はてなキーワード: 日蓮宗とは
不在でもらえねーとか遠路はるばるきてやったのに舐めてんのか!!!
やってるかわかんねーとこに行くと
嫌そうな顔されるし
飛び込みの営業やらされてるかのような気分にさせられて最悪だろ!!
休日もいそがしくていない?
だったらそれこそ書き置きを用意しておけ!!
そんでな!
前の宮司とか住職が死んだら御朱印やめるとか死ぬ前に書き置き作って貰えばよかっただろ!
そんでもってなあ!!
それこそ書き置きでいいだろ!
頭使えや!
書き置きの御朱印をよこせ!!
折角行ったのにもらえませんでしたー
はぁ!?
はぁ!?
旅費立て替えろ!!!
家の中でガタガタ音がしたからな
そのあと数時間待ってもっぺん行ったら
うちはやってないとか言い抜かしたからな
そいつは宮司本人じゃないただの息子かなんかだったのを後で知ったからな
こういうなあ!!
こういう対応をされてきたんだよこっちは!!
面倒くさそうによお!!
わかってる
俺が悪いのはわかってる
冷静になれ
あーわかってる
わかってんだよ
でもよ
言いたいだろ
「神様お願いします!神様俺のかーちゃんの末期癌を治してください!!」
とか
「仏様お願いします!仏様俺のかーちゃんの末期癌を治してください!!」
って祈ってんだよ!
そんでかーちゃんに
「ほら、じんだけ神社や寺を回って御朱印もらってきたから絶対治るよ!!」
って励ましたりiPadプレセントして旅行いけないけどネットで行った気分になってもらってたのしんでもらような
そんな親孝行してんだよこっちは!!
それをおめー!!
ゆ“る”さ“ん”!“
怒り狂うわ!!!
そんなことだから信仰が薄れて神社も寺もなくなっていくんだろうが!
そんなことだから人々の心が荒んでいくんだろうが!
俺の心もだ!!
こっちはてめえ遠路はるばる行ったのにもらえないでおしまいとかどんだけだと思ってんだ!
いいか!
俺は参拝したうえで行ってるんだ!
それで出来ないとか言うんじゃねえ!!!
知らねえよ!!!
俺がそこまで行ったほうが赤字だ!!
はあはあ
はー
すっきりしたぁ
これが増田の正しい使い方だ
どうせトラバでいつものアホどもがわいてくるだろうがスッキリした
ふぅ
寝るか
あばよ
1.創価学会系とは
創価学会は日蓮正宗という仏教の宗派の教えを受けた団体だった。
しかし後に関係性にひびが入り最終的に袂を分かつことになった。
なお創価学会・顕正会共に日蓮正宗から破門されたという事になっている。
それは日蓮正宗の教えを正しく守らなかったからと言われている。
創価学会名誉会長の池田大作氏と日蓮正宗総本山大石寺の日顕氏が対立したことが原因とも
言われている。
日蓮正宗自体は、日蓮の弟子の日興という人が日蓮の教えを受け継いで開祖した。
この日蓮の弟子たちは日蓮六老僧と言われたが、日興以外の5人は日蓮の教えを
正しく守らなかった、日蓮の教えを捻じ曲げたとして
これが数百年前の事件。
創価学会及び日蓮正宗では、日興以外の老僧たちは教えを守らなかったとして謗法である
としている。
そのため日蓮六老僧ではなく日興を除外した上で日蓮の文字を頭から外し五老僧と読んでいる。
3.日蓮宗
どんな教えを守らなかったと言うと例えば日蓮は神仏習合は間違いだとして
「鳥居をくぐらない」というようなことをしていた。
しかし日蓮宗はそれでは柔軟に対応が出来ないとか時代の流れと反目するとしてそのような
教えは撤廃した。
また、日蓮の思想自体を危惧した一部の権力者から弾圧されたときに自分たちは日蓮の弟子
ではなく天台宗などと嘘をついたことなどで日興から批判を浴びたとされている。
なおこれを五老僧たちは、弟子たちを守るために行ったとされるが真偽は定かではない。
元は天台宗で勉強をしていたが、後に釈迦の最高の教えは法華経、すなわち妙法蓮華経という経典
が最も素晴らしくこれこそが全ての仏教の原典(原点)のだとして天台宗から離れて行った。
創価学会系の人が言う「南無妙法蓮華経」とは「妙法蓮華経」の教えに「帰依」しますという意味になる。
そして妙法蓮華経という釈迦の最高の教えがあるのだから今こそ仏教は原点に戻るべきという
これが元になって佐渡に流罪されるなどのいわゆる法難というものにあっている。
が、法難にはあったものの生き長らえたことで法華経の教えこそが正しいものであると一層主張するようになった。
5.妙法蓮華経って何なの
仏教の開祖である釈迦の教えをその弟子たちが編纂した経典。つまり最も古い歴史を持った仏教経典。
釈迦の教えとは釈迦が悟りを開いたことで幸福の境涯に達したことを他者にも分け与えることを目的としている。
これらの釈迦の教えは時代とともに変化していったことで、今日の仏教は様々な宗派が分かれている。
なお創価学会では法華経二十八本のうち、方便品第二(ほうべんぼんだいに)と如来寿量品第十六(にょらいじゅりょうぼんだいじゅうろく)
を特に素晴らしい物であるとして、朝と夕に題目と合わせて唱えている。
6.釈迦って何なの
インドにあったとされる釈迦族の王子。本名はゴータマ・シッダールタ。
出家して数々の過酷な修行をした後に最終的に菩提樹の下で瞑想をして悟りを開いた。
この悟りとはあらゆる苦しみを克服し、あらゆる煩悩を消し去った最高の境地とされている。
しかしこの悟りについて他人に教えることはかなり難解であることから当初は躊躇したが
最終的には自分の教えで悟りを開く手助けになるのならと教えを広めた。
創価学会側の主張は日顕氏が池田大作氏に嫉妬して破門したから。
なお、一番対立があったのは、かつて大石寺という寺にあった、総本堂という物を
この建物は創価学会の信者からのお布施数百億円かけて作った物だったが
それを数十億円かけて解体したという日顕氏は謎の行動を起こした。
維持費がとんでもないものだったので解体したとも言われているが真偽は定かではない。
創価学会は広宣流布という日蓮の教えを広めるためには政治への参加が不可欠として立ち上げた政党。
しかし政教分離という観点から創価学会そのものがあってはならないという事を指摘されたために
現在は創価学会が支持母体となって公明党があると言った状態になっている。
日蓮の教えを守り、世界中に広宣流布して世界平和を目指している。
創価学会のSGIというのは創価学会インターナショナルであり、国際的組織となっている。
数々の国に支援を行っており、それはグラフSGIという書籍から知る事ができる。
関連した物に大白蓮華という書籍やら人間革命といった書籍も販売している。
また、聖教新聞社は創価学会の教えを広める会社であるし。公明新聞というのは公明党の新聞である。
一部の過激な信者がやらかしているというのは真実であり創価学会側も認識している。
しかし、創価学会は3代目までの会長、つまり初代牧口常三郎、二代目戸田城聖、三代目池田大作
までを特に崇めているような部分があるためこれはやはりよくない傾向である。
かつて池田大作氏は折伏大行進なることを行い、行列となって沢山の家に大して創価学会に入るように
説得をしまくったということがあった。これが大きな反響というか問題を大きく引き起こしたのも事実である。
だがこのような行為をしたことで信者が増大したというのもある。
11.お前はなんでそんなこと知ってるの?
