はてなキーワード: 夜行とは
用事を済ませて、上野で帰りの北斗星にのるまで上野あたりの飲み屋で時間をつぶすことにした。
なんという店か思い出せない。日本酒がメイン店だった。検索してみたら「夜行列車」という店がカウンターだけで日本酒が主体のようだが、場所が違っている。いまでもあるんだろうかあの店は。
まあそういうワケで各地の銘酒を楽しみながら、他のお客さんとの会話を楽しんでいた。20代のくせに生意気な。
で、となりに立っていた50代ぐらいのおっさんと酒談義で盛り上がって、出張かい?東京は楽しめたかい?などと訊かれて、夜行で朝入りの今日帰りっす、などと言ったところ、それは残念、せっかくだから上野の不忍の池でもみていきなさいといってわざわざタクシーを呼んでくれて案内をしてくれた。
いまならノンケだってかまわないで食ってしまう男にホイホイついていくことやさらにはもっと刑法犯であることを疑うだろうが、なにせ田舎の20代だ、なんとも親切なオジだと一緒にタクシーにのって北斗星の時間まで上野を案内してもらった。
幸運なことにホモでも強盗でもないいたって善良なおじさんで、こんどきたらまた飲もうよと連絡先をくれた。
僕が大学4年生のとき、2歳年下の彼女ができた。もう5、6年くらい経つので記憶が定かではないが、大学生を卒業する5ヶ月くらい前から付き合ったと思う。
彼女とは同じサークルに所属しており、日常的にもよく話をする仲だった。とてもいい子で悪い意味は全くない、本当に素直でまっすぐな子だった。旅行で色々なところに一緒にいった。富山と大分と岩手は特に楽しかった。
彼女の地元は県外であり、大学進級に合わせて近県である僕の地元の県へ引っ越してきていた。
僕は地元の大学を卒業して、地元に就職したので彼女が大学を卒業するまで週末はよく会っていた。僕は実家暮らしで、一人暮らしの彼女のアパートに金曜日の夜行って日曜日の夕方帰る、そんな生活を2年ほどしていた。
僕たちの環境が大きく変わったのは彼女が大学を卒業してからのことだ。
付き合っている間、彼女の進路について別にケンカとかはしなかった。彼女がやりたいことをするには、僕の地元から離れるしかなかったし、彼女を僕の地元に引き留める理由を当時の僕は持ち合わせていなかった。
いや、本当は持ち合わせていたのかもしれない。ふたりの将来(結婚とか)を考えれば彼女が僕の地元で就職するか、僕が一緒に東京に行くしかなかった。もしくは、彼女が東京で就職して何年か経ったら僕の地元に帰ってきて結婚するとか、逆に僕が数年したら地元から離れて東京で結婚するとか。
でもそんな将来のことを僕は考えていなかった。
というか目を背けていた。
今は置いといて追々考えよう〜〜〜
そんな気持ちでいたのだと思う。
そしてそんな自分の気持ちを彼女と共有したりもしなかった。彼女はどんな思いでいたのだろうか。
僕の地元から東京までは車で片道2時間くらいの距離なので、決して会えない距離ではなかった。しかし、コロナの影響やお互いの多忙もあり、ほとんど会えなかった。LINEでやり取りはしていたが、『おはよう』と『おやすみ』くらい、たまに『今日〇〇した』くらいの1日に10件にも満たないやり取り。
そして付き合って3年目。その日、僕は東京で彼女と会っていた。地元からの高速バスを使って東京に行った。
日中は彼女の部屋でごろごろし、夜は彼女が予約してくれたお店でご飯を食べた。予定ではそのまま彼女の家で一泊して、次の日に帰る予定だった。
ご飯を食べ終わった帰り、最寄り駅から彼女のアパートへ向かって歩いていると別れ話になった。
その日は一日中、彼女の様子がおかしかった。会話をしても続かない、よそよそしい態度、彼女の中では僕は彼氏ではなくなったのだろう。
どんな言葉でフラれたのかは覚えていないが、『少し距離をとりたい』的なことを言われた気がする。
僕は内心、『そうだよな』と思った。将来のことの相談もしない、会えない上にLINEも続かない、そりゃ早めに別れて自分の人生のために次の人を探すよな、そう思った。
彼女の部屋に着いた時には、もう彼氏と彼女ではなくなっていた。僕は元彼女の部屋にいくつか荷物(服とか)を置いていたので、近々車でとりにくる、と話をまとめ部屋を後にした。
元彼女は『今日は泊まっていいよ』と言ってくれたが、『こういうのはキッパリとしないと』とか何とか訳の分からない言い訳を並べて僕は駅に向かった。少しでも虚勢を張りたかった。
駅で新宿行きの電車を待っていた。時間は22時過ぎだったと思う。
僕は決心した。
その後、電車に乗り新宿の3つくらい手前の駅で降りた。駅のすぐ近くにビジネスホテルがあったのでそこに泊まることにした。
デリヘルだった。
デリヘルってこんな時間までやってるんだ、と思った。日付の変わる30分くらい前だった。
受付のお兄さんに、自分は風俗が初めてなので、リードしてくれる子でお願いしますと電話で伝えた。
部屋に相手の子が来てくれたとき、『若いね〜何歳?』と聞かれた。
僕は時計を見て『ちょうど今、25歳になりました』と答えた。
彼女と一緒に僕の誕生日を祝う予定だったのに、気がついたら東京の知らないビジネスホテルでデリヘルを呼んでいた。そのデリヘルの子も25歳だと言った。本当かどうかは知らない。
次の日、来た時と同様に高速バスで地元に帰った。バスタ新宿で待っている時、竹内結子が自殺したニュースが流れた。僕は芸能人で一番好きだった人が亡くなったことを知った。
マッチングアプリ、不細工は出会えないだの低収入はマッチすらしないだの、ちょっと手を出してすぐ諦めただけな奴の寝言ばっかり。
俺たちみたいなのが女入れ食い状態になるとでも思ってたのか?話しかければまともに相手してもらえて当然だと?マッチングアプリという魔界で自分が人間扱いしてもらえるとでも???
