はてなキーワード: 多面的とは
もちろんフェミニズムと新自由主義という思想は非常に親和性が高く、互いが互いの考えに片足ずつ突っ込んでるという感じで切っても切り離せないのは周知の事実ではある。
しかし、決定的に相容れない部分があるのもまた事実。新自由主義というのを単純化して少々乱暴にいえば弱肉強食の理論なわけで、性差別の撤廃や男女同権をかかげるフェミニズムとは目指すべき世界観が理想郷が根本で違っている。
新自由主義者たちが推し進めた既得権益の打破、抜本的改革、岩盤規制の破壊、構造改革、民営化、規制緩和、国家戦略特区、道州制、小泉フィーバー、自民党をぶっ壊す、これらの政策にフェミニズムは利用された。女性の社会進出、男性社会の破壊。確かにフェミニストの掲げる目標の一部分は達成したのかもしれない。
みんなで貧乏になれば平等という話だ。世の中のイケメンを全員抹殺すれば相対的に顔面偏差値が上がってハーレムなのにと、妄言を吐くもてない男の与太話と大差ないが、それがまかり通るのが平成である。
あの竹中先生もおっしゃっていた。日本の最大の既得権益は正規労働者だと。彼ら正社員は非正規から搾取している悪人だと、だから全員非正規にすればみんなハッピーで世の中うまくいくとかなんとか。
真の狙いは不明だが、もしかしたら1%の金持ちに批判がいかないように正社員と非正規の対立を煽っているのかもしれない? もしそうだとしたらとんでもない策士であり。陰謀である。パソナの陰謀でしかない。
そんな巨悪があるかないか知ったことではないが、俺としては日本中の俺より幸せな人間が不幸になることを止める理由がないので、構造改革も規制緩和もどんどんすすめてくれてかまわない。みんなで不幸になろう。この日本という泥舟にのって、夜の国道を無灯火で爆走し、赤信号をわたりまくるのだ。
しかし、弱者男性とか言うゾンビよりも厄介で醜い死んでるのか生きてるのかわからない、燃えるゴミと燃えないゴミの間に生まれたような人間たちがフェミニスト連中を攻撃しているのは喜劇としかいえない。
たしかにフェミニストと聞くと三角めがねをかけて語尾がざますで田島なんたらみたいなのを想像しまいがちではあり、あのような人間なら傷口に塩を練りこんで、永眠する呪いのをかけたくなる気持ちが理解できなくもない。
が、それは罠だ。だれが仕掛けたかはしらん。しかし間違いなく弱者男性とフェミニストが対立しているのを見て爆笑しているやつがいる。弱者を生み出した黒幕が囁いているのだ。女を叩けと公務員を叩けと正社員を叩けと若者を年寄りを、地方を叩けと。
そんな黒幕が本当にいるのかは知らん。しかし弱者を生み出したのはフェミニズムなんていう軟弱で被害者面した奴らの思想ではない。弱者を追い詰めるのはいつだって強者の理論に決まっている。
そもそもこの新自由主義的政策を行ってきた政党が保守政党を名乗る自民党だということを考えてくれ。
ネオリベは保守と手を組みフェミニズムとも手を組み、巧みに姿かたちを変え、鵺のような立ち振る舞いであらゆる人間あらゆるす思想を取り込み吸収していく、よく乾いたスポンジのように。どんな考えを取り入れても新自由主義は歪まない、曲がらない、へこまない。矛盾を起こさない。きっちり辻褄を合わせてみせる、合わせたように振舞える。どんな角度から批判されても、するりとかわしてみせる、それはしなやかな柳をを連想させる。柔軟である。どんな相容れない存在も許容し、あるいはこちら側の色に染めるのだ。
そんな詐欺師のような理論は世界中であらゆる政治的な場面で大活躍だ。八面六臂とはこのことか。
まさに最強の理論。弱肉強食の理論こそが、この複雑な世界をもっともシンプルで、なんの矛盾も間違いもなく見渡せるのだ。誰だって弱肉強食を否定できない。
多面的なあらゆる関係性のなかに生きている俺らが一番最初に気づく真理がこれだ。
これに一枚かまない理由はない。俺もこの理不尽なゼロサムゲームに勝ちのころるために、弱者どもを言葉巧みに操り、被害者のふりをしながら一人ひとり地獄へ突き落としてやろう、そうしよう。
強者に媚びへつらい寄生し弱者からは搾取する。現実をとことんネガティブに捉えれば所詮こんなもんなのだ。開き直って詐欺師にでもなったほうが美味しい飯を食いながら人の不幸でおかわり三杯はいけるだろう。
右翼も左翼も利用して、男と女を対立させ、若者と年寄りを対立させ、日本人と外国人を対立させ、不毛な殴り合いを遥か高みから見下ろすのだ。膝に猫を抱えながら。
そしてどの勢力にも関わり、裏から扇動し、洗脳する。しかしどいつも俺らを批判できない。なぜならどいつもこいつも新自由主義に片足、いや両足つっこんでいるのだから。
フェミニストと新自由主義者が目指す理想郷はまったくの別世界であるが、これからもフェミニズムは利用され。新自由主義のピエロ、もしくはパンダとして消費されるだろう。
安部首相のいう女性の活用とかいう政策はまさにフェミニストと新自由主義者のねじれが引き起こした暗黒面だ。女も男も幸せにならないのだろう。いい気味である。
この状況で、フェミ女が増田にセク男についての批判を述べる意図は、「お前が注意してやれや」ってことであって、別に「私のイラ立ちに共感して」ではないのではないか、と考えるのは、こちらが男性脳だからなのかね。でもって、この状況下で「セク男は馬鹿だから自業自得」と考えて、注意するという発想にならない増田が単に女性脳ってことなのか。それとも致命的に鈍いのか。
あるいはそもそも、セク男と増田とは、フェミ女が考えるような「友人」などでは全然なくて、自分の身に危害がない限り彼がどう思われようがどんな目に遭おうが知ったこっちゃねえという単なる「知人」に過ぎないということなのか。そうなのか?
