はてなキーワード: サイゴンとは
ロージナもバーンキラオもサイゴン桜もしょっちゅうは行かない。ランコントルも多分自分で金払ってまで行くことはない。
食べすぎて飽きても、マックなりモスなりに浮気してまた戻ってくればいい。
中1までは立川が日本のニューヨークだと思ってたけど、今おれの中で国立は立川を超えた。
モノ買うならネットで何でも揃うし、その点はイーブン。
一橋があろうがなかろうが、別におれが通う訳じゃないからそこはどうでもいい。
大学通りも6年間歩けば飽きた。
たまに谷保だか矢川だかを超えた高架脇ド田舎ゾーンまで行くけど、それも多摩川を目指す道中だし国立からは少し逸脱する。
最近ちょっとずつ装いが新しくなってる立川のモノレール沿いを歩いてる方がまだ楽しい。金出せば昭和記念公園という手もある。
ただ都心部を練り歩く楽しさには程遠いし、誤差みたいなもんだけど。
カラオケは立川の学生フリータイムの方が安いからその点分がある。
そんな辺りで今まで立川にあった若干の優位もバーキンによって簡単に覆った。
それだけの力がワッパーセットにはある。
マックの心許ないパテは高めのバーガーに使い回されると割高感が否めない。でもワッパーの肉なら納得もいく。あのわざとらしい炭火風味はモスにない。食い辛いほどのサイズ感。クーポン使えば意外と手頃。
国立には喫煙所がないのがかなりのビハインドだったけれど、最近nonowa内のとこが復活して持ち直したのもあるな。
それ1つとっても恐ろしいことだ(アフガン人口3804万人なので一気に失業率を0.8%以上上げる(追記:労働人口が2021年で10,657,912人らしい。ざっくり3%UP?))
実際には30万人いなかったとしても、相当な人数はいただろうに、大半が無職になる
タリバンも全員を吸収しきれるとは思えない
仮に吸収したら、彼らの給料は麻薬から出ることになるので、それも世界にとっては脅威である(現実に麻薬での支払いを目指したら、たぶん作りすぎて麻薬が値崩れする)
(2020年で全体の失業率11.7%の数字が出てきた。ちなみにイランが10.82%)
女性の地位向上において、世界大戦で女性が働きに出た影響が大きかったことを考えれば
アフガンの女性の地位を向上させるにも戦場は無理でも仕事に出てもらうことが近道なのだが
若年男性すら職にありつけていない状況では非常に厳しいだろう
そして女性の地位が向上しないと出生率が下がらず若年人口が増え続ける地獄のループ
ここで中国がアフガンの雇用対策に有効な手立てを打てば(一帯一路関係の土木事業など)
追記:自分は2行目で「実際には30万人いなかったとしても、相当な人数はいただろうに」と断っているのだが……流石に半数の15万人はいた、よね?まさか実質は特殊部隊の1万人だけ?(https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-58219196)タリバン側は6万で支援部隊加えれば20万(かも)とかの数字もみた(https://www.jiji.com/jc/article?k=2021081600710&g=int)。ただ給料未払いはキツイですね。
croissant2003 たぶんここ数日での聞きかじりの知識で書いてるんだろうなぁ。
もう少し前から追っているつもりだが否定はできない。すまんな。ちなみにアフガンとソ連が戦争していた頃まで遡ると物心ついていなかった。
追記2:アフガン政府軍5万人ってマ?さすがにその人数でガニ大統領が抗戦を選択するとは想像できなかった。実際に動いた人数で給料を受け取った人数とはズレがあるとかかもしれんが、その給料も未払いだったりするんじゃ何も言えんなぁ。
Wafer 内乱終結後の敗北側兵士の復員方法は古今ろくなものがなくて、南宋の残兵が元寇の主力に再構成されたり、朝鮮戦争に参戦した中国人民軍の兵士は元国民党軍だったとかさんざんですな
イラン・イラク戦争でイランが革命前からの軍隊をすり潰したり、その戦争で軍隊が膨れ上がったイラクがクウェート侵攻に走ったり、もっとアフガンに近い時代・地域の例もありますね。
公共事業の雇用もほしいけど、そもそも国民全体の基礎教育が要るっぽいなとここ数日での聞きかじりの知識で思いました。
追記3:アフガン政府軍の実数は、最盛期に20万人、最近は7.5万人~9万人だったという記事をみつけた。https://grandfleet.info/us-related/where-did-the-300000-afghan-troops-claimed-by-president-biden-disappear/
アフガン政府軍に比べると南ベトナムの共和国軍は実態があったしフエ陥落までは健闘したっぽい。サイゴン陥落に例えるのは南ベトナムに失礼?
