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2024-06-08

国会図書館デジタルコレクションで見る明治時代新撰組の扱い

明治時代新撰組庶民からどのように思われていたのかを調べるために、庶民の目に触れていそうな(?)雑誌記事だとか読み物だとかを抜粋していく。

明治10年『昔今豪雄見競鑑』

こちらは明治10年頃の「番付表」を集めた書籍のようだ。

『昔今豪雄見競鑑』は歴史上の英雄明治期の英雄を対比したものだが「都ノ猛勇 悪源太義平」と並んで「脱走ノ勇士 近藤勇とある

近藤勇ってどっかから脱走したっけ?と思ったが、幕府瓦解後の旧幕府軍のことを「脱走方」と言ったらしいのでそのことだろう。

同じく「古今英雄競」「本朝今昔英雄鑑」「古今英雄三幅対」などにも近藤勇の名が挙がっている。

このような番付でよく名前が挙がる程度には知られていたらしい。

明治16年『徳川義臣伝』岡田霞船

まずは近藤勇について。

近藤勇武勇衆に秀で当時其英名尤も人に知られり新徴組の隊長となりて始め京師に在り又大坂に退き伏見の戦ひ幕兵乱るる中より取て返し迫る官兵を追捲り銃丸足に当ると雖も屈せず大ひに勇名を現し江戸に返りてより諸士を煽動して甲府に至り勝沼駅にて寄手を破りしが遂に衆寡せずして敗軍なし残兵を率いて走りたるが官軍厳重に探索を遂流山に於て勇(いさみ)を捕へんとす勇(いさみ)力戦して縛に就き板橋駅にて斬せらる

新徴組と間違えられとるやんけ!

新撰組時代よりもその後の甲陽鎮撫隊時代のほうに力点が置かれた説明のような気もする。

土方歳三も紹介されている。

土方歳三幕府の旗下にして始め京師にあり伏見鳥羽戦争破れしより江戸に返り諸士を募り主家を再興せんと謀り軍議を決して榎本永井の人々と共に品海を脱し函館に趣き尚ほ奥羽の士を募り官軍の来るを待受屡々寄手を脳す然れ共官兵は新手を入替無二無三に攻立たるに脱兵防戦に尤も苦む歳三毎も真先に進み敵を切る数十人に及ぶ後乱弾にあたりて死すといふ。

新撰組について何も触れられてねえ!

とはいえ「義臣」と銘打っているだけあって悪いようには書かれていない。

明治18年『汗血千里駒』坂崎紫瀾

『汗血千里駒』は坂本龍馬主人公として、その名を一躍有名にしたという小説。その龍馬暗殺犯として近藤勇が登場する。

縦令ひ其不意を打ちたるにもせよ鬼神と呼ばれし海援陸援の両隊長をば斯く容易く一挙に斃し負せる其の手練と謂ひ肝気と謂ひ天晴れ日本一の剛の者と思はるるも実に理りなり彼の刺客は当時徳川将軍の御内に其人ありと聞えたる新選組の旗頭近藤勇等にてありしと

近藤勇とその腹心の土方歳三が、二人で近江屋に討ち入り、坂本龍馬中岡慎太郎を斬って、「そのとき義経少しも騒がず…」と高らかに謡いながら出ていき、今際の際にそれを聴いた龍馬が「あの刺客は只者ではない、彼らのような豪胆さがあってこそ大事を成せるのだろう」と慎太郎に語る、という描写があり、これがのちの様々な作品踏襲されていったようだ。

当時幕府の亡びなんとするは天の命なり民の望なり社会自然の気運なれば今は百の勇(いさみ)ありとも亦之を如何ともすることなきをば思はずして健気にも唯忠を己が仕ふる所にのみ尽さんとしたるは愚かにも又哀れとや謂わん

時代の流れに逆らって忠を尽くした健気だが哀れな武人…といった感じで「敵役でありつつ悪役ではない」という扱いに思える。

明治22年『女侠松竹梅』奥村玄次郎

偖は其方が近藤なるか。其方幕府を笠に着て国を憂ふる正義の士を多く害せし大罪人。此処で遇しぞ僥倖なれこれまで其方の手にかかり不幸にも寃に死したる正義の志士の忠魂を弔ふための復讐せん

