はてなキーワード: 斎場とは
首相動静(11月18日)
(略)
19日午前0時13分、米サンフランシスコでのAPEC首脳会議出席などを終え、政府専用機で羽田空港着。同30分、同空港発。
首相動静(11月19日)
午前11時4分、広島県三次市の斎場「平安祭典 三次会館」着。裕子夫人の父・故和田邦二郎氏の葬儀に参列。
午後1時39分、同所発。同2時5分、同市の火葬場「三次市斎場悠久の森」着。
午後3時28分、同所発。
午後4時36分、広島空港着。
午後7時28分、東京・信濃町の創価学会本部別館着。同30分から同45分まで、同会の故池田大作名誉会長の弔問。原田稔会長、池田博正主任副会長と面会。
午後7時49分、同所発。同58分、公邸着。
和田邦二郎さん(わだ・くにじろう=岸田文雄首相の義父)11日死去、94歳。通夜は18日午後7時、葬儀は19日正午から広島県三次市十日市西6の8の1の平安祭典三次会館で。喪主は長男成一郎さん。
創価学会名誉会長・SGI(創価学会インタナショナル)会長の池田大作先生が15日夜半、老衰のため、東京・新宿区内の居宅で霊山へ旅立たれた。95歳のご生涯であった。葬儀は17日、近親者のみで家族葬として執り行われた。
いやわかるよ、政党トップとして所属議員たちを食わせにゃならん、そのためなら池田先生のケツでも遺灰でも舐めてやるってんだろ
全く支持はしないが覚悟はわかる、ずいぶんな賭けだな、俺は立派だと思うよ
でもさ、それって義父の葬式をさっさと切り上げてまですることか?池田の葬儀は2日前にとっくに終わってるんだぞ、時と場合ってもんがあるだろ
アメリカでAPEC会議ついでに6カ国との首脳会談ほか行事たくさん、深夜に帰国し義父の通夜には出られず、翌朝一番で広島入りして葬儀、そして信濃町の創価学会本部にトンボ返り
大変なスケジュールだと思うよ
だからってお前、火葬場滞在1時間23分間ってまともに骨拾えたのかよ
義父との別れを、妻への慰めを、喪主への労いを、広島滞在7時間でまっとうできたと言えるのかよ
それらを投げ打って既に葬儀の済んだ創価学会本部に馳せ参じてまで票が欲しいかよ
政治家・岸田文雄は立派かもしれないが、俺は今、人間・岸田文雄を軽蔑しようとしている
https://www.jiji.com/amp/article?k=2023111800255&g=pol
https://www.jiji.com/amp/article?k=2023111900133&g=pol
https://www.asahi.com/sp/articles/DA3S15791659.html
https://www.seikyoonline.com/article/1105A80AC3B8C9691D68205F3E12D455
5年前に母親が病死して地元の斎場で焼かれたんだけど、そのときの光景が忘れられない
糖尿からの脳梗塞腎不全認知症で死ぬ前の5年間ぐらいはもう体ズタズタ、ご飯もずっと液体みたいなの食べてたから、焼いたあとの骨がめちゃくちゃ小さかったんだよな 元々小柄な体格ではあったんだけど、それでも大人の骨とは思えなかった
病気で亡くなった人は骨が弱るから仕方ない、とは斎場の人が言ってたんだけど
焼いたあとの骨を箸で壺に入れるあの一連の流れがめちゃくちゃ悲しくて怖くて、今でも夢に見る
親戚の人らはあのとき全然泣いてなくて私だけめっちゃ泣いてて なんでこんな気持ち悪いことしてんのに平気なんだろう?って思った
男でも女でも、街中にすごい痩せてる人いるじゃん?片岡鶴太郎みたいなガリガリの人
ああいう体型の人見るとどうしてもその人が焼かれたあとの骨の感じとか想像してしまって辛くなる
皆ちゃんと飯食ってくれよな
犬がリビングに安置されていたので、母とふたりリビングで寝た。
泣きながら寝た。
今日の午前は母と花を買いに行った。
犬に供える花は、私と母で選んだので、赤とかピンクとかの華やかな色は少なく、
ガーベラやカスミソウ、白いカーネーション、小さなひまわりみたいな花になった。
午後には斎場に持って行くので保冷剤とタオルで包んで冷やすのは昼にはやめていた。
斎場は火葬にするだけで遺骨は手元に残らないので、毛を残すことにした。
胸元の白くてふわふわな毛がかわいいね気持ちがいいねと父が言った。
白いだけだとこの犬じゃ無いみたいだから、と弟が言って背中の茶色と黒の毛も切った。
尻尾の先の黒っぽい毛を母が切った。
私は額の短くてやわらかな毛が好きだった。
叔母と従兄弟たちが来た。
犬に頑張ったねと声をかけて、まだ寝ているだけみたいなかわいい犬の写真を撮った。
みんなで犬と写真を撮った。犬は穏やかに寝ているだけみたいだった。
名残惜しく身体を撫で、声をかけて思い出話をした。
小さくなったねとか本当に長生きしたねとか、こんな写真があったとか、本当にかわいいねとか。
犬は生まれた時から死んだ後までずっと、本当にかわいい犬だった。
箱に犬を入れて、また撫でた。
おやつと花を箱に入れた。
焼き芋を買ってきて、入れてやればよかったと思う。
牛乳は入れることができないので、残念だった。
弟は、タオルに牛乳を少し染み込ませて箱に入れることを提案したが、それは流石に犬も嫌だと思う。
花に囲まれた犬はかわいかった。寝てるみたいだった。きれいだった。
みんなでまた犬を撫でて、家を出た。
祖父母と叔母と従兄弟と別れて、家族5人と犬で車に乗って斎場へ向かった。
ずっと涙が止まらなかった。
しばらく待って中の部屋で箱ごと重さを測り、お金を払って、
もうお別れをするだけだった。
部屋の中に入る前に一回箱を閉じたけどまた開けた。
父がもう一回犬の顔見たくなっちゃったと言っていた。
みんなでまた、犬の身体を撫でて、別れを告げた。
それまでは犬に頑張ったねととか、ありがとうねとか、みんなそういう言葉を言っていたけど、
名残惜しく、何度も犬の顔を撫でた。
そうして箱を閉じて部屋を出た。犬とおわかれをした。
部屋を出て、建物を出て、車に乗った。
もう家に帰っても犬はいない。
私は犬のふわふわの毛の生え揃った額に触れることができない。二度と。
かなしい。さみしい。さみしい。