あのな。マッチングアプリで日夜行われているのは「会話」じゃねーんだ。
「性欲と承認欲求の交換」これだ。
なに「会話」しようとしてんだ。おめーらは。バカか。人間にでもなったつもりか?
相手のプロフィールから「こんな人間だと思われたい」という欲望を嗅ぎ取って、そんな理想の相手を映す「鏡」になりきるんだよ。
大体、本気でマッチしようと思ってるなら当然一度は性別を女にして登録してみたよな?
性別を「女」にしただけでロクにプロフィールなんか編集しなくても男からのいいねがバカみたいに飛び込んでくるだろ?
プロフィールは参考にするために読むんじゃない。それらの中でどう差別化するか考えるんだよ。
300人分もプロフィール読んでたらうんざりするだろ?そう!うんざりしてるんだよ。そのうんざりにどう一服の清涼剤になるようなコントラストを付けるか考えるんだよ。
マッチした相手が一言目に送ってくるチャットの文言メモしたか?
大体みんなしょうもないんだよ。内容なんてない。マッチしたまま話しかけてこない奴も多い。
だから臆せずメッセージを送りまくろう!と思ったか?だからダメなんだよ。
有象無象から送られてきたメッセージなんてお情けで何回か返事してくれるかもしれないが、よっぽど面白いやり取りじゃなければ長続きしない。
じゃあどうするかって?待つんだよ。
たまに、たまーーーーーーーーーーに女からメッセージが来る。プロフィールの文章の面白さ次第だけどな。月に一人そういう女が捕まればいい方だ。
そいつを逃すな!!!向こうから話しかけてきたくせに何の話題もないなんて当たり前だ。イライラすんなよ。
多少つまらなくても向こうから話しかけてくれた場合はかなりの確率で会話が続くはずだ。
俺はこのやり方でまだひとりも出会えてない。
助けてくれ。
来客がキッチンシンクを皿用スポンジで洗いやがった、清潔観念がおかしいもう絶縁だとか、旦那がそれやりやがった、もう離婚考えているとか、シンクをスポンジで洗う事で発生するトラブルは多い。
これは畢竟、ケガレの観念の問題だ。シンクは下(シモ)の範疇になっているのである。
実は日本人のこのシンク=シモの感覚というのは20~30年前に定着したもので結構新しい。それまではシンクは上(カミ)の範疇であり、1990~2000年頃はこれらが混じり合った状態だった。また、調理の現場ではまだシンク=カミだ。
ところで古い国鉄時代の特急などでレバーやボタンを放すと即座に水が止まってしまって手が洗えない洗面台に困惑した事はないだろうか?
シンクというのは元の意は「溜め」だ。水を溜めて使うのがシンク。これとは別に「流し」もあった。これは小学校のプール付属の長いのが判り易いね。
故にキッチンシンクも水を溜めて使う、流しとして使うの二つを兼ねる事が前提になっていた。これは洗面台も同じ。
だからキッチンシンクにも洗面台も水を溜める為の栓が必ず付属していた。
また、1990年代前半までのシステムキッチンのCMでは、シンクに水を張ってそこに野菜をまるごと投入して洗うというシーンがよく登場した。それは清涼感の演出のためであり、つまりはシンクはカミだったのだ。
洗面台ではゴム栓だけではなく、もっと機能的なレバーやノブ式の排水栓が一般化していた。洗面水栓の近くにあるノブなどを引っ張ると水がたまるのだ。
今では洗面台ボウルは手を洗った水受けや歯磨きうがいした後の水の吐き出し受けになってるから洗浄後でも水を張ってそこに顔を付けるという行為はしたくない人が多いだろう。つまりはシモである。
このシンクやボウルに水を張って使うというのは80年代後半~90年代に廃れ、キッチンでもシンクにボウルを入れてそこで洗うというのが一般的になった。
この為に2000年代前半から各調度品メーカーは水溜めの栓とか排水蓋を付属しなくなる。洗面台のレバー式排水栓も廃止された。
こうなると利用者の方のケガレ観念も完全にアップデートされてシンク、ボウルはシモのケガレあるものとなり「皿用スポンジでシンク洗いしやがった、信んじらんねぇ!」となるようになったのである。
一方、プロの調理場の方ではシンクは水溜めのままだ。シンクに水溜めて食材洗うし食器のすすぎもする。カミのままなのだ。
だから皿用スポンジでシンクを洗った人は調理場で働いている可能性もある。汚いという意識が発生しない(排水口の網などは別だ。ここは単純に不衛生だ)。
増田も「気まぐれクック」で金子がシンクに魚置いているのを見て「不潔だな」と思う口だったが、実際に自分でも魚捌きをやるようになると、シンクの中でやらないといけない作業が結構ある。
すると食材をシンクに置くなんてとんでもない!というケガレ意識はなくなった。
特急で多客期や臨時列車などで国鉄時代の電車が来ることがある。
トイレが和式なのも困るが、後に手を洗おうとするとすると、出水レバーやボタンから手を離した途端に水が止まってしまうので両手をすり合わせての手洗いが出来ない。一定時間で止まる装置が壊れちゃったのか?
