はてなキーワード: 伝統とは
魔法・超能力を駆使した学園バトル。主人公はその中でも特殊な能力の持ち主、特殊すぎて落ちこぼれ扱い。でも実は強い。俺Tueee。女性登場人物の殆どは主人公に好意を持っている。ハーレム、またはそれに近い。
※学戦都市アスタリスク、落第騎士の英雄譚、新妹魔王の契約者、対魔導学園35試験小隊
地方都市や田舎で少女たちが遊んだり学校に通ったりバイトしたりする。事件らしい事件も起こらないし、悪役も登場しない。男性も登場しない。背景が異様にきれいに描かれている。作画と演出が命。
伝統的な巨大ロボット枠。遡れば鉄人28号までご先祖様はいるが、大体ガンダムかマクロスかパトレイバーかエヴァンゲリオンチルドレン。
文字通り腐女子向け。完全に腐女子向けの場合もあれば、普通の少年マンガ原作をここに含める場合もあり、定義はひとによって変わる。イケメンがたくさん登場する。ある意味石鹸枠の逆バージョン。ただ主人公の少女も美形。
※スタミュ、Dance with Devils、DIABOLIK LOVERS
文字通り王道のスポ根もの。ただし、最近は腐向け扱いされる場合あり。原作は週刊少年ジャンプ。
※ハイキュー!!
原作なしの描きおろしオリジナルシナリオのアニメ。しばしば質アニメになりやすい。
「紳士」とあるが実質エロアニメ。AT-Xでは乳首まで見れる。おっぱいが揺れることだけが重要で、ストーリーはどうでもよい。石鹸枠と違い主人公は女性。
邪気眼的な世界観のアニメ。石鹸枠やオリジナル枠とも重なるが、ラッキースケベやギャグは少ない。
※K、終わりのセラフ
ラノベ・マンガではなく一般文芸原作のアニメ。ミステリが多い。場合によってはメディアワークス文庫など半ライトノベルも含む。実写化よりはマシ?ノイタミナのお家芸。
まさに「どうしてこうなった!」。誰得アニメ。ギャグ枠とは別に考えるべきである。
一見すると日常もの、単なる萌アニメに見せかけて見ているものを精神的に追い込むアニメ。
※魔法少女まどか☆マギカ、結城友奈は勇者である、がっこうぐらし!
難民枠と違い男性の登場人物もいる日常もの。これも作画と演出が命。
※ラブライブ!、アイドルマスターシリーズ、Wake Up Girls、うたの☆プリンスさまっ♪
魔法・超能力は登場しない。一般的な高校の部活動。但し部活動自体は実在しない、よくわからない部活。主人公はヒロインや担任によって強制的に入部させられる。タイトルに「俺」「僕」が入る場合が多い。主人公は平凡、下手をすれば平凡以下。
※俺の妹がこんなに可愛いわけがない、僕は友達が少ない、やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。
文字通り腐女子向け。完全に腐女子向けの場合もあれば、普通の少年マンガ原作をここに含める場合もあり、定義はひとによって変わる。
文字通りハード。または背景思想がハード。エヴァンゲリオンなんかもここ。
※攻殻機動隊シリーズ、PSYCHO-PASS、Fate/Zero
少々書き直した。今期って狭義の腐向けって無いのね。
http://ncode.syosetu.com/n4830bu/287/
そう言いながら、わたしは赤いジャムのかかったガレットを一口食べた。次の瞬間、あまりの衝撃に目を白黒させて、言葉を失う。凶悪な甘さだった。
馬鹿丸出し。欧米で主に使われるというグラニュー糖はそもそも言うほど甘くはない。キャンディーの甘さになれてる現代っ子からしてみれば、そのまま口に入れて噛めば甘いという程度だ。それでも言うまでもなく、味というものを超えた部分で、食べるとすぐに飽きるという点では、砂糖であることに変わりはない。日本の砂糖たる上白糖は甘いが、甘さの中に独特の風味があるし、水に溶かした時の甘さと唾液に溶かした時の甘さは違うし、チビチビ食べる時と一気にガバッと口の中に突っ込む時とでは話はまるで違う。
醤油だってそうだろ?一升瓶一気飲みと、お寿司を浸して食べるのと、お寿司の一部をちょんと一瞬だけつけて食べるのとでは、話はまるで違う。
異性化液糖も、何らかの形でグラニュー糖に換算すれば、よほどの量がコーラなどには入っていると聞くし、醤油のしょっぱさも、ただ単に量が多ければいいというわけではなく、砂糖のように作り方の違いにもよれば、油分が加わることで塩味がぐんと強くなることもある。
要は、甘さで測ると砂糖は決して頂点ではないということだ。むしろ砂糖よりも蜂蜜の方が、ねっとりとして遥かに甘かったりするし、醤油の油分のように、色々な工夫があるんだろうと思われる。
いずれの場合も、温度による味の違いというのもある。
本当に料理を分かってる奴が、こんな偏見を抱くだろうか?料理人なら砂糖や醤油をなめって味を測らないといけないはずだ。当然、油分などと混ざることによる味の変化も知らねばならない。異性化液糖もそうやって成分の量を使い分けると聞く。
あと上白糖は、グラニュー糖よりは小さいとはいえ、まだまだ結晶の光沢が見えるほどには大きいわけだから、水に溶かして水分を飛ばした後に残るような、あるいはマジパンのように他の成分と混じって粉状になったようなものとでは、また味は違うわけだ。上白糖はグラニュー糖ほどではないにせよ、口に含んでまだ噛めるくらいには大きいわけだから。
あと融解熱か何かによってひんやりするものは甘いという気もする。上白糖やグラニュー糖は逆に熱く感じるくらいだから、また違うわけだ。
砂糖は胃腸の弱っている人でも栄養を補給して体力を回復させる助けになる機能的な食品であり、嗜好品だからと言ってこのように見下され馬鹿にされるのは我慢がならない。物も知らないくせにこんな風に人を馬鹿にして回る奴が一児の母親だなんて吐き気がする。
食べ物の好みでここまで人を馬鹿にすること自体異常なことで、作者の人格が窺える。相当嫌な奴だってな。
そう言いながら、わたしは赤いジャムのかかったガレットを一口食べた。普通じゃないくらい甘かった。 ……ううぅぅ、口の中の粘膜・歯冠・唾液、なめると全部甘いよぉ……。
と改変すれば、俺の経験に適うことになる。砂糖であれば、唾液ですぐに洗い流されるほどの密度と粘度しか持たない。本当に甘ったるいものは、こうなるんだ。
矛盾は、高価な砂糖を使っていると主張しているというところではなく、口の中がジャリジャリするというところだ。前者は当たり前の知識だが、後者は完全に作者が料理を碌に研究したことがないことによる空想であって、事実無根だ。そしてこういうフランス趣味的な知識がありながら同時にグラニュー糖と上白糖という知識が無いのも、雑学として看過し難い偏見だ。
砂糖がステータス、というのも安直で、その背景にある砂糖の入手方法など、一体どうするつもりなのかがよく分からない。砂糖をどうやって手に入れるから単に高価なのかあるいは希少なのか。高価ないし希少だから、とにかく甘くして主張するのか。これは全部必然的な流れなのだろうか?単に料理人が自分で食べないからそういう味になってしまっただけかも知れないし、特定の宮廷だけで通じることかも知れない。
あとベッコウアメや綿飴は基本的に砂糖と水だけなので、やはりジャリジャリするほどの砂糖が入ってることになるわけだが、こうした伝統的な味覚も否定するんだろうか?味覚が破綻してるのは一体どっちなのかと面と向かって問い詰めたい気がしてならないんだが、この点は。それともそこに思い至らないほどのDQNママなんだろうか?
