「不換紙幣」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 不換紙幣とは

2024-09-16

anond:20240914233321

一つ

公務員が使っているのは税金ではなくあくまで公金

税金民間から徴収するお金であって、政府地方自治体が使うお金ではない

公金は由来は問わず公的機関で使われるお金のこと

金本位制であったなら公金の由来は税金と言ってもいいかもしれないが、不換紙幣が主流の現在では間違いと言っていい

2022-05-16

anond:20220516123653

通貨の仕組を知りたいが故の質問です。

なので、できれば架空の話という前提でお願いします。

ある時、突然国ができて、通貨が全くない状態紙幣発行し始めるという前提。

というか、架空の話でなくても、明治政府不換紙幣最初流通させるときはこの仮定状態だったのでは?

なぜならそれまで発行していた兌換紙幣そもそも信用されていなかったし、兌換紙幣健全状態では流通していなかったはずなので(健全流通してたら不換紙幣に切り替得る必要なかったはず)。

通貨最初流通し始めるとき(まだ誰もお金持ってない)どうやって

流通し始めるの?

例えば新しい国ができ、新しく(初めて)不換紙幣を発行することになったとき、以下のようなステップを踏んで通貨流通し始めるという理解で正しい?

誰か教えて。


     ↓

     ↓

     ↓


    2021-09-29

    anond:20210929084238

    不換紙幣は)従来のただの貴金属とは違いますね。現実にある何かを生み出す力を持った存在です。

    2021-09-06

    原始人がネックレスをつけた理由 パート6

    収集品の属性

    人類は小規模で、ほぼ自給自足し、互いに敵対する部族進化してきたので、好意の追跡の必要性を減らし、これまで検討してきた他の人類の富の移転制度可能にするために、収集品を使用することは、人類の種の期間のほとんどにおいて、物々交換の規模の問題よりもはるか重要であった。実際、収集品は互恵利他主義の仕組みを根本的に改善し、他の種にはない方法人間が協力することを可能にした。他の種では、記憶信頼性が低いために互恵利他主義は大きく制限されている。他の種には、大きな脳を持ち、自分で家を建て、道具を作って使うものもいる。しかし、互恵利他主義の仕組みをこれほどまでに改善した種は他にない。その証拠に、この新しい開発は紀元前4万年には成熟していた。

    メンガーはこの最初貨幣を「中間商品」と呼び、本稿では収集品と呼んでいる。刃物のように他の用途にも使える道具は、収集品としても使える。しかし、富の移転を伴う制度価値を持つようになると、収集品はその収集性のためだけに製造されるようになる。その性質とは何か。ある商品価値ある収集品として選ばれるためには、収集品としての価値が低い製品比較して、少なくとも次のような望ましい性質を持っていなければならない:

    1. 偶発的な損失や盗難からより安全であること。歴史ほとんどの場合、これは持ち運びが可能で隠しやすいことを意味していた。

    2. 価値を偽造することが難しい。これらの重要な部分は、以下に説明する理由から、偽造できないほど高価であり、それゆえに価値があると考えられる製品である

    3. この価値は、単純な観察や測定によって、より正確に近似していた。これらの観測は、より信頼性の高い完全性を持ちながら、より低コストであっただろう。

    世界中人間は、これらの特性をよりよく満たすアイテムを集めたいという強い動機を持っている。この動機の中には、おそらく遺伝的に進化した本能が含まれている。このような物は、(特に優れた明確かつ近接した理由ではなく)集めることを純粋に楽しむために集められ、そのような楽しみは人類文化においてほぼ普遍的である。直近の動機の1つは装飾であるアリゾナ大学考古学であるメアリー・C・スタイナー博士によると、"装飾は現代人の採集者の間では普遍的ものである "という。進化心理学者にとって、このように、自然淘汰という観点からの最終的な説明はつくが、快楽以外の近親的な根拠がない行動は、遺伝的に進化した快楽が行動の動機になっているという有力な候補になる。例えば、このエッセイの推論が正しければ、希少品や美術品、特に宝石を集めるという人間本能がそうである

    (2)については、もう少し説明必要であるコストが高いという理由商品生産することは、一見すると非常に無駄なことのように思える。しかし、永遠にコストのかからない商品は、有益な富の移転可能にすることで、繰り返し価値を高めていく。取引可能になったり、コストが低くなったりするたびに、コストはより多く回収される。最初は全くの無駄であったコストは、多くの取引償却されていく。貴金属貨幣価値は、この原理に基づいている。また、収集品は、希少性が高いほど、また、その希少性が偽造できないほど、価値が高くなる。また、芸術品のように、証明可能技術独自人間労働力製品に加えられている場合にも適用される。

    我々は、この3つの要素を兼ね備えた製品発見したり、作ったりしたことはない。アート収集品(この言葉現代文化で使われている意味ではなく、この論文で使われている技術的な意味で)は、(2)を最適化するが、(1)や(3)は最適化しない。一般的ビーズは(1)を満たしているが、(2)や(3)は満たしていない。宝石は、最初は最も美しく、あまり一般的ではない貝殻で作られるが、最終的には多くの文化において貴金属で作られるため、3つの特性をよりよく満たすことができる。偶然ではないが、貴金属の宝飾品は鎖や指輪のような細い形をしていることが多く、無作為に選んだ場所安価に鑑定することができた。貨幣さらに改良されたもので、小さな標準的な重さと商標を鑑定の代わりにすることで、貴金属を使った小さな取引コストを大幅に削減した。貨幣は、収集品の進化のほんの一歩に過ぎない。