しかもお湯と水の二つのボタン、レバーがあるが、お湯の方を押すと火傷する熱さで手洗い出来ない。なんだこれ!どうやって使うんだ!?
こういう体験した事ないだろうか?
また、昭和中期の古いホテルや旅館に泊まると、同じように水栓が湯水二つあり、こっちは普通の蛇口で出しっ放しには出来るものの、お湯の方はやはり熱くて使えない。
しかもメインのボウルの他に小さなボウルがある。これは一体どうやって使うんだ…。
これも説明しよう。
例を用意した。
これは戦後すぐに製造or改装された旧型客車の手洗いで、ボタンを押している時だけ湯水が出る、洗面ボウルの右にワンタッチ排水栓がある、メインのボウルの左手前に小さいボウルがあるというこの問題の全入り品だ。
https://twitter.com/ma_mere_loye/status/1642412578201800704/photo/1
小さいボウルがある。水栓は湯/水二つ式だったのを潰して後付け水道管に変更されている。
なんでこうなっているかというと、今の人は手も顔も水を出しっ放しにして手を洗い、流水を掌に受けて顔を洗うだろう。
だが昭和中期までの日本人は流水でそんな事をしなかったのである。ほぼ必ず洗面器のボウルに水を溜め、それを掌で掬い、顔を洗ったのだ。だからお湯と水を洗面台で混ぜて適温にしていた。
昔は冷房も無く窓を開けていたので蒸気機関車の煤煙で顔が汚れた。長時間の乗車も多い。夜行列車も多かった。だから洗面は必須だった。
そしたら歯磨きしたりうがいした吐き出しはどうすればいい?
それが手前の小さいボウルなのだ。ここは吐き出し専用で、痰が残ったりしたら手で水を掬って水で流すのだ。
つまりは洗面台=手を洗うところ、夜行なら歯磨きや洗顔の排水受け、または化粧直しの場という風になったのは昭和後期であり、それまでは洗面台はその名の通りに水を張って顔を洗う場所だったのだ。
因みに洗面器という名もその通りで、水を溜められない流しなどでは洗面器に水を張って手で掬って顔を洗う為の物であった。その洗い方では石鹸で水が汚れるが、そしたら水を交換して2回くらいで洗顔する。
ただ、この洗顔法は昭和後期には誰もやってなかった筈であり、感覚的にも大勢が痰や唾を吐いたり手洗いの排水受けた洗面ボウルに水張って顔洗えるかという感覚だった筈だ。国鉄は融通が利かずに規格化されたこのタイプの洗面台を発注していたが当時から手洗いしにくい不便なものという評価だったと思われる。
だからJRになると今のと同じ、自動水栓や時間水栓に交換されたりした。
そういう訳でシンクや洗面台に対する日本人の清潔感情、ケガレの意識がアップデートされ、それによって水を溜めるという構造の調度品が作られなくなり、それでまた更に清潔感情がアップデートされ、となって来た。
故にシンクを皿用スポンジで洗うと非常識に驚き、古い構造の洗面台は使い方すら判らない、という事になるに至ったのである。
だが調理場ではシンクは未だ水溜めて使うカミのものであるから、そういう従事者が他業種の人と交差するとトラブルになる。
またハードな料理をすると家庭でもどうしてもシンクで食材扱うようになるから感覚は変わる。
彼は長男として色々な期待と重圧を受けながらも、両親からとても愛されて育ってきたのだろう。
従兄弟だった彼は、幼かった頃は隣県に住んでいた事もあり、盆や正月には叔父と共によく遊びに来たものだし、私達も両親と一緒に遊びに行ったものだった。
ところが私が中学に上がった頃、叔父の転勤と共に簡単に往復できる距離ではなくなったことから、“もっとも、当時の我が家の状況を鑑みると、理由はそれだけではないようだが”彼との音信は完全に途絶えてしまい、無事就職が決まって今は勤務先の新潟に居るらしい、という事を叔父から伝え聞いていただけだった。
彼の訃報を受け、私は両親と共に叔父の元へ赴くことになったのだが、私達が斎場へ到着した時にはまだ親族関係者の誰の姿もなかった。
斎場の職員に案内された通夜会場には故人の亡骸が納められた棺だけがあり、叔父の到着を待たずに棺の窓を開けて故人と対面した。
驚いたことに、十数年振りに見る故人は少なくとも私の記憶にある幼い丸顔の彼ではなく、彫りが深くてひげの濃い、独身だった頃の私の兄と瓜二つの容貌だった。
甥の顔を久しぶりに見た両親も、死に化粧の所為かもしれないが、と前置きしつつ、本当に寝ている兄のような顔だと。
気がつくと叔父は私達の後ろに立っていた。
正確に言えば会釈するまで、“少なくとも私は”叔父だということに気づかなかった。そのくらいにやつれてしまっていたのだ。
故人の仕事を後押しして遠方に送り出した叔父は、何度も何度もうわ言のように後悔の言葉を口にするばかりで、先に到着していた私の兄と叔母の弟に辛うじて支えられているような状態だった。
その日の夜行われた通夜には、身内だけだと言いながらも、叔父夫婦の関係者のみならず、沢山の故人の同級生や友人達が訪れ、予想していなかったのであろうか、叔父は引きつった表情ながらも、その日一度だけ笑顔を見せた。
通夜が終わった夜遅くに私達は叔父夫婦に家へ招かれ、二人は故人の思い出話、そして故人の最後と、再び自分の後悔の言葉を口にした後で、長男に先立たれた現実を、まるで自分達に言い聞かせるように話してくれた。
