http://anond.hatelabo.jp/20081101232814
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20081102-OYT1T00492.htm
しかし、田母神氏ご本人は、「誤っているとは思わない」「(論文の内容について)今でも間違っていない」、
http://www.asahi.com/national/update/1103/TKY200811030159.html
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20081103-OYT1T00526.htm
とおっしゃっておられるようであり、
「近現代史の一面的な見方を見直そうという動きが各方面から起きていたが、その象徴的論文」
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/081103/plc0811031834005-n1.htm
という新聞もあるので、ネット上にある反論ソースをあげておくのも意味ないことではないと思い、対中外交について落ち穂拾いをしてみます。今回もネット上にあるものだけを参照しており、私はこの時代の一次史料を読んでいませんので、「ちらしのうら」であることに変わりはないですが、根拠を何も示さない所論よりはましだと思っています。
見出しの引用の出所は、田母神俊雄「日本は侵略国家であったのか」2008年
http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf
それでは、公開されている次の論文を紹介する形で反論します。
古屋哲夫「対中国政策の構造をめぐって」『近代日本における東アジア問題』古屋哲夫、山室信一編、吉川弘文館、2001年、をPDF・HTML化したもの(単行本にはあたっていないことをおことわりしておきます)。
http://www.furuyatetuo.com/bunken/pdf/75.PDF
http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html
まず、日露戦争後の日本の中国権益についてみてみましょう。そもそも初期条件は清の関与できない日露両国の話し合いで設定されました。
日露講和条約によって日本が獲得した在満権益とは、ロシア権益の残りの期間を、「清国政府ノ承諾」を条件として、譲り受けたものであり、具体的には 1923年(大正12)に満期となる(露清原条約の期限が25年)遼東半島租借権と、運転開始から36年後の1939年(昭和14)年に中国側に買戻権が生ずる南満洲鉄道経営権を中心とするものであった。
清の事後的同意が必要とされたこと、租借権と経営権には期限が設けられていたことは留意されるべきでしょう。
後の関東軍へとつながる駐兵権の話も、この段階で出てきます。
それは清国の了解なしに、その主権を侵害する鉄道守備兵駐兵権を設定したものであった。それは現に軍隊が存在しているという既成事実を権益に転化させようとするものであり、日露両国は清国の主権侵害の共犯者となったことを意味し、また、以後の満洲支配についての日露共同行動の可能性をしめしたものでもあった。ところで講和条約はロシアから日本への権益の移転譲渡は、「清国政府ノ承諾」を条件とするとしており、それにもとづいて、1905年11??12月にそのための北京交渉が開かれたが、そこで清国側がもっとも強い反発をしめしたのは、この鉄道守備隊の問題であった。・・・(中略)・・・結局この問題は日本側が、ロシアが撤兵を承諾したときには、日本も同様に撤兵するという条件を付けただけで押し切ってしまうが、小村寿太郎全権は、ロシアの撤兵など起こりえず、したがって日本の撤兵もありえないものと考えていた(5)。この鉄道守備兵が、租借地守備兵とともに、後の関東軍を構成することとなる。
先に既成事実があって後に法的に問題を確定させようとしていることは留意されるべきでしょう。
このようなやり方が、相手側に不満を生じさせ、後の紛争の種となるのも当然でしょう。
日露講和後の清国に対する交渉において、もっとも紛糾したのは、前述の駐兵権問題についで鉄道権益をめぐる問題であった。・・・(中略)・・・その結果、1905年12月に調印された、「満洲ニ関スル日清条約」(実質的内容は附属協定)では、吉長線も新奉線も協定附属の取極に譲らざるをえず、前者は清国の自主建設により、資金の不足分を日本からの借款による、後者は日本から清国に売渡し、その改築のための費用を日本より借り入れる、という譲歩をよぎなくされている。結局協定本文には、安奉線が残されただけとなったが、これも軍用軽便鉄道を商工業用に改良することは認めるが、18年後には清国に売り渡すべきことが規定されていた。それは安奉線についての日本の権利が、長春・旅順間の鉄道とは全く異なるものとして協定されたことを意味していたが、日本側、とくに現地の実権を握る陸軍は、条約には目もくれず、安奉線を駐兵権や附属地を持つ満鉄の支線とすることを 実力で押し切ろうとしていた。