教学試験とかいう創価学会の試験があってその試験を受けさせられて合格した。
更に牙城会だとかいう創価学会の警備員的な組織に親父に強制的に入れと言われた。
御書(日蓮が残した書物)を拝読させられ、題目を毎日あげさせられて、
神社には成人するまでは言った事が無く、お祭りの行事なども行けず散々苦しんだ。
当然クリスマスは無し。少年部とか男子部とかのイベントにも強制参加だった。
別に何もしてくれない。
金は貰えない。でも本部組織と言う人たちは本部勤めってことで給料を貰っている。
本部に入ればお金が貰えるなら俺も本部勤めになりたいと思うくらいには本部の仕事って
あまり大変そうには思えなかった。
もし俺が本部勤めとかいうので毎月50万円くらい貰えてたら今も信者をやっていただろう。
13.最後に
・お前がきちんと御書や人間革命を読まないから成長しないんだ!
こういう過激な信者がいるというのは本当の事であって、俺はだから創価学会は嫌いだ。
「ほしのゆうえんち」とかいう池田大作氏の絵本が原作のアニメを見せられたり
そもそも池田大作氏の絵本だとかなんだとかそんなものを読ませられたりしてきた。
ふしぎなパコちゃんとかハッスルパンチとかいう漫画も読ませられた。
さらに竜女の成仏・貧女の一灯という仏教系の漫画も読ませられた。
相当人生でストレスを溜め込んだが、親から開放されて面倒な勤行だとかしきたりとか
どこか大文字でどこか小文字か分からんあの詐欺師をちゃんと我々は死ぬまで追い詰めないと駄目だぞ。オウムを見ろ。「中途半端に追い詰められて、でもまだ手駒・信者はある程度いる」って状況が一番、カルトが先鋭化しやすいんだ。日蓮宗とかぜんぶそうだったろ。完膚なきまでに潰して自殺まで追い込まないと、半端に叩かれて「彼は誰も言えない正しいことを言ったのに世間の正義ヅラした連中に血祭りにあげられて可哀想!」って信者が噴き上がるような事態になるのが一番危ないんだから。みんな、もちろん他人を正義の棒でぶん殴ってるんだから、死ぬまで追い詰める覚悟はあるんだろうな?人間は「改心」なんてしないし「改心させて私たちのコミュニティに復帰させる」ってのは殺すより傲慢で野蛮な考え方だからな。アメリカがそれをやろうとして失敗したのがアフガニスタンなんだから。
時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
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00 | 139 | 11760 | 84.6 | 25 |
01 | 79 | 8752 | 110.8 | 61 |
02 | 53 | 11588 | 218.6 | 43 |
03 | 38 | 7381 | 194.2 | 34.5 |
04 | 18 | 941 | 52.3 | 32.5 |
05 | 18 | 2247 | 124.8 | 69.5 |
06 | 47 | 4185 | 89.0 | 62 |
07 | 85 | 3315 | 39.0 | 15 |
08 | 109 | 7613 | 69.8 | 25 |
09 | 230 | 16795 | 73.0 | 36 |
10 | 231 | 16317 | 70.6 | 36 |
11 | 298 | 17732 | 59.5 | 28 |
12 | 277 | 19672 | 71.0 | 29 |
13 | 198 | 20337 | 102.7 | 40 |
14 | 198 | 15743 | 79.5 | 37 |
15 | 154 | 12027 | 78.1 | 37 |
16 | 206 | 13988 | 67.9 | 34.5 |
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20 | 161 | 13950 | 86.6 | 32 |
21 | 230 | 17941 | 78.0 | 33.5 |
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1日 | 3588 | 289047 | 80.6 | 33 |
ロッキン(28), 日蓮正宗(4), 法華経(6), アオバ(3), チャート式(6), おこげ(5), アニメ声優(3), 募れ(3), ホラッチョ(3), 日蓮(4), 日蓮宗(3), プリキュア(117), ⭕(9), 五輪(54), 観客(15), 失望(13), 苦笑(9), オリンピック(95), 共産主義(11), ひろゆき(13), 星野源(7), ロック(12), 降り(25), 呪い(17), 会場(14), リアリティ(10), 開催(40), 中止(35), 接種(28), 緊急事態宣言(33), ジェンダー(16), BL(24), ワクチン(56), 作家(20)
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私は創価学会員ではありません。
1,大聖人(だいしょうにん)
(厳密にいうと「本仏」という。)
なお、一般的な日蓮宗系の宗教では「大菩薩」ということが多い。
菩薩は仏に次ぐナンバー2という意味であるため、創価学会系の人とは
相容れないのである。
2,謗法(ほうぼう)
3,境涯(きょうがい)
4,財務(ざいむ)
強制ではないのだが、もし行う場合は最低1万円出さなければならない。
一般家庭でも100万円出すところもある。
5,折伏(しゃくぶく)
「勧誘」のことだが、無理やり入信させるというイメージである。
6,破折(はしゃく)
「論破」のこと。「破(は)す」ともいう。(後者の方が文語的)
