いわゆる死者の算術において、現在のイスラエルとハマスの戦いは不均衡な様相を呈している。最初の4日間で、イスラエルの空爆により350名以上のパレスチナ人が死亡し、その多くは民間人だ。ひるがえってハマスのロケット弾は4人のイスラエル人を殺した。しかしこのような一方的な流血事態が、アムネスティ・インターナショナルや、もうすぐEU議長国の6ヶ月任期を終えるサルコジ仏大統領らが議論するように、イスラエルを「不均等な力の行使」の件で有罪にするのだろうか?
「均衡」なる概念は正義の戦争という考えと密接に結びついており、それは1907年にハーグ会議で定められた交戦規定条約にて重要視されている。しかし現在よく知られるように、「均衡」とはいささか不安定なアイデアだ。欧米の学説においては、それは2つの意味がある。(ひとつは)開戦にあたり、「jus ad bellum(武力行使に際し、許容可能な正当性)」、つまり大儀が力の行使を正当たらしめる、後に起こる良き事が不可避の痛みと破壊を上回らねばならない。(もうひとつは)交戦に際し、「just in bello(戦争において許容できる行動)」、すなわちいかなる行動も民間人に対する害と等しいだけの軍事的勝利しか許されないという事だ。
人権法の発展には「just in bello」の考えが重要であった。1949年のジュネーブ会議では、主に国家間の紛争における民間人保護の議題が扱われ、1977年には内戦での取り扱いも明白に含むべく、改定された。イスラエルとアメリカは後者の協定を批准していない。とはいっても、具体的・直接的軍事目的との兼ね合いをはるかにしのぐ民間人の死や負傷・資産の破壊といった偶発的損害を招くような行動を軍隊が避けなければならない、という原則に対して心底疑いを持っているわけではない。
それぞれの紛争に特有の曖昧さが、議論の焦点となる。イスラエルは民間人の死を避けるべく十分な努力を払ったか?パレスチナ側の警察官は戦闘員なのか?目的が十分な抑止力の回復だとしたら、イスラエルの圧倒的な軍事力は正当であり、ときには必要だった。イスラエルに言わせれば、意図こそが重要なのだ。イスラエルが民間人の死を回避すべく努力するのに対し、ハマスはロケット弾で故意にイスラエルの民間人を殺そうとする。ただ、ハマスのやり方が相対的に効果がないだけだと。ハマスは2つの点で反論する。均衡しえないくらい弱い側、つまりパレスチナ側は母国をイスラエルの占領から解放するという目的のために荒削りな手段しか取れない。また、ほとんどのイスラエル人が軍務に服するので、イスラエルには民間人はいないという論法をハマスはしばしば口にし、これはさらなる議論の対象となっている。
「just ad bellum」と「just in bello」を分けるのは難しい。無差別殺人は戦争の正当性に大きな影響を与える。。そして戦闘における「均衡した」行動でさえも、ひとたび戦争そのものが不正だとみなされれば、非難される。イスラエルとパレスチナの関係においては、合法性に関する議論はたやすくそれぞれの歴史に帰結する。お返しの始まりがハマスのロケット攻撃なら、イスラエルには自衛の権利がある。1948年にイスラエルが生まれた時、パレスチナの占領・資産没収があったから、抵抗の権利があるとパレスチナ人は主張する。「均衡」いかんに関わらず、論争が収まるまで無垢の人々が死んでいくのだろう。
/を終わりに入れちゃダメだよ。 ○ http://www.economist.com/world/mideast-africa/displaystory.cfm?story_id=12867302 × http://www.economist.com/world/mideast-africa/displaystory.cfm?story_id=12867302/