結局、直接言わないフェミ女も、「人間を多面的にとらえている」と自称しつつ放置する増田も、そして天然セク男も、全員ひっくるめてコミュ障の群れだなあ、というのが、通りすがりの単なる感想。つーか「お前ほんとバカ。周囲から見たら単なるセクハラ野郎だ。キモいからやめれ」って言ってやれや。半年も友だち付き合いしてるなら。
なんでも道徳が科目として扱われ、成績として評価されるようになるらしい。
TBSニュース23「変わりゆく日本」というコーナーで、試験的に行われた道徳授業の様子が放映された。
以下のシチュエーションについて生徒たちの意見を募り、先生と議論する。
「図工の時間。男の子が、となりの女の子に「赤い絵の具を忘れたから貸して」と言っている」
「女の子は(貸してって頼まれるの、今日で3回目だ……)と思っている」
「あなたが女の子の立場なら絵の具を貸しますか、貸しませんか」
むしろ相手のことを思いやることができるか、より多面的な見方ができるかどうかで判断する。
たとえば「もう2回も貸しているのに、今回貸したらきっと次も忘れちゃう。それはあなたのためにならないから、貸さない」というのは、相手のことを考えているので三段階評価のAが与えられる。
これを見て私は「何かちがうな」と感じた。
まず「あなたのためにならないから」というのは(もちろん回答例にすぎないのだが)、どうにも押し付けがましい。まるでおかんの言い草ではないか。友達どうしでそんな断り方、どんな年代でも普通はしない。
また、絵の具はもちろん一人一人の所有物なのだから、気分任せで「3回目だからもうイヤ」と断って、何が悪いのだろう。これでC評価じゃ、世の中のたいていの大人は道徳的に落第ってことになる。
この違和感の正体をつかむために思考実験を試みた。「もしも私に娘がいたとして、高校生になったとき、どんな対応ができるようになってもらいたいか?」
これをゼロベースで、すなわち「道徳」からは一旦切り離して、考えてみる。正直に。
1.ひと呼吸置く
とにもかくにも、何でもOKする人間にはなってほしくない。頼まれれば、人はついイエスと言いたくなる。でも衝動に流されてほしくはない。なぜなら(もう三回目なのに)という気持ちがたしかにあることを無視してほしくはないからだ。この気持ちは本音として是非とも伝える必要がある。そのためには「いいよ」と簡単に言ってしまわないこと。
2.相手の話を聴く
こちらとしては(3回目なのに)という気持ちを伝えてほしいのだが、その下準備として、相手の話を聴く必要がある。理由は、対話の技術として、としか言いようがない。「言いたいことがあるときは、まず聴く。そのほうがうまく行くことが多い」ということは多くの人が経験的に知っていることだと思います。
ただしこのとき、「貸して」と言われて「どうして?」と答えてほしくはない。なぜなら「どうして貸さなきゃならないの?」という文は反語として解釈されかねない。つまり「貸す理由なんてないでしょう」という意味に。私としては娘に男の子との対話をうながしてもらいたい。「どうして?」という言い方だと、むしろ対話を拒絶するニュアンスに近づいてしまう。
だから、やはり対話の技術として、相手の言うことをオウム返しにするのがいい。この場合、「貸して」に対して「忘れちゃったの?」と言っておくのがスマートだと思う。こうすれば、発言自体に新しい意味はないけれど、「私はこの件についてあなたと対話する準備ができていますよ」という態度を伝えることができる。
それにもしかすると、こちらが想像していなかった理由が潜んでいるのかもしれない。たとえば「きのう買いに行ったんだけど文房具屋が臨時休業だった」とか。聞かないことには、そういう事情も分からない。
3.自分の気持ちを伝える
「忘れちゃったの?」に対して「いやー買おうと思ってたんだけどさ」とか返事があったとしよう。
この二言三言を挟むだけで「えー、もう三回目でしょ」と言いやすくなる。「三回目だから貸したくないよ」とずばり言い切らないまでも、その気持ちは伝えられる。
4.成り行きに任せる
相手の話をうながし、自分の主張を伝えたなら、貸すか貸さないかはそれこそどっちでもいい。気分任せで構わない。まぁこの場合、頼まれれば貸してあげていいと思う。たかが絵の具なんだから。
「いやー悪い。頼むよ。次は絶対用意するから」「しようがないなあ。今回だけだよ」みたいな会話は自然だと思う。お互いに不満も残らない。
以上の手続きは、私にもし娘がいたらこうできるようになってもらいたいし、また私自身がかくありたいと望む姿でもある。
なぜ高校生の娘を想定したかというと、私は教員のみなさんのようなスペシャリストではないからだ。一介の素人にすぎない。だから小学生が何を考えているのか、小学生に何ができるのか分からない。でも高校生なら想像しやすい。
そこで次にこう考えてみよう。「ひと呼吸置く」「相手の話を聴く」「自分の気持ちを伝える」「成り行きに任せる」この四段階のすべてを小学生に教えるのは難しい。ならば、最低でもどれができれば、道徳の入り口として満足できるだろうか?
まず「ひと呼吸置く」のは小学生には難しいと思う。衝動的な反応を自制するのは、ある程度大きくなってからでないとできない。
「相手の話を聴く」。これはぜひできるようになってほしい。「誰かに何かを頼まれたら、『○○して欲しいの?』といちど聞き返してごらん」と一般化して教えるのは難しくない。
「自分の気持ちを伝える」「成り行きに任せる」はできてもできなくてもいい。前提条件として「相手の話を聴く」のが先だ。
というわけで「あなたが女の子の立場だったら絵の具を貸しますか、貸しませんか」というディスカッションテーマに対する私の回答は次のようになる。
「『絵の具を貸してほしいの?』と聞き返して、反応を待つ」
さて、この回答。みなさんはどう思うだろうか。教員はどう評価するか? 「自分勝手ではないけど、消極的すぎるな」という判断でB評価。こんなところか。
