はてなキーワード: 伝統とは
その家族像ってやつは、法律で決めとかないと瓦解しちゃうくらい脆いものなのかね。
別スレッドで出てたけど、別姓okでも大抵の人は面倒を避けて慣習に従うだろうし、伝統的な家族像ってのは法律で決めとかないでも概ね継承されてゆくと思うよ。新たな家族像が出てくるとすればそれは数世代かけて適応的自発的に生じてくるだろう。何でやってみることもしないうちに家族像とやらを決めないとならないのさ。
ごく一部の、個別の事情があって伝統的な家族像ではうまくいかない人がそれを選べばいいだけで。その際に実家との関係で揉めるとか何とかは、それは伝統と例外の対立であって姓の問題に限ったことじゃない。
①「当たり前」を変えることに抵抗がある
よく夫婦同姓は明治になってできた「舶来」のもので、伝統でもなんでもない、という議論があるが、そもそもそういう批判には意味を感じない。少なくとも自分は夫婦同姓以前の時代を生きたことがないし、その時代を生きていた人はとっくに生き残っていない。子供の頃から、夫婦同姓の社会に生きてきて、それを「当たり前」だと受け取ってきた。その「当たり前」を変えなければいけないほど、大きな事件や社会の変化があったのだろうか。
名前を選択する権利というが、それを言えば親からもらった名前を捨てて選択する権利まで(少なくとも近い将来の話として)主張しなければ筋が通らない。おそらく別姓論者の多くはそれを「極論」だと思うだろう。しかし、夫婦別姓を「極論」だと感じる人も現に存在するのであって、なぜ前者は正しくて後者が間違いだといえるのか、よくわからない。
③個人の好みの話をしているわけではない
別姓論者は、「夫婦同姓が好きな人は、そうすればいいだけで、別に何も変わらないではないか、自分の好みを押し付けるな」という。しかし別姓反対論は、そもそも家族というものは最低限こうあるべきで、それを簡単に崩すべきではない、という家族に関する「べき論」をしているのであって、好みの話をしているのではない。「べき論」である以上、ある種の押し付けがあるのは否定しないが、完全にズレた議論だ。
夫婦別姓を認めないことが、少数者や貧しい人への差別や暴力、排除といった深刻な問題の原因である、というのならば積極的に変えるべきだ。しかし、現在のところ別姓論者でも、そんなことを根拠にしてはいない。むしろ必要性を感じている人の多くは、高学歴・高収入のキャリア女性である。高学歴・高収入のキャリア女性を代弁する主張があってもそれはもちろん構わないが・・・・。
⑤別姓容認の世論は寛容ではなく単なる他者への無関心に過ぎない
世論調査では夫婦別姓の賛否は拮抗しているが、では自分は選択するかどうかというと、世論調査によれば1割を超える程度で、7割以上が同姓を選択するという結果になっている。これは同性婚に関する調査結果とも似ているが、この大きなズレは何を意味しているかというと、「関係ない人たちが何を選択しようがどうでもいい」ということに他ならないだろう。
案の定、新国立競技場の両案には「日本の伝統がー」「日本文化を意識したー」「日本のモノづくりパワーをー」というような文言があふれていた。
で、それに対して「A案のほうが日本の伝統を感じるな」「いやいやB案の方が」とかTwitterでドヤコメする奴らが続々登場中なわけだ。本当に日本国民てちょろいなと思う。後付けでも何でもいいから、とりあえずそういう文言を並べておけばなんとなく納得してくれるんだもんね。
建築の場合だったらとりあえず「木」を使って伝統感をアピールしておけば大体認めてもらえるし、そこに神社建築のうんちくやら日本の伝統色やら“うつろい”系のワードやらを絡めればもうほぼ完璧。一気に「文句言うやつは日本人じゃない」状態の完成なわけだ。
エンブレムの場合は「日の丸」「桜」「富士山」「絆」とかを絡めればOK。大体納得してくれるし、「反対する奴は非国民」と勝手に擁護すらしてもらえるヨ。
建築家とかデザイナーはよく、こういうベタなワードやモチーフを使わずに表現を行おうとするけど、残念ながら日本人にはそれを理解する知性も審美眼もないんだよねー。それどころか「これは日本人の感覚とは違う」とか言われネットであることないこと叩かれだす可能性が高いから、そういうチャレンジは控えたほうがいいと思う。
今回のオリンピック騒動でいい加減わかったでしょ?これからは「ちょろい国民」と割り切って、ベタベタなコンセプトで金を巻き上げていくのが建築家やデザイナーの生きる道。それが嫌なら国外脱出したほうがいいと思うヨ。
そこから先はだいぶ異なる。私は京アニ作品には常に保守的な空気が流れていると思う。
保守的、伝統的な価値観を肯定し、それでいて表面上は保守を匂わせるダサさを排除している。相応にトレンドを取り込み、「軽さ」と「重さ」を使い分けるファッション感覚がある。
オタクというのは、本来は革新的な価値観をもつものだ。新しい風習、尖ったカルチャーを柔軟に取り込む。だからエロに近い萌えなんかも内包できる。
その点においていえば、京アニが一般向けと言われるのは、その保守的な本性を内側に湛えているからだと言えよう。
