はてなキーワード: 東北本線とは
その一 https://anond.hatelabo.jp/20240318182037
東口の地下に何やら変な駐輪場があるのだが、実はこれは1990年までは地下街であったのだ。出来たのは1960年代のはず。
天井低くてしょぼいし店舗も狭いし店も昭和中期っぽくて古いしで、テコ入れされないままに90年に廃止。
というのも、90年にそごうが出来る事になったので、橋上駅の高さのままにデパートに入れるペデストリアンデッキを築造し、地下じゃなくて上の方で発展させる方向になったのやね。
で、駅の真ん前のデッキの基礎を建てるには地下街通路が邪魔。って事で、通路を閉鎖してデッキ基礎が貫通する形になった。残りの部分は店舗仕切りなどを取っ払って駐輪場へ。
なので一部閉鎖区画があって鉄板や木の板で塞がれているのだ。増田はここにどうにかして侵入できないかを昔から考えているのであった。
ちょっとあるよ。
本来、東アジア反日武装戦線「狼」はお召列車爆破と昭和天皇暗殺を狙っていた。場所は東北本線貨物線荒川鉄橋。
1968年まで赤羽以北の東北本線は貨客混合の複線だったが、輸送力増強の為に複々線化されて貨客分離された。これでお召列車は貨物線を走るようになった。原宿駅のお召列車ホーム自体が山手貨物線に接続されているから。
そうすると、貨物線橋梁爆破しても一般人に危害は与えないという事になる。そこで一味は爆弾設置の為に電線を設置しにいくが、人影があり、付近を徘徊しているので恐れて中止した。
そこで目標を変更して三菱重工爆破事件に至ったというワケ。元の一般人への危害回避はどこに行ったんだ。川口の乗越線はやっぱりこの貨客分離が元だから関係があると言えば関係がある。
wikipediaの虹作戦の項には「爆弾を仕掛けようとしたのは旅客線」と書いてあるが、これは間違いじゃないかと思う。そこは間違えんだろうし、増田が聞いていた話と違う。
東口駅前のそごうはそごう西武グループが売却してゴーストビルのままになってるが、三井が取得する見通しと、去年市議会で報告があった。三井という事はララガーデンとかららなんとかとかららクロフトとかになるのかと思われる。
しかしデパートというのはハイコスト、ハイリターンの業態に合わせた建物で、コストがメチャクチャかかるんだな。それは冷暖房費やエレベーター、エスカレータなどもそうだし、搬入口が狭くて外部の納品代行業者経由で整理して混載で搬入するのでないとパンクするっていうのもある。
だから巨大ダイソー一棟貸しみたいなのなら行けるが、色んなテナントが入って納品代行は使わないっていうのは無理など、難点が多いのだ。
そもそもデパートの損益分岐点って日商4000万円とかそういうレベルなんでショッピングモールなんかに入るテナントと業態が合わないのだ。
だからどうなんのかなと様子見。結局開店が流れちゃう可能性もあるね。
SLあおば通りって道があって、ファミマのSLあおば通り店っていうのもありhttps://maps.app.goo.gl/fWvvCmGbAjvhLPZw6 、道筋にはSLのオブジェとかもある。
でもこれインチキなんだよね。ここに線路があった事ってないんだ。
アリオは元はビール工場で、そこと川口貨物駅の間にユニオンビール専用線という貨物線があった。でもその専用線は現線路に平行していてJRが保線基地に使ってる。
そこでビール工場跡を再開発するにあたり、専用線跡を記念するオブジェを配置したい、でも専用線跡はJRが使ってる…って事で隣の道を指定しちゃったと思われるのね。こういうのは混乱の元だから止めて欲しいですな。
あるね。https://maps.app.goo.gl/dGPVNnEXP6hMg3n26
植物の繁茂で全然読めないが、実は同じものが陸橋の西詰にあるよ。https://maps.app.goo.gl/GNdf7d4UP3eT9aYj7
石碑の内容は、整圃事業の謝辞だよ。戦争中にまだ農地ばかりだった駅付近一帯を碁盤目状に土地の区画整理をして、その協力した地主達を名上げして感謝している。川口は江戸から離れ鋳鉄で栄え舟運で製品を出荷してやがて鉄道が来て~という事を漢文で書いてある。
この区画整理を戦前にやっておいたせいで、戦後に鉄の民需が爆上がりした時に鋳鉄工場が大量に出来て鉄の街となったのだな。
また、最初の碑がある場所というのは実は大踏切があった場所だ。駅の方から来た道が斜めに線路群を渡り、対面の斜めの道に踏切で抜けていた。
でもこれは当然危ないわけで、昭和30年代に埼玉県は荒川~大宮間の踏切を全部立体交差にする工事をしたのだ。それでこの大踏切も廃止になって代わりにこの北の川口陸橋が掛けられた。
因みにこの陸橋の開通セレモニーでは神主が来てお清めしてから神主が渡り初めをしているのが写真に残っている。
だから王子から赤羽には踏切が幾つか残っているのにその北の大宮には踏切が無いのだ。
多分西詰の石碑は元は大踏切の反対側にあったのがこの時に移動されたのではと思う。
タワマンというのは住宅地には建てられないの。日影規制もあるし、日照権も主張できるからあとから訴訟になる。
でも商業地や工業地ではそれらは主張できない。だから工業地帯から転換した地域はタワマンに最適というか、それ以外では建築が難しいの。
更にタワマンには建物の周りに公開空地を設けないとイケないのだが、「大規模な町工場」というのはこれで必要とされる広さに丁度いいのだ。
そういう訳で、川口にある〇〇製鉄、○○鋳造なんて名前の会社は、多くがもう工場を持ってないか縮小して他所に移転していて、不動産業メインの会社ばかりになってる。
日本初のタワマンは川口元郷のエルザタワー32なんだけど、ここは日本ピストンリングというエンジン部品を造っていた会社の工場だったところ。
因みにピストンリングは昔は鋳鉄を丸く繰り抜いたものが使われていた。鋳鉄には細かな穴が沢山あるのでここにオイルを保持して焼付き防止になっていたのだ。って事でやはり川口なので鋳鉄なのだ。
その丸井が閉店になって共同所有になり、ビるの愛称を決めた。もとが0101だから1110って訳でシャレや。
駅西口から徒歩7分くらいの所に飯塚氷川神社という神社がある。https://maps.app.goo.gl/fKh6qXTZGCNTYGRE9
ここだが、境内に結構古い社務所があるのだが、なんとこの社務所、選挙の投票所に指定されている。中は畳と板張りなんだが、そこに土足で入れるようにシートを敷いて投票箱と記帳所を置いて公職選挙が行われる。
すげえ田舎や離島で神社が投票所というのはあるだろうが、東京都境から徒歩10分、駅で一駅のタワマン林立地帯でこんな投票所があるというのは珍しいんじゃないか?
好事家の皆さんは選挙の日に覗きに来てはどうだろうか?
何?じゃなくて教習所や。元々地産グループの教習所だったが、グループ首魁が逮捕された影響で元会社が倒産、売りに出されて飛鳥ドライビングカレッジとなっている。
ここだが、ちさん時代から教習料が安いのが特長。都心から近いのに首都圏で一番安いという穴場なんだな。免許取りたい人はイイゾーここ。
因みに2019年台風19号の増水ではコースが7mの泥水の底になって、後にはコースも見えない泥の沼が残り、教員たち総出で泣き泣き泥かきをしたそうだ。
上野東京ラインの川口駅停車が正式決定されて「あそこは乗降客多いから当然」とか「停車駅増えるのヤダ」とか巷間喧しいところであります。
そこで川口駅の事をちょっとだけ知っている増田が川口駅のあれこれを少しだけ説明するよ。
川口駅の西側は1980年代までみっちりと町工場が密集していて、特に線路に面したところは国の燃料研究所(後に公害研究所)という大工場があったので、西口広場ってものは無かったのよ。
この公害研が廃止され環境研に改組されたのでその空き地に西口ロータリーを造る事になった。
だがこの当時に、今の湘南新宿ラインの元になる東北本線池袋乗り入れが開始されたってわけ。
そこで川口市は駅の西側にこの列車用のホームが増設できるように何も建てない土地をワザワザ造って、「池袋支線停めてよ」アピールをする事にしただった。
場所はここ。https://maps.app.goo.gl/eiJk19EmifLCYrzCA
しかし、これ無理だろ?と気が付いた人も多いかと思う。現在の湘南新宿ラインは15両編成だから隣の10両用京浜東北線ホームの1.5倍になり、ホームを造るには全然長さが足りないんだ。
なんでこうなったの?というとその後の川口市がいけないのだ。
実はこの「川口西口緑地噴水」の場所は駅前ロータリーだった場所なのだ。つまりは道路。こんなせせこましい場所でバスの方向転換とかどうやってたんだか?