犬は、セレモニーみたいにしなかったけど、多くの人に見送ってもらえて本当に良かったと思う。
多分、いつか私が死ぬ時よりも多くの人に見送ってもらえただろう。
みんなが大好きなかわいい犬。
気まぐれで飽き性で、元気でかわいい犬。
もう家の中のどこを探してもいない犬。さみしいよ。
一緒にいたい、より、そこにいて欲しい、という感情が近い。
私も犬もベタベタくっつくタイプでは無かったから、こういう気持ちなのかなと思う。
私は普段一人暮らしだし、犬がずっと家にいてくれたら幸せだった。
もう家に犬がいない。さみしい。
今は一人暮らしの部屋に戻ってきてしまった。明日は仕事に行かなければいけない。
いつもはひとりでいることは全然苦にならないのにずっとさみしい。
ずっとかわいい犬。私はさみしいけど、どこかで満足のいくまで牛乳を飲んで、芋を食べて、
楽しく走り回って、気持ちよく寝ていて。
たまには私たちのこと思い出してくれたらうれしい。
私のかわいい大好きな犬。さみしい。
このブコメで異体字は「斉斎などの異体字は統合すべきだ」というようなブコメがいくつかある。異体字への認識が根本的に欠けていると言わざるをえない。
【斎・斉】
「斉」を「斎」の略字だと思っている人がいますが、どちらも常用漢字表にある別字です。斎がサイなのに対し、斉の読みはセイ。ただし、サイトウという姓には斎藤さんも斉藤さんもいます。俳優の斎藤工さんは、映画監督としては本名の齊藤姓で活動。「齊」は斉の旧字です。#そっくり漢字 pic.twitter.com/fgzBeAYj13— 日経 校閲 (@nikkei_kotoba) March 14, 2023
この日経新聞校閲アカウントの説明が簡潔にまとまっているが、「斉」「斎」ともに常用漢字表にある別字なのだから斎を斉にしろという主張はめちゃくちゃなのである。
「『希ガス』が『貴ガス』に変更されたし『貴重品』も『希少品』も似たようなものだから『貴族』を『希族』と書き換えても問題ないだろう」とか主張したらめちゃくちゃ言うなと思うだろう。「斎の字を斉に統合しろ」というのはそのくらい無茶苦茶な主張だ。
同じにするべきだと主張するならば、ひとまず「斎場」「書斎」を「斉場」「書斉」などと表記するようにして広く一般に同じ字だとみなされる状況を作るところから始めるべきだ。
彼は長男として色々な期待と重圧を受けながらも、両親からとても愛されて育ってきたのだろう。
従兄弟だった彼は、幼かった頃は隣県に住んでいた事もあり、盆や正月には叔父と共によく遊びに来たものだし、私達も両親と一緒に遊びに行ったものだった。
ところが私が中学に上がった頃、叔父の転勤と共に簡単に往復できる距離ではなくなったことから、“もっとも、当時の我が家の状況を鑑みると、理由はそれだけではないようだが”彼との音信は完全に途絶えてしまい、無事就職が決まって今は勤務先の新潟に居るらしい、という事を叔父から伝え聞いていただけだった。
彼の訃報を受け、私は両親と共に叔父の元へ赴くことになったのだが、私達が斎場へ到着した時にはまだ親族関係者の誰の姿もなかった。
斎場の職員に案内された通夜会場には故人の亡骸が納められた棺だけがあり、叔父の到着を待たずに棺の窓を開けて故人と対面した。
驚いたことに、十数年振りに見る故人は少なくとも私の記憶にある幼い丸顔の彼ではなく、彫りが深くてひげの濃い、独身だった頃の私の兄と瓜二つの容貌だった。
甥の顔を久しぶりに見た両親も、死に化粧の所為かもしれないが、と前置きしつつ、本当に寝ている兄のような顔だと。
気がつくと叔父は私達の後ろに立っていた。
正確に言えば会釈するまで、“少なくとも私は”叔父だということに気づかなかった。そのくらいにやつれてしまっていたのだ。
故人の仕事を後押しして遠方に送り出した叔父は、何度も何度もうわ言のように後悔の言葉を口にするばかりで、先に到着していた私の兄と叔母の弟に辛うじて支えられているような状態だった。
その日の夜行われた通夜には、身内だけだと言いながらも、叔父夫婦の関係者のみならず、沢山の故人の同級生や友人達が訪れ、予想していなかったのであろうか、叔父は引きつった表情ながらも、その日一度だけ笑顔を見せた。
通夜が終わった夜遅くに私達は叔父夫婦に家へ招かれ、二人は故人の思い出話、そして故人の最後と、再び自分の後悔の言葉を口にした後で、長男に先立たれた現実を、まるで自分達に言い聞かせるように話してくれた。
実は私の両親は、今日まで叔父の家を一度も見たことがなかった。
叔父には、一度だけでも兄夫婦に自らが努力の末に築いたささやかな城を見て欲しい、そういう思いがあったのかもしれない。
実は数年前、私は一度だけ妹を連れ、叔父の家に遊びに行ったことがある。その時故人はおらず、叔父夫婦が私達の相手をしてくれた。
当時の記憶は薄れ掛けていたが、部屋を案内されて少しずつ思い出してきた。
しかし、リビングやキッチンに荷物が散乱した様は几帳面な筈の叔母のそれではなく、二人の心境をそのまま表しているのが見て取れた。
その後、叔父は一人葬場へ戻り、冷たくなった息子と一緒の最後の夜を過ごした。
翌日の告別式の席上、叔父は喪主挨拶の途中で言葉を詰まらせ号泣したが、振り絞るような声で最後まで読み上げ、叔父、叔母、叔母弟の家族一同で深々と弔問客へ頭を下げた。
皆で献花台の花を分けて棺に詰めて故人を飾ったのだが、沢山の花と思い出の品で個人の顔以外が埋め尽くされた棺の蓋を、叔父夫婦は中々閉じることができなかった。
火葬前にもう一度お顔を見られますから、と葬儀屋に促されてようやく蓋を閉じ、友人と親族で棺を黒い霊柩車まで運んだ。私も棺を持った一人なのだが、両手で抱えた棺は青年となった故人が納棺されているとは思えない程に軽かった。
故人と喪主は黒い霊柩車に、その他はマイクロバス揺られ、住宅街を抜けた郊外にある広い霊場に到着した。
途方も無く広くて、幼い子供たちが芝生の広場で遊んでいる、公園と見紛うような穏やかで緑豊かな風景が.だからこそ余計に、冷たい打ち放しコンクリートの壁で覆われた霊場の中で、故人の棺を囲む我々との落差を大きく感じさせる。