あるいは「貸すか貸さないかで尋ねてるんだから、どっちかで答えろや」と杓子定規に考える人もいるかもしれない。(道徳の授業なのに……)
また、みなさんはこう思われるかもしれない。「いまお前が並べたのは《コミュニケーション術》ではないか。議題に挙がっているのは《道徳》である。問題がすり替わっている」と。
たしかにそうだ。しかし果たして本当に道徳を教えることができるのか。どうだろう。大きすぎて扱いかねる論題だ。それに対して、コミュニケーション術なら教えることができる。少なくとも《技術》として。
思いやりは理屈で教えられるようなものではないと思う。相手がどう考えるか、自分ならどう感じるか、想像したり体験したりするなかで学ぶものじゃないか。対話をうながす姿勢をまず技術として身につけることは、その経験を豊かにする入り口となる。
だから私は、もし自分の娘が私と同じ回答をしたら、A評価を与えてあげたい。なぜなら、このようなオープンな姿勢こそ、思いやりを本当の意味で育むための第一歩であると考えるから。
仮に《道徳科目を考えるシンポジウム》みたいな場があったとして、もしもくじ引きで一般人代表として選ばれたなら、私はこう意見を申し上げる。
「先生方は道徳という言葉に引きずられて、やや教条主義的になってしまっているのではないでしょうか。つまり『道徳とはかくあるべきものだ』という定義から始めようとしておられる。だけどそのことが不自然な会話・違和感のある評価基準に結びついているように見えます」
「道徳を直接に教えるのではなく、間口を広くとって考えてみてはどうでしょう。『いま道徳を実らせなくてもいい。将来の芽を植えられればよい』といったように。そうすれば自然な対話・評価可能な《技術》に焦点を当てられまず。一例として、私が述べたような会話モデルが考えられます」
ライトノベル『魔法科高校の劣等生』を読んで、ネットの評判に流されてしまっていた自分を実感した話
http://d.hatena.ne.jp/thun2/20150104/p1
この記事を読んだわけだ。
で、ブコメとか色々読んでこれ以上魔法科高校の劣等生を読んで不幸な人が出る前に誤解を正しておいたほうが良いと思ってな。
題名:魔法科高校の劣等生 -The Irregular at Magic High School-
・2008年10月12日、小説家になろうにアマチュアWeb作家として連載開始。
・2011年に電撃文庫化。担当編集は三木一馬((「俺の妹がこんなに可愛いわけがない。」「とある魔術の禁書目録」「ソードアート・オンライン」の担当編集も務める有名編集者))。現在の総発行部数は公称560万部。
・体系化された魔法を扱う職業「魔法師」を養成する架空の教育機関「魔法科高校」を舞台とした学園バトルアクション
・作者は本作品をSFエンターティメントの一種「超能力もの」であると述べている。
まず、初めに言っておきたいのが魔法科高校の劣等生はロードオブ・ザ・リングみてえなハイファンタジーじゃなくて、「とある魔術の禁書目録」みてえなよくある超能力ものだ。たまに勘違いしてる奴がいるけど、ただの超能力ものだ。
このへん押さえとけ。
「あと、俺TUEEEEEじゃなくて敵YOEEEEEなんだもんなぁ。」とかのたまってる奴たまにいるけど、お前の見たいもんは俺TUEEEEEでは見れないから。
例えばドラゴンボールを俺TUEEEEEだと呼ぶ奴が一部でいる。
なんでそんなこと言われるかって悟空が圧倒的戦力差で持って敵を蹂躙するからだ。
代表的なのがVSナッパの話だ。
戦闘力4000程度のナッパ相手に悟空がぼっこぼこに無双して、上から目線で説教するからだ。
でもドラゴンボールはそこまで俺TUEEEEとは呼ばれてない。
なぜならそのあとすぐに超強いベジータが出てくるからだ。主人校と敵の戦力差が重要なわけだ。
敵が銀河系破壊できるキャラなら主人公は5次元に移動して一方的に相手を粉砕するから。
つまり強い敵が出てきた時点でもう俺TUEEEEじゃねえんだ。
あと、俺TUEEEEがすきだからって努力が嫌いとは限らんから。
普通に史上最強の弟子ケンイチとか僕のヒーローアカデミアとか読むから。
子供みたいなこと言ってないで大人になろう?
あと、魔法科高校の劣等生でたまに物理学が云々とか言ってる奴いるけど、殆ど関係ないから。核融合とエネルギー保存法則の部分だけだから。
あの世界の魔法の仕組み、オブジェクト指向プログラミングだから。
オブジェクトの情報を操作して魔法発動させてるだけで物理学とか殆ど関係ないから、適当知識で知ったかするのいい加減やめろ。
あと、てめぇの空想の中のパーフェクトワールドと比較すんの大概にしろ。
知ったかで適当に難癖つけてストレル発散するのいい加減やめとこか
あと、リベラルキチガイは宗教だから、作品世界の中の話と主張をごっちゃにしちゃうから読むのやめとけ。
別に作品世界=作者の主張とも限らないし、それを理由に特定個人の誹謗中傷もいい加減やめとけ。
※追記
id:fusanosuke_n 残念ながら名前だけでそれを期待して実際見たら違ったのでめためたに叩きまくってる奴がいたんだなこれがぁ。
id:harisenbon_fukurahagi そしたらそれは俺TUEEEEに似たなにかであって俺TUEEEEじゃないってことだ。技術がどうとかの問題じゃない。
良い俺TUEEEEEとか言って自分の都合のいい作品を持ってきて片方を貶めすのはやめろ。それはおめーにとっての俺TUEEEEだろうが。
id:kori3110 批判してはいけないんじゃなくて、適当知識でしったかしたり無理やり屁理屈持ってきて批判するなってことだ。
敵YOEEEEEなんだよなぁなんてのは最たるものでミステリ読みながら剣と魔法が出てこないとか文句行ってるようなもんだ。
id:yajicco そういう極論使って誇張すんのもやめろ。どう考えても蟻にはならねえだろ。それともお前は人間が蟻にでも見えるのか?脳みそイカレてんのか?