で、ここは大きなロータリーを別に造るから廃止になるんだけど、池袋支線のホーム用地にしよう、という事で期待を残して建物を建てなかった。
だけども公害研跡地再開発では人工地盤の巨大公園、更にその下の1階と2階にはコンクリート製の駐輪場を造ってしまったのだ。ホーム用地にすんのかしねえのかで全く平仄が取れてねぇ。やる気に統一感がなかったのだ。
だからホームを造る為に線路敷きを拡幅するには立体駐輪場と公園を一部破壊する超高額な工事をせにゃならん。
詰んでるじゃん。…ところがそうではないのであった。
駅の東側線路際に大きな駐車場が見えるだろう。ここ、実は川口市の土地なんだな。だからここを利用して線路全体の線形を変えるって方法でも行けるって訳だ。
なんで川口市がこの土地持ってるの?かというと、ここは川口貨物駅だった場所なのだ。正確には貨物駅は東口のきゅぽらという高層建物、その隣の駐車場、タワマンの場所にあった。駐車場の場所は貨物駅に入る為に線路が輻輳してあった場所だな。
国鉄は超大赤字を積み上げており、特に貨物営業に人が多すぎで、人件費が莫大だった。
そこで国は思い切って貨物営業をほぼ全廃してしまう事にした。石油の直通便とかコンテナだけ残す。
それで全国の貨物駅は遊休施設となった。例えば都心部だと新宿の高島屋スクエア、渋谷の南口オフィスビル群、汐留の電通とかあのあたり、秋葉原のヨドバシなど、飯田橋3丁目のオフィスビル群などは貨物駅だった所だ。
次に国鉄を民営化する事になり、その遊休土地は国鉄清算事業団に移管される。売却益を赤字補填にするというスキームやね。
それで川口貨物駅の施設は川口市ががっぽりと全取りしたってわけ。
んで駅南側は立体公共駐車場とか貸しビル&図書館&市役所出張所のきゅぽらなんかを建てた。そして北側はそのまんま。何分元が複々線線路だから狭くてビル建てるには手狭。でも元が線路だから線路用地にするのが一番やね。
但しそうなると駅全体を改造する事になるから工費はかなりのものになる。新駅ビル建造込みの工事になるかと。
因みにこういう時、JR線路部分の工事は他社にやらせないで自ら発注するのしか認めないのね。事故があるとヤバいから。だから自治体に金だけ貰うって形になる。
ただ、この全体線形変更案は増田の予想なんで、実際はどうなるかは判らん。立体駐輪場と公園を壊してホーム用地を西口方に確保するかも知れないし、南の方へ伸ばして途中の家屋を買収するかも知れない。そこはまだ全然決まってない。
あと、東口の駅舎(と言っても階段があるだけ)と京浜東北線ホームとの間に隙間のデッドスペースと飲食、床屋店舗群があるけど、そこも川口市有地でここも活用できる。
とするとやっぱ全体を東に移して駐車場活用案にあるんじゃないかと思われる。
電車に乗ってると気になるこれだけど、 https://maps.app.goo.gl/uPyzTQ8tn1QQhPTQA
これはなにかというと、貨物駅に入る為の乗越線だったものだよ。
貨物駅が貨物線(現湘南新宿ライン線路)と反対側にあるから、貨物列車が駅に入る時には東北本線、京浜東北線を全部横切らなきゃならない。その為には全部赤信号にして止めなきゃならないから大遅延の元になる。
そこで乗越線で立体交差にした。
昭和43年まで赤羽から大宮は京浜東北線と東北線の複々線だったんだけど、東北線と高崎線の特急を増発する際のボトルネックになっていた。貨物列車が多いし、新幹線が無い時分だから新潟行きも仙台行きも秋田行きも青森行きも全部ここを通る。
そこで貨物線を増設して貨客分離する事にしたんだが、問題になったのが川口貨物駅。貨物線と反対側にあるこの駅に線路を全部渡って行くったって、既に京浜東北線は通勤ラッシュ常態化で、東北線も列車増発の為に線増したのにボトルネックを造ってどうする。
ってことでこんな大がかりなものをこしらえた。
因みに運転は結構大変で、なにぶんにも片方しか入れない。そこで下り列車であれば、一度蕨駅まで行く。そこで機関車を後ろに付け替えて今来た方に出発。西川口付近で乗越線に入って川口貨物駅に到着。
逆に上りでは駅に着くのは普通でいいが、出発後はやはり蕨駅まで行ってから、機関車を付け直して赤羽方に出発という何とも迂遠な方法を取っていた。
貨物駅廃止で不要になった筈だが、廃止された線路の一部を保線用基地に転用した為に、この乗越線を使って湘南新宿ラインの方にレールを輸送するので残されている。
そもそも貨物駅が貨物線と反対側にあったのがいけないのだけど、川口アリオの場所にビール工場があったのでこっちに造られた。ビール輸送は鉄道貨物の大お得意さんであったので無視できないのだ。
因みにビール工場がここに設置された理由は、見沼代用水の分水が取水できた為で…(以下略
鉄の製造には3種類あって、
1.鉄を融点以上に加熱して砂型に入れて固める鋳造(出来るのは鋳鉄)
3.圧延ロールで押しつぶして板状に、またはパイプ状や棒状にする圧延
というのがある。今一番使わているのは圧延で、何段にも圧延ローラーを掛ける為に長いラインが必要になるので工場も資本も巨大になる。量産効果で製品単価は低くなる。
キューポラ炉はたたら製鉄の応用で、コークス(石炭を乾留して硫黄分などを飛ばしたもの、結構高い)→鉄→コークス→鉄とウエハース状に重ねて入れて鉄が溶ける温度を確保する。
投入口が2~3階にあって取り出し口は1階という結構大がかりなものです。
鋳鉄は炭素が多いので、コークスは温度を上げるだけじゃなくて鉄に炭素を含有させる働きもあるのだ。
このキューポラが沢山稼働していたから昔の川口は大気汚染がすごかった。炭塵だけじゃなくて鉄が溶けた蒸気(ヒューム)も混じってるから健康には悪い。
あと一つ入らないのでその二に続く
県二位の人口22万人の中核市であり、太平洋に面する港町、臨海工業地帯、外航・内陸航路の工業港を有し、東北新幹線八戸駅、東北自動車道八戸線、三陸復興道路の北の終点がある。東北有数の商圏63万人の街。
しかし、八戸市にはイオンモールがなく、イトーヨーカドーは2024年の夏に閉店する。
八戸市の映画館はかつて7館あったが、現在は完全になくなった。
2000年代前半4万平米級のイオンモール計画が立ち上がるも、中心市街地の地権者や有力者等で構成する市の商工会が大反対運動を展開。当時の市長はイオンモール反対を表明するも次の選挙で市民の支持を得られず落選。
イオンモールを待望した市民は、官僚出身の新市長を当選させた。しかし、外部の反対派寄りの専門家や学識経験者を交えた委員会を開き、最終的にイオンは過剰な商業施設であり不要と決定。そして、八戸市は事実上の1万平米以上の商業施設立地規制条例を制定し、イオン予定地は、当初計画を大幅縮小した売場面積7千平米級の中途半端なイオンが開店した。
さらに、市はそのイオンの隣により大きな建坪で市の総合検診センターを建設。土地区画整理組合への補償のためだと思うが、未来永劫、増床してイオンモールにすることはできなくなった。
その結果、市民は昔からある隣町のイオンまで車で約15kmから20km車で行く。
車がない高校生は1日に4便しかない直行バスに長い行列をつくり30,40分かけていく。
街の顔である中心市街地は、税金や補助金を投入し続けたが商業エリアとして魅力は下がり続け集客力は改善せず、事実上シャッター街に近い状態になった。
かつて市民のデパートとして親しまれたヨーカドーは市内に2店舗あった。1980年中心街の再開発ビル(地下1階、地上7階建、屋上遊園地)にヨーカドー八戸店出店計画が出て、当時の市商工会議所は大反対をした。市民には大歓迎されて開店してから東京の有名なデパートとして八戸の目抜き通りのシンボルとなった。その後2003年閉店。
古いビルは壊され屋台村になり、かつての長崎屋は1階がタリーズコーヒーで、2階から13階建のマンションになった。
市は20年ぐらい前には既に中心市街地活性化対策に乗り出し、再開発計画が出ては消えを繰り返し、最終的に新市長が市営の箱物をたくさん新設したり、建て替えた。
中心街は仙台に次ぐ飲み屋街として名高く、屋台村のみろく横丁周辺が酒豪の呑んべいたちで賑わう。新幹線開通後、新たなホテルやマンションはいくつか建設された。
市内は、北東北を中心に展開する売上高1300億円、58店舗を展開するスーパーのユニバースが本社を置き市中を治めつつ、他社も含め無数にスーパーとドラッグストアがある。イオン系列マックスバリュー、ホームセンターのサンデー、ヤマダ、ケーズデンキ、ユニクロ、GU、しまむら、西松屋、ワークマンもある。日常の買い物には困らない。
しかし、市民は屋内一体型モールのイオンモールが欲しかったのだ。大規模な市総合検診センターでもなく、市の観光文化交流施設や、市民屋内広場ではなく、イオンシネマやゲームセンターやボーリング場や、未来屋書店や、東京のアパレルテナント、東京で話題のある飲食店のフードコートが欲しかった。
明治時代に日本鉄道が東北本線を八戸町の中心部に伸ばすかどうかで議論になった。
当時は他の町と同じく蒸気機関車忌諱説があり、流行病の懸念や軍部の要望があり外国軍上陸の脅威を減らすべく、市街地から4kmも内陸の尻内(しりうち)という辺鄙な場所に駅をつくった。あとで町民たちは鉄道は便利だと知ることになり、数年後に本線から分岐して八戸線が開通し中心市街地の800m北寄りに旧八戸駅、現在の本八戸駅を開設する。
そのあと100年以上が経ち、尻内駅は八戸駅に駅名が変わり、やがて新幹線駅に昇格した。しかし、あまりに市街地から離れすぎた立地のため、郊外の地方空港の様相であるかのように、22万人都市の玄関口としてはお察しくださいの状態である。
大正末期に八戸大火が発生し中心商業地区が焦土と化したが、田舎町には後藤新平のような都市計画家はおらず、当時の八戸町議会は多額の予算は出せないとして狭い道は藩政時代のままとなった。
太平洋戦争では基幹産業の日東工場爆撃が海側の地域で爆撃を受けるも、中心市街地の空襲被害はほとんどなかった。
市の北側に位置する旧日本軍の飛行場と基地は米軍に接収され、3,200人の米兵により飛行場を拡張し基地の街と化す。その後、陸海自衛隊基地として運用される。
八戸の中心市街地は、戦後しばらくして、東映、東宝、テアトルなどの7つの映画館が開店し、地元百貨店が開店し、緑屋、ニチイ、丸光(さくら野)、長崎屋、そしてイトーヨーカドー、地元資本のファッションビルが開店し、中心市街地は岩手県北を含め商圏62万人ともいわれ栄華を極めた。私はその時代を生きていないのでよくわならない。
八戸は昭和30年代に新産業都市に指定され臨海都市建設工事が始まり、八戸鉱山の石灰石産出、三菱製紙工場、八戸火力発電所、非鉄金属の精錬所、鉄工所、造船所が建設された。
