はてなキーワード: 袁世凱とは
1 『北京大学版 中国の文明』掲載の「大事年表」をベースに、wikipedia「中国の歴史年表」「夏商周年表」その他の記事で補った。
.
前1600頃 殷(商)の創建(殷(商)・太乙(成湯)) <殷(商)>
前453 三晋(趙、魏、韓)成立(諸侯に列されたのは前403) <戦国(時代)>
前350 秦が咸陽に遷都する。秦において商鞅の第二次変法が実施される
前256 秦が東周を滅ぼす
前221 秦が燕・斉を滅ぼし、秦による中国統一が成る。秦が貨幣・度量衡・文字を統一する <秦>
前206 秦滅亡。鴻門の会。漢の高祖元年
前154 呉楚七国の乱
前136 儒教官学化 ※異説多し
前115 均輸法(漢・武帝、桑弘羊)
前110 平準法
18 赤眉の乱
25 劉秀が皇帝を称する(後漢・世祖、光武帝)。後漢が洛陽に遷都する <漢(後漢・東漢)>
200 官渡の戦い
208 赤壁の戦い
220 後漢・献帝が曹丕(魏・文帝)に禅譲(後漢滅亡、魏成立)。九品官人法制定 <魏>
263 蜀漢滅亡
265 魏・元帝が司馬炎(晋・世祖、武帝)に禅譲(魏滅亡、晋(西晋)成立) <晋(西晋)>
291 八王の乱
304 劉淵が大単于・漢王を称する(前趙成立) <五胡十六国(時代)>
316 西晋滅亡
485 均田法発布
613 楊玄感による反乱、隋の統治が崩れる
619 租庸調制の実施
668 唐が高句麗を滅ぼす
845 唐・武宗による宗教弾圧(仏教、景教、祆教、マニ教)、会昌の廃仏(~846)
875 黄巣の乱(~884)
904 朱全忠、唐の実権を握る
907 朱全忠への禅譲(梁・太祖)。唐滅亡。梁の建国 <梁・五代十国>
1004 澶淵の盟
1069 宋において王安石の新法が行われる
1125 金が遼を滅ぼす
1126 靖康の変、金が北宋を滅ぼす
1206 モンゴル部のテムジン(ボルジギン氏)、ハンを称する(チンギス・ハン、元の太祖) <モンゴル帝国>
1229 オゴデイがモンゴルの大汗として即位する(オゴデイ・カアン)
1234 モンゴルが金を滅ぼす
1236 モンゴルのバトゥ(チンギス・カンの孫)らによる西征
1260 クビライがモンゴルの大汗として即位する(クビライ・カアン。セチェン・カアン。元・世祖)
1264 アリクブケ、クビライに降伏する
1271 クビライ・カアン、モンゴルの国号を元に改める <元>
1279 元が南宋を滅ぼす
1281 弘安の役
1351 紅巾の乱
1371 明で海禁令が出される
1388 北元の滅亡
1399 靖難の変
1435 この頃より宦官の専政がひどくなる
1449 土木の変
1616 女真族のヌルハチ、満州(中国東北部)に後金を建国する <後金(清)>
1638 ホンタイジが後金のハーンとして即位し、国号を清に改める。
1644 清が明を滅ぼす(北京陥落)
1673 三藩の乱
1689 ネルチンスク条約
1696 ジュンガル部討伐
1716 地丁銀制
1728 キャフタ条約
1798 白蓮教徒の乱
1850 太平天国の乱(~1864)
1861 西太后の垂簾聴政(~1908)
1884 清仏戦争
1899 義和団の乱
1904 日露戦争(~1905)
1911 辛亥革命
1931 満州事変
1934 中国共産党による長征
1936 西安事件
1939 第二次世界大戦(~1945)
1946 国共内戦(~1949)
1951 三反五反運動
1957 反右派闘争
1958 大躍進政策の開始(~1958)
1978 鄧小平が中国の最高指導者になる。改革開放政策の開始
<背景>
広辞苑、台湾を「台湾省」 20年前から記載 「日本の代表的な辞典としては瑕疵と言わざるを得ない」(1月26日)
http://www.sankei.com/life/news/180126/lif1801260004-n1.html
http://www.sankei.com/life/news/180126/lif1801260003-n1.html
今回の広辞苑第七版ではLGBTやしまなみ海道の記述の誤りが指摘されている。しかし、台湾については触れているメディアをほとんど見かけていない。
私はまだ広辞苑第七版を見ていないが、広辞苑第六版その他の辞書の記述について気づいた点を記す。
<私の結論>
1)広辞苑第六版の「中華人民共和国」にある〔中華人民共和国行政区分〕は日本で刊行する辞書としての中立性に欠ける。
2)広辞苑以外も日本の国語辞典は総じて現在の中華民国に冷たい。現在の中華民国は「名称」であり、台北は首都ではなく主要都市なのだ。
<画像>
1 産経新聞より
http://www.sankei.com/smp/life/photos/180126/lif1801260003-p1.html
2 広辞苑第六版より
https://pbs.twimg.com/media/DTTEa_YVwAAJM6J.jpg
<本文(長い)>
きっかけは昨年秋、広辞苑新版がニュースになりはじめたころの、1つの記事だった。
http://www.mag2.com/p/news/333476
ただし、この記事は有料メルマガの抜粋であるため、詳細を確認することができなかった。
そこで、近くの図書館に行き、台湾関連の記述を確認することにした。
まずは「台湾」を引いてみた。
たいわん【台湾】(Taiwan)中国福建省と台湾海峡をへだてて東方二〇〇㌖にある島。台湾本島・澎湖諸島および他の付属島から成る。総面積三万六〇〇〇平方㌖。明末・清初、鄭成功がオランダ植民者を追い出して中国領となったが、日清戦争の結果一八九五年日本の植民地となり、一九四五年日本の敗戦によって中国に復帰し、四九年国民党政権がここに移った。六〇年代以降、経済発展が著しい。人口二二八八万(二〇〇六)。フォルモサ。→中華民国。➖・あひる【台湾鶩】(以下略)
まぁ、こんなもんかな、と思った。
他の辞書も見てみることにした。
【2】「大言海」新訂版第四刷(昭和五十七年十二月一日)故大槻文彦、大槻清彦
たいわん・ぼうず(タイワン・バウズ)(名)臺灣坊主〔明治二十七八年戦役ノ際、臺灣に出征セシ兵士ノ、此病ニ罹リ、つるつる坊主ニナリテ歸國セシ故ニ云フト〕(以下略)
「台湾」自体は見出し語になく「台湾坊主」という禿頭病の説明だけだった。
【3】「角川国語大辞典」初版(昭和五十七年十二月二十日)時枝誠記、吉田精一
たいわん【台湾】中国福建省の東方にある島。面積三万五六〇〇平方㌖。明(みん)末、清(しん)初のころから中国人が多数移住して中国領であったが、日清(にっしん)戦争後、日本領。第二次世界大戦後、中華民国に返還され、一九四九年以降は蔣介石の国民政府がこの地によっている。中華人民共和国は台湾省という。
続いて【台湾海峡】【台湾総督府】【台湾泥鰌(どじょう)】【台湾パナマ】【台湾坊主】と続いた。
【4】「広辞林」第六版第一刷(一九八四年三月一〇日)三省堂編修所
これだけの辞書もあった。続いて【台湾征討】【台湾総督】と続く。
【5】「岩波国語辞典」第7版新版第1刷(2011年11月18日)西尾実、岩淵悦太郎、水谷静夫
「台湾」はなく、【台湾坊主】のみ。禿頭病のほか、低気圧の意味も載っていた。
【6】「旺文社国語辞典」第十一版(2013年10月13日)山口明穂、和田利政、池田和臣
たいわん〔台湾〕沖縄諸島の南西方、中国大陸の福建省の東方に位置する島。中心都市は台北タイペイ。➖ぼうず【ー坊主】(以下略)
【7】「国語大辞典 言泉」第一版第一刷(昭和六十一年十二月二十日)尚学図書
たいわん【台湾】日本列島の西南方にある紡錘形の島。島のやや東寄りに高峻な台湾山脈が南北に縦走し、西側に平野がひらける。気候は亜熱帯モンスーン気候。原住民はインドネシア系とされる高山族であるが、人口の大部分は華南省から移住した漢民族が占める。明末・清初から中国領。日清戦争後日本領。一九四五年中国に返還され、四九年中国国民党政府がここに移った。略称は台タイ。タイワン。
高山族が出てきた。