実は私の両親は、今日まで叔父の家を一度も見たことがなかった。
叔父には、一度だけでも兄夫婦に自らが努力の末に築いたささやかな城を見て欲しい、そういう思いがあったのかもしれない。
実は数年前、私は一度だけ妹を連れ、叔父の家に遊びに行ったことがある。その時故人はおらず、叔父夫婦が私達の相手をしてくれた。
当時の記憶は薄れ掛けていたが、部屋を案内されて少しずつ思い出してきた。
しかし、リビングやキッチンに荷物が散乱した様は几帳面な筈の叔母のそれではなく、二人の心境をそのまま表しているのが見て取れた。
その後、叔父は一人葬場へ戻り、冷たくなった息子と一緒の最後の夜を過ごした。
翌日の告別式の席上、叔父は喪主挨拶の途中で言葉を詰まらせ号泣したが、振り絞るような声で最後まで読み上げ、叔父、叔母、叔母弟の家族一同で深々と弔問客へ頭を下げた。
皆で献花台の花を分けて棺に詰めて故人を飾ったのだが、沢山の花と思い出の品で個人の顔以外が埋め尽くされた棺の蓋を、叔父夫婦は中々閉じることができなかった。
火葬前にもう一度お顔を見られますから、と葬儀屋に促されてようやく蓋を閉じ、友人と親族で棺を黒い霊柩車まで運んだ。私も棺を持った一人なのだが、両手で抱えた棺は青年となった故人が納棺されているとは思えない程に軽かった。
故人と喪主は黒い霊柩車に、その他はマイクロバス揺られ、住宅街を抜けた郊外にある広い霊場に到着した。
途方も無く広くて、幼い子供たちが芝生の広場で遊んでいる、公園と見紛うような穏やかで緑豊かな風景が.だからこそ余計に、冷たい打ち放しコンクリートの壁で覆われた霊場の中で、故人の棺を囲む我々との落差を大きく感じさせる。
最後に皆で別れを告げ、叔父夫婦もしばらく名残惜しそうに棺の蓋の窓を開けて顔を見つめていたが、叔父が意を決したように閉じ、そのまま故人は荼毘に付された。
火葬が終わった後に行われる骨上げは、当然ながら丁重に死者を敬って厳かに執り行われる儀式であるが、この霊場における骨上げは、霊場の職員がステンレス製の台に乗せられた遺骨の部位一つ一つを細かく説明しながら骨壷に納めていく、という正直なところ厳かとは少々距離を、いや、ある意味では場違いなエンタメ性すらも感じさせるもので、さながらテレビで見る検死のワンシーンか、解剖実習のようにも見えた。
詰め込み始めて間も無く、若かった所為もあって立派な故人の遺骨は骨壷に納まりきらないだろうことが、誰の目にも明らかに映った。
目の前で全てを納めるように親族一同懇願したのだが、霊場の職員は、納めるには遺骨を砕くしかないですが、と説明し、少々躊躇った後で、遺骨を擂り粉木のような棒を使ってバリバリ音を立てて潰しながら骨壷に詰め込み始めた。
“恐らくこれは霊場ではよくある光景に違いない”とはいえ、私でさえギョっとしたそれは、叔父夫婦にはたまらなく暴力的に映ったのだろう、叔母は声にならない悲鳴を上げて顔を真っ青にし、叔父はたまらず席を外してしばらく骨上げの場に戻れなくなってしまった。
しかしながら、骨になって無残に打ち砕かれた息子に背を向けて震える叔父にも、今にも卒倒してしまいそうな叔母にも、声を掛けられる者は、私を含めて誰も居なかった。
ただ骨を潰す不気味な音だけが響き、霊場の職員は黙々と骨壷に遺骨を詰め込み、皆無言のままそれを見つめる他無かった。
来場した時と同じバスに揺られながら、来た道を骨壷を抱えて斎場まで戻るとすぐに、父は叔父夫婦に手短に別れの挨拶を告げ、足早にその場を後にした。
時間が迫る訳でも無い筈。いくらなんでも実の弟になんと冷やかな…そう私は思いながらも叔父達に頭を下げ、父の背中を追って車に乗り込んだ。
すると父は、私の気持ちを察したように車内で私と母に、こう諭した。
冷たいかもしれないが私達が居ても何の慰めにもならない。他の親族の足止めになるだけだ、と。
実は、集まった親族の顔ぶれは叔母関係者が中心を占め、叔父側で駆けつけたのは私達と兄だけという、どちらかというと叔母側の意向が強く見て取れる葬儀と、叔父夫婦の現在の関係性は薄っすらと私にも理解できていたが、父はこの場においてもその事について一切触れなかった。
そして悲嘆に暮れる弟に対する同情の言葉を口にし、人のために涙する父の姿を生まれて初めて見た。
故人の命日は何の因果か誕生日の前日、24年と364日の本当に短い人生だったが、彼にとっては辛くて長い戦いの日々だったのかも知れない。
実家に戻ると家を空けていた間に、少々痴呆気味で放って置けない祖父の面倒を見ていてくれていた妹が迎えてくれた。
両親に促されて、“もっとも、父も母も叔父と会話できるような心境になく、私にこの役目を押し付けただけなのかもしれないが”無事帰宅したことを叔父に電話で告げると、本当に良かった、と喜んでくれたが、これから色々と大変でしょうが…と言ったきり私は言葉が続かなかった。
私の様子を察したのか叔父は、今日はありがとう、それじゃあ、とだけ言い、電話は切れた。後日私の兄から聞いた話では、電話の後すぐに叔父は眠ってしまったらしい。
叔父が長男との淡い思い出を夢に見ながら目を閉じたのか、それともこれから差迫るであろう、暗い現実を想像しながら横になったのかは、私にも分からない。
今年、新幹線が止まったり止まらなかったりするやや辺境の地に進学した大学生です。
