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2017-05-19

朴 泳孝(ぼく えいこう、박영효(パク ヨンヒョ)、1861年7月19日 - 1939年9月20日)は、李氏朝鮮末期から大韓帝国期の政治家で、日本統治時代朝鮮における貴族実業家日本名山崎 永春。

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1 生涯

2 家族

3 その他

4 登場するテレビドラマ

5 脚注

6 出典

7 関連文献

生涯[編集]

判書大監朴元陽の子として京畿道水原生まれる。金玉均らと共に開化党(独立党)を結党した。光緒5年(1879年)、金玉均らと共に李東仁を日本に密出国させ、日本の情勢を探らせた。福澤諭吉支援を受け、光緒8年(1882年)、壬午政変(壬午軍乱)の謝罪のために派遣された謝罪使(副使は金晩植と金玉均であった[1])として日本に向かう船上で、現在大韓民国国旗である太極旗デザインを考案したとされる。朴泳孝が日本派遣された4ヶ月間のことを記した日記『使和記略』によると、8月9日仁川から日本船籍明治丸に乗り日本へと向かった朴泳孝らは、船内でイギリス領事アストンイギリス人船長ジェームスにそれまで国旗として提案されていた八卦太極文様を描いた古太極図を見せて国旗について相談したところ、船長八卦が複雑で区別しにくく他国がこれを見て作るのに不便であると述べたため、四卦を削り、残りの四卦を45°傾けて四隅に配した図案が提案され、大・中・小3本の太極旗が作られたという。8月14日神戸に到着した一行は宿泊した西村屋にはじめて太極旗を掲げ、8月22日太極旗小本とともに国旗制定を本国に報告したという。

帰国後は漢城判尹となり、開化政策を進めるが守旧派事大党)の反対に遭って挫折さらに光緒10年(1884年)12月にはクーデター閔妃から政権奪還を図ったが失敗(甲申政変)、日本郵船の「千歳丸」で日本亡命慶應義塾に隣接していた福沢邸に寄食し、転じて神戸に居を構えた。

光緒20年(1894年)に甲午改革が始まると、帰国して内務大臣となり、改革の中心的な役割を果たすが、開国504年(1895年)に謀反の疑いをかけられ、再び日本亡命した。その後光武11年(1907年)に再度韓国に戻り、李完用内閣宮内大臣となったが、大臣暗殺陰謀の疑いで済州島流刑処分とされた。

隆熙4年(1910年)の韓国併合後には侯爵朝鮮貴族)となり、朝鮮貴族会長1911年)、朝鮮銀行理事1918年)、朝鮮経済会長1919年)、朝鮮維民会会長1919年)、東亜日報社初代社長1920年)、朝鮮人産業大会会長1921年)、朝鮮倶楽部の発起人(1921年11月)、京城紡績社初代社長朝鮮殖産銀行理事朝鮮総督府中枢院顧問1921年)[2]、東光会朝鮮支部初代会長1922年)、貴族院議員1932年)など、日本統治下の朝鮮における要職歴任した。昭和10年(1935年)、 朝鮮総督府編纂した"朝鮮功労者名鑑"に朝鮮人功労者353人のうちの一人に収録されている。

竹添 進一郎(たけぞえ しんいちろう、1842年4月25日天保13年3月15日) - 1917年大正6年)3月31日)[1]は、日本外交官漢学者。名は漸、字は光鴻(こうこう、みつあき)、号は井井(せいせい)と称した[2]。 甲申政変時の朝鮮弁理公使であり、後に漢学者として活躍した。日本学士院賞受賞。熊本県近代文化功労者[3]。

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1 来歴

2 主な著作

3 栄典

4 脚注

5 参考文献

来歴[編集]

肥後国天草(現・熊本県上天草市大矢野町)生まれ。父である小田左衛門(竹添筍園)は、肥前国島原出身医者で、天草大矢野島に移り住み、上八幡宮宮司二上出雲の娘である美加と結婚した[3]。順左衛門儒学者広瀬淡窓門下十八傑の一人でもあり、進一郎が幼い頃より儒学を教えた[1]。

1855年(安政2年)15才の時、天草より熊本に出て儒学者木下韡村の門下生となった。学業は極めて優秀で、木下門下では、井上毅木村弦雄と三才子と称され、さらに古荘嘉門を加えて四天王といわれる[3]。藩校時習館の居寮生となり、木下のはからいで士分に取り立てられ、藩命により京都江戸奥州を訪れる。江戸では勝海舟の知遇を得る[1]。