お松・お竹・お梅という三人の娘が勤王の志士を助けて新撰組と戦う、といった話らしい。

こうしたいかにも勧善懲悪な読み物では「典型的な悪役」として描かれていたようだ。

明治26年『活文字』鈴木力・佃信夫

近藤勇の話

江川太郎左衛門が琴の譚に比らべて、劣る事なきは、近藤勇の謡なりけり、以て幕臣中の双美とこそは為す可けれ、左に説かむ。

武勇と剛胆とは、麾下九万の士人中、勇(いさみ)ぞ其第一位を占めたりける、さればまだうら若き身を以て、新撰組の頭領として、海内動揺の中心たりし京城鎮護の命を稟げ、一時其独力をもて、鷙悍狂躁の浮浪はらを打鎮め、幕廷擁護干将莫耶とは成りたりけり。

めっちゃ褒めるやん。

土方歳三は、豪邁不屈、肝気非常の男なれども常に勇(いさみ)を相輔けて、死生を共にせむ事を約し、巴港戦死の時に至る迄、其生前の交義を追想し、風吹く日雨降る夜ども、寒窓の下に俛泣し、時世は既に望なし、片時も早く、泉下に亡友を尋ねましとぞ歎ちけるとぞ、其人をしらまく欲せば、先づ其の友を見るべかる、この一斑の譚を見ても、勇(いさみ)が全豹をぞ推すに足る。

国粋主義系の雑誌らしいんだけど朝敵をこんなに褒めていいのか。忠義を尽くして死ぬ話がやはり好きなのか。

コラムの後半では坂本龍馬暗殺の話が書かれていて、この頃はやはり「龍馬を殺した男」という印象が強かったようだ。

明治29年『近藤勇の少年時代』中野三鷹子

『家庭雑誌』という婦人向け雑誌掲載されたコラムらしい。

著者本人が古老に取材したもので、幼少期の勇が近藤周助の養子に迎えられて「近藤勇」と名乗るまでを紹介している。

是より後のことは明治維新の史にくはしく、今更いふべき要もなし、唯其妻の事継嗣のことおよび処刑後の事并びに近藤勇と尤も関係ふかき土方歳三ことなどは、世に知られざるふし多しそは又時をかへて語らん。

として次号に「近藤勇の妻及子」、また別の号に「土方歳三少年時代」が掲載されている。

婦人雑誌でも「今更いふべき要もなし」と言うほど近藤勇知名度は高かったのだろうか。

花を浮べし徳川の流れの末荒浪立ち騒ぎて、二百六十余年は名残の夢となりける時、武士道の意気地を立て貫きて、板橋の草に赤きこころの血を染めたる近藤勇の名を知る人は、函館の浦吹く風に露と消えたる土方歳三の名を忘れざるべし。

かっこいい。

明治30年『幕府名士近藤勇』松林伯知

松林伯知は、永倉新八から『浪士文久報国記事』を借りパクした疑惑があることで知られる講談師で、新撰組講談主人公とした最初期の人物だったという。

巻末に「夢物語」と題した短編が収録されていて、それは函館に入った土方歳三が「公武合体成功した新政府のもとで陸軍を率いる近藤勇海軍を率いる坂本龍馬が仲良く会話する」という夢を見る、というifルート的な内容のようだ。胸熱

本編では、坂本龍馬暗殺したのは近藤勇ということになっているし、新撰組結成前に江戸近藤勇坂本龍馬が手合わせをしていた、というような場面も描かれている。

明治30年『坂本龍馬(名士伝)』竹林巌

少年世界』という、その名のとおりの少年向け雑誌掲載された坂本龍馬の伝記で、そこに近藤勇が登場する。

人と為り魁夷、斗酒を嗜なみ、勇悍独歩肝臼の如し。幕の末路に当り新選組の長となりて徳川氏の為め新日本の活舞台上に仇すること実に巨多なりとす。彼は常に歩百歩の外に潜行して西郷大久保坂本等を暗殺せんと睨むこと茲に年ありき。就中龍馬が大勇は向に新選組百有余人をして全く色なからしめ、以て其長たる勇(いさむ)の面目を天下に唾し去り。(中略)勇(いさむ)は今や血燃え、涙滾りて自から禁ずる能わず。すなわち刎頸の友、土方歳三を招きて何をか耳語すること久し。忽ち相頷きつつ頗る決色ありき。