進学の際に引っ越したが、TOEICの住所登録が前の住所のままだったため、現住所から新幹線に乗っていく距離の場所が試験会場に指定されてしまいました。
幸い日帰りできる程度の距離で、午後試験だったためそのまま受けることにしました。
オンライン試験で前回とほぼ横ばいの点数だったのでショックを受け、試験を受けた足で大学の英語学習補助システムの予約をとり、TOEIC公式問題集を借りて勉強を始めました。テスト1を時間測って一周しました。
旅行のせいで流行りの感染症をもらい、頭が働かなくなったので勉強してません
早く着きすぎたので、ポケモンセンターでぬいぐるみを買おうと思って行ってみたら信じられないくらい混んでおり、整理券を配っていた。店員さんに夜行くと伝えたところ、その時に整理券がまだあるか電話してから来てと言われた。
お昼ご飯は冒険したくなかったので適当な蕎麦屋でとり天そばを頼んだ。
とり天が想像の数倍大きくて多かったので飽きたが、塩などの用意が無く、ついてきた大根おろしをかけたらおいしくいなかったのでいやな気持ちになった。
開場一時間前に会場に向かったが建物に入れなかったので近所のゲーセンで時間をつぶすことにした。座って金フレサイズの本を読んでいる人間がたくさんいた。1曲100円のぼったくりカラオケボックスがあったのでそれで時間をつぶしたり、品詞問題の復習をしたりした。
TOEIC待機っぽい人たちが動き始めたので便乗して移動を始めた。
開場についてからは表のマークシートを埋めたり、周囲の人の卓上を観察したりして時間をつぶした。
試験前のテスト放送のあたりから卓から離れられなくなるので、そのタイミングでラムネを口に含んでおいた。
最後の二問以外はできた
全然聞き取れなかった。
1問30秒を予定。意味問題は勘でやり、品詞系の問題はちゃんとやると決めていたので迷わずできた。終わった時点でちょっと時間には余裕があったはず。
1文章2分を予定。Part5と方針は同じで、文章の穴埋めは最初に思った場所で決め打ってさっさと次の問題に行くと決めていたので、迷わずにできた。時間は遅れはしなかったはず。
文章に含まれる問題1つにつき1分を予定。文章毎に時間を確認して進めたので、時間通りに進んだ。常に1問頭の中に入れた状態で文章を読むことで、読み返しや思い出す手間を省くやり方を初めて試した。これがうまくはまり時間と進歩を照らし合わせて加速したり読み飛ばしたりの判断ができた。終盤、口の中のラムネがなくなったが、なぜか摂れる水分で糖分を補給した。
時計の針を1分進めていたので、1分ほど残して全問終われた。
全問解くためにとにかく次の問題に進むことを意識して受験した。
全問解けたので満点の可能性があり、とてもうれしい気分になったので、住所の登録を現住所に変えておいた。
うれしさのあまり、ポケモンセンターの整理券が終わっていたことも、駅のフードコートに混んでる店と高い店しかなかったことも、新幹線が遅延したせいで混んでいたことも、すべて許せる気持ちになれた。
好きな漫画を挙げるので、適当に傾向を読み取っておすすめをしてほしい。
SFアクション、ホラー・サスペンス(又はそのパロディ)、ハーレム系ラブコメ(?)など色んな要素を持ったマンガ。
主人公に感情移入できる時もあれば、主人公を殺そうとする側に感情移入できる時もあるのがよい。
「第1話で、腹ペコ主人公が、食事をくれたコミュニティを守るため、能力を発揮して化物退治」とか、主人公が世界を救うと叫ぶとか、少女たちの問題を解決しつつ仲良くなっていくとか、どれもありがちなシーンやセリフなのだけど、それが異常な文脈に置かれているのがよい。
こんな大風呂敷畳めるのかと疑問だったけど、一応畳めていてスゴい。
逃がし屋の衣装(コスプレ)とか物語上の必然性は全くないんだけど、作者が楽しそうでよい。
ワールドトリガーやバタフライストレージもそうなんだけど、刀と銃が共存するSFアクションはよい。
戦国時代日本っぽいけど、鬼や竜がいたりするし、カタカナ語も普通に出てくる。
どのキャラも人間的に強いところも弱いところがもあり、善玉・悪玉にはっきり分かれているのでもなく、感情移入できたりできなかったりするのが良い。
日本史オマージュが多そうだけど、自分は詳しくないので拾いきれないのが残念。
遠隔焼香とか「つけもの」とか背広の裏地(?)がディスプレイになってるとか小ネタもよいし、魔女Tsueee要素もよい。
脇役のスピンオフが軒並みよい。
呪術周りの設定がよい。
続編も面白かった。
自分の好みからすると、少し主人公が善人すぎるのだけど、周りに性格に難のあるキャラもたくさんいるので、よい。
「墨を飲む者」初登場回がすごく好き。
「偽物と本物」とか「嘘と真実」みたいなのは、わりと好きなテーマ。
群像劇っぽいのも好き。
ーーー
最果てのソルテ
天国大魔境
胎界主
水は海に向かって流れる
ぼくらのよあけ
二月の勝者
彼方のアストラ
双亡邸壊すべし
ヴィンランドサガ
寿司 虚空編
タテの国
PHYREN
そのへんのアクタ
バーナード嬢いわく
死刑囚042
怪獣8号
違国日記
あかね噺
劇光仮面
堕天作戦
お茶にごす
ストラヴァガンツァ
1000円ヒーロー
シオリエクスペリエンス
懲役339年
PPPPPP
猫瞽女
キヌ六
フールナイト
ヴァンパイア十字界
並愛混の独り言 (?)