ザラメだって砂糖には変わりないわけで、ただの砂糖と言っても色々あるということでもあれば、砂糖をそのまま使った方がカロリーは高くなるが甘さはむしろ優しくなるという証拠でもある。砂糖が甘ったるいと言えるようになるのは、何かの生地に混ぜて固めた時だけなんだ。
それに甘さだけしか感じないのは、他の刺激が甘さに比べて弱いせいでもあるだろう。その意味じゃこの作者が世の中の甘さについて論じることができていないというのはもはやこれ以上の論を俟たないことになる。甘いのはこの作者の甘味論と大人としての品格であって、この母ちゃんが攻撃する所の砂糖じゃない。
ていうか、そもそも砂糖をそのまま入れて甘くないということはもう既にはっきりしてるわけで、しかも砂糖の形なんて残らない方が甘いというのも、最近のマカロンなどがお好きな皆様方にはよくご存知のことだろうから、論外中の論外だし、痛切に批判したい。
バラだとかユリだとか、甘くなくても甘いと形容せざるを得ない感覚はあるし、イチゴよりもレモンの匂いがした方が甘かったり甘くなかったりするものだ。
酸味があるか、甘味がどれくらい残留して長い間密度を保てるか。様々なファクターがあるんだ。そのために人は努力して研究するんじゃないのか。
結局俺は近代の宮廷で出されたお菓子を食ったことが無いので、実際どのような味覚がするのかは分からない。だが知っている範囲でそのようなことが考えられないことであるということだけなら、疑う余地は無い。作者の表現の誤りを架空のものと断定するには足る。ただ残念ながら、正しい表現は、その筋の本でも読んでそれこそ調べるよりほかないだろう。
作者には、偏見に基づき差別的な悪意のある批判を、架空のものであろうとも、事実に基づく仮託である限りにおいては排除することと、浅い経験による空想をそのまま言葉にすることを慎むことをいつの日か自覚されることを期待したい。
組体操かダンスか集団行動から一つ選べっつわれたら、リズム感や運動神経もなくかといって集団でゾロゾロ歩くのもダルく感じてしまう俺なら組体操選んじゃうかな。ダンスなんてやったらあまりの下手さにいじめられそうだし、ケガのリスクがあるのは集団行動だって同じじゃん。重大なケガにつながりやすいだろってツッコミはなしな、わかってるから。
それでも私が組体操に取り組む理由。ある現役教師の告白(アスリートナレッジ) - BLOGOS(ブロゴス)
この記事のブコメ見ててしみじみ思うんだけどさ、この流れで「いや、組体操も意義あると思うよ」なんて言ったら、お前らにイヤってほどぶっ叩かれんだろ? だから今俺増田に書いてんだけどさ。こういう子供の安全だの正義だの大層な言葉を錦の美旗にして反対意見を出しにくい空気作ろうとする奴こそ、組体操なんかよりずっと恐ろしいけどな。あ、「同列に並べるもんじゃねぇだろ」ってツッコミもノーサンキューな。
上の記事見てて思ったんだけどさ、これって「祭り」みたいな位置付けなんじゃないかって思ったの。伝統的に引き継がれる、的な。上の代がやるのを見て「自分達もやりたい」って思う奴がいる、なんてとこはいかにも「祭り」っぽいなぁと思った。そういう伝統を引き継ぐ取り組みに充実感を感じる奴だっているだろう、という想像は出来る。そういう思いは別に否定されるもんでもない。
たぶん、地域で伝統的に続けられてる祭りで、客観的に組体操より危険なものはいくらでもある。そういうのも「危険だから」って理由で無差別に叩くのか? ブコメ見てて思うのは、そういうことを「やりたい」と思う人間を徹底的に叩こうとする狭量さなんだよな。お前らの判断基準が全ての人間にとって正しいわけじゃねぇぞ? それわかってて「正義」とか言ってんなら、本当どうかと思うわ。
いいじゃないか。地域やその集団単位でそれぞれ判断すれば。危険とその集団が判断するならやればいいし、意義があると判断するなら続ければいい。それだけの話で、ブクマカーみてーな部外者中の部外者があーだこーだ言って良い結果につながることなんて1ミリもない。
組体操できなくなって泣く子供に、「良かったね、危険なことやらされなくなって」って、気持ち悪い笑顔浮かべながらコメントすんだろお前らは。気持ち悪い。
「心が叫びたがっているんだ」を観てきた。てっきり平凡な青春ものの作品だと思っていたら大間違い。一筋縄でいかない緻密な描写に裏付けられたとんでもない傑作だった。
この作品の凄みについて説明するには、素直な鑑賞方法の「青春ラブストーリー」としての軸と、「核家族ホラー」としての軸の二つの面から読み解いていく必要がある。
核心はもちろん「核家族ホラー」にあるのだけれど、まずは「青春ラブストーリー」としての軸から順を追って解説したいと思う。当然ながら以下の文章は物語の核心に触れるものなので、未視聴の方は注意していただきたい。
個人的にはネタバレのために面白くなくなる類いの作品ではないと思っているものの、まっさらな気持ちで作品と向き合うチャンスはとても貴重なものだと思う。
まずこの物語は、地元の神様的存在から呪いを受け、声を失った主人公(成瀬 順)というちょっとしたファンタジーから始まる。
最終的にはこれは本人の妄想に過ぎないということが解き明かされるのだけれど、どちらにせよほぼ全くしゃべることができないという現実には少し考えにくい境遇の人物を軸に物語が回る。
ある日学校の交流会、有り体に言えば文化祭的なイベントの実行委員に担当教官から強引に主人公が抜擢される。
抜擢されたのは合計4人で、実行委員になったのは主人公に加え坂上 拓実、仁藤 菜月、田崎 大樹の3名だ。
いろいろあって主人公たっての希望により、交流会の出し物をミュージカルとし、紆余曲折ありながらも4人力を合わせて交流会を成功に導く。というのが大まかなあらすじになる。
ラブストーリーとしては、成瀬は坂上に思いをよせるものの、中学の頃から相思相愛の仁藤という存在があったため、成瀬の恋は片思いに終わり、最終的には実は成瀬に思いを寄せていたダークホースの田崎が彼女に告白する。というところで終演した。
ここでひとつ初見で思いがちなのは、「田崎の告白がとってつけたもののように感じる」ということ。片方がくっついた一方で余りの二人がくっつくという、平和にラブストーリーを決着させるありきたりな手法に思えるし、実際そうなのだけれど、田崎の告白自体はしっかりと序盤から布石がちりばめられていた。
田崎はかつて平凡なチームの一つに過ぎなかった野球部に「甲子園を狙えるかも知れない」と夢を抱かせるほどのスーパーエースだったが、腕の負傷により選手生命を絶たれた男だ。性格は運動部らしくまっすぐ筋を通すことをよしとするスポ根の思想を持っている。
その田崎と引きこもり一歩手前の成瀬というカップリングは奇妙ではある。しかし物語でのファーストコンタクトの時点から、彼女は彼の心を動かし続けていた。
まず田崎が実行委員参加に消極的な当時、交流会の出し物を決める学級会議で成瀬をひどく侮辱するシーン。
このとき田崎は完全に成瀬を見下しており、くだらない存在と思っていた。しかし、そこで突然成瀬は歌い出し、彼女がミュージカルをやる実力があることを証明してしまったのだ。
このあと、田崎は珍しく部活動の参加をせず帰路につく。
彼女を侮辱したとき、同時に田崎は坂上から侮辱をうけており、それが原因にも思えるが、結末から逆算すればここはそうではなく、成瀬の行動に胸を打たれてのことであったのだと考える。
ひどい侮辱を受けても胸を張り、自分の実力でそれをはねのけてみせる。
前述の通り、スポ根の田崎にとって、これほど評価に値する行動はないのではないだろうか。自分が見下していて、それも真っ向から侮辱した相手にそれを見せつけられたとき、田崎は今の自分自身の姿と初めて直面したのだ。「あんな立派な彼女に対して、今の自分の情けなさはなんだ?」といったところだろう。
この後の下校シーンで田崎が仁藤を誘うというシーンが挿入されるため少し混乱するが、これはおそらく「チア部部長と野球部エースがつきあうという伝統」と、仁藤が女性的に魅力があったからという単純な理由による、破れかぶれの軽口だったと考えている。田崎は最初から仁藤については恋愛感情は抱いていない。演技や描写的にも、私には一番腑に落ちる解釈だ。
次にファミリーレストランで会合中、田崎が野球部の後輩と居合わせて喧嘩になるシーン。
ここまで説明すれば明白だが、このとき田崎は成瀬に助けられてしまう。成瀬は「いなくなれ」と侮辱された田崎を必死で庇う。言葉を発するとひどい腹痛にみまわれるというハンデキャップを負っているにもかかわらずである。(実際成瀬はこのために病院に運び込まれることになった)
ここで田崎の恋心は確定したといっていい。
またも彼女は田崎の最も評価する行動を取り、かつそれは自分を庇うための行動であったということ。尊敬に値し、同時に自分を気遣ってくれる存在。もはや恋に落ちるには十分すぎる条件ではないだろうか。
その後田崎は実行委員に積極的に参加するようになった。そこで野球部外の生徒との交流を通して、野球以外の世界、自分のかつて見えていなかった部外の生徒の特技や良いところにふれることで、次第に心を開いていくことになる。