別に敵は普通の人間だよ。ただし、主人公は大陸吹っ飛ばせるけどな。
id:yunker_y 魔法科高校の劣等生の世界(パラレルワールド)ではそういった魔法や超能力や神通力のようなオカルトの力は全て同じ仕組で動いており、忍術もその1種です。
つまり、火遁の術で火を噴いたりミズグモの術で水面を走ったりというような架空の話は実在したのだ。という世界観なわけです。実際敵キャラに超能力を使ってくる敵ものちのち出てきますしちゃんと設定を読んでいれば忍術というのも別段おかしくはないというわけです。
ちなみにキャラの中には先祖が魔女だったという人も出てきますよ。まぁ、字面で笑ってしまうというのもなんとなくわからんでもないですけどね。
id:nemuibayashi ところがブコメを見ても分かる通り、極論か藁人形たたきの人間が9割以上なんですなこれが。ただの体の良いおもちゃにして遊んでるだけですよ。まじめに議論してる人がほとんどいない。重箱の隅をつつくか極論で遊んでるだけですよ。
そういうアホどもに別の作品読んでろよと言ってるわけです。
id:YukeSkywalker っていう
id:suna_kago 魔法科の問題で特徴的なのが肝心の魔法科の内容がどんな話なのかよくわからないと言うところに尽きますね。批判する側も私も含めて基本的に作品設定の外やまるで関係ない事柄ばかりが取り上げられて場外乱闘を繰り広げている状態で何が問題なのかという点が一向に明らかにならないので。
ブコメを見ても批判しているという点のみが共通しており、肝心の内容はまるで統一性が感じられずカオスな状態に陥ってしまっています。(このエントリーのブコメにかぎらず。)
西谷は「主人公は作家の分身」であり、それは「五感を共有していること」、「心の奥底まで共感しあうこと」だとするが、だからといって「主人公が作家の思うように考え、行動することを意味するのではありません」と警告する。五代/榊もまたありがちなワナビのラノベについて「キャラクターが作者を代弁するただのお人形になってる」と揶揄している。
このように見てみると登場人物と作家の関係について、作家が主なのではなく登場人物が主である、と主張しているように見える。しかし当然ながら各場面における登場人物の言動や思考は作家によって執筆されるのであり、作家が考えないのであれば誰も考えてはくれない。
この点でヒックスは登場人物を作家の一部であるとして、作家のある面を誇張したものであることを求めている。つまり嫉妬深い人物を描くならば自分の嫉妬深い側面を誇張した人格を創造する、というもので、全くの新たな人格を創造するのではなく、そのベースはあくまで自分自身だとする。
これに基づけば「キャラクターが作者を代弁する」状態とは、その人物を描くにあたり作家の誇張が無い状態、いわば作中に作家自身が名前だけを変えて登場した状態だと言える。作中に登場する作家自身がどれだけ失笑を買うかはくぅ疲の例を見るまでもないだろう。
登場人物は作家自身である。主人公は間違いなく作家の思うように考え、行動する。しかしその作家の「思う」主体は作家の人格そのままではなく、登場人物それぞれの設定によって歪められ誇張された人格であり、その結果時に作家の人格そのままであれば決して選択することの無い言動に出ることになる。
「キャラクターはある瞬間、勝手に動くものです」とは大塚の言だが、逆に言えば登場人物はだいたいの場合作家の想定通りに行動する、ということでもある。当たり前だが一定の合理性をもって人間は行動するものであるし、他人ならまだしも登場人物の人格のベースは自分自身である以上、ほとんど常に作家の想定外の行動を登場人物がするんです、という状態はありえない。もしそうだとすればそれは単に何も考えておらずその場しのぎで適当に考えているからか、もしくは薬物でもやっているからだろう。
なお突如として想定外の動きを登場人物がした場合、ヒックスはそれにあわせてプロットを書き換えるべきだとする。ヒックスは後述するようにプロットを重視するが、それ以上に登場人物を「愛さなければならない」という。
ヒックスは登場人物を創造する際、その登場人物の将来の夢は一体何なのかと作家に問いかける。これは夢を作家が事前決定しろという意味ではない。それではヒックスが否定する「組み立てられた登場人物」にしかならない。
ここでいう「夢」はその登場人物の人格に依存して考えだされるべきものである。これは大塚が世界設定で指摘した、ある条件を前提にしてそこからどうなるのか、ということを演繹的に導き出していく方法とよく似ている。
もちろん何の事前設定もなく人格を作れと言われても作家当人の人格にしかなりえない。ゆえにいくつかの設定は事前定義が必要である。それは主題や、もしくは世界による必然性を伴った定義であることが望ましいだろうが、それら断片的な設定に後付で作家が適当にどんどん設定を付け足していくのではなく、演繹的に設定が導出されていくべきだ、というのがヒックスの考え方であると筆者は理解している。
西谷がヒロインのブラジャーの形状にこだわった逸話はしょーもないの一言で済む話だが、そこに人格から来る必然性があるのであればわからなくもないと言えよう。
以上のように作家と登場人物の関係について述べてきたが、一方で主人公を決して困難な状況に陥らせないワナビにそれを指摘したところ「だってかわいそうじゃないですか」と反駁したという事例を西谷が挙げている。この点だけ見ると作家が主人公に同化し過ぎたり、感情移入し過ぎることに問題があるように思えるが、西谷がここで問題にするのは、ワナビとは裏腹に読者がまったく感情移入できていないことにある。読者も同様に感情移入しているのであれば、徹底して登場人物への虐待を作家が行うことに逆に嫌悪感を覚えることすらあるだろう。
西谷同様、筒井は「自分が作品に感情移入しているからといって、読者も必ず感情移入してくれるだろうと思うのは間違い」と指摘する。
本格ミステリやSFなど、感情移入を必要とせずとも最後まで読ませる魅力を持った小説は存在する。しかし感情移入が読者に続きを読ませる原動力として強く機能することは言うまでも無く、感情移入できないという状態は読むのをやめようという動機になりうる。読者が感情移入をしてくれるに越したことはない。
さて、基本的に読者の感情移入は物語の中心を担う主人公に対してなされるべきであるが、ではどのような要素が感情移入を誘うことができるのか、という点について各説を整理する。
まず榎本や水島は主人公の年代をターゲットとなる(と下読みや編集部が想定する)読者層と重ねるべき、としている。すなわちラノベの主人公は中高生であることが望ましいと言う。同じ理由で性別も男性の方が好ましいと言いうるだろう。スレイヤーズやブギーポップのように女性主人公の成功例はもちろんあり、水島のようにそれを地雷ジャンルとまで言うのもいかがなものかと筆者は思うが、女性より男性の方が主たるターゲットである男子中高生の感情移入を誘いやすいことは想像に難くない。