7,御書(ごしょ)
8,仏法(ぶっぽう)
「仏教」のこと。
9,広宣流布(こうせんるふ)
公明党もかつてはそれに必要な「国立戒壇」(創価学会(厳密には日蓮正宗)員になるための儀式会場)
を作ることを目指していたが共産党などから追及されたり学会側の不祥事により破棄せざるを得なかった。
現在では池田大作創価学会名誉会長兼創価学会インターナショナル(SGI)会長
が世界各国で対話を行ったり、支部を作ったことで事実上達成したというのが公式見解である。
10,功徳(くどく)
タイトルで強烈な文言を述べたが、私個人は神様を信仰していない。私は神様ではなく自分に幸福をもたらしてくれる縁や尊敬できる偉人を信仰している。
私の家系は日蓮宗であるが、それを意識することはほとんどない。葬式や父の実家の仏壇を拝むときだけだ。クリスマスも初詣もするし、お守りを持つこともある。
このような態度は無宗教と呼ばれ、日本人の多くはこれに分類される。中にはこれを宗教的態度の欠如であると批判する人もいる。私が小学四年生の時の担任教師はこれをおかしいと非難した。
しかし、私はこのような「無宗教」が日本で起こったことや、無宗教の人が宗教の恩恵にあずかれるのはおかしいことではないと思っている。
日本人の宗教観は、この世には沢山の神様がいるという宗教観である。この世のあらゆる事物にはそれぞれの神様が宿り、神様達の動きによりこの世界の因果関係が決定されると考えた。それぞれの神様は人間と同じく感情を持つものとして考えられ、祭祀や信仰はその神様のご機嫌をとることに近かった。この宗教的態度は外国から仏教や儒家思想、キリスト教などが入ってきても変わらなかった。
このような宗教的態度が生まれた背景を和辻哲郎のエセー「風土」は日本(および東アジア)の雑多な生態系と災害の多さに求めた。日本人は古来より抗いがたい災害に見舞われ、それに耐える忍耐力を養った。そしてその気象条件は同時に命の恵みも与え、我が国に植物や動物の息吹があまねく見受けられるのである。
こうした環境が日本人の精神を作り、その精神から人格を持つ沢山の神様を生み出したのである。これは自然環境が変わらぬ現在でも同じであり、欧米や中東のような一神教的な絶対神が日本を征服できないのはこのような理由がある。一神教の神は、多神教の神の国の一部として取り込まれるのだから。
遠藤周作の小説「沈黙」では、日本に伝来したキリスト教の教えが日本に根付かず改変されていることを元宣教師のフェレイラが嘆くシーンがあるが、それは上の風土を考えれば当たり前のことなのである。
一方でキリスト教やイスラム教などの一神教が誕生したのは、砂漠の国の中東からである。そこは日本とは全く異なる生命の息吹が皆無の殺意の大地である。そのような状況から砂漠の民のヒューマニズムへの関心はとりわけ高く、それが人間の味方である絶対唯一神への信仰を生み出した。
それがヨーロッパに入り浸透したのは、ヨーロッパの民族は合理的で従順だったからである。ヨーロッパは生態系が単調で、人間からすれば自然は全部「役に立つ」ものだった。そこから古代ギリシャ・ローマに代表される科学的合理的思考がこの地で起こり、それはヒューマニズムに満ちた一神教を受け入れたのだ。
ここで、あらゆる神や宗教を吸収する多神教の国日本と一神教が人々を統べる欧米や中東の差異が分かる。そして、これが日本の無宗教を受容する態度と非難する態度の違いを生み出すのだ。
一神教的宗教観は日本の無宗教を非難するが、それは無宗教が神様を信仰しないからだ。一神教の神は世界の創造者で裁定者で救済者なのである。それを信仰することが彼らの人間として生きることの証なのだ。故に無宗教は非人間的な態度であり、シリアルキラーと同類の存在なのだ。先の私の小学校の先生も無宗教を人間として無節操な態度と考え、非道徳の理由を無宗教に求めたのだ。
その上で私は一神教的宗教家の方々の私の宗教観への批判に反論したい。私が信仰しているのは神を持たない宗教であると。
先ほど私は日本の宗教観ではこの世の事物にはそれぞれ神様がいると述べたが、それはあくまでいるだけであり信仰する神ではない。物事の因果を神の所業と考えているが、それを起こす神が気まぐれでそれが沢山いる以上もうどうしようもないのだ。もしこれが人だったら早々と見限るような神々は沢山いるのだ。神は人を選ぶのだろうが、人間も神を選ぶのである。
私も以前は神は正しいメッセージを授けてくださると思っていたが、いつまでたっても授けてくださらない。それは当たり前のことであり、雑多な風土に宿る神が雑多なメッセージ以上の何かを発信することは出来ないのだ。日本の土地では裁定者たる神はいないのである。「沈黙」でも、主人公の前に裁定者は最後まで表れなかった。裁定者は日本という沼地で溺死したのだ。故に主人公は生きるという決意で生き延びたのだ。
「沈黙」では神を心のなかで生きる存在と最終的に結論付けたが、私はその神の存在意義は最初から否定した方が楽なように思えるし、そちらが神様にとってもありがたいであろうと思う。そうでないと私は神様に対する「たかり」になってしまい申し訳なさで死んでしまいそうだ。
何か危機に陥ったときにかつては祭祀や加持祈祷に頼っていたであろうが、科学の時代においては科学の方が日常生活では「烏合の衆」よりかは帰依出来る。
今のコロナ禍でも、精神的基盤を補強する役割以外では、神頼みよりも衛生的処置や医療措置の方が遥かに大事なことはすぐに分かる。
では私は何を宗教に求めているかというと、私の心と世界とのコミュニケーションである。世の中には理不尽なことは沢山ある。そんなときに世界が沈黙し私を嘲笑しているように錯覚することがある。
