はてなキーワード: 唱歌とは
先程ふと、たんたんたぬきの金玉は風も無いのにぶーらぶら♪が、歌詞の馬鹿馬鹿しさに対して曲が美しすぎると気が付いた。
アホの坂田の歌のように、立派な元曲が存在している可能性がある。
そこで検索してみるとやはりあった。
神の御許の美しい川でまた会いましょうと、葬式で流れる歌らしい。
結構メジャーな聖歌だったらしく、西部劇映画でも多く使用されている。
https://youtu.be/Dt_90xWsVXU?si=aot_-0VY1pZC4-VM
しかし聞いてみたらたぬきの金玉と曲が違うところも有り、たぬきの金玉程のリズムの良さは無い。
こんな真面目な聖歌を聞いて、いきなりたぬきの金玉へと替え歌にしたのも少し不自然に感じる。
まず1891(明治24)「あなおもしろ」として「国民唱歌集」(小山作之助編)におさめられた。
ここで歌詞も楽譜も書き換えられ跳ねるような曲、少年向けの歌に変化している。
花を散らさぬほどにふれ
あなおもしろの弓矢の道や
文武を忘れぬほどに好け」
1937年(昭和12年)には、替え歌の「タバコやの娘」(作詞:園ひさし、作曲:鈴木静一)が、岸井明と平井英子の歌で大ヒット。
https://youtu.be/eXb6PW4zc2E?si=zKFYIdw-OiQs0tzf
たんたんたぬきの金玉はこの頃に歌われ始めているようだ、多分たばこ屋の娘の影響が色濃いのだろうが、曲が微妙に違い、聖歌からの影響も感じられる。
そして、変化が繰り返されリズムが良くなった曲は、鉄火焼せんべい、ビックカメラ、カメラのナニワ、アースゴキブリホウ酸団子、コンクゴキンジャム等々多くのCMで替え歌が利用されている。
英語のspotty(adj. 斑の。斑入りの。斑点のある[3])[1]
フランス語のpetit(adj. 小さい[5])
仁科邦男は、英語のpatch(n. 斑点[6])に由来すると唱える。
チェコ語のpojd' (v. (こちらへ)来い)jit(≒go)の二人称単数に対する命令形※不規則変化[7][8]
米川明彦によると、文献初出は小学校国語科教科書『讀書入門』[9]である。小学校教科書や唱歌に登場することにより、1900年代初頭には一般化したと考えられる[10]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%81_(%E7%8A%AC%E3%81%AE%E5%90%8D%E5%89%8D)
見聞きした言葉でこれ使えるなと思ったのを日々notepad.exeで追加してる。
たとえば丁々発止なんて言葉もfanzaあたりで検索するとエロいのが出る雰囲気を俺は感じるのでそういうのを記録している。
あるいは「小力(こぢから)」みたいな言葉はあまり使われていないように感じるが、ただでさえそんな言葉がもし漫画で使われているとしたら、その言葉が含まれるその紹介文の該当箇所はどういうことを言ったものなのだろう、そしてそれはどういう漫画だろう、ということが気になるので、そういう言葉も集めてる。この場合たとえば最近も「大串」と調べたら、「巨大串」という形で使われていたという意外な発見もあて面白い。
以下リスト(原文の改行はコンマに置換してある)はじめの方は単語じゃなく文のようになってる関係なさそうなのもある。
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ディスガイア萌えアニメtwitter,塩辛履歴dlsite,太陽の塔全身タイツ着ぐるみtwitter,↑マスクをかぶ(被)/つけ、仮面,丁々発止dlfanza,bike shorts2=8,おこや,マリーインボスカヤ イボンスカヤ,twitter肉まん東方dlサイトsite,エロ漫画スレsaucenao,つるみく(似てるユーザのF5から),ブックマークgamekemono,・パチパラ,81475783,調布fitnessマイバスケット,dicl big musclar,筋肉 皮モノ/物,nsfwポイピクサムネ表示,・土方つなぎ,・野田総理追悼演説全文,肉じゅばん,,ミリム 転 丸呑み,漫画家イエナガ アニメ化ベクトー,/g/ shingekiとか雑誌,軒猿,kemono精液,,モブ・コント,essensial pack,早押しクイズ appstore,八島さんが堕ちるまでfanza全頭・1967357latex貧乳,全身ラバー、全身をラバー、全身がラバー、ラバーで全身、ラバーに全身,マネキン人形化,シーメール化びんたま見てから,剣手2183114 scilence,masked face anthology kigurumi latex bodysuit bondage(bdsm),船,saimin 嵌ってる,hotmilk 3、6,smell,,pixivブクマ数500ぐらいの,股ぐら柱の背比べ,skebからpixiv登録してない奴のツイッター,chanrio,夜更かし股蒸れ,,,misakuraミーツ,藍,,男体化/改造手術,ftm/手術性転換←むしろ文から,クリ(陰核)尿道(尿管)/手術改造,尿道(尿管)開通延長[伸ば/伸び],クリに尿道/尿道クリ[繋いで/繋ぎ五段活用],シーメールカントボーイふたなり化男体化改造,人形化リョナdid,スキューバどざえもん,人中/顔射、精,膣閉鎖まん肉陰唇恥丘ぷにまん/縫,ピエロ肥満膨体強制,・毛穴/ワックス剃毛,,魔法少女 魔女っ娘 猿(の格好) ボディースーツ 全身タイツ 着ぐるみ もじもじくん,ラブドールダッチタイツぐるみ,ファザコン,産卵,股裂,変態洗脳戦闘員痴女,のっぺらぼう化改造 ,club cinq,少年エース,中に無いもの掛け合わせに使うの歓迎,同人はきりがないし検索から外す,さすがの知名度ガキはここに,変身まちかど,めがね魅了ほのおき,シチュとしてもし例外多くなったら定義を変える,site:thebase.in,,オフロードスター壱號,ただのノァ,,シールブックたまごっちパワパフサウスパークリトルポニーアメリカは,少女漫画がなくて存在していたと思えるかで決まるサクラ大戦きしだめるアルルまで,・資格の受験を控えてるからとはわざわざコンビニでは雑誌のほうを見ないようにしてる,つまりちょっとでも目に入ったら調べずにはいられなくなることを恐れてのことだがそんな些細なことでも反応せずにはいられないほどそれはつまりそれほどまで二次元に対して熱意を持っている,・二次元でオナニーしてそのパンツを洗わない,,253 名前:名無し象は鼻がウナギだ! 2022/04/14(木) 20:45:17.21 0,"スタッフで美味しく" 約 2,310,000 件,"スタッフが美味しく" 約 470,000 件,"スタッフに美味しく" 約 69,900 件,,"スタッフでおいしく" 約 178,000 件,"スタッフがおいしく" 約 241,000 件,"スタッフにおいしく" 約 31,000 件,,ポッキー半分がスタッフにおいしくいただかれた状態でやってくる,,480名無しさん@どーでもいいことだが。 (アウアウウー Sabb-AI/Q)2022/04/12(火) 23:58:04.54ID:WiTaAD0Va>>482,>>478,やべーぞレイプだは無頼男、クンニしろオラァはエデンの檻、パコさんはパジャマな彼女,,青少年にショッキングな性暴力を見せることの良し悪しと、現実とフィクションの混同は別問題でしょ,リアルだからじゃなく、例えばこれが非現実的な触手で腹ボコ異種姦とかでも同じようになったと思うぞ,,子供が真似する云々は親の躾の問題じゃないかねえ,プロレス技とか真似して大怪我みたいな事件もあるからなんとも言い難いが,,国情報の見方がよくわからないんだよな,たとえば相場の欄があるが商人のとこで見れるから二度手間じゃないかと思う,最近まで見る価値一切無いとさえ思ってたが在庫の欄は一度に商人と取引できる量と関係あるということでそこだけ見るようにはなった,他に国情報について見方というかこういう数値だったらこういう行動をとればいいみたいな指針を立てるみたいな活用法的なものはあるだろうか?,,https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/gengo/1630676954/871,にある旧おじに対してお前らが上という考え,これは正しいと思う,しかし俺に対してお前らの立場が上だと思ってるのなら図に乗るなという感じだな,俺は客観普遍の科学の方法論を説いてるだけ,それはお前が理解しようがしまいが揺らぐようなものでもないのにも関わらず、生暖かい目でお前らが理解するのを待ってやってるだけだ,そういうわけでどう考えても俺が上,,[1;31mhitomi: An unexpected error occurred: AttributeError - 'NoneType' object,has no attribute 'startswith'. Please run gallery-dl again with the --verbose fl,ag, copy its output and report this issue on https://github.com/mikf/gallery-dl/,issues .[0m,,西側,東側,東西,冷戦,俳句,俳諧,句会,句集,詩集,諜報,間諜,苦界,刺繍,正の字,着ぐるみ,器具罪,ガーターベルト,楽器 琴,琴,大正琴,アルトサックス,無心,医院,傀儡,sdカード,給湯,急騰,エフェクト,物置,精錬,屋台骨,こしひかり,陣屋,臨時,創業,一膳 膳,七味,目の色が変わ(を変え),辛子,鉄山,格式,そっか,品種,・肉厚,肉薄,アホ毛,食い逃げ,なん(何)のこれ(しき),オリジナリティ,不憫,秋晴,習性,お家芸,旧い,旧党,無理数,あおひげ,物見高,横断,黄疸,痰壺,横臥,サロン男性向け,オジキソウ,物産,琥珀,タペタム,産界,一本締め,縄会,鍵盤ハーモニカ,(届いた)ビデオテープ,カロリン,棟上,子煩悩,握力,筋トレ,郵,踏破,鉄の足,旅慣れ,古武術,オドリコソウ,負荷,フカヒレ,整髪,社交ダンス ,閣下,モスク,聖地,遊学,遊楽,幽学,魚拓,ジェラート,(えら)骨,すんごい,まっいっか、まっいいか、まいいか、まいっか,カステラ,アイヤッパン,先取り,考古(歴史) 修復,口訣,養蚕,医院,きよみず,制限,周辺,よそよそし,カチューシャ,・蒔絵,机上の空論,机上,鋳造,殺(戮)兵器,留守番,留守居,襦袢,えるゴミ,溶鉱,倫理,呵責,反知性,高踏,互市,ビーフン,観戦,波消し,パンチが強い,アンダーグラウンド,アングラ,海賊版,平坦,ドメイン,ドレイン,根絶,歯車,海中,海底,改訂,関係機関,修正作業,年末調整,(是見)よがし,おんしょく(音色)renta,バンドサウンド,自己流,パワーコード,音のぶつかり,さしもの,水(みず)反射スカートパン下着,手鏡,禁門,金紋,礎と,可塑,門人,外貨,説諭,戦略,序曲,おなかトントン,終曲,サイコロ,コッペパン,アクアパッツァ,吐息,揚げパン,邪魔,カルエル,バズーカ,収穫祭,・炭鉱,切手、小切手,図鑑,辞典,事典,揺籃,ショートカット,ガトー,ビュッフェ,法律上,巧妙,創作物、創作,寺子屋、寺子,寺古,じゃらん,無責任,若女将、女将,よいではないかrenta,節操,奥行き,野沢菜,塩梅,ボケボケ,カフェセレブ,暗示,ふりふり,穏便,使い魔,(にこにこえがお)renta,胴衣,同位体,電動マッサージ、電マ,軽便,(マグロ),表面積,受熱,副虹,ソレイユ,変面,変顔,プリクラ,アカデミ,変心,スイギュウ,エンパシー,個室,霊地,ネカフェ,(吊り橋),・マート,へにょり,出来るような気,結構な,ガードレール,マンホール,群生,開帳,朱印,良妻賢母,ミルフィーユ,(踏切),歩道橋,バス停,停留,ババロア,(食い込),コットン,オーガニック,ネイリスト,メイク崩れ,いたがゆ,オッズ,レバレッジ,助詞,金貨,言語学,文法,命運,概論,練習試合,ワセリン,コランダム,夜のしじま(静寂),ハウスマスター,モノクル,即席家族,収拾,あてられ(た),実直,教導,労をねぎら,見取り図,高砂,ガンマン,ピストル,ベースキャンプ,祭りのあと,あまじょっぱ,きくらげ,親分肌,姉御肌,出囃子,はみご,(あしからず),オープン,最後の入院,テレビ 企画,伏魔殿,クリーンヒット,無神経,信頼関係,夫(妻)の理解,カミングアウト,メンタル(ヘルス),有機(の),デバフ,勝たん,徒歩(かち),八重歯,考えがある,持ち合わせ,視聴者(fanza),ざるをえ(得),所狭し,急成長,タイトルホルダー,見込み,見切り発車,滑り止め,皆様,お目汚し,シツレー,これにて,ラバー フェチ,タイムライン,原価,パン粉,ターニング,ベーグル,マフィン,スラット,スナッフ,カリカリ,急成長,(樽),ぷつっと,くさびを打,ヒーラー 悪役,打ち首,ぶつ切り,スパット,ドルチェ,カルティエ,ブルガリ,スムージー,週末,郷(さと),ひさご,ナメル,目出し帽,ドリップ,ドーリィ,御役御免,ケーブルカー,容体,陰性,東京進出,縮こま,交信,消臭,認識機能,まん毛,クリプト,テンガロン,嗅ぎ付,切り通し,渡り鳥,カヤック,リンクル,美貌,魔盾,もっこり,スカル,翡翠,デイジー,冷え性,痛車,(みずみずし),裏日本,いぶった,連れション,立ちション,しみしみ,ヴィヴァーチェ,立食,コールスロー,カシミール,コンチネンタル,道連れ,アロス,笑撃,安直,腰溜め,土壌,音楽シーン,血 ぴゅー,カルドゥッチ,ナリシング,ごにょごにょ,ごみょごみょ,改正,初稿,強直,包囲(男性向け),(真っ只中),厚み,ロコモコ,アヒポキ,ホクホク,(葦簀),西日,放屁,むぐって/た,直売,ひさが笑,チェーマン,エトランゼ,マニ(教),ご意思,あからさま,心躍,こなれる/て,究極の歌姫,タイアップ,引きも切ら,ふーふー,猫舌,微動,デーツ,かしこぶ,篭手,かすり傷,爪楊枝,シンセサイザ,児童文学,ボーカロイド,直帰,急務,まっしぐら,家系図,秋の機械,バインバイン,コンバイン,モータウン,腐心,揺籃,ガラス張り,膣トレ,ナイトクラブ,ポールダンス,げんなり,経血,フェムゾーン,突破,ロイター板,舗装,懊悩,除霊,徐行,逃げ道,黙殺,・リーキ,どうらら,大喜利,レール,リニア,値札,上臈,キッチンカー,顆粒 ,なで肩,スプリング,トレパク,パクり,ひょっこり,重工,校歌,生まれてくる,ドリフ,審査,新芽,隠し部屋,丸刈り,ラブソング,泡切れ,虎の子,キックスケーター,敢行,野宿,エルドラド,段々畑,自他(とも),プレス機,加工物,ホッピー,もそろ,(飴)色,デミグラス,グレービー,グレープ,野火,スタンプ(ラリー),ラリー,崚,いってきます,社会勉強,蕗の薹,問屋,イントロ,ティーナ,出向(い),魂魄,(部)外秘,サルベージ,健康骨,腐葉土,遺留,慰留,二人三脚,かかと落とし,安食,パディトン,ドミグラス,マッシュ(ルーム),休職,ケルヒャー,ソイソース,ホットサンド,コーヒーフレッシュ,トロンボーン,類似,言い遺,民泊,ダクト,ドーラー,半地下,マナ,寄り目,シュラスコ,屋台骨,土性骨,すべすべ,ハメが外,火薬 花火,舞妓 化粧(が),バーニャカウダ,ヒジャブ,ジップライン,女性用,男性用,用兵,籠城,伏兵,輪切り,アク (漫画家)[括弧が先],復職,フルール,ペチュニア,無撚,造反,肌を合わ,淫蕩,手芸,tl漫画家,ラクシュミ,黄石公,解呪,夜職,高目,フェビアン,大公望,ザッピング,こういう時,反転攻勢,肌掛け,ドア越し,式典,マクロビ,それなり,プレスカード,身分証,当て込,折込,うってつけ,サンドバッグ,閉塞,葉巻,オスロ,フラッパーの(な),ならず者,しゃきっ,運命論,ギャング,盗んだ車,共同作業,・配信,バンラリース,別離,発喪,政変,ビタミンB1,眼精,天誅,天佑,孤立化,開かせ,年の頃,八つぁん,(ぐあい),ヴェルヴェット,悲嘆,勅許,へしこ,アクアリウム,開明,持ち上が,やってのけ,晦冥,それはあれ,手の者,正義マン,乾 いぬい,むろお,・あみだ(くじ),ドッジボール,鍼灸,板金,気流,手(もみ),壁紙,パンパス,debut,パンプス,ドレッサー,映画の宣伝,誉れな,足蹴,司牧,鞠躬如,けん玉,(じゃらんぽん),デトックス,キンパラ,鼻につく,言い分,貫け,真作,ニス,姦婦,贋作,フェルメール,あんかけ ,キックボード,全容,のど飴,しゃあしゃあ,覆る/し,心臓な/だ,にゅうにゅう、にゅーにゅー,ドッキング,万華、華鏡,戒 法,受戒,(ことこと),お召し,パーキング,水あめ、水飴,じとじと,しれっと,ヘラ期,汽笛,(中長)期的,(唐揚げ),atm (年漫画),(ものまね)renta,ギャラ呑み, うんてい,水玉,肉まん,水油,天花粉,香油,持って数,叩き込,異物,改変,遺伝子 組,儚、果敢ない/く、はかない/く,物は言い,言い逃げ,嫌な打算,こわすぎrenta,口にす/し,マーシナリー,洗いざら,赤線,青線,節介,ディーゼル,(なんともでき),みなは,アストリンゼン,ケトン,ファルシオン,間取り,見取り,柑,ノープラン,しっくり,バイキング,グロッキー,シッカロール,勝負になら,せていただ,ツルツル,コーティング,bgm,効果音,バックグラウンド,(すけこまし),コケティッシュ,気落ち,あざと,さかいに,国防,カピカ,八重歯、犬歯、臼歯,薄幸,・旧師,白光,くんだり,とどま,素敵空間,宅浪,パッケージ,ツマミ,パッキング,サイバー,・5次元(の)女,アンティーク,独り者,ディスカウント,運航,水難,分際,間際,特長,テニサー,(蒸し蒸し),修正済み,こさめ,緩和,引き締め,逆さ吊り,おしおき,仕立て屋,見立て,備え,梁 柱,正座,未来志向,転倒,瞬発,奮発,実写,唱歌,トロフィー,ハンチング,・子分,古文,(のたれ死),恵まれ,この先,痛恨,失言,ビット,ピット,ショークラブ,ペシミス,まぐろ 漁船,世替わり,あがき,おぼれ,プリントシ-ル,余念,下まつげ,エクステ,唱和,・な校則,復縁,(掘り起こ),小窓,明り取り,のろけ 年漫画, Permalink | 記事への反応(2) | 12:17
自分は典型的な学会2世で、2000年代前半に創価中学・創価高校(創価学園)に通っていた。
いかんせん20年近く前のことなので中学・高校を混同してたり不正確かもしれないけど許して。
地元の5歳ほど上の代に創価中学に合格したひとがいて、それなりの田舎だったこともありレジェンドのように語られていた。
そのレジェンドが通っていたのと同じ地元の塾に小4から通った。創価学会員はこの手の験担ぎが大好きなのだ。
前日に38度の熱を出してしまった。前述のレジェンドも同じようなことがあったなかで合格したらしく、カーチャンは興奮しながら唱題していた。創価学会員はこの手の(ry
当日は携帯ご本尊(お守りご本尊とも呼ばれる)をカーチャンに持たされた。どんなものかはググってくれ。
お決まりの「公共交通機関でお越しください」であったが、トーチャンの車の後部座席に寝ながら向かった。ゲートで係員に止められていたが、後部座席で寝込む俺を見て敷地内の駐車場に誘導してくれた。俺は眠くて寝てただけなのに。
通常の会場とは別室に設けられた体調不良者が集められた部屋で試験を受けた。ポカリ飲み放題で、毛布にくるまって行儀悪く立膝しながら快適に試験を解いた。
俺が受けた年は倍率11倍で過去最高だったとかそのあと聞いた気がする。
創価学園だからといって必ずしも池ちゃんと接触の機会があるわけではないが、俺のいた頃は入学式と卒業式は確定で池ちゃんが来ていた。
普段は会館で見る衛星放送の映像の中にいる池ちゃん(とそのスピーチ)を生で見られるということで、たぶん保護者が一番テンション高かったんじゃないかな。
うちもカーチャンがテンション爆上がりしていて、出席できるのは保護者の片方だけだったがトーチャンは問答無用で蚊帳の外に置かれていた。かわいそう。
ちなみに俺の在校中に池ちゃんが入学式・卒業式に出なかったことが2回ぐらいあって、それまでは皆勤だったから中々の衝撃を学会シーンに与えていたような記憶がある。
あとスピーチ中の池ちゃんはアゲどころで机を手でバンバン叩くことが多く、その少し後に流行ったやる夫AAの「だっておwwwwwバンバン」を見たときに池ちゃんだろこれって悪友と笑ったことがある。
入学式・卒業式ほどじゃない節目イベントのときに池ちゃんからメッセージや差し入れが届くことがあった。
終業式のときなんかに学年主任が「池田先生から差し入れいただきました!」って言って全校生徒にかっぱえびせんが配られるのが定番だった。
コンビニで売ってるようなサイズ感ではなく一回り小さいものだったので「けちくせー」と思った記憶がある。貰い物に文句をつけるな。
何より面倒くさくてウザかったのが、その手のことがあるたびにクラスでA5の便箋が配られて「今回の感想と決意を書いて提出しなさい」と先生から言われたことだった。学会員決意するの好きすぎる。
かっぱえびせんに感想も決意も出るわけもなく、俺は一回も提出したことないがそれで怒られた記憶はない。真面目な生徒は毎回提出していたように思う。
創価学会においては、唱題という行為をすればするほどえらいという価値観がある。本尊にむかってみんなで「なんみょーほーれんげきょー」と連呼するあれね。
校舎の一階に謎の立派な扉があって、その奥に20畳ぐらいの和室と本尊があった。
体育会系のメインストリームなひとたち(サッカー部や野球部)なんかは大きな大会の前になると、朝や昼休みに総出で唱題をしていた。練習すればいいのに。
ほかにも生徒会とかの意識の高い優等生は自発的に空き時間に唱題しに来てた。
ちょっと記憶があいまいなんだけど、誰でもアクセスできる部屋というわけではなく、部活で唱題する人と一緒に応援をしたい人とか、招待制というかクローズドな場所だったような気がする。誰も唱題していない時間に潜り込んで畳の上で昼寝した思い出。
小学生のころ休み時間にサッカーをするのが好きだった。地域のサッカークラブみたいなところにも入りたかったが親に許されず、そのまま下手の横好きで休み時間サッカーを続けていた。
中学に入学してすぐのころ、休み時間サッカーに混ざりたくてそれとなく輪に入ったら横で同級生同士が「なんで増田がここにいんの?プゲラw」と話しているのが聞こえてそれ以降休み時間に中庭に近寄るのはやめた。体育もスポーツも大嫌いになった。
当たり前だが同級生はみんなどこにでもいる普通の思春期10代だった。それまで接した創価学会の大人たちはみんな優しかったので、こんなんだったらこの学校に進んだ意味ないじゃんと思った。
創価学園を語るうえで欠かせないのが愛唱歌の存在で、校歌や寮歌のほかに10種類以上の愛唱歌と呼ばれる歌があった。
昼休みの中庭で、掲揚された三色旗の前で有志で愛唱歌を歌う活動があった気がする。
愛唱歌のうちとりわけ記憶に残っているのは「負けじ魂ここにあり」という歌で、気になる人は歌詞をググってもらえるとわかるけどテンションの上がりそうな勇ましい感じの曲だ。ここぞという機会で歌われていた。
1番から5番まである長い曲で、平時は1番と3番と5番が歌われていた。式典とかの機会だとフルバージョンだったかな。Radio MixとOriginal Mixみたいな。
いわく5番が一番大事だそうで、5番だけが池ちゃんが書いた歌詞だったかな?1番~4番の長い前振りがあって、5番に本命が来る。クラブミュージックか?