そう思っていたら、
1973年1月 - 南北ベトナム政府、臨時革命政府、アメリカの4者がパリ和平協定に調印し、アメリカ軍が撤退。
1975年3月 - NLF・北ベトナム軍の、ベトナム共和国支配地域への猛攻始まる
1975年4月30日 - サイゴン陥落・ベトナム戦争終結により、ベトナム共和国が消滅。
ということ(2ヶ月未満で陥落?)らしいので、あんま変わらない気もした。
でもタリバンの方が受けている支援はNLFと北ベトナムより遥かに薄いよなぁ
1970年での総兵力が50.3万人。(内訳:陸軍41万人、海軍3.9万人、空軍4.1万人、海兵隊1.3万人、補助兵力55.5万人。
らしく、アフガン軍の30万はそんなに規模が違わない
旅行をするときは、事前にこなすべきリストを作って、旅行記を書きながらそれをこなしていくのがスタイルになっている。
そうすると、旅行であった事を覚えておけて、初日の事件が3日目に意味を持って繋がる様な思わぬ出会いがあったりするし、ちょっとしたトラブルがあっても大して気にしないですむ。
今年は例年になく旅行に行った年で、社員旅行で行った南の島も含めると4回旅する事になった。
その中で3回の一人旅をまとめました。
3泊4日
タスク:英語か広東語でチェックインする/オクトパスカードを買う/飲茶する/鴛鴦茶と菠蘿包で軽食/国境を越え深圳と広州へ/QRコード決済をしてみる
ネット界隈で話題になっていたQRコード決済を体験してみたくて香港経由で中国へ。
事前に3ヶ月ほど広東語の勉強をしたもののさっぱり通じなかったが、広東語と国語の聞き分けは出来るようになり、東京に思いのほか香港人が来ていることに気づいた。
渡航前後ではIT界隈や経済界しか騒いでなく、同僚に説明しても「なにそれこわっ」という反応だったQRコード決済が、帰国して半年経ったら狂想曲のごとき騒ぎになっていた。
あと、プーアル茶が飲めるようになった。
3泊5日
タスク:レートの良い両替店で両替/バインミーを食べる/ベトナムコーヒーを飲む/チェーを飲む/フレンチコロニアル様式の建物を撮る/サイゴン駅で券売機などのデザインを見る
はてな界隈ではうっすら話題になっていた外国人技能研修生制度だが、帰国した直後に外国人労働者に関する法案が通るとか通らないとかの話になり、俄にニュースになり始めた。
新興国なのでスリなどにあうのかなー、などと思っていたが、ベトナム人には何ら金をせびられず、なぜかエストニアから来た白人に金をせびられた。
6泊7日
タスク:広島風お好み焼きを食べる/厳島神社を撮る/博多うどんを食べる/太宰府天満宮のスタバにいく/別府温泉で湯治
療養中の1ヶ月に滅多にない折角の長期休暇なので、行った事のなかった広島と九州へ。
BTSが原爆Tシャツ騒動で揉めたおりに原爆ドームをこの目で見る事になった。
いい歳をして行きの広島では長距離バスを利用したので、肘が痛くなった。
整形外科の先生に聞くと、「治ったときに神経を巻き込んだだけで、骨にも腱にも異常はない。痛いだけだから気にするな」といわれた。
以上です。良いお年を。
ホテルの日々が素晴らしいものだったとは言え、そのまま10時間あまりラウンジでぼうっとするのも退屈だ。
昨日訪れたH.I.Sのホーチミン支店にまた行って、素っ気ない日本人スタッフに勧められたお土産、バインミーラスクを買おう。
ホテルを出て地図を確認すると、残り少ない旅のタスク、チェーを食べられる店がすぐ近くだった。
そうだ、行けるなら行っておこう。
店のあるベンタイン市場を再び訪れた。
広大で複雑なベンタイン市場で、目当ての店を見つけられず、別のお店のお姉さんにスマホを見せて尋ねると、すぐ背後を指さされた。
店のおばさんにメニューを手渡され、指差し注文すると、おじさんに手招きされて、プラスチックの赤いベンチを指さされた。
座ってまてという事らしい。
いい歳をして、疲れて来ると頬に掌をあてて首を傾げる癖があるのだが、おじさんはそれを観てマネして笑った。
こっちも笑う。
程なくカラフルなチェーが運ばれてきた。
スプーンですくうと、ココナツミルクの中からグミの様に色取り取りな正体の分からないものが出てきた。
大した苦労もなく辿り着いたH.I.Sのラウンジで一休みしながらこの旅行記を書いていると、ベトナム人スタッフに若い日本人スタッフが近づいて、なにやらレクチャーを始めた。
「すいません」の使い所に関する話らしい。
確かに日本人を象徴する様でいて、いろんな場面でそれぞれ違う運用をされるよく分からないフレーズだ。
結構長い間話は続いたが、ベトナム人スタッフはしっかり腹落ちしてない様だった。
まあまあ一息つけたし、旅行記を書いていると時間も過ぎて行ったので、バインミーラスクと、追加で缶入りクッキーを買ってホテルに戻る事にした。
途中、昨日スマホでしか撮れなかった中央郵便局とサイゴン大教会 with マリア様をカメラで撮る。
ホテルへの道すがら、ホーチミンでもう一つの近代商業ビル、ビンコムセンターを覗いてみる。
昨日見たサイゴンセンターのシャツよりはお安いが、ホーチミンにおいてはファストファッションの値段ではない。
そう言えば、平日の昼だというのに、地べたに座った若者が辺りにはいて、一度は声をかけられた。
本屋を物色したのち、もう少し気になる建物もあったが、海外の一人旅で軽々しく予定を変えないというのは鉄則だ。
ファミリーマートで運よく見つけた雑誌を買い、ホテルに戻った。
約束通りホテルに戻った後、朝に教えられた2Fのラウンジに向かう。
一瞬止められるかと思ったが、そんな事はなかった。
ただ、2Fに行ってもラウンジはない。
そう言えばスパが利用できるという様なことを言われたが、荷物をどうしようとか、湯冷めしそうとか思って、プールサイドに行くことにした。
プールサイドバーでは、お兄さんとお姉さんが笑顔で迎えてくれる。
バーカウンター前のテーブルに陣取り、マンゴーで香りづけされたグリーンティを頼んだ。
フレーバーについてお兄さんが念押ししたのは、自分が日本人だと分かったからかも知れない。
問題ない。
そういうのが良かったから。
とうとう雨には当たらなかったな。
これは勝ったのか負けたのか。
ファミマで買ってきた雑誌を眺めていると、プールの水面に幾つもの同心円が広がる。
すぐに雨足が強くなり始めた。
What a thing!
なんて事だ!
ベトナムの事など大して知らなかった時からあった、あのビジョンそのままに、俺は今、お茶を飲みながら雨の水面を観ている!