漁業は栄光を極め、八戸港の水揚げ量・金額が日本一を記録し、第一・第二・第三魚市場は全国の漁船が集まったという。浜の景気は大変良く、飲み屋街や風俗街も発展した。北海道室蘭・苫小牧港へのフェリー航路が開設され北への玄関口となった。中心市街地を迂回する国道45号バイパスが整備され、市道の4車線の環状道路が次々と開通し、田畑の区画整理が次々と進み新興戸建住宅地や住宅団地は郊外に市街地は拡大し、市営バスは路線網を拡大し小中高校は増設を続けた。
一方で、青森寄りの天間林村(現七戸町)の上北鉱山は銅が枯渇のため閉山。また、八戸から60キロ北の六ヶ所村では新全国総合開発計画による巨大石油化学コンビナートや製鉄所を中心とした、1万7000ha開発計画は発表されたが、二度のオイルショックで完全に頓挫した。石油備蓄基地のみがつくられ、のちの日本原燃による核燃料サイクル施設建設を待つことになる。
青森県議会は東北新幹線建設に際し、八戸経由か弘前経由か決められずに結局盛岡駅止まりのまま以後八戸延伸まで20年待ちとなる。あの頃、早く決めていればとおもうと悔やまれる。
1991年に長崎屋が郊外に移転。屋内遊園地つきのラピア長崎屋が開店
1994年 年末に三陸はるか沖地震(震度6)が発生、旧市庁舎、旧市民病院に大きな被害、中心市街地のビルが倒壊し死者発生、道路の崩落、水道管破裂など多数被害
1995年 隣町にイオンモール下田が開店(現在は売場拡張し53,277平米)県南地域では最大の売り場面積を持ち、当時は大観覧車があり田んぼと山がよく見えた。
1997年 中心市街地の市民病院が郊外に移転し、いよいよ中心市街地の危機が地元紙で叫ばれるようになる
1999年 八戸臨海部の神戸製鋼の敷地にピアドゥ(売場面積25,400平米)が開店。核テナントはイトーヨーカドー、ホームセンター、のちにヤマダ電機、スーパー銭湯開店
2002年 東北新幹線八戸駅開業。北の玄関口として栄華を極める
2003年イトーヨーカドー八戸店が閉店、跡地に地元出資チーノオープン。市民映画館が開店
2009年 臨海部の八戸魚連跡地、ピアドゥの隣接地にシンフォニープラザ(現在の売場面積17,000平米)が開店
2000年前半イオンモール八戸田向店40,000平米級の建設計画が持ち上がる
当時建設中の4車線の県道八戸環状線沿い一帯の田んぼを区画整理し、中心街から八戸市民病院が移転した付近に立地計画。
市民の多くは歓喜に沸いたと思う。わざわざ隣町のイオン下田まで行く必要がなくなるからだ。
しかし、中心市街地の商業者を中心とした商工会が猛烈に反対し、当時の市長も大反対。
地元新聞の投書には、商店街関係者と思しき女性が「イオンが来たら中心街がシャッター商店街になってしまう。そんなところで祭り(八戸三社大祭という由緒ある山車の祭り)は見たくない!」などと書いていた記憶。
ほかに、市民病院の近くが週末渋滞して救急車が到着できなくなるから反対との投書もあった。
その後、市長は1期で落選し、新市長が当選し立地規制条例を制定
2012年 郊外にイオン田向ショッピングセンター開設(7000平米級)
新市長は、空洞化した市街地を再建すべく、市営の箱を次々と建設。
2011年 市営のポータルミュージアムはっちが開設、中心市街地にタリーズコーヒが初出店
2016年 ガーデンテラスが竣工し市営の八戸ブックセンターが開設、Yahoo八戸センターが同ビルに拠点開設
2019年 国際大会用の屋内スピードスケートリンクが開館(中心市街地から徒歩圏の運動公園に建設)
2020年 元長崎屋跡地にDEVELD八日町が竣工 13階建で2階以上はマンション
2023年 イトーヨーカドー八戸店跡地のはっちが閉店。解体されマンションになる予定
2023年 八戸港の水揚げ量が昭和19年レベルに激減(戦後最悪水準、金額ベースで最盛期の10%の漁獲高)
2025年 青森銀行とみちのく銀行が合併し青森みちのく銀行設立予定
東日本大震災のあと、国の復興予算で約10年で三陸復興道路が完成し、県道の環状道路は大半が開通した。市内のロードサイドにはセブンイレブンも、タリーズも、コメダ珈琲も、スタバもできた。新しいスーパーやホームセンターがあちこちにできた。
中心市街地は市営の観光施設や屋内広場、箱物と、市営書店ができて大変モダンな空間になった。
地元商工会議所は、中心市街地活性化のために、巨大イオンモール進出を阻止に成功し、街中に新たな商業施設として、ローソンとファミマが合計6店舗できた。モスとドトールしかなかった街中にタリーズができた。
しかし、市経済の低迷も相まって中心街へ商業施設誘導を果たせず、三春屋とチーノは閉店し、今やさくらの百貨店が残るのみである。かつての商業ビルはマンションへ建て替えが進む。
商業地としてのポテンシャルが低下してマンションになるのであれば、郊外に予定通り40,000平米のイオンモールを建設してもよかってのではないか。
結果、GMSは衰退し臨海部のヨーカドー八戸沼館店は閉店。後継テナントは未定で、市民は1991年開店の江陽のラピア長崎屋と、臨海部のシンフォニープラザ、2012年開店のイオン田向(リテール)のみになる。
よく巨大郊外型モールが撤退したあと社会問題になるため開発抑制が必要だという。都市計画的には正しいが、近隣県を含め広域自治体レベルで規制誘導しない限り、一自治体が規制をかけても無意味だった。
結局、市民は1995年以降、隣町のイオンモール下田まで行き、買い物客が流出し続けた。
中心市街地の地権者はコンビニ6店やマンション1棟やホテル2棟をオープンさせたが、新たに集客力のある商業施設を建てたては言えず、中心市街地の魅力向上のため、市営の文化的施設の建設に資金が投入され続けている。
2050年までに、八戸市の人口は社会保障人口問題研究所の推定で14万人台になるとしている(最盛期より10万人減少する)
人口減少社会は、かつての拡大した市街化区域を減らし、都市軸の再形成、まちなか居住、コンパクトシティの形成、魅力ある歩いて暮らせるまちづくりをするなど、さまざまなメニューがあるものの、あまりにも中心市街地再興への道のりが長すぎる。その過渡期に過ごす市民は、これからもイオンモール下田に通うことにになる。
せめて20年前に八戸市や市商工会議所は、イオンモール立地に反対しなければ、あの長い行列をつくりバスを待つ市内の高校生たちは、自転車でいける距離でイオンモールに遊びに行けただろう。
これの逆バージョン https://anond.hatelabo.jp/20240313123638
巣鴨プリズン/東京拘置所跡にサンシャイン60ビルを建てるにあたり、池袋駅から地下道を通す計画があったが、地元商店が「人の流れが変わって駅前が廃れる」と反対し沙汰止みになった。
一番反対したのは洋菓子店のタカセ。ここは戦後に繁盛して地元の顔的な立場であった。
これに他の人は「タカセのヤツ、勝手に顔役ぶりやがって」と陰口を叩き、裏では総スカン。
地下道は都道反対側からだけに短縮されてそこまで利用者は歩くことになった。代わりに都バス乗り入れが行われたが利用者は伸びなかった。
しかし地下道入口に東急ハンズがオープンすると付近にカメラ量販店(後にゲーセン)、飲食ビル、映画館が誕生し、池袋駅東口~東急ハンズは若年向けの飲食サービス業が立ち並ぶ大商圏となった。
90年代にJRAは女性をターゲットとしたCMを打つなど競馬のイメージアップに努めてはいた。
だが池袋駅東口に場外馬券売り場を開設する計画が持ち上がるとイメージの悪化を恐れて地元商工会は大反対。JRAは土地も押さえていたが出店中止に。馬券売り場の上にサロンや飲食室などを設ける大規模な計画だった。
この土地を後にヤマダ電機が押さえて都市型店舗の第一号としてオープン。その後に近くの三越が閉店して建物が売りに出されるとヤマダ電機が取得して現在のLABIとなり、池袋の家電激戦区っぷりに火を注いだ。
米軍が接収した立川飛行場は手狭のためにジェット機用に滑走路を延長する計画があった。この為に滑走路延長先の砂川町の農地や家屋に収用が掛かった。
これに住民は大反対し、そこに学生運動等が乗っかり、デモ隊基地内侵入などの事件が起こり大騒動になった。
憲法問題などで出てくる「砂川事件/砂川判決」というのはこの事件。
この事件などがどの程度影響を与えたかは判らぬが、米軍は立川飛行場の拡大を諦め、瑞穂町の横田基地に集約する事を決定。立川飛行場は日本に返還される事になった。
箱根ヶ崎付近の八高線と国道16号がぐにゃっと曲がっているのは、横田基地の滑走路拡大をした為である。
返還された立川飛行場は学校や研究所、法務修習所、陸自基地などに転用されたが、一番広い面積を有するのは昭和記念公園で、電車で3駅分ほどもある巨大公園となった。
真ん中には広大な広場もあり、大コンサートもよく行われている。
なお、騒動の原因となった滑走路の残骸が未だ残っている。https://maps.app.goo.gl/ewECyedzGvD9p88t7
(よく見ると滑走路アプローチの>>>>のペイントがうっすら残る)
東海道新幹線が開通して暫くすると、騒音と振動が問題になり訴訟も提起されるようになった。成田新幹線のゴリ押しによる頓挫もあり、山陽新幹線以降の新幹線開通は困難が予想されるようになった。
そこで都市近郊での建設スキームを変更、新幹線に付随した在来線も同時に工事して迷惑施設というだけではなくて近隣住民の利益にもなるスキームにした。
この為に赤羽~大宮間では通勤新線(埼京線)、大宮駅北側には高架にまとわりつく、つる植物のような新交通線が出来た。
なお、東海道新幹線は通常の鉄道のように地面に砕石を敷いて線路を敷く工法なので高速運転では周囲に振動が伝わる。その後は平地でも鉄筋コンクリートの高架を走るのが一般化した。杭基礎で支持されるので振動は地下奥深くに吸収され、コンクリの高架は重いので振動自体が押さえられる。その為に公害は発生しにくくなっているが、交渉時には工法までははっきりしていなかったのでこういう形になった。
空襲焼失地区の戦後の復興は東京都などが管理して区画整理などを行ったが、計画的過ぎて無機質であるとの反対意見も多かった。
そこで都は神楽坂については住民同士の話し合いで区画整理を決める自律的な方法を試す事にした。
しかし優越な資本や有力な地元のまとめ役が居ない地区だったので、結局は路地などが沢山残る防災的にはアウトな形で復興する事になってしまった。
しかし建物の建て替えが進むと、街路側は多くが不燃建物、その路地の奥は不燃建物と古い料亭などが混在する形となって何だか防火と風流の両手取りみたいな地区になって、アンテナの高い外国人などにも好かれる町並みとなっている。