だが、それは私が世界とのコンタクトを放棄しているからである。世界は私を嘲笑していない、語りかける励ましの言葉はある。私がそれに気付くとき、私は心を開き癒されるのだ。その回路を開くことが私の宗教的態度である。私が信仰しているのはそうしたものである。
私は長々とここまで語ったが、私は他人の宗教的態度を否定するつもりは毛頭ない。私には私の納得する宗教的態度があり、それを大切にしている。故に他人にはここで語ったことに対抗しうるだけの宗教的態度があると考えられる。私はそれを侵すつもりはないし、相互不干渉を守りたいと思う。自分の守りたいものと同じように他人の守りたいものは守りたいのだ。
私の記事は以上だ。
日蓮宗系の2世です。今はもう宗教を信じてないけど、だいぶ長い間宗教を信じてた。ちなみに今は21才
思い込みが激しすぎたのがこの長さの原因だと思う。人生もっと楽しい生き方があったかもな〜と思うよ。順を追って話すので暇だったらよんでってくれー
まず小学生から中学生まではひたすら神とか仏を憎んで生きてた。
嫌いだった理由は祈るのがめんどくさかったのとマザコンだったから。
朝と夜に何十分も正座しながら唱題して、休みの日には結構な頻度で寺に行って、その寺でまた1時間は正座して唱題する。めんどくさかったなぁ。
マザコンだったからっていうのは、母親が熱心な信徒で、神様に親を取られたような感じがして嫌だったから。幼児期には誰にでもある分離不安症がねじ曲がって神様に向かったのかもしれない。
…………………………そう!嫌いになる動機が無茶苦茶弱いんだ!正直俺がアメリカとかヨーヨッパとかの当たり前に信仰がある国に生まれてたらこんなに悩まなかっただろうなって思ってる。
こんなクソ弱動機なのに、なんで高三になるまで宗教のことを考え続けられたのかというと、まぁ、負の感情には中毒性があるからだと思う。あと毎日やることがなくて暇だったからかな。野球とかサッカーとか活動の多いことしてればこんなこと考える時間もなかったんじゃないかなと思う。もしもの話が多すぎるな笑
中三くらいまでは神様のことが怖かった。俺はサンタクロースを信じてる中学生みたいに、神様を信じてる中学生だった。すごく痛い。神様嫌いだなぁって思うだけでも罪だったから、俺は地獄に落ちるしかないんだと思って絶望して生きてた。中二乙www
神っていないんだなあって思ったきっかけがNAVER まとめで同じ宗派の元修行僧が修行からドロップアウトした話を読んだ時から。中3くらいでした()
話に出てくる場所の描写がめちゃくちゃリアルで自分も見たことがあることを話してたからこの話は本物だと思ったよ。元修行僧は集団生活が嫌になって辞めたようで、この宗教のこと自体は悪く言ってなかったなぁ。
中三で神はいないって気づいたのにもかかわらず、宗教関係者とか、人間とか世の中のことが大嫌いになってしまって高校卒業するくらいまで扱いづらい厨二病だった。釈迦もムハンマドもキリストも宗教設立者がみんな嫌いだった()
大学生になってからは親元を離れて寺にも行かなくなって、新しい人間関係で忙しかったりしてどうでもよくなった。
今は親のことは好きだし愛されてると思うし感謝してる。育ててくれてありがとう。宗教をしてる親を尊重してるつもり。世の中の有神論者も無神論者も好きにしたらいいと思ってる。今だから言えるけど、辛い思いをしてる人には宗教とかは心の救いになると思う。人との関わりとか、認知行動療法っぽいところとか。ただ小学生の俺には神のありがたさとか全くわからなかった。生まれたときからただ連れてかれるだけのお寺に心を洗われるとか、スッキリするとか感じられなかった。
深夜に変なスピリチュアルの広告読んでゲラゲラ笑った後に、ちょっと思うことがあったから思いついたから書いただけなんだ。
乱雑だし、プロット作りも推敲も何もしていない。ただずっと抱えていたものを吐き出す場が欲しかっただけなので、とりわけ目立つものもない。
これを書いている私は、いま地方大で歴史を学ぶ大学院生だ。ストレートで大学院まで上がった位の年齢だと思ってほしい。
私の専門は歴史だが、そこから興味が広がって宗教や、それに関連する文化の話も好きだ。本来専門ではないけれど、色々本を読んでみたりしている。
そこで思うことがあった。宗教・信仰は本当に人の暮らしに密接に関わっていると実感した。そして、勉強を続けたからこそ気付く事や、それまで抱えていた自分の気持ちに整理をつけることができた。
この記事はそんな私の20年ちょっとの人生で触れてきた宗教に関する思い出の覚書だ。
私の家の目の前には、カトリック教会があって、附属幼稚園が教会のすぐ隣にある。ミッション系というやつだろう。
家からすぐということもあって、私と妹はそこの幼稚園に通っていた。
朝幼稚園に来たら、シスターたちに挨拶をし、玄関のマリア像の前で十字を切る。朝礼やお昼のお弁当を食べる前には「主の祈り(天におられる私たちの父よ~のやつだ)」を唱えたし、クリスマスの時期になれば、年長クラスの子たちがキリストの聖誕劇をやるために練習をしていた。
ああそう、あとメダイもちゃんともらっていた。確か聖母子像か、聖母マリアのものだったはずだが、年に数回会うおじいちゃん(どう考えても教会の神父だ。園長って呼んでいたけど)から、新年度になるたびに名札につけてもらっていた。
そんな幼稚園でキリスト教に触れる生活を送っていた幼少期。年長クラスはクリスマスに聖誕劇をしていたけど、年中クラスや年少クラスだって讃美歌を歌ったり、合奏をしていたので、どこの幼稚園もこういう歌を覚えているものだと思っていた。
卒園式のお祝いには、聖書を分かりやすくまとめた絵本をもらった。絵本といっても結構文字が書いてあるし、ハードカバーの大型絵本だった。聖書の教えも何度か聞いていたはずだが、私がきちんと聖書の物語に触れたのはあの卒園式の日だったに違いない。