最後に皆で別れを告げ、叔父夫婦もしばらく名残惜しそうに棺の蓋の窓を開けて顔を見つめていたが、叔父が意を決したように閉じ、そのまま故人は荼毘に付された。
火葬が終わった後に行われる骨上げは、当然ながら丁重に死者を敬って厳かに執り行われる儀式であるが、この霊場における骨上げは、霊場の職員がステンレス製の台に乗せられた遺骨の部位一つ一つを細かく説明しながら骨壷に納めていく、という正直なところ厳かとは少々距離を、いや、ある意味では場違いなエンタメ性すらも感じさせるもので、さながらテレビで見る検死のワンシーンか、解剖実習のようにも見えた。
詰め込み始めて間も無く、若かった所為もあって立派な故人の遺骨は骨壷に納まりきらないだろうことが、誰の目にも明らかに映った。
目の前で全てを納めるように親族一同懇願したのだが、霊場の職員は、納めるには遺骨を砕くしかないですが、と説明し、少々躊躇った後で、遺骨を擂り粉木のような棒を使ってバリバリ音を立てて潰しながら骨壷に詰め込み始めた。
“恐らくこれは霊場ではよくある光景に違いない”とはいえ、私でさえギョっとしたそれは、叔父夫婦にはたまらなく暴力的に映ったのだろう、叔母は声にならない悲鳴を上げて顔を真っ青にし、叔父はたまらず席を外してしばらく骨上げの場に戻れなくなってしまった。
しかしながら、骨になって無残に打ち砕かれた息子に背を向けて震える叔父にも、今にも卒倒してしまいそうな叔母にも、声を掛けられる者は、私を含めて誰も居なかった。
ただ骨を潰す不気味な音だけが響き、霊場の職員は黙々と骨壷に遺骨を詰め込み、皆無言のままそれを見つめる他無かった。
来場した時と同じバスに揺られながら、来た道を骨壷を抱えて斎場まで戻るとすぐに、父は叔父夫婦に手短に別れの挨拶を告げ、足早にその場を後にした。
時間が迫る訳でも無い筈。いくらなんでも実の弟になんと冷やかな…そう私は思いながらも叔父達に頭を下げ、父の背中を追って車に乗り込んだ。
すると父は、私の気持ちを察したように車内で私と母に、こう諭した。
冷たいかもしれないが私達が居ても何の慰めにもならない。他の親族の足止めになるだけだ、と。
実は、集まった親族の顔ぶれは叔母関係者が中心を占め、叔父側で駆けつけたのは私達と兄だけという、どちらかというと叔母側の意向が強く見て取れる葬儀と、叔父夫婦の現在の関係性は薄っすらと私にも理解できていたが、父はこの場においてもその事について一切触れなかった。
そして悲嘆に暮れる弟に対する同情の言葉を口にし、人のために涙する父の姿を生まれて初めて見た。
故人の命日は何の因果か誕生日の前日、24年と364日の本当に短い人生だったが、彼にとっては辛くて長い戦いの日々だったのかも知れない。
実家に戻ると家を空けていた間に、少々痴呆気味で放って置けない祖父の面倒を見ていてくれていた妹が迎えてくれた。
両親に促されて、“もっとも、父も母も叔父と会話できるような心境になく、私にこの役目を押し付けただけなのかもしれないが”無事帰宅したことを叔父に電話で告げると、本当に良かった、と喜んでくれたが、これから色々と大変でしょうが…と言ったきり私は言葉が続かなかった。
私の様子を察したのか叔父は、今日はありがとう、それじゃあ、とだけ言い、電話は切れた。後日私の兄から聞いた話では、電話の後すぐに叔父は眠ってしまったらしい。
叔父が長男との淡い思い出を夢に見ながら目を閉じたのか、それともこれから差迫るであろう、暗い現実を想像しながら横になったのかは、私にも分からない。
葬儀に参列した。
式次第が進んだ後、親族一同で少し離れた料亭で食事を取ることになった。
手配された車で移動しようとしたら車が足りず、一旦自分が一人で残ることになった。
しばらく待っても迎えが来ない。
料亭の場所もきいてなかったので、近くの飯屋で適当に食事することにした。
喪服で店に行くのも嫌がられそうなので着替えていたら、携帯に電話がかかってきた。
見慣れた番号だが誰だっけ。
「ああ俺。夢から覚めた後の俺。いま飯を食いに行っても無駄だから止めておけ。
夢だから。」
そういえば自分の番号だ。
「夢なのかこれ。なら昔気に入ってたのに閉店した
あのラーメン屋にも行けるんだな。」
今午前2時だぞ。こんな時間にこんなはっきりとした夢見てたら駄目だ。
もっと深く眠れ。」
「今寝てるのは俺じゃないし、俺に言ってもしょうがない。
ところでこれ誰の葬儀だ?」
「知るか。誰だっていいだろう。」
「両親の祖父母は4人共何年も前に全滅した。母親も去年癌で死んだ。
残っている親父か?」
蓋が閉じた棺桶を脇目に見る。
「そんな事は考えるな。とにかく今すぐ全部やめろ。
寝ろ。」
切られた。
寝ろと言われてもすでに寝ているし飯を食いに行っても無駄だ、となると
棺桶に寄ろうとしたら、斎場の小さな隙間から猫が入り込んできた。
ガリガリに痩せた汚い猫で、放っておいたら猫に遺体を食べられてしまいそうだ。
猫を捕まえて外に追い出したが、この猫、何度捕まえてもどこからか中に入り込んでしまう。
「俺は今この文章を書いている俺だ。起きてしばらくしてからこの文章を書いているが、
実際のところを伝えておく。
さっきの"夢から覚めた俺”は夢の中のお前が作ったキャラクターだ。」
また変なのが出てきた。
「さっきの奴とは違うのか。
なんだよ、実際のところって。」
「実際に見た夢と、この文章は内容が大部違ってる。
まずお前は棺桶の中身が誰か、誰の葬儀か一度も気にしなかった。
さっきの奴との会話はあったが、棺桶の中身については一切触れなかった。
そして猫にも入り込まれたが、実際の夢では
何回も入り込まれた腹いせにお前が猫に噛みついて、
猫は死んだ。」
何だそれ。そういや腹は減ってるが。
脇に抱えた猫が不安げに俺を見上げる。
「そりゃ面白いな。猫はともかく。
要するに"今この文章を書いているお前"は、
「別に気にならない。夢で誰が死んでようが、夢は夢だ。
「なら聞いてやるよ。
親父が死んだらどう思う?」
人並みに悲しんだふりをした後日常に戻るだろう。」
「それを言いたくてわざわざこの文章を書いたのか。
じゃあお前の仕事は終わりだな。」
猫を床におろしてやった。
猫はてくてくと棺桶に近づいていく。
「それでいい。そのまま猫に遺体を食わせて終わらせよう。