戦後の歌舞伎町は全域がゴールデン街のような闇市バラック状態であったが、再開発をする事になった。
しかし高田馬場を始発駅とする西武新宿線が新宿駅まで伸びる予定であり、歌舞伎町の付近に仮駅を設置された。
当時の西武鉄道経営陣としてはピストル堤と言われた堤康次郎も健在であり、堤は人を騙して土地を買収したり、ピストルの名の通りに暴力による脅迫で買収したり人の土地を勝手に占有して後に所有権移転したりと、要するにやり手実業家の皮を被ったヤクザであった。しかも権力とみっちりと癒着しているばかりかその後に代議士にもなっていた。
その為に歌舞伎町の地主たちは鉄道が来るのは歓迎だが堤が来るのはたまらねぇ、として西武の買収に対抗する策を練った。
そこで街路幅はきちんと確保しながらも、その所有区分を細分化、買収しにくくした。それが功を奏して西武も含め、大資本が入り難い地域となっている。道幅を確保しながらも細分化策が功を奏したのは主導的な町会長などが存在した為による。
ブクマページの米でそれは違うというのを幾つか。https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20240313123638
流山は常磐線忌避したという話は良く効くが、多分これは違う。というのも、地理的条件があるからだ。
田端を起点にして北千住を通り、土浦に至るというのは決まっていた。で、その途中には避けねばならぬ「水」があるわけよ。霞ヶ浦、牛久沼、手賀沼は避けねばならない。だから柏の先のルートはこれしかない。
問題は北千住から柏で、今の南回り松戸ルート、八潮→三郷→流山の北回りルート(TXコース)がある。
でも北ルートには難点があって、それは毛長川、大場川、古利根川の氾濫域の土壌ぐちゃぐちゃ地帯に入ってしまう。今でも越谷レイクタウンの南側は田んぼのままで、ここは乱開発すると土地の保水力が無くなり八潮の市街で出水してしまうので開発禁止の状態になっている。武蔵野線敷く時もまず水路の開削からやって平地なのに築堤築いている。そうしないと列車の振動で沈下して線路が狂ってしまう。それくらい地盤が悪い地域だ。
だから日本鉄道はここを通るのは避けたかったはずで、そうすると流山に行くのは無理って事なのだ。
日光御成街道の宿場町として栄えた名残が邪魔して鉄道忌避の街になり、ついに川口市に吸収合併された、元鳩ヶ谷市とか?東北本線って計画では、王子以北は今の埼玉高速鉄道をなぞってたって言うし
これも違うと言い切れる。地形で説明するよ。
日本鉄道熊谷線(現高崎線)は日本で2番目の鉄道なので工事量を減らす為に「ここしか無い」という厳選されたコースを通っているのだ。工事期間がやたらと短いのも特長で、コースを厳選した結果だ。
上野駅を出た京浜東北線(大宮までは中距離電車じゃなくてこっちが元のルートを通る)は赤羽までずっと急な崖の下を通る。この崖だが、真っすぐなのが特長だ。こういう真っすぐな崖というのは海食崖の特長だ。海の崖だね。
地球の海面は氷河期には氷河や南極に氷となって蓄積するので海面が下がる。一方、温暖な間氷期には海面は上がり、平野のずっと奥までが水没してしまう(海進)。
縄文時代などの間氷期の海進で、関東平野は海の底となり遠浅の海となっていた(奥東京湾)。間氷期の気温で海進の程度は変わり、最大で高崎あたり、縄文時代では大宮までが奥東京湾だった。(そういう訳で、尾久とか東三条には貝塚がある)
海には波がある。この波は真っすぐ進んでドンと当たって止まり、ではない。斜めに陸に当たった時は、陸に当たった後にその勢いは横に流れる。波が引く時はその横向きの流れのままに引く。沿岸流が出来るのである。
すると陸の出っ張っている所は削られて、やがて必ず真っすぐな海岸になるのである。
つまり、上野~赤羽の崖が真っすぐなのは海進時に波に削られたせいである。
波は崖を真っすぐに削っていくが、この時潮の干満により崖の下には平場が出来る。満ち潮では海面下に隠れているが引き潮では通れたりするアレだ。親不知子不知が引き潮の時だけ取れるというアレ。
上野~赤羽では小規模な波蝕台が連続し京浜東北線はこの上を通る。但し複々線化で判り難くなってはいるが。
この波蝕台跡は他の低地より少し高いから田んぼになっていないので用地買収がしやすい。更に少し高い故に大雨でも出水しにくいし、砂礫が多いので水捌けも良い。線路用地として優秀なんだな。
陸地の角があると波による沿岸流はその先に砂を置いていく(漂砂)ので、真っすぐの海岸線が延長された地形が出来る。砂嘴である。北海道標津の野付半島や京都の天橋立が有名だ。砂嘴で延長された浜により沿岸流と漂砂の働きも延長されるから砂嘴はどんどん伸びていき海底が深くなると砂嘴の延長はとまる。
この先で荒川を渡らねばならないので当然線路はこの砂嘴の上を走る。高さを稼ぐ為である。この砂嘴は江戸時代の荒川開削と田んぼ開発により削られているが、根元だけは残っている。赤羽の北で環八を跨ぐ時の橋台はこの砂嘴に乗っている。
当時蛇行していた荒川を真っすぐ渡る為に(鉄橋の距離が短くなるから)右に曲がり、荒川を渡る。川口方には堤防(曽根)があるのでそれを超えると熊谷に向けて左に曲がりながら築堤で地平に降りていく。地平に降りた所に川口町駅設置。川口宿からは離れているが駅は水平でないといけないのでここしか無い。
川口町駅からは当初の終点熊谷、その先の高崎までは殆ど直線なのだが、所々に緩いカーブがある。このカーブの全てには必然性があり、全て工事の最小化の為のものだ。
南浦和までは低地にあるが、この先で大宮台地に登る。そこで沢が削った斜面に入り、他の沢の斜面側面に取りついて高さを稼いでいく。
浦和駅からはもう芸術点が高く、沢山の小さな沢がある所を、最小限のカーブでその谷頭を両側でギリギリかすめるルートを取っている。ここはダッジボーナスが沢山入る所だろう。舞踏家みたいな避け方である。
大宮から先も小さいカーブで芸術点高いルートを通るが、中仙道に平行している。中仙道自体が芸術点高いルートを通っているのでこの区間はコピー忍者って感じだ。
このルートの良いところはもう一つあって、途中の蕨から中仙道が平行してくるので宿場町近くに駅を造れば集客と集荷が期待できる。更に当時は道が限定されているので、名のある街道に近くないと客や貨物が駅に来れないのだ。
文明開化したばかりの明治日本が、鉄道二本目でこんだけ緻密なルート選定出来たのは何故か?
お雇い外国人の英国人の力だけではない。江戸時代に新田開発と用水路開削をしまくっていた為なのだ。
台地上に水田を作る場合、もっと標高が高い場所から用水路を引いてくる必要がある。水は一度低いところに行ってしまったらもう高さが上がらないから、長距離の測量を正確にせねばならない。その技術が蓄積されていた。
やり方は結構単純だ。長い木箱を作り(水盛り箱という)、水を入れる。水面は必ず水平だ。両端の水面から10センチのところに糸を張ったらそれも水平だ(水糸という)。
更に両端の水面から10センチのところにライフルの照準的なものをセットする。その照準で200m先を見て、照準が合っている場所はやはり水平だ。200m先に助手が目盛りが付いた物差しを持って立つと、その地面はこっち側から何センチ下/上がっているかが判る。
これをずっと正確に繰り返す。だから両側の谷頭の直ぐ上を抜けるルートなんてお茶の子さいさいだったかもしれない。
という訳で、日本鉄道などが造った初期の鉄道路線は土木技術で地形無視って事を極力避けるルート選定をしているので、マクロ的にもミクロ的にも必然性の塊となっているのでありますよ。
元増田みたいなのが居るから地名変えちゃったってケースを出すよ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20230912103559
地下鉄南北線に志茂駅というのがあるが、ここは昭和初期まで「下村」だった。上村は近くにないので、岩淵宿から見て下の村という意味かと思われる。
関東大震災後に人口が流入して町になる時、「下町」じゃあれなのでちょっとこじゃれて「志茂町」とした。
後に町が取れて志茂となり、駅も出来て有名になったが、住んでる人も元は「下」のこじゃれた書き方だったとは知らないことが多い。
関東大震災後に東京近郊は下町からの移住で人口が増え始め、川口町と合併して川口市になる横曽根も人口が増える前に区画整理をする事になった。
横曽根の中心の北には「北」、南に「南」というおざなりな小字があり、西側は「新田」という小字があったので、「北」を「北町」、「南」を「南町」、真ん中を「仲町」とし、西側の新田は「仁志町」とした。
仲は中を、仁志は西をこじゃれた風にしたものだ。
だが西川口駅が出来て人口がどっと増えると、駅西側は全部西川口にしちゃえという事になって北町も仁志町も全部西川口になってしまった。
「仁志」とかせっかく付けたのに結局に「西」で上塗りされちゃっというケースである。
余談だが、南町は残ったのだが、ここは市境に近く、川口市南町から歩いて5分に蕨市南町があるので混乱の元だ。この命名法はよくない。
先の事を考えない鉄道会社に振り回されたケース。
東上線の中板橋駅の西側に711の弥生町店があるが、実はこの辺りは川越街道の上板橋宿跡である。
大正初めに東上鉄道(現東武東上線)が開通すると、始発駅の池袋の次は板橋下宿に近く貨物扱いで重要な下板橋駅が設置されたが、その次は4km先に設置する事になった。当時は蒸気機関車の単線運転だから交換用の駅で距離もその程度が適当だった。
だが駅の周りがマジで何もない。だから駅名に適当な地名も無い。
だが昭和初期に電化されて加速性能がいいので駅を沢山作る事になり、下板橋と上板橋の真ん中にも駅を作る事になった。だがこの近くの地名は、上板橋宿に因んで全域が上板橋になっていた。
でも下と上の中間の板橋だから中でしょと「中板橋」駅としてしまった。
すると上板橋が上板橋駅付近になくての隣の駅の周辺にある、しかもその駅名は中板橋というおかしなことになってしまった。
地名変更できるようになると上板橋は古い名前を捨てて「弥生」というこの地に特に縁のない名前にしてしまった。
元々池袋村は今の下板橋駅付近が村の中心で(現池袋本町)、池袋駅が設置された当初は池袋村の村の外れの村境ぎりぎりの場所だった。
今の西口付近はその名も「上」という小字の場所だった。その他にもこの周辺は「原」とか「下上」とか「西山」とかおざなりの超てきとうな小字ばかりであった。さすがは人もろくに住まず雑木林のままの村はずれだ。
だが鉄道がどんどん集まってきて人口も増えるとそんなてきとう地名は「池袋」で消されて無くなってしまった。
そもそも下上って何なのか?