として近藤勇土方歳三は、二人して坂本龍馬暗殺に向かうのだった、という筋立てになっている。暗殺の場面は『汗血千里駒』を踏襲している。

明治31年『新撰組十勇士伝』松林伯知

こちらも松林伯知の講談を筆記したもの

前述の『幕府名士近藤勇』には沖田総司永倉新八は出てこないが、こちらの『新撰組勇士伝』には登場する。

ただし、沖田が天才剣士だとか、そういうキャラクター付けはまだ無く、せいぜい「名前のある脇役」くらいの立ち位置のようだ。

芹沢鴨暗殺山南敬助切腹伊東甲子太郎との敵対池田屋事件などのエピソードはある。

また、こちらでは龍馬暗殺近藤本人ではなく「近藤勇の命を受けた佐々木只三郎」によるものということになっている。

京都見廻組佐々木只三郎らが龍馬暗殺したという説は明治2年には出ていたようなのでそれを取り入れたものか。

明治41年『二十世紀之京都』

京都観光ガイドブックらしいが、壬生寺についての紹介で新撰組言及がある。

節分には疫除祈祷の為め参詣者群れを為せり、去れば維新前後天誅組と称し近藤勇土方歳三など当寺に立籠り壬生浪士といへば婦人子供の戦慄せし当時を思へば御代太平を喜こばぬ者はない

当時の京都人の認識がうかがえるものの、「天誅組」といえば倒幕派武装集団なので新撰組とは正反対存在である

単なる勘違いなのか、それとも庶民あいだでは混同されていたのか。

明治44年『幕府名士近藤勇』『怪勇後の近藤』玉田玉秀斎

松林伯知のものと同じタイトルだが別の講談師によるものらしい。

こちらには沖田総司永倉新八斎藤一らも登場するが、池田屋事件の場面において、

中にも沖田惣司の働きに至っては実に目ざましい、此処彼処と戦ふて居りまする中に、最う最後と思ふ、折りしも何処からか一人の敵が、惣司の袖の下を潜って逃げんとする 沖田「己れッ………」と云ひながら躍りかかつて、エイッ……只だ一刀に斬って落とした、其の時に急に持病の肺患が起つて其の場に気絶をした

とあり、喀血ではないが、沖田総司の発病の描写があるのが興味深い。

同じ明治44年に刊行された鹿島淑男『新選組実戦史』(デジタルコレクションには1975年の復刊版しかない)にも同様の記述があり、そちらは新聞連載をまとめたものだというので、講談師が紙面で読んで取り入れたものか。

ちなみに『新選組実戦史』は吉島力『新選組顛末記』の元ネタで、『新選組顛末記』は子母澤寛新選組始末記』の元ネタらしい。

まとめ

明治の始めにはまず「近藤勇個人が知られ、「新撰組」はそれに従属する情報にすぎなかった。

・『汗血千里駒』によって坂本龍馬の人気が高まるにつれて、「坂本龍馬暗殺した男」として近藤知名度を上げた。

近藤の腹心として土方歳三が登場することは多かったが、それ以外の隊士たちはほとんど取り上げられなかった。

近藤は概ね「維新志士の敵ではあったが立派な剣士だった」と捉えられていた。

しかエンタメ寄りの勧善懲悪ものでは典型的な悪役を演じることもあった。

・やがて永倉新八の『浪士文久報国記事』などをもとに、近藤勇主人公とした講談が演じられるようになった。

明治末にはさまざまな証言資料が揃ってきてディテールが深まり近藤土方以外の隊士が取り上げられることも増えていった。

・やっぱり京都からの評判は悪かったらしい。

2021-03-02

日本建築空間』における建築百選

anond:20210301191826

 

増田の蛮勇には敬意を表したいが、さすがに突っ込みどころが多すぎる。

同種の百選としては2005年新建築臨時増刊『日本建築空間』(asin:B00GUJ1HIE)がある。

https://japan-architect.co.jp/shop/special-issues/book-110511/

2005年なので現存しないものや非公開の私邸が含まれるけれども、優れた選出だと思うので紹介したい。

 

古代 592-1180

法隆寺西院伽藍飛鳥時代奈良
新薬寺本奈良時代末期 奈良
山寺八角763年奈良
平等院鳳凰堂 1053年 京都
浄瑠璃寺本堂 1107年 京都
三仏寺投入堂(三仏寺奥院) 平安時代後期 鳥取
高蔵寺阿弥陀堂 1177年 宮城

中世 1180-1543

浄土寺浄土 1194年 兵庫
東大寺南大門 1199年 奈良
長寿寺本鎌倉時代初期 滋賀
西明寺本堂 鎌倉時代初期 滋賀
熊野神社長床 鎌倉時代初期 福島
法界寺阿弥陀堂鎌倉時代初期 京都
厳島神社社殿 1241年 広島
永保寺開山堂 1352年 岐阜
東福寺龍吟庵方丈 1387年 京都
正福寺地蔵堂 1407年 東京
吉備津神社本殿拝殿 1425年 岡山
慈照寺東求堂 1485年 京都