甘いものでも食べに行けばいい。」
誰がいない猫に後始末などさせるものか。
俺は奴に言った。
「猫がどうするかは、今ここにいる猫が自分で決める。
お前じゃない。
俺もそうだ。
夢の中の俺でもなく、この文章を書いているお前でもなく、
今ここに立っている俺こそが自分だ。
棺桶をどうするかは俺が決める。
じゃあな。」
電話を切った。
棺桶に近づき、猫が見守る前で蓋に手をかけた。
さて、何が入ってるか。
祖父、祖母、叔父と棺桶を担ぐ(といっても斎場から霊柩車に運ぶだけだが)機会はあったが、三人とも重かった。
みんな亡くなる時にはやせ衰えていて、体重自体はかなり軽くなっていたのだがそれでも重かった。
精神的な物もあったのだろうが、あの重さを考えるとアマゾンで売ってる20000円の棺桶に入れるのはちょっと怖いなと思ってしまう。
棺桶がどういう状態なら大丈夫なのか、どういう状態だと危ないのか、素人目で分かるとはちょっと思えない。
葬儀屋さんは毎日の様に葬式をやっている訳だから、その辺のノウハウも積み上げているのだと思う。
納棺代じゃなくて細かく明細を出せという人も居るのだろうが、俺はいらないかな。
多少ぼったくられたとしても楽な方が良い。
目を通さなきゃいけない項目は少ない方が良い。
葬式に纏わる様々な事柄を丸投げできるノウハウを買っているのだと思えば、必ずしもぼったくりとは言い切れないのではないかとも思う。
数珠を買ってアクセサリとしてつけるような人を理解できないなといつも思っていた
喪服って5万円するのかよと思いつつ、裾上げを待っていたら、「他にお忘れのものがないかリストがあるので確認されてはいかがでしょうか」と言われた
リストはお葬式出席の際に必要なものをまとめたもので、黒のネクタイ、ハンカチ、黒の靴下らと一緒に数珠が載っていた
そういや自分用の数珠なんて持ってないし、他で買う時間の余裕もない
まったく欲しいと思っていないが、斎場では持っているに越したことはないかと、人からどう見えるかの目を気にして購入した
紳士服屋で数珠買うくらいなら参道の土産物屋で買ったり、好きな石の数珠を買ったりした方がまだ思い入れもできるし、もっと安く買えたかもしれない
小馬鹿にしていたせいで数珠を選んで買うことができた機会を避けてたなと少し反省した
帰宅し、喪服を着て、数珠をパッケージから取り出して、亡くなった方は神道だと気づいた
冷静になって考えたら思い出せたかもしれないなと思いつつ、身内の不幸があって冷静なわけないよなとも思った
去年も一昨年もなんやかんや言って帰れんかったし俺その前の年も仕事あったから集まりさぼるわ言うて帰らんかったんな。せやから都合三年ぶりくらいになんのかな?三年前の盆以来かな。いやちゃうわ、じいちゃんが死んだで九月に一回帰ったんやった。いやでもじいちゃんの葬式もほとんど斎場にいったみたいなもんやったし、何言うて俺じいちゃんの霊柩車乗ったくらいしか覚えてへんわ。ばあちゃんのときは家で死んだから寝ずの番とかしたけど、じいちゃん骨折してからずっと入院しとったし。
地元さえげつない田舎やねんけどさ、いやもうほんま今お前が想定したのの三倍くらい田舎なんやんか。ぼく人に地元のはなし言う時絶対言うねんけどトトロ。トトロおもいだして?あれ。あれの村の感じよ。マジで。信号機とかもなんもないの。舗装はされとるけど、農道やでされてないと困るってだけよあれは。トラクタとかがぬかるんで足取られたら動けやんから。
そんで帰ってさ。うちの実家割と適当やから別にようあるほら、実家帰ると無限に食べもんでてくるとかそういうのもなくてさ、母ちゃんも父ちゃんもあー帰ったんみたいな感じで、ゆきちゃんの散歩してきて言うてきて。三年ぶりに帰った息子に犬の散歩てと思ったけどまぁ犬は可愛いから散歩いくやんか。ゆきちゃん。しばいぬ。かわいいで。年とって目ぇ悪いねんけど、家のまわりは散歩するから、まぁ久々やし戯れましょかねいうて。
そんでねぇ、トトロいうたけどウチん家はさつきとメイの家みたいぽつんと一軒家ではないからさ、集落の中にあんねやんか。で犬連れて歩いとると火の見櫓のとこの市川さんちの息子が帰ってきたわ言うてその辺のじーちゃんやのばーちゃんやのがえろう気楽に声をかけてくるんやんか。俺も慣れてるからまぁなんやはいはい言うて、あんたえらい髪の色なったなとかさんまいの坂の上のサキちゃんも帰ってきてんでとかまぁどうでもええこと教えてもろてさ。そう在宅ばっかになったからええやろおもて年末に髪ピンクにしててんさ俺。もう色ほぼ抜けてもてキンパやけどな。あとで染めたての写真見せたろ。
ああでそうさっきも言うたけどうち去年じいちゃん死んでんさ。ばあちゃんが死んだのも最近の話やったからまぁえらいことやったねみたいなことを言うてもらったんね。ほんまにねぇこの大変な時期に色々お世話になりましたぁいうて。ええなんもなんもみたいなさ。いやあれ田舎スイッチな。俺も田舎帰った瞬間そういう会話できるようになんねん。ふしぎやにあれマジ。田舎に育ったもののみ培われんねんてそういうやつ絶対。
そんな感じでまぁじじばばとしばらく立ち話してんけどむっちゃ寒いし、いや風がまじでやばくて、今年うちのほう正月雪ちらついてていやもうあかんあかんこんなとこで立ち話しとったら死んでまうわ!なって、もう犬もほとんど帰りましょか?みたいな顔してたからさ、んじゃよいお年をー言うて帰ろとしたらさ、ばばの一人にあんた散歩行くなら堤防のほうはいかんときなにって言い含められて、そんなん怖い話の導入みたいやん?なんでですか?言うて聞いたんけど、どうも狐が出るからっつってもうえげつないしかめっつらしてんさ。堤防。さんまい向こうのかいとからちょっといったとこにダムっていうかでかい溜池があんのよ。トトロでメイちゃんがおらんなった言うて竹でさらっとったみたいな。なんでもトトロかっちゅうかんじやけど、まぁほんまにああいうね。柵とか何もないの。子供落ちたら全部死にそうなんやけど、いまだになんもされんのよねあそこ。俺のときは登校班五人くらいやったからまぁわかるけど、今結構子供おるらしいしあぶなないんかな。しらんけど。舗装もされてないし、私有地やったりするんかな。わからへん。