1871年(明治4年)、廃藩置県で失職し熊本市玉名市私塾を営んだ後、1875年明治8年)に上京する[3]。勝海舟の紹介で森有礼全権公使随行し、清国へ渡った。同郷の津田静一と共に清国を旅し「桟雲峡雨日記」を記した[1]。天津領事北京公使館書記官などを経て、1882年明治15年)、花房義質の後任として朝鮮弁理公使となるが、甲申政変に深く関わり辞任した[4]。

1893年明治26年)、東京帝国大学教授就任漢文学を講じた[1]。退官後、小田原暮らし、76才で没した。1914年大正3年)、日本学士院賞受賞(第4回)。文学博士従三位勲三等。熊本県近代文化功労者。次女の須磨子は、講道館柔道創始者である嘉納治五郎結婚した。媒酌人は、木下韡村の次男で後に京都帝国大学総長となった木下広次が務めている[1]。

朝鮮朝鮮王朝(李朝)の高宗31(1894)年に起こった反侵略,反封建の農民戦争東学党の乱ともいう。高宗1年,東学1世教主崔済愚が,邪教を広めたとして処刑された。第2世教主崔時亨は東学公認を求め,同 29年以降「教祖伸寃」の請願教徒大衆行動でしばしば行なった。しかし「教祖伸寃」という宗教的訴えは,かえって狡猾な地方官に農民収奪の口実を与えることになった。そこで農民たちの運動は貪官汚吏の処分など政治的要求へと変わっていった。反乱は同 312月全羅道古阜郡の民乱を契機にして始まり,一応の成果を得て解散した。その後政府派遣の按覈使(あんかくし)の不法弾圧激怒した全琫準は,全羅各地に呼びかけ,5月古阜,泰仁で本格的な闘争に立ち上がった。全羅各地で蜂起した農民軍は白山に集結,大多数が農民東学徒は少なく,指導者東学接主であった。全琫準ら指導者は,農民軍を軍隊式に編成,四大綱領を発表し,反封建,反侵略を訴えて広範な農民層の支持を得た。農民軍は黄土峴,長城で政府軍撃破し全州を占領した。閔氏政権はこれに驚き清国出兵要請する一方,農民軍の弊政改革案を受け入れた。全州和約後,農民軍の大半は解散したが,全羅道 53郡に農民軍の自治機関である執綱所が設置され,実質上の政権機関として機能した。日清戦争が起こるとまもなく,全琫準ら農民軍は再起したが,日本軍政府軍の圧倒的な軍事力の前に敗北した。

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デジタル大辞泉解説

うご‐のうみんせんそう〔カフゴノウミンセンサウ〕【甲午農民戦争

1894年朝鮮李朝末に起こった東学信徒を中心とした農民の反乱。鎮圧のため李朝政府清国派兵要請日本出兵して乱は鎮圧されたが、日清戦争を誘発する結果を招いた。東学党(とうがくとう)の乱。

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百科事典マイペディア解説

甲午農民戦争【こうごのうみんせんそう】

李朝末期の1894年(甲午の年)に朝鮮南部で起こった農民反乱。圧政に苦しむ農民の間に広まった民衆宗教東学〉は1890年代には活動公然化させるが,全羅道古阜で全【ほう】準(ぜんほうじゅん)に率いられた農民たちが同年2月郡庁を襲撃し,5月以降全羅道一帯に及ぶ蜂起に発展,閔(びん)氏政権の打倒と日本人駆逐をかかげて各地を転戦した。

→関連項目大院君|李朝朝鮮

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世界大百科事典 第2版の解説

うごのうみんせんそう【甲午農民戦争

1894年(甲午の年)に朝鮮南部でおこった農民反乱。李朝末期の朝鮮では封建的収奪に反対する民乱が続発し,とりわけ南部地方開港後の外来資本主義との接触によって矛盾が激化していた。圧政に苦しむ農民の間に広まった東学は,1890年代に入ると活動公然化するようになった。こうした情勢のもとで,94年2月全羅道古阜の農民は,規定外の税をとるなど暴政を行った郡守趙秉甲(ちようへいこう)に抗議し,全琫準を指導者として郡庁を襲撃した。

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大辞林 第三版の解説

うごのうみんせんそう【甲午農民戦争

朝鮮1894年(甲午の年)東学信徒が主導した農民戦争地方官の悪政に反対した全羅道農民が蜂起したのに始まる。朝鮮王政府鎮圧のため清しんに出兵を求め、清に対抗して日本出兵日清戦争の契機となった。東学党の乱。 → 東学