    旧石器人が作っていたモバイルアート(小さな置物など)も、この特徴によくマッチしている。実際、旧石器人が作ったものの中で、実用性がなく、(1)〜(3)の特徴を備えていないものほとんどない。

    ホモ・サピエンスには、役に立たない、あるいは少なくとも使用されていない火打石の不可解な例がたくさんある。我々はクロヴィス族の使えない火打ち石について述べた。Culiffeは、ヨーロッパの中石器時代発見された数百個の火打ち石について述べているが、これらの火打ち石は丁寧に作られたものであるが、顕微鏡写真分析により、切断には使われなかったことが明らかになっている。

    リントは、宝石のような特殊目的を持った収集品に先立つ、最初収集である可能性が高いのである。確かに最初火打石コレクターは、刃物としての実用性を求めて作られたはずだ。富の伝達手段としてのフリントの付加価値は、本稿で紹介する制度を開花させるための偶然の副次的効果であった。このような制度は、特殊目的収集品を製造する動機となったであろう。最初は切削工具として実際に使用する必要のないフリントであり、その後、ホモ・サピエンスサピエンスが開発した他の様々な種類の収集である

    新石器時代中近東ヨーロッパの多くの地域では、一部のジュエリー標準化され、美しさより標準的サイズやアセイ性が重視されるようになった。商業地域では、このような宝石の量が伝統的な宝石の量を大きく上回ることもあった。これは宝飾品と貨幣中間的な段階であり、収集品の一部が貨幣的な形態をとるようになったのである紀元前700年頃、リディアンの王たちは前述のようにコインを発行し始めた。標準的な重さの貴金属は、市場で、賃金労働者が、あるいは徴税者が、ランダムに選ばれた場所コイル状のワイヤーを切断する代わりに、商標、すなわち造幣局ブランドを信頼して「評価」することができるようになったのである

    収集品の属性が、貴金属コイン、そしてほとんどの非現金通貨を支えてきた準備商品共通しているのは偶然ではない。本来貨幣は、これらの特性を、人類先史時代ほとんど全ての時期に使用されていた収集品よりも純粋な形で実現したものである

    20世紀新機軸は、政府による不換紙幣の発行である。(「フィアット」とは、それまでの金や銀をベースにした通貨のように、基軸商品裏付けられていないことを意味する。) 不換紙幣は、交換手段としては一般的に優れているが、価値の保存手段としては非常に劣ることが証明されている。インフレで多くの「たくわえ」が破壊された。前述の収集品に共通する希少品やユニークアート作品市場が、前世紀にルネッサンスを迎えたのは偶然ではない。我々の最も進んだハイテク市場の一つであるeBayは、これらの原始的経済性を持つ物を中心にしている。進化過程重要役割果たしていた頃に比べて、我々の富に占める収集品の割合が減ったとしても、収集品の市場はかつてないほど大きくなっている。収集品は、我々の本能的な欲求を満たすと同時に、安全価値の貯蔵庫としての古代役割果たしている。

    結論

    一方的もの相互的なものも、自発的もの強制的ものも、多くの種類の富の移転には取引コストがかかる。自発的取引では、双方が利益を得る。真に無償の贈り物は、通常、親族利他主義行為である。このような取引は、何かを作るという物理的な行為と同様に、一方または両方の当事者価値を生み出す。貢物は勝者の利益になり、損害賠償判決被害者利益になるだけでなく、さらなる暴力を防ぐことができる。遺産相続は、人間次世代親族財産を渡す最初動物となった。これらの家宝は、商品取引担保や代金、飢えをしのぐための食料、あるいは結婚の際の花嫁代金などに使われた。このような移転を行うためのコスト取引コスト)が十分に低いかどうかは別問題である。このような取引を初めて可能にしたのが、収集である

    ほとんどの動物が非親族との遅延互恵的な協力関係を築けないという「囚人のジレンマ」を解決するために、収集品は我々の大きな脳と言語を増強したのである。それは、どの人が何をしたかというエラーと、その行為によって生じた価値や損害を評価する際のエラーである一族部族のサブセットを形成する、小さくてすぐに地元に帰れる親族グループ、または大家族)の中では、我々の大きな脳はこれらの誤差を最小限に抑えることができたので、世間の評判と強制的制裁が、相手が将来協力したり欠陥を犯したりする能力によって提供される限定的動機に取って代わり、遅延した互恵関係の主な執行者となったのであるホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシスホモ・サピエンスサピエンスも、同じように脳のサイズが大きかったので、地元一族の全員が、他の地元一族の全員の好意を把握していた可能性が高い。小さなローカル親族グループの中では、収集品を取引に使うことは最小限だったかもしれない。部族間では、好意の追跡と収集品の両方が使用された。部族間では、評判に代わって収集品が完全に互恵関係執行者となったが、暴力は依然として権利執行に大きな役割果たしていたし、高い取引コストのためにほとんどの種類の取引ができなかった。