で、そのへんの近くのはたが荒らされる言うて、罠かけたら狐がかかったんてさ。狐やで群れではないやろけど、それでも一匹だけかはわからんで近寄るなって。そういや姉ちゃんがLINEで狐見物に行ったとか言うてたしああそれかぁっつって。いや娯楽がないのでね、なんや知らん動物がかかったぞ言うて人が集まるのよ田舎は。
そんでまぁ、きつねがおるから近寄るなて、日本昔ばなしか!言うて。完全に世界観がむかーしむかしー言うてるのよ。でもエキノコックスとかあるやん?なんの病気持っとるかもしらんし、その辺に糞だのなんだのあってゆきちゃんが変なんもろたら困るのはほんまに困るから、そのままばばの言うとおり堤防のほうは行かずに、さんまいの辻のとこで回って隣の集落とのさかいまで行って帰ろうとしてんさ。
うちの村と向こうの村の境ってすごい坂になってんのよ。昔は崖やったらしいに。こう、うちの集落がちょっと小高い丘みたいなってるのね。で、こう、もう無理やりコンクリで坂にしました!みたいな無茶な坂があんねんけど、そこの麓に一個畑があって。ちょうど…またこれもトトロやねんけど、あれの感じのぽつんと一軒屋みたいな家に住んどるじいさんだかがちっちゃいみかんの木とか、なんや野菜とか、じぶんちで食べるぶんだけ作っとるみたいなちっちゃい畑なんな。なんか最近お孫さんができたんかしらん、木の下に芝生みたいなん敷いてあってちょっとした遊び場になってるし、別にへんな畑とかではないよ。
ただ、あのーこれ田舎あるあるやねんけど、各畑に農機具とかをしまっとくちっちゃい小屋があったりすんのね。あと雨水ためとく古い風呂桶とか。まぁ風呂桶はええねんけど。で、農機具って言ってもクワとかシャベルとか、ふつうに盗まれたら困るし、あとほら、刈払機とかはチェーンソーとかおいてるとこもあるからあぶないんね。鍵掛けとかんとあかんやん。でその畑は廃車なったハイエースおいてたん。まぁ鍵もかかるし、休憩したいときには座席もあるしみたいなかんじなんかな。しらんけど。
さっき狐の話聞いたばっかやし、それでなくとも野犬とか怖いやん?ゆきちゃんはよぼよぼやし。俺が守らな!なって。あわててリード引っ張ってゆきちゃんだっこして、ただゆきちゃん、ボンレスハムみてぇなぱつんぱつんのしばいぬやから、めちゃ重いねん。しかも抱っこがきらいなんやん。もう、なに?全然だっこに協力的じゃないのね?手足がジャキーンなってでけぇ飛行機だいとんか?みたいな感じで、ひっくり返って転んでもてん。くそだせぇんやけどほんま。ずてーんいうて。重たー!いうて。
で慌てて起きたら、ハイエースの下から出てきたやつのほうもなんや急におるやつがバタバタしてずてーん転んでびびったんかしらんけど、ブシュッみたいな鳴き声して道の向こうの方逃げてくところやって、あーよかったーってなったんやけど、ビョインビョインて跳ねるみたいに逃げてくそれがさ、でも、どうみても狐じゃないんよ。
しっぽはひょろっとしてて、毛ぇもまばらで、目のところが真っ赤になってて。なんかぼつぼつがびっしり体中についとって、さぶいぼみたいなってて。なんか病気みたいな格好やったん。いやもーあれいややったー!ぼく無理やねんてああいうブワッてこまかいのなってるの。今思い出してもおぞけする。
でもそれよりウワッておもたんが、そのさ、訳わからんなんかのちょうどこの、みぞおちのあたり?ふとももの上へんやったかな?そのへんにさ、ふたつ、まるい輪っかがふたっつついとったん。そこだけ生き物の造形じゃないのよ。なんか急に人工物で、ナマモノぽくなくて、あれなんやったんやろって思いながらもうほんま怖かったしびびったしでもう速攻で家帰った。ゆきちゃん?いやもう俺がどたばたしてるあいだずっとなんですか?みたいな顔しとったわ。あほ犬やから。そこがええねんゆきちゃんは。チャームポイントやねん。あほとへちゃむくれとデブがチャームポイントやねんゆきちゃんの。あと自分のしたうんこをたべるところ。
そんで帰ってさ。まぁ当然話するやん家族に。さかいとこの坂の下の畑にへんなんおってさめっちゃ怖かったわー!いうて。父ちゃんが皮膚病かかった狐かたぬきかちゃうか言うて、寄り合いだのに連絡しとくわってなって。ゆきちゃんが退治してくれたんか?そんなわけないやんゆきちゃんはぼけっとしとったわ、わしが慌ててゆきちゃん抱えたらくっそ重いでひっくりかえってんぞ言うて。
その時はそんで終わって。まぁあれはえらい話やったねって感じやったんやけど。
年明けてから、俺がそろそろ帰ろかなくらいの時期におかんに裁縫用のハサミのカバー作ってくれって言われて。あのー俺レザークラフトやるやん。フェイスブックみたらしくて、ずっと使ってたんがほころんでしもたからあんたこんなんつくれんかって言われて。道具も何も向こうやでじゃあそのハサミの採寸だけやっとこかって母ちゃんにハサミもってきてもらって色々触っとるうちにふと気づいたんやけどさ、あのへんなんについとった丸いやつ、こういうでかいハサミのハンドルそっくりやったなって。ブスって横っ腹にこういうハサミをぶっさしたらあんなんになるんちゃうかな、ておもて。
いややなぁ、なんかあれ、ほんまいややったぁ。
わたしはクリスマスに生まれたけど、死ぬときもクリスマスに死ぬと思う。
これから日本は貧しくなる一方なんだからそれをよく考えてから動きなさい。
そんなことを日本の凋落がここまでとは予想されていなかったバブル崩壊の頃から言ってたらしい。
この子はなかなか結婚しないけど〇〇才には結婚するからそれほど心配しなくてもいい。
ひ孫の顔を見せるために母と一緒に訪れた帰りに、やっぱり当たったよね、
と母にそのことを言われるまで忘れかけていた中学生の頃のエピソードだったが確かにそのとおりになった。
あまりに不相応な場所に思えたから尋ねようとしたら先回りして母が答えた。
お前らが物心ついた頃にはあれだったけれど、
そういえばかなり薄っすらだけど、曾祖母ちゃんの家で遊んでたとき
おつきの人に何人も囲まれたおじいが来ていたことが記憶に残ってる。
へーそうなのかあ、親類のことだからって何でもわかってるわけではないんだねえ。
でも何で教えてくれなかったのだろうか?