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

甲午農民戦争

うごのうみんせんそう

1894年(甲午の年)に起こった朝鮮の歴史もっとも大規模な農民蜂起(ほうき)。この戦争きっかけとして、中国、清(しん)の勢力排除朝鮮支配することをねらっていた日本政府は、公使館警護と在留邦人保護名目大軍を繰り出し、日清戦争引き起こした。

 当時、朝鮮民衆は、朝鮮政府財政危機を取り繕うための重税政策官僚たちの間での賄賂(わいろ)と不正収奪の横行、日本人の米の買占めによる米価騰貴などに苦しんでいた。それにまた、1890年代の初めには干魃(かんばつ)が続いて未曽有(みぞう)の飢饉(ききん)に悩まされていた。これに耐えかねた農民たちが、日本への米の流出の防止、腐敗した官吏罷免租税減免要求して立ち上がったのがこの戦争の始まりである指導者には、急速に教勢を拡大していた民衆宗教である東学教団の幹部であった全準(ぜんほうじゅん)や金開南らが選ばれた。そのため東学党の乱とよばれたこともあった。5月初め、全羅道古阜(こふ)郡で結成された農民軍は、全羅道配備されていた地方軍や中央から派遣された政府軍を各地で破り、5月末には道都全州を占領した。農民軍の入京を恐れた朝鮮政府清国に援軍を出してほしいと要請した。ところが、ここで予期しないことが起きた。清軍の到着と同時に日本軍が大挙して朝鮮侵入してきたのである朝鮮政府は急遽(きゅうきょ)方針を変更して農民軍と講和交渉を行い、農民たちの要求をほぼ全面的に受け入れることで停戦した(全州和約、6月10日)。

 全羅道の各郡には執綱(しっこう)所という機関が設けられ、農民たちの手による改革が始まった。農民戦争はこれで終わったかみえた。ところが、朝鮮上陸した日清両軍は、朝鮮政府のたび重なる要請にもかかわらず撤退しようとしなかった。それどころか、日本政府朝鮮の内政改革を求め、朝鮮政府にこれが拒否されるや、1894年7月23日王宮占領し、親日政府組織させた。

 清国がこうした日本の行動を批判したのを好機として始められたのが日清戦争である日本政府日清戦争と併行して朝鮮植民地化する政策を推し進めた。この日本勢力を追い出すため、朝鮮農民たちは10月かばになって再決起した。全準たちは東学組織を使って各地の蜂起を統一したものにしようとした。このとき立ち上がった農民20万人を超えたといわれる。日本軍朝鮮政府軍相手にして農民軍はよく闘った。しかし、日本軍の圧倒的な火力の前になすすべはなかった。翌年1月農民軍は壊滅し、全準は3月末、ソウル処刑された。[馬渕貞利]

[参照項目] | 日清戦争

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世界大百科事典内の甲午農民戦争言及

【崔時亨】より

92から翌年にかけて東学合法化をめざす教祖伸冤運動を展開。94年の甲午農民戦争では,東学本来非暴力的な教化主義立場から武力蜂起に消極的で,全琫準らの主戦論対立したが,のちに農民軍への合流を教徒に指示した。農民軍の敗北後,98年に江原道原州で逮捕され,ソウル処刑された。…

朝鮮】より

しかし,金玉均ら開化派が政権奪取をめざした甲申政変(1884)は内外の困難を克服しえずに挫折を強いられた。一方,民衆の反封建・反侵略変革運動は,壬午の軍人反乱(壬午軍乱,1882)を先駆として,甲午農民戦争(1894)に大きく花開いていく。甲午農民戦争こそ朝鮮社会近代への移行の決定的転換点となる可能性をはらんでいたのだが,日本侵略意図に立つ軍事力行使がこの可能性を破壊してしまったのである。…

日清戦争】より

… 朝鮮では王妃一族閔(びん)氏を中心とする親清派と国王の生父大院君派および金玉均独立派(開化派)が抗争しており,政治は乱れ,官吏不正日本商人の買占めで民衆の不満は高まっていた。1894年春,民間宗教東学を奉ずる農民分散した民衆の不満を結びつけ,朝鮮南部を中心に汚職官吏の掃滅と外国人排除を求める大規模な反乱を起こし,5月には各地で官軍が敗北するという重大な事態となった(甲午農民戦争)。朝鮮政府日本亡命中の金玉均らが農民反乱に呼応することをおそれ,上海に誘い出して暗殺した。…