ある日、実行委員の活動から帰路につくとき、成瀬と田崎が二人きりになることがあった。そこで田崎は彼女に今までの無礼を詫び、野球以外の世界を教えてくれた成瀬に礼を言う。ここでついに告白でもするのではないかとハラハラしていたが、それはラストシーンまでお預けとなる。
ところで、「ここさけ」のメインストーリーとして、片思いに終わるものの成瀬の坂上に対する片思いは結果的に彼女と世界を隔てる卵の殻を破り、彼を失う代わりに新しい世界へ足を踏み出すというものがある。
その第一歩が田崎の告白に他ならないのだが、その田崎自身も、野球という卵の殻に閉じこもっていたと考えることができないだろうか。
坂上は終盤直前まで主人公同然の露出率で、意図的に組まれたミスリード的存在であったが、実は恋愛ものとしては同じテーマを抱えた田崎×成瀬こそ主軸のカップリングであったと言えると思う。
その証左として、終盤の「あこがれのお城」での坂上と成瀬のシーン。
成瀬がため込んだ思いを自分の声ですべて坂上にぶつけるあのシーンで、坂上は誠実に聞きに徹する。とても凝った演出で純粋に感動的なシーンではあるのだけれど、私は別の意味でもひどく感動を覚えた。
成瀬の言葉を一つ一つ受け取っていくたび、坂上の存在がだんだんと小さくなっていくように感じたのだ。それまではまるで主人公のように振る舞っていた彼だが、すべてのやりとりを追えた後にはその影はまったく消え失せている。ミスリードの主人公として、成瀬の思い人としての役目を終える瞬間だった。最後に残ったのはただのモブ同然の男子生徒。その後のミュージカルのシーンでは王子という準主役の役目を演じるにもかかわらず、抜きで映し出されているのは成瀬で坂上は声しか聞こえない始末だった。これではDTM研のふとっちょ以下ともいえるだろう。
女性は終わった恋に対して淡泊と言うが、その心理を如実に表しているようにも感じる。ニセの主人公だったのにもかかわらず、ここまで主役のように劇中でふるまってきたのは、恋をしている成瀬のフィルター越しの演出だったのではないかとも解釈できる。
さて、青春ラブストーリーとしての他のカップリングについては、劇中で直接的描写がされているため省く。
次に「核家族ホラー」としての「ここさけ」を解説したいと思うが、その前に一つ念頭に置いておいてほしいシーンがある。それは先述にもあったが、「あこがれのお城」でのシーンだ。
成瀬は坂上に泣きながら言葉をぶつけていた。失恋の結果だし、この感情表現に対してまったく違和感はない。
しかしそれを受けての坂上の涙。これはどうだろうか。
「思ったことを言葉にする成瀬の姿に感動した」というような事を言っていたし、その言葉に偽りはないとは思う。しかし、その説明ではあの涙の十分な説明にはなっていないのではないか?と疑問に思った。ある意味で事実に沿ってはいるだろうものの、本質をかすめてはぐらかされたような気持ちになった。
しかしこの疑問は、成瀬と坂上、二人の家庭環境について読み解いていくことで明らかになる。
以下につづく
「おそろしい」
「おそろしい」
さわやかな増田の診断結果が、濁りきった電脳空間にこだまする。
xevra様のお庭に集うおっさんたちが、今日も天使のような無垢な胃腸で、
背の高い門をくぐり抜けていく。
清潔を知らない通学路を包むのは、茶色いまだら。
エントリーのプリントは曲げないように、白い括約筋は驚かせないように、
ゆっくりと歩くのがここでのたしなみ。
もちろん、脱糞ギリギリで走り去るなどといった、間に合う生徒など存在していようはずもない。
平成十八年創立のこの学園は、もとは自称令嬢のためにつくられたという、
京都下。Web2.0の面影を未だに残している星の多いこの地区で、
xevra神に見守られ、幼稚舎から幼稚舎までの一貫教育が受けられるおっさんの園。
時代は移り変わり、覇権がniftyから何度も改まった今日でさえ、
十八ヶ月瞑想を続ければ大脳が破壊された純粋培養おっさんが箱入りで出荷される、
という仕組みが未だ残っている貴重な学園である。
Times Higher Educationの世界大学ランキングが今年も出て、東大がアジアの大学トップから陥落した。他の大学も軒並みランキングを下げている。文部科学省は、今後10年間で世界大学ランキングトップ100に我が国の大学10校以上を目指すという目標を掲げて、スーパーグローバル大学創成支援プログラムなどを行ってきた。思惑と完全に逆の結果が出て、明日からいろいろと議論のあることだろう。
しかし、大学内部では、この結果にむしろ安堵している向きもじつは多いのではないかと推察する。
国が大学をいじろうとすると、ろくなことにならないという、大学内部の人々の見解が、外部からの評価によってはっきりと示されたからである。学位を持たない政治家、文部官僚、コンサルティング会社の従業員が作ったエクセルファイルとパワーポイントのスライドが生み出したものは、国外の大学評価者からゴミとみなされてしまったわけである。
ともあれ、今回のランキングでトップ10に入った大学と東大ではとうてい比較にならないということは、教育内容のみならず、キャンパス環境においてもそうであることも記憶しておいてよい。キャンパス環境は研究のパフォーマンスに影響を及ぼすからだ。東大のキャンパス、とくに本郷キャンパスとその周辺環境は劣悪である。
東大の出身者であり、ランキングでトップ10に入った大学のうち、4校を実際に訪れた人間の見解として読んでほしい。いわゆる出羽守である。
本郷キャンパスで学生時代を過ごしたことのある人ならば、独特の「居場所がない感じ」を覚えたことがあるのではないだろうか。たくさんの建物があるはずなのに、授業の合間に本を読んだり、軽く休んだり友達と喋ったりしようとするときに、行くところの選択肢が極端に少ない。キャンパス内に「隙間」的な場所がないのだ。
東大本郷は息苦しい。キャンパス敷地内の建ぺい率が高すぎるのだ。敷地の隙間を埋めるようにして、企業からお金をもらってはビルを建てつづけているうちに、場所がなくなってしまった。かつて東大出版会があった建物は近いうちに壊され、緑地になろうとしているが、これはキャンパス内の建ぺい率が高すぎるため、アリバイのようにして何もない場所を残しておく必要があるためだ。
スペースがあるところすべてに建物を立てるのが合理的だという発想は、大きな子供の考え方である。人間の深い欲求を見ていないからである。敷地にめいっぱい高層ビルを立てた環境の中で、知的能力を極限まで働かせて競うという状況に、人は耐えることができない。「隙間」が必要なのだ。検索すれば、本郷の高層ビルから学生が飛び降りて死んでいることがわかるだろう。
本郷キャンパス内に居場所がないならば、大学の外でゆっくりしようと思っても、なかなか難しい。昔ならいざしらず、本郷はもはや学生街ではなくなっているからだ。
本郷は老人と若いファミリー層の街である。文京区がそのようなまちづくりをしようとしているのである。文京区では25平方メートルより狭いワンルームマンションは新しく作ってはいけないように、条例で決まっている(http://www.j-cast.com/2008/08/05024411.html?p=all)。東大周辺で昔から不動産業を営んでいる人に直接聞いた話によると、規制が敷かれる以前につくられた狭小物件の家賃は、バブル時代の水準で高止まりしている。あまりお金のない東大生にとって、本郷周辺で手頃な部屋を見つけるのはとても難しい。このため、多くの東大生はベッドタウンから通勤してくるサラリーマンのようにして、朝、本郷キャンパスへやってくる。
こうした住宅事情は、本郷界隈のビジネスにも影響を及ぼしている。この10年の間に本郷通りで増えたものといえば、高層マンション、ラーメン屋、カレー屋、中華料理屋、小型スーパーである。飲食店は、主にサラリーマン層の需要を当て込み、食べたらすぐに出て行かなくてはならない高回転率型のビジネスが増えた。あまりお金をかけずにゆっくり本でも読もうとすれば、ドトール、スタバ、サンマルクカフェといった選択肢になろうか。この他にも本郷通ではまだ個人経営の喫茶店が健闘しているが、いかんせん価格帯が高く、老朽化が進んでいるため居心地に問題があるように思う。
北米や英国の大きな大学は、町と大学の境目がないことが多い。両者が融合して美しい町並みを作っている。これが東大本郷との最大の違いである(いわゆるオックスブリッジは、旧市街と伝統的なカレッジ周辺の家賃は高いが、その辺に住まずとも、とりあえず身を隠せるところがそこそこある)。文京区は東大周辺の学生を追い出し、高く売れそうな高層マンションの建設ばかり許している。そのような場所に住む人は、税金を払ってくれるからだ。友達の部屋にちょっと寄り、周辺でご飯を食べてコーヒーを飲みながら話をして、歩いて大学に行ける環境から生まれるものと、そうでない環境から生まれるものは、やはりちがう。