これを書きながらググった歌詞を見直したらメロディー覚えてて歌えちゃった。人間の記憶すごい。
創価学会では、学会本部に依頼すると池ちゃんに子供の名前を付けてもらえるサービスがあるのは有名。
池ちゃんネームの割合が結構高かった気がする。クラスに2,3人ぐらいはいた。
中学を卒業してエスカレーターで高校へ進学すると、創価大学への推薦を見据えて学校生活を送る必要が出てくる。
成績に関しては赤点取りまくらなければ大丈夫、ぐらいのラインだったと思う。欠席と遅刻は年間だったか累計だったかで10回まで、みたいな感じだった。
自分は創価大学へ行く気は早々に失っていたので、面倒くさいと思ったら勝手に早退して家でラグナロクオンラインやったりしてた。
成績はボロクソだったが赤点補習をきっちりとこなせば問題なかったので、留年とかそういう問題は皆無だった。なんだかんだで寛容で優しい学校だったと思う。
体育の赤点だけは、夏休みに登校して体育教師が顧問をするサッカー部と一緒にトレーニングをする、みたいな内容でそれが嫌で最低ラインの出席3分の2を維持するハックで乗り切った。
ちなみに一度受けた体育の赤点補習では、俺の休み時間サッカーの件の当事者がサッカー部だったのでそいつが居たが、妙に気遣ってくれたりしてむずがゆかった。あいつ良いやつだったな。
創価学会にはとにかく記念日が多いのだが、記念日の会合で池ちゃんがスピーチをぶると翌日には聖教新聞に全文が掲載される。
総合学習みたいな時間にはその聖教新聞がクラスで配られ一文読みをしていた。ここでもかっぱえびせんのときと同じようにA5の便箋に感想と決意を書かされる。一度も提出したことはないが(ry
池ちゃんのスピーチの全文を読んだことある人がはてなにどれぐらい居るかわからないが、池ちゃんのスピーチって基本的に中身がない(個人の感想です)
「〇〇(歴史上の偉人)は言った、ほにゃららほにゃらら。だから君たちも勉学に努めなさい」一同「ハイッ!」っていうのが池ちゃんスピーチの定番のやり取りで、勉強しろって説法をするときに引用でしか言えないのかこの人、と常に思っていた。
他には「戦争は悲惨だ、最低の行為だ」「いじめはよくない、いじめた人間が100%悪い」みたいなありふれた内容で、何をみんなそんなにありがたがっているのか分からなかった。そのためにはどうしたらいいのか、どうすべきなのか、具体的な方法や理論に言及することが皆無だった。せいぜい本を読めとか勉学に励めとかそれぐらいで、マセガキだった俺の好みの内容ではなかった。
「いついつの会合のスピーチ、めっちゃよかったよね~」と言っている同級生もいたが、松屋と吉野家ぐらいの違いしか俺には分からなかった。
創価学会は独特な語彙やネーミングが多いが、学校にもそれはあらわれていた。
中学のロッカールームは「鳳雛ホール」という名称だった。ほかにも学校内の講堂は「池田講堂」だったり、食堂が「栄光ホール」みたいな名前だった気がする。一番大きい体育館も何か独特の名前があったと思うが覚えていない。俺の卒業後に校舎が建て直されたりしてググっても情報が全然出てこない。
最寄り駅の鷹の台駅から学校までは10分以上玉川上水沿いを歩くのだが、玉川上水沿いの道は「哲学者の道」と呼ばれていた。哲学者の道を横に外れた場所に昔ながらの林があって、そこでエロ本を見つけたことがある。なるほど哲学者の道。
ちなみに近隣の武蔵野美術大学や白梅学園の生徒もここを使って通学していて、妙に大人の女性に見えたなあ。
白梅学園のバス停が前後を創価学園と朝鮮大学校に囲まれている画像なんかが有名だけど、不思議と朝鮮大学校に関する記憶がない。
終業式だか始業式を飛ばして悪友と学校を抜け出して武蔵野美術大学の学祭に遊びに行ったのは楽しかった。
悪友が「創価学園の生徒だけど質問ある?」みたいなスレを立ててVIPで爆伸びしていた。創価系の質問スレはググると結構多いけど、当時2chにどっぷり浸かっていた俺の知る限りでは悪友のスレが元祖だと思う。
校内の写真とかをガンガン上げていて大丈夫かと思った。今でもインターネットで出回る創価学園にまつわる有名画像のいくつかは悪友がアップしたもののはず。
基本的には学会二世しかいないので、典型的な創価学会員の世界観を持っている生徒が多い。
一方俺はネットde真実をゴリゴリにこじらせていたので、普段から池ちゃんや創価学会へ懐疑的なスタンスを公言していたが、それでいじめられたりするようなことはなかった。池ちゃんのいじめを許さないご指導が活きていたのかもしれない。
池ちゃんへのおかしいと思った点を熱心な生徒に話してみたりしたが、全否定されたり人格否定されるようなことはなくまともに議論じ応じてくれたように記憶している。
なにかの学校行事の決意発表大会みたいな学年集会の場で「俺は正直池田大作という人は別に好きではなくて~」みたいに自分の考えを披露したことがあるが(今思うとこじらせすぎている)、それでも「こう考えてる人がいることが分かってよかった。増田の言葉で聞けて良かった」とニュートラルな反応をしてくれた同級生もいたことが印象的。
一方で先生は頑迷な人が多かったように思う。一度英語の先生に「創価学会員はどうして個人なのに人の投票行動に介入するんですか?自分で決めるべきことなのでおかしいと思う」と言ってみたことがあるが、「人は選挙権のほかにも、個人として選挙をお願いする権利もあるんだよ」と答えになっていない返答をされた。いまでも意味わからん。
基本的にあまり好きな先生はいなかったが、現代文のH先生だけは好きだった。
やたらと情熱的な語り口で面白い授業をするひとで、いろんな国へ旅するのが好きで授業の雑談ではその話を臭いぐらいロマンチックに話すので好きだった。
ほかの教科はやる気皆無だったが、現代文だけはノートもしっかり取っていたし、試験前のノート提出もしていた。
あるときH先生に提出したノートを紛失された。丁重に謝罪されてノート点も満点つけてもらった(らしい)が、それ以降H先生の授業へ興味を失った。クソガキすぎる。大人だって失敗するときはあると今ならわかる。
平等や平和を謳う創価学会員もしょせんは人の子なので、スクールカーストは存在していた。
今でいう陽キャは「メジャー」と呼ばれ、陰キャは「マイナー」と呼ばれていた。
ちなみに親が幹部かどうかはスクールカーストには関係なかった。ただディベート大会で全国レベルの成績を残したり、生徒会役員だったりするようなインテリ勢は親が幹部っていうパターンが多かった。そしてインテリ勢はメジャーマイナーの括りにも縛られないアウトサイダー的雰囲気があった。
世は前略プロフィール全盛期、同級生のメジャー勢の女子が前略プロフィール(というかそれに付随するいわゆる「リアル」のページ)で飲酒パーティーの写メ(死語)をアップしていて、学校に垂れ込まれて停学になってた。
停学になったメジャーの女子たちはほとんどその後創価大学へ進学し、銀行員になったり不動産屋になったり売れないクラブDJから水商売の世界に入ったり、様々なよう。
履歴書の学歴の呪いについてのブコメをしている人がいるが、今のところ特に困難だと感じたことはない。
転職もしつつ順当にキャリアと年収を上げて生きてきたけど、「親が創価なんで」の一言でそれ以上深掘りされることも差別されることもない。
「こいのぼり」を歌ってるのがお母さん。
近藤宮子(こんどう みやこ、1907年3月21日 - 1999年4月8日)は、日本の唱歌作詞家。唱歌『チューリップ』、『こいのぼり』作詞者。
国文学者の父・藤村作が広島高等師範学校(後の広島大学)へ教授として赴任した1907年、広島県広島市国泰寺町(現在の中区国泰寺町)に出生。母・季子は広島高師附属中学、山中高等女学校の音楽教師を務めた。1910年、父が東京帝国大学文学部助教授に転任、東京市外千駄ヶ谷に転居。1931年、父の教え子で東京音楽学校(後の東京芸術大学音楽学部)講師・国文学者の近藤忠義と結婚、専業主婦となる。
日本人初のシンガーソングライターは美輪明宏、これはわりと知られた話だろう。では、1つの曲で作詞作曲を行った最初の日本人は誰か。これがなかなか難しくて困ってる。作曲とはみずから譜面に起こすまでをこなすことをいうものとして。
江戸時代からの相撲甚句や明治初期の演説歌(川上音二郎のオッペケペー節等)は歌詞に即興で節回しをつけて歌っているだけで、これはこれで素晴らしいものだが作曲とは呼べない。
童謡や唱歌は作詞家は作詞だけを、作曲家は作曲だけを担うばかり。それは十分合理的なのだけれど、両方の才能にめぐまれた人もきっといたと思うんだ。例えば山田耕作なんかも試みに作詞をしたと思うんだけど、残念ながら曲がついた形としては何も残っていない。
どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
教室はたった一つでしたが生徒は三年生がないだけで、あとは一年から六年までみんなありました。運動場もテニスコートのくらいでしたが、すぐうしろは栗くりの木のあるきれいな草の山でしたし、運動場のすみにはごぼごぼつめたい水を噴ふく岩穴もあったのです。
さわやかな九月一日の朝でした。青ぞらで風がどうと鳴り、日光は運動場いっぱいでした。黒い雪袴ゆきばかまをはいた二人の一年生の子がどてをまわって運動場にはいって来て、まだほかにだれも来ていないのを見て、「ほう、おら一等だぞ。一等だぞ。」とかわるがわる叫びながら大よろこびで門をはいって来たのでしたが、ちょっと教室の中を見ますと、二人ふたりともまるでびっくりして棒立ちになり、それから顔を見合わせてぶるぶるふるえましたが、ひとりはとうとう泣き出してしまいました。というわけは、そのしんとした朝の教室のなかにどこから来たのか、まるで顔も知らないおかしな赤い髪の子供がひとり、いちばん前の机にちゃんとすわっていたのです。そしてその机といったらまったくこの泣いた子の自分の机だったのです。
もひとりの子ももう半分泣きかけていましたが、それでもむりやり目をりんと張って、そっちのほうをにらめていましたら、ちょうどそのとき、川上から、