※「甲午農民戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています

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2015-06-03

戦前

自分が生まれた時から存在するものは、過去もずっと同じであったと人間は思いがちだ。

その一つに、「平和」がある。ピンフじゃ無いぞ、ピースだ。

ニュースを見聞きしていれば薄々感じてると思うが、現状は薄氷の上を歩くが如く、危うい状態にある。

戦争ってのは、そう特殊なことじゃないし、わりと簡単に日常生活の延長線上に起こりうる。

そして、現在の緊迫した状況を理解しておくことは、個人にとっても悪いことじゃない。

それを理解した上で、どう行動するかは、それぞれの信念によると思う。

韓国北朝鮮は、今も戦争状態にある

大韓民国韓国)」と「朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)」は停戦状態で、まだ終戦していない。

それぞれ「国」の設立に、アメリカ合衆国ソビエト連邦とが強く関与しており、

いわば、この二国間は、未だ第二次世界大戦から直結した冷戦状態にある。

朝鮮半島歴史を簡単に振り返る

まず最後王朝李氏朝鮮から

朝鮮半島を支配していた「李氏朝鮮朝鮮王朝)」から始める。

李氏朝鮮」は、13世紀から19世紀まで中国冊封国家として朝鮮半島統一していた。

16世紀豊臣秀吉が侵攻したのがこの李氏朝鮮で、一時的に国土の大半を征服されている。

(つまり朝鮮征服成功しており、事実上中国(明)との戦争であったと言われている)

まあ、歴史の通り豊臣秀吉は死に明は押し返し、19世紀まで李氏朝鮮は存続している。

甲申政変

李氏朝鮮は、中国冊封国家、つまり中国寄り」の国だ。

しかし、お隣の国である日本は、明治時代を迎え近代国家として発展していた。

李氏朝鮮近代化を目指す一派が、日本に頼りクーデターを企んだ。コレが1884年の甲申政変だ。

時の政権は「中国(清)」に助けを求め、クーデター側は「日本」を頼り、代理戦争が勃発。

結局、双方割にあわないと気が付き、「天津条約」が結ばれ手打ちとなった。

(ちなみに、クーデター首謀者一派はかなり悲惨な結末を迎えている)

東学農民運動東学党の乱)