完璧だ。
こっちの勝手な感動をよそに、雨足はますます強くなり、スコールの様相を呈してきて、これは言い訳できないくらい完全な夕立だ。
「夕立もきっと来るだろう」
予言はまたしても実現する事になった。
移動しながら大声で笑った。
海辺の砂浜に一人寝転がる4,000年に一度の美少女は、イントロでビーチパラソルの下から立ち上がる。
場面が変わって様々な仲間が次々に現れ、共に歌い、踊る。
画面の中ではやがて曲も終盤に差し掛かり、片や画面の外では雨足が弱くなり始める。
画面に目を戻すと、アウトロで、長い黒髪の予言者はまた独り、青空の下、晴れやかな表情でフレームの外に駆け出して行った。
完敗だ。
Day 4-5
4日目・5日目 Cảm ơn bạn! I had a great days. LOVE, Ho chi ming City.
明日の早朝便でホーチミンを去るため、今夜は空港で明かす事となり、しっかり眠っておきたかったのだが、明け方に少し微睡んだだけで余り眠れなかった。
旅の緊張と自律神経の不調の前では、睡眠導入剤の一錠では頼りなかった様だ。
変な所で居眠りをして置き引きやひったくりにでもあったら事なので、少し動き方を組み立てる必要がある。
今日と明日、一番でしなければならない事は、言うまでもなく「健康や財産を損う事なく、無事に帰りの便に乗る事」だ。
既に損なってしまっている自律神経に関しては仕方がない、せめて悪化しない様に易しい日程を組もう。
おそらくこの旅の栄養面で一番お世話になった、ホテル ニューワールド サイゴンでの朝食を終え、サークルKにお茶や水の買い出しに向かう。
そうだ、必ず通るエレベーター前の、あの暗紫色のアオザイを着たエレベーターパーソン。
毎日入れ替わるのに、全員美しい。
1Fから Ground floor 行きに乗換えを案内してくれたのは、目がクリッとした愛嬌のある美人。
「Oh..., What a thing, you were beautiful agein today !」
ちょっとウケた。
「Do you want to go the ground floor?」
「Yeah, have a nice day.」
サークルKでお茶と水を物色していると、お土産にうってつけのモノを発見した。
インスタントコーヒー。コーヒーこそホーチミンの象徴だ、この旅行でも何杯飲んだか分からない。
昨夜眠れなかったのもコーヒーの飲み過ぎかも知れない。
アイス用とホット用、それぞれをカゴに押し込んで、ついでにクーラーに並んでいた「恋しいミルクティー ダーリンすごく会いたくて」とハート満載のラベルに書かれたボトルも押し込んだ。
日本語ではあるが、あまりにスイートでストレート過ぎるワードセンスとカラーリング。日本法人のローカル商品や香港製の可能性もあるが、直感的に台湾製だと思った。あの人達は歌って踊って食って恋する人達だ。
店を出て裏のラベルを見たら、やはり台北市に本社を構える食品会社のモノだった。
ホテルに戻りシャワーを浴びた後、恋するミルクティーをデスクの端に置いてタスクを整理する。
忘れ物のチェックやチップの様な、何時ものチェックアウト時タスクにプラスして、荷物の預かりと、チェックアウト後のラウンジでの休憩を交渉できれば良いだろう。
味もやはりスイートだった。
残金の計算など幾つかのタスクをこなした後、この旅行記を書いていると、チェックアウト時刻が速足で近づいて来る。急がないと。
今度こそ調味料を正しく全て入れてお湯を注ぐ。
程なく出来上がったカップ麺は、当然初日の無味とはえらい違いで、あっさりしているが食欲のない時にも食べられそうな上品な味わいだった。
やる事が多いので、食べながら荷物を整理し、休憩交渉のメモを書く。
11:50
残りのスープをかっ込んで、ついでにメモパッドにも感謝を描き込んで、チップと共にベッドに置いて部屋を出た。
「Cảm ơn bạn! I had a great days. LOVE, Ho chi ming City.」
台湾人に当てられた訳ではないが、メモパッドにはハートが踊った。
ホテル ニューワールド サイゴンのフロントパーソンは、荷物の預かりも、22:00までのラウンジでの休憩も快く応じてくれた。
さすが貨幣価値の概算で1泊6〜7万円ほどのクラスのホテルだ。
日本人スタッフに電話を繋ぎ、意味の取り違えが無いか確認する程の丁寧さ。
このホテルに泊まれた日々は、嘘や大袈裟でなくGreat days だった。
ホテルに戻ってシャワーを浴びた後、程近いホーチミン市立美術館を訪れる事にした。
展示もさることながら、フレンチ・コロニアル様式の建物が目当てだ。
バイクを躱して15分程歩くと、門扉が見えてきた。
チケットを買い求め中に入る。
薄暗く、しんと静かな館内に、オブジェや絵画が展示されている。
モチーフになっているのは、銃を構える青年や、ホー・チミンのビラを少年少女に見せる軍人だ。
共産主義のマリア様だ。彼女もまた、ファインダーのセンターに収まってもらった。
中庭を囲む建築を堪能しながら常設展を一通り見た後は、別館の企画展を見る事にした。
入り口では警備員のおじさんが気怠そうにデスクの前に座っている。
その姿がホールの設えと完璧な調和を見せている気がして、彼をファインダーに入れて一枚撮った。
センターではなかった。
フロアを上がると、おそらくはこの企画展のアーティストであろう若い女性がデスクの前に腰掛けていた。
色々な展示があったが、特に気になったのが鏡の前に置かれた椅子一脚。
どうやらこれは、観覧者自体が額に収まる嗜好らしい。
座って鏡越しの自撮りを一枚。
センターでは無い。
「It,s correct ?」
「〜〜 take selfy.」
「これで正しいですか?」と言うつもりで「これは正確だ。」と言ってしまう位なので甚だ怪しいが。
満足したので次に向かおう。
自律神経の調子が怖いので遠出をする気はなかったが、サイゴン駅自体は確かめておきたかった。
タクシーを捕まえる。
「I want go to saigon station. ガッ サイゴン。」
運転手のおじさんは一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに理解してくれたようだった。
「アァ ガッ サイゴン ナ」
16:00
しばらくすると、おじさんが指差す車窓の外にクルーザー。
夕暮れ迫るホーチミンの水面に光が反射して美しい風景が広がっていた。
どうやら到着だ。
メーターを見て払おうとして、おじさんが止める。
なにやら計算すると、メーターとは全然違う金額を書いたメモが手渡された。
メーターの半分くらい。
そう言うシステムなんだろうか?
