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はてなキーワード: 苦楽園とは

2023-07-08

anond:20230708082505

あー分かる。三宮パン屋探してもあんまよさそうなところがないと思ってたんだよな。

夙川苦楽園岡本あたりでパン屋巡りするのが好き。

2023-03-02

anond:20230302001009

でもノーベル賞を取る人って、キラキラエリート全然いないよね。

ビジネスエリートキラキラ経歴とは全然違う。

なんなら成り上がり感がある。

ではここでノーベル賞物理学者 湯川秀樹の経歴を見てみましょう。

1907年明治40年1月23日東京府東京市麻布区市兵衛町(現:東京都港区六本木)に地質学者・小川琢治と小雪の三男として生まれる。

1908年明治41年)、1歳の時に父・琢治(和歌山県出身)の京都帝国大学教授就任に伴い、一家京都府京都市移住する。このため、麻布の家には誕生後1年2ヶ月しか住んでない。

1歳から大学までは京都大学を出て一時大阪西宮いたこともあるが、人生の大半は京都で過ごしたことになる(ただし、ノーベル賞受賞の対象となった中間子論を発表したのは、湯川大阪帝国大学に勤めていた時であり、当時は西宮苦楽園生活していた)。

湯川自伝に「私の記憶京都に移った後から始まる。やはり京都が私の故郷ということになるのかもしれない」と記している[2]。

母方の祖父・駒橘は元紀州藩藩士であり、また湯川自体先祖代々和歌山県出身であるため“和歌山出身”と紹介されることもあるが、本人は京都市出身と称している。

和歌山県出身実業家松下幸之助郷里に「松下幸之助君生誕の地」の石碑があり、題字は同郷ということで湯川の筆によって書かれたが、湯川本人は和歌山暮らし経験はない。

5、6歳の頃、祖父・駒橘より漢籍素読を習った。駒橘は漢学の素養豊富で、明治以後は洋学を学び、晩年までずっと『ロンドンタイムズ』を購読し続けた人物であるという[3]。湯川自伝に「私はこのころの漢籍素読を決してむだだったとは思わない。…意味もわからずに入っていった漢籍が大きな収穫をもたらしている。その後大人書物をよみ出す時に文字に対する抵抗は全くなかった。漢字に慣れていたからであろう。慣れるということは恐ろしいことだ。ただ祖父の声につれて復唱するだけで、知らずしらず漢字に親しみその後の読書を容易にしてくれたのは事実である。」と記している[4]。

2022-11-24

anond:20221123125153

家庭科時間だけずっと机を舐める

味覚

念仏を唱え続ける奴

聴覚

・机に耳なし芳一並に何かを書き込んでる奴

視覚

・授業中に3階の廊下チャリ爆速するヤンキー集団

触覚

・前の席の女子の頭5cm位まで近付いて匂いを嗅ぐ奴

嗅覚

転勤族で転校が多かったけどこれらを一度に見れたのは後にも先にもこの中学しかない

其処は私立公立か以前に特別な所なんよな

五感を悟った者が同時に在籍する

動物園よりかは祇園精舎祇園、或いは苦楽園みたいな所や

ヤンキーもほんまは象か水牛に乗る所

2019-06-13

13日午前9時55分ごろ、兵庫県西宮市樋之池町の市道で、散歩中だった近くの「のぞみ保育園」の園児2人が乗用車にはねられ、病院搬送された。

県警は乗用車運転していた同市苦楽園四番町無職上田理恵容疑者(69)を自動車運転処罰法違反(過失致傷)容疑で現行犯逮捕した

。6歳女児が右肩骨折の重傷、5歳女児が両膝をすりむく軽傷という。

 
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