東学党の乱をおおざっぱにいえば、農民による革命だ。

李氏朝鮮の「政府」と「農民」との内乱だ。

そして「天津条約」に則って、日清両軍が内乱鎮圧を行った。

ここで、内乱が鎮圧された後、中国(清)が「日本けが撤兵せよ」とツッパった。

政府内でクーデターも置きてしまい、朝鮮政府日本に「清を追い出してくれ」と依頼する。

そして、「日清戦争」が勃発。日本中国(清)に勝った。

大韓帝国

日本に清を追い出してくれと頼み、日清戦争日本が勝った。

まり、「李氏朝鮮」は、中国(清)の冊封国から離脱したわけだ。

これが、1897年の「李氏朝鮮から大韓帝国」への国号変更(独立である

まあ頼られたわけだし、と、当然のように日本は「大韓帝国」に干渉し始める。

日露戦争から日韓併合

日露戦争時代に、日本は「大韓帝国」にゴリゴリに干渉する。

これに「大韓帝国」は、危機を感じ、李承晩(イ・スンマン)をアメリカ派遣する。

アメリカに頼って、日本排除しようとしたわけだ。これは失敗する。

そして、1910年日韓併合条約」により統治権を日本に握られる。

朝鮮国家歴史は一旦幕を閉じることになる。

第二次世界大戦で、日本は負けた

朝鮮半島を実質支配していた日本戦争で負けた。

勝った国は、その土地を分け合おうとする。

ここで、戦勝国であるソビエト連邦」と「アメリカ合衆国」が現れる。

北緯38度線の北をソビエトが、南をアメリカ占領した。

そして、両超大国は、それぞれ「代理国家」を立てる。

北のソビエトが「金日成」の「朝鮮民主主義人民共和国」を、

南のアメリカが「李承晩」の「大韓民国」を作った。

1948年の事だ。

ソビエト金日成

金日成(キム・イルソン)は、中国共産党出身だ。

筋金入りの抗日パルチザン活動家で、その流れでソ連軍の一員として行動していた。

そして、ソ連当局支援を受けて、北朝鮮指導者としての地位確立した。

言ってみれば北朝鮮とは、正当なスターリンソ連の落とし子であり、中国共産党シンパである

まり共産主義国家だ。

アメリカ李承晩

李承晩(イ・スンマン)は、「大韓帝国時代アメリカに頼ろうとした調整役だ。

それは失敗したが、そのままアメリカハーバード修士を、プリンストン政治学博士号を取得している。

そして、アメリカ当局支援を受けて、大韓民国の初代大統領となった。

言ってみれば韓国とは、アメリカの援助で復活した「大韓帝国である

まり反共主義国家だ。

朝鮮戦争という全面戦争

イ・スンマンは、韓国大統領で、筋金入りの反日主義者だ。

そして、「連合国であることを望んだ。「戦勝国」の一員でありたかった。

対馬領有の宣言は、1949年に行われている。対馬竹島日本領から除外すべく、アメリカ政府執拗要求していた。

アメリカ政府は、共産主義国家が朝鮮半島占領するのは良しとしなかったが、正直日本で手一杯だった。

1950年アメリカ国務長官が「アメリカは、フィリピン沖縄アリューシャン列島しか責任を持たない」と宣言した。(アチソンライン

ここで、キム・イルソンは、アメリカ朝鮮半島を重視していないと踏んで、朝鮮戦争に踏み切った。(当然ソ連スターリン中国毛沢東に周到に根回してだ)

北朝鮮が、韓国に奇襲を掛ける形で進軍を開始した。

ソ連中国バックアップのある北朝鮮軍は、実に強かった。

大韓民国軍は総崩れとなり、ほぼ北朝鮮は、韓国占領しかかった。

ただ、結局のところアメリカ国連)軍は、一気に押し返し、北朝鮮をほぼ制圧した。

当然ソ連面白く無いので、中国をせっついて、やり返す。

事実上ソ連中国)とアメリカとの代理戦争だった。

もはや第3次世界大戦まで秒読みの段階だ。

ただ、軍を指揮していたマッカーサー暴走(原爆を落とす気だった)した結果として軍から追放されたこと、

ソ連を率いていたスターリンが死去したことで、状況が大きく動いた。3年に及ぶ戦争は、一旦休戦することになる。

(休戦なので、未だ戦争は終わっていない)

北朝鮮という時限爆弾

朝鮮戦争後も、北朝鮮社会主義国から支援を受け、基本的韓国よりも常に優位に立っていた。

キム・イルソンが中国共産党出身であり、ソ連にも大きなコネがあることが全ての力の源泉だった。

しかし、ソビエト連邦崩壊する。大きな後ろ盾を失い、経済的な援助が打ち切られた。

そして、キム・イルソンが死去し、コネクションを失い、世界から孤立する。

その結果が、大規模な経済困窮と、それに伴う飢餓だ。

後を継いだのが、金正日キム・ジョンイル)だ。

ソ連の援助は打ち切られたとはいえ、軍事国家は、軍事物事を解決しようとする。

そして、そのキム・イルソンも死去し、金 正恩(キム・ジョンウン)が国家を継いだ。

売り家と唐様で書く三代目と良く言われるが、親の遺産はその子供まではなんとか保っても、孫の代には残らない事が多い。

北朝鮮は、いままさに三代目だ。いつ崩壊してもおかしくはない。良く保っていると言える。

字通りの意味で、戦争はまだ終わっていない

朝鮮戦争は、未だ終結していない。

第二次世界大戦ソ連アメリカ朝鮮半島の取り分を巡ってそれぞれ国家を建てたことで発生し、

代理戦争としてはまれに見る規模で地上戦が展開され、冷戦時代には相当の緊張を強い、ソ連崩壊バランスが崩れた。

まり、今の緊張は、第二次世界大戦の後始末なのだ

その中で、我々はどうあるべきか

韓国は、有り体に言えば反日イ・スンマンの意思を継ぐ、アメリカ属国だ。

ただ、真の独立をずっと願っているし、南北統一を夢見てもいる。

北朝鮮は、スターリン独裁共産主義国家であり、ゴリゴリ軍事国家だ。

そもそも、国として存在するために、常に周囲を牽制し続ける必要がある。

韓国アメリカ軍事的同盟を結んでいるし、日本アメリカとは事実上軍事同盟を結んでいる。

そして、北朝鮮が発作的に何かを始めた場合、まず間違いなく最初韓国が標的になる。

軍靴の音が聞こえる」等とのんきなことを言えるのは、「平和」があると思い込んでいるからだ。

38度線非武装中立地帯の北にも南にも、軍隊が常に靴を鳴らして警戒している。

軍靴の音が「聞こえなくなった」と感じ始めていることが、真の危機だ。

戦争は、もうすぐそこに見えている、現実的な脅威だ。

目を逸らしても、北朝鮮はまだそこにいる。

(追記:判り難いとのブコメもっともなので、時系列で整理しなおした。

 南沙諸島南シナ海と若干日本から遠く「中国」は政治的にまだ致命的では無いので触れていない)

 
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