礼を言ってタクシーを降りると、正面は門が閉まっていて入ることが出来ない。
それに周囲に歩いている人がいない。
ここ、本当に駅?
Google map で確かめて見ると、駅とは真反対の方向。
「やってしまったー」
どうやらサイゴン駅(Ga Sài Gòn)に行こうとして、サイゴン港(Cảng Sài Gòn)に来てしまった。
そういえば、午前にカフェで涙を流させた曲の歌詞に、入江の向こうの海原を見るくだりがあり、海原でこそ無いものの、入り江の向こうの広大な川面を意図せず見る事になった。
やはり、4,000年に一度の美少女ともなると、口から出る言葉には言霊というか、神通力めいた何かが宿るのかも知れない。
すぐに別のタクシーを捕まえて、今度はスマホの画面を見せて説明すると、タクシーは Ga Sài Gòn に向かって滑り出す。
事の経緯を運転手のにいちゃんに説明すると、にいちゃんは苦笑した。
辿り着いたサイゴン駅で支払いをしようとすると、料金はメーター通り。
やはり自分をサイゴン港に運んだおじさんは事情を察してまけたらしい。
しかし、メインステーションとも思えないほど人も疎らなサイゴン駅にはそれらしいものがない。
どうやらベトナムの鉄道にはまだ自動券売機は導入されていない様だった。
これも発見だ、壁の駅構内図や、主要都市への発車時刻が並んだ表をファインダーに収め、ついでに駅の前にあるゴミ箱の可愛らしいマナーイラストも収めて、駅前にたむろするタクシーを捕まえた。
満足だ、ホテルに戻ろう。
エレベーターの前で暗紫色のアオザイを来たエレベーターレディが迎えてくれた。
ホテルのエレベーターは、1Fまで降った後、一度乗り換えて Ground floor に降り、そこから外に出る。
そうだ、まだファインダーのセンターに収める事のできる女性がいるぞ。
1Fの乗り換えの際に、ボタンを押してくれるエレベーターレディに声を掛ける。
「Excuse me , Can I take your photograph ? 」
「Me ?」
レディは少し困惑の表情を浮かべたが、笑顔でセンターに収まってくれた。
Day 3
3日目 4,000年に一度
寝る前に飲んだ睡眠導入剤が効いたのか、夜中に一度目が覚めたものの、計8時間ほど眠る事ができた。
自律神経の回復に大事なのは睡眠なので、まとまった量眠れたのは喜ばしい。
5:45からの2度寝の最中に見た夢で、自分は刃物が絡むような人間関係のトラブルに巻き込まれそうになった後、道路が波のように捲れ上がって崩れ落ちる大災害を間一髪で逃れて、その様を遠い目で振り返る後日・会社のビルの前で、髪型の悩みを訴えてくる女性を褒めちぎって赤面させた挙句、恥ずかしさで昏倒させていた。
全身をピンと伸ばしたまま、後ろ向きに倒れた彼女が道路に激突しない様に抱きとめて、気分を落ち着けるために、彼女の真っ赤になってしまったうなじをさすっていると、仕事に厳しい事で定評のある女性同僚が「おい!」と咎めてくる。
場面が変わって、その後のオフィスでも自分は女性を褒めていた。
春の香港で、夢の出演者が習近平と麻生太郎だったのと比べれば、ややテーマが卑近になった印象がある。
願わくば刃傷沙汰や崩落事故はスキップして、女性を褒めちぎる件だけ現実のものとなって欲しい。
7:59、ホーチミン。
窓の外の通りではもうスクーターが行き交い、そこかしこでクラクションが鳴っていた。
予報によると、今日も雨は降らないらしい。
今回の旅程には自律神経の調子以外にもちょっとだけ不安要素がある。
前にも書いたが、2日後の帰国便は6:25発。
当日にホテルをチェックアウトしては到底間に合わないので、前日にチェックアウトして、タンソンニャット国際空港で夜を明かす事になるのだ。
そうなると日中歩き通しも辛いので、何処かで休めれば一番よく、H.I.Sの支店でそれが可能かどうか確かめたかった。
電話で事足りるのかも知れないが、日本人と顔を合わせて確かめたい。
朝食後の散歩ついでに行ってみよう。
軽く支度を整え、ベッドにチップを置く。
ベトナムではチップの習慣は一般的では無いらしいし、これだけ格式の高いホテルでホテルパーソンが悪さを働くとも考えづらいが、充分な額のチップがあれば不意に襲ってくる邪念の抑止効果にもなるかも知れない。
適正な額は分からないが、昨夜食べたバインミーが25,000ドン、と考えると昨日置いた5,000ドンでは軽食にも足りないぞ。安すぎだ。
一仕事片付いたらバインミーを食べられる額、25,000ドンを置いて部屋を出た。
ホテルの目の前にある公園で、制服を着た少年の一群が、順番に手にマーカーを持って走り、おそらくは地面に置き、次の少年がまた走ってそれを回収するという運動をやっていた。
少年達の歓声が、快晴の朝の公園の風景をより活き活きとしたものにしていた。
H.I.Sの日本人女性スタッフはちょっと素っ気ない感じで、満面の笑み少し期待していた自分の甘さにガッカリした。
接客業者が客に対して笑顔で接するのは日本独特の事で、ベトナム人にそういった過剰サービスは期待していなかったが、日本人に素っ気なくされると少し驚く。
異国に長く住めば、日本人でもサービスは異国風になるのだろうか。