実際に、満洲よりの日露両軍の撤兵期限である1907年(明治40)4月になると、遂に、安奉線上の本渓湖の市街に新たに日本軍が進出し、同時に日本の警察官出張所が設置されたとして、清国側からの抗議が提出された。これは前年8月に陸軍が主導して在満権益を管轄するために設立された関東都督府(都督は陸軍大将または中将、初代は 大島義昌大将)が、既成事実を作り出しはじめたことを意味した。そして外務当局もこれを追認する態度を示している。日本側のやり方を条約違反とする清国の抗議に対して、同年5月18日林董外相は、安奉線は満鉄の支線であり、守備隊の駐屯や警察官派遣の権利も満鉄と同様だとの態度をとるよう奉天総領事に指示している(7)。それは条約よりも既成事実を押し通せ、ということであり、対満洲政策の一つの性格が早くも形作られつつあったことを示している。
上記のような「条約よりも既成事実を押し通せ」という態度は、国際法にのっとった正当なものと言えるでしょうか。
軍と外務当局との関係については、一致することも異なることもあったでしょうが、ここでは両者ともに既成事実化をはかっています。
軍だけに責任を負わせることはできません。
安奉線が朝鮮半島と満洲を直結するものとして重視されたことはいうまでもないが、日本側は他面では、韓国北東部に隣接し多数の韓国人が居住する間島地方に、領事館及分館を設立して、韓国人に対する領事裁判権を行使することで、日本の勢力を浸透させることを企図していた。そして清国側が容易に実行しないことを予期しながらも、日本の希望を記録しておく意味で、前記「間島ニ関スル協約」に、清国が吉林から間島を経て韓国北部の会寧に達する鉄道を建設する際には、吉長線と同一の弁法によることという一項を押し込んでいる。しかし中国側は辛亥革命後も、一貫してこの吉会線構想を拒否しており、満洲事変以前には交渉が成立する見込みさえも立たなかった。
つまり、日露戦後の対中国政策は、その基礎に、「交渉」によっては解決しえない部分を抱えこむ形で出発しているのであり、この時点においてすでに、中国との平穏な交渉によって、利権の拡張を図ることは不可能になっていたと言える。
ここまであげてきた行為から、相手国の了承などどこ吹く風といった態度があったことは明らかではないでしょうか。
つづいて、中華民国期に入ります。
ところで日本が主導しえなかったこうした〔引用者注:辛亥革命以後の〕経過の中でも、日本の対中国政策のなかに、様々な特徴が蓄積されてくる点に注目しておかなくてはならない。その第一は、中国全体の情勢を制しえないならば、むしろ分裂を促進して日本が操作しうる地域を造りだそうという発想が生まれてきたという点である。たとえば、在清国公使伊集院彦吉は、1911年10月18日の時点で、清朝にもはや中国全土を統治する力はないとして、「中清ト南清ニ尠クトモ独立ノ二ケ国ヲ起シ、而シテ北清ハ現朝廷ヲ以テ之カ統治ヲ継続セシムヘシ」「何レノ途北清ノー角二清朝ヲ存シ、永ク漢人ト対峙セシムルハ帝国ノ為得策ナリト思考ス(10)」 との意見を外相におくり、さらに11月19日になると、清朝の情勢がより困難となりこの三分案の見込みもうすれたとし、第二案として清朝をして「十八省以外満蒙等ノ地域」に国を保持させる、それも駄目で清朝滅亡の際には第三策として新共和国の首都を武昌など中国中央に置かしめ「満蒙ノ地域ヲ遠ク辺外二置キ漸ク閑却セシムル(11)」との意見を具申している。それは親日的地域の確保のための中国分割という発想に行き着くことになろう。さらに翌12年2月になると、いわゆる大陸浪人川島浪速らが、参謀本部や関東都督府と連絡しつつ、北京より脱出させた清朝粛親王を擁し、蒙古の王公らをも参加させて、満蒙独立国を造り出そうとする画策が実際に行われるに至っている。
ここでは、一外交官、一大陸浪人の例しかあげられていませんが、後にみるように、国の分裂を促進させようというのは国の政策となっていくのであり、その萌芽がみられることは留意しておくべきでしょう。また、ここでも軍のかかわりがみられるようです。もちろん、他国を分裂させようというのは、相手の了承を得た、国家間の条約を尊重する態度とは言えないでしょう。