    一般的な富の貯蔵と富の移転手段として有用であるためには、収集品は、少なくとも1つの制度に組み込まれ発見製造コスト複数取引償却されるような閉ループのサイクルを持つ必要があった。さらに、収集品は、単なる美しい装飾品ではない。身につけられる安心感、隠したり埋めたりするためのコンパクトさ、変えられない高価さなど、一定機能性を持っていなければならない。そして、その高価さは、現代コレクター収集品を鑑定するのと同じように、譲渡を受けた人が確認できるものでなければならなかった。

    本稿で示した理論は、これらの文化で交換される「貴重品」にこれらの特徴があるかどうか(あるいはないかどうか)を調べ、これらの貴重品が移動するサイクルから得られる経済利益を調べ、(現代を含む)さまざまな文化でこれらの特徴を持つ物に対する嗜好を観察することによって、検証することができる。

    前例のない協力の技術により、人類地球上で最も恐ろしい捕食者となっていた。彼らは移り変わる気候適応したが、一方で、アメリカヨーロッパアジアでは、狩猟気候の変化によって、何十もの大きな群れの獲物が絶滅に追い込まれたのである現在地球上のほとんどの大型動物投射物を恐れているが、これはたった1種の捕食者に適応したものである。また、狩猟よりも採集を中心とした文化も大きな恩恵を受けた。ホモ・サピエンスサピエンスは、骨が弱くなり、脳の大きさが変わらないにもかかわらず、地球上のより多くの地域に、ネアンデルタール人10倍以上の人口密度で住むことができた。この増加の多くは、効果的な富の移転言語によって可能になった社会制度、すなわち貿易結婚相続、貢ぎ物、担保、そして復讐のサイクルを弱めるために損害を評価する能力に起因していると考えられる。

    原始時代貨幣は、我々が知っているような現代貨幣ではなかった。現代お金機能の一部を担っていたが、その形は家宝宝石などの収集品であった。これらの使用は非常に古くから行われており、収集品を探求し、収集し、作り、展示し、鑑定し、大切に保管し、売買するという欲求人間普遍的ものであり、ある意味では本能的なものである。このような人間欲望集合体を「収集本能」と呼ぶことにする。多くの古代人は、貝や歯などの原材料を探したり、収集品を製造したりすることにかなりの時間を費やしていたし、多くの現代人は、趣味としてこれらの活動にかなりの資源を費やしている。その結果、具体的な実用性とは異なる、初めての確実な価値の具現化、そして今日貨幣の先駆けとなったのである

    2021-05-11

    anond:20210511102221

    今の政府日銀明治政府と同じことやってるんだからな笑

    明治10年(1877)に西南戦争が起こると、明治政府は戦費を補うため不換紙幣(ふかんしへい)を大量に発行しました。その結果、激しいインフレーションと国際収支の悪化による正貨流出が起こり、財政破綻に瀕することとなりました。

    2020-08-20

    どんな理論でもいいので、経済良くならないのか

    素人が調べた限りだとよくわからんかった。バブル崩壊後、ずっと議論してるはずだが、よくならないのだろうか。



    円は不換紙幣貴金属裏付けはない。円を持っていって貴金属と交換する義務日銀にない。

     →なぜ人々は紙幣価値があると認識しているのか。

      →① 税金を円で納めなければならないため、日本に住んでいる以上、円の需要がなくなることはない。

         政府徴税できる権力を維持しないといけない。(脱税を許さない)

       ② 政府は円の価値を維持するという信頼を必要とする。

        (過剰なインフレにならないなど)

         →過剰なインフレとは?3%も数十年できていないのに。5%とか?

          →ハイパーインフレは、戦争くらいでしか起きない。

           →そもそも紙幣印刷しないと市中にはない。

            円を投げ売ってドルを手に入れる状態は起こらないのでは。

             →円を売ってハイパーインフレになるくらい、円を保有している組織なんて民間にないのでは?

              1組織では無理でも、多数の組織が同時に動いたらどうか。複数銀行が同時に円を売るなど。

              →そんな為替1商品に全額かけるような銀行はないのでは。

           →ハイパーインフレが起こるような、物が買えないくらい需給バランスが崩れることがあるか?

            飢餓レベル食糧不足はない。トイレットペーパーなどの一部商品がなくなり、オークション高値が付くくらいでは。

            儲かりそうだから買うといった需要しか起きないのでは?

            →体積がなく軽く、宅配費用が安く、腐らず常温で保管でき、スマホのように数年で新製品によって相対性能が落ち価値が下がらないもの

             でないとオークション流通しない。


    日本では需要がないといわれる。

     → 既に、スマホがあり、衣食は困っていない。家電も揃っている。

       買わなくても既に揃っていて困ってない状態

       需要があるのは一軒家くらいか

       → そもそも家に色んな物を収集して置くことがなくなった。

         スペースが狭く置く場所がない。

       →子供養育費、老後の資金くらい。

        100万~になるとまとまった金額用意するのが大変だといったところか。

       →10万を超えるソフトを買ったり、数万円分の本を買って勉強するといったことは、ない

    2020-04-21

    anond:20200421213454

    古代から紙幣

    ギャグにしてはスベりすぎ

    紙が発明されたのいつだか知ってっか?

    米ドル不換紙幣になったのいつだか知ってるか?

    日本以外の先進国での電子決済のシェアの大きさ知ってるか?