葛飾区と足立区の区界を見ると綾瀬駅の付近で絡まったコードのようにやたらグネグネしている。これは古隅田川の流路で、中世では住田河と呼ばれていた。
荒川放水路が出来るまでは堀切駅の付近で今の隅田川に合流していたので、その上流までが荒川、その下が隅田川と呼ばれていた。
一方、江戸時代に水墨画が流行すると、「墨」という字とそれを「ボク」と読むのが粋でブランド的価値を持つようになった。
隅田川がカーブしながら先述の古墨田川と合流する場所の外側にあるのが隅田村で、洪水が頻発するので幕府は隅田堤という陸の堤防を築造、桜を植えた。桜を植えるのは花見客が大挙して訪れて踏み固められるからである。今も川べりに桜が植樹されるのはこの幕府の知恵に由来する。
するといい景色なので山水画や浮世絵が多く作られたが、何しろ「隅」より「墨/ボク」の方がカッコいいもんで、隅田堤じゃなくて「墨堤/ボクテイ」と題されたりした。
その他にも隅田村/隅田川関連のものが「墨田」と呼称されたので、隅田村→隅田町となっていたが住んでる人らは勝手に隅っこよりもイキな方がいいと「墨田町」と書くのが流行し、本所区と向嶋区が合併した際には墨田区となった。
隅田町が町名変更できるようになるとこれもやはり墨田となった。
中仙道の板橋宿は超巨大宿場町で、JR板橋駅から都営地下鉄板橋本町駅の2.5kmくらいもあり、北から上宿、中宿、下宿(下板橋宿/平尾宿)と分かれていた。
鉄道道路の時代になると宿場町の記憶は無くなって何が中なんだという事で、仲宿と改称された。
下谷はいかにも下に見られてるみたいなので、台地の東、と台頭を兼ねた造語を区名にした。
吉原遊郭とか上野周辺とか山野とか実際にスラムが幾つかあったのが余計にコンプレックスを刺激した。
十条と呼ばれる地区には北側に上十条村、南側に下十条村という二つの村があった。尚、この当時の上、下というのは京都に近い方が上である。江戸北側には中仙道があるので京都に近い方の北が上であって、東海道周辺なら西が上になる。
両村を縦貫する形で日光御成道(別名 岩槻街道)があり、下十条宿という幕府非公認の小さな宿場町があった。今の東十条駅から坂上がったあたりの塾や郵便局があるあたりである。
明治になりその十条の西の方に現赤羽線(埼京線。開通当時は日本鉄道品川線)の十条駅が出来た。
次に東北本線(京浜東北線)にも駅が出来る事になったが、当然、一番栄えている下十条宿に近い場所に設置された。また駅に来れる道もある。だから当然駅名も下十条駅だった。
ところが昭和に住居表示で町名が変えられるという事になると、下十条が「今は東京駅に近い方が上だからこっちが上十条だ」とか言い出す。
それで町名を押し出された元の上十条は、下はヤダってことで中十条となってしまう。何でだ。
こうして下十条が無くなったのに駅だけ下十条を名乗ってる状態になったので、十条の東だし、東十条に隣接してるってことで改称されて東十条駅になった。
そりゃ下扱いは誰でもイヤなもんだが、下剋上的というか身勝手というか。
ここを東急電鉄の後藤慶太のデベロッパが買い上げ高級住宅地「田園調布」の分譲を開始、鉄道も開通し、調布駅が設置され、直ぐに田園調布駅に改称される。
「田園」の文字の由来は、ロンドンに視察に行った後藤が田舎に住んで都会に鉄道で通勤するというゆとりがある生活スタイルに触れて感銘を受けたため。当時のロンドンは児童含む超絶ブラック搾取労働や、一晩で数百人が死ぬほどの超絶大気汚染、ゴミや糞便に混じって死体も流れるテームズ川の超絶河川汚染、多発するスリ強盗殺人林立する売春婦など、文字通りに死ぬほど環境が悪かったために富裕層にこのような生活スタイルが流行した。
昭和3年に人口が増えて町制施行されることになったが、調布町とすると京王線沿線の調布と被ってしまうので「東調布町」と呼称。
だがその僅か五年後には荏原郡自体が東京市に編入されて東調布町も消滅。短い命であった。
初めは東急(の子会社デベ)が開発した駅前の高級宅地だけが田園調布だったが、住居表記施行で町名変更が可能になると、元の田園調布の周りの○○沼とかの町も「沼とかヤダ田園調布にしたい」という事になって、全域が田園調布となった。
もうすぐ神楽坂ゆか生誕祭である。昭和のアイドルっぽさを感じさせる彼女は、もともとは「田村ゆかり」という名前でデビューしたと記憶している。
ところで、たまたま先日購入した1978年10月「ゴーサントオ」の時刻表復刻版がある。
https://jtbpublishing.co.jp/topics/CL000461好評の「時刻表復刻版」第6弾 特急時代の幕開け!「ごお・さん・とお」(1978年10月号)ダイヤ改正号 『時刻表復刻版 1978年10月号』 2022年5月23日(月)発売 | 株式会社JTBパブリッシング
https://www.amazon.co.jp/dp/4533149782/
この年は音楽番組「ザ・ベストテン」の放送開始の年でもあり、「レッツゴーヤング」「トップテン」「ヒットスタジオ」といった番組がゴールデンタイムを彩った時期でもある。キャンディーズが解散し、レコード大賞をピンクレディーが獲得し、山口百恵が活躍していた。
いま挙げたようなレジェンドともいうべき女性アイドルたちが全国ツアーを開催していたかどうかは定かではないが、もしもそんな昭和時代に我らが田村ゆかりの全国ツアーがあったなら、皆どういう感じで移動していたのだろうか…などと、時刻表を見ていてふと考えてしまったのが懐古鉄オタの性というもの。
そんなわけで「もしも昭和のトップアイドル・田村ゆかりが全国ツアーをやっていたら王国民はどうやって民族大移動したのだろうか?」というテーマこそ壮大ながら実際は老眼に抗って縮刷版の時刻表とにらめっこして連敗した駄文をそっと放流したいと思った所存。
今年もツアーはあったが、過去最大25公演を誇る2021年の*Airy-Fairy Twintail*の開催地からいくつか選んで当時の時刻表に沿った旅程を考えてみたい。
なお毎日運転ではない季節列車・臨時列車は極力排した。仕方ないね。
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当時はソニックシティはまだなく、大宮商工会館なる施設が同じ場所にあったらしい。1979年にはサザンオールスターズが公演しているらしいので、昭和のトップアイドルもひょっとしたらステージに立っていたかもしれない。
https://www.livefans.jp/venues/1204
この頃は上野東京ラインも湘南新宿ラインも、埼京線さえも存在しなかった。国電京浜東北線の103系か東北本線・高崎線の115系で到着した大宮駅の片隅には首都圏色の川越線気動車が、反対側には東武野田線の吊り掛け駆動車が見られたはずだ。
2
北陸新幹線のないこの時代、東京から金沢に向かうメインルートは信越本線だった。
上野発916の特急「白山1号」に乗れば、長野経由でおよそ7時間後の1611には金沢駅に着き、前の年に落成したばかりの本多の森ホールにどうにか開演時刻ギリギリに間に合う計算だ。少し余裕を持ちたいなら上野819発の特急「はくたか1号」で1504金沢着。こちらは長岡経由である。
翌朝、今度は金沢から松本に向かう。筆者はAFTでは北陸新幹線に長野まで乗り、そこから特急「しなの」に乗り換えて松本に向かったが、この時代は乗り換えなしの列車がある。それが金沢949発、おそらくキハ58の、時刻表ピンクのページによれば堂々10両編成の急行列車。後ろ3両が松本行き急行「白馬」、中ほど4両は秋田止まりで前寄り5両は青森までロングランする急行「しらゆき」だ。間違わずに後寄り3両に乗れば、途中の糸魚川で青森・秋田行き「しらゆき」から切り離され、進行方向を変えて大糸線に入って1435松本着だから公演には余裕を持って臨むことができる。編成分割をする糸魚川では正午を挟んで8分停車するから、えび釜めしなど駅弁を買う余裕もあっただろう。
ただ、逆にいうとそれしか手段はない。ましてキハ58はいわゆる「直角椅子」のクロスシートでリクライニングも方向転換もできない。7時間近くも乗っていたらそれだけで相当疲れてしまう。
さらに松本公演が終わった日曜の夜。筆者はAFTのときは最終「しなの」で長野に出て一泊し、翌朝の北陸新幹線で出勤した。しかしこの時代なら松本発2056の普通列車新宿行きがある。423に新宿駅に着くから一度帰宅してシャワーを浴びて着替えて出勤する余裕は十分にある。ただしこれもまた「直角椅子」どころかおそらくセミクロスの115系だったろうから、少しでも居住性を求めたければ2359発の急行「アルプス18号」のグリーン車に乗れば良い。新宿着は500だから余裕を持って出勤できるのは言うまでもない(出勤した後のことは例によって保証できない)。
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新幹線はすでに博多まで開通していたし、熊本空港には全日空の3発ジェット・トライスターか東亜国内航空のDC-9が就航していたが、鉄道好きとしては1645東京発1058熊本着の西鹿児島行き「はやぶさ」か、1700東京発1123熊本着の「みずほ」を推したい。食堂車で夕食・朝食の2食をいただくのんびりとした旅である。