京アニの思想はもとからオタクとはベクトルが違う。ただ、オタクでも楽しめるように細心の注意を払ってアニメを作っているように感じる。
東京を見ていると「あったほうがいい」業種がやたらと稼ぐ。それらがどれほど儲かろうとも、食料はまったく生まれてこない。エネルギーもでてこない。物流が機能するわけでもない。そういう職種が、生産する職業より稼いでいる。僕は地方で生きている。ほそぼそとした伝統的な職業についている。当然東京の彼らより給料は少ないと自信がある。だからソーシャルゲームに課金をしてまで遊ばない。どうして僕が僕より稼いでいる人にお金を動かさないといけないのだろう。本も買わなくなった。テレビも見なくなった。ネットはみるかな……。こうしてはてなも使っている。身勝手だとは知ってるけれど、そう思って行動しないと、どうにも僕がやりきれない。僕のお金は、僕の稼ぎは、できれば僕と同じくらいの収入の人たちか、地方で生きる人たちに使いたいのだ。
アベノミクスは東京だけの出来事だ。シールズだって東京だけの出来事だ。山手線の事故がヤフートップニュースになっている。東京だけの出来事だろうに。関係する人が多いのはわかっている。100パーセント感情論だ。地産地消、地方創生、というのは、いかに東京に金を動かさないかを考えないといけない。いかに東京から金を引っ張ってくるかだけを考えなければならいのだろう。地方自治体超がんばれ。
神に讃えあれ
国民よ
この「緑の行進」四十周年記念式典は、いつもの行事や通過的祝典ではありません。それどころか、王国の領土保全を完成させる過程における重要な局面なのです。
我が国土の解放、そして平和と安全の強化の大いなる達成に続いて、我が国はサハラの人々がれっきとした国民となり威厳のある生活を楽しめるようにしようとしてきました。
今日、「緑の行進」の40年の後、我々は、その有利不利にかかわらず、サハラ問題についてこれまで対処されてきたやり方からの、金利生活者経済や特権からの、民間部門の参加が貧弱であることからの、そして中央集権的なメンタリティからの、根本的な決別を求めます。
何故今日、40年の後なのでしょう?
そう、何年もの犠牲と、政治的かつ開発志向の努力の後に、我々は成熟を達成しました。
今、国家の一体性統合過程における新時代の夜明けと、我々の南部地域の祖国への完全なる統合の達成のために、機は熟しています。
「南部地域開発モデル」の実行と進歩的地方分権化の適用は、その過程の一部です。
国民よ、
私は是が非でも、南部地域の我が国民達へ彼ら自身の仕事をこなすのに必要なすべての手段を与えて、彼らが彼らの地域を開発できることを確かめたいのです。
太古の時代から、このサハラの人々は学者や季節的交易者として知られてきました。彼らは額に汗をして生計を立て、威厳と誇りを持って暮らしていました。厳しい生活環境にも関わらず、誰からの助力も期待していません。
私が話しておりますのは真のサハラウィ、彼らの祖先とモロッコの王との間にいつも存在していた忠誠の絆へと身を捧げて続けてきた本物の愛国者のことです。
我等が敵たちのものの見方に乗せられて彼らを支持する少数の者についていえば、それらを許す余地は我々の間にはないのです。しかしながら、本心に立ち返り悔い改めた者に祖国は、概ね寛容かつ寛大であります。
国民よ、
「南部地域開発モデル」を実行することは、これらの地域の我が同国民への我等の義務を果たすことに我々がどれほど身を粉にするかを示すもので、それゆえに統合的開発のモデルとなるでしょう。
我々はこの「開発モデル」に、統一祖国へとこれら地域を統合すること、そして、経済的ハブとして、またモロッコとそのアフリカのルーツとの間の決定的な絆として、サハラ地域の影響力を拡大することを望んでいます。
そのために私は、利用できる全ての手段を集めること、全能の神の御恵みにより、ラユーン=サキア・エル=ハムラ、ダフラ=オウド・エッダハブとゲルミム=オウド・ヌーンの諸地域にて社会・医療・そして教育のプログラムとともに、多数の主要計画を遂行することを決断しています。
インフラに関しては、この地域の道路ネットワークが拡大されるとともに、国際標準に準拠した二車線道路がティズニットとラユーン、ダフラを繋ぐために建設されることになります。
私はまた、アフリカ各地とを結ぶハブ空港を南部地域に設ける検討をすることも、政府に求めました。
私の念願の一つに、アフリカ他地域とモロッコを繋ぐためにタンジエとラグイラを結ぶ鉄道を実現することがあります。今日のマラケシューラグイラ線完成のために今必要となっている資金の確保に助力いただけるよう、全能なる神に祈ります。
我々にはまた、「偉大なるダフラ大西洋港」を建設し、南部にて主要太陽光及び風力エネルギー・プロジェクトを遂行して、ダフラと国立送電網とを接続する意思があります。
我々の目標の一つは、これらのネットワークとインフラをアフリカ諸国へと繋げて、これにより諸国の発展に寄与することであります。
もちろん私は、これらのインフラが、それ自体では、国民の生活状況を向上させることができないと理解しています。それゆえ私は経済発展を推進し、人間開発計画にてこの行程をサポートすることを切望しているのです。