    お前バカだろ

    2020-04-07

    何でMMTアレルギーの人が多いかわかった

    説明聞いたら商品貨幣論の「不換紙幣共同幻想説」より遥かに筋は通ってるし現実財務処理もそうなってるのに

    どうして頑なにMMTを拒絶する人が多いかわかった

    MTだと税金国家の財源でも何でもないので

    「俺たちの血税無駄に使うな!」とか「俺は国に高額納税してるから社会に貢献してる!」みたいな言説が成り立たなくなっちゃうんだね

    2019-08-29

    商品貨幣論経験

    私自身の経験に基づけば、商品貨幣論は小さな集団では確かに成り立つ。

    無論、歴史的価値が生み出される経緯が商品貨幣論説明できるとは思わないが、貝貨のように債券として機能しないもの存在していたことも事実である

    Twitterに書くには長すぎたので私の小学校高学年時代経験を書く。

    私が小学校高学年の時は珍消しゴムトレード流行っていて、各々の価値基準に基づいたレートで物々交換が行われていた。

    香りのついた練りけしをはじめ、フィギュアのような消しゴムや、機能性押しの消しゴムも人気だった。

    私は牛乳キャップを使ってコマを作るのが好きだったから、よく消しゴムを買っていってキャップと交換してもらっていた。

    しばらくすると牛乳キャップには何枚かで消しゴムと交換可能な程度の価値があるという認識が学年中に広がった。

    交換用に消しゴムを買うのにもお金がいるので私は作ったコマ牛乳キャップ何枚かと交換しだした。

    私のコマは人気で、私がより多くのキャップを欲したこともあり、一番多いキャップを出した人とコマを交換することにした。いわゆるオークションである

    ところが牛乳キャップの入手手段は限られていたため、入札額にも限度がある。

    すると持っている珍消しゴムを売りに出す人、新しいコマを買うために古いコマや作ったコマを売る人が現れ、牛乳キャップが珍消しゴムと交換する以外の価値を持つようになった。

    元々コマに興味が無く、消しゴムに飽きた女子は好きな男の子牛乳キャップを独占的にあげたりしていた。

    しばらくすると、コマ消しゴム牛乳キャップの形で保持する人が出始めた。学年内に流通しているコマ消しゴムは目新しい物の価値が高く、古くて見飽きた物は価値が下がる傾向があった。つまり飽きたなら価値があるうちに牛乳キャップに交換して持っておく方が良い。そうこうする内に消しゴムコマブームは去り牛乳キャップは交換券として機能しなくなったが、価値あるものと交換した牛乳キャップは誰も捨てなかった。

    この時点で牛乳キャップのもの貨幣価値を持ったように思う。

    月日は流れ、自作カードブームが来た。担任自分で作ったカードなら学校で遊んでも良いという発言をしたためである

    UNOを皮切りに遊戯王デュエルマスターズなど当時はやっていた各種カードゲームを学校で遊ぶため、私含め工作好きな2、3人がパックを手作りしてキャップと交換した。

    トレーディングカードゲームの類はある程度枚数が無ければデッキを組む楽しさが味わえないため、かなり苦心してカード大量生産した。パックで出たデッキ不要カードはやはり牛乳キャップトレードされ、各々デッキをくみ上げていた。なお、肝心の私は自分デッキ顰蹙を浴びない程度に自作できるので、得たキャップの使い道は殆ど無かった。

    またしばらくしてカードゲームに飽きた私は、パックを作りつつも今度はルーレットを始めた。キャップ工作が廃れ、毎日給食から供給されたことで大量に増えて消費先のないキャップを、大量に消費してやろうという考えだった。段ボール画鋲で作ったルーレットでも中々中毒性があり、はまる人が出てきた。

    大量にキャップを持っていた私はルーレット一回につきレートに応じたほんの少しの手数料を取って、掛け金の合計から足りない分は自分キャップを出すという形にした。これが恐ろしい発明だった。ルーレットは全員負けることが少なくない上に主催者である自分絶対一定手数料が入ってくる。キャップは消費するどころかどんどん増え、ジャンキーたちの要望により高レートルーレットの開催が増え、さらに儲かり、顧客は借キャップをし始めた。高利貸し融資を募る人、親が儲かることに目をつけてカジノを始める人が発生し、授業の合間の休憩時間教室狂気カジノだらけになった。

    このあたりは最早脱線しているが、要は最初消しゴムの交換券でしかなかった牛乳キャップ消しゴムトレード文化の衰退に伴い、消しゴム価値を吸収し、それ自体価値を持った訳である

    さらカジノという、価値を物の購入以外で消費する文化が発生したことで、価値の維持に消耗品必要なくなった(消しゴムコマ消耗品なので、交換券としてのキャップ価値を持ち続けるためには常に新しく消しゴムコマ存在する必要がある)。


    まり結果として、物々交換➝金の交換券としての兌換紙幣貨幣)→金との交換の保証不要不換紙幣貨幣)と商品貨幣論実践されたように見える。これが私の経験である

    小学生程度の知性でこのありさまなので、当然長い歴史の中で小さなコミュニティにおいて商品貨幣論過程貨幣価値を持つことは十分に考えられる。貝殻には装飾といった需要があったことを考えれば、貝貨牛乳キャップ過程で普及してもおかしくはないだろう。商品貨幣論でよく説明される金が扱いづらいか兌換紙幣が生まれたというような説明を用いずとも兌換紙幣が発生しうるという話でもある。


