はてなキーワード: 大崎八幡宮とは
初めて。
Twitterでは祝福の声で溢れ、誰が見てもめでたいことはわかってた。
けれども、本当に「おめでとう」と言えなかった。
でもなんで素直におめでとうと思えなかったんだろうと、色々思っていたけどこれまで吐き出していなかった感情を一旦全部整理しようと思ってコレを書いている。
明確な答えを出せるとは思ってないけど取り急ぎ感情の波が収まる前に書きつけておかないと多分忘れちゃう。
もしまた思い出したら追加で書いたりするかも。
追加:羽生さんのこと基本全部フルネーム表記してますが、ほぼ彼が「羽生結弦」という概念になってると思ってるので敢えてこの表記にしてます。
報告の当日から何日もかけて、ちまちま思い出したことからぶつ切りで書いてるから話の前後やその時の情緒も語気も滅茶苦茶。
読み手のことを考えてる文章じゃないからかなり読みにくいが、同じように心の底から喜べずに悲しんでる人へ向けて「世の中に少なくとも1人、私がおるで」というための日記。
心から祝えない中、無理に喜ぶフリすると後から反動で呪いの言葉吐いてしまいそうだったから真剣に落ち込んでみた。
ちなみに、私はスケートという概念と結婚したと思って正気を保っているので、ここから先はレディーガガの「marry the night」をお勧めします。是非聞いてね。
約10年。
20年ちょっと生きてる人間にとっての10年なんて人生の半分なんよねぇ。
まあいいや。
初めて見たのはアイスショーで踊ってたツィゴイネルワイゼンだった。
元々親がスケート好きでたまにショーを見に行ってた事もあり、自分も連れて行ってもらったのが始まりだったと思う。
当時は荒川さんや浅田さんの影響も大きく、女子の花形競技って感じで。男子はそんなに目立った感じじゃなかった。
(幼稚園生の時よくイナバウワーして遊んでたのでスケートといえば男子<女子だった)
小学生の自分にとって、それまで見たことないタイプの名前が電光掲示板に出ていたのは新鮮で「なんて読むねん」と思いながらぼんやりと見ていた。
なにより今では想像できない踊りで。
まぁ簡潔にいうと「何をしてるんだ…?」と聞きたくなるくらいすっ転びまくっていた。
(何年のやつか思い出せないけど知ってる方も多いと思う)
自分の私生活が忙しくて少し離れてる間にすっ転びまくっていた少年が五輪金メダリストに変化していた。
何度も何度もソチ五輪の映像を反芻して、居ても立っても居られなくなった私と母はそのまま3月のワールドに行った。
(このワールドのsp、滑り出しの直前に「ゆづ〜!愛してるゥ〜!」という複数人による謎の掛け声があり会場全体が変な空気になったんだよな、カスゴミ客は◯んでくれ。)
その後はとんとん拍子で転がり落ちるように沼にハマりファンになった。
全部は長いから書けんけど、常に「羽生結弦」という男は自分にとって輝ける一等星というか。
第一印象がすっ転びワイゼンだったことも大きく、自分がまだ中学生でこれからなんでもできるという時期だったこともあって「彼のように努力すればここまで上り詰めることができるんだ」というある種の指標になっていたんだと思う。
羨望とかそういうのひっくるめて、こんなに頑張ってる人がいるのに、自分の体たらくはなんなんだろうかと考えるそういう感じ。
中学→高校は私生活と勉強で色々両立することがあって大きな変化はなかったけど、やっぱり「羽生結弦」はいつも生活の側にあった。
普通に肩こり酷い人間だったから、黒と青のファイテン常に付けてた。これ可愛いよね。
母の彼への入れ込み方が激しくなってきたことがあって、若干嫌悪感を持つ時期があった。