強調しておきたいのは、この点について天然資源からの収入は、この地域の人々の便益の為、そして彼らとの協議と協力にて、この地域へと投資され続けるであろうということです。
地域の資源と製品の利用と振興のために、ダフラの主要海水脱塩プラントや、ラユーン、エル・マーサ、ボジュドーの産業区と施設類の設立のような、幾つかの計画が遂行されるでしょう。
これらのイニシアチブをサポートするために、国内及び海外の投資家のために明快さと競争力とが共存して、彼らがこの地域の発展に貢献できるよう、投資しやすい法的枠組みが制定されることを切望しております。
経済構造を拡大し、事業と社会経済をサポートし、定収入を発生させ、特に若い人々の雇用を創出するために、経済発展基金も立ち上げることになりましょう。
国民よ、
私にとって、最も重要なこととは、サハラにおける我々の同国民の尊厳…とりわけ、若い世代の尊厳…が保護されることを確実とし、彼らの愛国心と祖国への傾倒を強めることであります。
よって私は、人口の殆どのセグメントで要求されている公平と社会的正義の原則を維持するため、社会保障システムに立ち戻り、これをさらに透明で公平なものとするよう、政府に求めています。
さらに、サハラの人々の心臓と心の中で特別な位置を占めているハッサーニ文化を考慮して、サハラの伝統の保存と推進のために必要となるメカニズムを、とりわけ、この国の南部に劇場、美術館、カルチャーセンターを建設して、強化することを切望しております。
人権についてですが、モロッコは、全能の神のお恵みにより、国家の動員、良好な治安統制、そして国民社会組織との建設的連携を通して、たくみに我が敵の目論見を打ち砕きました。
そのうえ、憲法にて定められた機関であります国家人権協議会とその地域委員会は、権利と自由の保護を任務としておりますが、如何なる違背があろうとも、これに対し、公的機関、市民社会組織、そして国民との対話と協力を通じ、取り組んでおります。
国民よ、
進歩的地方分権化を遂行して、モロッコの信用を強化するとともに、公約を重んじる国であることを示すのです。
私が国会開会式で強調したように、この地域で選ばれたオフィシャル達は、国民によって民主的に与えられた正当性により、国家機関だけでなく国際社会とも向かい合う、南部地区居住者の真なる代表者となります。
進歩的地方分権化の遂行は南部地域が最優先であることを確かなものとするために、一連のプログラム契約が、中央政府と本地域との間で、開発プロジェクトの実行に関する其々の義務をはっきりさせるために、締結されることになりましょう。
私はそれゆえ、王国の他の地域の経験が繰り返されることを期待して、権限委譲の立法文書の採択を急ぐこと、適任な人的資源と資金とを移転してこれをサポートすることを、政府に対し命じています。
我々はまた、地域部局に対し、この地域の物事を地方レベルで動かしていくのに必要な特権を与えるための、本当の行政権限移譲勅許状の準備を急がねばなりません。
私はそれゆえ、我々の南部地域の居住者とその代表者達が、彼らの責務を遵守することを期待します。今や、彼らが自らの物事を執り行って自身の要求を満たすために、制度化された開発関連のメカニズムを設定しているのですから。
国民よ、
モロッコが何かを約束するときは、言行をともにします。我が国は、履行できないことは公約しません。
ですから、我々は世界に向けてこう言いたいのです:他とは違って、我々、モロッコに居る者は、空疎なスローガンを使うこともなければ、幻想を売ることもしないのだと。我々が何かを公約するときは、その内容を履行して、大地の上で物事を執り行うのだと。
今日、モロッコは「モロッコのサハラ」をサブーサハラのアフリカ諸国との通信及び通商のハブとすること、そしてそれを達成するのに必要なインフラを建設することを誓いました。そして今一度になりますが、我が国はこの約束を守るでしょう…敵たちが好むと好まざるとにかかわらず。
ところで、ティンドウフでは…アルジェリアのですが…人々が、貧困や、絶望、収奪そして基本的人権の侵害に苦しみ続けています。ですから、私はこう問うべきと思うのです:
「何百万ドルもの人道的な援助はどこに行ってしまっているのか…一年あたり6千万ユーロも?…分離主義者たちの装備、プロパガンダ、そして弾圧に費やされる莫大なユーロについては言うに及ばず。」
「分離主義者の主導者たちが腹立たしくも裕福で、欧州やラテンアメリカに不動産や銀行口座を所有しているという事実を、どう説明できるのか?」
「どうしてアルジェリアは、人口がせいぜい四万人のティンドウフ・キャンプの生活条件を…例えば、アルジェの中程度の人口の区域と同程度にまで…向上させようとしないのか?」
これはつまり、彼らの威厳を守る住宅6,000軒を、アルジェリアは建てることができていない…もしくは建てるつもりがないのだ、40年にも及ぶのに…ということなのです。
どうしてアルジェリアは…モロッコに軍事・外交で対抗するために莫大な額を費やしているのに…ティンドウフの住人達をあのような恐ろしい、非人間的な状態で生活させておくのでしょうか?