【8】「新明解国語辞典」第六版第一刷(二〇〇五年二月一〇日)山田忠雄、柴田武、酒井憲二、倉持保男、山田明雄
【9】「大辞林」第三版第一刷(二〇〇六年一〇月二七日)松村明、三省堂編修所
たいわん【台湾】中国、福建省の東方に位置する大島。台湾本島とその属島からなる。米・サトウキビ・茶・バナナなどを産する。製糖・製紙・機械・セメント・造船などの工業が発達。先住民は高山族であるが、住民の大部分は漢民族。一六八三年から中国領土。日清戦争後日本の植民地になり、一九四五年中国に返還されたが、四九年国共内戦に敗れた中国国民党がここに移った。主要都市、台北。面積三万六千平方㌖。人口二二七五万(二〇〇五)。
かなり詳しいが「中華民国」とは書かない。以下【台湾海峡】【台湾兜虫】【台湾銀行】と続く。
【10】「日本国語大辞典」第二版第八巻第一刷(二〇〇一年八月二〇日)日本国語大辞典 第二版 編集委員会、小学館国語辞典編集部
たいわん【台湾】中国の南東方にある紡錘形の島。本島のほかに澎湖島などの付属島を含み、台湾海峡を隔てて中国の福建省・広東省に対する。島のやや東寄りに高峻な台湾海峡が南北に縦走し、西側に平野がひらける。ほぼ中央を北回帰線が通り、亜熱帯モンスーン気候を示す。先住民はマライ・インドネシア系とされる高山族であるが、人口の大部分は華南から移住した漢民族が占める。明末・清初から中国領。日清戦争後の一八九五年から日本領。一九四五年中国に返還され、省制がしかれたが、四九年中国国民党政府がここに移った。面積三万五九八一平方キロ㍍
台湾については大体こんな感じだったが、「中華人民共和国」と「中華民国」も引いてみることにした。
➖・じんみんきょうわこく【中華人民共和国】中華民国国民党政権を革命によって倒し、一九四九年一〇月一日、中国に成立した共和国。中国共産党の指導のもとに、全国人民代表大会を国家権力の最高機関とする。社会主義体制を標榜しつつ、七〇年代末から経済改革・対外開放を推進、近年発展著しい。面積約九六〇万平方㌖。人口一二億九六〇〇万(二〇〇四)。首都北京。
本文にさして問題は感じないが、問題は〔中華人民共和国行政区分〕なる地図である。
(1)北京市に始まり(34)マカオ特別行政区まで掲載されている中に、しれっと(26)台湾省が何の説明もなしに入っているのは、非常に違和感を覚える。
➖・みんこく【中華民国】辛亥革命の結果清朝が倒れた後、一九一二年中国最初の共和制政体として成立した国。初代大統領袁世凱(えんせいがい)。二八年中国国民党が国民政府を樹立、全国を統一したが、第二次大戦後共産党との内戦に敗れ、四九年本土を離れて台湾に移った。
【3】「角川国語大辞典」初版(昭和五十七年十二月二十日)時枝誠記、吉田精一
➖・じんみんきょうわこく【ー人民共和国】
➖・みんこく【ー民国】
中国大陸の南東海上、台湾島を中心とする共和国。辛亥(しんがい)革命により一九一二年中国大陸に成立。のち、蔣介石の率いる国民党によって統一されたが、第二次世界大戦後、国民党は共産党に敗れ、一九四九年台湾に移った。首都台北タイペイ。面積三万五九六一平方㌖。
【6】「旺文社国語辞典」第十一版(2013年10月13日)山口明穂、和田利政、池田和臣
中華人民共和国のみ見出し語にあり。中華民国や台湾については特筆すべき点なし。
【7】「国語大辞典 言泉」第一版第一刷(昭和六十一年十二月二十日)尚学図書
➖・みんこく【中華民国】(一)辛亥革命後の一九一二年から中華人民共和国が成立した四九年まで、中国を代表する政府が採用した国名。(二)一九四九年、中国共産党との内戦に敗れ、台湾に逃れた国民党政府が使用している名称。
最も正確な気がした。
【9】「大辞林」第三版第一刷(二〇〇六年一〇月二七日)松村明、三省堂編修所
➖じんみんきょうわこく【中華人民共和国】アジア大陸の東部を占める国。中国革命の成功により一九四九年一〇月一日、毛沢東を主席として成立。中国共産党の指導の下で、土地改革、農業の集団化、数次の五か年計画などを遂行し、文化大革命による混乱を克服して「四つの現代化」を掲げ、社会主義国家建設を目指している。国家の最高機関は全国人民代表大会。首都、北京。面積九五九万七千平方㌖。人口一三億一五八〇万(二〇〇五)。
➖みんこく【中華民国】辛亥革命の結果、中国に誕生した共和制の国。一九一二年孫文を臨時大総統として南京(ナンキン)に政府が樹立されたが、袁世凱が政権を奪って政府を北京に移した。のち、中国国民党は国民政府を樹立し、北伐をおこない全国を統一したが、日中戦争・内戦を経て、四九年中国共産党の中華人民共和国が成立。台湾に移った国民党政府は、中華民国の国号を使用。
【10】「日本国語大辞典」第二版第八巻第一刷(二〇〇一年八月二〇日)日本国語大辞典 第二版 編集委員会、小学館国語辞典編集部
ちゅうか-じんみんきょうわこく【中華人民共和国】ユーラシア大陸の東部にある人民共和国。東部はやや湿潤な平野からなり、内陸部は乾燥気候で、山地・高原・盆地が多い。大多数を占める漢民族のほか、チワン族・蒙古族・ウイグル族・チベット族など五五の少数民族からなる多民族国家。北京・上海・天津の三直轄市と、二二省、五自治区、ニ特別行政区(香港・マカオ)に分かれる。中国国民党との内戦に勝利を得た中国共産党の全国統一により一九四九年一〇月、毛沢東を主席として成立。中国。
広辞苑第六版の地図と比較すると、この時点では重慶は直轄市ではなかったようだ。そして台湾省は「二二省」には含まれていないと思われる(広辞苑の「省」は23ある)。
ちゅうか-みんこく【中華民国】(一)辛亥革命後の一九一二年から中華人民共和国が成立した一九四九年まで、中国を代表する政府が採用した国名。一九二七年を境として、前半の軍閥組織を背景とした北京政府と、後半の中国国民党による国民政府時代とに分けられる。首都は前半は北京、後半は南京。(ニ)一九四九年、中国共産党との内戦に敗れ、台湾に逃れた国民党政府が使用している名称。
【11】「国語大辞典」第一版第七刷(昭和五十七年二月十二日)尚学図書
➖・じんみんきょうわこく【中華人民共和国】
1883年6月、金玉均は自身にとって3回目の日本訪問の途についた。前回の訪日で会見した日本政府の高官は、朝鮮国王の委任状があれば借款に応ずることを示唆しており、朝鮮からの留学生尹致昊の帰国に際しても大蔵大輔の吉田清成はかさねてそのことを金玉均に伝言していた[5][注釈 2]。
しかし、高宗からあたえられた300万円の国債借り入れの委任状を持参して来日した金玉均に対する日本政府の対応は冷たかった[5]。300万円は当時の朝鮮における国家財政1年分に相当しており、日本の予算約5,000万円からしても巨額なものであった[5][7]。メレンドルフの妨害工作もあったが、日本政府としても大蔵卿松方正義が緊縮財政を進めているなか、財政力に乏しく政情も不安定な朝鮮に対し、そのような巨額な投資をおこなうべき理由は乏しかった[5][10]。金玉均は、日本についで、フランスやアメリカ合衆国からの借款工作にも失敗した[5]。
1884年5月、金玉均は失意のうちに朝鮮に帰国した。朝鮮では、以前にもまして大国清の勢力が猛威をふるい、朝鮮国の重臣たちはそれに追随し、開化派の活動はいっそうせばめられていた[5]。清とフランスの緊張関係の高まりから、5月に遼東半島に移駐することとなった呉長慶にかわって野心家の袁世凱が実権を掌握し、朝鮮王宮は彼の挙動に左右された[5]。これに危機感を覚えた金玉均らは国王高宗を動かそうと計画した[7][10]。高宗もまた閔氏の専横に心を痛め、朝鮮の将来に不安をいだいていたのである[7]。
清仏戦争の直接原因となった1884年6月23日のバクレ伏兵事件(英語版)