このような議論には、はてなーお得意の、さまざまな「もう一つの視点」からの批判があろうし、そうあってしかるべきだが、東大が本気で研究の生産性を、しかもお金をあまりかけずに上げたいのならば、まちづくりの段階から周辺の人々と協議して、もっと学生が定着しやすい空間を創りだしたほうがよいのではないだろうかと思わざるをえない。
妻
嫁
字の様から、この語に「家同士の婚姻」という時代や制度性を読み取ることは必ずしも間違っていない。従って、ことの是非はともかく現憲法とは整合しない。(家制度を否定するために設けられたとされる日本国憲法第24条1項に「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」とある。)
奥
この語は、家の奥の間を指す語から武家の制度に由来する(例:大奥等)。この大げさな語を庶民が配偶者に用いたのはおおむねジョークとしてであり、他に「女房(=貴族の家の手伝)」、「山の神(=女性であり、嫉妬深く、祟りやすいとされる)」など似た事例がある。
「グループ内最劣位の者を基準とした呼称」。すなわち、家庭内において子どもを基準としたときの「母」という立場に起因する日本的な呼称であり、「伝統的」であるとともに、「核家族を単位とした家族観を前提」とし「トーチャン」と対になる呼称であるところが意外とリベラルではあるものの、残念ながら子どもの居ない家庭などでの使用は難しい。
結論。今のところ日本語には、結婚後に、現憲法に則した『同等の権利を有する相手』の呼称がない。どう呼んでも問題がある点では同じ。
というわけで、好きに呼べばよろしい。ちなみに、「上記呼称に尊称を付けることで、本来的意味を崩壊させる方向」に進みつつある現在の状況はそれなりの妥協案だと考える。(奥『さん』、嫁『さん』、妻『君』……最後は余り現代的ではないが。)
夫婦別姓化を国連から勧告されたという本当か嘘かわからんニュースについてネット上で議論が起きているようである。
主に夫婦別姓賛成派が使用している主張の一つに「夫婦別姓は日本の伝統ではない。明治時代に云々」というのがある。
お前は馬鹿か、と。夫婦別姓論に伝統がどうの言い出すのは極めて不適切である。
なぜかと言うと、ではこのまま夫婦別姓が1000年2000年続いていたらお前は伝統だから夫婦別姓に賛成だ、と意見を変えるのか
ということである。伝統だから、伝統じゃないからというのは主題の本質とは極めて無関係だ。
それにもし伝統として続いていけば賛成だというのであれば、伝統になる過程の夫婦別姓を今潰すべきではないだろう。
逆に反対派が伝統だからというのも同じ理由で根拠にならない。賛成派も反対派もまず思い出さなければならないのは
日本では明治3年まで多くの国民が苗字を持っていても表立って使用しなかったという事実である。
そうであれば夫婦別姓も同姓もありようがない。
私は夫婦別姓論に反対だが、その大きな理由は子供の苗字が両親と統一しないからという感情論である。
この子供の苗字の問題は選択的であっても夫婦別姓を導入した場合に付きまとってくる問題であるし
なぜ妻が夫の名字に合わせなければならないのか!人権侵害だ!などという方がいるようであれば
私からは「別に夫に合わせる必要はない、現時点でも認められているのだから
妻側の苗字に合わせて結婚すればいいのではないか」という他無い。
この私の意見に対して論理的な反論は不可能であろう。なぜならこれは論理ではなく私が感情的に嫌だと思っているからである。
組み体操の是非が騒がれているので、自分の体験から述べてみる。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/ryouchida/20150528-00046097/
小学校6年生の運動会、演技種目は空手の演武だった。女子は当時流行っていたSPEEDのダンス。
組み体操の伝統もなかったので平和だったが、去年までは全員でのヨサコイなどの踊りだったので、とても珍しいなと思っていた。
その時、男子空手のお手本役になっていたのが、問題児のKくんだった。
どちらかと言うとガキ大将的なやんちゃな子で、すぐに暴力を振るう感じだった。
自分も5年生頃に1度ザリガニ釣りに一緒行ったことを覚えているが、
その後、何度かケンカして遊ばなくなったように覚えている。
ただ、そんな乱暴なことが禍してなのか、あまり友達が多くなかったようだ。
一度、机にくさったパンが詰まっていたのを見つけたことがあるが
自分で突っ込んだものなのか、だれかに入れられたものかは定かではない。
練習期間は演舞を教えることでリーダーシップも発揮していたし、
なにより、空手ができる彼はカッコ良く見えた。
私が知っているのはこれだけで、それまで彼がいじめられていたのか、
クラスで孤立していたのか、はたまた、その後の人生がどうなったのか、全く知らない。
卒業アルバムに、かっこ良く写って卒業していることは間違いない。
今になって思い出すと、このエントリのようhttp://anond.hatelabo.jp/20150920224758]に、
きっとうまく行ったのだろうと思う。
これをやればうまくいく。ではなくて、誰かを受けれてもらうために
インターネットは嘘を嘘として楽しむ場所なので、こんなことを言い出すのも野暮なのかもしれないが、
私は「騙されるのが嫌だ」「感動を返せ」とほざくバカに自衛のための武器をあげたい。
なぜなら増田とは地上に残された唯一博愛の地であり、敵に塩を送る礼儀をわきまえた唯一の匿名人種だからだ。
そのことが増田たちを誇り高くしている。
まず、見てすぐわかるタイプのがいる。いわゆる「初級おっさん」というやつだ。これはおっさんもわざわざ隠そうとしない。場合によってはラスト一行で男バレを自らやることもある。
これをもって「おっさん乙」などと得意げにコメント打つのは愚の骨頂、カモの所業である。
即バレなどおっさんにとっては前戯のようなもの。まだアナルには爪先すら触れていないのだ。
そんなおっさんが本気を出して騙しにかかった場合はどうだろう。
ぶっちゃけていえば、通常その真贋を看破するのは不可能に近い。人間、その気になればwikipediaと小手先と情報の非対称性でいくらでも人を騙せる。
難しいのは増田という場自体が「騙しやすさ」を底上げしていることだ。
増田は匿名サイトだ。そこに書いてある意見や発言は実名で発言する地位ないし度胸のないクズのたわごとと見なされており、まず真剣に読まれない。ゆえに「自分は◯◯だ」と言い張ればまず、多少瑕疵があったところで、わざわざ検証コストかけてまで反論しにくるやつはいない。今回の女音楽家風俗嬢事件のように、たまたま増田にそのスジに詳しい人物がいればいいが、いつもそうした専門家に恵まれるとはかぎらない。「女音楽家」が「女カバディ選手」だったら手の施しようがない。
だから基本的に増田の言うことはそのまま額面どおり信じられることとなる。
では騙されたくない人はどうすればいいのか。現状では三つの伝統的な対処法が存在する。
1. 増田をみるのをやめる。
一番健康的な対処法である。もともと読むに値しない記事が99.9999%を占めるので、全く読まなくなったところで人生になんら悪影響を及ぼさない。むしろ、増田を見なくなることが人生の良い側面が目につくようになり、精神衛生も向上することでご飯がおいしくなり、毎日がハッピーに、年毎の健康診断でも改善が見られるようになる。
しかし、タバコや大麻といっしょで、簡単に止められるなら最初から誰も苦労はしないのである。
2. 元増田が女性と自称する記事のコメントをすべて「おっさん乙」にする。
知性の敗北である。「高度に発展したおっさんは本当の処女と見分けがつかない」とするならば、常に一定割合で含まれるおっさんをバスターするために絨毯爆撃はそれなりに理にかなっている。リスクもない。
しかし、それであなたのプライドは満足するのだろうか? おっさんと処女をまとめて鏖殺する、そんなのがあなたの人生なのか? そのような雑でサイコパスじみた合理主義がベトナムで、アフガンで、イラクで、悲劇をひきおこしてきたのではなかったか? あなたはおっさんを敵視するあまり、ドローン以下の存在に堕落してしまっているのでは? おっさんと子どもたちの未来を奪う空爆に今こそNOを!(おっさんという文字列には NO WAR という語が含まれている)
いわゆる、深淵を覗くものはキャーのび太さんのエッチ! ってやつである。
みずからおっさんを演じることでおっさんの意志に沈潜し、同化し、その思考をトレースすることでおっさんを完璧にプロファイリングすることが可能となるのである。先ほど挙げた「初級おっさん」にもおっさんプリテンダー、おっさん検挙を最終目的とするおっさん潜入捜査官が含まれていると言われる。
もちろん、この手法には重大なリスクが伴う。やがて、マジモンのおっさんになってしまうかもしれない、という危険だ。そして、その罠にはまる若者は事実後を絶たないのである。虎穴はいらずんば虎児を得ず。おっさんを殺すためにはおっさんの力が必要なのだ。君にその覚悟はあるか?
