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2024-08-05

ポジティブ意味で「上澄み」を使うのは誤用なのか

「上澄み」とはもともと、液体中の不純物が下層に沈んだあとの、上層に近い綺麗な部分のことを言う。そこから比喩的に「全体における良い部分」のことを指すようになった。

ところが、そうした用法は近年広まった誤用である、という主張がある。「上澄み」はネガティブ意味で使われるべきだ、というのである


しかし、たとえば酒造や製油などにおいて「上澄みをすくう」のは、多くは底に沈む不純物を除くためであって、不純物を得るほうが目的だということは少ないだろう。その語源を考えれば、「上澄み」をポジティブ意味で捉えるほうが自然だと思うのだが。

実際にどういう使われ方をしてきたのか気になったので、比喩的意味で「上澄み」を使っている古い用例を探してみた。

明治26年 饗庭篁村霜柱

古人の名作 皆な下習いが有る 紫式部源氏物語も 家筋だけに一体能文のうえ 日記も作り 歌の詞書もし 其外文や雑文に筆を練り 学は元より日本記の局と呼るる程までなり 其の上澄が彼の大作となッたのだ

調べたかぎりでは最も古い用例。上澄みが「良い部分」を指している用法だが、文章全体では上澄みを生むための「下習い」の重要性を説く。

明治32年『團團珍聞

アア世間は泥なるかな泥なるかな、吾独り澄めりと云う者も、矢張り泥の中の上澄を吸うの人なるのみ

上澄み自体は「良い部分」を指すが、文意としては「綺麗な上澄みも所詮は泥の一部にすぎない」といったところ。

明治39年 虚心窟主人『酔醒禅』

偽善は泥水の上澄の如し酌むべからず、移すべからず、忽ち濁ればなり。

同じく泥と上澄みに喩えた用法

明治39年 エレンケイ二十世紀児童世界

然るに学期を分ち、試験を行い、小刀細工に類する形式的堀割を通して、之を流し込もうとすれば、肝腎な熱流の熱が失せ、有益なる含有物は途中に沈殿してしまって、児童の頭に這入るものは、ただ水のような上澄ばかりとなる。

翻訳書。上澄みよりも沈殿物のほうが有益だというので、明確に上澄みを「悪い部分」としている用法である

明治39年『新仏教

常時百余名という寄宿制も、実は変らぬところは六七十人の堕落書生で、濁った水の上澄を酌むように、余の三四十人は、毎日新陳代謝、だまされて入社し、裸になって退社する者等を総称して見た話して、頭数は百でも二百でも其中に書籍を読む者は、只の一人もないので、只稼いで喰って寝て居るのと、只喰うや喰わずに寝起して居るのと、人の物を盗って喰って居るのと、夫等が下方の沈殿物で、入社即退社が上水の澄んだ所なのだ

沈殿物が酷すぎるが、上澄みが優れているという書き方でもない。どちらかというと「上層は流動的・下層は停滞的」というイメージか。

明治41年 田岡嶺雲『有声無声』

快楽上澄をのみ飽まで飲んで、渣滓の苦きには吸い至らず、花婿の其当夜に死んだ彼は永久に花婿である、彼を人生の最も幸福な者というも、強ち不当でない。

「美味しいところだけ味わって死んだ」という話で、やや皮肉めいた書きぶりだが、上澄みを「良い部分」とした用法ではある。

大正2年 小泉要智『叟骨集』

前者の唯理想にも附かず、後者の唯現実にもなづまず、底までかきまぜずに措いて、上澄みの処で一致を立てん

極端な理想主義と極端な現実主義の上澄みを取る、という話で、ちょっと独特の用法な感じがする。「良い部分」ではあるか。

大正5年 中条百合子『貧しき人々の群』

苗字もなく、生きて居るのさえうんざりした者達の集って居る、暗い罪悪にまみれて居る世界では、そのような事は何でもない。三面記事にさえ、載せきれない「彼らのいがみ合い」の一つとして、世の中の上澄みは、相変らず、手綺麗に上品に、僅かの動揺さえも感じずに、総てが、しっくり落付いて居たのである