詳細は省くけども、
ひねもす掲示板に張り付いて有る事無い事、噂やファン同士の諍い…望んでもないのに大量の情報を聞かされ、注入される感覚はあまりにも不快で気がついたら「憧れ」から「実の娘である私よりも母の気を引く邪魔な存在」にもなっていた。
中国杯の後に増えたファンや民度の悪さとかに嫌気が差していたり、自分の勉強の方とかで精神的に追い詰められていた部分もあったから単純な話ではないのだけれど。
その頃自分は大学受験に際して、部活のように取り組んでいた習い事を辞めていた。
スケートは完璧、勉強もできる「羽生結弦」を横目に「ああ自分は彼のようにはなれんのだなぁ」と失望してた。
また当時自分は家庭環境が最悪になっており家を出ることが目標だった。
家を出るためには親が納得するき足るだけの学力とそれだけの大学でないと説得できないと思ったこと、羽生結弦という男が育った街が知りたくて仙台の大学を選んだ。
他に行きたい場所もなかったから、仙台に行くと決めてからはわりとすんなりと勉強ができた覚え。
羽生結弦は過去にananの表紙を飾っていたが、意味のわからんクソナガ茶色マフラーを巻いてるポスターを机の前に飾ってた。
今なおよくわからん長ェマフラーをしてたのかは謎(調べると画像が出てくるから暇だったら見て)
どう考えても勉強する環境ではないが、サボろうとしても前向けばあの眼光だから監視してもらう感じで。
話がズレたな。
平昌五輪も差し迫り、母は現地で見たいと切望したものの、それまでの家事を疎かにする姿を見ていて誰がそれを応援しようと思ったか。
当然家族全員反対した。
今思えば行っておいでと言えば良かったかもしれないが、私からしてみれば娘の受験よりも「羽生結弦」が優先なんだ、へぇ〜(笑)って感じだったし。
そんなこんなしてるうちに羽生結弦はサラリと2連覇。そこからまたファンが増え、シーズンオフのアイスショーでも変なファンが増えたことでさらに嫌気が差していた。
どこかのアイスショーだったか忘れたんだけど、トイレ行ってる間にババアが「ゆづのパンツが」とか会話で盛り上がってるの聞いて気分良いわけないからな。
あとアレな、アイリンの奥にある待合室の椅子全部、一つ一つに座っていたババア。この手のファン自称してる変な人たちも気持ち悪いから消えて欲しい。
無事進学が決まったことで家を出て、一人暮らしと同時に意識的にスケート界隈を視界に入れないようにし始めた。
ここで一回離れたのが良かったのか悪かったのか。国際センター、仙台駅の本屋、仙台地下鉄のポスター…
競技を追わずとも、さまざまなところで羽生結弦という男を目にして、その度にこの男を見て自分はこの土地までやってきたんだと思い出していた。
また話ズレるけど仙台大好き。
故郷よりも好き。
都会なのに緑が多くて気持ちがいいんよね。
就職を契機に都内へきてしまったから仙台を離れてしまったけど、はよ仙台戻りたい。
私は川が大好きなので死後、私の遺骨は広瀬川に撒いてくれと常日頃言ってます。
大好きだ仙台。
話を戻そう。
とはいえ、Twitterでこれ見よがしに呟いてるファンは正直気持ち悪かったし、自分も同じようになりたくなかったからTwitterでは鍵開けて呟くこともしなかった。そもそも、羽生sageがひどい中、どれだけ擁護しようとも「羽生ファンガー」「ユヅリスト笑」と言われるんだから俺たちにできんのは「沈黙」だけだろ。
(ここでクラピカの顔が出てきたやつはツイカスかハンターオタだから前者はツイカスであること自覚して生きような)
TwitterじゃなくてX?