    余談:

    毎日給食供給されるキャップがあるにも関わらず、過度のインフレが起こらなかったのは、私のような銀行的振る舞いをする人やため込むのが好きな人がいてキャップをため込んでいたかである

    カジノ時代になると、資金が付きそうになったギャンブラー銀行家が他人預金を使ってギャンブルをしたため、微妙信用創造的なことも行われていた

    高利貸しがいる以上破産はするが、破産者には多少恵んでやるという暗黙の了解があったため、破産しても1、2週間程度で復活できた

    ・この経済圏小学校卒業間近に消滅した

    2017-11-27

    anond:20171126061327

    人間動物なんだから自分DNA拡散させるのが目的繁殖放棄するのは動物として失格。同調保守云々のじゃないです。

    人類史を辿ると、結婚という制度は、

    支配層のDNAが奔放に拡散することを

    阻止する目的で、支配層が始めたのだよ。

    不換紙幣と似ていて、

    今では、その枷である結婚というもの

    支配層のステータスになっているというわけ。

    2016-07-07

    銀行はなぜ合併しなければならなかったのか

    江戸時代日本は米・金・銀という三種類の通貨システムを平行して扱っていた。徳川幕府諸侯領(明治時代以降藩と呼ばれるようになるやつ)が入り乱れた連合国家であった。諸侯領間における政治経済システムの違いは大きかった(要するに戦国の遺風を引きずった藩とそうでない藩があった)。上記のような事情があった結果金融業の発達は著しく、幕末には多くの諸侯がこうした金融業者の支配下に置かれるありさまだった。

    明治政府戊辰戦争後、

    などといった問題対処するために、新貨条例および国立銀行条例が制定した。これらの制度

    というなにがなんだか分からない制度になっていた。しかしこれは当時の国際情勢を考えると仕方がない話で

    といった状態で、日本近代金融システムを構築するにあたって模範とすべき制度はまだなかった。結果アメリカを真似して兌換券の分権的発行を主軸とする制度が作られた。このため各地に割拠していた金融資本国立銀行への転換が進んでいった。

    しか殖産興業の進展、西南戦争による莫大な戦費などといった問題対処するために、不換紙幣の発行を国立銀行に認めるに至った。

    結果インフレなど金融システムの混乱が見られたため、ここにアメリカ型分権型金融システムには限界があることが明らかになり、日銀法と旧銀行法が導入されイギリス式中央銀行制度が導入されることになった。これが 1882 年。

    このような経緯があったため、金融資本の再編といった事態にまでは話が進まず、そのまま第一次世界大戦関東大震災突入する。戦争景気による企業の無理な業容拡大と戦後景気後退震災によって銀行には不良債権が蓄積された。

    上記のように各地に雑多に存在する金融資本江戸時代のそれを引きずっていたため近代銀行としては規模が小さく、これによって金融不安が高まり昭和金融恐慌に至った。これが 1927 年(1929 年や 1930 年ではない)。

    その状態さらに 1929 年 1024 日はやってきた。 1930 年にはその影響が日本にも及ぶに至った。

    かかる状況の中で昭和二年旧銀行法改正により 1927 年から中小銀行の整理が進められていたが、 1936 年馬場鍈一大蔵大臣により「一県一行主義」が掲げられた。馬場大蔵大臣としては失格者で財界との対立の結果大蔵大臣から放逐され憤死することになるのだが、翌 1937 年に日中戦争が開戦、日米開戦もほぼ既定路線となるなかで一県一行主義継続され日米開戦のころには中小銀行の整理は完了した。

    こうした集権的かつ計画的経済運営にあたったのはいわゆる革新官僚たちで、その親玉吉田茂だった。彼らは社会主義的な経済思想国家主義的な政治思想を併せ持っており、戦中戦後日本の内政を主導した。

    全然関係ない話だが、社会主義国家主義反自由主義という思想セットは革新官僚リーダーの一人である岸信介の孫の安倍晋三にも受け継がれていることはよく指摘される。

    戦後岸が政界進出したこともあり、結果として一県一行主義体制および統制的な銀行体制はほぼそのまま戦後に引き継がれることになった。もちろん建前上は一県一行主義廃止され、戦後資金流通の円滑化のために戦後地銀いくら設立されたが大勢に大きな影響をあたえることはなかったのだった。

    このような情勢のなかで、戦後日本金融当局==大蔵省銀行に対して

    • とにかく安定して資金供給を行うこと
    • 間違っても競争などしないこと

    を求めて各種の行政指導や各種許認可を縦横にもちいて銀行群をコントロールした。これをいつしか護送船団方式と呼ぶようになっていた。

    これは実際うまくいっていた。バブル崩壊までは。バブル崩壊の余波は大きく、護送船団方式では銀行を守り切れないことは明らかになっていた。 1995 年には木津信用組合兵庫銀行倒産するに至った。