ラウンジにいたベトナム人女性スタッフの方が物腰は柔らかかった。
まあとにかく、明日、ここで休憩できるのは間違いない。
ちょっとだけ一息ついて、目と鼻の先にあるフレンチ・コロニアル様式の建物に向かった。
歩いて5分もないところにある美しい建物は2つ。
ここはレートの良い両替所として事前にチェックしていたが、入ってみると内装のレトロな美しさに圧倒された。天井のアーチの下には扇風機が緩やかに回り、さらにその下に並ぶカウンターでは人々がガラス越しに職員と話している。郵便か、預金か、両替か。
アーチの突き当たりに掲げられた、ホー・チミンの絵画がその様を見守っている。
スマホで何枚か撮ったが、出来ればちゃんとしたカメラでも撮りたい。
可能ならまた来よう。
と、外に出ようとして、館内の土産物屋が目に留まり、のぞいて見ると帽子が売られている。
黒いハットをレジに持って行った。
「80,000 don.」
「non , non. That,s 800,000 don. This is 80,000 don.」
お金が流通する郵便局で派手な間違いをしてしまった。ドンマイ。
ベトナム人はこういう際にも誤魔化しはしないらしい。
と、広場脇の木陰に、白いドレスを着た少女が大人に手を引かれて、何かの記念撮影の準備をしていた。
「Excuse me , Mr, I want teke she photograph.」
後から考えれば文法がメチャクチャだが、自分の為だとゼスチャーで伝え、
「She is beautiful.」と言うと、カメラマンは笑顔で
「No probleme.」
マリア様に続いて、木陰で微笑む小さなレディーを写真に収めることができた。
ここで旅の目的の一つ、練乳たっぷりのベトナムコーヒーが飲めそうだ。
カウンターで指差し注文をすると、ややあって陶器のカップに注がれたベトナムコーヒーがサーブされた。
カフェの奥に陣取って口にする。
柔らかで濃い苦味に、底に溜まった練乳がほのかに香る。美味い。
旅の目的に充分耐えうる味だ。
ふと思いついて、ベトナムでMV撮影したガールズグループの新曲をDLした。
強い日差しの中を歩いてなんとなく思い出し、この瞬間にぴったりだと思ったからだ。
日本で聴いた時は「ちょっと古いテイストだなぁ」と思っていたが、自称「4,000年に一度の美少女」が唄う希望や自由に溢れる歌詞と、明るいメロディーに涙が溢れてきた。
自律神経をやっていて心がある面で脆くなっているのは間違いない。
でも涙を流せばストレスも流れ落ちると言う。
泣けるのはきっと良いことだ。
この瞬間を楽しもう。きっと今しかできないことがある。
校門にたむろする白い制服。
カオタン テクニカルカレッジでもそうだったのだが、校門前にはスクーターが引っ切り無しにやってきて、学生が乗り降りしている。
ちょうど昼時だ、近くに食事を取りに行くのかも知れない。
女学校を通り過ぎてしばらくすると、正面から長い黒髪の少女が駆けてきて、すれ違った。
そろそろ不安になって手元のキャッシュを数えると、879,000ドン。
相変わらずどれだけの価値があるのかさっぱり分からないが、あまり高額でないことは確かだろう。
道路を横断するたびにバイクを躱さないといけないホーチミンだが、歩行者用信号機が無いのかといえば、時々ある。
そういえば、歩行者用信号機と車両用信号機は対になっているという固定観念がありました。
いや、僕も日本人長いんで。
偶に止まるバイクもあるにはあるものの、そこは何か「お気持ち」というか、交通ルールが「個人の優しさ」で運用される、そんな独特さがホーチミン仕様だった。
ネットで調べた優良両替店に行きすがら、広大なメインストリートに打ち当たる。
後から調べると、グエンフエ大通り公園という事だった。
公園の突き当たりを見れば、格式ありそうな建物と、その前に右手を前方に差し出して起立するホー・チミン像。
これはネットで見た事があるぞ。
パッと名前は出てこないが、ここがホーチミンで必ず訪れるべき場所だろう。
ホー・チミンをセンターに収めて一枚。
両替店まではもう直ぐだ。
両替店、エクシムバンクのカウンターで1万円を差し出すと、お兄さんは平坦な声で言った。
「2,050,000 don.」
このレートは良いんだろうか。計算してみると、1円で約0.00488ドン。
ネットで調べて出てくる標準レートと同じくらい。
日本で両替すると、これが0.00400位の時もあるとのとこだから、優良なんだろう。この数字が高ければ、当然手元に入ってくるドンも多くなる。
米傀儡政権を追い出して社会主義国家を打ち立てたホー・チミン。
その名前がついた街で、両替レートの熾烈な競争が繰り広げられているというのは何だか不思議な話だ。
コーヒーショップでこの旅行記を書いて、一息着いたら、疲れがやって来た。
無理せずホテルに戻ろう。
辺りはすっかり陽も落ちて、視界も悪くなっている。
ホテルに向かっていると、疲れのせいか、気分の落ち込みと、空腹と、吐き気を10倍に薄めたような胸の悪さが同時にやって来た。
安定剤は弱めだと先生が言っていたが、あまり頼りきりになりたくは無い。
とにかくエネルギー不足が危険を呼びそうだったので、何か食べたかった。
店に入るだけの元気があるんだろうか?