既に本の虫だった私は、それなりに漢字も読める方の子どもだった。だからその絵本も気になって、天地創造から長い時間をかけて読み通した。
当時6歳の私は、意味はあまり分かっていなかったけど、ところどころの挿絵のインパクトは強烈だった。
洪水に翻弄されるノアの方舟、モーセが海を割るシーン、キリストが茨の冠を被せられ、鞭うたれるシーン。幼い私は、もうそれはそれはびっくりしたのだ。
それから数年経って、小学校を卒業して中二病が芽生えるような年になった頃、私はイキってまた聖書に関心を持ってみた。
西洋美術が分かるやつはかっこいいし、その元ネタが分かるとなおかっこいいと思っていた。恥ずかしい話だが。
そこでもう一度聖書のストーリーを絵本(今度は妹がもらってきたやつだ。まったく同じ絵本だが)を読んでおさらいし、やっぱり意味は理解しないままミルトンの『失楽園』とかを読んでいた。
この後、ぼんやり興味を薄く抱き続けたまま、今一度大学院に入ってからちゃんと勉強をしようと思い、現在に至っている。世界史とかは大事な要素だしね。
こうしてみると私はクリスチャンのように見えるのだが、家には仏壇があるし、今の興味の原点がある幼稚園時代にはその仏壇で「まんまんちゃんあん(関西で仏壇やお墓でお参りをするときに言う幼児語)」をしていた。祖母は今でも毎朝、犬の散歩から帰ると仏壇の前でお経を上げる。
父方の祖母と同居しているのだが、祖父は私が生まれる1年ほど前に亡くなっている。祖母は幼いころの私の面倒を、共働きの両親に代わって見てくれていたから、幼稚園から帰ると「おじいちゃんにまんまんちゃんあんして、ただいま言うんやで」と言われるがまま、お鈴を叩いて手を合わせていた。今でも何か報告(たとえば大学に受かった時や、卒業認定をされた時)があるときは仏壇の前に座ることがある。
お盆やお彼岸には、お墓参りはできるだけしようと思っているし、昨年京都に行ったときは私の家の宗派の本山のお寺にもお参りした。これは本当になんとなくだったけれど、行ってよかったなとは思っている。
だから私は、今のところは仏教徒で、ごく一般的な日本人の宗教観なのだけど、困ったことに、私はとある宗教の3世にあたる血筋でもある。
名前を出すのは少しはばかられるので婉曲的な表現をするが、先述のように私の家は仏壇のある仏教徒の家だ。宗派を言えば浄土真宗。
ただ母方は宗派が違い、日蓮宗なのだ。分かりやすく言えば父方の祖母は「南無阿弥陀仏」と唱えるけれど、母方の祖母は「南無妙法蓮華経」と唱える。
この時点で察しの良い方はお分かりかもしれない。母方の祖母はいわゆる「学会員」だ。
だから、母方の祖母の家に遊びに行くと某新聞が置いてあったし、本棚を見れば某氏の著作が置いてあった。
母自身は学会員ではない(嫁いでいるし)し、母の姉夫婦もそうでないのは知っている。私自身会員ではない。
だから3世を名乗る立場ではないのだが、私は学会員としての祖母の姿を見て、ああいった宗教に対する疑問を抱くようになった。
実際あの学会について「おや?」と思ったのは、私を可愛がっていた母方の祖父が亡くなった数年後だった。
祖父が亡くなった後、葬儀や四十九日の法要に関しては違和感を感じることはなかった。後になり、伯父がかなり骨を折ったことを知ったのだが。
違和感をはっきりと感じたのは母方の伯母夫婦、大叔母、そして私たち家族と祖母が参加した七回忌の法要だ。
いわゆる法事だから、自分の認識では「お坊さんを呼んで、お経を読んでもらって、そのあと親族で食事をする」というものだった。事実父方の祖父の法事はお坊さんを呼んでいる。
まず、お坊さんを呼んでいなかったのだ。黒スーツに黒いネクタイを締めた見知らぬ男性(見た感じ祖母とそれほど歳は変わらない人だった)が居て、私の知らない親戚かと思っていた。最初は。
いつになったらお坊さんが来るのだろうと思ったら、法事が始まるから仏壇の部屋に来いと言われた。言われるがまま妹の隣に座り、数珠を持っているとその男性が仏壇の前に座って、読経を始めた。
「は?」と思った。なんでこのオッサンがお経読んでるねん。お坊さん来られへんかったん?違和感しかなかった。
どうやら件の学会ではその地区で一番偉い学会員が法要の読経をするということを知ったのは、さらにそれから2年ほど経った頃だ。
ただ法事の時に、伯父が「僕はちゃんとした日蓮宗のお寺に骨を埋めてもらうように言っている」と若干怒気をはらんだ口調で言っていた理由が、理解できた。
母方の伯母夫婦とは、その七回忌の法要以降会っていない。いや、何度か伯母とは会ったが、伯父とはそれ以来もう何年も会っていない。
昔はよく祖母の家にお盆や正月の折に触れて来てくれていたのだけど、仕事の関係で来れない、と言うのが聞いている理由だ。でも、多分彼はきっと、学会員である祖母宅周辺の人に会いたくないのだろう。少しだけ言い合いになっていたし、伯父が祖父の葬儀に口出ししたことで何かがあったのだろう。
同時に、祖母が熱心に読経を一日に何度も行う理由、祖母の家にあった新聞や書籍がなんだったか、芋づる式に分かってちょっとだけ嫌気がさした。
祖母よりも熱心だったのは大叔母(祖父の姉)で、会合(というのがあるらしいが、この辺りは詳しく知らない)にも熱心に参加していたみたいだ。
別にこの記事で批判をしたいわけじゃない。けれど、どうしても伯父の言葉がずっと心に引っかかっているのだ。
「お義父さんの事も、ちゃんとお弔いしたいのにそれが出来ないのはほんまに悔しい」という伯父の言葉が。
いま色々な宗教の事を学び、宗教が社会に与える影響の強さを知った上で、私は伯父の言葉に同意したい。
信仰は自由だ。それはこの日本で認められた権利だ。けれど、大好きだった祖父のことを、あんなジジイの安い読経で弔いたくはないのだ。