    また長らくの護送船団によって日本金融システム陳腐化は著しく国際社会において東京金融都市としてまったく影響力が無い点も問題とされた。

    これらの問題対処するためとして金融ビッグバンと称し護送船団は解体されてしまった。銀行はここに自由サービス投資を行えるようになった。

    ところで足元の経済情勢を見るに 1993 年から 1996 年にかけて経済成長率は 2-3% を維持しており、ここに橋本総理大臣バブル崩壊による不景気は終了したという判断をするに至った。また 1995 年には武村正義大蔵大臣により「財政危機宣言」が出されており財政再建を開始すべきという機運が高まっていた。

    そこで橋本内閣は 1997 年、消費税増税などを含んだ超緊縮予算を成立させる。これが大失敗であった。緊縮財政により景気は悪化金融システム不安は再発し北海道拓殖銀行山一證券破綻、翌 98 年には橋本内閣総辞職現在まで続く長い長い不景気が始まった。

    しかしここに至って護送船団方式の再開は難しく、銀行はノーガードで野に放り出されてしまった。かかる状況のなかでは銀行経営効率を上昇させるような積極投資は難しいことは明らかで、銀行合併による規模の拡大によって身を守るという手段をとらざるを得なかった。

    結果生まれたのが三大メガバンクである。このような事情によって、消極的理由で成立した合併であるから当事者たちは乗り気であるはずもなく、旧来の自己立場防衛のために果てしない内紛が始まることは、それはもう仕方のないことだったと言えるのではないか

    そのような事情の中で銀行システムの開発にあたる SIer技術者は内紛の道具の一つとなり疲弊を重ねている。

    僕が言いたいことは何か。誰か頭が悪い人が一人いたからこのような状況になっているという訳ではないということ。むしろ一人ひとりができることを着実にやった結果がこうなのだということ。つまり、逆に言えばこの状況を解決する手段など無いということ。みずほ現場で苦しむエンジニアにできることは、逃げることだけだということだ。

    2016-04-12

    現在では、お金と金を交換できないのは当たり前だけど

    金本位制って、1971年ニクソンショックまでは、存在していたわけで、人類歴史から考えれば、歴史ほとんどの期間、お金と金(に準ずる貴重品)はイコールだったわけです。

    何の根拠もない不換紙幣2016年現在は、まかり通ってるけど、あと10年くらいで、全て紙くずになり、金本位制に戻ってるんじゃないかしら。

    2014-03-08

    経済学素人が考えたお金の話

    経済学部生でもないのに、学部教養でかじった程度の経済学の知識で書いてしまいました。

    間違っていることも多いと思います。ごめんなさい。

    はじめに

    しか現代マネーは昔の金(gold)を価値裏付けとする兌換紙幣ではなく、債務価値裏付けとする不換紙幣です。

    債務の返済とは、マネー消失と全く同じことなのです。

    http://d.hatena.ne.jp/shavetail1/20140307

    さらっと書いてるけど、好きで調べたりしている人以外には、こういうのがとてもわかりにくいと思う。

    自分自身がそうだったからだ。だから簡単に説明してみようと思う。

    金と交換できる「兌換紙幣」の場合

    100gの金と交換できますよーっていう証明書マネー

    この証明書裏付けるのは金の価値。みんなが、「金は高価だ」と思っていて、食べ物や服や家具機械とか、あるいはおねーさんと酒のんでおしゃべりする権利とかと交換してもいいと考えている。でも、金そのものを持ち歩くのはいろいろと面倒だしあぶない(財布の中に入れておくとすり減ったりする)から、金庫屋が金を預かり、かわりに「金と交換できる券」発行している。それをみんなが金の代わりに使っている。

    金と交換するわけじゃない「不換紙幣」の場合

    これはむずかしい。

    なんでかというと、この場合の紙の券は、なにか具体的なモノと交換できる証明書ではないから

    とすると、それは一体なんなのか?簡単化した単純な例で考えてみる。

    まず登場するのは、超できる男として有名な出来山さん。この出来山さんがお店を出すことになった。お店を出すには仕入れが必要になる。しかし、裸一貫の出来山さん、仕入品の代わりに提供できるものがまだない。そこで、出来山さんは業者の人にこう言う。「この店がうまくいったら、色をつけてお礼するから、まずは仕入品を納入して欲しい」。仕入れ業者の人は「出来山さんは超できる奴。多分、出来山さんのお店は繁盛するに違いない。まだなにもない出来山さんだけど、そこに納入すれば、後々いい商売になるだろう」と考える。そこで、仕入れ業者は、まず出来山さんのお店に品を納入する。出来山さんは、お店の将来の売上から、仕入れ業者に色をつけて返す約束をする。

    出来山さんは、その仕入品を使って自分商品を魅力的なものにするために色々な努力をする。そして、商品の売上から、仕入れ業者に、前借りしたものよりも多くを返す。そうすると、仕入れ業者は「出来山さんと商売しているとこっちも儲かるな」ということになって、もっと大きな商売をさせるために、仕入れ品をもっと納入するようになったりする。

    さて、ここで、出来山さんを日本政府(あるいは中央政府)、仕入れ業者を日本銀行(あるいは中央銀行)と考えてみる。

    出来山さん(日本政府)の商品というのは日本経済のもので、出来山さんの手にする売上は日本経済からくるアガリ(税金)だ。仕入れ業者は、出来山さんの商品日本経済)が魅力的(活発で生産的)だと見込んで、紙幣を「発行」して出来山さんに貸しつける。つまり、相手がリターン(利子)を返してくれるだろうという「信用」によって紙幣マネーが生まれる(creating money)。だから不換紙幣マネーというのは、兌換紙幣マネーと違って、モノとは交換できないけれども、より大きなリターンを返してくれるだろうという信用を形にした「信用紙幣」ということになる。