ただ、昨今の「サンライズ」などとは違って当時の寝台特急にはシャワー室はなかった。「はやぶさ」「みずほ」には個室もなければ女性専用車もなかったから、今や全国民の1/4に迫らんとする女性王国民の遠征には不向きだったかもしれない。まして当時の長距離列車は喫煙可能が当たり前で各ボックスシートの窓際に灰皿が標準装備されていた。
しかしもう少し前の1970年頃に青春時代を過ごした我が母親によれば、当時のスキー列車はいつも満席で男女問わず通路やデッキに新聞紙を敷いて座り込んだというから、たくましい遠征女子も実は相当数いたかもしれない。
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東北・上越どちらも新幹線はこの時代は絶賛工事中。開通は4年後の1982年だ。しかし上越線には「とき」、東北本線には「ひばり」というエル特急が毎時1本ペースで運転されていたから往路はどうにでもなる。
新潟の帰路、私は最終新幹線に飛び乗れたが、この当時なら2300新潟発の急行「佐渡8号」で506上野着か、横になりたければ2312の秋田から来る急行「天の川」で555上野着。新津まで普通列車で出ておいて040発の急行「鳥海」で642上野着でもいい。
仙台からは公演後だと2320発の急行「新星」がおすすめだ。仙台駅には早々と入線しており2130から発車前の寝台を利用できるのが嬉しい。上野到着は536だから一度帰って身支度を整える余裕もありそうだ。このほか、仙台2257→上野519の青森発常磐線経由の急行「十和田2号」や、座席車なら仙台2336→上野542の急行「いわて4号」も便利であろう。なお急行「十和田」はこのあとも4号・6号が仙台に停車するし、特急「ゆうづる」2号・4号も利用できる。
そうして考えてみると、まだまだ高速道路網が未熟だったこの頃、寝ている間に移動できる安価な手段は鉄道しかなかったのだということを改めて感じさせられる。1970年代でも長距離バスは運行されていたが、都内と新潟が高速道路でつながったのは1985年、仙台は87年。歴史でいえば線路の方がはるかに長い。
なおこの当時、上野→仙台が特急「ひばり」で4時間以上かかっていたので、羽田空港から仙台空港への航空便も全日空により1日4往復運航されていた。
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ならばその先はどうか? 札幌公演に行くにはこの当時でも飛行機が当たり前の選択になってきていた。筆者は81年の夏に北海道の親戚を訪ねる旅に出たが、祖父母に連れられて上野駅から青函連絡船を経て親戚の住む苫小牧まで20時間ぐらいかかったように記憶している。まだ青函トンネルは開通していなかった。
それでは札幌公演に陸路・海路で挑むとすればどうなったであろうか?余裕を持って開演に間に合わせるならこのルートである。
2140上野[特急ゆうづる5号]705青森or2221上野[特急はくつる]711青森
1140函館[特急おおぞら5号釧路行き]1550札幌or1145函館[特急おおとり網走行き]1558札幌
急行自由席に乗れる周遊券を利用するなら上野1908→青森617の「八甲田」や函館1150→札幌1630の稚内行き「宗谷」も良い選択肢であろう。
やはり北海道は遠い。時間に余裕のない向きは素直に飛行機を利用すべきであろうが、千歳空港と国鉄の駅が接続されるのは2年後の1980年のこと。この時刻表の時点では札幌駅前からバスに乗るのが普通の手段であった。
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そして福島公演はエクストリーム出勤の宝庫であった。終演後の福島駅発上野行きを見てみると、
2350 急行「あづま4号」437
043 急行「新星」536(寝台あり)
056 急行「いわて4号」542
このほかにも夏休みシーズンだけに季節列車・臨時列車も運転されていたと思われるので、かなりの席数が利用可能であったと推察される。
座席車の特急はいわゆる「直角椅子」であるが、寝台車連結の急行列車では短時間でも横になって移動できる利点がある。これは現代の夜行高速バスでも(実際に運行されてはいるが)まだまだ一般的ではない。バスは鉄道車両よりも小さくて何両も連ねて運転されるわけもないから、寝台は不可能ではなくても困難が多いのであろう。
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国鉄監修時刻表を見る限りでは、東名阪のバスは国鉄ハイウェイバスしか掲載されていない。関西公演からの帰り道は2240大阪駅→815東京駅の「ドリーム2号」か2200京都駅→643東京駅の「ドリーム4号」しか見当たらない。
鉄道ならば京都2237の特急「出雲2号」、同015発の「出雲4号」なら700には、大阪2358の特急「瀬戸」や同005の特急「あさかぜ2号」でも730には東京駅に着けるから、エクストリーム出勤勢の強い味方になり得たと思われる。なんなら関西勢と感想を語り合いつつ酌み交わす余裕は十分にある。しかもこれらは当然寝台車であるから、予約さえ取れれば会場内外で充実至福のひと時を過ごしたのちに千鳥足でベッドに潜り込んで目覚めれば東京駅も間近に迫り、どうかすればまだ夢見心地のまま出勤せざるを得ないベストコンディションを通り越した邪悪な何かを感じずにはいられない有様である。
なぜ新幹線ではなく在来線を推すのかと問われれば、その当時の東京行き最終「ひかり116号」は新大阪2034発であるから、フェスティバルホール(当時は改築前)から終演後直ちに最寄りの四つ橋線肥後橋駅に走ったとしてもけっこうタイトな時刻設定であることが第一に挙げられる。梅田の地下に慣れない関東勢が四つ橋線西梅田を出て乗り換えに手間取ると、最終の新幹線は慈悲もなく出発してしまう…それは正直恐ろしい。
筆者は鉄道好きで鈍行やら夜行やら多少は乗ってきた経験とノスタルジーがあるので満更でもない旅行だなとほくそ笑みつつこの文章を書きつけてはいるが、冷静に考えてみれば当時は今よりずっと不便で居住環境は悪かったように思う。なりふり構わぬ男性、特に体力に自信のある若者にはなんということはない行程だったと思うが、女性にはあまり優しくない環境だったし、筆者も若い頃は大きな鞄を抱えて夜行連泊するような旅をしてきたけれど今この歳になってふたたび体験するのは懐古趣味を差し引いてもためらいが多めに残る。
とはいえ不便で時間のかかる旅を楽しみたい向きが今もなお大勢いるのは承知している。そんな黒鉄の人々に机上タイムトラベルを提供できたら幸いかなと。ただそれだけ。
本文に田村ゆかりは出てこずに時刻表を読み解くだけだったが、10月に横浜で公演があるのでよければバスや飛行機よりも鉄道を乗り継いで参加して紀行文と公演感想文を読ませてくだされば筆者はDouble Fascinationになれる。
それはともかくできる限り多くの客席を埋めて盛況の公演としたいので、関心のある方は下記から申し込みいただければ幸甚に存じます。
北関東民独特の感覚だと思うのだけど、栃木群馬茨城県民は互いに自分が上だと思ってる。
自分もその例に漏れず、栃木県こそ北関東のテッペンだと思っていた。
茨城県には親近感はあった。
あらゆる面で似てる。
他県からのイメージは栃木が餃子、茨城は干し芋くらいのもんだろう。
栃木県民だからって餃子が好きなわけでもなく、茨城県民だからって干し芋ばかり食べてるわけでもないが、他県からみたらそう思われてるのが現実だろう。、
製造業も、茨城は海、栃木県は東北道と東北本線東北新幹線と地理的には恵まれているのに、互いにパッとしない。
正直、HITACHIには嫉妬してるが、HITACHIは本社は東京だし、HITACHIをカウントしなければ栃木県の勝ちだ。それに、今は県民所得としても栃木県が上なのだ。
たぶん勝因は、茨城県民の自滅だと思う。茨城県民は怒りっぽく協調性がない。互いに足を引っ張りあってたから、平成の大合併まで村ばっかりだった。天狗党の乱から成長してない。
港を擁するからには、天下人を何人も輩出し東海地方を見習って欲しい。東海地方からトヨタホンダが生まれたのは偶然ではあるまい。
さて、前置きが長くなった。
故郷を離れて上京するまでは、群馬県のことなんてほとんど意識しなかった。
空気のような県であった。
海無し県の栃木県に生まれると、海水浴のために茨城に行くことはあるのだが(栃木の海浜自然の家は茨城にある。租借地みたいなものだ)、群馬とはとんと縁がない。
草津伊香保くらいは聞いたことがあるが、温泉など栃木県内で間に合ってる。
焼きまんじゅうとかいう具なしの小麦菓子があるとか、蒟蒻や葱を好むという情報は流れてくるが、別段憧れもしなかった。
群馬が総理大臣を多く輩出したことは知っていたが、その中に特に思い入れがある人物もいなかったので、コンプレックスを感じることもなかった。初めて群馬の地に足を踏み入れたとき、道の広さに政治家の力を感じたがその程度であった。
埼玉県民は蕎麦も食べない。蕎麦より小麦だ。未開人群馬県民みたいな食生活だった。
栃木県民は海無し県だというのに魚介類を好んで食べるというのに。
そしてロードサイドのヤマダ電機、栃木県の誇りコジマはすっかり埼玉から駆逐されてしまった。
カインズホームが群馬企業のベイシア系列と知った時は衝撃だった。
