。長期的にはそういう闘いに参加されるだろうと。
もう一箇はね、多面的な問題があって、あのー、孫正義社長がですね、ニケシュさんは、わたくしの後継者候補だと。最有力の後継者候補と言われたわけですので、これもまた新たに、新しい展開で、世界でやっていくためには重要な人物だと。そういうふうに考えたらね、いまこの瞬間は凄いなと思うかもしれないけど、長期的に、ずーっとこれから先ひとつの企業をですね、成長させていったらね、それはふさわしい額だという形になると思いますね。
女性アナ)グーグルの元幹部のニケシュ・アローラ氏、どんな人物なのか。改めてVTRにまとめました。
(*VTR:アローラが21歳でインドを離れ、のちグーグルで頭角をあらわしたことなどを紹介)
男性アナ)IT業界ではものすごく有名人ですね。どういういきさつで孫社長は、アローラさんをこれだけ熱心にくどかれたのか。
【嶋聡】(アローラ氏が)グーグルにおられたときにですね、ヤフーの検索エンジンをグーグルに替えるというときの、交渉相手だったんですね。5年前。それでまあ、試合で対決したと。その結果、もう、非常にすばらしい能力をもつ人だと。人格的にもすばらしいと。まあ、スティーブ・ジョブズ。ビル・ゲイツ。それからアリババのジャック・マーに匹敵するような人物だと孫自身も感じたということなんですね。切っ先を、こう、戦わせてですね。
それからね、あの、いい人なんですよね。たとえば、いま「21歳で」って書いてあったけど、21歳のときにインドから、お父さんから300ドルもらって、スーツケースふたつもって、でアメリカに行って、でベンチャー始めたと。そこからこう、ここまで来た人だと。だから誰でもチャンスがあるということを体現してる人だと思うんですよ。ね? 若い人たちも、起業するのも一つだけれども、こうして会社に入って、まさにこういう報酬を得れるようになることができるという、チャンスがあると。それを体現した人だというふうに私は思いますね。
女性アナ)ツイートでは「日本人でこういう人が出て世界で存在感を示せればいいのに」と…
【嶋聡】(さえぎって)おっしゃるとおり、おっしゃるとおりなんです。今はね、こう、グーグルにおられた方をやりましたけども、われわれも日本人、世界に開けたソフトバンク・アカデミアという後継者育成の機関を作ってますしね。いずれまたこれで当然、世界で活躍できる日本人も出ると思うんです。ただね、あの、グーグルの時価総額って44兆円なんですね。日本でトップのトヨタでも28兆円なんですよ。まだそれだけの差がある。だからまずは、後継者の目標は、ソフトバンクの時価総額9兆円を、10年で5倍にすることでありますから、それが45兆円。それでグーグルと同じぐらい。まずそこでやって、それからどんどん日本人が出てくるんじゃないですか。
男性アナ)逆に、世界的企業であるグーグルを辞して、どうしてソフトバンクにアローラさん自身は決めたのかなと。
【嶋聡】これはほんとに孫社長とミケシュさんだけの話なんで分かりませんが、やっぱりね、お金では動かないと思うんですよ、これぐらいの人になると。夢とね、高き志っていうかね。志で共鳴しないと動かないですよ。そこで多分、多分ですよ、これからインターネットで情報革命すると。そしてアジアが、これからインターネットの、おそらく2030年には全インターネット人口の65%がアジア人になると。それまで活躍する、それまでしっかりやるというふうに、まあ思いを持ってるわれわれと、それまで自分の思いを実現したいというインド人のミケシュさんがね、思われて、高き志で合意したということだと思いますね。
男性アナ)いま視聴者からも、「あまり納得してない様子ですね。自分も」と来てるんですが…(苦笑)。たとえばシリコンバレーの各社は非常に分かりやすい、世界をこういうふうに変える、技術をこう変えるよという具体的なイメージやプロダクトを持って展開してますよね。ソフトバンクの場合、やはり通信というイメージがあるんですが、今後アローラさんと孫さんがタッグを組んで、アジアのIT企業としてのビジョンをどう持っているのか、なかなか説明難しいかもしれませんけど、お聞きしたいなと。
【嶋聡】ただ単にインターネット革命、情報通信革命という一つの基盤において、いろんな事業をやっていくと思うんですね。たとえばアリババなんてのは電子マーケットですね。あるいは、こう、タクシーの配車システムとかですね。いろんな起業家を束にしていく起業家集団としてやっていくと。その集団は日本人だけではなくて、もちろん日本人がいてもいい、いろんな各国の人が集まって全体でインターネット革命を推進していくと。そういうような図だと思うんですね。インターネット革命ってね、まだ始まったばかりだと思うんですよ。うん。産業革命っていうのも、最初、産業革命があって最後のところまで行くのに100年くらいかかってると。だから、そういう同士を集めていくと。最初の同士がニケシュ・アローラだったと。そんな感じに私は思いますけどね。
女性アナ)今回165億円を出して、それだけ欲しい人材を手に入れたと。でもそれだけ競争が激しい業界ですよね。もっと出す企業があったら行っちゃう可能性はありませんか。
【嶋聡】それはね、やっぱりわれわれの志と、どこまで共鳴してるかという話だと思う。うん。やっぱりもう、そこまで来ると、もう、ね、相手を信用する。信頼して、任せる。そして信用して、互いに戦っていく。それでこそ同士なんで、そんなことは考えてないです。