かのサハラの、自由で立派な息子たち・娘たちを、人道援助を乞う者に変えてしまった者どもには、歴史が裁きを下すでしょう。
彼らがサハラの女性や子供たちの集団の悲劇を利用して、彼らを戦利品に変えてしまっており、違法な商業活用だけでなく外交的論争のための道具としても使っているという事実を、歴史は物語ることになるでしょう。
ティンドウフのキャンプに居られる人々に問います:ご自分たちの生活状況がすさまじいというのに、あなた方はそれで良いのでしょうか?このキャンプに居られる女性は、息子さんたちや娘さんたちの間に広がっている絶望と落胆の意味を理解しておられるのでしょうか…期待できる展望も未来もないというのに?
あなた方は、このような非人間的な状態などよりも良い扱いを受けるに値するものと、私としては信じております。あなた方がこういったことに耐えるのだというなら、誰を責めるわけにもいかないでしょう。そうしている間にも、あなた方の目前でモロッコは、その南部地域の発展を強力に推進していき、この地域の居住者が自由で威厳のある人生を楽しむのを確実にしていくのです。
国民よ、
この「サハラ問題」は、モロッコがその歴史のなかで初めて直面した問題ではありません。この国はシバ(無法)と混沌を知っています…保護領統治のもとで生きながらえ、占領を耐え抜きました。この国は、現代国家を築こうとして独立を勝ち取るうえで、不和と争いの時季も経験しました。
困難な状況に直面する度に、モロッコがいつも昂然として、強固であり団結していることが判ります。何故かといえば、モロッコ人は、自分たちが同じ運命のもとにあると信じ、自らの普遍の価値と領土の保全を維持しており、この王と民との間にある密接な絆と団結へと、全面的に委ねているからです。
進歩的地方分権化の遂行と開発モデルの適用を開始することにより、モロッコは、我々の領土保全に係る不自然な論争に対する不変の解決策を見出す機会が多くなることを望んでおります。
そのように信ずる理由はただひとつ、2007年にモロッコは、国際社会の呼びかけに積極的に応じ、この袋小路から出る道を見出すための案を編み出したからです。
そうして我々は「南部地域の為の自治イニシアチブ」を提案しました。その国際団体からは、真剣で信頼できる提案であるとの判断が出ております。
昨年私が「緑の行進」の記念日を祝う式辞にて指摘したように、このイニシアチブは、モロッコが提供できる精一杯のところなのです。その遂行は、国際連合機構の枠組みでの最終的な政治的解決の達成にかかることとなります。
モロッコの一部について何か別の譲歩を待っている者たちは、思い違いをしています。それどころか、モロッコはそこで与えるべき全てを与えています。モロッコは、このサハラを守るために、自らの息子たちの血を惜しみなく捧げています。
我々は、それ以上の譲歩をしなければならないのでしょうか?一部の国際非政府組織たちが、我々に望んでいるような?
我々は、こういった敵対的態度の裏にある理由を知っています。彼らの狙いは、この国を分割することなのです。しかし当の彼らには我々のことに干渉する権利などないことも、我々は知っています。
これは、国際組織内のある団体がモロッコの歴史を知らないままシナリオを創り出そうとするのに対処するうえで、我々が支持しているのと同じ原則です。そうしたシナリオは、エアコンの効いたオフィスで創り出され、現実から遠く離れて、モロッコ・サハラに係る地域紛争の解決のための提案として示されているのです。
モロッコは、如何なるものであれ、深刻な結末をもたらしかねない愚かで危険な行動方針も、「自治イニシアチブ」で生まれた前向きな趨勢を転覆することが狙いでしかない実行不可能な提案も、いずれもお断りいたします。
モロッコ製品への敵対的キャンペーンに対しても、モロッコの団結と不変の価値を守る政治と防衛のセクターで発揮されたのと同じ、犠牲と献身の精神に則って、立ち向かっていくことになります。我々の製品のボイコットを求める者たちについては、歴然とした国際法違反でありますが、彼らにはそうさせておきなさい。とはいえ、彼らは自ら決めたことの責任を執らなければならなくなるでしょう。
モロッコには、立ち上がるであろう大規模プロジェクトの恩恵で、この地域に生まれる投資機会から利益を得るために、自らのパートナーを…国家も、グローバル・カンパニーも…招待する権利があります。
丁度、我々がモロッコの北部と南部とを何ら区別していないように、トマトにおいてアガディール産とダフラ産の間でも、イワシにおいてララシュ産とボジュドー産の間でも、燐鉱においてコウリブガ産とボウクラア産の間でも…広く知られるデータで裏付けられているように後者が我が国の埋蔵量の2%に満たないとしても…我々の目には何らの違いも、みとめられないのです。
同様に強固な意志と揺るぎなさをもって、モロッコ・サハラの法的状態を疑おうとする企てにも、この国の北部地域でと全く同じように、この土地、この南部地域にて力と特権の完全なる行使を行う我が国の権利へ疑問を投げかける企てにも、モロッコは立ち向かっていきます。
これはつまり、我々の正当性を良く知らしめ、我が国がなしている進歩をスポットライトで照らし、我々の敵のもくろみに対抗するための、取り組みの強化と警戒の維持、これら全てを、我々は総動員で行っていかなければならないということです。
国民よ、
緑の行進を特徴づけたのと同じ献身と犠牲の精神を保ちつつ、我々の南部地域の開発を推し進め、その地方の息子たちや娘たちの尊厳を護ること、そしてこの国家の領土保全を維持することは、我々の集団的責務です。
そのようにすることが、「緑の行進」の考案者…私の尊敬する父であって後の王ハッサン二世陛下…安らかにお眠り下さい…と、この国の栄誉ある殉教者たちへの、忠節の証しとなる筈です。
アッサラーム・アライクム・ワロマツロー・ワバラカア-トゥ
拡散希望【ヴォーリズ建築の華「大丸心斎橋本店」取り壊し反対の署名にご賛同お願いします
http://blogs.yahoo.co.jp/kotyannomama/17831288.html
アールデコの美しき大丸心斎橋店本館の建て替え(内装取り壊し)をしないで!!