そしてああ言った新興宗教団体が、親族との軋轢を産んでいることを伯母夫婦の一件で身に染みて実感したのだ。
母方の祖母と我が家の仲はいい。祖母はいま一人暮らしだし、私も長生きしてほしいと思っている。
けど、少しだけわがままを言うなら学会と縁は切ってほしいかな、と思わなくはない。
少し愚痴っぽくなったが、最後にその新興宗教がらみの話をちょっとだけ聞いてほしい。
大学進学以降そうした新興宗教がらみのトラブルやエピソードは少なからずあると知った。友人も巻き込まれたことがあったらしい。
大学の最寄駅前には某証人の人達が冊子を配るために立っているし、家にも何回かチラシがポスティングされたり、勧誘がそもそも来たりした。迷惑だから帰れ、と総スルーをかましたが。
去年なんか、右翼のおっさんが一般人に絡んで暴行しかけた事件の証言を、某会の勧誘をしていた女性二人がしていて「情報量が多い!」と内心ツッコミを入れた現場を目撃した。
彼らも、それを信仰するのは自由だけど、私のように嫌悪するまでもないがもやを抱えた人間を周りに産んでいるのではないかな、と時折思わなくない。
スピリチュアル系のトンデモ科学に関するツイートがTwitterなどでも話題になりがちだが、そういうのを見ても「ああ、なんというか、かわいそうだな」と思ってしまう。
思ってしまうだけで、それを思いっきりネタにして笑い飛ばしているあたり、私はかなり嫌な人物だなと自戒しなくもないが。
何度も言うが、批判する意図はない。あなたがもしここまでに挙げた何かの信者であっても、私は知らない。
ただ、ひとりの学生が格好をつけて、自分は何を信仰しているのだろうな、と思い返すための文章だから、大した感想も求めていないのだ。
ふと、社会人デビューする前にこれを吐露しておくと肩の荷が下りる気がしたので下ろしておくことにしました。推敲は一切しないので悪しからず。
自分は小学校の時、音楽の授業での合唱に何故か強いモチベーションを持っていた。確かあの時はパヴァロッティの演奏のビデオを見たり、ソプラノ歌手のものを見たりしたかと記憶してる。それでもって家に帰るや否やソプラノ歌手の声真似をしようとしていた。声が変わるとそれは厳しくなって少し苦悩はしたが、声は大きかったことと中学に混声の合唱部があったこともあって真っ先に合唱部を選択した。
中学で3年テノール(バリトン寄り)を歌い続けたのは自分にとって一番長い合唱経験になっている。
高校に入るとき、自分は先行き不安定な歌で身を立てる訳にはいかないだろうから、と合唱から距離を置いて勉強に勤しもうとした。が、これにいくつかの失敗を伴った。
合唱から距離を置いた結果中学の合唱部時代の同期達と疎遠になった自分は荒れた自称進学校で格好のストレスのはけ口だったようだ。合唱に勤しみすぎたのか、自分には頼れる人間が合唱部の同期の他にあまり多くはいなかった。それどころか一部の同期には大分冷たい目を向けられていたように今は思う。ただその一方人数合わせに先輩に呼ばれて一度だけステージに立ったこともあった。
高校を出る頃から今まで、自分は合唱から距離を置くべきだったかどうかについては結論が出ないままでいる。そしてこれからも出ないと思う(こういうことを吐露したかった。)
2年を経て上京して、大学に入った際、大学のグリークラブが一曲入学式で歌っていた。ゆるそうな雰囲気を感じてここならやっていけるかと思ったが、ここで思いのほか高い壁に当たった。ミサの聖句の一つ一つが余りにも自分にとって重い物になっていた。かつて中学の頃は文章の意味を追いかけて、恐らくは絵本程度の世界を思い浮かべることが限界だった。大学に入って、あまりにもミサの聖句は苦しいものだった。半年持たなかった。
それから翌年、中学の同期と後輩に呼び出されて歌った。これは昔ともに歌った人間も居て勝手も分かりよかったのだが、やはりミサの聖句は重かった。しかしミサが一番ウケがよかったのも事実だった。結局、1年半ほどたったところで仲たがいしてしまい、それっきり今に至る。
結局自分にとってミサは何だったんだろうか。家は浄土真宗本願寺派と日蓮宗の両親の下に生まれ、それなりに二人とも経を唱える程度のことはし、自分もさせられた。そんな家で育った自分にとって、若いころはミサはもう一つ、どこか別のところで誰かが信じている神の姿を描こうとするものだったように思える。つまり、そこに神は、自分の中では居たように思う。
しかし、恐らくは不登校と化して自傷まがいなこともやっていた(出席日数もギリギリだった)高校時代辺りが節目だったかもしれない。
大学時代に歌うミサは自分にとって余りにどう歌えばいいか分からない、そんな曲だった。旋律を美しく仕上げることは、特に死ぬほど練習した中学時代の勘が多少なり働いてくれる。でもそれだけだった。曲が自分たちを支えている。しかし支えられる自分が何も描くことが出来ないような空虚感があった。神はもう居なかったように思える。
それなりに人を信頼して生きていた中学時代、人を信頼しなくなった高校大学時代ではあまりにもミサに対してモチベーションが違った。
1日経って、やはりある程度肩の荷が下りているのを感じているところです。
思いのほか拙文を人が見ていたので幾分かの追記をしておこうと思います。
グリークラブ=聖歌隊なんだから今思えばバカをしたなと思っています
ではないんですがかなり出身校に偏りがあり、出身の中学から90人程度、ほかの中学も10~30人程度の塊で進学して来ている人が殆どで、既にその中でコミュニティが存在しているというのが実情でした。後東〇予備校に9割の生徒が通っていて、金銭的事情でそういった所に所属しなかったのも大きいかもしれません。