そんなこんなでたまに目にしたり、アイショー見たりとかするくらいまではしてもシーズン中全部追うみたいな生活を2.3年せずにいたら北京五輪になってた。
数年まともに追っかけていなかった間に、さらにスケーティング技術が向上してる様を見てやっぱり努力の人で憧れなんだよなと再認識した。
FPの朝。
雪がしんしんと降り積もる中、大崎八幡宮に4A祈願へ向かった。
FP前日に事実無根の記事が大量に出回っているのを見て「4年経ってもこんな記事を書いて彼を貶めようと必死なんだ」と辛い思いしたな。
何年経っても彼を取り巻く環境は良くなるところか酷くなる一方なんだなぁと。
タイミング忘れちゃったんだけど、いつかのシーズンで本人が死のうと考えたみたいなこと言ってたのを時折思い出して。
それを考えると結婚したいと思える人と出会えたことはなんて素晴らしいことなんだろうと素直に言えるんだけども。
そんなこんなしてたらあれよあれよと時間が過ぎて、引退かと思ったらプロ転向へ。
前々から引退したらどうしようと思っていたところ、最高の「答え」をお出しされて悲しむことも落ち込むこともなくて嬉しかった。
男子のスケートにハマった理由に、彼らが命を燃やして戦うあの会場の空気が好きだったこともあって、その覇気がなくなったのは些か寂しい気持ちもあったけど。
ここまで色々自分の話をまとめてしまったけれど、ここからはプロ転向後の個人的にモヤった点をいくつかまとめておく。
みんなのライトで投票して踊るプログラムを決めるってやつでさ、
最初の方はみんな悲愴が多かった覚え(多分水色と青色が似ててそう見えただけの部分もある)なんだけど選ばず他のプロ踊って。
数日間ある中でも最後の日に、悲愴は思い入れがあるからと踊って。
じゃあ最初からリクエストの選択肢から悲愴外してよかったんじゃね?になったけど。
あともう一個個人的に許せなかったのが阿修羅ちゃんだっけ、adoの曲使ったやつ。
adoなんて過去にネットで活動してた人をアンチで自殺未遂まで追い込んでたわけじゃん。
そんないじめていた側の人間の音楽を使うという事実を受け止められなかったんですわ。
giftとか、お礼に〜って内容なのにそこで使うのが「あの」「ado」ですか(笑)っていう。
いつまでも過去の話を蒸し返すなと言われるかもしれないけど、散々sage記事やアンチに酷い目に遭わされてた羽生結弦がソイツの楽曲使うってグロくない?
この辺から自分の思ってた羽生結弦像から乖離が起きてるのを感じていた。
まぁ自分が合わなくなっていっただけだけど。
notte stellata3/11に現地参加してたんだけど、中国のファンか知らんが明らかに場にそぐわない掛け声すんのやめてほしい。
こちとら鎮魂なり祈り、そこからの希望とか再生を意味するショーだと思っているのにそこで「あいしてる」なんてでかい掛け声は耳障りなだけなんよ。
最近見なくなったけど貞子みたいなストーカーも、アイスショー千秋楽必ずセンター1列目の変な女も邪魔。
そもそもフィギュアスケートというスポーツのあり方自体も異質だよね。
プロではなくてアマチュアの方が技量が上、大会などに出場して集客してと見せ物のようになるのがアマチュアの方なん。
ただそのスポーツが好きというだけで始めた人間が、上手くなればなるほどよく分からない人たちの目に晒される環境にあって、
アスリートなのにアイドルのような消費の仕方/され方してるのがな…高校野球だけ謎に神聖視されてるのと似てる?
アイドルは最初からそういう売り出し方をするからいいが、スポーツは違うじゃん。
好きで始めただけなの晒されて人格に難癖つけられてとかね。
世知辛いわね〜
まぁそんなこんなで、勝手に理想像を求めてる俺みたいな人間は鈴の言葉でも反芻して生きような↓
すごい、馬鹿みたい。
ほんと馬鹿みたい。
みんな勝手に期待して、陽子自体のことなんて考えてもみないで。
Twitterとか世間では祝福の言葉ばかり目について、悲しむような人を見つけられなかった。
その様子を目の当たりにして、素直に喜べなかった自分の心の醜さに打ちひしがれてしまったし、周りのその「潔白」な態度に吐き気を催した。
だってさ…
今まで彼が「スケートを想って滑ってる」と思いながら見てた演技が「誰か特定の人に対しての感情を含みながら滑っていた」とかだったら悲しくない?