この間〔引用者注:革命後、1910年代前半の中国情勢の混乱〕に付加された対中国政策における第二の特徴として、中国現地において日本軍人が侮辱されたと日本側が解釈した場合には、「原因の如何にかかわらず」、中国側に責任者の処罰と謝罪を行わせて、日本軍の威信を守るという方式が打ち出されてきたことに注目しておかなくてはならない。いわゆる第二革命の 時期に、日本人が被害を受けたとする、漢口・エン州・南京の三事件がおこっている・・・(後略)・・・
漢口事件について、古屋論文に基づき、要約します。
まず、陸軍少尉が中国軍の制止を無視して戒厳地区に進入し、一時抑留されました。
軍からの報告は、「無抵抗の西村少尉らが、理由もなく暴行を受け、軍服をぬがされるなどの侮辱を受けた」というものでしたが、日本の総領事は「これを信用せず、自ら調査して西村らの横暴と暴行について牧野伸顯外相(第一次山本内閣)に報告」しました。しかし、「陸軍中央部は、現地の調査も行わずに、「日本将校凌辱事件」として」、謝罪と賠償と利権を要求し、結果として中国側に処罰・謝罪させたものです。
古屋論文は、このような事例が満洲では蓄積されていたであろうことを指摘し、「このような先例の蓄積は、「日本軍の威信」の確保を第一義とするという条件によって、日本の対中国政策が実質的に拘束されるようになってゆくことを意味していた。そしてその翌年の第一次大戦への参戦は、対中国政策にさらに決定的な影響を及ぼすこととなった」と評価しています。
交渉ごとにおいて、譲歩できないものを必要以上に多くすることは、カードの手札を事前に少なくしているのと同じではないでしょうか。
つづいて、第一次大戦下の部分をみていきましょう。
第一次大戦下で目に付くのは、前述した鉄道付属地経営権や、軍の威信を確保する事件解決方式など、条約面に現れない既得権の高圧的行使や、軍を背景とし、あるいは軍に依拠した陰謀的行動の横行であった。とくに袁世凱が自派による帝政運動を組織し、1916年1月1日帝位について洪憲元年と称したのに対して、反対派が第三革命に立ち上がるという事態に対応して、大隈内閣が反袁運動支援の方針を決定したことは、こうした傾向を著しく促進することになった・・・(中略)・・・この〔引用者注:内閣の〕方針は具体的には「適当ナル機会ヲ俟テ南軍ヲ交戦団体ト承認スルコト」などをあげているが、実際には山東に居座った日本軍(侵攻以来ワシントン会議後 まで7年以上駐留)や、満鉄守備隊を含む関東都督府の現地軍が関与あるいは支援したことが、最も重要であったと見られる・・・(中略)・・・大隈内閣の反袁政策は、結局のところ、現地日本軍と其の周辺の日本人の横暴への反感を広めただけに終わったようにおもわれる・・・(中略)・・・第一次大戦下の日本の対中国政策は、侵略性の膨張として特徴づけることができるが、列強のすべてが参戦し、中国に手を出すいとまがないという条件のもとで、初めて実現したものであり、従って戦争の終結とともに転換を迫られることは必至であった・・・(中略)・・・日本軍は、青島を攻撃・占領する以前に、ドイツ兵に守られているわけでもない中独合弁の私立会社の経営する山東鉄道を占領(26)しているのであり、日本の参戦がたんにドイツの軍事力の打破のみでなく、新たな権益の獲得を目指していることは明らかと見られた。
ここでは、中国の内部分裂を促進させる政策を内閣が採用しています。政治が、権謀術数やパワーゲームというのはその通りなのかも知れませんが、これに対する中国の、その民衆の反発は至極まっとうなものでしょう。ベルサイユ講和会議における中国の要求が退けられたことから、五四運動へとつながります(中国はベルサイユ条約への調印を拒否しました)。周りにいくら根回しをしても、当事者同士に納得が得られなければ物事は進みません。
そして、アジアの国際秩序について話しあわれたワシントン会議では九か国条約が結ばれます。
対中国政策全体は、領土保全・門戸開放・機会均等というアメリカの主張を柱とする九か国条約に規制されることになり、そこには勢力範囲政策を排除することも明文化されていた。
このような流れのなか、詳細は省きますが、古屋論文では、「国際的に通用しなくなって」きた「特殊権益」、「勢力範囲」にかわり、「満蒙治安維持」という、関東軍の謀略による満洲事変につながっていく「政策理念」が出てくるとされます。
しかしそれ〔引用者注:満蒙治安維持〕は、他国の一部を自国の利益に従属させるという点では、勢力範囲と同じことであり、中国との対等の関係を確立するためには、破棄しなければならない要求であった。しかしそのことは、幣原外交においても、ほとんど意識されることはなかったように思われる。