1884年6月、ベトナム領有を意図するフランスとベトナムでの宗主権を護持しようとする清国との間で清仏戦争が勃発した[10]。清越国境付近のバクレでの両軍衝突が引き金となったが、この戦いで劣勢に立った清国は朝鮮駐留軍の半数に相当する約1,500名を内地に移駐させた[5]。独立党は、これを好機ととらえた[10]。日本もまた、壬午軍乱以降、無為にすごした失地回復の好機とみて清国勢力の後退を歓迎した[5]。井上馨外務卿は帰国中の弁理公使竹添進一郎に訓令し、10月に漢城に帰任させた。竹添は軍乱賠償金残金の寄付を国王に持ち掛ける一方、金玉均ら独立党に近づいた[5][11]。
竹添進一郎
金玉均らは11月4日、朴泳孝邸宅に日本公使館の島村久書記官を招いて密談をおこなった。集まったのは、金玉均、朴泳孝、洪英植、徐光範、島村の5名であった[12]。そこで金玉均は島村にクーデタ計画を打ち明けているが、島村はそれに驚きもせず、むしろ速やかな決行を勧めるほどであったという[12]。かれら独立党は3つのクーデタ計画案を検討し、同年12月に開催が予定されていた「郵征局」の開庁祝賀パーティーに乗じて実行にうつす案が採用された[12][注釈 3]。金玉均は11月7日に日本公使館をおとずれ、竹添公使にクーデタ計画を打ち明け、そのとき竹添から支援の約束を得ている[12]。
金玉均は漢城駐在のイギリスとアメリカ合衆国の外交官にもクーデタ計画を相談した[12]。かれらは、金玉均のえがく理想に共感し、清国よりも日本を頼るべきことについても理解を示したが、しかし、決行については清国の軍事的優位を認めて、これに反対した[12]。金玉均はさらに、それとなく高宗にも計画の内容を伝えて伺いを立てた[12]。高宗もまた、清の軍事力を考えると不成功に終わるのではないかとの懸念を伝えたが、金玉均はこれに食い下がり、フランスと連動して動けば充分に勝機はあると訴えた[12]。高宗は、これを諒とした[12]。
しかし、クーデタに動員できる軍事力といえば、日本公使館警備の日本陸軍仙台鎮台歩兵第4連隊第1大隊第1中隊の150名と、陸軍戸山学校に留学して帰国した10数名の朝鮮人士官学生および新式軍隊の一部にすぎなかった[5]。この人数では、半減したとはいえ、なお1,500名を有する清国兵および袁世凱指揮下の朝鮮政府軍に対抗するのは無謀といってよかった[5]。
今年もそろそろ終わる。
俺は来年40歳になる。10年前に何してたっけ?どんなことがあったけ?20年前は?
思い出そうとしてみたが、覚えていることはあまりなかった。
そこで大好きなウィキペディアを開いてみたら、おもしろかった。
西暦をたたけばその年に起こった出来事や流行ったものごと、世相がまとめられている。
すげえな。
「おっ」とか「へー」とか「なにそれ」と思った出来事で100年を振り返ってみる。
2014年の10年前と2015年の10年前。
1614年と1615年までさかのぼれば、それぞれ大阪冬の陣と夏の陣までいけるのだが、400年はけっこうしんどい。
とりあえず100年。
------------------------------------------------
・自衛隊イラク派遣の陸上自衛隊本隊第一陣がイラクのサマワに入る
・関西電力美浜原子力発電所(福井県)で蒸気漏れ事故が発生、作業員5人が死亡
・アテネ五輪(柔道の野村忠宏選手が五輪3大会連続で金メダル獲得)
・「新潟県中越地震」死者68名
2005年(平成17年)
・中部国際空港が開港
・アンゲラ・メルケルがドイツ首相に就任
・1年を通じて1899年以来初めて死亡数が出生数を上回る
------------------------------------------------
1994年(平成6年)
・関西国際空港が開港
・オリックスのイチローが史上初の1シーズン200本安打を記録
1995年(平成7年)
・警視庁の国松孝治長官狙撃事件(重傷)
・オウム真理教総本部前で村井秀夫幹部が刺殺される
・『新世紀エヴァンゲリオン』放送開始
・俺ハタチになる/この年はテレビばかり見ていた気がする。
------------------------------------------------
・中曽根首相が首相として戦後初の靖国神社参拝
1985年(昭和60年)
・東京都に新両国国技館が完成、横綱・北の湖が引退
・NTT(電電公社)とJTT(日本たばこ産業)が民営企業として発足
・豊田商事の詐欺事件についてマスコミが取材中、報道陣の前で永野一男会長が暴漢2人に刺殺される
・フジテレビで夕方のバラエティ番組『夕やけニャンニャン』が放送開始
・たこ八郎が水死
・阪神タイガースが日本シリーズで、西武ライオンズを破り4勝2敗で日本一
------------------------------------------------
1974年(昭和49年)
・永谷園が「あさげ」を発売
・日本赤軍がオランダ・ハーグにあるフランス大使館を占拠(ハーグ事件)
・ウォーターゲート事件でニクソン米大統領辞任
1975年(昭和50年)
・まるか食品が「ペヤングソースやきそば」を発売
・山陽新幹線博多まで開通
・広島東洋カープが初優勝
・イギリス保守党の党首にマーガレット・サッチャー選出
・沖縄国際海洋博覧会開幕
・俺が生まれた
……俺と同い年の人たち
・アンジェリーナ・ジョリー(女優)
・上原浩治(野球選手)
・高橋由伸(野球選手)
・俺(商店街で鮮魚店を経営)
------------------------------------------------
・本田技研工業が「S600」を発売
・日本人の海外観光渡航自由化。ただし年1度、所持金500USドルまでの制限付き
・東海道新幹線開業
・坂本九『明日があるさ』がヒット
1965年(昭和40年)
・淀橋浄水場廃止
・中国で文化大革命が始まる
------------------------------------------------
1954年(昭和29年)
・日本の高度経済成長期が始まったとされる年
・NHKが大阪と名古屋でテレビジョン放送開始
・ニッポン放送開局
・琉球放送(RBC)開局
・遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」が米国の水爆実験によって発生した多量の放射性降下物を浴びる
・洞爺丸事故
・加藤芳郎の4コマ漫画『まっぴら君』が毎日新聞夕刊で連載開始→2001年終了
1955年(昭和30年)
・武田薬品工業が総合感冒薬「ベンザ」を発売。
・ワルシャワ条約機構結成、冷戦激化
・広辞苑初版発行(岩波書店)
・後楽園遊園地が完成
・自由民主党と日本社会党の二大政党制(55年体制)が始まる→1993年崩壊
------------------------------------------------
1944年(昭和19年)
・全国の新聞で夕刊が廃止
・日本軍がインパール作戦を開始
・連合軍によるパリの解放
・東海道沖で東南海地震発生/マグニチュード7.9、死者・行方不明者1,223人、建物全壊36520件
1945年(昭和20年)
・ 2月 4日 ヤルタ会談(ルーズベルト、チャーチル、スターリン)
・ 2月14日 近衛文麿が昭和天皇に早期和平を提案(近衛上奏文)
・ 6月13日 大田実司令官が「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と打電した後自決
・ 6月23日 沖縄守備軍司令官牛島満が摩文仁司令部で自決/実質的な戦闘終結
・ 8月 6日 広島市へ原子爆弾投下
・ 8月 9日 ソ連軍が満州へ侵攻して対日参戦開始
・ 8月 9日 長崎市へ原子爆弾投下
・ 8月10日 御前会議(ポツダム宣言の受諾の可否について)
・ 8月27日 占領軍向け特殊慰安施設の第1号開業(小町園、東京大森)
・ 9月 2日 東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で、重光葵・梅津美治郎らが降伏文書調印(第二次世界大戦終結)
・ 9月25日 外国人記者2名が昭和天皇にインタビューを行う
・10月19日 駅名の表記が左書きに統一される
------------------------------------------------