「ちょうはあ かぐり ちょうはあ かぐり。」と高く叫ぶ声がして、それからまるで大きなからすのように、嘉助かすけがかばんをかかえてわらって運動場へかけて来ました。と思ったらすぐそのあとから佐太郎さたろうだの耕助こうすけだのどやどややってきました。
「なして泣いでら、うなかもたのが。」嘉助が泣かないこどもの肩をつかまえて言いました。するとその子もわあと泣いてしまいました。おかしいとおもってみんながあたりを見ると、教室の中にあの赤毛のおかしな子がすまして、しゃんとすわっているのが目につきました。
みんなはしんとなってしまいました。だんだんみんな女の子たちも集まって来ましたが、だれもなんとも言えませんでした。
赤毛の子どもはいっこうこわがるふうもなくやっぱりちゃんとすわって、じっと黒板を見ています。すると六年生の一郎いちろうが来ました。一郎はまるでおとなのようにゆっくり大またにやってきて、みんなを見て、
「何なにした。」とききました。
みんなははじめてがやがや声をたててその教室の中の変な子を指さしました。一郎はしばらくそっちを見ていましたが、やがて鞄かばんをしっかりかかえて、さっさと窓の下へ行きました。
みんなもすっかり元気になってついて行きました。
「だれだ、時間にならないに教室へはいってるのは。」一郎は窓へはいのぼって教室の中へ顔をつき出して言いました。
「お天気のいい時教室さはいってるづど先生にうんとしからえるぞ。」窓の下の耕助が言いました。
「しからえでもおら知らないよ。」嘉助が言いました。
「早ぐ出はって来こ、出はって来。」一郎が言いました。けれどもそのこどもはきょろきょろ室へやの中やみんなのほうを見るばかりで、やっぱりちゃんとひざに手をおいて腰掛けにすわっていました。
ぜんたいその形からが実におかしいのでした。変てこなねずみいろのだぶだぶの上着を着て、白い半ずぼんをはいて、それに赤い革かわの半靴はんぐつをはいていたのです。
それに顔といったらまるで熟したりんごのよう、ことに目はまん丸でまっくろなのでした。いっこう言葉が通じないようなので一郎も全く困ってしまいました。
「学校さはいるのだな。」みんなはがやがやがやがや言いました。ところが五年生の嘉助がいきなり、
「ああそうだ。」と小さいこどもらは思いましたが、一郎はだまってくびをまげました。
変なこどもはやはりきょろきょろこっちを見るだけ、きちんと腰掛けています。
そのとき風がどうと吹いて来て教室のガラス戸はみんながたがた鳴り、学校のうしろの山の萱かやや栗くりの木はみんな変に青じろくなってゆれ、教室のなかのこどもはなんだかにやっとわらってすこしうごいたようでした。
すると嘉助がすぐ叫びました。
そうだっとみんなもおもったとき、にわかにうしろのほうで五郎が、
「わあ、痛いぢゃあ。」と叫びました。
みんなそっちへ振り向きますと、五郎が耕助に足のゆびをふまれて、まるでおこって耕助をなぐりつけていたのです。すると耕助もおこって、
「わあ、われ悪くてでひと撲はだいだなあ。」と言ってまた五郎をなぐろうとしました。
五郎はまるで顔じゅう涙だらけにして耕助に組み付こうとしました。そこで一郎が間へはいって嘉助が耕助を押えてしまいました。
「わあい、けんかするなったら、先生あちゃんと職員室に来てらぞ。」と一郎が言いながらまた教室のほうを見ましたら、一郎はにわかにまるでぽかんとしてしまいました。
たったいままで教室にいたあの変な子が影もかたちもないのです。みんなもまるでせっかく友だちになった子うまが遠くへやられたよう、せっかく捕とった山雀やまがらに逃げられたように思いました。
風がまたどうと吹いて来て窓ガラスをがたがた言わせ、うしろの山の萱かやをだんだん上流のほうへ青じろく波だてて行きました。
「わあ、うなだけんかしたんだがら又三郎いなぐなったな。」嘉助がおこって言いました。
みんなもほんとうにそう思いました。五郎はじつに申しわけないと思って、足の痛いのも忘れてしょんぼり肩をすぼめて立ったのです。
「二百十日で来たのだな。」
「靴くつはいでだたぞ。」
「服も着でだたぞ。」
「髪赤くておかしやづだったな。」
「ありゃありゃ、又三郎おれの机の上さ石かけ乗せでったぞ。」二年生の子が言いました。見るとその子の机の上にはきたない石かけが乗っていたのです。
「そうだ、ありゃ。あそごのガラスもぶっかしたぞ。」
「わあい。そだないであ。」と言っていたとき、これはまたなんというわけでしょう。先生が玄関から出て来たのです。先生はぴかぴか光る呼び子を右手にもって、もう集まれのしたくをしているのでしたが、そのすぐうしろから、さっきの赤い髪の子が、まるで権現ごんげんさまの尾おっぱ持ちのようにすまし込んで、白いシャッポをかぶって、先生についてすぱすぱとあるいて来たのです。
みんなはしいんとなってしまいました。やっと一郎が「先生お早うございます。」と言いましたのでみんなもついて、
「みなさん。お早う。どなたも元気ですね。では並んで。」先生は呼び子をビルルと吹きました。それはすぐ谷の向こうの山へひびいてまたビルルルと低く戻もどってきました。
すっかりやすみの前のとおりだとみんなが思いながら六年生は一人、五年生は七人、四年生は六人、一二年生は十二人、組ごとに一列に縦にならびました。
二年は八人、一年生は四人前へならえをしてならんだのです。
するとその間あのおかしな子は、何かおかしいのかおもしろいのか奥歯で横っちょに舌をかむようにして、じろじろみんなを見ながら先生のうしろに立っていたのです。すると先生は、高田たかださんこっちへおはいりなさいと言いながら五年生の列のところへ連れて行って、丈たけを嘉助とくらべてから嘉助とそのうしろのきよの間へ立たせました。
みんなはふりかえってじっとそれを見ていました。
「前へならえ。」と号令をかけました。
みんなはもう一ぺん前へならえをしてすっかり列をつくりましたが、じつはあの変な子がどういうふうにしているのか見たくて、かわるがわるそっちをふりむいたり横目でにらんだりしたのでした。するとその子はちゃんと前へならえでもなんでも知ってるらしく平気で両腕を前へ出して、指さきを嘉助のせなかへやっと届くくらいにしていたものですから、嘉助はなんだかせなかがかゆく、くすぐったいというふうにもじもじしていました。
「直れ。」先生がまた号令をかけました。
「一年から順に前へおい。」そこで一年生はあるき出し、まもなく二年生もあるき出してみんなの前をぐるっと通って、右手の下駄箱げたばこのある入り口にはいって行きました。四年生があるき出すとさっきの子も嘉助のあとへついて大威張りであるいて行きました。前へ行った子もときどきふりかえって見、あとの者もじっと見ていたのです。
まもなくみんなははきものを下駄箱げたばこに入れて教室へはいって、ちょうど外へならんだときのように組ごとに一列に机にすわりました。さっきの子もすまし込んで嘉助のうしろにすわりました。ところがもう大さわぎです。
「わあ、おらの机さ石かけはいってるぞ。」
「わあ、おらの机代わってるぞ。」
「キッコ、キッコ、うな通信簿持って来たが。おら忘れで来たぢゃあ。」
「わあがない。ひとの雑記帳とってって。」
そのとき先生がはいって来ましたのでみんなもさわぎながらとにかく立ちあがり、一郎がいちばんうしろで、
「礼。」と言いました。
みんなはおじぎをする間はちょっとしんとなりましたが、それからまたがやがやがやがや言いました。
「しずかに、みなさん。しずかにするのです。」先生が言いました。
「しっ、悦治えつじ、やがましったら、嘉助え、喜きっこう。わあい。」と一郎がいちばんうしろからあまりさわぐものを一人ずつしかりました。
みんなはしんとなりました。
先生が言いました。
「みなさん、長い夏のお休みはおもしろかったですね。みなさんは朝から水泳ぎもできたし、林の中で鷹たかにも負けないくらい高く叫んだり、またにいさんの草刈りについて上うえの野原へ行ったりしたでしょう。けれどももうきのうで休みは終わりました。これからは第二学期で秋です。むかしから秋はいちばんからだもこころもひきしまって、勉強のできる時だといってあるのです。ですから、みなさんもきょうからまたいっしょにしっかり勉強しましょう。それからこのお休みの間にみなさんのお友だちが一人ふえました。それはそこにいる高田さんです。そのかたのおとうさんはこんど会社のご用で上の野原の入り口へおいでになっていられるのです。高田さんはいままでは北海道の学校におられたのですが、きょうからみなさんのお友だちになるのですから、みなさんは学校で勉強のときも、また栗拾くりひろいや魚さかなとりに行くときも、高田さんをさそうようにしなければなりません。わかりましたか。わかった人は手をあげてごらんなさい。」
すぐみんなは手をあげました。その高田とよばれた子も勢いよく手をあげましたので、ちょっと先生はわらいましたが、すぐ、
「わかりましたね、ではよし。」と言いましたので、みんなは火の消えたように一ぺんに手をおろしました。
ところが嘉助がすぐ、
「先生。」といってまた手をあげました。
「高田さん名はなんて言うべな。」
「わあ、うまい、そりゃ、やっぱり又三郎だな。」嘉助はまるで手をたたいて机の中で踊るようにしましたので、大きなほうの子どもらはどっと笑いましたが、下の子どもらは何かこわいというふうにしいんとして三郎のほうを見ていたのです。
先生はまた言いました。
「きょうはみなさんは通信簿と宿題をもってくるのでしたね。持って来た人は机の上へ出してください。私がいま集めに行きますから。」
みんなはばたばた鞄かばんをあけたりふろしきをといたりして、通信簿と宿題を机の上に出しました。そして先生が一年生のほうから順にそれを集めはじめました。そのときみんなはぎょっとしました。というわけはみんなのうしろのところにいつか一人の大人おとなが立っていたのです。その人は白いだぶだぶの麻服を着て黒いてかてかしたはんけちをネクタイの代わりに首に巻いて、手には白い扇をもって軽くじぶんの顔を扇あおぎながら少し笑ってみんなを見おろしていたのです。さあみんなはだんだんしいんとなって、まるで堅くなってしまいました。