それは幣原外交もまた、国民の対中国意識のあり方に規制されていたということであろうか。第一次大戦中に強められ広められた中国に対する侮蔑を基礎とする優越感は、大正デモクラシーによっても解体されることはなかったし、さらにその基底では、満蒙を20万の将兵の血と20億の巨費であがなわれた明治天皇の遺産とみる天皇制的意識が形成され、大衆を呪縛していたことであろう。現地軍における統帥権の独立と、国内における大衆的中国侮蔑感とは、対中国政策の構造的改造を困難にするものであった。そしてその大衆意識は、満洲事変への共鳴板として鳴りはじめ、状況を一挙に転換させることになるのであった。
ここまでみてきたような、日露戦争から満洲事変にいたる流れをおさえてなお、「相手国の了承を得」た、「条約に基づいた」と表現することが妥当なのでしょうか。ご覧の通り、日本の大陸政策に対する軍の関与は明白ですが、まさか防衛大を卒業された方がこの程度の知識をご存知ないとは思いませんので、あの「論文」の内容とどのように整合性をとられているのか興味深いところです。
さて、このように、一つの論文をみて、「論文」の一部の所説を検討するだけでも結構な手間がかかります。歴史の勉強はそれほど甘くはありません。粗雑な「論」を示して誤りはないと言われても困ります。また、「事実は小説より奇なり」ということもありますし、歴史学においては、「神は細部に宿る」こともあるので、個人の感覚からおかしいと言うだけでは有効な批判にはなりません。また、学問においては、勉強が足りずに事実認識が間違っているのは、明らかに勉強が足りないことに非があります。今は勉強不足で根拠が示せないというのであれば、その主張は根拠がないゆえに認めれらないのです。いつか証明されるのかもしれませんが、そのときが来るまでその主張に強度はありません。
ところで、古屋論文の最後に、「国内における大衆的中国侮蔑感」の問題が出てきました。今もまた、中国に対する偏見は百害あって一利なしであり、中国の実態を虚心にみつめ、評価しなければならない、と私は考えています。
その意味で、中国の民衆運動について、興味深い論文をみつけたので最後に紹介します。
しかし,中国民衆のナショナリズムとは,つねにそうした「暴力」をともなうものとしてしか実現されなかったのであろうか。そこには多くの場合,「暴力」の受け手の側からするバイアスがかかってはいないだろうか。一昨年の,「反日デモ」についての日本のマスコミ報道が,デモの「被害」を強調し,一面的な批判に終始したことも想起される。「歴史」と「現在」を同時に射程に入れねばならない現代史研究者にとって,そして,民衆の運動の対象であったわれわれ外国の研究者にとって,必要なのはこうしたバイアスを克服し,実証的に中国の民衆のナショナリズムの実態を注視することではないか
(江田憲治「民衆運動とナショナリズム―1925年の五・三〇事件を手がかりとして―」『現代中国研究』21、2007年、27-28ページ。http://modernchina.rwx.jp/magazine/21/eda.pdf)
私はこの問題意識に全面的に賛同し、実証的な近現代史の議論が進められることを希望するものです。
またしても、このような長文をお読みになってくださった方に感謝します。
前回↓が途中で切れたため、その段落から改めてつづきを貼ります。 http://anond.hatelabo.jp/20081101232814 東京裁判はあの戦争の責任を全て日本に押し付けようとしたものである。そしてそ...
田母神俊雄氏の「論文」が問題になっています。原文は↓からDLできます。 http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf 親切に英訳までしたようです↓。そのおかげか、さっそく...
http://anond.hatelabo.jp/20081101232814 こんにちは、元増田です。 その後、台湾外交部からも抗議声明が出されたようです。 http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20081102-OYT1T00492.htm しかし、田母神氏...
なんで増田に逃げ込んだの?何が怖いの?
最近になって気付いたのだが、この手の反対にはあまり意味がない。 お互いがお互いの主張を読まないし、読んでも「勉強が足りない」と言うだけ。 発展性がない。
第3者が比較検討して判断できるようになるよ。
http://anond.hatelabo.jp/20081101232814 こんにちは、元増田です。 どれだけ厳しい批判が寄せられているだろうかと恐る恐るみてみたら、好意的な反響が多く、胸をなでおろしています。 ...
世界から30年ほど遅れてる感じがしてならない。 ドイツが戦後賠償を完了させたのはいつなんだよ、と。
なんで増田に逃げ込んだの?何が怖いの?