まず作者自身をモデルとして主人公に据えるやり方について、「基本的に失敗する」「ナルシズムか自虐に陥るのがオチ」と榎本は断言する。もちろんそれで成功している例もあるが((森博嗣などは成功例と言えるだろう))、分の悪い賭けであることは確かだろう。
主人公に求められる特質について、西谷、榎本、飯田は読者の憧れを具現化していることであるとする。憧れとは立場的、能力的、性格的に秀でていることでもたらされるものだと榎本は言い、クーンツもまた「高潔」「有能」「勇気」「好感」という要素を挙げ、これらを満たしていることが必要だとする。
そして最も重要な点は、完璧超人では読者の共感が得られない、という点である。「ジェームズボンドのような例外はあるが」とクーンツは言いつつ、共感を得られやすい主人公には上記の要素に加えて「不完全さ」が必要だとしている。これは人によって「欠点」「弱点」と表現は異なるが、いずれも同じ意味である。
一方で「低スペックで卑屈、無個性、へたれ」な主人公像については、飯田は「マスな読者のニーズとはマッチしない」として、そういった主人公のラノベは「実売数千部のマイナー作品」に見られる傾向だという。榎本もまた、読者が作品を読む理由の最も大きなものは「自分とは縁遠い出来事を手軽に楽しく疑似体験するため」であり、現実の平凡な中高生に近い主人公像ではそれが得られない、という。
しかしながら水島は「平凡な主人公」でも問題ないとする。超人的能力を持った主人公像を否定することはないが、榎本や飯田のように平凡さを否定することもない。西谷も同じであり、憧れへの言及は最近のヒットしたラノベを見ているとそのような傾向がある、と言うにすぎず、読者の分身として機能する平凡な主人公像も肯定している。
さて、筆者はこれらの各説は人物の能力と精神と倫理を区別せず論じていることで生じた混乱だと考えており、ここで対立があるとみることは無意味だと考える。
能力とは例えば「直死の魔眼」のような、その人物だからこそ実行可能な、常人には実行不可能な行為の名称である。この点での超人性を主人公が備えているかべきかは物語上の必要性によって判断されるべきであって、主人公がそうした点で無能力であることは全く問題なく許容されるし、また絶対に負けず死ぬこともない完全無欠の超人的能力を持っていても(それが物語上必要ならば)問題ない。
次に主人公の精神についてであるが、これは完璧であってはならず、平凡でなくてはならない。あらゆる誘惑に対して微塵も揺らぐことなく、確固とした信念を持ち理性と知性に溢れた決断をし続ける聖人君主はご立派すぎてうさんくさく、クーンツが言うところの「好感が持てること」という要件を満たさない。飯田にしても「ヒーローは悩む存在である」としてこの点での超人性を否定する。自分の将来や恋愛といったわかりやすく、読者が共感できる悩みを主人公は持つべきであり、さらに「何を考えているのか、わかりやすく書くほうがよい。感情がオープンにならないキャラには感情移入しづらい」とする。
最後に主人公の倫理は、読者の倫理に反してはならない。主人公への感情移入によって「あらゆる女の子にモテまくる存在であるという全能感」を読者は得るのだと飯田は言うが、しかしどれだけモテようとも複数同時並行で交際することは一般に許容されない。「主人公は鈍感でなければならない」とする指摘は、倫理的正しさを保ったままその状態を維持する点で(安直だが)効果的に機能する。
一方で木刀を持って不法侵入の上傷害沙汰を起こした同級生に対して警察を呼ぶことなく、彼女の空腹を察してチャーハンを振る舞い、自分の恥を晒しながらも穏やかに話し合いで事態を解決する主人公は、まさしく完璧超人と言うべき存在である。
Unlimited Blade Worksとかマジカッコイイ!憧れる!といった読者もいるだろうが、失笑する人も少なくないだろう。しかし倫理的にそうすべきと読者が思い、また自分にも物理的には不可能ではないだろうがしかしなかなかそうはできないと思うことを主人公がやってのけることにこそ、多くの読者は「憧れ」を抱くのではないかと考える。
さて、憧れは感情移入の要素として極めて強力に機能するが、冒頭からいきなりその段階に持ち込むことは容易なことではないだろう。まず最初に主人公へ興味を抱き、好感度を稼いで少しずつ感情移入を誘い、そして上述のような行為によってその感情移入を一気に深め、確固たるものとして確立する、というのがより無難な戦略だと言える。
こうした興味喚起、好感度向上に役立つ要素として、例えば西谷は「肉体的な苦痛を与える」ことを有力な手法だとしている。クーンツの「主人公を冒頭で過酷な困難に放り込む」も同様の指摘と考えられ、冲方による「苦しい場面での感情移入に成功すると、自然とハッピーな場面ではそのまま感情移入してもらえることが多くあります」というのも、苦痛を伴う場面は幸福な場面よりも感情移入の効果が高いという指摘だと言えよう。
西谷が肉体的苦痛をあえて挙げている点は特に説明はないものの、おおむね誰にとっても明確でわかりやすいという点で精神的苦痛よりもメリットがあるからだろうと筆者は理解している。
そしてもう一つ効果的と思われる方法が、飯田が指摘する登場人物のギャップである。
本項では「キャラ」と「登場人物」を区別しないが、新城はそれぞれ異なる意味で定義しており、曰く登場人物を「内面があって葛藤と選択をする人格」、キャラを「こういうシチュエーションではこういう言動をみせそうな、いかにもそんな外見の人物」とする。
飯田は「人間は意外性のある物語に弱い。とくに、内面なんてなさそうな人物に内面があった、というパターンに弱い」と述べ、人物の外面と内面でギャップを設けるべきだとしている。すなわち新城がいうところの「キャラ」としてまず描かれ、それが物語を通して「登場人物」であると描いていくことで読者の感情移入が誘えるのだ、とする。
ところで飯田は良いツンデレと悪いツンデレがあるとして、良いツンデレは多面的な感情の一つにツンとデレがあるが、悪いツンデレにはツンとデレの2面しかない。だからハルヒは不人気でルイズは大人気なのだ、とする。筆者はツンデレに良し悪しがあるとすれば、それは新城の言う「キャラ」と「登場人物」であろうと考えるため、飯田の説には同意しない。
「ツンデレ」は言動まで類型化された属性である。本来内面であるはずの照れ隠しの典型的言動はまさしく「こういうシチュエーションではこういう言動」であり、そこに人格を読者は感じられず、むしろ「お人形」として認識されると考える。