ところが先生は別にその人を気にかけるふうもなく、順々に通信簿を集めて三郎の席まで行きますと、三郎は通信簿も宿題帳もないかわりに両手をにぎりこぶしにして二つ机の上にのせていたのです。先生はだまってそこを通りすぎ、みんなのを集めてしまうとそれを両手でそろえながらまた教壇に戻りました。
「では宿題帳はこの次の土曜日に直して渡しますから、きょう持って来なかった人は、あしたきっと忘れないで持って来てください。それは悦治さんと勇治ゆうじさんと良作りょうさくさんとですね。ではきょうはここまでです。あしたからちゃんといつものとおりのしたくをしておいでなさい。それから四年生と六年生の人は、先生といっしょに教室のお掃除そうじをしましょう。ではここまで。」
一郎が気をつけ、と言いみんなは一ぺんに立ちました。うしろの大人おとなも扇を下にさげて立ちました。
「礼。」先生もみんなも礼をしました。うしろの大人も軽く頭を下げました。それからずうっと下の組の子どもらは一目散に教室を飛び出しましたが、四年生の子どもらはまだもじもじしていました。
すると三郎はさっきのだぶだぶの白い服の人のところへ行きました。先生も教壇をおりてその人のところへ行きました。
「いやどうもご苦労さまでございます。」その大人はていねいに先生に礼をしました。
「じきみんなとお友だちになりますから。」先生も礼を返しながら言いました。
「何ぶんどうかよろしくおねがいいたします。それでは。」その人はまたていねいに礼をして目で三郎に合図すると、自分は玄関のほうへまわって外へ出て待っていますと、三郎はみんなの見ている中を目をりんとはってだまって昇降口から出て行って追いつき、二人は運動場を通って川下のほうへ歩いて行きました。
運動場を出るときその子はこっちをふりむいて、じっと学校やみんなのほうをにらむようにすると、またすたすた白服の大人おとなについて歩いて行きました。
「先生、あの人は高田さんのとうさんですか。」一郎が箒ほうきをもちながら先生にききました。
「そうです。」
「なんの用で来たべ。」
「上の野原の入り口にモリブデンという鉱石ができるので、それをだんだん掘るようにするためだそうです。」
「どこらあだりだべな。」
「私もまだよくわかりませんが、いつもみなさんが馬をつれて行くみちから、少し川下へ寄ったほうなようです。」
「モリブデン何にするべな。」
「それは鉄とまぜたり、薬をつくったりするのだそうです。」
「そだら又三郎も掘るべが。」嘉助が言いました。
「又三郎だ又三郎だ。」嘉助が顔をまっ赤かにしてがん張りました。
「嘉助、うなも残ってらば掃除そうじしてすけろ。」一郎が言いました。
風がまた吹いて来て窓ガラスはまたがたがた鳴り、ぞうきんを入れたバケツにも小さな黒い波をたてました。
次の日一郎はあのおかしな子供が、きょうからほんとうに学校へ来て本を読んだりするかどうか早く見たいような気がして、いつもより早く嘉助をさそいました。ところが嘉助のほうは一郎よりもっとそう考えていたと見えて、とうにごはんもたべ、ふろしきに包んだ本ももって家の前へ出て一郎を待っていたのでした。二人は途中もいろいろその子のことを話しながら学校へ来ました。すると運動場には小さな子供らがもう七八人集まっていて、棒かくしをしていましたが、その子はまだ来ていませんでした。またきのうのように教室の中にいるのかと思って中をのぞいて見ましたが、教室の中はしいんとしてだれもいず、黒板の上にはきのう掃除のときぞうきんでふいた跡がかわいてぼんやり白い縞しまになっていました。
「きのうのやつまだ来てないな。」一郎が言いました。
「うん。」嘉助も言ってそこらを見まわしました。
一郎はそこで鉄棒の下へ行って、じゃみ上がりというやり方で、無理やりに鉄棒の上にのぼり両腕をだんだん寄せて右の腕木に行くと、そこへ腰掛けてきのう三郎の行ったほうをじっと見おろして待っていました。谷川はそっちのほうへきらきら光ってながれて行き、その下の山の上のほうでは風も吹いているらしく、ときどき萱かやが白く波立っていました。
嘉助もやっぱりその柱の下でじっとそっちを見て待っていました。ところが二人はそんなに長く待つこともありませんでした。それは突然三郎がその下手のみちから灰いろの鞄かばんを右手にかかえて走るようにして出て来たのです。
「来たぞ。」と一郎が思わず下にいる嘉助へ叫ぼうとしていますと、早くも三郎はどてをぐるっとまわって、どんどん正門をはいって来ると、
「お早う。」とはっきり言いました。みんなはいっしょにそっちをふり向きましたが、一人も返事をしたものがありませんでした。
それは返事をしないのではなくて、みんなは先生にはいつでも「お早うございます。」というように習っていたのですが、お互いに「お早う。」なんて言ったことがなかったのに三郎にそう言われても、一郎や嘉助はあんまりにわかで、また勢いがいいのでとうとう臆おくしてしまって一郎も嘉助も口の中でお早うというかわりに、もにゃもにゃっと言ってしまったのでした。
ところが三郎のほうはべつだんそれを苦にするふうもなく、二三歩また前へ進むとじっと立って、そのまっ黒な目でぐるっと運動場じゅうを見まわしました。そしてしばらくだれか遊ぶ相手がないかさがしているようでした。けれどもみんなきょろきょろ三郎のほうはみていても、やはり忙しそうに棒かくしをしたり三郎のほうへ行くものがありませんでした。三郎はちょっと具合が悪いようにそこにつっ立っていましたが、また運動場をもう一度見まわしました。
それからぜんたいこの運動場は何間なんげんあるかというように、正門から玄関まで大またに歩数を数えながら歩きはじめました。一郎は急いで鉄棒をはねおりて嘉助とならんで、息をこらしてそれを見ていました。
そのうち三郎は向こうの玄関の前まで行ってしまうと、こっちへ向いてしばらく暗算をするように少し首をまげて立っていました。
みんなはやはりきろきろそっちを見ています。三郎は少し困ったように両手をうしろへ組むと向こう側の土手のほうへ職員室の前を通って歩きだしました。
その時風がざあっと吹いて来て土手の草はざわざわ波になり、運動場のまん中でさあっと塵ちりがあがり、それが玄関の前まで行くと、きりきりとまわって小さなつむじ風になって、黄いろな塵は瓶びんをさかさまにしたような形になって屋根より高くのぼりました。
すると嘉助が突然高く言いました。
「そうだ。やっぱりあいづ又三郎だぞ。あいづ何かするときっと風吹いてくるぞ。」
「うん。」一郎はどうだかわからないと思いながらもだまってそっちを見ていました。三郎はそんなことにはかまわず土手のほうへやはりすたすた歩いて行きます。
そのとき先生がいつものように呼び子をもって玄関を出て来たのです。
「お早う。」先生はちらっと運動場を見まわしてから、「ではならんで。」と言いながらビルルッと笛を吹きました。
みんなは集まってきてきのうのとおりきちんとならびました。三郎もきのう言われた所へちゃんと立っています。
先生はお日さまがまっ正面なのですこしまぶしそうにしながら号令をだんだんかけて、とうとうみんなは昇降口から教室へはいりました。そして礼がすむと先生は、
「ではみなさんきょうから勉強をはじめましょう。みなさんはちゃんとお道具をもってきましたね。では一年生(と二年生)の人はお習字のお手本と硯すずりと紙を出して、二年生と四年生の人は算術帳と雑記帳と鉛筆を出して、五年生と六年生の人は国語の本を出してください。」
さあするとあっちでもこっちでも大さわぎがはじまりました。中にも三郎のすぐ横の四年生の机の佐太郎が、いきなり手をのばして二年生のかよの鉛筆をひらりととってしまったのです。かよは佐太郎の妹でした。するとかよは、
「うわあ、兄あいな、木ペン取とてわかんないな。」と言いながら取り返そうとしますと佐太郎が、
「わあ、こいつおれのだなあ。」と言いながら鉛筆をふところの中へ入れて、あとはシナ人がおじぎするときのように両手を袖そでへ入れて、机へぴったり胸をくっつけました。するとかよは立って来て、
「兄あいな、兄なの木ペンはきのう小屋でなくしてしまったけなあ。よこせったら。」と言いながら一生けん命とり返そうとしましたが、どうしてももう佐太郎は机にくっついた大きな蟹かにの化石みたいになっているので、とうとうかよは立ったまま口を大きくまげて泣きだしそうになりました。
すると三郎は国語の本をちゃんと机にのせて困ったようにしてこれを見ていましたが、かよがとうとうぼろぼろ涙をこぼしたのを見ると、だまって右手に持っていた半分ばかりになった鉛筆を佐太郎の目の前の机に置きました。
すると佐太郎はにわかに元気になって、むっくり起き上がりました。そして、
「くれる?」と三郎にききました。三郎はちょっとまごついたようでしたが覚悟したように、「うん。」と言いました。すると佐太郎はいきなりわらい出してふところの鉛筆をかよの小さな赤い手に持たせました。
先生は向こうで一年生の子の硯すずりに水をついでやったりしていましたし、嘉助は三郎の前ですから知りませんでしたが、一郎はこれをいちばんうしろでちゃんと見ていました。そしてまるでなんと言ったらいいかわからない、変な気持ちがして歯をきりきり言わせました。
「では二年生のひとはお休みの前にならった引き算をもう一ぺん習ってみましょう。これを勘定してごらんなさい。」先生は黒板に25-12=の数式と書きました。二年生のこどもらはみんな一生
な!なんだって!って
ここはMMR調に言いたいところだけど、
Windows10がポエム言ってくれるのがスゴい!と言うことで、
なんだか漏れなく早速Windows10にしたいところなんだけど、
私はもしかしたらミニ四駆をコースに走らせるとき車の上に涼しげなガラスの器を乗せて素麺を入れたら、
水を使わずに流しそうめんラップタイムたたき出せるんじゃない?って思わずブラックモーターをブラックエネループで走らせたいと思ったけど、
全くもって私は甥っ子のミニ四駆の関連のアイテムがたくさん入った工具箱というか、
そのようなよく分からない物を見て。
涼しげなガラスの器を車の上に乗せてそこに素麺を入れて走らせたら
まるでそう!