近世 1543-1853

妙喜庵待庵 1581年 京都
園城寺勧学院客殿 1600年 滋賀
園城寺光浄院客殿 1601年 滋賀
妙法院庫裏 1604年 京都
大崎八幡宮本殿・石の間・拝殿 1607年 宮城
三渓園聴秋閣 1623年 神奈川
二条城二の丸御殿 1626年 京都
西本願寺飛雲閣 1628年 京都
西本願寺書院 1633年 京都
延暦寺根本中堂 1640年(再建) 滋賀
三渓園臨春閣 1649年 神奈川
曼殊院書院 1656年 京都
桂離宮 1663年 京都
慈光院書院 1672年奈良
江川住宅江戸時代前期 静岡
閑谷学校講堂 1701年岡山
東大寺大仏殿(東大寺金堂) 1705年(再建) 奈良
大峰山寺本 1706年奈良
大国住宅 1760年岡山
岡山後楽園流店 江戸時代後期 岡山
栗林公園掬月亭 江戸時代後期 香川
角屋 1787年京都
さざえ堂(旧正宗寺円通三匝堂) 1796年福島
大徳寺孤篷庵忘筌 1799年京都
渡邉住宅 1817年 新潟
羽黒山三神合祭殿 1818年 山形
高野住宅江戸時代後期 山梨
金比羅大芝居(金丸座) 1835年 香川
岩根沢山神社本殿庫裏 1841年 山形

近代 1853-1945 ※は現存しないもの

柏倉家住宅座敷蔵 1866年山形
旧大明寺聖パウロ教会堂1879年愛知 ブレル、大渡伊勢吉(棟梁)
宝山寺獅子1882年奈良吉村太郎(棟梁)
風間住宅1896年山形
武徳殿 1899年京都 松室重光
花田家番屋 1905年北海道
吉島住宅1907年岐阜西田伊三郎ほか(棟梁)
古谿荘 1909年静岡
高松城披雲閣 1917年香川清水
住友ビルディング1926年大阪住友合資会社工作部(長谷部鋭吉・竹腰健造)
聴竹居1927年京都藤井厚二
大倉精神文化研究所本館 1932年神奈川長野宇平治
軽井沢 夏の家 1933年長野 アントニン・レーモンド
※両関第二工場酒蔵 1933年秋田
日向別邸 1936年静岡ブルーノ・タウト
近江神宮1940年滋賀 角南隆、谷重雄
前川國男1941年東京前川國男
吉田五十八1944年神奈川吉田五十八

現代 1945-2005 ※は現存しないもの

神奈川県立近代美術館 1951年神奈川坂倉準三
斎藤助教授の家 1952年東京清家清
コアのあるH氏のすまい 1953年東京 増沢洵
南台の家(吉村順三邸) 1957年東京吉村順三
八幡浜市立日土小学校1956年愛媛松村正恒
香川県庁舎 1958年香川丹下健三
スカイハウス(菊竹清訓邸) 1958年東京菊竹清訓
ホテルオークラのメインロビー1962年東京谷口吉郎
日本生命日比谷ビル(日生劇場) 1963年東京村野藤吾
国立屋内総合競技1964年東京丹下健三
大学セミナーハウス1965年東京 吉阪隆正
千代田生命本社ビル1966年東京村野藤吾
白の家 1966年東京篠原一男
塔の家(東孝光邸) 1966年東京東孝光
※虚白庵(白井晟一邸) 1970年東京白井晟一
KIH7004 1970年東京鈴木
中銀カプセルタワービル1972年東京黒川紀章
大分県医師会新館 1972年大分磯崎新
プロジェクトマグネット1973年店舗模型倉俣史朗
阿部勤邸 1974年埼玉阿部
北九州市中央図書館1974年福岡磯崎新
幻庵 1975年愛知石山修武
上原通りの住宅1976年東京篠原一男
中野本町の家 1976年東京伊東豊雄
小篠邸 1981年兵庫安藤忠雄
弘前市斎場1984年青森前川國男
SPIRAL 1985年東京槇文彦
バーオブローモフ1989年福岡倉俣史朗
海の博物館1992年三重内藤廣
豊田市美術館1995年愛知谷口吉生
ウィークエンドハウス1998年群馬西沢立衛
せんだいメディアテーク2000年宮城伊東豊雄
横浜港大さん橋国際旅客ターミナル2002年神奈川アレハンドロ・ザエラ・ポロ、ファーッシド・ムサヴィ
金沢21世紀美術館2004年石川妹島和世西沢立衛
 
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