ベイシア系列のベイシア、カインズホーム、オートアールズ、前述のヤマダ電機、築地銀だこ、悔しいが強い。
自分が中学生の時、宇都宮線の名称の由来について次のような逸話を先生から聞かされた。
東北本線の愛称を決めるため、沿線自治体である栃木県、埼玉県、東京都の3知事が集まった。侃々諤々の議論の末、栃木県知事がこう言った。
長じてインターネットが登場しGoogleで検索して見るも、この逸話を語っている人は誰もいない。Wikipediaの宇都宮線の記事によると、実際に当時の栃木県知事が上野駅 - 黒磯駅間の名称を「宇都宮線」とすることをJR東日本に提案したようだが、この逸話は出てこない。おそらく「掴み」として、先生がでっち上げた作り話だったのだろうが、誰かこの作り話を知っている人は他にいないだろうか(栃木県内でも非常に狭い範囲で流通していた作り話という気がするが)。
今回の総裁選では菅さんの勝利がほぼほぼ確定しているけど、皆菅さんが総理大臣になることの大きな意味をまだわかっていない。
雄勝郡とは秋田県の南側、奥羽山脈のふもとに広がっている農村地帯であり、まあ一言で言えば陸の孤島である。
鉄道ファンにとっては、山形新幹線の新庄と秋田新幹線の大曲の間に取り残された在来線区間沿い、と言えば分かりやすいだろうか。
日本の近現代史を調べてみると、秋田県という場所は常に貧乏クジを引かされ続けてきた経緯がある。
戊辰戦争時には新政府に寝返ったにもかかわらず、明治時代以降は太平洋側の宮城・岩手と比べて冷遇され続けた。
国道4号線や東北自動車道、JR東北本線、東北新幹線は全部、福島・宮城・岩手の太平洋側を通っていて、秋田と山形は「裏東北」として無視され続けてきた。
いつの間にか秋田県は自殺者数日本ワースト、高齢化率日本ワースト、ネットでも秋田人の陰湿さは常に批判され続けている。
同じ東北地方なのに、仙台駅前の大都会の風景と比べると、秋田駅前はシャッター商店街になっているんだよね。
このように衰退一直線の秋田県だけど、ここにきてまさかの秋田県出身者の総理大臣誕生である。
東北地方出身者の総理大臣は今まで2名いたけど、どちらも岩手県出身者だった。
原敬は平民宰相と呼ばれ、鈴木善幸は東北地方のインフラ整備に尽力したが、菅さんはどんな実績を残すのだろうか。
岸田さんでは選挙の顔になれないし、石破さんはチー牛顔で総理に向いてないし、敵失の面もあるが菅さんにとっては7年間頑張って来たおかげで「東北地方の日本海側」初の首相になれることを喜びたい。
東京の中でもなぜ北側はコロナウイルスの感染者が少ないのか話題になってたが、行ってみたらそれはあたりまえのことだとわかる。わりと店が多い田端新町の大通りを夜に歩くと、週末でも人がほとんどいない。隅田川を挟んで足立区との境にある尾久(おく)まで行くと、さらに静かで薄気味が悪いくらいだ。
西尾久にいる女の所へ通っていた頃、なんでわざわざここに住んでるんだと聞いたことがある。
突き放したようなものの言い方をする女だった。こちらから迫っていくと拒むことはなかったが、いつもどこか醒めている感じがした。身体を繋いだ後にも余韻というものがなくて、すぐにテレビをつけたり、ベッドを降りて煙草を吸ったりした。そのわりには定期的に連絡をしてきてこちらの予定を尋ねるのは向こうの方からだった。
そういうこともあるんだろう、と思って漫然と関係を続けるくらいには自分は打算的だったし、未熟でもあったわけだ。
私たちはよく歩いた。夜、西日暮里で降りて東北本線沿いに尾久まで歩くこともあった。石垣のような高架沿いにぽつぽつと話をしながら進むと、幾重にも重なった線路と電車しか見えない、ひらけた場所に出る。
歩き続けて、身体がランナーズハイみたいな軽さを感じはじめた頃に彼女の部屋に着く。部屋に入ると電気をつけ、テレビをつけ、どちらからともなく先にシャワーを浴びてから寝た。
ずっとこういう生活をルーチンワークのように繰り返していて飽きないのかと思って、もう少しデートらしい外出を持ちかけてみたこともある。浅草の三社祭を見たことがないというから、今度行ってみようかときいてみた。
「そういうのはいいよ」
「どうして」
何がいけないのか。こうやって、部屋でビールを飲んでることだって、あとで思い出したらそれは思い出じゃないのか、と私は詰めてしまった。自分は一緒に思い出を作るに値しない人間だと暗に言われているような気もして、少しカチンときたからだ。
彼女は黙ってから、「思い出なんて、贅沢だよ」と小声でいった。
「ごめん、今日は帰ってくれる」
部屋を追い出されて尾久の駅まで歩く間、通り過ぎる店はことごとくシャッターを下ろしていた。酒屋の前には白い猫が座っていて、すれ違いざまに首をかく音が聞こえた。
それから間もなく、柏のデイケアセンターに介護の仕事を見つけたとかで、女は千葉に引越していった。互いの近況を知らせる連絡も、どちらからともなく途絶えた。尾久に行くこともなくなってしまったけど、夜の静けさと暗さ、しらじらと蛍光灯が灯っていた彼女の部屋をいまだに思い出すことがある。
新型コロナウイルスとの戦闘は長期化する。J&Jが来年初頭にも十億人分のワクチンを供給してみせると大見得を切っているがこれはブコメによれば怪しい要素もあるらしい。すなわち神風が吹いても今年中の収束は怪しい。俺は近々感染爆発が確定してロックダウンが来たら戦時みたいで楽しいと思っているが、ともあれ移動の自粛は、三カ月先にせよ三十年先にせよ今この瞬間は全面禁止してもいずれは制御された解禁に切り替わらねばならず、いずれかの時点で通勤電車の感染対策が議論されることは間違いないだろう。
この新型コロナウイルスは微細飛沫を喉に受けたり、汚染面に触れた指をなめたりすることで伝染し、概ね「生活圏に感染者が訪れ、知らず知らず接触し、あるいは飲食中に発声で撃ち出された飛沫を吸い込み、感染する」という形で広まっていると推測される。そこで今は感染者と接触者を追跡し、人と人との接触を断ち、飲食を禁じるという方法で抑制が図られている。しかし、人と人との接触を完全に禁じる、飲食を伴う交遊を禁じることは、永久には続けられない。
上の鍵括弧内を精読してほしい。こうは考えられないだろうか。つまり、生活圏が小さければ被害は小さい。異なる生活圏同士で感染者が移動しなければ拡大しない。接触は、意図的に行う知人間に限ればいい。飲食は、まあ別の論者に譲ろう。つまり、いくら東京都が巨大都市だと言えど、ちょうど秋葉原で無線機を買うオタク、エロゲを買うオタク、エロ本を買うオタク、コスプレ用品を買うオタク、パソコンを買うオタク、女たちの元締めに貢ぐオタクたちがそれぞれ互いに接触しないように、サイエンス・フィクション作品《都市と都市》における都市のように、互いに密接しあう複数の《生活圏》が感染可能な形で実質的に接触する機会を減少させ、感染拡大の被害を局限化することは、可能ではないだろうか。
そこで、《号車固定》という発想を提案したい。なんのことはない、特に首都圏の鉄道定期券利用者に対し、通勤電車の列番、号車を指示するのだ。1号車から11号車までの番号を利用者に対してランダムに指定する。例えば、まずは駅で「号車固定を受けていないお客様はご乗車になれません」というアナウンスを流し、改札口に箱を置くなどして、定期券に貼るステッカーを支給する。路線ごとに配るほか、できれば色で奇数列車や偶数列車、朝何時などと分離を図る。ステッカーは、最低一週間程度、毎日支給する。チャージする際には剥がす必要もあるので一時的なものになろう。もし固定を破るものが続出して問題となれば、ステッカーではなく大規模に費用をかけて乗降時にカードリーダーに通させるとか、バッジや六芒星の書かれた青い腕輪や鞄に貼る大きなステッカーに変えるとか方法はあろう。定期券は制度導入から最短1日、最大6カ月で失効する。導入から3カ月から6カ月もあれば、システム改修によって、鉄道会社のアプリなりカードの印字内容の変更なり、最悪の場合は追加の指定番号書き込み機を用意するなどして、番号を券面に表示することは可能だろう。実際の乗車時には、固定が守られているかを厳密に検査する必要はない。「号車固定をお守りください」となおざりにアナウンスでも流せばよい。非定期利用者は、特定号車に移してもよいし任意車両に乗せてもよい。今の今まで濃厚接触していた友人知人の集まりが規則正しく各車両に散ったりすれば、むしろ大惨事である。だが、階段最寄りなど特定車両に乗客が集中すれば、規律が乱れているとして、乗車率が一定程度に下がるまで、全員を下ろすなどする。目的は乗客の《生活圏》のコンパートメント化であって乗客間の感染防止ではないから、満員になること、それそのものを抑制はしない。
乗る号車や席や列車が決まっている人も、世間には多いだろう。しかし、日によって状況によってその日の気温次第で違う車両に乗る人も同じくらい多いのではないだろうか。この《固定》制度によって個々の乗客の《生活圏》を強制的に切り離し、「感染者が山手線の朝八時台の列車に乗れば、最大何万人が感染する可能性がある」状況から「京急本線504号車5、立会川から品川、途中セブンイレブンでおにぎり購入、乗り換えて東北本線0635G号車8の品川から大手町と乗車すれば、最大456名に感染させる可能性がある」などと被害を局限化することは可能ではないだろうか?