1934年(昭和9年)
・日比谷映画劇場開場
・忠犬ハチ公銅像除幕式
・満鉄が大連―新京間で「特急あじあ号」の運転を開始
・東北地方で冷害が発生、凶作被害甚大
1935年(昭和10年)
・築地市場開場
・フランス人民戦線結成
・天理教本部が脱税で捜索
------------------------------------------------
1924年(大正13年)
・皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)と良子女王(後の香淳皇后)ご成婚
・日本でメートル法が採用
・阪神甲子園球場完成
・トーマス・マン『魔の山』
1925年(大正14年)
・イタリアのベニート・ムッソリーニが独裁宣言
・日ソ基本条約締結(日本はソ連を承認)
・治安維持法公布
・朝鮮総督府庁舎完成
・上海で五・三〇事件
・広東に国民政府が成立
・鈴木商店(後の味の素)設立
・芦ノ湖にブラックバスが放流
・娯楽雑誌『キング』創刊
……これ読んだ若い頃、スーパーのおさかなコーナーで働いてた。
まな板の上にレモン置いて帰ろうかと思ったな。
なつかしい。
------------------------------------------------
1914年(大正3年)
・孫文らが東京で中華革命党を結成
・サラエヴォ事件→オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに最後通牒
・『少年倶楽部』創刊
1915年(大正4年)
・第一次世界大戦:ドイツ海軍がイギリス周辺を交戦海域に指定して、Uボートによる無制限潜水艦戦が開始される
・サマセット・モーム『人間の絆』
・芥川龍之介『羅生門』
------------------------------------------------
数字と固有名詞と記憶と今がごっちゃになって、ちょっと気持ちいい。
自分がさかなクンと同い年なのは知っていたが、ぺヤングとも同い年とは知らなかった。
それと昭和、長いな。
明日も朝早いし、そろそろ寝る。
http://anond.hatelabo.jp/20081101232814
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20081102-OYT1T00492.htm
しかし、田母神氏ご本人は、「誤っているとは思わない」「(論文の内容について)今でも間違っていない」、
http://www.asahi.com/national/update/1103/TKY200811030159.html
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20081103-OYT1T00526.htm
とおっしゃっておられるようであり、
「近現代史の一面的な見方を見直そうという動きが各方面から起きていたが、その象徴的論文」
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/081103/plc0811031834005-n1.htm
という新聞もあるので、ネット上にある反論ソースをあげておくのも意味ないことではないと思い、対中外交について落ち穂拾いをしてみます。今回もネット上にあるものだけを参照しており、私はこの時代の一次史料を読んでいませんので、「ちらしのうら」であることに変わりはないですが、根拠を何も示さない所論よりはましだと思っています。
見出しの引用の出所は、田母神俊雄「日本は侵略国家であったのか」2008年
http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf
それでは、公開されている次の論文を紹介する形で反論します。
古屋哲夫「対中国政策の構造をめぐって」『近代日本における東アジア問題』古屋哲夫、山室信一編、吉川弘文館、2001年、をPDF・HTML化したもの(単行本にはあたっていないことをおことわりしておきます)。
http://www.furuyatetuo.com/bunken/pdf/75.PDF
http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html
まず、日露戦争後の日本の中国権益についてみてみましょう。そもそも初期条件は清の関与できない日露両国の話し合いで設定されました。
日露講和条約によって日本が獲得した在満権益とは、ロシア権益の残りの期間を、「清国政府ノ承諾」を条件として、譲り受けたものであり、具体的には 1923年(大正12)に満期となる(露清原条約の期限が25年)遼東半島租借権と、運転開始から36年後の1939年(昭和14)年に中国側に買戻権が生ずる南満洲鉄道経営権を中心とするものであった。
清の事後的同意が必要とされたこと、租借権と経営権には期限が設けられていたことは留意されるべきでしょう。
後の関東軍へとつながる駐兵権の話も、この段階で出てきます。
それは清国の了解なしに、その主権を侵害する鉄道守備兵駐兵権を設定したものであった。それは現に軍隊が存在しているという既成事実を権益に転化させようとするものであり、日露両国は清国の主権侵害の共犯者となったことを意味し、また、以後の満洲支配についての日露共同行動の可能性をしめしたものでもあった。ところで講和条約はロシアから日本への権益の移転譲渡は、「清国政府ノ承諾」を条件とするとしており、それにもとづいて、1905年11??12月にそのための北京交渉が開かれたが、そこで清国側がもっとも強い反発をしめしたのは、この鉄道守備隊の問題であった。・・・(中略)・・・結局この問題は日本側が、ロシアが撤兵を承諾したときには、日本も同様に撤兵するという条件を付けただけで押し切ってしまうが、小村寿太郎全権は、ロシアの撤兵など起こりえず、したがって日本の撤兵もありえないものと考えていた(5)。この鉄道守備兵が、租借地守備兵とともに、後の関東軍を構成することとなる。
先に既成事実があって後に法的に問題を確定させようとしていることは留意されるべきでしょう。
このようなやり方が、相手側に不満を生じさせ、後の紛争の種となるのも当然でしょう。
日露講和後の清国に対する交渉において、もっとも紛糾したのは、前述の駐兵権問題についで鉄道権益をめぐる問題であった。・・・(中略)・・・その結果、1905年12月に調印された、「満洲ニ関スル日清条約」(実質的内容は附属協定)では、吉長線も新奉線も協定附属の取極に譲らざるをえず、前者は清国の自主建設により、資金の不足分を日本からの借款による、後者は日本から清国に売渡し、その改築のための費用を日本より借り入れる、という譲歩をよぎなくされている。結局協定本文には、安奉線が残されただけとなったが、これも軍用軽便鉄道を商工業用に改良することは認めるが、18年後には清国に売り渡すべきことが規定されていた。それは安奉線についての日本の権利が、長春・旅順間の鉄道とは全く異なるものとして協定されたことを意味していたが、日本側、とくに現地の実権を握る陸軍は、条約には目もくれず、安奉線を駐兵権や附属地を持つ満鉄の支線とすることを 実力で押し切ろうとしていた。
実際に、満洲よりの日露両軍の撤兵期限である1907年(明治40)4月になると、遂に、安奉線上の本渓湖の市街に新たに日本軍が進出し、同時に日本の警察官出張所が設置されたとして、清国側からの抗議が提出された。これは前年8月に陸軍が主導して在満権益を管轄するために設立された関東都督府(都督は陸軍大将または中将、初代は 大島義昌大将)が、既成事実を作り出しはじめたことを意味した。そして外務当局もこれを追認する態度を示している。日本側のやり方を条約違反とする清国の抗議に対して、同年5月18日林董外相は、安奉線は満鉄の支線であり、守備隊の駐屯や警察官派遣の権利も満鉄と同様だとの態度をとるよう奉天総領事に指示している(7)。それは条約よりも既成事実を押し通せ、ということであり、対満洲政策の一つの性格が早くも形作られつつあったことを示している。