ってやってるけど凄い違和感がある
何が理由で建て替えになるのかは知らないけど、建物の老朽化が理由なのは間違いない。
壊れる心配があるなら新しくするのは当然な訳で、もし壊れて被害が出たら誰が責任を取るのか?
その責任を取る人が出てくる前に新しくするのが当然ではないの?
増田か2chくらいにしか書けないことなのだが、キリスト教の正教会の信徒の一部が、ネット上でちょっと変。
変というか、痛い。
具体的には、Wikipediaのキリスト教関係の項目で、正教会についての言及が不自然なほど充実しすぎていたりすることなど。
あと、Twitterでの言動にもちょっと見ていて辛いところがある。
大多数の日本人には心底どうでもいい世界だろうが、少しでもキリスト教に興味があって、Twitterで宗教関係のフォローをしていれば違和感を感じたことがある人は多いのでは。
というか、一部の人というより、特定の人物と言ったほうが近い。
正教会というのは日本のキリスト教徒という少数派の中で、更に少数派なので、マイノリティゆえの行動ともいえるのだろう。
ただ、布教とか宣教とかそういう話でさえなく、ただただ痛い言動をしているようにしか見えないのだ。
同じくマイノリティである日本人ムスリムがTwitter上で興味深いツイートばかりで知性を感じるのに比べ、正教会の一部の人は見ていて辛い。
いわゆる「左翼的」な活動をしてる人のほとんどが学生運動に毛が生えた程度のことの主張しかしてないのが幼稚な印象になる理由だと思う。
声のでかい左翼活動してる連中って、60~70年代の学生運動が青春期だった団塊世代か、盗んだバイクで走りだして教室の窓ガラス割って回った40代の一部でしょ。
思想がそういう大人vs子供っていう構図から抜け切れてないから、議論しても根本的なところから咬み合わない。
わかりやすく言うと学校vs生徒会みたいなもんで、「制服をなくしてほしい」「授業を受けるか自分で選ばせてほしい」「学食を無料にしてほしい」とかいうのと同じレベルのことを主張してるのが今のサヨクどもってこと。
学校側にしてみれば古い伝統とか秩序とか発注業者への都合で簡単に制服なんてなくせないし、授業を自由にして適切な単位取得ができる方法があると思えないし、学食を無料にするってそりゃその分学費とか高くしないと無理だろっていう大人の意見があるわけ。
でもそういう事情を無視して自分らが暮らしやすい自由を感じられるような社会にしろって一方的に言うのが日本的サヨクの幼稚さの特徴。
やつらは意図的に大人の事情を無視して自分らの主張が通らない世の中がおかしいとか大声で叫ぶんで、ちょっとは大人の考えができる人たちからは滑稽に見えるわけ。
民主党政権が未だにボロクソに言われてるのは、そんなガキどもが大人にとって代わったせいで突然目の前に出てきた大人の事情に直面して全く仕事ができなかったから。
綺麗事だなあ、という印象。
どうあったって、企業は社員に育児なんて出来ればして欲しくないし(勿論介護もして欲しくないし、本人が病気になったりもして欲しくないだろう)
育児にリソース取られる社員はそうではない社員より仕事に支障が出るもんだと思う。
その仕事に支障が出た社員に対して「育児しているんだから仕方ないだろ、それを保護するのが企業の社会的責任」とでも言いたげなブコメが気になるけど、
そもそも一私企業がそこまで面倒見なければならないものなんだろうか?