良いツンデレがあるとすれば、同じ典型的発言をするにせよ、そこに「葛藤と選択をする人格」があると読者に理解されることが要点と考える。ツンデレ喫茶でバイトが事務的に発言する様を見て「ツンデレ萌え!」と興奮できるオタクがいないとは言わないが、ドン引きするオタクの方が多いだろう。
さて、さらに飯田はギャップは「属性」についても適用できるとする((「属性」についての議論としては東のデータベース消費論などがあるがどうでもいいので無視する))。登場人物へは二つの落差のある「属性」を付与することが効果的だと飯田は言う。例えば「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」における「モデル」と「オタク」という組み合わせを挙げ、「モデル」が持つ華やかでリア充的イメージと「オタク」が持つ根暗でコミュ障的イメージを同一人物に同居させることで意外性を与え、興味を喚起できるとする。なお当然ながらこの手の単純な「属性」の組み合わせはそれ以上工夫する余地が無く、すぐに陳腐化する点は飯田自身が指摘するところである。
このギャップについては、陳腐化しやすい「属性」の組み合わせよりもその個別の設定においても有効に機能する。
例えば「とらドラ」における「目つきが悪いヤンキー」かつ「家庭的で親切」という主人公の設定、「小柄で可愛い」かつ「家事は苦手で暴力的」というヒロインの設定はそれぞれ落差のある設定だと言えるだろう。これは個人的なレベルでのギャップであり、また同時に登場人物間のギャップにもなっている。
西谷は主人公とヒロインを組み合わせると完全な人格になるよう相互補完関係を持たせること、また主人公には対照的な人を親友として持たせるのが好ましいとする。しかし主人公、ヒロイン、親友という限定した関係に留まらず、主人公格として機能する集団を想定し、それぞれは別の仲間とその設定にギャップをつけること、というように拡大解釈可能だと筆者は考えている。
○緒方靖夫君 日本の刑務所でのアメリカ軍人と日本人の受刑者の待遇の問題について質問したいと思います。
アメリカ兵が公務外で犯罪を行い、刑が確定した後に入る刑務所は、日本では唯一現在では横須賀刑務所ですけれども、そこでは米兵と日本人の受刑者との間に待遇上の違いがあるのかどうか、端的にお伺いいたします。
○説明員(頃安健司君) 横須賀刑務所における米軍関係受刑者の処遇に当たりましては、基本的には日本人受刑者と同様の処遇を行っているところでありますが、処遇の一部について日本人受刑者と異なるものがございます。
例えば、食事につきましては、日本人受刑者に支給する食事とは献立内容を別にした食事を支給していること。入浴につきましては、シャワーを使用させていること。厳寒期の朝夕には居房の暖房を行っていることでありますが、このような取り扱いは、横須賀刑務所に米軍関係受刑者を収容し始めた昭和三十年以降からの取り扱いであるものと承知しております。
○緒方靖夫君 米兵も日本人も受刑している限りそこで実施されている法律というのは監獄法だけだと思いますけれども、この問題では日米地位協定等々が入り込む余地はありませんね。該当する条項はないと思いますけれども、確認したいと思います。
○説明員(頃安健司君) 監獄法上平等な処遇という原則はそのとおりでございますが、横須賀刑務所におきます米軍関係者の処遇について若干の差異がございますのは、基本的には生活習慣等の相違に考慮を払ったものと理解しておりますけれども、地位協定の実施に関する日米両政府当局の合意の趣旨を踏まえているという点もございます。
○緒方靖夫君 その合意の趣旨というのは明文化されていませんね。ですから、法律では、基づいているのは監獄法だけと言えるんじゃありませんか。
○説明員(頃安健司君) 日米地位協定に基づく日米両政府の合意事項が根拠となっておるということでございます。
○緒方靖夫君 その合意事項とは一体何ですか。どこにどう書かれているか、はっきり言ってください。
○説明員(頃安健司君) 日米両政府間の合意内容でございますが、米軍関係者の拘禁に当たりましては習慣等の相違に考慮を払うという趣旨を内容とするものであります。
○緒方靖夫君 そういうことならわかっているんですよ。だから、要するに基づいている法律というのは監獄法しかないわけです。それははっきりしている。
それで、私はこの問題について非常に重大だと思うのは、非常に大きな違いがある、格差がある。
私は、日本人の元受刑者から手紙をもらいました。また、米軍関係者から証言を得ました。公職にあるアメリカ人は、職務に関することについてはうそは言わない、可能なことはすべて話してくれた。また、刑務所も視察して多面的に調査した。
差別の第一は、まず就寝時間が違うんですね。日本人は九時、アメリカ人は十時。これ習慣上の違いですか、何の違いですか。
○説明員(頃安健司君) 就寝の時限が異なるという点は、ただいま御指摘のとおりでございます。日本人は午後九時……
○説明員(頃安健司君) 横須賀刑務所においてこのような取り扱いがいつどのような理由で始まったかについて調査いたしましたが、現時点では判明しておりません。
それから第二は暖房、今ちょっと言われたけれども、暖房も冬には米兵の房にはスチーム暖房が行われるんですよ。日本人のところにはない。しかも、米兵のためのボイラー夫役は日本人受刑者がやっているんですよ。残業して蒸気を送る仕事をした後、自分の房に戻ると暖房はない、寒さに震えている、こう訴えがあった。そして、ここは日本なのか、アメリカの基地内なのか、そう率直に思ったというんですね。非常に情けない、そう嘆いて元受刑者は私に訴えてきました。
米兵には系統的に、そしてスチーム暖房が行われていることは間違いないわけですね。
○説明員(頃安健司君) 先ほどお答えしましたとおり、厳寒期の朝夕には暖房を給しております。
○緒方靖夫君 どのぐらいの期間ですか。
○説明員(頃安健司君) ちょっと期間については手元に資料がございません。
私は、食事の問題も挙げたいんですね。受刑者の最大の楽しみなんです、食事は。食事の格差はありますか、値段的に。内容は別です。
○説明員(頃安健司君) ちょっと値段的な点は判然といたしません。
○緒方靖夫君 それも重大ですよ。
私は行って食堂に張り出しているメニューを見たんだけれども、アメリカ兵は毎日ステーキなど肉を食べている。フルーツ、ケーキを食べて、三食ごとにコーヒー、牛乳がついているんですね。日本人はすべての食事を通じ一滴の牛乳も出ない、ステーキはもちろん出ない。ケーキなど甘いものは受刑者の方々は甘シャリというそうです。甘いものが食べたくてしょうがない。一番欲しがるそうだけれども、天皇誕生日、こういうときしか、祝日しか出ない。フルーツは十日に一度。これが実態だというんですよ。どうしてこんな格差が起こるんですか。