書店の灯りに何となく誘われてグエンフエ大通りを歩いていると、道すがらバインミーの屋台を見つけた。
そうだ、バインミーを食べるのは、この旅行でクリアしたいタスクの一つだった。
書店を少しだけ覗いた後、引き返してバインミーの屋台に向かう。
台湾でガイドさんに言われた事を思い出すと、屋台モノは人が並んでいるものを買うのが鉄則らしい。
即ち、食材の回転が早く、新鮮なので、当たる事が少ない。
屋台の前には学生さんと思しき数人が並び、バインミーを受け取ると、やおら店の前でムシャムシャ食べ始めた。
大丈夫そうだ。
レバーパテとハム、ナマスとパクチーの挟まったバインミーはパンのサクサクした食感と、予想以上のスパイシーさで、なかなかのモノだった。
ドトールの優等生、ミラノサンドとルックスは似ているが、風味のゴージャスさと食感でこっちの勝ちだな。
小腹を満たしたところで飲み物が欲しくなったが、都合のいい事に、屋台の直ぐそばに、台湾のタピオカミルクティー専門店、THE ALLEYがあった。
タピオカのホンノリとした甘さが心地いい。
見上げると、夜のグエンフエ大通り公園の空に、近代的なサイゴンスカイデッキが鮮やかな色彩を与えていた。
ここで少し計算をしよう。
それぞれ日本円に換算すると121円と316円ほど。
昼に訪れたサイゴンセンターで売られていたシャツはセールで600,000(60万)ドン。
2,923円。
ベトナムでも飛び抜けて高いとされるホーチミンの平均月収は1037万ドン。
約48,900円。
サイゴンセンターのシャツは平均月収の1/17程という事になる。
これを東京の平均月収38万円に当てはめると、22,000円前後。
東京とホーチミンでは収入の分布が違うだろうから、一概には言えないが、ちょっと計算してみるとなかなかのお値段だ。
そういえば、サイゴンセンターは平日の昼とはいえ人もまばらだった。
台湾でも嗅いだアジア特有の匂いがあるにしろ、ホーチミンは意外にゴミなどが落ちていない。
かと思えば、レロイ通りには近代的なサイゴンセンターがあり、グエンフエ大通りでは天を衝くようなスカイデッキが夜空を煌びやかに照らしている。
近代化を突き進む今のベトナムには、そこかしこに様々な差がありそうだ。
朝の公園でピースサインをくれた少年少女や、青い制服で飯をかっ込んでいたカオタン テクニカルカレッジの男子達は、将来サイゴンセンターのシャツを買うのだろうか。
Day 2
自律神経をやっていようと、そうでなかろうと、旅行で眠れないのはいつもの事だが、処方された睡眠導入剤を飲んでも5時間足らずしか眠れないとなると、この体質は筋金入りだ。
自然に目が覚めたのは6:45。
二度寝を決め込もうとしても、ちょっとウトウトするだけで、眠気は「こんにちは」してくれそうもないので、あきらめて起きることにした。
眠気はどうあっても俺に「おはよう」と言いたいらしい。
睡眠不足とホテルパーソンへのコミニュケーションのハードルを前に少し逡巡したが、おそらく一番ストレスが少ない形で美味いものが食える可能性が高い、ホテルの朝食をとることにした。
朝食会場に向かう途中、外を見ると、強い日差しの向こうで噴水が上がっていて、これぞ南国の午前という感じだ。
シャンデリアの下がる大広間でコーヒーをサーブされて、料理を物色するというのは朝から優雅なものだ。
ホーチミンはフランス植民地時代からアメリカ傀儡政権の時代まで首都を置かれた地で、パン食の文化がある。
果たしてビュッフェにもバゲットやチーズ、レバーパテがあり、これは行くしかない。
他にも当然アジアスタイルの炊き込みご飯やカレー、ライスヌードル、揚げ春巻きもあって、洋越折中といった雰囲気だ。
どれも美味いが、カレー(多分)が出色だ。
さっぱりして、辛すぎないマイルドな味わいだが、スパイスの香りが口の中に拡がって抜ける。
席の背後をチラッと見ると、「Sweet TOFU」の文字と壺。
「TOFU?」とホテルパーソンに声をかけられて、首を横に振ったが、やはり気になる。
結局サーブしてもらうことにした。
甘い豆腐。予想通り豆花だった。
しかし、台湾のそれと違って暖かく、ココナッツフレーバーと生姜蜜がかかっている。
美味い。
これだけ食って自律神経失調症も無いもんだと言われそう。
大変満足した。
あの日差しを浴びたい。ポーチに気休めの安定剤を詰め込んで、食後の散歩に出ることにした。
行く当てのない散歩だけど、とりあえずベンタイン市場を経由してサイゴン川を目指そう。
よく見ると現地の人だけでなく、観光客と思しき欧米人の対応力も凄い。
「バイクを見切って躱す」のはこの街では必須スキルなので、嫌でも身につくらしい。
昨日と違う事と言えば、バイクのライダーのオッチャンに頻りに声をかけられる事。
迂闊に乗ったら多分ヤバイやつ。
「Ser , Go work.」笑顔で固辞して先を急ぐ。というフリでプラプラ歩く。
ホテルの目の前の公園で談笑していた少年たちに許可を貰って一枚。
リーダーか、英語ができるかする少年に何か話しかけられたが、意味はわからない。
でも敵意はないのは伝わったようだ。
しばらく歩くとベンタイン市場に到着した。
体育館の様な大型のアーケードの下に、色取り取りの生地や雑貨、飲食店。
夕食はここにしようかな?
自律神経が働いた悪さなのか、旅行の緊張なのか、食べ物の匂いがまだ辛い。
ここでも頻りに声を掛けられるが「ハハハ」と笑いながら素通り。
10:00。
日本以外のアジアは大体が外食文化で、例えば台湾などでは学生は校門前に陣取る屋台で朝食や昼食を買って教室で食うらしい。
多分ベトナムも同じなんだろう。
周りを見れば、学校の向かいに軒を並べる露店で固まって食を取っている学生も多い。
ドン!