その雪国マイタケをも越える川端康成文学が誕生する瞬間かと思ったの!
そこでまた、
な!なんだって!って
よくよく考えたら、
ミニ四駆に素麺乗せて走らせたら速すぎるのでプラレールの新幹線の上に涼しげなガラスの器のせて、
その涼しげなガラスの器に素麺を入れて走らせた方がよっぽど風流ってもんよ。
そこで思ったのが、
甥っ子の持っているトミカ峠をパラパラというかナイトオブファイヤーのユーロビートをかけながら、
案の定ひっくり返っちゃって、
なんか全部峠が素麺だけになったわ。
衛生面で心配よね、そうなるってーと。
だからやっぱり無難なプラレールで流しそうめんした方が情緒があるってものだし、
茗荷の風味もいっそう増すこと間違いないじゃない。
でも、
私気付いちゃったの。
素麺流しって
鹿威しみたいに聞いて見て楽しむものじゃなかったってことに。
そっかメインは素麺食べなきゃ!ってことだし、
ただただ流れる素麺を見つめていたいだけじゃないってことよね。
私はただただ流れてぐるぐる回る素麺を眺めているのが好きだけどね。
でもさ、
歌にならないから、
あの歌新しくなるのかしらね?
最近さ、
予測変換で私の知らない流行語とか先走り変換候補でサジェストされるので、
新加勢大周さんの名前が実は新幹線駅じゃ無いことに気付いたガッカリさは
私の心にはサジェストされなかったわよ。
あ!そっか
今気付いたわ。
うふふ。
ふわふわの少し微かに甘さをほのめかすような甘みを舌の上でダイレクトに感じながら食す
サンドイッチはグッドモーニングの知らせを鳥さんたちが運んでくれるわ。
あなたよく食べるわね!
サンドイッチもらったら即飛び立って言っちゃうとか薄情じゃない。
なんか赤黄青となんだか今日はまともな感じがするわ。
結構彩りを考えると、
映えして見えるから
味はともかく映えさせてよろしくってわけよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
「わかりやすくて率直な曲がかなり売れる傾向にある」母親に『現代人の読解力の低下は音楽の世界にまで及んでいる』と言われた時の話
https://togetter.com/li/1445528
関連:日本語の乱れ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%AE%E4%B9%B1%E3%82%8C
兎(うさぎ)の歌のエピソード、童謡の「兎のダンス」の歌、「ソソラ ソラ ソラ 兎のダンス」、唱歌の「故郷(ふるさと)」の歌、「兎追ひ(い)し かの山」、とは(2012.8.16)
http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/2012816-324a.html
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/29672.html
言葉にしてもそうだけど、音楽も時代によって変化するものだし、逆にシンプルな曲や洗練された曲程後の世の中に残りやすいのだけどね。
三味線や琴、尺八で演奏する和楽器にしても洗練された曲程現代まで残っているものが多いし、現在でこそ童謡や唱歌に分類されるけど、兎のダンスとかに関しては大正当時にはそれに合わせて踊るほどの流行をしていた経緯もあったりする。
だから今の曲で読解力が低下している云々と言う指摘の方が、まさに日本語の乱れと同じ過ちを行っているよねと読んでいて率直に感じた事。
また読んでいて、この手の難解な曲を好む世代の音楽を馬鹿にしているのがサウスパークの例の素晴らしきチンチンものなんだろうね。
童謡は古い名曲と言うイメージがあるが、著作権は継続しているものが少なくないんだな。
ちいさい秋みつけた
サッちゃん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%83%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93
里の秋
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8C%E3%81%AE%E7%A7%8B
山口さんちのツトム君
本作の大ヒットにより、ツトム君の視点から幼馴染の女の子との別れを語るアンサーソング『ユミちゃんの引越し 〜さよならツトム君〜』が制作され、『みんなのうた』で1976年10月-11月に放送された。続編では、ツトム君の幼馴染みの女の子の名前がユミちゃんであることが明かされた。ようやく再放送されたのは2012年10-11月だったが、36年ぶりの放送だった。
これは知らなかった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%A5%E8%AC%A1
狭義には日本において大正時代後期以降、子供に歌われることを目的に作られた創作歌曲を指す。厳密には創作童謡(そうさくどうよう)と呼ばれる。この意味で用いる場合は、学校教育用に創作された唱歌や、自然発生的に作られたわらべ歌(自然童謡、伝承童謡)は含まれない。日本国外の子供向け歌曲についても、同様の傾向をもつものを「童謡」と呼ぶことがある。
noiehoie on tumblr • サヨクって本当にダメだなぁと思った件。
この件、是々非々を許さないカルト的怖さがあるんだが、分からん人には分からん。
教育勅語の件、「園児が教育勅語」ってバカにしてるが、この事件ってほっといたら 幼稚園→小学校→中学校〜と進む話だったんだぞ。
そうすると、カルトお墨付きの進学コースで人の上に立つ人材には、教育勅語を教義としてたたき込んでおかなければならないという意図が読み取れる。
【戦前教育を幼児に強制する塚本幼稚園】教育勅語の犯罪性について考える。 – お役立ち情報の杜(もり)
ちなみに御真影は、戦前の宗教弾圧では神道と毛ほども関係ないキリスト教会・仏寺に御真影が祀られ礼拝されていたわけだが、これは上の件と合わせると
それはそれとして、塚本幼稚園が
1. 紀元節(現在の建国記念の日)、天長節(同、天皇誕生日)などの祝祭日に、校長、教員、児童は学校に集まり、儀式を行わなければならない(以下、式次第)。
2. 式場中央に奉掲した天皇皇后のお写真の覆いを撤する。その際、一同上体を前に傾け、敬粛の意を表する。お写真を拝戴していない学校では、宮城遥拝を行う。
3. 国歌を歌う。
4. 校長が「教育勅語」を奉読する。参列者は奉読開始とともに上体を前に傾けて拝聴し、奉読終了後に敬礼してもとの姿勢に復する。
5. 校長が訓話を行う。
のような扱いをしていないから、たんなる戦後二次創作と嗤っていいものだろうか?ちょっと軽すぎない?
「皇室グラビア」と「御真影」 : 戦前期新聞雑誌における皇室写真の通時的分析 http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/192611/1/kjs_009_093.pdf
に目を通せば、そんな単純な物ではないと思うよ。
イギリスのタイムズより取材を受けました。|新着情報|塚本幼稚園幼児教育学園
笑顔で丁寧な先生、2~5歳の制服を来た子供達は、他の幼稚園と同様愛らしい。しばらくした後、園児たちの“おじぎ”をする光景に気付く。それはお互いにするのではなく、壁の写真に対してである。
ゆ~きよ、いわ~よ、われらーが宿り
ふふふん、ふふふん、ふふふふふふふん~
祝日ね。
損した気分じゃないかしら?