○説明員(頃安健司君) 御指摘のとおりの内容であるか、ちょっと私正確には承知しておりません。
違いの理由でございますが、横須賀刑務所におきましては、収容中の受刑者に対して所定の予算を支出して調理した食事を支給しておりますが、米軍関係受刑者に関しましては、これに加えて米軍当局からも補充食料の提供がなされておりまして、これらをあわせて調理したものを支給しておりますので、そのために違いが生じているのではないかと思います。
この米軍からの大量の援助品、これが重大なんですよ。これが食事に出されている。米軍関係者によると、刑務所内での米兵受刑者のメニューというのは、何と基地内で軍務についている米兵の食事と基本的に同じにしているというんですよ。そのメニューで必要なものを米軍から全部支給品として受ける。だから、食事にすごい格差がつくことは明らかなんですよ。刑務所では、日本人は差し入れというのはできますか、食事に関連したことについて。これを米兵だけに認める、そういう根拠というのはないんですよ。
そして、差別というのはさらに多数にわたる。余暇、規律でもかなり自由な生活スタイルが保障されている。米兵は毎日シャワーを浴びる。日本
人は週二回のふろ。受刑者は一緒に運動、作業をするから、みんなよくわかるわけだよ、アメリカ人と日本人がどんな暮らしをしているかということを、交流があるから。この歴然たる違いというのはアメリカ人もよく知っている、日本人よりも自分たちははるかに優遇されていることを知っている。
そのきわめつけ、それは米軍将校が定期的に米軍受刑者全員を招集した会議を刑務所内で開いているんですよ。米軍関係者によると、この会議は最新の情報を伝える。豊かな食事、これは体力を減退させない、そして出所後軍務に直ちにつける、このことを可能にする、そういうことを言っているんですよ。日本の刑務所は劣悪で、米軍人そのものをそのままにしておくことはできないという気持ちも働いているそうです。こういう米軍の会議が刑務所内で開かれているというごとは確認できますか。
○説明員(頃安健司君) 米軍当局と刑務所の職員との協議会はございますが、刑務所の中で米軍当局と受刑者との会議が開かれているということはないと承知しております。
○緒方靖夫君 否定されたけれども、アメリカ当局者は自分は行っていると言っている、行ったこともあると言っている。調べてください。調査をすることが随分多いけれども、重大な問題だから。
こういうことは所長の裁量を超えているわけですよ。だから、その点で私思うんだけれども、特別の何か秘密合意があるんですか、アメリカとの間であるかないか。
○説明員(頃安健司君) 先ほど申し上げましたよりに、米軍関係者の拘禁に当たっては習慣等の相違に考慮を払うとの趣旨の合意はございますが、それ以上のものはございません。
○緒方靖夫君 その範囲をはるかに超えている待遇なんですよ、これは。ですから、こういうことが日本の施設で、日本の法律しか実施されていない日本の刑務所でずっと続いてきた、このことは大問題だと思うんですね。これは、結局アメリカの軍隊ということでの特権の行使なんですよ。これが差別の根本的な動機で、戦後しばらく特別な配慮が行われてきた、そう法務省は認めていたけれども、こうしたことが横須賀刑務所では昭和三十年以来ずっと続いている。私は、この格差というのは日本にとっては非常に屈辱的なものだと思います。
こうしたことを放置してきた法務当局の責任は非常に重大だと思いますけれども、大臣、なられたばかりで大臣にこれをどうこうといっても、初めて聞かれた話だと思いますけれども、この格差、また屈辱と思わないか、そしてまたこれについての御感想をお伺いしたいと思います。
○国務大臣(下稲葉耕吉君) 今るるお伺いしまして、感ずることもたくさんございます。実態をよく調査いたしまして、善処するように努力いたします。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/140/1410/14009181410007c.html
大学の夏休み、僕は工場でバイトしていた。その時のラインリーダーの女性(50代後半・パート)がかなり難しい人だった。
とにかく細かいことでキレまくる。そこまで言うかよ・・・ってレベルの長々しい罵倒。少し優しいときは幼児にキレるようなバカにしたような口調。
「私に苦労させないでよぉぉぉぉぉ!!!」「ふつーにやれば不良品なんて出ないんだよぉぉぉぉぉぉ!!」「なんなの?!なんなの?!」
こんな感じでしかも甲高い声で顔を真っ赤にして言うのだ。このまま怒り死にしちゃうんじゃないか?この人。と思ったりした。
彼女にキーキー騒がれるの嫌でミスがあっても怖くて誰も申告できなくなっていき、僕らのラインは不良品製造機と化した。
しかしながら彼女は上司(あまり現場を見てない)には従順で愛想が良く、派遣ばかりのこのラインを任せられるんはしっかりしたアンタだけだよ。なんて言われたこともあるようだった。
彼女は従業員をいびって何人も辞めさせていたそうだ(ほとんど女の子)
僕は彼女のこのエピソードを聞いたとき悪人だと思ったし、一緒に働いてからは本当に消えて欲しいもう喋らないで欲しいって思った。
お盆に会った従姉とそのラインリーダーの息子が昔同級生だということが判明した。
従姉「アンタのバイト先に●●っておばちゃんいるだろ」
僕「うん、怖いババアな」
従姉「昔っから変なおばちゃんだったんよー。息子高校入って引きこもっちゃったんだよ。かわいそうだよね。」
正直びっくりした。工場で怒り狂うクソババアからは家庭の匂いなんて一切しないし、僕は想像さえしなかった。
僕はたった一面しか人間を見ないで消えて欲しいとか悪人だと決めつけていた。
彼女も家に帰って息子の部屋に話しかけてたり、いつも息子の行く末を案じて眠れなかったりするかもしれない。
もし僕が引きこもったら母ちゃんはどんなに悲しむだろうか。
彼女も誰かの母ちゃんなのだと認識してから、少しだけ彼女に対して許容範囲が広がったと思う。もっとも8月末までの短期のバイトだったから残り時間はわずかだったが。
あの出来事以来人間を多面的に見ようとするクセがついたと思っている。
今もたまにラインリーダーを思い出す、でも嫌な気持ちにはならない。息子は社会復帰しただろうか。母ちゃんに心配かけんなよって一発教育してやりたいもんだ。
自己主張しないで人と合わせると友達がたくさんできて人から好かれて楽しい気もする。
自己主張しすぎて協調性がないと友達がいなくなって寂しい気もする。
自分らしさとか自分探しとかいう謎の言葉がJ-POPの歌詞でたくさん使われるし、それが詞のテーマになっていたりもするもんで大事なことのように思われるが。もうそんなのはどーでもよくなる。
このことを暗黙の了解として、段々多面的多重的コミュニケーションをとり始める...