飲料水を買おうとしてファミマに入ると、そこでも学生が食事を摂っている。
それにしても男子ばっかりだ。
青い揃いの制服のせいか、男子学生達は一様に小綺麗で、教育程度も高そうな印象を受ける。
一旦学校前を離れて、日本で言うところの伊勢丹、いやもっと格上の三越のような存在の百貨店、サイゴンセンターを物色した後、1時間程で戻ると、男子達はまだ周囲の露店で食ってる。
こいつら引っ切り無しに食ってるな、なんだったら今が本番かも知れない。
暑さもキツくなってきた、先を急ごう。取り敢えず川が見たい。
学校前を離れる時に、校舎の壁に学校名のエンブレムを見つけた。
ARIZONA STATE UNIVERSITY
なぜアリゾナ州立大学がホーチミンにあるのかは分からなかった。
相変わらずの躱しゲーを繰り返しながら辿り着いたサイゴン川は、隅田川よりもっと広く、澱んでいた。
薄々勘付いていたのだが、自分はまあまあな晴れ男であり、観光やここぞと言うときに雨に当たられる事は少ない。
10月初頭のホーチミンはまだ雨期のはずだが、それでさえもこの有様だ。
自律神経の不調も憂鬱な気分も、事、天気に関しては影響しないらしい。
願わくばその運をもうちょっと別の事にも回して欲しいくらいだ。
雨のホーチミンで、お茶でも飲みながら茫然とするというビジョンはひとまず実現せず、現実には炎天下の橋の上でこの旅行記を書いている。
何はともあれ、この時間でやりたい事はやった。
ホテルに戻ってシャワーを浴びてから、気になって例の学校について調べると、やはりというか、アリゾナ州立大学ではなく、カオタン テクニカルカレッジというらしく、機械や電子に関する工業高校らしかった。
そりゃ道理で男ばっかりな訳だ。
学校の程度はわからないものの、自作で車を作るイベントがあったり、インテルと提携して人材開発を行なっているらしかったり、そこそこ優秀な雰囲気を感じる。
ここは工業化・近代化真っ最中のベトナムだ、生徒といえば荒っぽい男の子達ばかりと相場が決まっている日本の工業高校と同じ感覚では考えられないのかも知れない。
多分、アリゾナ州立大学ともなんらかの提携を結んでいるのだろう。
【石川県】・・・『石川県の"モーゼの墓"は税金で管理されている』
【広島県庁】・・・『広島県庁社団法人広島県観光連盟は葦嶽山を"世界最古のピラミッド"と発表している』
【青森県新郷村】・・・『新郷村役場は"キリストの墓""キリストの遺書"の存在を公式に認めている』
【出口王仁三郎】・・・『日本人シュメール起源説』 『世界最古の文明を作ったのは日本人』
【日本画家鳥谷幡山】・・・『ピラミッド日本起源説』 『日本ピラミッドを発見』
【牧師勲五等酒井勝軍】・・・『日本ユダヤ共同起源説』『ピラミッド日本起源説』 『日本ピラミッドを発見』『古代イスラエルのオニックスを日本で発見』
【アイヌ研究家小谷部全一郎】・・・『源義経=ジンギスカン説』 『日本ユダヤ共同起源説』
【皇祖皇太神宮神主竹内巨麿】・・・『竹内文書』 『神代文字』 『日本は人類発祥の地』 『モーセ、キリスト、ムハンマド、釈迦は来日し天皇に仕えた』 『青森で"釈迦とキリストの墓"を発見』
【政治家考古学・地質学者山根キク】・・・『キリスト日本渡来説』『青森でキリストの子孫を発見』
【日本探検協会事務局長幸沙代子】・・・『漢字を発明したのは日本人』
【東大経済学部卒探検協会会長高橋良典】・・・『太古、日本の王は全世界を治めた』
【帝大(東大)卒歴史学者木村鷹太郎】・・・『世界文明の起源は日本だとする"新史学"を提唱』 『世界中の古代遺跡は日本人によるもの』 『邪馬台国は古代エジプトにあった』
『ホメロスの「オデュッセイア」は「平家物語」や「太平記」を元に書かれた』『ムハンマドは日本神話の本牟知別命であり桃太郎。この伝説が英国に伝わり「ハムレット」になった』
『ソクラテスは日蓮、プラトンは日昭』 『西郷隆盛は自刃せずベトナムへ脱出した。"サイゴン"は"西郷"の名からつけられた』 『イタリアのシシリアンは江戸の町奴だった』
皇帝になる前は、歴代皇帝は勇ましくて魅力的だと思いましたが、帝位継承して記憶を共有したらいやな所にも気がつきました。
いい皇帝もたくさんいたけれど、みなさんに知ってほしくて書きます。
1.財政が常に厳しく、開発が追いつかない(大学はお金がかかりすぎ)
2.自分の気持ちに素直になれない。損得で行動しないといけない(冥術と赤トカゲ)
3.陣形を覚えるためだけに帝位継承させられたのが悔しい(シャハリヤールさんの記憶です)
4.「ワグナスやらノエルやらは、復讐を考えているようだが、そんなことはオレには関係ない」(修行時にはお世話になりました)
5.差別はないが、めぐり合わせが悪いとルドン高原行き(サイゴン族も怒っている)
6.○○が完全に入ったのに、と文句を言う(歴代皇帝の間でもネタになっております、そろそろ許してあげたいです)
7.触手が痛い(バラララッ)
8.性別・種族の特徴をみとめない(性別・種族関係なく、使えないとルド(ry)
ゲストは、夕食時に何か話すことを求められる ブローカーは投資のアドバイス、建築家はデザインの、
翌朝、私は気分良く目覚めた。 動くことも出来ずに、目を見張った。
ペーシェンスはマフィンとジュースを買いに出てる。すぐ戻るよ 彼は―フルチンで立っていた。
無頓着に、ハッピーそうに、ぶらぶらさせて これだけは分かる -ピーターの前でコーヒーを飲むのは難しい
キャリーに廊下でナニ見せたの? トイレに行く途中に、すれちがっただけさ。
私はやっとのことで"おいしいマフィン"をバッグにつっこんで、NYに帰ってきた。
あらお兄さん、私フレッシュ・ペッパー大好きよ。実際このテーブルじゃ、みんな欲しがってると思うわ。
それで彼女に「なぜうろたえるのか分からない」って言ったの。そうしたら「独身には分からないわ」って。
何よそれ?独身女がビーチをうろついてるってこと?友人の旦那のチンコを見たいが為に
彼女はイイ友達だった?―何が違うの?