    普通通貨は国単位経済単位流通している。例えば、日本なら1万円券や1千円券の日本銀行券、あるいは、造幣局が発行する100円硬貨なんかが流通しているし、アメリカならドル紙幣流通している。だから、この信用紙幣の「信用」は何に対する信用なのかというと、その通貨流通している経済体そのものが活発で成長する、あるいは(すくなくとも規模を維持して)その他の経済体に対して影響力を持つことへの信用だ。例えば、「(日本円を使ってモノを交換している)日本経済ドボンしないだろう」とか「日本円で買える日本商品が欲しい」とみんなが思っている(日本経済を信用している)限り、日本円はその価値を保つ。

    日本円日本経済の信用を元手にしているということは、逆に言うと、「日本経済はもうダメや!」とか「日本に欲しい物なんかあらへん!」みたいにみんなが思い始める(信用を失う)と、日本円価値暴落して流通できなくなってしまう(ハイパーインフレ紙幣紙くず)。そうすると、日本なのに、みんな日本円を使わなくなってしまい、米ドルなどの外国通貨流通するようになったりする。そうなったケースが、アルゼンチンなど。

    至極単純化したけれども、不換紙幣=信用紙幣、の仕組みは大雑把に言ってこういう感じのものだ。

    日本銀行借金を返しちゃったらどうなるの?

    日本銀行は、自分紙幣を発行していろんな人に貸し付けている。日本政府はその中のひとりだ。

    から、なにも、日本政府けが日本銀行が発行するマネーを市中(日本経済)に流しこむパイプ役なわけではない。そこには色々複雑な仕組みがある(らしい)。例えば、日本銀行は、自分が発行したマネー不動産なんかにも投資したりする。つまり、直接、市中にマネーをぶっこむこともできる。でも、それはあまり勧められることではないとされている。なぜなら、自由にマネーを発行できる日本銀行は、理屈の上では、市中の商品をいくらでも買いあげることが出来る。すると、どんなジャンクな品物や詐欺まがいの商品でも、日本銀行に売りつければ商売になってしまうことになる。ジャンクな品物や詐欺まがいの商品が売れる経済というのは、まったく健康的じゃない。言い方は悪いけれど、そんなのは闇経済と同じことだ。

    日本銀行がなんでも買ってくれるから適当商品使ってぼろ儲けしてやれ」「日本銀行がなんとかしてくれるから、いくらでも借金してやれ」なんていうのが、いわゆる「モラルハザード」というやつだ。

    少し話がずれたけれど、ここで、わかりやすくするために、日本政府借金は全部日本銀行が引き受けているとしてしまおう。その額およそ1000兆円。そして、日本政府借金を返したら、再借金はしないと仮定してみる。すると、どうなるか?

    日本経済には、すでに発行済の日本銀行券=マネーが出回っている。そこから日本政府はアガリ(税金)をとり、そこから日本銀行借金を返して、借用書(国債証書)を取り戻す。つまり日本政府日本銀行借金返済しきってしまうということは、日本経済から1000兆円のマネーを吸い上げて、日本銀行に収めてしまうということになる。マネーはみんなの交換を活発にするものから物々交換は、自分の欲しい物と相手の欲しい物がうまく噛み合わないと成立しなかったり、いろいろと面倒くさいのだ)、マネーが減った分だけ、みんなの交換は不活発になる。交換が不活発になるということは、在庫が余ってしまったり、あるいは欲しい物が手に入らなかったりするということだ。

    マネーがないとどうなる?

    マネーがないと交換が不活発になるということを、また簡単化した例で考えてみよう。あなたお腹が減っていて、定食屋に入りたい。マネーがないのだからあなたは、例えば皿洗いなんかの仕事定食を交換して欲しいけれど、皿洗いの仕事をする人はたくさんいて、定食屋の洗い場ではすでに定食目当ての人が働いていたりする。あなた機械を直すのが得意だから機械を直しましょうと定食屋オヤジに言うのだが、定食屋には壊れた機械がない。だから、やっぱり定食を食べられない。

    ここにマネーがあったとするとどうなるか。あなた機械を直して欲しい人を探して、その人の機械を直してあげるかわりにマネーをもらう。そのマネーをもって、定食屋に行き、定食マネーを交換してもらう。機械を直して欲しい人、お腹の減ったあなたマネーが欲しい定食屋オヤジ、と3人ともハッピーになれる。つまり在庫が余る(あなた機械を直す能力が活かされない)ことや、欲しい物が手に入らない(あなた定食を食べられない)ということがなくなる。さらには、それぞれが得意なことをすることで、とても効率よく仕事ができるし、みんなが効率よく欲しい物を手に入れることができる。つまり、それぞれの能力が最大限生かす機会が生まれるということにもなるのだ。マネーすごいぜ!