悲しくない?そう…俺が捻くれてるだけやね。
まぁそら遠くからお金落としてるだけのファンと、近くで辛い時支えてくれた人ならそっち好きになるのは当然だしね。
羽生結弦のファンであるなら、ファンもどこまでも清く、正しく、美しくあるべきところ私はそうできなかった。
私と同じように思っていても、表向き発信してない人が多くいると思うし。
私みたいな人も同じようにいるんだと知って、1人でも救われれば良いなと思って今回ここまでちゃんと自分の気持ちを書いた。
これは関係ない話だけど、Twitterで「羽生結弦と結婚したのは俺?!俺!ole!」言うてる人の見て元気出たよ、ありがとう。
どんなに切望しても普通には得ることが叶わない、スケートの神に愛された男が、スケート以外に愛する存在を見つけてしまった事実が悲しかった。
ただ、ただ、悲しかったんだと思う。
踏みつけても立ち上がるたんぽぽのように。
どんな場所でも美しく在る男の姿が。
そんな1人の男が好きだったな。
報道翌日に体を引き摺りながら仙台へ行って七夕祭り楽しんできたけど、また今度仙台行ってご祝儀代わりにお金落としてくるわ。
次はヒカペ目標で。
じゃ。
追記:
報告直後におめでとうと言ってた周りの人ほど今更落ち込んでる。最初に落ち込んでた俺の方がいま元気なの見るに、やっぱり無理するの良くねぇンだな〜に。
Twitterで羽生関係を全部ミュートにしててしばらく見てないけど、羽生結弦に限らずオタクは全員キモいから自覚して生きような。
初めて。
Twitterでは祝福の声で溢れ、誰が見てもめでたいことはわかってた。
けれども、本当に「おめでとう」と言えなかった。
でもなんで素直におめでとうと思えなかったんだろうと、色々思っていたけどこれまで吐き出していなかった感情を一旦全部整理しようと思ってコレを書いている。
明確な答えを出せるとは思ってないけど取り急ぎ感情の波が収まる前に書きつけておかないと多分忘れちゃう。
もしまた思い出したら追加で書いたりするかも。
報告の当日から何日もかけて、ちまちま思い出したことからぶつ切りで書いてるから話の前後やその時の情緒も語気も滅茶苦茶。
読み手のことを考えてる文章じゃないからかなり読みにくいが、同じように心の底から喜べずに悲しんでる人へ向けて「世の中に少なくとも1人、私がおるで」というための日記。
心から祝えない中、無理に喜ぶフリすると後から反動で呪いの言葉吐いてしまいそうだったから真剣に落ち込んでみた。
ちなみに、私はスケートという概念と結婚したと思って正気を保っているので、ここから先はレディーガガの「marry the night」をお勧めします。是非聞いてね。
約10年。
20年ちょっと生きてる人間にとっての10年なんて人生の半分なんよねぇ。
まあいいや。
初めて見たのはアイスショーで踊ってたツィゴイネルワイゼンだった。
元々親がスケート好きでたまにショーを見に行ってた事もあり、自分も連れて行ってもらったのが始まりだったと思う。
当時は荒川さんや浅田さんの影響も大きく、女子の花形競技って感じで。男子はそんなに目立った感じじゃなかった。
(幼稚園生の時よくイナバウワーして遊んでたのでスケートといえば男子<女子だった)
小学生の自分にとって、それまで見たことないタイプの名前が電光掲示板に出ていたのは新鮮で「なんで読むねん」と思いながらぼんやりと見ていた。
なにより今では想像できない踊りで。
まぁ簡潔にいうと「何をしてるんだ…?」と聞きたくなるくらいすっ転びまくっていた。
(何年のやつか思い出せないけど知ってる方も多いと思う)
自分の私生活が忙しくて少し離れてる間にすっ転びまくっていた少年が五輪金メダリストに変化していた。
何度も何度もソチ五輪の映像を反芻して、居ても立っても居られなくなった私と母はそのまま3月のワールドに行った。
(このワールドのsp、滑り出しの直前に「ゆづ〜!愛してるゥ〜!」という複数人による謎の掛け声があり会場全体が変な空気になったんだよな、カスゴミ客は死んでくれ。)
その後はとんとん拍子で転がり落ちるように沼にハマりファンになった。
全部は長いから書けんけど、常に「羽生結弦」という男は自分にとって輝ける一等星というか。