けど、死んだら葬式の場所のことで理由を聞かれるからそのときには教えていい、と言ったらしい。
嘘みたいな話過ぎて怖い。
まあいいや。
出会い系で知り合った女性(高学歴、いい会社、今は専業主婦、40代前半、知り合って1年)
と2ヶ月ぶりにデートした。子供さんが夏休みの間は家を出られないので会えなかった。
とはいえ普段も旦那さんが在宅勤務なので、出社の日に合わせて2ヶ月に3回程度、朝の9時に
駅でピックアップして、そのままラブホテルに入り、午後2時くらいまでずっとセックスして
午後3時前に拾った駅に送り届けるというデートをずっと続けている。
私(50代前半、既婚、自営、MARCHレベル)もセックスが好きだし、彼女もいくらでも濡れ続けてイキ続ける
彼女とセックス(指、舌、挿入、性具等)するのは楽しい。気がつけばもう帰る時間に
なってしまっている。
今日は午前11時に拾って午後2時までのショートバージョンだった。セックス自体はいつものように
時間ギリギリまで楽しんだ。彼女は私と会う1年くらい前から出会い系に登録してある程度の数の男性と
セックスしてみて、とりあえずは私が気に入ったので、そこで一旦は打ち止めとのこと。
「なんで、基本、真面目っこで、まあエリートコース的な生き方してきたようなあなたが
あなたからしてみたら掃き溜めのような出会い系に登録して、そんな男達とセックスしてみたりしてたの?」
「結婚して、夫とセックスはしてきたけど、自分でしてる方が気持ちよかった。他の人とはした
ことがなかったけど、性的な気持ち良さってこんなもんじゃないはずって思ってた。」
「それでとりあえず出会い系に登録してみた。ちょうど夫の転勤で関西に来たばかりだったから
知ってる人に会う心配もなかった。すぐ挿入して腰振って射精する人から、いろんな人がいた。」
「あなたにメールを送ったのは、出会い系サイトであなたが書いてた日記を読む限りは、セックスに
慣れていて、自分勝手なセックスではなさそうだったから。あなたとセックスしてみて
あなたのそれが最上のものなのかはわたしには判断できないけど、でも何時間も舐めて、
指を入れて、挿入してくれて、わたしをずっと気持ちよくしてくれる。」
「それだけの時間、ずっと気持ち良さが続くなんて思ってもみなかった。こんな気持ち良さが
あるんだと思って、あなたを好きになったかどうかはわからいけど、あなたとセックスするのは
大好きになった。」
「小学生の頃から、自分で触っていて、気持ちよくなっていた。結婚して夫とのセックスももっと
気持ちよくなりたいと思い、いろんな形で伝えたりもしたけど、大きくは変わらなかった。
だから、勇気を出して、出会い系に登録して、目的はセックスだから、セックス得意みたいな
ことをプロフィールに書いてたらしたら
「あなたに会えてよかったなと思ってる。あなたのことは好きだけど、やってることはほぼ
セックスだけで、世間ではセフレと呼ばれる関係と分類されるんだろうけど、あえて関係性には
名前はつけずにいきたい。
私達の未来は明るくはないけど、暗くもないと思う。あなたさえ良ければ長く付き合って
いきましょう。ほんとに気持ちよくなりたかったの。もっともっと気持ちいいことがしたかったの」
そんな話を彼女のマンコに中指を入れて、ポルチオを攻めながら聞いた。次のデートは来月に
なるのかな、また彼女を喘ぎ声を聞く続けるデートだ。最後に2人でお風呂に入って
彼女の近況(小学生の娘に彼氏が、田舎にもう2年帰れてない、私の県で斎場で遺体を焼いたら
・前々から肺を患っていて、別の臓器が悪くなったからそっちの治療をするために入院していたのだけど、呼吸器管理があまりうまくない(と言ったら失礼なんだけど)病院だったらしく、臓器より先に肺の方がやられてしまった。もう良くはならない、悪くなっていくだけというところまで来てしまった。それで、母が自宅に連れ帰ることを決めた。
・病院で人工呼吸器をつけてもらうなどすれば、もう少し長く生きられたのかもしれない。しかしコロナウィルスのことがあるから、この1年もお見舞いとか頻繁にはできなかったし、最期のときに看取ることも叶わなかっただろう。自分の家と家族が好きな父だったから、多分これでよかったんだろうと言い聞かせてる。ただ、コロナウィルスの感染拡大がなければ、もう少しできることがあったのかなあと思うけれど、そういう『たられば』の話を考えても仕方がない。
・10代や20代の頃に、友人が病気になったとか、事件に巻き込まれて亡くなった時などは、悲しみが何もかも埋め尽くして他のことに手が付かず、上を向いていなければ涙があふれるくらいだったけれど、30代ともなるとそんなことはない。仕事は進められるし、ゲームもできる。それくらいの感情の制御ができるくらいには大人になった。
・発売をずっとずっと楽しみにしていたソフトがあった(サガフロンティアリマスター)。
発売直前に危篤の報が入ったので、色んなことが落ち着いてからとプレイしようと思ったけれど、結局始めてしまった。結果的にはこれが良かった。心に隙間が少しでもできると、父のことを考えてしまう。どこかのタイミングでどうにかできたのではないかと考えて、でも結局どうにもできなかった現実を思い出し、思考が堂々巡りになって他に何も考えられなくなる。これがすごく苦しい。真綿で首を絞められるとはこういうことではないだろうか。
だから、大好きなゲームの世界に浸っていると、がんじがらめの思考から解放されて、一時ではあるけれど、楽になれる。
(無心になってキャラの育成してるけど本当に楽しい。とてもとても出来のいいリマスター版になったことが嬉しい。
コラボウィスキーが当選して手元にあったので、リマスター版発売を祝して発売日に封を開けようと楽しみにしていたけれど、こちらはまだ開けられないでいる)
でも、父が亡くなってからの家のことが思っていたより忙しいし、多分自分が自覚している以上に精神的なダメージが大きいようで、気力と体力に少しでも余裕があるときじゃないとプレイできない。まだ半分も進んでいない。連休が明けて、仕事も本格的に再開したので、クリアまでまだ時間がかかりそう。でも、父のことを思い出として割り切れる時が来るよりもずっと早くクリアできるとは思う。
20年以上前から大好きなゲームのリマスター版の発売と、父の逝去がほとんど同時だったことを、私は春が来るたび思い出すことになるんだろう。
・危篤の報を受けて、実家に戻ってきて、それから所用があるときとか、母と交代で仮眠をとるとき以外はずっと父の傍にいて、大体の時間は父の手を握っていた。
握り返す力はほとんどなく、じんわりと湿っていて、だけど温かだった父の手から日に日に体温が失われていった。指先がだんだんと冷たくなって、さすっても元に戻らなくなってくる。自分の両手で挟んでみて、まだ温かいから大丈夫だとごまかした。
・父はほとんど声を出せなくなっていて、意思疎通もままならない状態だったけれど、不思議と笑っているときとか、楽しんでいるときなどは、傍にいる母や私にもそれが分かった。嫁に行かなくてごめんねと冗談っぽく言ったり、額に頬擦りしてみたり、好きな歌を歌ったりすると、父は笑っていた。それは唯一の救いだったように思う。
・最期は家族全員で父を看取ったのだが、生と死の境目はよく分からなかった。どこで線が引かれたのだろうか?