今の自分の思想は無神論に寄っていて、神を熱心に信仰している他人が不思議に思えてしまうのです。
それに、ミサはKyrieなどがそうですが、「私はあなた(神)を讃えます」みたいな内容、つまり信仰の告白を歌詞に含む曲が多い以上それを非キリスト教徒が歌うことに疑問符を隠せないでいます。
言われてみると、合唱と神というスコープを通して興味関心が少しずつハッキリとしてきた人生かもしれません。少なくとも信仰は無神論寄りになって、クラシックな合唱からは足が遠のいているのが実情ですが、時には歌を歌う人、神を信じる人の気持ちを感じる機会を得られればと思います。
一生食うには困らないまではいかないけれど、相当の預金を持っている。
きのう、何年ぐらいで底を尽きるのか聞いたけど答えてくれなかった。
これはスルーした。
1人ぐらいは変な奴もいるし。
でもまた見かけた。
kote2kote2 病気で入院して金も底を尽きた時オレもそういう気分になったことあるよ。テレビにムカつく、snsにムカつく、家族ムカつく、カップルムカつくってな感じにどんどん荒んで行った。気持ちに余裕がなければ無理なんだよな
2019/03/15
http://b.hatena.ne.jp/entry/4665883350335664034/comment/kote2kote2
なんなのこれ。
また「性癖」みたいにまともな日本語教わらずろくに本も読まず大きくなった育ちの悪い人間がへんてこな間違いを多用し始めて多数派として押し切って日本語をゆがめる流れなの?いい加減にしてくれ。
こういうとすぐ低学歴かつ本も読まない知的〇〇〇(ここに入る適切な不適切単語がわからないお前みたいなののことだよ。ちなみに濁音は入らないぞ。)が「言葉は変わっていくもの」とか誰かに聞いただけの意味も理解してない受け売りで反抗してくるわけだが、どう考えたって「底」は「尽き」ないし、こんなの純粋な間違いであって何の発明も新機能もないだろ。クリエイティブな造語・新語という庇い方すら出来ない。
間違いに居直る前に本ぐらい読むべきなのにそれは断固としてしない。成人するまでに何千冊本を読みましたか万冊いきましたかって話でこの手の奴等はへたすりゃ500冊も読んでない。きれいな言葉も汚い言葉も使えない。道具が粗雑だから思考もぼんやりとしかならない。
日本語苦手なら全部単純に書けばいいし、この例でいえば「お金がなくなる」でいいのに、使えもしない言い回しを使いたがって人の真似をして、しかしそんな奴の周囲ってのは同じレベルなので真似される側も間違ってるという。国語的貧困の連鎖。それが広まっていってとうとう「性癖」が別の意味になる。
前にどっかの低学歴が「性癖をえろい意味で取るのは当然、だって”性”って字が入ってるじゃん」とか言ってて、ならお前「性根」はチンポって意味なのかと聞き返してもそもそも性根という言葉も知らない。じゃあ「性能」は精力って意味なのかと聞いたら今度は精力って言葉を知らない。この手合いと話を噛み合わせようと思ったら小学校レベルまで語彙を制限しないとスムーズにいかない。抽象的な概念の会話なんかまるっきり不能。国が滅びるわ。そんで国が滅びますぞーだけ理解された。家族全員日蓮宗の変な宗教やってるので知ってるらしい。
人間として成り立ってるかどうかは自発的に本を読む習慣の有無で決まるのであって教育はその後の話だからこれはどうにもならない。母国語の語彙が貧しい人間というのは人間ヅラをした猿である。猿はどのように侮辱されようともきちんと話の噛み合った文章で反撃することもできない。知的障害者とどう違うのか。
ハワード・フィリップス・ラヴクラフトに端を発する小説を中心とした架空神話
一神教文化を背景としたおぞましさを表現している傾向が強く、多神教文化圏では理解しにくい部分もある
日本の創作にもよく引用され、クトゥルフ神話を題材とした作品がアニメ化されたりもしている
リチャード・ストールマンに端を発するGNU宣言の後に誕生
フリーソフトウェア運動支持者は狂信的なものもおり、時にその思想から内外で対立することを宗教戦争として揶揄したことからGNU教というジョークが成立
リチャード・ストールマン本人も聖イグヌチウスと名乗りコスプレを披露したこともある
北米の公教育において進化論と共にインテリジェント・デザイン説(知性ある何かによって生命や宇宙の精妙なシステムが設計されたとする説)の立場も教えなければならないとする議案に対して、反発する意味を込めて成立した
このインテリジェント・デザイン説の立場とは事実上キリスト教徒の立場であり、信教の自由があり為政者が特定の宗教を贔屓するのは良くないとする学生たちがキリスト教のパロディ宗教としてスパモン教を作った
スパモン教徒は「平等のため、スパゲッティ・モンスターが人類を作ったという説も学校教育で教えるべきだ」と主張した
後にオランダにおいて宗教団体として受理され、(神前式のノリの)パスタ婚式も行われた
日本の女性声優の釘宮理恵のファンによるサークル的性質を持つ創作宗教
ヤマグチノボルのライトノベルであるゼロの使い魔に登場するルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールをアニメ版ゼロの使い魔で釘宮理恵が演じたことにより釘宮理恵のファンが爆発的に増えたことを由来とする
釘宮理恵の演技に虜となった者を釘宮病と揶揄し、釘宮病罹患者はほぼツンデレ神釘宮教信者と見做される
海外の日本アニメファンにもKugimiya DiseaseもしくはKugimiya Byouで通じる
(追記)
東京都八王子市日吉町に所在する寺院了法寺の住職がオタクカルチャーファンだったことにより、了法寺へ萌え看板を設置したことにより注目を浴び、イラストレーターとろ美デザインのとろ弁天が作成された