第一印象がすっ転びワイゼンだったことも大きく、自分がまだ中学生でこれからなんでもできるという時期だったこともあって「彼のように努力すればここまで上り詰めることができるんだ」というある種の指標になっていたんだと思う。
羨望とかそういうのひっくるめて、こんなに頑張ってる人がいるのに、自分の体たらくはなんなんだろうかと考えるそういう感じ。
中学→高校は私生活と勉強で色々両立することがあって大きな変化はなかったけど、やっぱり「羽生結弦」はいつも生活の側にあった。
普通に肩こり酷い人間だったから、黒と青のファイテン常に付けてた。これ可愛いよね。
母の彼への入れ込み方が激しくなってきたことがあって、若干嫌悪感を持つ時期があった。
詳細は省くけども、
ひねもす掲示板に張り付いて有る事無い事、噂やファン同士の諍い…望んでもないのに大量の情報を聞かされ、注入される感覚はあまりにも不快で気がついたら「憧れ」から「実の娘である私よりも母の気を引く邪魔な存在」にもなっていた。
中国杯の後に増えたファンや民度の悪さとかに嫌気が差していたり、自分の勉強の方とかで精神的に追い詰められていた部分もあったから単純な話ではないのだけれど。
その頃自分は大学受験に際して、部活のように取り組んでいた習い事を辞めていた。
スケートは完璧、勉強もできる「羽生結弦」を横目に「ああ自分は彼のようにはなれんのだなぁ」と失望してた。
また当時自分は家庭環境が最悪になっており家を出ることが目標だった。
家を出るためには親が納得するき足るだけの学力とそれだけの大学でないと説得できないと思ったこと、羽生結弦という男が育った街が知りたくて東北大を選んだ。
他に行きたい場所もなかったから、仙台に行くと決めてからはわりとすんなりと勉強ができた覚え。
羽生結弦は過去にananの表紙を飾っていたが、意味のわからんクソナガ茶色マフラーを巻いてるポスターを机の前に飾ってた。
今なおよくわからん長ェマフラーをしてたのかは謎(調べると画像が出てくるから暇だったら見て)
どう考えても勉強する環境ではないが、サボろうとしても前向けばあの眼光だから監視してもらう感じで。
話がズレたな。
平昌五輪も差し迫り、母は現地で見たいと切望したものの、それまでの家事を疎かにする姿を見ていて誰がそれを応援しようと思ったか。
当然家族全員反対した。
今思えば行っておいでと言えば良かったかもしれないが、私からしてみれば娘の受験よりも「羽生結弦」が優先なんだ、へぇ〜(笑)って感じだったし。
そんなこんなしてるうちに羽生結弦はサラリと2連覇。そこからまたファンが増え、シーズンオフのアイスショーでも変なファンが増えたことでさらに嫌気が差していた。
どこかのアイスショーだったか忘れたんだけど、トイレ行ってる間にババアが「ゆづのパンツが」とか会話で盛り上がってるの聞いて気分良いわけないからな。
あとアレな、アイリンの奥にある待合室の椅子全部、一つ一つに座っていたババア。この手のファン自称してる変な人たちも気持ち悪いから消えて欲しい。
無事進学が決まったことで家を出て、一人暮らしと同時に意識的にスケート界隈を視界に入れないようにし始めた。
ここで一回離れたのが良かったのか悪かったのか。国際センター、仙台駅の本屋、仙台地下鉄のポスター…
競技を追わずとも、さまざまなところで羽生結弦という男を目にして、その度にこの男を見て自分はこの土地までやってきたんだと思い出していた。
また話ズレるけど仙台大好き。
故郷よりも好き。
都会なのに緑が多くて気持ちがいいんよね。
就職を契機に都内へきてしまったから仙台を離れてしまったけど、はよ仙台戻りたい。
私は川が大好きなので死後、私の遺骨は広瀬川に撒いてくれと常日頃言ってます。
大好きだ仙台。
話を戻そう。
とはいえ、Twitterでこれ見よがしに呟いてるファンは正直気持ち悪かったし、自分も同じようになりたくなかったからTwitterでは鍵開けて呟くこともしなかった。そもそも、羽生sageがひどい中、どれだけ擁護しようとも「羽生ファンガー」「ユヅリスト笑」と言われるんだから俺たちにできんのは「沈黙」だけだろ。
(ここでクラピカの顔が出てきたやつはツイカスかハンターオタだから前者はツイカスであること自覚して生きような)
TwitterじゃなくてX?