以上三つが伝統的対おっさん検挙手法であるが、年々高度化する知能犯であるおっさんに対して、いずれも決定打とはなりえていない。
そこで私は一つ新たな手法を提唱したい。名づけて「それ、AVで観たよね?」メソッドだ。
あなたが、増田で自称女を名乗る記事を発見したとしよう。文章も設定も物語も高度に練り上げられ真に迫っており、とても創作とは思えない。が、あなたの脳内では一目観た瞬間から「これはおっさん!これはおっさん!」という警報が鳴り響いている。
この直感の正しさを証明するために、あなたは以下の行動にでる。
まず、あなたは記事の設定を抽象化して抜き出す。「女音楽家」、「苦学したため金を稼ぐために風俗で働く」。
そして、その設定からそれっぽい検索ワードをひねりだし、DMM.comのサイトで検索にかける。
ヒットした候補のなかから記事の設定によくにた設定のAVを見つけよう。
「おっさんは自分の願望に基づいて女を創作する」――その習性を利用してやるのだ。なぜなら、おっさんの妄想の八割はAVに由来する。
そうやって、おっさんを割り出せたとして、あなたはそのおっさんをどうすればいいのか。
断罪するのか。弾劾するのか。無視するのか。むしろ擁護してやるのか。おっさんの嘘に加担するのか。
そう、真実の先には常に「あなた自身の真実」が投影されるのだ。
深津さんのエントリに便乗するような形で書きなぐってしまったダイアリーに、沢山の反響をいただいて恐縮です。
やはり、現状はよくないですよね。
2020年に向けて、この混乱した状態からよい方向に向かうことができるのか?
お父さんやミノ☆タロー氏の退社、ハドソンから受け継いだ桃電の不遇、いつまでたっても出ないパワプロ2015、そしてコジプロの解散……。
もちろんときメモシリーズの復活など期待できるべくもありません。
僕たちの愛したKONMAIKONAMIはどうなってしまうのでしょうか。
あの輝かしいオレンジと赤のエンブレムを掲げていた伝統あるゲーム会社が、このままカード屋に、カジノ屋に、スポーツジムになってしまっていいのですか!
いまこそメモラーが一致団結して、声を上げる時です!
さあ、心を一つにして、ご唱和ください!
北ヨーロッパのあたりでよく食べられている「リコリス菓子」という分類のお菓子の一つなんだけど、
これがもう黒光りする体躯にケミカル臭バリバリで日本人は食えたもんじゃない
おいこらてめえ、塩化までは良いがアンモニウムってなんだよホンオフェかよ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%82%A2%E3%83%83%E3%82%AD
サルミアッキのキャンディは、北欧周辺地域では伝統的に食べられ、北欧5ヶ国ではその国を代表する菓子といってよいほど、子供から大人までに食べられている[2]。しかしその独特な味から、それ以外の地域ではあまり食べられない[3]。
最初佐野さんの原案デザイン以外を選んだ審査員は、どんな説得で最終的に佐野さんの原案に賛成したんだろう。
佐野さんの原案は静的で、色も高級感や伝統や落ち着きを感じる渋い印象だし、スポーツの祭典ぽくないよなあ。
決め手となったらしい展開力も発表された例ではどこが圧倒的に優れているのか素人の自分にはよく分からない。他のエンブレムになさそうな展開例って読みにくいアルファベットと積み木っぽいのぐらい?むしろメインカラーが黒色なのは展開しにくくないのかな?黒赤金に比べて銀色が見えにくいし。
佐野さんデザインは縮小印刷しても見やすいって意見や、他のデザイナーや素人が作ったエンブレム案に対して否定的な意見も見たけど、もし、佐野さんの原案と扇のデザインがエンブレムのコンペで最終候補に残ってたら、自分だったら扇デザインを選ぶけどなあ。色も形も動きがあって華やかだしお祭りっぽくて、みんなで盛り上げようって気分になる。
コンペ選定後で修正されるのは珍しくないことらしいので、だったら扇デザインだって色や配置を修正すれば良いんだし。
展開案も、素人考えで安易だろうけど扇そのものの曲線で大きくもドットで小さくも使えるし、ドットを使ってグラデーションも作れるし、グッズ展開もドット模様で可愛いのができそうなきがするし、賑やかに大会を盛り上げられそうだけど。
八百長の出来レースだったとしたら、せめて修正案のデザインでコンペ応募するくらいの工作すればいいのに。他のロゴと被りやすそうな文字のデザインは避けるとか、あらかじめ似た図案がないか事前に調べるとか、騙すんならもっと丁寧にしっかり準備してうまくやってほしい。
碧志摩メグについて、公認として認定した志摩市の行政の方たちや、何が悪いんだあんなの秋葉にあふれてる絵だろうと言ってる人達に、どうやればこの違和感が伝わるのか考えてみた。
君に届け!
例えば『裸祭り』。
全国的にいろんな地域で行われていてニュースでも流れるので志摩市行政の方もご存じだと思います。
男性(氏子)がふんどし一枚の裸で行う勇壮な祭りで、神事でもあります。
「うちの町おこしをしたいなあ…」とある日その町の行政担当者が考えます。売りとしては『裸祭』だろうと、そこらへんは課内でも一致。
「結構観光客も来るし盛り上がるイベントなんで、これをうまく使ってPRしよう!」と決定するわけです。
課内ミーティングでいろんな意見がでます。近郊からだけじゃなく全国から。さらにいうと、今はやっぱりグローバル。世界中から観光客を呼びたいね。とか。
このあたり、どこの行政も同じようなことを考えてるんじゃないでしょうか。 多分碧志摩メグを募集したり公認した志摩市行政担当の方も同じような考えがあったように勝手ながら推測しています。で、志摩市の行政担当者の方は、キャラクターを決めてポスターなどに掲載しPRしよう、という方向に落ち着いたんではないでしょうか。で、そのキャラクターを選ぶ際の選び方に、私は違和感を感じるわけです。
その違和感について、裸祭のある町の行政担当者の場合で説明させていただきます。
碧志摩メグに関して私が主に感じる違和感というのは、この裸祭の例で言いますと、その町の行政担当者が町おこしのために裸祭のアピールをすることにして、世界的に有名なゲイ専門誌にPR広告を打った、というようなものと同じではないかと思うのです。
効果は、どうなんでしょう?まあ仮説なので、効果はあるとしてこの件についての裸祭町行政担当者の言い分を聞きますと。
「男性(ノンケ)の裸を性的な目で見る方々にとっては、裸祭はそりゃー生でみたいでしょう。だって男がふんどし一枚でたくさん目の前にいる祭りですよ!? 自分も男だから、女の人が裸で押し合いへし合いする祭りがあると言われればかなり興味を持つので、ゲイの人達の気持ちもわかります。しかも全世界のそういった嗜好の方を対象にすればかなりの数がこの町に呼べます。当然観光客としてお金を落としてくれるわけです」
「ただちょっと裸祭を性的な目で見たり、ふんどしお尻ばかりを写真をとったり、氏子(ふんどし一枚の男性)にたいしてナンパをしたりにやにやとからかいの言葉をかけたりするようなことがあっても、町おこしのためですから!氏子の方も我慢してくれると思うんですよね」
「まあからかいの言葉といっても、『いいからだ!』『写真とらせてクダサイ』『いいヒップだねえ』とかそんなもんですよ、多分……まあ海外のゲイのかたですので、当然体格もよくガチムチ系も数多くいると思います。嫌がらせの暴言を吐く人もいる……かもしれませんが、まあそこは町おこしのためなんで氏子には我慢と自衛してもらうってことで。これ、どうですか!?いいアイディアでしょう?」
……って裸祭町の行政担当が言ったとして、志摩市行政担当の方は違和感を感じないでしょうか?たとえば……
(1)「いやいや……いくら全世界にPRできて観光客がお金おとしてくれるっていってもね、あれは祭りであって性的に誰かを楽しませるために裸でいるわけじゃないでしょう?」
(海女さんも同じですよね)
(2)「しかもあれは、神事ですよ。真面目に皆やってるんです。そんな本質を知ろうともしない裸目当ての冷やかしをされると、祭り自体の価値がさがります」 (おっしゃるとおりです。海女さんも楽な仕事ではなく伝統としての価値もあります。PRに使いたいのなら行政がまずその価値を理解して大事にしてください)
(3)「それに祭りに参加してる裸の男性(氏子)だって嫌でしょう。自分は男好きでもなんでもないのに、勝手に知らない男からそう言う目で見られて、不愉快だし失礼ですよ」
(まさにそれです。海女さんに対してとても失礼ですね)
(4)「あとね、別にそんな裸祭を性的な目で楽しむ人だけにターゲットを絞ってPRする必要がどこにあるんですか?あの勇壮な祭りは、ノンケの男性だってお年寄りだって楽しめますし、子どもも女性も、性的な視点からではなく楽しめる祭りですよ。なのに、性的な目で楽しむ人だけにPRしていると、他の層は面白くないでしょう。裸祭を見に行こうかと思ったとしても、でもゲイの人向けの祭りだしやめておこうかってなりませんかね」
(海女さんの碧志摩メグもそうですね。私は女ですが、なぜ私に対して海女という仕事をPRする価値がないと志摩市行政が思ったのか、さみしいし不愉快です)
どうでしょうか。性別を反対にしてみたら、男性諸氏にも少し感覚がわかりませんか?