税金で買った本
虎鶫
任侠転生
裏バイト
不死身のパイセン
三丁目防衛軍
みちかとまり
パーム ☆
月に吠えらんねぇ
あやつき
殺し屋やめたい!
フールナイト ☆
クニトリ
変幻退魔夜行 カルラ舞う!
華と修羅
ピンサロスナイパー
RIDEX
セキガハラ
真夏の夜のユキオンナ
生と死のキョウカイ
令和のダラさん
せんせいのお人形
絢爛たるグランドセーヌ
星使いセレナ
Not Simple
螺旋じかけの海
シュトヘル ☆
八百森のエリー
魔女と野獣
アルテ ☆
友達として大好き
ヘルク
潮が舞い子が舞い
一変世界
果ての星通信 ☆
八百森のエリー
ブスに花束を
WOMBS ☆
ランドリオール
魔導の系譜
残機×99
白馬のお嫁様
モーメント
みあげた玉三郎
エクソシストを堕とせない
神さまがまちガえる
迷宮クソたわけ
転生貴族、鑑定スキルで成り上がる~弱小領地を受け継いだので、優秀な人材を増やしていたら、最強領地になってた~
往生際の意味を知れ!
モリミテ
鯨庭
はなしっぱなし
つれないほど青くて あざといくらいに赤い
夜行高速バス、大阪発の夜行便で客を置き去りにした、さくら観光バス(ミルキーウェイエクスプレス)の対応が批判されている。
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/spv/2209/06/news113_0.html
この中で、さくら観光バス(ミルキーウェイエクスプレス)は「ある程度適切な対応だった」などと行っているそうだ。
しかし、高速バスの利用者として、こんな対応が高速バスの標準対応だと思われてしまったらムカつくので、今までの経験を話す。
俺は相当な回数高速バスを使っている。
正確な数は数えたことが無いが「貴方はパンを食べた回数を覚えているか?」と言う例えが適切なくらい、
その中で、出発した後、機材交換や運行停止に出会ったのは数回あった。
ただし「後は勝手に行け」とばかりに置き去りにされたこととなど一度も無かったと、まずは言っておく。
まだ乗車扱いをやっているような場所だと、自社の予備機材が送り込まれてきて、それに乗り換えた。
バス会社の地元では無い方面で事故に出会ったときは、同じ路線を共同運行している別のバス会社のバスが代替として来たこともあった。
と言う説明だった。
このパターンの亜種で、出発前に、本来はA社の運航便のはずが、別のB社のバスで出発することになったパターンもある。
このとき、乗車はB社のエリアから、A社は目的地のバス会社だった。
そして、そのまま途中の(正規の)休憩サービスエリアまで運行したら、そこにA社のバスが迎えに来ていて、乗り換えたと言う事も何回かある
俺が乗車するバスは乗車人数の多い便が多かったためなかったが、仮に客の乗ってない便だと、変わりのバスは手配されず、この次の便への振り替えで済んでた可能性もある。
このパターンは1回だけ。
一回も乗ったことの無い別の会社のバスが来て、それに乗り換えて最後まで運行された。
バスの中にはシャンデリアがついていて、補助席もあると言う観光バス仕様の機材だった。
聞いたところ、何かの運行協定みたいなのがあって、機材トラブルがあった時にはお互いに助け合うと言う仕組みになっているのだそうだ。
これはもう降車が始まっていて、到着現地に近かったからだと思うが、タクシーが手配されて、タクシーに乗り換えたことがある。
大型のキャラバンのタクシーが2台来て、バスターミナルに行く人と、途中でおりる人と分乗して送ってもらった。
こういった対応を知っていると、今回のさくら観光バスの対応は余りにもずさんだと思う。
事情が違うとすれば
と言うことだろうか。だから、バス会社は、自分たちが地域と外を繋ぐ一級の交通手段であるという自覚とプライドを持って運行しているのだと思う。
現実問題置き去りにしたら、他に交通手段がないので(あるとすればタクシーぐらい)最後まで面倒を見るほかに無いという事もあるかもしれない。
ともかく、今回の対応が高速バスのスタンダードだと思われると、ただでさえ苦しいはずの高速バス業界がさらに苦しくなると思われる。
私さ薄々気付いていたけど、
手帳は一切書かないけど
手帳が好きなのよねきっと。
手帳って言う枠が好きなのよ。
だからこの季節毎年この時期になると手帳欲しくなる欲がヒシヒシと沸いてきて
結局買っても毎年書かないのは、
だから私思ったの。
手帳は買って干渉してそのままで置いておくものだ!って思ったら
そう思うと手帳買ってもいいかもって言うハードルがうんと低くなるのよね。
この体裁良いな!