ラーメンを食い始める瞬間に思い付いたので忘れないうちに書いておく。9a1a a36b
この話題について。
ネットに広まる「魔女っ子は放送禁止用語」説 調査して分かった「放送で扱いにくい理由」と「一般人が納得できない理由」 - ねとらぼ
先に結論から言えば「放送禁止用語」という言葉は放送局では使われていない。「使用を注意する言葉」というものがあるだけだ。言葉の言い換えかよ、というツッコミが入りそうだが、そういうことではないのだ。以下は、そのお話である。
まずはこれだ。最近はそれほどの差もなくなってきたが、それでもニュースでは絶対に使ってはいけない言葉、というのがある。例えばおおよその量を示す「約」。別に規制する理由もなく普通に使われている言葉だが、これを「やく」と読むニュースは稀だ。おおよその量を示す言葉のあとには必ず数字が来るが、どんなにいい滑舌でこれを読んでも「ひゃく」と聞き間違う人が出てくるから、必ず「およそ」と読むことになっているのだ。だから、訓練されたアナウンサーは完成された原稿でなく普通の文章を読むときもふりがななしで「約」が出てくると「およそ」と読んでしまう。ミステリーなんかの伏線に使えると思うので使いたい人は使って欲しい。
「ら抜き言葉」には気がついている人もいるかもしれない。別に放送禁止用語でもなんでもない言葉なので、街頭インタビューを受けた人でもそれを修正するよう言われた人はいないと思うが、文字起こしでは必ずら抜き言葉ではない表記に修正される。これはバラエティでもそう。お笑い芸人は言葉を使うプロではあるが言葉遣いのプロではないので、ら抜き言葉は時々登場するが、テロップ上では大体の場合ら抜き言葉ではない表記になっているはずだ。逆に訓練されたアナウンサーはら抜き言葉はまず使わない。
NHKが「テトラポッド」や「真っ赤なポルシェ」の出てくる歌詞を規制した、なんて話が過去に言われたことはあるし、NHKは商売抜きでの放送を強いられているのでそういうところに敏感だ、なんて話も聞くことがあるが、この辺実はNHKと民放で差が縮まっている部分ではある。民放は民放でスポンサー競合などを嫌うため、特定の商品紹介でない場面では番組内で商標を使うのを控える傾向にあるのだ。セロテープはそのいい例だろう。ちなみにガムテープも「粘着テープ」という言い換えがまま見られるが、実はその意味でのガムテープは今は商標登録されていない。明治がお菓子の名称として3年前に登録したきりなのだ。明治の「ガムテープ」ってお菓子を見たことはないがそういうアップデートが遅れているところはままあるものではある。余談ではあるが、最近テレビで「無化調」という言葉が特にラーメン紹介で使われているかは調べると面白いかもしれない。
マスコミ、特にテレビは少なくともニュースでは「東北本線」「国道4号線」とは言わない。「東北線」「国道4号」という。これは現場間の用語統一のために決められていることでまあ説得のために屁理屈は付いているのだが屁理屈以上のなにものでもないので記載は省略する。そもそも「東北本線」は他ならぬJRが使っている言葉なのだがマスコミはそれを何らかの事情で使わないことがある。またニュースではないが、商品紹介の際の形容詞まで決められていることもあったりするものもあり、例えばあるビールでは「すっきりしているのにうまみも十分」という表現しか出てこない((この表現で検索するとある1つのブランドしか出てこなくなる))。まあこの辺はまともな事情から大人の事情まで様々ありすぎて一言では言えない。近々近場では「岩手公園」が「盛岡城跡公園」に名称変更されたのだが、これがまた正式名称の変更ではなく愛称として別の名前をつける、という複雑な命名の仕方をされたためNHKと少なくとも地元民放1局は改名前のまま「岩手公園」として呼ぶという複雑なことになっている。ちなみに残念ながらかどうかはわからないが、本名能年玲奈さんはこの辺でも度々テレビに出ているのだが、その時は「のん」呼びされてはいる。仮に何かの犯罪で逮捕されたら「『のん』こと能年玲奈容疑者」呼びになるんだろうなと思うが未だ犯罪では逮捕されていないので蛇足でしかない。
ここまで挙げた例はおそらく一般の人が思い浮かべる「放送禁止用語」とは違っていると思う。だから「使用を注意する言葉」は「放送禁止用語」とは別物であると言ったのだが、「使用を注意する言葉」とみんなの思い浮かべる「放送禁止用語」が重なる部分は存在する。それが「蔑称」である。被差別階級や身体障害などに関わる話だけなら判断は簡単そうだが、何らかの職業の後に「屋」をつけて呼ぶような、後から蔑視の意味で使われるようになった言葉まで考えるとどこからどこまでが明らかな「放送禁止用語」かは言えず、だからこそ「放送禁止用語」ではなく「使用を注意する言葉」なのである、とも言える。
実際「魔女」が蔑称なのかと言われると確かにそういう場面もありそうだが日本ではまだそういう場面は少なそうでもあり、昨今は例えば百姓、みたいに自称の場合は問題ないんじゃないかとか、「めくら」みたいに過去許されても今許される表現ではないんじゃないかとか、有料視聴の場所なら但し書き付きでいけるんじゃないか、いや但し書きつけられるならどこでもいけるんじゃないかといろんな異説が生まれつつリアルタイムで揺れ動いている話題であり、個々の言葉ごとに注意度にもグラデーションがあり、少なくともこれらはなんの留保もない「禁止用語集」みたいなところでまとめられるものじゃない、ということは繰り返し言っておきたい。
郡山は雨だ。
文字通り真っ暗な車窓に、水滴が張り付いている。
少しでも遅れると困る。このまま大宮まで在来線を乗り継いでいかなければならない。
グーグルからの通知で、宇都宮から遅れているとの情報を受け取る。
日付が変わる頃には家に着いていたい。
土曜の7時過ぎ、平日なら都内の方面へ向かう大宮駅の在来線ホームにいるはずだが、この日は打って変わり、新幹線ホームにいた。
金曜の夜のうちに、鳴子温泉の宿を取っていた。
昨晩熟睡できたおかげか、頭はすっきりしている。
少なくとも午前中には宿に着いてしまう、余裕を持ちすぎた旅程だった。
出発の5分前に新幹線は入線した。構内のブックエクスプレスで買った本を読みながら発車を待つ。
雪が降っていた。
西口のペデストリアンデッキの隅々には黒く汚れた雪がそこかしこに避けてあった。
本来なら、鳴子温泉にまっすぐ向かうのであれば、古川行きの特急券を用意するのが一般的だが、気分の変わりやすい私は、なんとなく先のことを見越して仙台行きでやめておいた。
別に、仙台から東北本線、陸羽東線を乗り継いで行っても問題ない。
また、結果的にその通りになったのだが、仙山線に乗り迂回しながら鳴子温泉にも行ける。
コートのポケットの中には行き先指定の乗車券ではなく、乗り降り自由の周遊券が収まっている。
これでふらふらと時間の許す限りどこまででも行ける。
雪を見たら必ずどこかに行きたくなる。
仙台に降った雪にそそのかされ、仙山線で山寺を目指すことにした。
山形県境を超えると、雪が濃くなった。
車窓には白色が占める割合が高くなり、車輪が雪を踏みしめる音が聞こえる。
私は学生の身分から社会人になったが、仙山線のこの風景は何も変わってはいない。
立石寺までの道のりや、参道の茶屋の雰囲気、何もかもそのままだ。
昔のことを考えていたらなぜか気恥ずかしくなり、1時間半滞在した後、すぐに山形方面を目指した。
あの頃は、貧乏学生で新幹線なんて使えず、全て鈍行での旅程だった。
駅前では旅館のおかみさんがボートを手に掲げ、待っていてくれた。
一晩お世話になる宿は、とても素晴らしいものだった。
なによりも、お湯が最高であった。
鳴子の湯は、湧き出る箇所によってその特色が全く異なる。
今回の宿は、これでもかというほど白く濁りきり、硫黄の匂いで脱衣所どころか、宿全体が溢れていた。
2階建てですべてが和室。こたつにストーブ。更には湧き出る源泉の温度を利用したヒーターが備えてあった。
夕食後は湯に浸かり、酒を飲んで、気付くと朝を迎え、あっという間にチェックアウトをしていた。
かつての震災。実家が青森の私は、知っておくべきことではないかという観念があった。
整然としている。真っ先に思い浮かんだ感想。
列車の中で見た女川までの車窓は、やはり想像していたとおりだった。
復興の力とはすごいものだ。震災直後の町の有り様は、詳細には私にはわからないが、一つだけ言えるのは、さっきまで見ていた車窓とは全く異なっていた、ということだ。
これこそが活気だと感じた。
だか、確実にここには人が住んでいる。そういう気分にさせた。
私はその後、今日何度目かの温泉に浸かり、土産を買い、ただの観光客という身分でそこにいた。
観光客でいられるということは、よく考えてみれば、それはもう立派な町だ。
間違いなく東北は立ち直ってきている。一部分の一瞬を切り取っただけを見た私が言うのは甚だ軽薄で軽率であるが、そう思わずにはいられなかった。
一年前、仙台から鈍行で東北本線を上ったことがやけに懐かしくなり、私は300km超の道のりをゆったりと列車に揺られている。
残りの時間は少し眠ろうと思う。仙台で少し買いすぎてしまった酒がもう底を尽きた。
なんとまあ奔放で堕落した2日間だっただろう。
金足農高が「東北初の甲子園優勝校となるか」みたいなテレビや新聞の報道を見ていると、それだけで苦笑いしたくなる。
戦争中期、現在の秋田県内の久保田藩は奥羽越列藩同盟を離脱して、いち早く新政府軍に参加したことを忘れたわけではないだろう。
秋田の同盟離脱で戦争決着の帰趨が決まったとも言い切れないにしても、この一件は現在でも東北全体で禍根を残している。
未だに仙台や福島においては、秋田県民を裏切り者呼ばわりする人がいるのだ。
詳しく知りたい人は、ウィキの「秋田戦争」のページを読んでみてね。
戦後、官軍側についた秋田県は新政府から様々な面で優遇された。
南部藩にあった小坂鉱山のある小坂地区は秋田県に編入されたし、現在の県立高校に相当する旧制中学も、東北では秋田で最初に設立された。
秋田には秋田美人が多く、仙台はブスばかりという迷信も、秋田優遇の思想から生まれている。
今でこそ東北新幹線やJR東北本線、国道4号線、東北自動車道の通っている仙台や福島が東北の中枢になり、秋田県は裏日本扱いになっているが、明治初期は秋田が一番東北で進んでいた時期もあったのだ。
まあそのような歴史的経緯があるので、今回の件は素直に受け入れることは出来ない。
栃木県の彼女に会いに行くために時刻表の線路図にペンを引いている先で、
この映画を当時、映画館で観たときには絶対に気づかなかっただろうことに気づく。
東大宮駅がない!
北大宮駅という三十年上の先輩がいたために"東"にさせられたかわいそうな駅だが、
それでも一昨年50周年を迎えている。
(地名が見沼市、もとい見沼区東大宮に変わったのは駅開業後である)
大宮駅で通勤快速に乗り換えたために何度通過したかわからないが、
名簿に乗る無数の誰かは、皆、今もどこかで生きている。
一触即発の地雷マスタを大量のドキュメントと誓約書と一緒に触らされて、心苦しさばかり覚えるこの日頃。
郷土史好きの文系として、SF考証に( ´_ゝ`)な顔をしていた自分が監督の脇の甘さをこういう形で知らされるとは思わなかった。
19時台の東北本線下り、盛岡行のボックス席に俺は乗っていた。
車窓は一面雪の風景だ。車内に人は少ない。俺しかいないんじゃないか。
東北美人というが、本当にきれいな顔立ちの女の子たちだった。わるくない。
グループは楽しげに談笑していた。声が通る。なんでも聞こえる。おおらかな連中だ。
駅に停車するたび彼らの仲間は何人かずつ下車していく。
グループの残りは二人だけになった。二人が俺の斜め向こうのボックス席に残った。
二人の会話が聞こえてくる。大半は先輩女子が話している。
俺の場所からは先輩女子だけが見える。美しい。すっぴんであれなのか。
あんな美人でやさしい先輩がいたら俺の高校生活も楽しかっただろうなとうらやんだ。
あの先輩って後輩の指導がうまいよね、誰さんはグリッサンドがうまいよね、などと
会話の内容が聞こえてくる。微笑ましい。
きっと先輩女子は後輩男子が好きなんだろうな、俺にはそう思えた。
そんな会話が、気が付くと聞こえなくなっていた。
「あれ、彼ら、もう下車したかな?」
そう思って斜め向こうのボックス席に俺が目をやると、先輩女子の顔に後輩男子の頭が
重なっていた。
「おっと・・・」
曇った車窓を俺は手で拭く。まばらな明かりが見える。
車外はきっと寒いと思うが、車内の暖房はしっかりかかっており暖かい。
そのまま次の停車駅まで二人の会話はなかった。
会話はないが、見つめ合ってはにかんでいるようなやりとりは聞こえてきた。
停車駅だ。後輩男子が立ち上がり「降ります。また、明日」と、言葉少なに降りていった。