同じこと日蓮宗に言ってやれよ
結論から先に述べると、飲食店で勧誘の話をされただけなので、電車代と飲食代で総額1600円は勉強代としては安すぎるくらいだとは思うが、俺は忘れっぽいのでここに書き記しておこうと思う。拙い文章だが記録という事でご了承願いたい。
俺は人が良すぎる。というより、まだまだ意思が幼稚なのだ。他人の良し悪しも分からないのに人を信用する。多分、心のどこかで甘えたい気持ちがあるんだろう、自分を知ってもらいたいだとか、話を聞いてもらいたいだとか、そういった内部の部分を今まで直さずに生きてきたからこうなったわけだが。
5月5日の国際展示場でその人とは知り合った。その日はコミティア123が開催されていて、それに参加していた。
お昼になってコンビニで買った物を食べてると人畜無害そうな顔をしたキョドリ気味の男の人が話しかけてきた。今だから思うが、きっと勧誘を任された新人だったんだなと納得する。
彼は「ここで何かイベントでもやってるんですか?」と聞いてきた。俺は「コミティアですよ」と返すと、「オタク系のイベントに参加した事がないから、詳しく教えてほしい」なる趣旨の事を言ってきた。今回、俺はサークル参加で、友達がサークルの場所に居てくれていたので、「時間が無いので他の人にお願いします」と言った。
すると彼は「今度、時間があるときにお話がしたい」と言ってLINEの交換を迫ってきた。この時に怪しいと思ったが、あとからブロックすればいいやと思い、交換をしてしまった。
そのときには音沙汰が無かったのだが、月曜日の日に、いつ空いてますか? とLINEが来た。めんどくさいなと思ったが、ちょうど今日、5月14日が開いていたので、来週の月曜日なら開いてますよと送ってしまった。すると、彼からときわ台に19時でどうでしょうと帰ってきた。
ここで気付くべきだったのだが、ときわ台は日蓮宗で有名な駅だ。事前に調べておかなかったのは社会人として失格だ。
そして今日、実際に会ったわけである。駅にはコミティアの彼と、知らない男が居た。会社の同僚だと聞いて、何も警戒をせずに腑に落ちてしまったのは気が緩みすぎていた。
男3人、居酒屋に行くかと思っていたが、バーミヤンに落ち着いた。聞くと、2人は酒を飲まないらしい。そりゃそうだ、大概の宗教は酒タバコその他賭け事はきんしされているのだから。
バーミヤンに着くと早々に、同僚の男がトイレに立った。場にはコミティアの彼と俺のみになったわけだが、彼は見た目通りコミュ障らしく、あまり俺に話しかけて来なかった。「今期のアニメは何見てますか」とか「お仕事は何をされているんですか」とかを二言三言話すと、彼はメニューを見るのに夢中になっていた。しょうがないので俺も頼む物を決めて、店員に伝えたところで同僚の男が戻ってきた。
この男が物凄く話の上手な奴で、宗教を抜きにしても会話が面白かった。今思えば、向こうにとっては心を開かせる作戦なのだろうが。
話をしていて、俺も始めてあったコミティアの彼の印象を話した。「宗教の勧誘だと思いました」と言うと、やたらとそこを突いてくる。
話は変わるが、俺の地元は宗教だらけだ。右を向けば創価学会、左を向けば幸福の科学、後ろを向けばエホバの証人。そんな中で育ったので、断るのは結構得意だったりする。今回はその経験が生かさなかった訳だが。
すると同僚の男は宗教が嫌いと言いだした。何かを願うだけでなにも叶えてくれない、祈ったところで結局は自分の努力次第だと。なるほどなと思った。この男の話は一理ある。願掛けしようがしなかろうが、結局は努力なのだ。怠けてた人が突然に神に祈ったところで結局は変わらない。なので俺は納得した。
ここで同僚の男はある人の話をした。なんでも余裕を持って行動する後輩の話。どんなに課題が出されても、いびられても、笑顔で受け答えて、それらを乗り越えていくという話だった。そこから、余裕はバイタリティ、体力がある人が持つ、という話になった。ここからだんだん怪しくなって行く。筋肉は鍛えられる、しかし筋肉は外側、では内側に当たるバイタリティを鍛えるには? と来て、南無妙法蓮華経を読むことだ! と言い切った。
そこから日蓮宗の新聞のような物を出して俺に進めて来た。宗教が嫌いと言ったのはどの口なのか。しかも、今までの話から矛盾した内容を話してくるのであるから困惑する。曰く、人は死んだらなにも残さないだとか、南無妙法蓮華経を読むと心に余裕を保ててしかも天国に行けるだとか、勧誘全開の話をしてきた。しかし、人は死んだらなにも残さないとはおかしいと思う。人は死ぬからこそ、子孫を残し、意思を示して、自分の分身たる息子、娘に人生の生き方を教えると思うからだ。まだ結婚もしてない俺が言えることではないが、そこはおかしいと思い、指摘をした。してしまった。すると同僚の男は「あなたは自分の嫌いな話をする人には仲良くしないんですね、そんな事だとこの先生きていけない、孤立するだけだ、よくこの人生を歩いて来れたな」と言った。
流石に怒る。俺は、これ以上話を続けるのであれば帰りますと言うと、同僚の男は「逃げるのか、そうやっていつまでも逃げてきたんだな、弱虫くん」と言ってきた。もう話が通じない(元から通じてなかった訳だが)と思い、自分の飲食代を払って、家に帰り、今に至るわけだ。
正直に言うと非常に怖かった。文章を書くのが苦手な為、カッコつけているところもあるが、おかしいと指摘したときに言われた言葉にかなり傷ついていた。もうこんなのは懲り懲りだ。ここから学べるのは、赤の他人には信用してはいけないことだ。当たり前だが、その時になってみないと分からない。今後、人を信用する事はあまり無いだろう。このご時世、全てに疑りをかけて生きていかなければいけないと思った出来事だった。