このページのレイアウトいいな!
この罫線の間隔いいな!
この紙質いいな!
とか
そういうのを味わうものだと思ったら、
書かなくても買っても良いと思わない?
例えば、
高級万年筆とか
私はそう言う類いのものは持っていないんだけど
ああ言うのって、
実際にそれで書くってより持って眺めて楽しむ要素もありありだとおもうのよ。
なしなしかしら?
実用的に使うよりも
いい仕事してますね!って中島誠之助さんばりに言いたいわけなのよ。
だから
私の手帳欲しくなる、
なんか腑に落ちた感じ。
と言いながら
見開き1週間のバーチカルスケジュール帳は使ってたりするので、
これは完全にお仕事用よ。
あと最近予定忘れないように、
それと手帳がどう考えても同期できないところがやっぱり画面を見ながら手帳に転記していく作業が手帳の良さでもあり悪さでもありそこの良し悪しってあるじゃない、
あれを楽しめるかどうか面倒くさいと感じるかどうかだと思うし、
そんな感じだから
私の本棚の本には書いてないまるまる1年白紙の手帳が並んでいるし、
それを見返したところで、
その年のトピックス出来ごとが分かるわけでもなく、
ただただ、
なんかそう言う手帳で思い出したけど
来年はパスポート期限切れるから更新しておかないといけないのを覚えておかないといけないわ。
よくさ
日本は落とし物をしてもちゃんと交番に届けてあってサンシャイン池崎さんが電車の中にサンシャインブレイドをすっかり忘れてしまったけど無事手もとに戻ってくる神話あるじゃない、
アーノルドシュワルツェネッガーさんがホテルのフロントを馬で走っていた映画のホテルでパスポート落っことして死ぬかと思って終了してロビーにラストアクションヒーローばりに泣きついたら
届いてますよ!って言ってくれて、
世の中捨てたものじゃない閉店間際に飛び込み前転で入店してのから揚げ半額セールより奇跡が起こって、
無事私の手もとにパスポートが戻ってきたのには
アメリカでのそう言う日本的な神話って古い話の歴史の古典での言い方ってなんて言うのかしら?
インディアン嘘つかない話しの
神がかっていたわ。
いい人はどこにでも大体8割はいるのよ。
まんが日本昔話のご飯が超大盛りのようにあの絵に描いたまんが日本昔話盛りを体現するのよ。
芸の無いから揚げ丼って言ってご飯の上にどーんとから揚げだけが搭載されているものよりかはよっぽどましだし
まあどちらにしても奇跡だわ。
頼むんだったら親子丼の方が手間がかかっている感じがするしね。
何が言いたかった勝って言うと、
スプラトゥーン3のコンビニスイーツを食べておいてもいいかなって
焼き鮭丼って世の中に無いことがもはや不思議を発見したインスパイヤザネクスト日立で
あきたけじょうって微かに似ていない?って思う
空高く馬肥ゆる秋だなぁーって実感するのよね。
まだまだ暑いけど。
とにかく手帳買っても良いという呪縛から解かれているかのように腑に落ちた感じが得られたことだけは秋の収穫祭よ。
うふふ。
研究中のお粥研究で昨日作った玉子お粥を今朝食べてきて調子がいい感じよ。
簡単美味しいヘルシーな気がして
いいかもしれないわ。
買い物平日行けてないと思ったけど
いつも思い出したら
って思っているんだけど、
朝になったらすっかり忘れてしまっているのよね。
まあいいわ。
思い出したらピンクグレープフルーツよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
○盗撮マーシー → のぞき本舗中村屋 → のぞき本舗真中村屋
○偉大なる盗撮師 透兵衛(su-XX) → PEEPFOX(盗撮狐)
透兵衛の「ここは天国極楽漫遊記Vol.81(su2919)」の中身はなにわの「ニューバージョン女銭湯ギャル編8」
○1919お風呂のプニョ (シリーズで纏められた作品名が付けられている)
主になにわ解散後の紀州作品の未流出含む素材の再編集品?とでも言うのか、PHで言うところのgensen辺りの素材と思われる
○坐盗市 → 怪盗ジョーカー → 盗流悶(=Premier Peep Selection) (dns-XX)(sdh-XX)
裏にアクアが関わっていたこともあり本格的なオリジナル盗撮集団
坐盗市は例の芋づる逮捕の影響で関係者が逮捕→閉鎖はされたが、現在までにその後サイト名を変えては何度も立ち上がる
咲乱美女温泉・夜行露天盗撮漁火に輝く女体などの露天望遠はアクア提供、マルッと追い撮り!女撮師 スーパー銭湯など優秀な撮り師を育てる
○peeping-holes 閉鎖→不明(マスターテープは今どこ、それとも処分しちゃったのだろうか)
メインはなにわ作品の再編集作品だが、ほか買い取ったのか転売かなにわ以外の作品も再編集されて売られていた
またホールズのオリジナル作品にハイビがある、supa系のはなにわというより紀州辺りからの編集版?