・息を引き取る前の父、もう動かなくなった父、死装束をまとって棺に入れられた父、斎場に着いて焼かれて、骨だけになった父、頭蓋骨を砕かれて(すごく可哀想だった)、骨壺に入れられるところまで全部見ていたのに、未だに父が亡くなったという実感がわかないでいる。入院していた期間が長かったし、私も離れて暮らしていたから、まだどこか遠くの病院に入院していて、戻ってきていないだけじゃないかと思ってる。
・ふとした心の隙間に父のことに思いを巡らせ、はっと、もう父には会えないという現実に思い至ると、思考と事実が一致しないからか、頭がバグりそうになる。
・私は死後の世界は何となく信じているけれど、そこまで信心深い訳ではなく、父は立派な戒名をいただいたが、仏様になるとはとても思えない、骨になった父はもはやただの物体である。現在の科学技術では魂の存在を証明できない。だから、遺影の手前にあるものに意志とかそういうものはないし、よって、父はもうそこにはいないし、どこにもいない。でも、蝋燭に火をつけて線香を灯し、おりんを鳴らしてから手を合わせ、目を閉じて祈っている間は、心の淀みとか思考の澱とかが取り払われて、澄んだ心持になる。父のためと思えばこそ、線香もなるべくつけておこうと思うし、どんな香りがいいか色んなメーカーのものを見て回るようにもなった。そこにはもういないと分かっているけれど、人には縋るものが必要なのだということがよくわかった。
・今わの際の父には冗談めかして言ったが、三十路過ぎて嫁に行っていないことは本当に申し訳なく思ってる。
結婚願望がないわけじゃないし、思うところがあるから、今からでも嫁に行こうと思う(いけるか分からんけど)。
でも、父を生きている間に花嫁の父にしてやれなかったこと、それ以外にも、もう生きている父に親孝行ができないと思うと、すごくしんどい気持ちになる。
・父や母がその親(つまり私から見て祖父母)を見送ったのが50~60代の頃で、私も同じくらいに見送ることになるのだろうか、まだ先のことだと思っていたのだが、30代前半で看取ることになるとは思っていなかった。
・父は7人姉弟の末っ子だった。長子の伯母が存命で、この伯母と父はとても仲が良かった。一番下の弟を先に亡くした伯母のことを考えるとなぜだか申し訳ない気分でいっぱいになる。
・私自身も4人兄妹の末っ子で、それも父が40代の頃に生まれた子で、私が父の半分も生きていないうちに、父が逝ってしまったことが、切なくてたまらない。
・父は庭いじりが好きだったが、最後の数年間は体力が落ちていて、ろくに世話ができていなかった。なので、今の我が家の庭は少し荒れている。
だけど、それでも、父の庭は美しい。ドウダンの細かな若緑の葉と、鈴に似た真白の花が折り重なってまぶしい。何本かを一列に並べて植えているから、光の通り道のように見える。奥に植えた3本の松はいつでも常盤色をしていて渋く、その手前には幹の太く大きな春もみじが1本植わっている。赤紅の細長い葉を幾重にもまとわせていて、炎のようだ。今はツツジが見頃で、赤と白の花が鮮やかに目に飛び込んでくるのが楽しい。
緑が陽に濡れた今年の庭を見ることなく、父は逝ってしまった。そのことがとても悲しい。
この時期じゃなくっても、うちの庭はとても綺麗なのに、お父さんが見ることはもうない。
・大体1ヶ月程度実家に滞在していて、昨日一人暮らしの自室に戻ってきた。
隅に片していた寝具のセットに毛布が挟んであって、クローゼットには厚手の衣類が掛けられたままだった。
今を遡ること30年前、隈先生若気の至り的バブリー作品(今は斎場)を見て頂きましょうhttps://ja.wikipedia.org/wiki/M2%E3%83%93%E3%83%AB
増田の蛮勇には敬意を表したいが、さすがに突っ込みどころが多すぎる。
同種の百選としては2005年の新建築・臨時増刊『日本の建築空間』(asin:B00GUJ1HIE)がある。
https://japan-architect.co.jp/shop/special-issues/book-110511/
2005年なので現存しないものや非公開の私邸が含まれるけれども、優れた選出だと思うので紹介したい。
■古代 592-1180
法隆寺西院伽藍 | 飛鳥時代 | 奈良 |
新薬師寺本堂 | 奈良時代末期 | 奈良 |
榮山寺八角堂 | 763年 | 奈良 |
平等院鳳凰堂 | 1053年 | 京都 |
浄瑠璃寺本堂 | 1107年 | 京都 |
三仏寺投入堂(三仏寺奥院) | 平安時代後期 | 鳥取 |
高蔵寺阿弥陀堂 | 1177年 | 宮城 |
■中世 1180-1543
浄土寺浄土堂 | 1194年 | 兵庫 |
東大寺南大門 | 1199年 | 奈良 |
長寿寺本堂 | 鎌倉時代初期 | 滋賀 |
西明寺本堂 | 鎌倉時代初期 | 滋賀 |
熊野神社長床 | 鎌倉時代初期 | 福島 |
法界寺阿弥陀堂 | 鎌倉時代初期 | 京都 |
厳島神社社殿 | 1241年 | 広島 |
永保寺開山堂 | 1352年 | 岐阜 |
東福寺龍吟庵方丈 | 1387年 | 京都 |
正福寺地蔵堂 | 1407年 | 東京 |
吉備津神社本殿・拝殿 | 1425年 | 岡山 |
慈照寺東求堂 | 1485年 | 京都 |
■近世 1543-1853
妙喜庵待庵 | 1581年 | 京都 |
園城寺勧学院客殿 | 1600年 | 滋賀 |
園城寺光浄院客殿 | 1601年 | 滋賀 |
妙法院庫裏 | 1604年 | 京都 |
大崎八幡宮本殿・石の間・拝殿 | 1607年 | 宮城 |
三渓園聴秋閣 | 1623年 | 神奈川 |
二条城二の丸御殿 | 1626年 | 京都 |
西本願寺飛雲閣 | 1628年 | 京都 |
西本願寺書院 | 1633年 | 京都 |
延暦寺根本中堂 | 1640年(再建) | 滋賀 |
三渓園臨春閣 | 1649年 | 神奈川 |
曼殊院書院 | 1656年 | 京都 |
桂離宮 | 1663年 | 京都 |
慈光院書院 | 1672年 | 奈良 |
江川家住宅 | 江戸時代前期 | 静岡 |
閑谷学校講堂 | 1701年 | 岡山 |
東大寺大仏殿(東大寺金堂) | 1705年(再建) | 奈良 |
大峰山寺本堂 | 1706年 | 奈良 |
大国家住宅 | 1760年 | 岡山 |
岡山後楽園流店 | 江戸時代後期 | 岡山 |
栗林公園掬月亭 | 江戸時代後期 | 香川 |
角屋 | 1787年 | 京都 |
さざえ堂(旧正宗寺円通三匝堂) | 1796年 | 福島 |
大徳寺孤篷庵忘筌 | 1799年 | 京都 |
渡邉家住宅 | 1817年 | 新潟 |
羽黒山三神合祭殿 | 1818年 | 山形 |
旧高野家住宅 | 江戸時代後期 | 山梨 |
旧金比羅大芝居(金丸座) | 1835年 | 香川 |
岩根沢三山神社本殿・庫裏 | 1841年 | 山形 |
柏倉家住宅座敷蔵 | 1866年 | 山形 | |
旧大明寺聖パウロ教会堂 | 1879年 | 愛知 | ブレル、大渡伊勢吉(棟梁) |