そんなこんなでたまに目にしたり、アイショー見たりとかするくらいまではしてもシーズン中全部追うみたいな生活を2.3年せずにいたら北京五輪になってた。
数年まともに追っかけていなかった間に、さらにスケーティング技術が向上してる様を見てやっぱり努力の人で憧れなんだよなと再認識した。
FPの朝。
雪がしんしんと降り積もる中、大崎八幡宮に4A祈願へ向かった。
FP前日に事実無根の記事が大量に出回っているのを見て「4年経ってもこんな記事を書いて彼を貶めようと必死なんだ」と辛い思いしたな。
何年経っても彼を取り巻く環境は良くなるところか酷くなる一方なんだなぁと。
タイミング忘れちゃったんだけど、いつかのシーズンで本人が死のうと考えたみたいなこと言ってたのを時折思い出して。
それを考えると結婚したいと思える人と出会えたことはなんて素晴らしいことなんだろうと素直に言えるんだけども。
そんなこんなしてたらあれよあれよと時間が過ぎて、引退かと思ったらプロ転向へ。
前々から引退したらどうしようと思っていたところ、最高の「答え」をお出しされて悲しむことも落ち込むこともなくて嬉しかった。
男子のスケートにハマった理由に、彼らが命を燃やして戦うあの会場の空気が好きだったこともあって、その覇気がなくなったのは些か寂しい気持ちもあったけど。
ここまで色々自分の話をまとめてしまったけれど、ここからはプロ転向後の個人的にモヤった点をいくつかまとめておく。
みんなのライトで投票して踊るプログラムを決めるってやつでさ、
最初の方はみんな悲愴が多かった覚え(多分水色と青色が似ててそう見えただけの部分もある)なんだけど選ばず他のプロ踊って。
数日間ある中でも最後の日に、悲愴は思い入れがあるからと踊って。
じゃあ最初からリクエストの選択肢から悲愴外してよかったんじゃね?になったけど。
あともう一個個人的に許せなかったのが阿修羅ちゃんだっけ、adoの曲使ったやつ。
adoなんて過去にネットで活動してた人をアンチで自殺未遂まで追い込んでたわけじゃん。
そんないじめていた側の人間の音楽を使うという事実を受け止められなかったんですわ。
giftとか、お礼に〜って内容なのにそこで使うのが「あの」「ado」ですか(笑)っていう。
いつまでも過去の話を蒸し返すなと言われるかもしれないけど、散々sage記事やアンチに酷い目に遭わされてた羽生結弦がソイツの楽曲使うってグロくない?
この辺から自分の思ってた羽生結弦像から乖離が起きてるのを感じていた。
まぁ自分が合わなくなっていっただけだけど。
notte stellata3/11に現地参加してたんだけど、中国のファンか知らんが明らかに場にそぐわない掛け声すんのやめてほしい。
こちとら鎮魂なり祈り、そこからの希望とか再生を意味するショーだと思っているのにそこで「あいしてる」なんてでかい掛け声は耳障りなだけなんよ。
最近見なくなったけど貞子みたいなストーカーも、アイスショー千秋楽必ずセンター1列目の変な女も邪魔。
そもそもフィギュアスケートというスポーツのあり方自体も異質だよね。
プロではなくてアマチュアの方が技量が上、大会などに出場して集客してと見せ物のようになるのがアマチュアの方なん。
ただそのスポーツが好きというだけで始めた人間が、上手くなればなるほどよく分からない人たちの目に晒される環境にあって、
アスリートなのにアイドルのような消費の仕方/され方してるのがな…高校野球だけ謎に神聖視されてるのと似てる?
アイドルは最初からそういう売り出し方をするからいいが、スポーツは違うじゃん。
好きで始めただけなの晒されて人格に難癖つけられてとかね。
世知辛いわね〜
まぁそんなこんなで、勝手に理想像を求めてる俺みたいな人間は鈴の言葉でも反芻して生きような↓
すごい、馬鹿みたい。
ほんと馬鹿みたい。
みんな勝手に期待して、陽子自体のことなんて考えてもみないで。
Twitterとか世間では祝福の言葉ばかり目について、悲しむような人を見つけられなかった。
その様子を目の当たりにして、素直に喜べなかった自分の心の醜さに打ちひしがれてしまったし、周りのその「潔白」な態度に吐き気を催した。
だってさ…
今まで彼が「スケートを想って滑ってる」と思いながら見てた演技が「誰か特定の人に対しての感情を含みながら滑っていた」とかだったら悲しくない?