結婚したら、これまでの関係は白紙。結婚したら独身女の私たちは敵なのよ。
唯一の法律事務所で働く独身弁護士だからか、ミランダはこの話題に、議題を投げかけた。
結婚した女は、私たちのこと警戒してるのよ。だって私たちがセックスするから。―いつでも、どこでも誰とでも。 私たち?
それで恐れてるのよ、私たちがいつかどこかで”私の旦那と”するんじゃないかって。
私は既婚者と寝たことはないわ。
一度もないって言える?結婚指輪はずしたら、わかりはしない。
まさか!結婚してる人たちみんながそう思ってるわけじゃないわよ!
シャーロットは結婚を、必死になってでも入会したい社交クラブのように思ってる。
そうね、みんなじゃない。独身女を恐れないで、哀れむ人もいるからね。 「哀れな独身女」って見られたことないとでもいうわけ?
ミランダの言うことは正しい?独身女は敵?既婚者と独身女の間で、見えない冷戦が繰り広げられてる?
でも結婚すると…、以前と同じように接するのはムリ。
昔ほど会わないわ。哀れすぎるのよ。彼女たちを見てると、昔私がどんなにひどかったか思い出させてくれるわ。
女は結婚すると自分を忘れる。「私」が「私たち」。私たちが好きな映画。私たちが嫌いなレストラン。私たち…
僕も相棒がいて、何をするにもいつも一緒だった。でもこの女と結婚すると変わっちまった。今じゃ会うのはたまの日曜日だけ。
人生に何を求めるかによるわ。ひとは私みたいに成長することを選んで… 現実を見つめて結婚するの。
そうでない人は何を選ぶ?中身のない不完全な青春に取り憑かれた人生よ。
ノンケの世界ならなおさら。私の知ってるゲイなんて、みんなハワイに行っちゃって…、カフタンを身につけて、誓約を暗唱して、私より優れた気になってる。
カフタン?―ランの首飾り。アロハ~
みんなが一人だった昔が恋しいわ。今じゃ私は、のけ者の、のけ者。
おひさしぶりね。会うのはあの時以来…
泥沼の戦場は賄賂、収賄、買収、そして暴力がまかり通った大統領選挙
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アフガニスタンのカンダハル以南は「タリバン自治区」とも言えるヘルマンド県、とくにカンネシン町は惨状である。ま、「タリバニスタン」って呼び替える方が良い。タリバンは表向き地区から消えたかたちだが、見えない政府として実質の空間を統治している。カブールからアフガニスタン政府の治安維持の兵隊は来ない。
警官が百三十人の配置と計画されたが五十人しかこなかった。ところがかれら「警官」は、何の訓練も受けておらず突っ立っているだけ、いや立っていることも出来ず、泥棒、ゆすり、たかりをやる。要は「カブールから通りをあるいている失業者を連れてきたんだよ、員数あわせで欧米から支援金をひきだすためにさ」(NYタイムズの住民へのインタビュー)。
住民は誰も中央政府派遣の警官を信用せず、畢竟するにカブールにある「中央政府」なるものを信頼せず、広大な草原と谷と砂漠の土地は米兵と英国兵がチェックポイントだけを巡回パトロールしているが、決定的に兵力が不足している。だから一番犠牲が多いのも広大な土地を少数でパトロールする米英軍で、作戦には限度があるからだ。タリバンはゲリラ訓練を積んでおり奇襲が得意で米国海兵隊並みの強さ。しかもカンダハル以南は猛暑で日中は摂氏48度である。
カルザイの中央政府が何をした? ひとりの教員も行政官も送ってこず、学校を建てず道路は造らず、つまりは何一つ住民のための政治をしないと住民は激怒しているのだ。これらの現実を米国の特派員らが現場から打電してきている。
カンダハル以北では学校も道路も橋梁もかかった地域もあるが、地元業者は「許可料」と「不襲撃確約」のためタリバンに膨大なみかじめ料を支払ったという。
民は罌粟を栽培し、金に換えるしかない。こうした「農作業」と運搬はタリバンが支援してくれる。住民の三分の二はタリバンを支持し、米海兵隊を頼もしいとするアフガニスタンの民はまれにしかいない。
この日、英国兵の犠牲が二百名を越えた。英国ではブラウン首相のアフガニスタン政策を「よくやっている」と評価しているのはたったの1・5%、圧倒的多数は「すぐに撤退を」望んでいることが分かった(「サンディ・メール」が8月20-21日に実施)。ちなみに次の英国選挙は、こんどの日本の民主党圧勝型になり、労働党大惨敗に至るだろう。
米国が期待したアフガニスタンの大統領選挙は「ごまかしの集大成」であり、暴力と買収の結果である。パキスタンのムシャラフを最初は支援し、やがて選挙に不正があったとして引きずりおろしたのも米国ではなかったのか。
土壇場で十名近い候補者が降りたのは、より有力な候補者に地盤をわたし、カネを受け取ったからだ。つまりカネをにぎるカルザイ大統領に。
買収は常識であり、本当の選挙をやれば、カルザイが第一回投票で過半を超えるとは考えられない情勢だった。
ホルブロック米国特別代表は、選挙後、二回、カルザイ大統領と会談し、泥沼の現状を批判した。アメリカの嫌悪するファヒム将軍(北部同盟)やドスタム将軍(ウズベク軍閥)を入閣させようとは何事か、と。しかしカルザイ大統領は米国の内政への介入を拒否し、ついに米とカルザイ政権に鮮明な亀裂が入った。
ベトナム戦争は腐敗した南ベトナム政権の腐敗に目をつむり、米国は傀儡に支援をつづける一方で、南ベトナム政府軍を育成したが、みごとに失敗し、ベトナムの民は米も政府も信用せず、最後は昼の顔を夜には変えてベトコンに税金を支払い、米と組んだ華僑を狙い撃ちし、最後はサイゴンにベトコンが侵入するや市民は歓迎してむかえた。