宝山寺獅子閣 | 1882年 | 奈良 | 吉村松太郎(棟梁) |
旧風間家住宅 | 1896年 | 山形 | |
旧武徳殿 | 1899年 | 京都 | 松室重光 |
旧花田家番屋 | 1905年 | 北海道 | |
吉島家住宅 | 1907年 | 岐阜 | 西田伊三郎ほか(棟梁) |
古谿荘 | 1909年 | 静岡 | |
高松城披雲閣 | 1917年 | 香川 | 清水組 |
住友ビルディング | 1926年 | 大阪 | 住友合資会社工作部(長谷部鋭吉・竹腰健造) |
聴竹居 | 1927年 | 京都 | 藤井厚二 |
旧大倉精神文化研究所本館 | 1932年 | 神奈川 | 長野宇平治 |
軽井沢 夏の家 | 1933年 | 長野 | アントニン・レーモンド |
※両関第二工場酒蔵 | 1933年 | 秋田 | |
旧日向別邸 | 1936年 | 静岡 | ブルーノ・タウト |
近江神宮 | 1940年 | 滋賀 | 角南隆、谷重雄 |
旧前川國男邸 | 1941年 | 東京 | 前川國男 |
旧吉田五十八邸 | 1944年 | 神奈川 | 吉田五十八 |
神奈川県立近代美術館 | 1951年 | 神奈川 | 坂倉準三 |
斎藤助教授の家 | 1952年 | 東京 | 清家清 |
コアのあるH氏のすまい | 1953年 | 東京 | 増沢洵 |
南台の家(吉村順三邸) | 1957年 | 東京 | 吉村順三 |
八幡浜市立日土小学校 | 1956年 | 愛媛 | 松村正恒 |
香川県庁舎 | 1958年 | 香川 | 丹下健三 |
スカイハウス(菊竹清訓邸) | 1958年 | 東京 | 菊竹清訓 |
※ホテルオークラのメインロビー | 1962年 | 東京 | 谷口吉郎 |
日本生命日比谷ビル(日生劇場) | 1963年 | 東京 | 村野藤吾 |
国立屋内総合競技場 | 1964年 | 東京 | 丹下健三 |
大学セミナー・ハウス | 1965年 | 東京 | 吉阪隆正 |
旧千代田生命本社ビル | 1966年 | 東京 | 村野藤吾 |
白の家 | 1966年 | 東京 | 篠原一男 |
塔の家(東孝光邸) | 1966年 | 東京 | 東孝光 |
※虚白庵(白井晟一邸) | 1970年 | 東京 | 白井晟一 |
KIH7004 | 1970年 | 東京 | 鈴木恂 |
中銀カプセルタワービル | 1972年 | 東京 | 黒川紀章 |
※大分県医師会新館 | 1972年 | 大分 | 磯崎新 |
※プロジェクトマグネット | 1973年 | 店舗模型 | 倉俣史朗 |
阿部勤邸 | 1974年 | 埼玉 | 阿部勤 |
北九州市立中央図書館 | 1974年 | 福岡 | 磯崎新 |
幻庵 | 1975年 | 愛知 | 石山修武 |
上原通りの住宅 | 1976年 | 東京 | 篠原一男 |
※中野本町の家 | 1976年 | 東京 | 伊東豊雄 |
小篠邸 | 1981年 | 兵庫 | 安藤忠雄 |
弘前市斎場 | 1984年 | 青森 | 前川國男 |
SPIRAL | 1985年 | 東京 | 槇文彦 |
※バーオブローモフ | 1989年 | 福岡 | 倉俣史朗 |
海の博物館 | 1992年 | 三重 | 内藤廣 |
豊田市美術館 | 1995年 | 愛知 | 谷口吉生 |
ウィークエンドハウス | 1998年 | 群馬 | 西沢立衛 |
せんだいメディアテーク | 2000年 | 宮城 | 伊東豊雄 |
横浜港大さん橋国際旅客ターミナル | 2002年 | 神奈川 | アレハンドロ・ザエラ・ポロ、ファーッシド・ムサヴィ |
金沢21世紀美術館 | 2004年 | 石川 | 妹島和世、西沢立衛 |
最近在宅勤務が続いていて精神的によろしくなく、気持ちになったので20才台のうちに死んじゃった友達のことを書く。
死んじゃったNちゃんが、一度目に死にかけて入院して一時退院して会いに来てくれた時、ビール飲みながら俺は彼にこう言った気がする。「死ぬのも生きる俺の人生じゃないからどうしようもないけど、Nちゃんが死んだら俺は悲しいから、死なないで欲しいなあ」結局彼は目的を完遂してしまった。彼はなんていうか、精神的にパンクでありつつ、小心者でもあり、一緒にバンドをやっていた時に俺のベースを1本ぶち折ったりするようなハチャメチャなところがあった。ガキ大将的に人に好かれる才能があったと思うし、彼のことを好いている人も多くいた。雨が降る地方都市の、線路っぷちの斎場に彼の友達がたくさん集まった。彼の両親は彼がどのように生きているか細かくは知らなかったらしく、長髪の、刺青の、金髪の、強面の若者たちがどんどん集まって彼を送ろうとしていることに驚いていた。斎場のスタッフは椅子が足りなくなって走り回っていた。俺はどうしても彼の死に顔を見られなくて、はっきり言えばリアルを確認することにブルって、とうとうそのまま彼を灰にしてしまった。葬式の最中思い出した出来事。昔Nちゃんと他の友達とカラオケに行ったときに、誰かが人を失神させるにはこうするんだみたいな話題になった。Nちゃんが実験台になって、あっけなく頸動脈をグッてされて失神した。戻ってきたときNちゃんはきれいに落ちるとスゲエ気持ちいいわ、みたいなことをテンション高く話していたな。そんな情景がグルグル回っていた。
うちのバンドのボーカルだったMが行方不明だ、という知らせを聞いたのが何きっかけだったか覚えてない。ドラムのSが電話してきたのか、フェイスブックだったか、ツイッターで回ってきたのか。Mが車ごといなくなって、俺たちのライブは1週間後に迫っていた。出ないっていう選択肢はなかった。まだひょっこり戻ってくる可能性もあったから、メンバー全員で出演するって話になったと思う。なんかMがヤ○ザ関係のトラブルに巻き込まれたんじゃないかとか、結局前と一緒で借金で首が回らなくなってどっか隠れてるんじゃないかとか言っていた。Mのツイッターはいなくなる直前まで普通に人生を楽しんでる風だった。ぽっかり空いた穴に落ち込んだ、そんな感じさえ覚えた。
結局ライブの数日前、Mはこの世からいなくなってしまった。海岸で車ごと燃えてた、って話だけ聞いた。それって映画みたいだな、北野武映画だなって思った覚えがある。何となくだけどそういう結末もあるだろうなと思ったのでそこまで驚いた覚えはない。いろんな人に迷惑かけるだけかけて、そのままいなくなったような感じ。葬式は密葬で行われたようで、俺は結局Mが本当に死んだのか、いまだによくわからない。メンバーと一緒に墓参りにでも行くか、って話も出たけどそのままになっている。
その後バンドには新しくボーカルが入り、新しくギターが増え、新しくメンバーが出戻り、元気にやっている。死んでしまった2人には悪いけど、あんなところで人生辞めてしまったのはもったいないなと思う。あと、死んでしまったがためにもう彼らは若さを失うこともないし、思い出は美化され続けるんだろう。そんなところもズルいと思う。結局俺たちはそれぞれにそれぞれの人生を抱えて、ほんの一部の人生を共有して生きていくのだ。