上層は綺麗で上品で落ち着いているが、それは下層の濁りが上層まで伝わらないからだ、という用法

大正7年 有島武郎『生れ出る悩み』

心の上澄みは妙におどおどとあわてている割合に、心の底は不思議に気味悪く落ち着いていた。

単なる表層・深層の言い換えだが、「上層は流動的・下層は停滞的」のイメージが入っているかも。

とりあえずこのあたりで。

以上から考えるに、「上澄み」の用法さらに4つに分類できる。

1. 上澄みは全体のなかの「良い部分」である

1-a. 上澄みは「悪い全体」のなかの「良い部分」である

2. 上澄みは全体のなかの「悪い部分」である

3. 上澄みは全体のなかの「流動的な部分」である

「上澄み」という語のイメージは「良い部分と悪い部分が上下に分離している」といったものであり、単純には1の用法なのだが、1-aの用法だと「実は悪い部分が底に隠れている」「実は沈んだ部分のほうが本質である」という逆張り的な文意になることが多いため、次第に「上澄み」自体に「うわべだけで本質的でない」ような印象がついていった、ということだろう。それが極まったのが2の用法。3の用法だけは独自な感じ。

最初の話に戻ると、

強さの評価で上澄み、と言われると表層に位置する浅い存在、すなわち弱い存在のように感じた

液体の上澄みは、底に沈澱したものがあり、それを本質と捉えて「上澄み=表層的な浅い理解」と喩えた慣用表現だったはず

というのは2の用法であるが、これが「本来用法」「正しい用法であるとは言い難いと思われる。少なくとも、さらに古くから「上澄み=良い部分」とした用法存在してきたわけで、今となってはどちらの用法も定着していると考えるべきだろう。

というわけで、ポジティブ意味の「上澄み」も気軽に使っていこうな。

2021-09-14

見て閘門

石井閘門 - 宮城県石巻市北上川にある閘門1880年(明治13年)に完成した、日本初の西洋式の本格的な閘門現在日本国内で稼動する閘門の中では最古のものであり、国の重要文化財指定されている。

脇谷閘門 - 宮城県石巻市1931年12月竣工北上川本川旧北上川間の船の通行のために、脇谷洗堰に併設された。

見沼通船堀 - 埼玉県さいたま市。見沼代用水と芝川とを結ぶ閘門運河である昭和初期以降から使用されておらず、現在さいたま市緑区にその復元された遺構が残る。1982年(昭和57年)、国の史跡指定された。

荒川ロックゲート - 東京都江戸川区小松川東京都流れる荒川旧中川を結ぶ。大震災時などの災害時に水上交通有効であることから改めて水路が見直されることになり、2005年10月に供用開始された比較的新しい閘門

扇橋閘門 - 東京都江東区猿江一丁目。1976年(昭和51年)完成。小名木川に設置されている。

中島閘門 - 富山県富山市1934年(昭和9年)8月完成。富山駅北側付近から富山湾の河口まで南北に続く、富岩(ふがん)運河中流にあるパナマ運河閘門現在運用されており、観光船が運行し往来できる(冬季運休)。国の重要文化財指定されている。

牛島閘門 - 富山県富山市中島閘門と同時着工し1934年(昭和9年)8月に同時完成。富岩運河最上流部(南端)の富岩運河環水公園(旧 船溜まり)内にあり、並行するいたち川とを結ぶ現在運用可能パナマ運河閘門。国の登録有形文化財登録されている。

松重閘門 - 愛知県名古屋市中川区堀川中川運河とを結んでいた。1968年に閉鎖され、現在閘門としては使用されていない。名古屋市有形文化財1993年(平成5年)には名古屋市都市景観重要建築物等に指定されている。

船頭平閘門 - 愛知県愛西市立田町福原木曽川長良川の間をつなぐ。1899年(明治32年)に着工、1902年(明治35年)に完成した。1994年(平成6年)にはそれまでの手動から電動への近代化改修工事が行われた。2000年(平成12年)5月には明治期に建設されて現在でも使用されている貴重な閘門であるということで重要文化財指定された。冬季を除き、木曽川上流の葛木港より観光船が運航。一般には無料での往来解放がされている。

三栖閘門 - 京都府京都市伏見区宇治川と濠川を結ぶ伏見港に1929年(昭和4年)に建設された。いまは遺構が三栖閘門資料館として開放されている。

毛馬閘門 -大阪府大阪市北区淀川旧淀川(大川)を隔てる閘門明治40年(1907年)8月に完成した旧第一閘門1976年(昭和51年)まで使用され、現在重要文化財指定されている。

尼崎閘門(尼ロック) - 兵庫県尼崎西海岸町地先。日本初のパナマ運河式。物流機能としての運河を今なお支える船舶重要玄関口となっている。

下関漁港閘門 - 山口県下関市本土彦島を隔てる小門海峡(関門海峡小瀬戸)にあるパナマ運河水門1936年の設置以来、現在も稼動中。

三池港閘門 - 福岡県大牟田市1908年(明治41年) 完成。2008年機械遺産指定2015年世界文化遺産認定された明治日本産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業構成資産の1つ。

 
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