悲しくない?そう…俺が捻くれてるだけやね。
まぁそら遠くからお金落としてるだけのファンと、近くで辛い時支えてくれた人ならそっち好きになるのは当然だしね。
羽生結弦のファンであるなら、ファンもどこまでも清く、正しく、美しくあるべきところ私はそうできなかった。
私と同じように思っていても、表向き発信してない人が多くいると思うし。
私みたいな人も同じようにいるんだと知って、1人でも救われれば良いなと思って今回ここまでちゃんと自分の気持ちを書いた。
これは関係ない話だけど、Twitterで「羽生結弦と結婚したのは俺?!俺!ole!」言うてる人の見て元気出たよ、ありがとう。
どんなに切望しても普通には得ることが叶わない、スケートの神に愛された男が、スケート以外に愛する存在を見つけてしまった事実が悲しかった。
ただ、ただ、悲しかったんだと思う。
踏みつけても立ち上がるたんぽぽのように。
どんな場所でも美しく在る男の姿が。
そんな1人の男が好きだったな。
報道翌日に体を引き摺りながら仙台へ行って七夕祭り楽しんできたけど、また今度仙台行ってご祝儀代わりにお金落としてくるわ。
次はヒカペ目標で。
じゃ。
増田の蛮勇には敬意を表したいが、さすがに突っ込みどころが多すぎる。
同種の百選としては2005年の新建築・臨時増刊『日本の建築空間』(asin:B00GUJ1HIE)がある。
https://japan-architect.co.jp/shop/special-issues/book-110511/
2005年なので現存しないものや非公開の私邸が含まれるけれども、優れた選出だと思うので紹介したい。
■古代 592-1180
法隆寺西院伽藍 | 飛鳥時代 | 奈良 |
新薬師寺本堂 | 奈良時代末期 | 奈良 |
榮山寺八角堂 | 763年 | 奈良 |
平等院鳳凰堂 | 1053年 | 京都 |
浄瑠璃寺本堂 | 1107年 | 京都 |
三仏寺投入堂(三仏寺奥院) | 平安時代後期 | 鳥取 |
高蔵寺阿弥陀堂 | 1177年 | 宮城 |
■中世 1180-1543
浄土寺浄土堂 | 1194年 | 兵庫 |
東大寺南大門 | 1199年 | 奈良 |
長寿寺本堂 | 鎌倉時代初期 | 滋賀 |
西明寺本堂 | 鎌倉時代初期 | 滋賀 |
熊野神社長床 | 鎌倉時代初期 | 福島 |
法界寺阿弥陀堂 | 鎌倉時代初期 | 京都 |
厳島神社社殿 | 1241年 | 広島 |
永保寺開山堂 | 1352年 | 岐阜 |
東福寺龍吟庵方丈 | 1387年 | 京都 |
正福寺地蔵堂 | 1407年 | 東京 |
吉備津神社本殿・拝殿 | 1425年 | 岡山 |
慈照寺東求堂 | 1485年 | 京都 |
■近世 1543-1853
妙喜庵待庵 | 1581年 | 京都 |
園城寺勧学院客殿 | 1600年 | 滋賀 |
園城寺光浄院客殿 | 1601年 | 滋賀 |
妙法院庫裏 | 1604年 | 京都 |
大崎八幡宮本殿・石の間・拝殿 | 1607年 | 宮城 |
三渓園聴秋閣 | 1623年 | 神奈川 |
二条城二の丸御殿 | 1626年 | 京都 |
西本願寺飛雲閣 | 1628年 | 京都 |
西本願寺書院 | 1633年 | 京都 |
延暦寺根本中堂 | 1640年(再建) | 滋賀 |
三渓園臨春閣 | 1649年 | 神奈川 |
曼殊院書院 | 1656年 | 京都 |
桂離宮 | 1663年 | 京都 |
慈光院書院 | 1672年 | 奈良 |
江川家住宅 | 江戸時代前期 | 静岡 |
閑谷学校講堂 | 1701年 | 岡山 |
東大寺大仏殿(東大寺金堂) | 1705年(再建) | 奈良 |
大峰山寺本堂 | 1706年 | 奈良 |
大国家住宅 | 1760年 | 岡山 |
岡山後楽園流店 | 江戸時代後期 | 岡山 |
栗林公園掬月亭 | 江戸時代後期 | 香川 |
角屋 | 1787年 | 京都 |
さざえ堂(旧正宗寺円通三匝堂) | 1796年 | 福島 |
大徳寺孤篷庵忘筌 | 1799年 | 京都 |
渡邉家住宅 | 1817年 | 新潟 |