この人にはこれ以上自分を出すべきではないや、この人にはほぼ全部出していいや、この人には合わせとくだけでいいや。
相手との距離の取り方を初対面から直感的論理的に過去の経験から計算し、多面的多重的にコミュニケーションを適応させる。人間関係は時間経過と気分の波によって距離が変化するため、リアルタイムで微分と積分を行って距離を調節する。
そして究極の計算高い腹黒人間が生産されるわけであります。そう、これが日本の「社会性」というやつだ。
人間と不必要にぶつからないための術を覚え、社会という荒波をかいくぐっていく。
日本では物事をメリットとデメリットの両面から考えることを子供の頃から教わらず、教科書などには公正さを期するため物事の良い点悪い点の両方が書かれていることがあるとはいえ、そうした両面的な考え方が身についている子供が多いとは言いがたい。受験勉強にしたって勉強内容の公正さに対して疑問を持つことなく丸暗記に近い勉強ばかりしている有様である。
これが社会に出ると丸覚えは機械的作業を行うだけの底辺労働者にしか通用せず、高い結果を出すには学習内容の公正さを疑う視点が求められてくる。ここに至ってメリットだけでなくデメリットも考えねばならないことをようやく教わるのである。曰く、おいしい話には裏がある。「これはいける!」という新しい策を導入する時にはちゃんと悪影響の可能性も考えましょう。物事の悪い部分ばかり見て手を拱いていてはいけませんぞ、などなど。
一方、欧米では子供の頃から学校でディベートやライティングをしっかり教わり公正な思考力を鍛えられるし、家庭でも社会の暗部を見せられさまざまな視点からライフプランを考えるように促されることが多いというのは、アメリカかぶれの評論家が口を揃える有名な話である。ディベートでは政策(やそれに類するもの)に対して賛成と否定の両派に分かれて激論が酌み交わされる、いや取り交わされる。本心は賛成派でも否定派のチームに入れられることやその逆のパターンも多い。こうして賛成にも否定にも回れるような柔軟で両面的な思考法が身につく。さらに1980年あたりから欧米では多民族国家であることや同性愛問題の表面化などを背景にdiversity(多様性)を尊重する思潮が強まり、民族や性や思想の多様性を学校でも明確に教わるようになった。最近Mozilla CEOが性差別的法案を支援して問題になった件で「Mozilla Statement on Diversity」という声明を出したのは記憶に新しい。このように物事の両面性・多面性を重視する風潮・思考法になっている。
ttps://blog.mozilla.org/press/2014/03/mozilla-statement-on-diversity/
日本人の多くは社会に出ると「国際社会だし欧米のように多面的思考をしないといけない」と耳が痛いほど聞かされ、その一環としてメリットデメリットを考えることが大切なんだなと学び成長していくわけである。そしてメリットデメリットさえ考えてれば多面的思考法が出来ていると勘違いしてあぐらをかいている人も多い。
1つには可変性である。例えば、自社の管理システムに新製品を導入する時には導入するメリットとデメリットを考えてメリットが大きいと判断されれば導入するという単純な思考プロセスで問題ない場合もあるが、新しい人材を取り込む時には必ず成長性を考える必要がある。ある分野が得意だからってさらに伸びるとは限らないし、ある分野が苦手だからって苦手克服できないとも限らない。人材ならまだ分かりやすいが、管理システムの場合はどうか?システムが時代とともに適応していけるような柔軟性を備えているか、また経験にしたがってブラッシュアップしていけるような成長性を備えているか。そうした可変性も加味しなければならない場合が多い。
子育てや学校教育においても、長所を伸ばすという聞こえのいい古い考え方が未だに蔓延しているが本当にもっと伸びるのかと言いたくなる。得意分野だと成功体験を積みやすい?いやいやそれは他人と比べるからで、比べなければ得意で伸びにくいものより苦手でも伸びやすいもののほうが伸びしろがあるため成功体験を積みやすいのは明らかだろう。大切なのは成長の楽しさが得られるかどうかであって、得意なものをやるよう押し付けることではない。そのためには得意でもどれが伸びてどれが伸びないのか、苦手でも伸びるものがあるのではないか、伸びるとしてどれくらい伸びるのか、といった一段階緻密な検討を経て合理的に判断をしないといけない。なんでもかんでも得意分野を持て囃すような風潮はもう終わりにしよう。
これまで見てきたように良い所と悪い所だけ見て両面的に考えてるぞとドヤ顔する風潮は打ち破られるべき悪しき因習と言える。逆に言えばこれからの熾烈を極める国際社会競争においてきちんと可変性を加味した多面思考ができる人間だけが生き残るとも言える。
メリットデメリット分析の2つ目の落とし穴はもっと根本的なもので、定性分析である点である。分析と名前がついているから数理的な分析だと勘違いしやすいがそうではない。多くの場合、メリットデメリット分析は定性的な分析、つまり物事の良し悪しに関わる性質を列挙しているに過ぎない。だからメリットとデメリットを量的に比較するのは難しく、比較できたとしてもそれはこじつけになりがちで、結局「メリットのほうが多い」「デメリットのほうが多い」といういい加減な形で分析結果を利用されてしまいやすい。たまたまメリットのほうが多く思いついただけかもしれないし、数え方の問題で多いだけかもしれないし、数が多いだけで重要度の低い項目だらけかもしれないのに。
実はこれは、賛成派(メリット)と否定派(デメリット)が戦う競技ディベートにおいてもしばしば問題となる点である。ディベートの勝敗はディベート経験のある審判が理屈をつけて決めているに過ぎない。論拠の数が多いから説得力があったとか、質問されて答えに窮したから説得力がなかったとか、おおよそ論理とは無関係な価値判断で決まることが多いのだ。
ディベートだけでなく2chの信者VSアンチの論争にも言えることである。それが偏った事実の寄せ集めであるかどうかにはお構いなくとにかく論拠の数を沢山用意しておき、次々と論拠を提示しては主張を繰り返して圧倒し、反論・質問された時にも用意した論拠で即レスするようにすれば、たいていスレの風潮を支配できるという、あの荒らしまがいのやり口を思い出してほしい。この手の荒らしが手強いのは殆どの場合において定量的に擁護または叩きを行うためのデータが存在しないか少ないからだ。そんな時は膨大な定性データを粘着的な調査力で収集して印象操作で圧倒するのが比較的容易である。
これは女性蔑視の批判が来るだろうなと思ったので何か書こうかと思ったけど、『「挑戦的な」デザイン』を解説するのも野暮だしやめとこうかと思ったけど
togetterのまとめとかshiro氏のブログとかを読んでやっぱり言いたくなったので書く。
togetterのまとめをまとめると
批判は
反論は
ぐらいだろうか。たぶん議論の領域が違うだけでどの意見も正しいんだろう。
でもtogetterにも「この表紙を偏見というなら女性への偏見というよりもロボットへの偏見だろう」みたいな意見が出ている通り、この表紙の本当のテーマはロボットの知性とは何か、だと思う。
例えば
という所からもそれが読み取れる。
それで結局、ロボットに知性は宿り得るのだろうか?
チューリングテストとか中国語の部屋とかをググってもらえれば分かるけど、明確な答えはないというか、もはやそれを考えること自体に意味があるのかと言わざるを得ないのだ。
もしこの表紙からメッセージを読み取るとすれば、知性とは本質的に多面的であって一方的な意味づけは無価値だということだろう。
そしてあるいは、ジェンダーもまたしかり、といった読み方もできるかも知れない。
つまりshiro氏の言う文脈を重視するか否かという点はまさにこの表紙の主題だと言いたいのだ。
人工知能における文脈の消滅を分野の外の人に上手く伝える本当に素晴らしい表紙だと思った。