上記のような「条約よりも既成事実を押し通せ」という態度は、国際法にのっとった正当なものと言えるでしょうか。
軍と外務当局との関係については、一致することも異なることもあったでしょうが、ここでは両者ともに既成事実化をはかっています。
軍だけに責任を負わせることはできません。
安奉線が朝鮮半島と満洲を直結するものとして重視されたことはいうまでもないが、日本側は他面では、韓国北東部に隣接し多数の韓国人が居住する間島地方に、領事館及分館を設立して、韓国人に対する領事裁判権を行使することで、日本の勢力を浸透させることを企図していた。そして清国側が容易に実行しないことを予期しながらも、日本の希望を記録しておく意味で、前記「間島ニ関スル協約」に、清国が吉林から間島を経て韓国北部の会寧に達する鉄道を建設する際には、吉長線と同一の弁法によることという一項を押し込んでいる。しかし中国側は辛亥革命後も、一貫してこの吉会線構想を拒否しており、満洲事変以前には交渉が成立する見込みさえも立たなかった。
つまり、日露戦後の対中国政策は、その基礎に、「交渉」によっては解決しえない部分を抱えこむ形で出発しているのであり、この時点においてすでに、中国との平穏な交渉によって、利権の拡張を図ることは不可能になっていたと言える。
ここまであげてきた行為から、相手国の了承などどこ吹く風といった態度があったことは明らかではないでしょうか。
つづいて、中華民国期に入ります。
ところで日本が主導しえなかったこうした〔引用者注:辛亥革命以後の〕経過の中でも、日本の対中国政策のなかに、様々な特徴が蓄積されてくる点に注目しておかなくてはならない。その第一は、中国全体の情勢を制しえないならば、むしろ分裂を促進して日本が操作しうる地域を造りだそうという発想が生まれてきたという点である。たとえば、在清国公使伊集院彦吉は、1911年10月18日の時点で、清朝にもはや中国全土を統治する力はないとして、「中清ト南清ニ尠クトモ独立ノ二ケ国ヲ起シ、而シテ北清ハ現朝廷ヲ以テ之カ統治ヲ継続セシムヘシ」「何レノ途北清ノー角二清朝ヲ存シ、永ク漢人ト対峙セシムルハ帝国ノ為得策ナリト思考ス(10)」 との意見を外相におくり、さらに11月19日になると、清朝の情勢がより困難となりこの三分案の見込みもうすれたとし、第二案として清朝をして「十八省以外満蒙等ノ地域」に国を保持させる、それも駄目で清朝滅亡の際には第三策として新共和国の首都を武昌など中国中央に置かしめ「満蒙ノ地域ヲ遠ク辺外二置キ漸ク閑却セシムル(11)」との意見を具申している。それは親日的地域の確保のための中国分割という発想に行き着くことになろう。さらに翌12年2月になると、いわゆる大陸浪人川島浪速らが、参謀本部や関東都督府と連絡しつつ、北京より脱出させた清朝粛親王を擁し、蒙古の王公らをも参加させて、満蒙独立国を造り出そうとする画策が実際に行われるに至っている。
ここでは、一外交官、一大陸浪人の例しかあげられていませんが、後にみるように、国の分裂を促進させようというのは国の政策となっていくのであり、その萌芽がみられることは留意しておくべきでしょう。また、ここでも軍のかかわりがみられるようです。もちろん、他国を分裂させようというのは、相手の了承を得た、国家間の条約を尊重する態度とは言えないでしょう。
この間〔引用者注:革命後、1910年代前半の中国情勢の混乱〕に付加された対中国政策における第二の特徴として、中国現地において日本軍人が侮辱されたと日本側が解釈した場合には、「原因の如何にかかわらず」、中国側に責任者の処罰と謝罪を行わせて、日本軍の威信を守るという方式が打ち出されてきたことに注目しておかなくてはならない。いわゆる第二革命の 時期に、日本人が被害を受けたとする、漢口・エン州・南京の三事件がおこっている・・・(後略)・・・
漢口事件について、古屋論文に基づき、要約します。
まず、陸軍少尉が中国軍の制止を無視して戒厳地区に進入し、一時抑留されました。
軍からの報告は、「無抵抗の西村少尉らが、理由もなく暴行を受け、軍服をぬがされるなどの侮辱を受けた」というものでしたが、日本の総領事は「これを信用せず、自ら調査して西村らの横暴と暴行について牧野伸顯外相(第一次山本内閣)に報告」しました。しかし、「陸軍中央部は、現地の調査も行わずに、「日本将校凌辱事件」として」、謝罪と賠償と利権を要求し、結果として中国側に処罰・謝罪させたものです。
古屋論文は、このような事例が満洲では蓄積されていたであろうことを指摘し、「このような先例の蓄積は、「日本軍の威信」の確保を第一義とするという条件によって、日本の対中国政策が実質的に拘束されるようになってゆくことを意味していた。そしてその翌年の第一次大戦への参戦は、対中国政策にさらに決定的な影響を及ぼすこととなった」と評価しています。
交渉ごとにおいて、譲歩できないものを必要以上に多くすることは、カードの手札を事前に少なくしているのと同じではないでしょうか。
つづいて、第一次大戦下の部分をみていきましょう。
第一次大戦下で目に付くのは、前述した鉄道付属地経営権や、軍の威信を確保する事件解決方式など、条約面に現れない既得権の高圧的行使や、軍を背景とし、あるいは軍に依拠した陰謀的行動の横行であった。とくに袁世凱が自派による帝政運動を組織し、1916年1月1日帝位について洪憲元年と称したのに対して、反対派が第三革命に立ち上がるという事態に対応して、大隈内閣が反袁運動支援の方針を決定したことは、こうした傾向を著しく促進することになった・・・(中略)・・・この〔引用者注:内閣の〕方針は具体的には「適当ナル機会ヲ俟テ南軍ヲ交戦団体ト承認スルコト」などをあげているが、実際には山東に居座った日本軍(侵攻以来ワシントン会議後 まで7年以上駐留)や、満鉄守備隊を含む関東都督府の現地軍が関与あるいは支援したことが、最も重要であったと見られる・・・(中略)・・・大隈内閣の反袁政策は、結局のところ、現地日本軍と其の周辺の日本人の横暴への反感を広めただけに終わったようにおもわれる・・・(中略)・・・第一次大戦下の日本の対中国政策は、侵略性の膨張として特徴づけることができるが、列強のすべてが参戦し、中国に手を出すいとまがないという条件のもとで、初めて実現したものであり、従って戦争の終結とともに転換を迫られることは必至であった・・・(中略)・・・日本軍は、青島を攻撃・占領する以前に、ドイツ兵に守られているわけでもない中独合弁の私立会社の経営する山東鉄道を占領(26)しているのであり、日本の参戦がたんにドイツの軍事力の打破のみでなく、新たな権益の獲得を目指していることは明らかと見られた。
ここでは、中国の内部分裂を促進させる政策を内閣が採用しています。政治が、権謀術数やパワーゲームというのはその通りなのかも知れませんが、これに対する中国の、その民衆の反発は至極まっとうなものでしょう。ベルサイユ講和会議における中国の要求が退けられたことから、五四運動へとつながります(中国はベルサイユ条約への調印を拒否しました)。周りにいくら根回しをしても、当事者同士に納得が得られなければ物事は進みません。
そして、アジアの国際秩序について話しあわれたワシントン会議では九か国条約が結ばれます。
対中国政策全体は、領土保全・門戸開放・機会均等というアメリカの主張を柱とする九か国条約に規制されることになり、そこには勢力範囲政策を排除することも明文化されていた。
このような流れのなか、詳細は省きますが、古屋論文では、「国際的に通用しなくなって」きた「特殊権益」、「勢力範囲」にかわり、「満蒙治安維持」という、関東軍の謀略による満洲事変につながっていく「政策理念」が出てくるとされます。
しかしそれ〔引用者注:満蒙治安維持〕は、他国の一部を自国の利益に従属させるという点では、勢力範囲と同じことであり、中国との対等の関係を確立するためには、破棄しなければならない要求であった。しかしそのことは、幣原外交においても、ほとんど意識されることはなかったように思われる。