羽黒山三神合祭殿 | 1818年 | 山形 |
旧高野家住宅 | 江戸時代後期 | 山梨 |
旧金比羅大芝居(金丸座) | 1835年 | 香川 |
岩根沢三山神社本殿・庫裏 | 1841年 | 山形 |
柏倉家住宅座敷蔵 | 1866年 | 山形 | |
旧大明寺聖パウロ教会堂 | 1879年 | 愛知 | ブレル、大渡伊勢吉(棟梁) |
宝山寺獅子閣 | 1882年 | 奈良 | 吉村松太郎(棟梁) |
旧風間家住宅 | 1896年 | 山形 | |
旧武徳殿 | 1899年 | 京都 | 松室重光 |
旧花田家番屋 | 1905年 | 北海道 | |
吉島家住宅 | 1907年 | 岐阜 | 西田伊三郎ほか(棟梁) |
古谿荘 | 1909年 | 静岡 | |
高松城披雲閣 | 1917年 | 香川 | 清水組 |
住友ビルディング | 1926年 | 大阪 | 住友合資会社工作部(長谷部鋭吉・竹腰健造) |
聴竹居 | 1927年 | 京都 | 藤井厚二 |
旧大倉精神文化研究所本館 | 1932年 | 神奈川 | 長野宇平治 |
軽井沢 夏の家 | 1933年 | 長野 | アントニン・レーモンド |
※両関第二工場酒蔵 | 1933年 | 秋田 | |
旧日向別邸 | 1936年 | 静岡 | ブルーノ・タウト |
近江神宮 | 1940年 | 滋賀 | 角南隆、谷重雄 |
旧前川國男邸 | 1941年 | 東京 | 前川國男 |
旧吉田五十八邸 | 1944年 | 神奈川 | 吉田五十八 |
神奈川県立近代美術館 | 1951年 | 神奈川 | 坂倉準三 |
斎藤助教授の家 | 1952年 | 東京 | 清家清 |
コアのあるH氏のすまい | 1953年 | 東京 | 増沢洵 |
南台の家(吉村順三邸) | 1957年 | 東京 | 吉村順三 |
八幡浜市立日土小学校 | 1956年 | 愛媛 | 松村正恒 |
香川県庁舎 | 1958年 | 香川 | 丹下健三 |
スカイハウス(菊竹清訓邸) | 1958年 | 東京 | 菊竹清訓 |
※ホテルオークラのメインロビー | 1962年 | 東京 | 谷口吉郎 |
日本生命日比谷ビル(日生劇場) | 1963年 | 東京 | 村野藤吾 |
国立屋内総合競技場 | 1964年 | 東京 | 丹下健三 |
大学セミナー・ハウス | 1965年 | 東京 | 吉阪隆正 |
旧千代田生命本社ビル | 1966年 | 東京 | 村野藤吾 |
白の家 | 1966年 | 東京 | 篠原一男 |
塔の家(東孝光邸) | 1966年 | 東京 | 東孝光 |
※虚白庵(白井晟一邸) | 1970年 | 東京 | 白井晟一 |
KIH7004 | 1970年 | 東京 | 鈴木恂 |
中銀カプセルタワービル | 1972年 | 東京 | 黒川紀章 |
※大分県医師会新館 | 1972年 | 大分 | 磯崎新 |
※プロジェクトマグネット | 1973年 | 店舗模型 | 倉俣史朗 |
阿部勤邸 | 1974年 | 埼玉 | 阿部勤 |
北九州市立中央図書館 | 1974年 | 福岡 | 磯崎新 |
幻庵 | 1975年 | 愛知 | 石山修武 |
上原通りの住宅 | 1976年 | 東京 | 篠原一男 |
※中野本町の家 | 1976年 | 東京 | 伊東豊雄 |
小篠邸 | 1981年 | 兵庫 | 安藤忠雄 |
弘前市斎場 | 1984年 | 青森 | 前川國男 |
SPIRAL | 1985年 | 東京 | 槇文彦 |
※バーオブローモフ | 1989年 | 福岡 | 倉俣史朗 |
海の博物館 | 1992年 | 三重 | 内藤廣 |
豊田市美術館 | 1995年 | 愛知 | 谷口吉生 |
ウィークエンドハウス | 1998年 | 群馬 | 西沢立衛 |
せんだいメディアテーク | 2000年 | 宮城 | 伊東豊雄 |
横浜港大さん橋国際旅客ターミナル | 2002年 | 神奈川 | アレハンドロ・ザエラ・ポロ、ファーッシド・ムサヴィ |
金沢21世紀美術館 | 2004年 | 石川 | 妹島和世、西沢立衛 |