仮にそれが収入の低下などをもたらし生活に支障が出るというのなら、それは国が(例えば児童手当という形で)補填すべきものであって
企業は従業員の育児生活、つまり私生活まで面倒見るべきというのは、
かつての日本企業が伝統的に「企業は従業員の『親代わり』として私生活まで面倒を見るもの」とされていた故の発想だと思うけど。
それこそ昔は企業は従業員の結婚まで面倒見ていたわけで、育児生活まで面倒見るべきってのはその延長の発想だよね。
でもそういうのは「従業員も子として親=企業を尊敬し一生仕えるべき」ってのとセットだったわけで、
そういう発想が古臭いだの社畜だのと言われ、企業と従業員の関係はただ仕事上の雇用関係があるだけだ、ビジネスライクでいい、
仕事以外の関わりなんかいらん、転職も自由だという世の中になりつつあるのに
福利厚生部分だけが相変わらず「企業は従業員の『親代わり』として以下略」って発想が残ってるのは、ただの子=従業員側の甘えではないだろうか。
まるで普段は「親の言う事なんて聞かねーよwww」と言いつつ、いざ困ったら親に頼って当然・親は助けてくれて当然と思っている、
それとは逆に、福利厚生はろくすっぽ与えないのに社畜として一方的にこきつかう、ブラック企業もある訳だけど。
これは例えるなら「毒親」なんだろう。
まあ、過度期なんだろうね。
最終的には、昔通りに子=従業員が親=企業に社畜として一生仕える代わりにその恩恵としての保護を受け取るか、
資生堂は前者に傾きつつあった所を「いやこれでは『子』を甘やかしスポイルするだけだ、もっと仕事に責任を持って貰いたい」と言う後者に近い発想に転換したのか。
追記
「優秀な人材を確保する為に福利厚生を充実する」ってのはむしろ「対等でビジネスライク」な発想だろう。
昭和の日本企業の福利厚生も本来はそういう目的のものだけど、「一度雇った社員=『子』は出来が悪くても『親』として一生面倒みてやらねば」的な発想もあったから
無能な社員でも首にならず年功序列で役職給料も上がって福利厚生も使えたわけだ。
それが可能なのは有能な社員が会社の為に必死で働き、無能な同僚の尻拭いもするような社畜だったから。そんな社畜が大量にいたから。
でもそんな時代は終わりつつある。
資生堂のあれも、「手厚い福利厚生を用意していたのは優秀な人材を確保したいからであって慈善事業でやってるんじゃない、
時短社員だろうとキャリアを積むようそれなりの努力をして結果を出すべきだし、それが出来ない社員は要らない」と言う意思表示だろう。
恐らく制度を作った当初は時短社員でも自発的に努力する事を期待していたんだろうけど、結果的には努力もせずただぶら下がるだけの人が大量発生してしまった、
Array に対して反復する方法としてこれを使うのは魅力的かもしれませんが、そのことは悪い考えです。
(中略)
先日、『選挙カーがはた迷惑な大声で名前を連呼する理由を知った時のこと』という文章を書いた。
予想外の反響を得て、驚くとともに、うれしくも思う。
そもそも記事を書くきっかけとなったサイバーメガネさんも、さっそく内容をフォローするように
『無党派層はコスパが悪くて当てにならない』というエントリを書いてくださった。
なぜ、反響があったかといえば、おそらく、あの頃の自分と同じように選挙の現場を見たことがなく、
「なぜ、反感を買うだけなのに、選挙カーは騒音をまき散らしているのだろう」と疑問に思っていた人が多かったのだろう。
中には、「ああいうばあさんは、もうすぐいなくなるだろう」という趣旨のコメントもあったが、僕はそうは思わない。
そもそも、あれはまだ橋本龍太郎が総理大臣をやっていた頃の話だ。
つまり、かれこれ20年近く前の話なのだが、その後も状況にさほど大きな変化はなかったことは、いくつかのブコメを見るだけでも分かる。
次の20年で変わるかといえば、そうでもないだろう。なぜそう思うかを、書いていこうと思う。
あの頃、「無党派層」という言葉はすでにメディアに登場していた。
(wikiによれば、大阪府知事に横山ノック、東京都知事に青島幸男が当選するという「珍事」が起きた時に注目され、流行語大賞をとったそうである。
その前に「日本新党ブーム」を経て、細川内閣が誕生したころには、まだメディアではメジャーな言葉ではなかったのか)。
無党派層に心情が近かった当時の僕も、「ああいうばあさんみたいなタイプの人は、いずれいなくなるのだろう」と思っていた。
だが、少なくとも20年程度では、いなくならなかった。
思い起こしてみれば、あの当時から、「応援しているのに、なぜウチのほうに選挙カーがこないのか」と苦情をいうのは、必ずしも年寄とは限らなかったのだ。
その渦中に身を投じてみれば分かるが、選挙というのは一種の「お祭り」である。
であれば、選挙カーという「神輿」は、自分の家の近所に来てくれたほうが楽しかろう。
お祭りというのは、参加する者にとっては楽しかろうが、部外者にとっては迷惑で騒々しいだけだ。ハロウィンを見ればわかる。
最近、高知県では、新住民からの「よさこい祭りの練習の騒音がうるさい」という苦情が増えて、祭りの伝統を守りたい人々は対応に苦慮しているらしい。
祭に参加して騒ぎたい人々と、外側にいて「うるさい」と感じる人とは、どうしても対立する。
それは、祭りのルーツがどうとか、そんなこととは、おそらく関係がない。
僕はあの頃、お祭りに参加して盛り上がるのは年寄りのやることだと思っていた。
だが、実際にはそうでもなかった。