うふふ。
や~まはしろがーねー、かぜきるはや~さ~
ふんふんふん。
山の歌って雪山な感じが多いわよ、
夏の感じに涼しいかしら
と言って今日は山とか登らないけど。
そうそう、
ウイスキーがお好きでしょ、
って歌あるじゃない、
あの歌を浸っていい感じに歌い上げてる女は
飲ませてくれるわよ!
やっぱり心なしか茶葉が多い感じがするので、
うーん、このくらい少なくても大丈夫かしら?って心細い感じの量でも
やってみるときは、
出だしを見てから調整してみてね。
お口の中がスッキリ爽快よ!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
チャオ!アミーゴ!
教科書の表紙は、子供の描いた絵だったけど、すごく綺麗で幻想的だった。どこかの誰かが描いた絵、こんな絵を描ける子が信じられないような子がいるんだなと思った。
色々な曲が載っていたけど、全てを習う訳じゃなかった。色んなやってみよう、のコーナーもあった。でもだいたいそういうのは飛ばして、先生の選んだことをやった。選んだ基準は分からない。
唱歌はまずCDでお手本を聴いた。お手本は子供の歌声なのに、やっぱり信じられないほど上手で綺麗な声だった。スピーカーの向こうは別世界で、とても美しい世界が広がっているのを想像した。たまに、野暮ったい歌声の時もあって、今思えば古い録音だったのかなと思うけど、がっかりした。
自分が聴いてみたいと思う曲の一つに、武満徹のノーベンバーステップス、という曲があった。授業で流すことはなかった。
きょう、NHKで武満徹の合唱曲を聴いて、あの頃のスピーカーの向こうの別世界のこととか、会うことのなかった信じられない子供たちの事を思い出した。もしかしてあの頃の子供達は今日歌っていた人だったのかもしれない。
真実と神話とどちらかが大切なのではなく、どちらも車の両輪のように大切にしなければならない。
想像の中で過ごしている人がいたらそれはロマンチストではなくて現実に対応できない人である。
逆に現実ばかりに眼がいって理想を追わないのは人間として淋しい。
小説や詩歌などでも感性だけの作品はつまらないし、知性だけの作品も読めない。
例えば、童謡で説明すると、野口雨情の「シャボン玉」は感性だけで鑑賞することができる。虹色に光るシャボン玉が空に飛んでいく姿はそれだけで絵になる。ところが、これが子供が亡くなった時の哀しみを思い出しながら描いた作品だということを知れば(つまり知性で考えれば)作品が二重になって見えてくるはずである。長野県中野市の中山晋平記念館には「雨情が旅先で二歳の娘の病死を知らされ、その悲しみを詩に込めた」と解説してあるという。
ただ、娘が亡くなったのは詩ができた二年後という説もあるし、歌手の高石ともやは「間引きの歌」と考えている。ある人から「間引きで死んでいった子どもの歌だ」と聞かされたのがきっかけだ。高石の父親が生まれたのは、間引きが行われたこともある岩手県の山の中。高石も極貧の中で誕生した。父親はとてもかわいがってくれた。が、自分の間引きを考えたこともあったのではないか、という(『唱歌・童謡ものがたり』岩波書店)。
感性だけで鑑賞するのも知性だけで解読するのも双方が必要だ。
理性だけだと他人の痛みが分からない。感性、想像力がなければ分からない。ルソーが『エミール』でいうように「ひとり想像力のみが我々をして他人の苦しみを感じさせる」のである。
僕が高校を卒業したのはもう何年も前のことで、いい加減高校時代の友人と連絡を取る機会もほぼなくなり、それぞれが自分の人生を一人で歩んでいる2011年。とっくに就職し、結婚し家庭を築いているかつてのクラスメート達とは違い、恥ずかしながら僕はまだ文献や論文に囲まれた生活を送っている。
深夜、PCに向かって作業していると何故かいつも決まって思い出すのが、高校時代にクラスメートだったY君のことである。彼は今どうしているのだろうか。
僕の通っていた高校の文化祭ではクラスで出し物を企画したりすることはなかったが、毎年クラス対抗の校内合唱コンクールがあり、進学校なのに意外とクラス全員がかなり真剣に取り組んでいた。音楽系のクラブに所属していた僕はいつも合唱の責任者や指揮者を任されていて、高校三年生の時に僕が指揮者をやるのに対してピアノ伴奏をしてくれたのがY君だった。
正直Y君とはそれほど仲が良いわけではなかったし、かといって悪くもなかった。仲というものがそもそもなかった。それ以前にY君自体がかなり謎の多い子で、元々大人しい性格が災いしてかクラスでもY君と仲の良い子はいなかった。ただ分かっていることは幼い頃からピアノを本格的に習っていてかなり上手だったということだけだった。
何の曲をやったかははっきりと覚えていないが確か高田三郎の『水のいのち』より「雨」だったような気がする。この曲はアカペラではなく伴奏があるので、ピアノが弾ける生徒がいないといけない。ということで僕は、どうやらY君はピアノが上手いらしいという情報のみを頼りにして、Y君に伴奏をお願いした。
その時のY君の微笑みは今でも忘れることは出来ない。「なんで自分が…」「僕じゃなくても他に弾く人いるんじゃないの?」ということを、決して口には出さないが目で訴えつつ波立てずごまかすように苦笑い…というのが容易に見て取れた。本来なら考えておいてほしいと選択を任せてその場は一歩退くものなのだろうが、当時の僕はまだ人と接する方法を知らず、Y君の人の良さに浸け込み、無理やり拝み倒してOKを頂いた。今思うとつくづくウザい奴である。そういう訳でY君は(おそらく嫌々ながら)伴奏を引き受けてくれた。
練習は(僕とY君の間で多少のコミュニケーションの齟齬はあったにせよ)順調に進み、合唱コンクールは無事に終了、僕らのクラスは3位を取ることができた。まぁこのへんはなんともなく終わったから割愛する。
問題はそこからまた少しばかり時が経ち、卒業した後のパーティの席だった。
卒業パーティで僕らは学校の愛唱歌(校歌ではない)を歌うことになった。これが変わった歌で、構成が合唱部分→独唱部分→合唱部分となっていて、この独唱部分を、我が高校に昔から在籍する外国人の教員さんが歌うのが通例になっていた。そしてこのパーティでも例外ではなかった。そしてこの愛唱歌での指揮&伴奏が僕とY君に命じられたのだった。公式の場だから適当に4拍子振っておけばいいので指揮は問題ないが、伴奏はそうも行かない。やはり練習する必要があり、本来なら楽譜が必要なのだが何故かピアノ伴奏の楽譜が存在しないらしく、Y君は受験前後のバタバタしていた時期だというのに自分で伴奏編曲して練習してきてくれたのだった。
そして本番。愛唱歌を歌い、一つ目の合唱部分は無事に終わった。だが次の独唱部分で事件が起こった。
肝心の外国人の教員さんは結構なお年だからか、完全にその独唱部分を、僕の指揮もY君の伴奏もガン無視の自分のテンポで(しかも若干の調子っ外れで)歌い出したのだ。指揮はまぁ適当に振ってるのか振ってないのかでごまかせるが伴奏は完全にストップ。ちらりとピアノの前にいるY君の顔を見ると、どうしようどうしようとパニックに陥っていて次の合唱部分も弾けるか危ういくらいに焦っていた。そんな僕とY君のパニックなんか露も知らず外国人の教員さんは朗々と気持よく独唱部分を歌い続ける。
そして第二の合唱部分は伴奏がなかった。でも生徒はみんな散々イベントのたびに歌わされた愛唱歌なので別に伴奏なんてなくても歌えたのだった。
この地獄のような愛唱歌斉唱が終わった直後、僕は一礼するとすぐにY君の元に駆けつけて声をかけた。
「大丈夫?まぁあの人完全にお年だったから予想できない事故だったし…一番の合唱のところはすごくきれいな伴奏だったよ、ありがとう」
なんかそんな感じのことを彼に言った。実際泣きそうになりながらごめんなさいと呟くY君を慰めるために何を言ったのか正確には覚えていない。ただY君の伴奏は練習では完璧だったし、忙しい中伴奏編曲までやってくれたY君には感謝さえ覚えていた。
そして卒業パーティは僕とY君の心に深い傷跡を残して終わった。
数日後担任の先生から手紙が来た。そこにはY君とご両親が僕に非常に感謝していたこと、初めてピアノをやっててよかったと心から思えたと言っていたこと、そして良ければ手紙を下さいとY君の住所が添えられていた。
だが僕はいつか手紙を書こうと思っていたにも関わらず結局送らずじまい、そのまま引越しのドタバタで恩師から頂いた手紙も紛失してしまった。
以上が僕とY君の思い出である。
今でも自分は薄情な人間だなとこの事を思い出すたびに実感する。
ただY君にもし逢うことが出来たら一言言いたいのだ、「僕は君の友達です」と。何年もの間、君のことを忘れられなかったよと。会って、あの忌まわしい卒業パーティのことを笑って話し合える日はいつか来るのだろうか…