それは幣原外交もまた、国民の対中国意識のあり方に規制されていたということであろうか。第一次大戦中に強められ広められた中国に対する侮蔑を基礎とする優越感は、大正デモクラシーによっても解体されることはなかったし、さらにその基底では、満蒙を20万の将兵の血と20億の巨費であがなわれた明治天皇の遺産とみる天皇制的意識が形成され、大衆を呪縛していたことであろう。現地軍における統帥権の独立と、国内における大衆的中国侮蔑感とは、対中国政策の構造的改造を困難にするものであった。そしてその大衆意識は、満洲事変への共鳴板として鳴りはじめ、状況を一挙に転換させることになるのであった。
ここまでみてきたような、日露戦争から満洲事変にいたる流れをおさえてなお、「相手国の了承を得」た、「条約に基づいた」と表現することが妥当なのでしょうか。ご覧の通り、日本の大陸政策に対する軍の関与は明白ですが、まさか防衛大を卒業された方がこの程度の知識をご存知ないとは思いませんので、あの「論文」の内容とどのように整合性をとられているのか興味深いところです。
さて、このように、一つの論文をみて、「論文」の一部の所説を検討するだけでも結構な手間がかかります。歴史の勉強はそれほど甘くはありません。粗雑な「論」を示して誤りはないと言われても困ります。また、「事実は小説より奇なり」ということもありますし、歴史学においては、「神は細部に宿る」こともあるので、個人の感覚からおかしいと言うだけでは有効な批判にはなりません。また、学問においては、勉強が足りずに事実認識が間違っているのは、明らかに勉強が足りないことに非があります。今は勉強不足で根拠が示せないというのであれば、その主張は根拠がないゆえに認めれらないのです。いつか証明されるのかもしれませんが、そのときが来るまでその主張に強度はありません。
ところで、古屋論文の最後に、「国内における大衆的中国侮蔑感」の問題が出てきました。今もまた、中国に対する偏見は百害あって一利なしであり、中国の実態を虚心にみつめ、評価しなければならない、と私は考えています。
その意味で、中国の民衆運動について、興味深い論文をみつけたので最後に紹介します。
しかし,中国民衆のナショナリズムとは,つねにそうした「暴力」をともなうものとしてしか実現されなかったのであろうか。そこには多くの場合,「暴力」の受け手の側からするバイアスがかかってはいないだろうか。一昨年の,「反日デモ」についての日本のマスコミ報道が,デモの「被害」を強調し,一面的な批判に終始したことも想起される。「歴史」と「現在」を同時に射程に入れねばならない現代史研究者にとって,そして,民衆の運動の対象であったわれわれ外国の研究者にとって,必要なのはこうしたバイアスを克服し,実証的に中国の民衆のナショナリズムの実態を注視することではないか
(江田憲治「民衆運動とナショナリズム―1925年の五・三〇事件を手がかりとして―」『現代中国研究』21、2007年、27-28ページ。http://modernchina.rwx.jp/magazine/21/eda.pdf)
私はこの問題意識に全面的に賛同し、実証的な近現代史の議論が進められることを希望するものです。
またしても、このような長文をお読みになってくださった方に感謝します。
田母神俊雄氏の「論文」が問題になっています。原文は↓からDLできます。
http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf
親切に英訳までしたようです↓。そのおかげか、さっそく海外でも反響を読んでいます↓↓。
http://www.apa.co.jp/book_report/02.html
http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/7702374.stm
http://www.guardian.co.uk/world/2008/oct/31/japan-secondworldwar
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/10/31/AR2008103101475.html
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/10/31/AR2008103100989.html
http://www.nytimes.com/2008/11/01/world/asia/01tokyo.html?_r=1&ref=world&oref=slogin
http://www.thestandard.com.hk/breaking_news_detail.asp?id=8886&icid=4&d_str=20081031
http://www.straitstimes.com/Breaking%2BNews/Asia/Story/STIStory_297008.html
http://www.straitstimes.com/Breaking%2BNews/Asia/Story/STIStory_297257.html
ローズベルト陰謀論が結構とりあげられています。どれだけ「国益」を損ねているのだろう。やれやれと、日本の報道に対するブコメや日記を見てみたら、田母神氏の「論文」の内容に肯定的な人もそれなりにいらっしゃるようです。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081031-00000123-jij-soci
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.asahi.com/politics/update/1031/TKY200810310298.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2008110102000087.html
私も別に現代史に詳しいわけではないです(気の向いたときに、中身が増えてきたCiNiiとGoogle Scholar、各研究機関の学術リポジトリを漁ってみる程度)。しかし、その限られた知識から見ても、問題の「論文」はその形を為してすらいないと思いました。そこで、現在パラパラと集めている関連文献の整理をかねて、「論文」原文に逐一つっこみをいれてみようと思い、エントリを書いてみることにしました。はてな記法で引用した部分は、断りのない限り田母神氏の「論文」からです。原文の全角数字は全て半角に直したことをおことわりしておきます。
アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留している。これをアメリカによる日本侵略とは言わない。二国間で合意された条約に基づいているからである。我が国は戦前中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留も条約に基づいたものであることは意外に知られていない。日本は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。現在の中国政府から「日本の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのである。これに対し、圧力をかけて条約を無理矢理締結させたのだから条約そのものが無効だという人もいるが、昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在したことがない。
駐留を認めることと、「(被害をこうむる方にとっては)侵略(といわれているが田母神氏はそうではないとされる行為)」を認めることは違うでしょう。軍隊に攻めこまれることに了承を与えていたというのは、どのような根拠に基づいているのでしょうか?