古臭い祭りにはそっぽを向いても、なにか面白そうな新しいお祭りあれば、こぞって参加するという人たちが、世の中には相当程度いるのだ。
既成政党による「ドブ板選挙祭り」にはそっぽを向いている若者が、国会議事堂前でSEALDs祭に参加したって、なんの不思議もない。
お祭りといえば、あの選挙事務所でバイトをしていたとき、幹部がにわかに、ちょっとしたお祭り騒ぎになったことがあった。
総裁とは誰のことなのか、僕はにわかに判じかねたが、それは当時、自民党総裁にして総理大臣でもあった橋本龍太郎のことであった。
事務所の関係者は「総理」でも「首相」でも、ましてや「ハシリュウ」でもなく、「総裁」と呼んでいた。
総裁が応援しに来てくれるということは、つまり、その候補者や選挙区を党本部が重視している証拠なのだが、、
橋本龍太郎という人は日本の歴代総理には珍しく、その端正なルックスで女性人気がきわめて高かった。
慶応大学在学中に第一期東宝ニューフェイスに誘われたこともあるというから、「政治家にしてはイケてる」というレベルではない。
当然、「集客力」も高く、事務所としては、願ってもない応援弁士なのである。
今でいえば、小泉進次郎の人気が、近いものがあるのかもしれない。
当日は、それはもう「お祭り騒ぎ」だった。バイトも支持者も大勢駆り出された。
事務所の幹部は警察官やSPと打ち合わせに余念がなく、事務所の司令塔たる候補者の長女は、誇らしげな顔をしていた。
実際、当時の橋本龍太郎は、「本日、○時に、橋本龍太郎総裁が、応援演説に来られます!!」と呼びかければ、
「エッ、うそ!? マジ? こんなトコにハシモトソーリがくるの? じゃ、ちょっと見ていこうかな」
などと騒ぐほどの人気があった。
「もし、総裁が演説している最中に暴漢が襲いかかって、それをウチの先生が体を張って守って、ケガして運ばれたりしたら、明日の新聞の一面になりますかね?」
「ああ。そうなったら先生は、もう当選確実だな。お前、いっちょやってみるか?」
僕らは、大分親しくなった事務所の下っ端幹部と、そんな軽口をたたいたりした。
定刻になると、ちょうどライブの最前列でファンを押さえるスタッフのように、バイトや運動員が群衆を抑えている前に、黒塗りの車列が到着した。
SPに囲まれながら降り立った橋本龍太郎は、思った以上に背が低かったが、確かに二枚目だった。
「世の中には、選挙になると、消費税率は下げて福祉の水準は上げるなどと、夢のようなことを訴える政党もありますが、
私には、そんな魔法使いのようなお約束をすることはできません」
などと語りかけるイヤミな調子には、好き好きがあっただろうけれど。
当日、街頭には大勢の支持者が動員されていたけれど、それを上回る人々が足を止めた。
それがきっかけで自民党候補者に投票したひともいるのではないだろうか?
だが、なにより、事務所に集う人々は、「総裁が来てくれた」「予想以上に人が集まった」という事実に興奮し、
例のばあさんは、街頭には来ていなかっただろうが、
「自分の支持する先生のために、橋本さんが応援に来てくれた」という事実に喜びを感じ、
ますます「近所の人に、投票してくれるように頼む」という彼女なりの方法で、お祭りを楽しんだことだろう。
「お祭りだなんて、とんでもない。選挙というのは、冷静に過去の実績や提示された政策を比較検討して、適切な候補者に投票すべきだ」
という人もいるだろう。それは、おそらく正論だ。
だが、そういう正論を唱える人たちが、政策とやらにどの程度つうじているのか。
数多ある課題の、すべての軽重を判断して、どれが適切な政策が判断することが、果たして可能なのか。
それに、どんなに「政策」が素晴らしかったとて、口先だけでは何とでもいえる。
政策はもちろんのこと、きちんと有権者に呼びかけ、汗を流している人を選ぶべきではないのか、という話にもなる。
そもそも政策など判断しかねるという大多数の人は、「難しいことは分からないけれど、あの人ならば大丈夫」という人に、判断を託すことになろう。
そして、「あの人=政策を作成、判断し、実行する人」というのは、つまり「権力者」だ。
かつての世の中では、文字通り血で血を洗う抗争をくぐり抜け、数多の屍の上に生き残った者が権力を握ったのだろうが、
そんなことで無闇に人の命が奪われるのはよろしくないということで、選挙というお祭りで権力者を選ぶようになったというのが、つまり民主政治なのだと思う。
「あの、お偉い先生も、私の一票があるから、大きな顔をしていられる」「私の一票のために、頭を下げてくれる」
そのことに喜びを感じられる人が、選挙というお祭りに参加する。
選挙カーを待ちわびる老人(のような人)とは、そういう人たちではないかと思うのだ。
そして、「お祭り」を利用して権力を上りつめようとする人間は、冷めた傍観者たちに参加を促すよりも、
「お祭り気質」な人たちを盛り上げることに注力した方が、効率が良いことを知っている。
時に、「権力者」という個人ではなくて、「戦争法案をつぶす」とか、そういう思想だが理念だか、そんなようなものを「ご神体」にしてお祭りが催されることもあろう。
多分、それがSEALDsだ。
彼らは初期の目的を達することはできなかったが、多分、世の中を意図的に動かそうと思えば、お祭りのような手段を使ってエネルギーを結集することが必要なのだと思う。
そんなこととは関係なしに、僕らから全く見えないどこかで、いつのまにか物事が決まっていく世の中は、多分、今の世より住みにくかろう。
僕はそんな世の中に住みたくないし、世の多くの人が、そう望んでいると思う。