でも萌え絵というのは基本的に対異性の恋愛感情や性欲を刺激する目的に特化して作られたものです。
(大きな目、上目づかい、長い髪、細い腰に大きな胸。媚びるような表情)
私は女ですが、(大きな目、上目づかい、長い髪、細い腰に大きな胸。媚びるような表情)←この辺のことを女にされても特に何も感じません。なぜ意味もなくそんな恰好表情をしているのかと逆に気味悪く思います。
ストーリー性のないイラストなら特にそうです。 碧志摩メグの場合は、対男性に対して性的にアピールしているわけです。
女性子どもは無視ですか……とも思います(裸祭町の例でいうと(4)に該当します)
海女さんも不愉快だろうなと思います。(裸祭町の例でいうと(1)(3)に該当します)
そして海女という職業に対する価値を、媚びるだけの仕事であると貶める恐れがあると言う意味では(2)が一番罪深いんではないでしょうか。
裸祭の意味が、単なる男の裸が無料でたくさん見れるそういう嗜好の人にとって嬉しいイベントに成り下がることについて、何とも思いませんか?
そういう嗜好の方が、この祭りに興味を惹かれるのはわかります。
ですので、そう言った風俗やそう言った雑誌で存分にご覧になればいいんじゃないでしょうか。
わざわざそれを目的としていない裸祭でそれを実行するのではなく。
普通の話しですよね?
海女さんも同じです。
萌え絵を見て恋愛感情や性欲を刺激されるのは当然で全然いいんです。男性向けとして他の層に対して配慮された特別の場所であれば。
でも志摩市の公認というのは、そういう場所ではないですよね。にも関わらずそれを志摩市が音頭取って煽ってるのが問題なんです。
萌え絵も悪くありません。
それを見て、かわいいと思ったり恋愛感情や性欲を刺激された方も悪くありません。
なんだよ女は無視かよと不愉快に思った人も、特に悪くないでしょう。
萌え絵は私も好きです。ギャルゲーもストーリーがいいものならしますしアニメもみます。ですが、行政が、海女という職業のPRとして公式認定するにはあまりにも偏りすぎています。 子どもにも説明しづらいですね、あれでは。
秋葉原のギャルゲーの絵としてはかわいいしいいんじゃないでしょうか。特に文句は無いです。「こんな海女いねーよww」とは思うと思いますが、萌え絵が好きな男性からお金をとるという目的にはかなっているので。ただ、コンビニや学校など子どもや女性の命着く床に堂々と置くのは控えてほしいですが。
やはりTPOやPRの意味、そして自分達の立ち位置や公共性について考えずに適当に町おこしをしようと考えた安易な志摩市行政が一番ダメダメなんではないでしょうか。
今回の騒動でPRできたかもしれませんが、正直マイナス方向のPRですよね。
海女さんまでも本人の意向を気にせず組織のために利用する、男社会のずうずうしさ、女の意見を尊重する気がないのががとりわけ目立つ案件で、観光客のほとんどを占める女性の反感をかったのは言うまでもありません。
結局は男性からは仕事の内容とかそう言うのは関係なしに、ああいう風に性的に見られてるんだなあという認識がひろまっちゃったので。
やり直しは恥ずかしいことではありません。
ぜひ認識不足を謝罪の上、再考し素晴らしい志摩市海女さんのPRを検討してください。
※もちはもちや。志摩市行政担当者さんは、予算獲得の方面にがんばり、PRの目的、ターゲット、方法、マネタイズの仕方などについては、専門家をその金で雇った方が良いと思います。
※裸祭=男の裸を誰にアピールするのか、という問いについて、どう答えますか?
女の裸のアピール先は男性なので、多くの人は普通ひっくり返して、男の裸のアピール先は女性と思われるかもしれません。
ですが、私は違うと思っています。
女性は特に興味もない男の裸を見たいとは思わない人が多いです。
女から見て、興味のない男からの性的な視線に対する不快感を男性に理解してもらうには、
男(ノンケ)から見て、ガチムチのゲイ(タチ)からの性的な視線について想像した時の不快感が、近いのではないかと思います。
体力や力が自分より上回るタチの存在から、ネコとして性的な目で見られている、という構図から考えると上記が近いと思ってます。
MR_DESIGN HP
エンブレムにつきまして
私は、東京オリンピック・パラリンピックの大会の成功を願う純粋な思いから
エンブレムのコンペティションに参加致しました。エンブレムがフラッグに掲げられ、
世界中の人に仰ぎ見られている光景や、金メダルに刻まれたエンブレムを
強くイメージしながら伝統的かつ新しい日本、東京を表現すべく大胆に、
このような国をあげての大切なイベントのシンボルとなるエンブレムの
デザイン選考への参加は、デザイナーにとっては大舞台で会って、
疑いをかけられているような模倣や盗作は、原案に関しても、最終案に関しても、
あってはならないし、絶対に許されないことと今でも思っております。
しかしながら、エンブレムのデザイン以外の私の仕事において不手際があり、
謝罪致しました。この件については、一切の責任は自分にあります。
改めて御迷惑をかけてしまったアーティストや皆様に深くお詫び致します。
その後は、残念ながら一部のメディアで悪しきイメージが増幅され、
私の他の作品についても、あたかもすべてが何かの模倣だと報じられ、
話題となりさらには作ったこともないデザインにまで、佐野研二郎の盗作作品となって
自宅や実家、事務所にメディアの取材が昼夜、休日問わず来ています。
事実関係の確認がなされないまま断片的に、報道されることもしばしばありました。
様々なオンラインアカウントに無断で登録され、毎日、誹謗中傷のメールが送られ、
記憶にないショッピングサイトやSNSから入会確認のメールが届きます。
自分のみならず、家族や無関係の親族の写真もネット上にさらされるなどの
今の状況はコンペに参加した当時の自分の思いとは、全く別の方向に向かって
しまいました。もうこれ以上は、人間として耐えられない限界状況だと思うに至りました。
組織委員会の皆様、審査委員会、制作者の私自身とで協議をする中、
オリンピック・パラリンピックを成功させたいとひとえに祈念する気持ちに
変わりがない旨を再度皆様にお伝え致しました。
また、このような騒動や私自身や作品の疑義に対して繰り返される
批判やバッシングから、家族やスタッフを守る為にも、もうこれ以上今の状況を
続けることは難しいと判断し、今回の取り下げに関して私自身も決断致しました。
図らずも御迷惑をおかけしてしまった多くの人々、そして組織委員会の皆様、
審査委員会の皆様、関係各所の皆様には深くお詫び申し上げる次第です。
上記事情のゆえ今回の判断に関しましてはどうか御理解くださいますよう
お願い申し上げます。
【連れてってはいけない店篇】
基本デートで使うのは駄目。食事する時に
お茶とかで使うのがギリ。
○チェーン居酒屋
団体客のオッサンが隣だったりとか、
もうマジで駄目。そして何よりも飯が不味い。
この手のお店は、1人でさくっと食べるものだ。
良いけども、それにしても男から
焼き物系のお店も気を付けたい。
1~2回くらいは既に行ってたりする。
無くは無いけど、初デートで連れてって、
知らないのか、こいつと思われる。
○客単価15000円以上の店
金銭感覚疑われる。2人で1万円~2万円の間くらいが
○客単価3000円以下の店
これも大半がNG。安すぎる。
店がうるさかったりする。ちなみに、
思われて嫌われることが多いので言っちゃ駄目。
○装飾がやたらエロい店
初デートで連れてかれたら引く。
下心ばかりの印象をあたえる。ご飯行こうとは
言ったけど、エロくなりたいとは
まだ彼女は思っていない。
○近所の行きつけの店
日常的に使っている近所の店も気を付けたい。
まず、気が緩むことで店員に馴れ馴れしくなって、
「こないだ連れてた子と違うねー」とか
辞めた方が良い。世の中のトレンドとしては、
過ぎてるので正直カッコ悪いと思われがちだ。
もちろんイタリアンでもスゴイお店はあるので、
過去行ったことがあって、ぜひおススメしたいなら別だが
そうでないなら避けるべき。
中華料理も難しい。3~4人で言ってワイワイとたべるのが
がっつり食べる系の店は基本的には向いていない。
○立ち呑み
最近はおしゃれな角打ちも出てきているが、
アミューズメントとして遊ぶなら悪くない。
今は連れてくなら日本酒系。
【じゃあ、何が良いんだよ!!という人のための連れて行って良い篇】
連れてくと減点対象だったりするので注意。
エスニックは非常に良い。もちろん
値段も安めだし悪くない。ただアジア系は汚い店もあるので
その辺りの選定は事前に要確認。
食べられる。辛い料理が多かったり、
相手の好みの上で選択してください。
また味も美味しいところが多い。
被りにくいのも非常に良い。
よく出てくるお店。予約取りにくいのは難点だが