「知られていない」ことを明らかにするのが行論の目的ならば、「新事実」(この場合は具体的な条約の内容や運用)を具体的に提示し、典拠となる史料を明らかにするのが論文の作法です。主張の根拠を示すのは、論文のイロハのイです。しかし、残念なことに、この「論文」では全体的に守られていません。関連して、「・・・・・・という人」とありますが、論文で先行研究に言及するときは、注をつけて批判対象を明らかにするルールも守られていません。
この日本軍に対し蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。これは現在日本に存在する米軍の横田基地や横須賀基地などに自衛隊が攻撃を仕掛け、米国軍人及びその家族などを暴行、惨殺するようものであり、とても許容できるものではない。これに対し日本政府は辛抱強く和平を追求するが、その都度蒋介石に裏切られるのである。実は蒋介石はコミンテルンに動かされていた。1936年の第2次国共合作によりコミンテルンの手先である毛沢東共産党のゲリラが国民党内に多数入り込んでいた。コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった。我が国は国民党の度重なる挑発に遂に我慢しきれなくなって1937年8月15日、日本の近衛文麿内閣は「支那軍の暴戻を膺懲し以って南京政府の反省を促す為、今や断乎たる措置をとる」と言う声明を発表した。我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。
スターリンと毛沢東がそれほど仲が良かったとは知りませんでした。コミンテルンにそれほどの影響力があることも知りませんでした。繰り返しますが、オリジナルな主張には、その土台となる史料の裏づけが必要です(「実は??」と書いているのですから、普通は知らない新しいことなのですよね?)。大事なことなので強調します。「新しいことを主張するためには、根拠を示さなければならない」、これは学問の基本です。
1928 年の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言われてきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日本軍がやったとは断定できなくなった。「マオ(誰も知らなかった毛沢東)(ユン・チアン、講談社)」、「黄文雄の大東亜戦争肯定論( 黄文雄、ワック出版)」及び「日本よ、「歴史力」を磨け(櫻井よしこ編、文藝春秋)」などによると、最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている。日中戦争の開始直前の1937年7月7日の廬溝橋事件についても、これまで日本の中国侵略の証みたいに言われてきた。しかし今では、東京裁判の最中に中国共産党の劉少奇が西側の記者との記者会見で「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党で、現地指揮官はこの俺だった」と証言していたことがわかっている「大東亜解放戦争(岩間弘、岩間書店)」。もし日本が侵略国家であったというのならば、当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない。
ようやく文献をあげられましたが、刊行年と該当ページも明示するのが一般的な論文のルールですよね。それは百歩譲るとしても、示された著者のなかに査読つき学術雑誌に報告された方が一人もいらっしゃらない。これは信憑性をさらに落とすものではないでしょうか。また、人の発言を引くのであれば、それが掲載された媒体を明示するのもきほんのきですよね。
張作霖爆殺をコミンテルンの仕業とする説に対しては、特に『マオ』について、中国現代史研究者から根拠に疑義が出されています。
「関東軍高級参謀河本大作らがこの事件を企画し実行した固い事実を、この程度の「スパイ情報」で覆せるものか」(矢吹晋「書評『マオ―誰も知らなかった毛沢東』」『中国情報源』21世紀中国総研編、蒼蒼社、2006年、225ページ。http://www25.big.jp/~yabuki/2006/mao-rev.pdf)。
盧溝橋事件についても、「計画」説に対する批判的研究が出ているようです。
「日本の一部の論者が唱える「中国共産党計画」説と,中国側の唱える「日本軍計画」説がともに誤りであり,盧溝橋事件が日中双方にとって「偶発」的なものであったとする」(加藤陽子「書評 安井三吉著『柳条湖事件から盧溝橋事件へ―1930年華北をめぐる日中の対抗―』」『アジア経済』45(9)、2004年、65ページ。http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/7473/1/kato45_09.pdf)。
最後に、既にたくさんのつっこみがブコメで入っていますが、みんながやっていることだからといって、行為に対する責任がなくなることはないでしょう。
我が国は満州も朝鮮半島も台湾も日本本土と同じように開発しようとした。当時列強といわれる国の中で植民地の内地化を図ろうとした国は日本のみである。我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な植民地統治をしたのである。満州帝國は、成立当初の1932 年1 月には3 千万人の人口であったが、毎年100 万人以上も人口が増え続け、1945 年の終戦時には5 千万人に増加していたのである。満州の人口は何故爆発的に増えたのか。それは満州が豊かで治安が良かったからである。侵略といわれるような行為が行われるところに人が集まるわけがない。農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野は、わずか15年の間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。朝鮮半島も日本統治下の35年間で1千3百万人の人口が2千5百万人と約2倍に増えている「朝鮮総督府統計年鑑」。日本統治下の朝鮮も豊かで治安が良かった証拠である。戦後の日本においては、満州や朝鮮
半島の平和な暮らしが、日本軍によって破壊されたかのように言われている。しかし実際には日本政府と日本軍の努力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、また生活水準も格段に向上したのである。
「同じように開発」と主張するには、開発の指標を定め、比較する必要があります。共通の比較の基準が示されていません。データもです。内地、満洲、朝鮮、台湾、他の植民地宗主国本国、その国の植民地それぞれについて、共通の尺度ではからないと比較にならないのではないでしょうか。それをせずに外形が拡大したと言うだけでは、中国の「共産党政権はチベットを・・・・・・」に反論できなくなってしまいます。
「内地化」も定義を明確にして使うべき用語ですね。
また、現実にも、「帝国日本の植民地支配の歴史には,「外地」を法制的・政治的には明白に異域に置きながら、イデオロギー的には「内地化」を標榜するという,理念と現実の「二重性」がその当初からつきまとっていた」(山本有造「植民地統治における「同化主義」の構造」『人文学報(京都大学人文科学研究所)』83、2000年、70ページ。http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/48550/1/83_57.pdf)、「「満洲国」の掲げた「五族協和」にしろ「王道楽土」にしろ,関東軍による露骨な軍事支配を隠蔽するイデオロギーという以上の意味を持ちえなくなる」(山室信一「「満洲国」の法と政治―序説」『人文学報(京都大学人文科学研究所)』68、1991年、150ページ。http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/48355/1/68_129.pdf)といわれる植民地統治を、「極めて穏健」と評価するにもまた、基準とデータの比較が必要です。