だから僕は、「選挙カーを待ちわびる老人(のような人)」は、そう簡単に消えないと思うのだ。
消えるべきではない、といえるかもしれない。
選挙のやり方は変わっていけば、騒音をまき散らす選挙カーのような方法は使われなくもなるだろう。
選挙ではないけれど、今もネットでは、「炎上」という名のお祭り騒ぎが日夜開催され、それに参加する人もいれば、眉を顰める人もいる。
僕の粗末な頭では具体的に想像できないけれど、仮にネット選挙が今より進化したとしても、
選挙カーの連呼とは違う種類の「騒音」に悩まされ、うっとうしくなる日がくるのだろう。
ところで、僕はハロウィンに仮装して参加したことがない。今後もたぶん、参加することはないだろう。
だが、心の片隅に、あの、屈託なく仮装して楽しんでいる人たちを羨ましく思う気持ちがないかと聞かれると、全くないとは言い切れない。
選挙カーで名前を連呼する事象について言及すると「そもそも公職選挙法で規定されているから、それしかできないのだ」とブコメやトラバでご教示くださる方がいる。
仮に、連呼以外のことが認められ、選挙カーが政策を訴えだしても、「うるさい」と思う人は「うるさい」と思うだろうし、
走り回る選挙カーから、「政策に興味のある意識が高い有権者」の判断材料になるほど意義のある複雑な内容が訴えられるとも思えない。
日本人がミーハーでお祭り好きなのはわかったけど日本古来の祭りはどうした。
やっぱり日本のお祭りと言えば盆と正月。応援したいからちょっと提案させてみて。
まずは正月。
QFRONTの屋上から投げ込まれる神木を109まで運べたやつが副男。
次にお盆。
同じく渋谷のスクランブルを通行止めにしてチーム対抗DJバトル。
チーム別にYAGURA立てて、オーディエンス沸かせたヤツらが勝ち。
客付き悪いYAGURAはどんどんブチ壊して、最終的に残ったYAGURAが今年のレジェンド。
年寄り連中だって若いころは何かとかこつけて大騒ぎしたいだけだったんだろ?
自分の体力がなくなったからって若者まで押さえつけるのはいかがなものか。
そんなことしてる間にそもそも見向きもされなくなってますから。
不甲斐ない。度量がない。そんなやつらはもういらない。俺は今夜もパーリナィ↑↑↑↑↑↑
シゴトシヨ。
もしかして昔の日本を過剰に美化してる人が増えてるのかな?と思ってしまうエントリを最近いくつか見かけた。
http://anond.hatelabo.jp/20151022043900
「日本の生糸の品質が世界一」って、明治初年なのに? 明治初年の生糸事情
http://anond.hatelabo.jp/20151027104900
SF作家 山本弘先生の「日本人のモラルが昔から高かったと思うな」「日本人のモラルは昔より格段に向上している」
明治時代はともかく、戦後の日本製品の品質についても最初から高かったと思ってる人をたまに見かけたりする。実際には日本の製品の品質が良くなったのは1970年頃になってからで、それ以前は安かろう悪かろうだった。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13100020158
また昔の日本の生産性は高かったと思ってる人が居るが、実際はそんなことはない。
http://www.jpc-net.jp/annual_trend/annual_trend2014_3.pdf
図3-4に1970年からの労働生産性の、OECD加盟国内での順位の変遷があるが、日本は18-19位だったのがバブル期に13位に、その後は現在まで21-22位で安定している(OECDの国数が時期によって違うことに注意)。
「本当に共働きが必要か」のエントリでは専業主婦世帯が日本に合っていたのでは?と言っている。共働きになったからいろいろ大変になってしまった、専業集世帯がメインになれば改善する、と言いたいのだろう。
このような発想が出てくるのはそのような社会形態だった頃に景気が良かったことからきてるのだろうが、実際には因果関係は逆で、景気が良かったから専業主婦が成り立っていただけである。
これと似たような話として、終身雇用・年功序列を復活させるべき、ということを言う人がけっこう居たりする。これも同じく経済が成長期だったからこそ終身雇用・年功序列でいけてただけに過ぎない。
そもそも、日本は終身雇用だったというのが幻想で、実際に終身雇用の対象だった人は労働者の1割も居なかったわけで。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/yamamotoichiro/20141109-00040587/
ここら辺、解雇規制に関する勘違いと似ていて、日本は解雇規制が厳しいと言われるがそれは大企業の正社員のみの話であり、それ以外の人との格差が問題になってたりするのだが、勘違いしてる人は結構いたりする。
なぜこのような勘違いが発生するかと言えば、マスコミで取り上げられるのが大企業ばかりだったからではと思う。ほんらい少数派のはずがマスコミによってさも日本の代表値のように扱われ、それを信じてしまったのではないだろうか。
最近の若者は終身雇用を望む人が増えている、という調査がある。今の時世では安定を求めたくなるのは当然だよね、と思っていたのだが、もしかすると皆が終身雇用な社会、皆が専業主婦世帯な社会が成り立ちえると勘違いしてるから、そういう意見が増えてきてるのかもと考えてしまった。