慣れてない子を連れていくと、ビビられるので
気を付ける必要はある。
○おしゃれ焼き鳥屋
カウンターで近い距離で話せるし、
味も美味しいところが多いし、お酒も
こだわってたりするところが多い。
選択肢として考えておきたい。
そこにたどりつくまでの雰囲気も良い。
これに限った話じゃないが、季節感が出ると
いくつかコメントもらったので、
レスポンスがてら。
・自宅で手料理
できる人いるのかなー。3回目とか4回目の
誘うと仲良く楽しくできて良い。
トラバに上げてる人いるけど、悪くない。
少し難点で、飲んで語るより食事メインに
なりがち。美味しいものをさっと食べて
2件目でゆっくり呑むみたいな使い方だと良いよ。
・彼女と一緒に探す
聞いておくべきだし、事前に行く店の情報を
お伝えしておくべき。
・サプライズで連れていく
上につながるけど
いけないことあるのです。
これは店選びに自信なくて、かつ
行って、その後バーに行ってた。
低いのでそんなに失敗しない。
【もう少し追記】
みたいな男性には良さそうではあるよね。
・靴脱ぐ系
和食屋の所で書いておけばよかった。
そう、靴脱ぐ系は予め言っておかないと
駄目だよ。
嫌がる生き物なので注意ね。
外飯が超好きみたいな男でない限りは
大体女性の方がお店詳しい。
って思っている子が多いのも事実。
そういう相手の時は、2人で話して、
ここ行こうとかあそこ行こうとか
ワイワイやれば良いんじゃないかな。
・結局のところ
相性良くて楽しませられるなら、どこ連れてっても良い。
次郎でも和民でも始まる恋はあるよ。きっと。
終わらせたほうが良くないかな。という意見。
頑張ってください。
佐野五輪エンブレムは超弩級の駄作! - INSIGHT NOW!プロフェッショナル
大阪芸術大学教授という肩書きになっていて、一応美術の博士号は持っているらしいが、東大卒で専門は哲学。少なくともデザインの専門教育を受けた形跡はない。
佐野氏のオリンピックエンブレムがいかに駄作か、いかにも論理的に解説している風の記事を寄稿しているが、初めから批判ありきで筆を進めているから、展開している論理がむちゃくちゃだ。特に色の解説が酷い。
「黒は、ほとんどすべての文化で、死や悪、権力、固着、腐敗、を意味する。同様に、赤は、血のシンボルであり、命や致命傷だ」
・・・じゃあなにか? Jリーグのマークは、死や悪と血のシンボルを掛け合わせた、醜悪なデザインって事になるのか? とんちんかんにも程があるだろう。
紅白+金銀+黒なんて、日本の凡庸な伝統的配色だよ。何言ってんだ。
大阪芸術大学教授なんて肩書きで延々とピンぼけの思い込みを垂れ流しやがって。信じる奴が出ちゃうだろう。勘弁してくれ。
TOKYOのTをロゴにするっていう発想自体は別に、悪くは無いと思うんですよ。
扇子や桜はわかりやすいモチーフだけど、それって凄く古典的で。
大正時代だったら良かったのかもしれないけど、今の日本人は洋服を着るし、東京はビルばっかだし。
かと言ってニューヨークのような、ザ・都会じゃないし、パリみたいに整ってるわけでもない。
「1964」から進化した「今の東京」を具体的なモチーフで表すのって至難の技。
海外から見た具体的でナウい日本文化といえば、アニメ、漫画、ファッション?
さすがにそれをモチーフにしちゃったらそれこそ国民に怒られる。
個人的には「円」って今も昔も日本っぽいよね、と思ってるけどそのへんはおいておいて、
で、東京。東京ってなんか、すっごい独特な場所だと思うんです。
海外の人たちの反応を聞く限りでは、他の国にはないような何とも言えない変な場所。
高層ビル群があるかと思えば、路地裏には小汚い定食屋が並んでて、
大きなデパートが並んでるのに、突然神社やお寺が現れて。場所によっては屋上に鳥居があったりして。
スクランブル交差点があって、うるさいモニターの下で演奏してる人達がいて、ちょっと歩けば広い公園があって。
日本人からしてみれば何てことはない日常の景色を外国人が珍しそうに写真撮ってて。
なんかそういう今っぽいカオス感が「TOKYO」ってものの中に内包されてる気がしてて
東京でもとうきょうでもトーキョーでもなくTOKYOだよなあ、みたいな。
だからまあ「TOKYOのTをモチーフにロゴを制作する」っていうのはアリだと私は思います。
欧文書体って一杯あるけど、その歴史みたいなのはすんごく奥深くてですね。
日本語と違ってとても幾何学的な字体なので、読みやすさ・美しさ・強さ、あらゆる観点で計算されつくしていて。
今から新しいフォントを作ったところで、昔からある伝統的な書体には何をどうしたって敵わない。
で、選ばれたのがDidotとBodoni。というか、「モダン・ローマン体」と呼ばれる種類の書体。
佐野氏が「これを元にしました」とか言っちゃうから話がややこしくなるんだろうけども、
DidotやBodoniを元にした書体なんかそりゃもう大量にあるし、
世の中の活字は手書きのものを除いてしまえば漏れなく「元ネタ」がある。
(遡りまくった先にあるのが2000年前にローマに建てられた「トラヤヌス帝の碑文」と呼ばれる石碑に書かれたTrajan)
美術というよりは数学みたいなもので、美しく伝統的な書体を元にしつつ、
その時代や使用目的に最適化された書体を「新たに作り上げている」のですね。
で、今回はそれがオリンピックのロゴであったと。言うことですね。
蛇足なんだろうけど、好みだけで言えばあのエンブレムは別に好きでもなんでもないです。
円を意識して右下に下げたセリフの片割れ、あってもなくても私には円には見えないし。
黒のインパクト強すぎだし。9分割が逆に気持ち悪いような気もするし。
パラリンピックと並べれば、まあアリかなあ、ぐらいの。これから先の展開に期待というかんじです。
私も招致の時の桜のマークは好きでした。あれを使えばいいとは言わないけど。
長々と失礼致しました。
もちろん知的財産権についてなどの座学も受けて
卒業して、デザイン事務所に入って、その後フリーで仕事してるような人間です。
「オリンピックエンブレムがパクリかどうか」について触れます。
「好きかどうか」「良いか悪いか」じゃないですよ。
「まあパクリではないだろう」というところです。
「丸と四角と三角をTの形にいい感じに並べて、さらに日の丸を強調した」
まあそんな話はよくあることだという印象です。
もう少し詳しい背景を説明していきます。読み飛ばしても良いです。
オリンピックのロゴを含む、「大企業のロゴ」や「国家事業のマーク」といった、
公共性の高い団体のロゴのデザインというものは、簡単な図形で作られた抽象的なものが多いです。
理由は色々あるけれど、「万人に受け入れられるものであるべき」というところは大きいんじゃないでしょうか。
女性向けでも男性向けでもなく、大人向けでも子供向けでもない、そういう物を作らなくてはならないので、
そうはいっても、
近年のオリンピックロゴというのは、自由曲線で書かれた具体的な物が多かった。
ロンドン五輪なんか
「夜中にヤンキーが高架下の壁にスプレーで書いてるアレ」を元にしてて。
それを「超クールだぜ!」って思う層もいれば、「伝統を冒涜している、ありえない」と思う層もいて。
振り返られる伝説、「亀倉氏の東京オリンピックのロゴ」はその具体的なものと比べて非常に抽象的。
これを嫌いだって言う人はそういない。だって「丸が嫌い」だなんて人は居ないもん。
「オリンピックのロゴを作りましょう」なんて話になったら、真っ先に思い浮かぶのがあのロゴ。
「最近は具体的なロゴの流れが来ているけれど、果たしてそれで良いのか?」
「亀倉氏のロゴのように、シンプルで迫力があって、それでいて繊細でモダンで…」
というイメージは、デザイナーだったら選択肢には上がったのではないでしょうか。
伝統的なフォント「Didot」はとても美しいから、その形をモチーフにしよう、と考えて。
その特徴的なセリフ(Tの左右の飾りの部分)の曲線を見て、
これは円を内包しているようにも見えないだろうかと気付いて、
それを強調するためには、セリフの片方を右下におろせばいいのでは?なんて試して。
それだとTに見えないし、そうだ、ここに日の丸を置くことで、左胸の心臓(正面から見たら右側)を表せるのでは…
とか言って作っていったんじゃないかと想像が付くわけですね。
佐野氏や委員会や著作権法が述べる「オリジナリティ」は、この過程にあるわけです。
Tの形に丸や四角を並べただけで著作権に引っかかってちゃ抽象的なロゴなんか全部パクリなんです。
それじゃ困るし、実際「たまたま似ちゃった」ってことは頻発してるので、法的には許されてるんです。
ちなみに商標権的には「たまたま」でも法に引っかかるんですけど、
さて、以上がオリンピックのロゴが「パクリではない」「問題ない」