    そういうわけで、必ずしも、国の借金を減らせばそれでいいというわけではない。それは、日本経済の中に流通するマネーを減らしてしまう=交換が不活発になってしまう→日本経済の信用がなくなってしまう、ということにもつながりかねないからだ。

    でもしか

    もちろん、「日本政府は、もう借金の利子を払うこともできない」といった具合に日本国債の信用が失くなってしまうと、これはこれでまた大変なことになる。なぜかというと、そうなれば日本国債を買う人がいなくなってしまうからだ。日本国債を買う人がいなくなってしまうと、日本政府予算が減ってしまう。つまり、公的サービスが減ってしまう。警官検察裁判官が減ると、治安が悪くなって、インチキ詐欺師蔓延り、経済健全性が失われてしまうかもしれない。そうすれば、日本経済ダメ経済になってしまって大混乱、交換が不活発になってみんなが貧しくなってしまうかもしれない。あるいは、小中高の学校大学運営ができなくなって、将来のビル・ゲイツスティーブ・ジョブスマーク・ザッカーバーグになりかねない若い人達が、ただの非正規雇用ワープアになってしまうかもしれない。これも、日本経済にとって大きな痛手になる。

    まり、まず第一には日本経済が元気なことが大事だし、第二には「日本経済は元気だな!」とみんなに思ってもらうことが大事だし、第三には「日本経済は元気ないな」と思われないことが大事だ。国の借金は、こういうことのバランス考慮しながら、考えることが必要なのだと思う。

    じゃあ、そのバランスはどうやれば取れるの?ということになるのだが、それが簡単に分かることなら、経済学者の議論なんかは存在しないんだろう。

    おわり。

    さいごに

    わたしが、経済学講義で学んだことは、「アニマルスピリッツ」を持った方が未来は明るい(らしい)ということです。

    簡単に言うと、みんなが「やってみりゃいーじゃーん」(楽観的)で「やってやろーじゃーん」(能動的)で「なんか、よくなるかんじじゃねー」(希望的)な方が、雰囲気=景気は明るい。そして、楽観的で能動であるためには「(ダメだったとしても)そのうちなんとかなるだろう!」というやつも必要なのだと。

    お金が出回っていることはとても有用なことだからお金を稼ぐことはむしろいいことです。自分にとってだけじゃなく、みんなにとってもいいこと。でも、稼いだお金を貯めこんで使わない守銭奴のような人はお金を回さない人だから悪い人です。自分ばっかり稼ぎすぎて、他の人に稼がせなさ過ぎるのも悪いこと。それはまるで、ヘビー級ボクサーが、モスキート級に混ざってチャンピオンになっても、全然まらないのと同じ。そんな気がしました。

    みんなが気持ちよくお金を稼げて、気前よくお金を使えるような経済社会にするにはどうすればいいのかを考えることが、当面のわたしの課題です。

    2012-10-22

    お金本質

    ニュース地方自治体破綻とか国家財政

    危機だと騒いでるので、いまさらだけど

    お金って何でしょうねと考えてみた。

    お金ができる前、かなり昔は物々交換だった。

    そこに金や銀での貨幣経済ができた。

    交換するものが馬しかない人でも、

    魚一匹をもらうために馬一頭と交換しなくてよくなった。

    金銭の仲立ちで、物じゃない技能サービス

    提供できる市場ができた。

    近代史に入ってから不換紙幣に切り替わる。

    コレが曲者で、お金本質を持ってはいるが

    マネーゲームの単なるチケットから

    価値があやふやなものになってしまった。

    例えば税金

    江戸時代の農民を例に挙げると、

    米が不作でも豊作でも、「あるだけしか取れない」。

    今は日本じゃ物理的な納税は無い。

    税金という名前で、無条件に借金をつけていく方式だ。

    去年の年収に照らして、年末リストラに会おうが

    事故入院して派遣契約を切られようが、

    払えなかったら法定利息ぎりぎりの年利が膨れる借金だ。

    まり、あろうが無かろうが「将来的に半強制的に回収できる」。

    ここにお金本質があると思う。

    それはお金って言うのは、労働約束手形だということ。

    借金を直接的に言い換えると「将来働いて返す約束」。

    貯金は「その分誰かに何かをしてもらえる権利」。

    それが物質なら、「生産労働青果物を受け取る権利」を支払うわけで

    サービスなら「自分に無いスキルを代行してもらう権利」を主張しているわけ。

    ここで国や自治体の持つ借金について本質を考えてみると

    国民が働ける総量は決まってるのに、それ以上の労働を求めている」

    という状態だと考えている。

    さら国債などの有利子負債を見ると

    「将来子孫が働いてくれるだろうお金」をあてにして、

    今とりあえず約束を先延ばしにしてる状態。

    今の政治家経済政策ぶっちゃけてありていに言ってしまうと

    「俺たちががんばって働くの嫌だから、子孫の誰かが頑張ってよ」

    という情けない姿だったりする。

    地方の特別公債法案も、本当はそんな先送りじゃなくて

    ちゃんとお金管理はしなさいよっていう自治法案を

    「仕方が無いな、だから子孫頑張れー」って先送りする法律

    自治体の状態はどん底まで逼迫してるわけです。

    将来の子供たち、生まれてきた瞬間借金返済のための奴隷ってわけです。

    お金は貸して人を縛るためのものなのか。

    自分労働有意義に変換するための道具にするのか。

    今夜はココまで。

     
    ログイン ユーザー登録
    ようこそ ゲスト さん