また、人口の増加は支配の善さを担保しません(チベット・・・・・・)。
我が国は満州や朝鮮半島や台湾に学校を多く造り現地人の教育に力を入れた。道路、発電所、水道など生活のインフラも数多く残している。また1924年には朝鮮に京城帝国大学、1928年には台湾に台北帝国大学を設立した。日本政府は明治維新以降9つの帝国大学を設立したが、京城帝国大学は6番目、台北帝国大学は7番目に造られた。その後8番目が1931年の大阪帝国大学、9番目が1939 年の名古屋帝国大学という順である。なんと日本政府は大阪や名古屋よりも先に朝鮮や台湾に帝国大学を造っているのだ。また日本政府は朝鮮人も中国人も陸軍士官学校への入校を認めた。戦後マニラの軍事裁判で死刑になった朝鮮出身の洪思翊という陸軍中将がいる。この人は陸軍士官学校26期生で、硫黄島で勇名をはせた栗林忠道中将と同期生である。朝鮮名のままで帝国陸軍の中将に栄進した人である。またその1期後輩には金錫源大佐がいる。日中戦争の時、中国で大隊長であった。日本兵約1千名を率いて何百年も虐められ続けた元宗主国の中国軍を蹴散らした。その軍功著しいことにより天皇陛下の金賜勲章を頂いている。もちろん創氏改名などしていない。中国では蒋介石も日本の陸軍士官学校を卒業し新潟の高田の連隊で隊付き教育を受けている。1期後輩で蒋介石の参謀で何応欽もいる。
前の段落と同様に、「多く」の中身が不明確に過ぎ、検証のしようがありません。また、植民地が宗主国の支配の下で「植民地近代」化したのはその通りだと思います(松本武祝「’’朝鮮における「植民地近代」’’に関する近年の研究動向」『アジア経済』43(9)、2002年、31-45ページ。http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Ajia/pdf/2002_09/note.pdf)。私はこの辺り特に勉強不足です。各国の軍制についても同じくよく知らないので飛ばします。
孫文をはじめ、アジア各地の革命家が日本に集まったことは特に新しい論点ではないでしょう。ファン・ボイ・チャウの失望も有名な話ですね(白石昌也「ファン・ボイ・チャウと日本」『東南アジア史学会会報』25、1975年、1-3ページ。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0004923536)。
李王朝の最後の殿下である李垠殿下も陸軍士官学校の29期の卒業生である。李垠殿下は日本に対する人質のような形で10歳の時に日本に来られることになった。しかし日本政府は殿下を王族として丁重に遇し、殿下は学習院で学んだあと陸軍士官学校をご卒業になった。陸軍では陸軍中将に栄進されご活躍された。この李垠殿下のお妃となられたのが日本の梨本宮方子妃殿下である。この方は昭和天皇のお妃候補であった高貴なお方である。もし日本政府が李王朝を潰すつもりならこのような高貴な方を李垠殿下のもとに嫁がせることはなかったであろう。因みに宮内省はお二人のために1930年に新居を建設した。現在の赤坂プリンスホテル別館である。また清朝最後の皇帝また満州帝国皇帝であった溥儀殿下の弟君である溥傑殿下のもとに嫁がれたのは、日本の華族嵯峨家の嵯峨浩妃殿下である。
旧領主の家系の存続という意味であれば、インドの藩王たちも手厚く身分を保証されていましたね。ベトナムのバオ・ダイもフランスのグランゼコールで教育を受けていましたね(英国人とインド人の婚姻には宗教問題がありますし、バオ・ダイ渡仏時のフランスは共和制だから王室はないですし、この段落については適切な比較が可能な問題設定なのか疑問です。個人的にはそもそも宗主国の王室を嫁がせることが恩恵という考え方がどうなんだろうと思います)。
これを当時の列強といわれる国々との比較で考えてみると日本の満州や朝鮮や台湾に対する思い入れは、列強の植民地統治とは全く違っていることに気がつくであろう。イギリスがインドを占領したがインド人のために教育を与えることはなかった。インド人をイギリスの士官学校に入れることもなかった。もちろんイギリスの王室からインドに嫁がせることなど考えられない。これはオランダ、フランス、アメリカなどの国々でも同じことである。一方日本は第2次大戦前から5族協和を唱え、大和、朝鮮、漢、満州、蒙古の各民族が入り交じって仲良く暮らすことを夢に描いていた。人種差別が当然と考えられていた当時にあって画期的なことである。第1次大戦後のパリ講和会議において、日本が人種差別撤廃を条約に書き込むことを主張した際、イギリスやアメリカから一笑に付されたのである。現在の世界を見れば当時日本が主張していたとおりの世界になっている。
ロイヤルファミリーの婚姻の件で共和制のアメリカを並べているのは不適切でしょう。既に述べましたがフランスも時代によって共和制です。
エルフィンストーン・カレッジ(1856年設立、現在はムンバイ大に)、カルカッタ大学、マドラス大学(1857年設立)というように、大英帝国は植民地支配の拠点に大学その他の教育機関を設立していますね。
http://en.wikipedia.org/wiki/Elphinstone_College
http://en.wikipedia.org/wiki/University_of_Calcutta
http://en.wikipedia.org/wiki/University_of_Madras
「五族協和」が実態をともなわなかったことについては、前掲山本論文および山室論文を参照。
人種差別撤廃についてはよい提案をしたということに同意いたします。ただし、繰り返しますが、現実の施策がともなわなかったことについては残念です。
時間は遡るが、清国は1900 年の義和団事件の事後処理を迫られ1901 年に我が国を含む11ヵ国との間で義和団最終議定書を締結した。その結果として我が国は清国に駐兵権を獲得し当初2600名の兵を置いた「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会) 」。また1915 年には袁世凱政府との4ヶ月にわたる交渉の末、中国の言い分も入れて、いわゆる対華21箇条の要求について合意した。これを日本の中国侵略の始まりとか言う人がいるが、この要求が、列強の植民地支配が一般的な当時の国際常識に照らして、それほどおかしなものとは思わない。中国も一度は完全に承諾し批准した。しかし4 年後の1919年、パリ講和会議に列席を許された中国が、アメリカの後押しで対華21箇条の要求に対する不満を述べることになる。それでもイギリスやフランスなどは日本の言い分を支持してくれたのである「日本史から見た日本人・昭和編( 渡部昇一、祥伝社)」。また我が国は蒋介石国民党
との間でも合意を得ずして軍を進めたことはない。常に中国側の承認の下に軍を進めている。1901年から置かれることになった北京の日本軍は、36 年後の廬溝橋事件の時でさえ5600 名にしかなっていない「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会) 」。このとき北京周辺には数十万の国民党軍が展開しており、形の上でも侵略にはほど遠い。幣原喜重郎外務大臣に象徴される対中融和外交こそが我が国の基本方針であり、それは今も昔も変わらない。
今回は表現からつっこんでみます。「完全に承諾」というように形容詞修飾をするときには、それが表す具体的な内容を補足して、互いの印象の差を埋める努力をすべきというのが、私の受けた指導です。どうしたら「完全に承諾」したことになるのでしょうか。一番肝心な相手に過大な要求をつきつけ、排日運動を燃えあがらせて宥和に失敗したのは外交の失敗であり、恨み言をつぶやいてもごまかすことはできません。
日中戦争については、派兵前の人員の少なさを根拠に「形の上でも侵略にはほど遠い」と主張するのは無理筋にみえます。
(再々追記)また字数超過?で切れたので、つづきへ (さらに追記)補足エントリをTBしました。 (また追記)補遺エントリをTBしました(11/5)。