あとは佐野氏の人柄が「パクるような人じゃない」とか、そういうのもありますが、
私は末端の人間なので佐野氏の人柄については存じ上げませんし、なんとも。
じゃなくて
だと問題が発生するんですよ。
「フランスパンの写真を自分で撮って配置したらたまたま似ちゃった」
無関係の個人がブログに上げてたフランスパンの写真と完全に一致しちゃってるわけです。
これはもう言い逃れはできない。
誰がどう考えたってその写真パクってデザインに貼り付けただけなんです。大問題です。
世の皆様が思っているほどクリエイティブでオリジナリティ溢れる職業じゃないんです。
広告に書いてあるお洒落な文面もデザイナーが考えてるとは限らないし、
端的に言えば「考える事」と「コミュニケーション」です。
お客さんに還元できるかんじの、夏っぽい企画を考えてくれ、って仕事が入ったとしましょう。
夏っぽいってなんだろう。
プール。水着。サングラスにビーチ。フランスパンとかおしゃれかも。女の人は鳥なんかも好きだよね。
そういうのでノベルティを作って…せっかくなら使えるものにしたいよね。
そんな柄のおしゃれなトートバックを大量に作るってどうだろうか。
「こんな企画どうでしょう、話題になるとおもうんですよね!」なんて言って。
さて企画が通ったぞと。予算も決まって、デザインの開始だ、と。
フランスパンをなんとなくおしゃれに見せるためには、
斜めに置いたらいいんじゃないか?とか、はみ出したらいいんじゃないか、とか、
じゃあ色は何色がいいんだろうか、とか、
大きさはどんなもんだろうか、とか、たくさんのことを考えて…
「予算◯◯◯円でベージュの帆布の生地を探して、業者と話つけといてね。
デザインはスケッチ描いといたから、それっぽい絵や写真を用意して×日までに作っておいて。」
あとはその×日に全作品をチェックして、「これはOK」「これは駄目、やりなおし」ってスタッフに伝えて。
数日後に出来上がった全てをクライアントのところ(サントリー)に持って行って、
完全に想像なので、実際にはもっとはじめの方からスタッフ任せかもしれませんし、
もうちょっとだけ手を動かしてるかもしれません。
つまるところ、
クライアントから依頼を受けて、細かく企画を考えてプレゼンして。
テーマに合わせてパーツを選んで、いいかんじに組み合わせて素敵な作品に仕立てる。
実際に手を動かしてる写真家やイラストレーターの方々であって、デザイナーはそれほどでもありません。
もちろん自分で絵を描いたり写真を撮ったりするデザイナーさんも居ますが、
かならずしも自分の絵や写真が、作りたいものにマッチするとは限りません。
(アニメっぽいイラストしか描けないデザイナーさんにリアルな画風のシリアスな仕事が来ても描けないし)
そういう時には他のイラストレーター・写真家を探して外注します。
車を作るメーカーと、そのパーツを作る下請け会社の関係、みたいな感じ?
パーツは自社で作ってないけど、それをいい感じに組み上げる技術は持ってる、みたいな。
その技術を活用するのが「車を作るメーカー」であったり「デザイナー」であったりするわけですね。
で、佐野氏の話に戻るけど
そういうわけで、
パクったのは佐野氏じゃなくて(本人の言う通り)事務所のスタッフだと思うんですよね。
「こういうレイアウトでフランスパンのいい感じの写真配置して」
って言われたスタッフが楽をして、ネットからフランスパンの写真を探してきて配置したんでしょう。
とまあ、特筆したわけですが、だからといって佐野氏が悪くないわけでは全く無いです。
・「佐野デザイン」って銘打ってるんだからスタッフのせいだろうと責任は佐野氏にある。
というのがよく聞く話で、それはもちろんのこと。
という部分も気になります。
実際にフランスパンや看板を用意して写真を撮ったり絵に描いたりするのでは、
フランスパンや看板を買うお金だって必要です。数百円かもしれませんが。
その差に誰も気づかなかったんでしょうか。
フランスパンの領収書貰ってないけど、どうやってこの写真撮ったの?とか。
出来上がりがやけに早かったけど、この絵はいつ描いたの?とか。
素材をちゃんと自分で用意していれば、
イラストを外注したりパンを用意したりした分の経費が出るはずなんですよね。
写真をパクったスタッフは、果たしてホントにパクリたくてパクったんでしょうか。
さすがにデザイン事務所で働いてる人が「ネットから勝手に写真を持ってきても良い」とは思ってないでしょう。
佐野氏はオリンピックのエンブレムを作る程には大御所ですし、クライアントも大きなところですから、
写真を購入する程の予算がどうしても捻出できない、とは考えられません。
でも、写真は購入していない。させてもらえなかったのか、スタッフ自身の判断かはわかりませんが。
でも自分で撮影するにはスケジュール的に無理があって。でもなんとかしなきゃ怒られる。
うーーーーん仕方ない、どうせバレないだろう。適当な写真を勝手に使ってしまおう。
という流れすら透けて見えるのです。
スタッフがどうしようもないクズで、時間があったのにやらなかったとか経費をくすねたとかいう可能性もありますし、
事実だったとしてもスタッフが悪くないわけではないです。罪になりますからね。
デザイン業界というものは、おしゃれに見えて、わりかし体育会です。
初任給は額面で15万〜20万ぐらい。手取りは13万とか15万とか。
多くの事務所が関東にありますが、住宅手当も寮もないから家賃で給料の半分以上が飛んでいきます。
少人数で回している事務所では、そもそもそういうシステム自体が無かったりもします。
もちろんそうでない事務所もあるんでしょうが、そういう話はよく聞きます。
なんでそうなっちゃうかって、代理店の仕業だったりクライアントの事情だったり色々な理由があるんですが。
結論として。
HH堂やD通はやっぱ噂通りにしんどい(色んな意味で)場所なんだろうなとも思いました。
佐野氏だけじゃなくて、デザイン業界全体の闇?みたいなものを再認識した一件でした。
まあ書くまでもなかろうと思ってましたが、
とは言ってません。
むしろ、
ぐらいの話のつもりです。
ただそこで、
とか言う論調になるのに疑問を覚えただけであって。
私としてはまず「佐野氏の事務所のスタッフの管理はどうなってるんだ」と思ったし、
でも、自分の知ってるデザイン事務所を思い起こせば、どこもそんな管理体制だったわけで
(上は下の仕事に文句付けるだけだし、下がまともに仕事をするためのロクな環境は整ってないし)
そうやって考えたときに、「佐野氏以前にデザイン業界の業務体制自体がクソだ」という結論に至った、ということです。
デザイン業界の横のつながりって「仲が良い」「飲み仲間」「一緒に展覧会した」みたいなレベルの話で、
業務自体は基本的に、1クライアントに対して1デザイン事務所なので、自浄作用とかあんまり期待できない。
クライアントに対してのプレゼンが誠実で説得力があれば、クライアントからはスタッフの給料とか実務時間とか見えないし。
「デザイン業界」っていうのに明確なヒエラルキーがあるわけでもないので、
「デザイン業界が佐野氏を罰するべき」とか無理無理。佐野氏に上司なんかいないし。
せいぜい「昔の同僚と飲んだらもっとちゃんとしろって叱られた」とかそのぐらい。
クライアント側がこれから先佐野氏に仕事を発注するか否か。それだけ。
最初に述べた通り、自分はフリーで細々と働いているわけだから、こういう話は蚊帳の外。
数年前から会社の労働組合の役員をやっているのだが、全くトップとそりが合わない。
会社との春闘などの会社との交渉とかでは意見が対立するという訳でもないのだが、普段の組合運営の考え方が全く異なるのだ。
例えば、毎回会議があるとその後に懇親会があるのだが、その懇親会も全て組合費で落としている。
「休日に会議があれば当然手当てなどは出すべきだが、組合費で懇親会を全てまかなうのはおかしくないですか?」と指摘すると
「懇親会でしか引き出せない話題がある。懇親会も会議の一貫だ!」と主張するのだ。
ちなみ、組合予算は毎年懇親会費以上の赤字を計上しており、毎度毎度お題目のように「予算の効率的な執行を!」と当の本人は言っているのだが、
懇親会費のように、「そのお金の使い方は赤字が出てる現状でおかしくないですか?」と指摘すると
「過去の伝統が~」とか「例年通り行っているから~」とか言って、結局改善されないまま進んでいく。
こんなやり方に納得行ってないので、会議には出ても懇親会には極力出ないようにしているのだが…。
会社での通常業務は全く不満もなくて、自分にあっている会社だと思うのだが、
このままだと、組合の方で不満が溜まりすぎて会社辞めたくなるかもしれない…。
ちなみにウチの会社の組合は100人以上~500人未満って感じの中小の会社で、私は入社十年程度の中堅よりちょっと手前の社員。