厳選、極選、旧SC、HSC、supa系、けしからん、ぎりon-na辺りが良く語られ、他にシリーズ化された作品は他にも多数あるが影は相当薄い
すっかりお祭り気分に浸っちゃいました。
最近なんか夜食欲が有るのか無いのかよく分からない状況で食べるヨーグルトが美味しくて美味しくてたまらないんだけど、
あのさ小さい容器の4つぐらいセットになっているタイプのものでは無くて、
500ミリグラムとかの大容量的なああいうヨーグルトを最近夜盛んに食べているのよ。
だいたいスイカかヨーグルトかってのが最近のパターン化した私の夜の常食で、
試しに買ってみて食べたら、
それはそれで美味しいこちらの方もなかなかヨーグルト感あってって
もちろんそれはヨーグルトだからヨーグルト感あるってのは当たり前の話しなんだけど、
あれを代々育てていたんだけど、
それ以降作らなくなってしまって無限にヨーグルトが食べられて良いなと思ったんだけど、
もとのなんていうの?菌って言うのか
ブルガリアヨーグルトに欠かせない
ブルガリアヨーグルトがもれなくできる仕組みを私は手放してしまったのよね。
それ以来積極的にヨーグルトを食べる機会を失っていて三千里彷徨ったところで
1周してまたヨーグルトが食べたくなったってことなのかしらね?
最悪買ってきて代用できるけど、
こないだ麺か何かを茹でて食べようとしたときに、
もはや万事休す!って
茹で上がったときに気付いたのよね。
めんつゆを代用できるめんつゆ的なものの家庭でキッチンにあるかな?って思ったけど、
青しそドレッシングは試したけどなんか違うし、
私たちは調味料の中でも特に醤油を信じすぎているのと同じように
それはやはり麺つゆの代わりには使えなかったのよね。
素の麺をすするという涙ぐましい麺食だったんだけど、
今思ったらよ、
今思ったらパスタのレトルト青の洞窟的なものをかけて食べたらそれはそれで
青の洞窟として名高いなんか美味しいパスタ的に食べられるのかなって
今これ書いているこの今の瞬間に思ったわ。
そっか!
もう万事休すはゴメンよ。
今後そういう事があってもレトルトのパスタのソースで強くなれるので試してみれたらなって思うわ。
だけど、
もう当たらし麺つゆをチャージしてインして冷蔵庫にストックしていて冷えたら10秒チャージでお猪口にいれて麺を喰らう準備は出来ているから
そんな機会は当分先なのかも知れないわね。
納豆のさ
あの美味しいタレは最悪、
さすがのあの美味さ爆発の麺つゆの再現性は麺つゆをもってしても難しいわよね。
あれ白だしあるんだけど、
そう言うのを駆使しまくって
麺つゆに限りなく近い麦茶ではない本当の麺つゆに間違いないようなあの味って出せるのかしら?って思ったわ。
まあ麺つゆ切らさないことがそれが一番って
麺つゆ切らさないように今後気を付けるわ。
うふふ。
鮭好きなのよね。
今はなき内田裕也さんがケータリングのお弁当のリクエストで鮭な!ベイビーって言うぐらい好きだわ。
鮭もピンキリなので
美味しい鮭弁の鮭にあたったらその日1日ハッピーよね!
鮭おにぎりの鮭はほぐし鮭だけどね。
朝少しお寝坊した代償だわ。
夜は早く寝るに限る、
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
もうすぐ神楽坂ゆか生誕祭である。昭和のアイドルっぽさを感じさせる彼女は、もともとは「田村ゆかり」という名前でデビューしたと記憶している。
ところで、たまたま先日購入した1978年10月「ゴーサントオ」の時刻表復刻版がある。
https://jtbpublishing.co.jp/topics/CL000461好評の「時刻表復刻版」第6弾 特急時代の幕開け!「ごお・さん・とお」(1978年10月号)ダイヤ改正号 『時刻表復刻版 1978年10月号』 2022年5月23日(月)発売 | 株式会社JTBパブリッシング
https://www.amazon.co.jp/dp/4533149782/
この年は音楽番組「ザ・ベストテン」の放送開始の年でもあり、「レッツゴーヤング」「トップテン」「ヒットスタジオ」といった番組がゴールデンタイムを彩った時期でもある。キャンディーズが解散し、レコード大賞をピンクレディーが獲得し、山口百恵が活躍していた。
いま挙げたようなレジェンドともいうべき女性アイドルたちが全国ツアーを開催していたかどうかは定かではないが、もしもそんな昭和時代に我らが田村ゆかりの全国ツアーがあったなら、皆どういう感じで移動していたのだろうか…などと、時刻表を見ていてふと考えてしまったのが懐古鉄オタの性というもの。
そんなわけで「もしも昭和のトップアイドル・田村ゆかりが全国ツアーをやっていたら王国民はどうやって民族大移動したのだろうか?」というテーマこそ壮大ながら実際は老眼に抗って縮刷版の時刻表とにらめっこして連敗した駄文をそっと放流したいと思った所存。
今年もツアーはあったが、過去最大25公演を誇る2021年の*Airy-Fairy Twintail*の開催地からいくつか選んで当時の時刻表に沿った旅程を考えてみたい。
なお毎日運転ではない季節列車・臨時列車は極力排した。仕方ないね。
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当時はソニックシティはまだなく、大宮商工会館なる施設が同じ場所にあったらしい。1979年にはサザンオールスターズが公演しているらしいので、昭和のトップアイドルもひょっとしたらステージに立っていたかもしれない。
https://www.livefans.jp/venues/1204
この頃は上野東京ラインも湘南新宿ラインも、埼京線さえも存在しなかった。国電京浜東北線の103系か東北本線・高崎線の115系で到着した大宮駅の片隅には首都圏色の川越線気動車が、反対側には東武野田線の吊り掛け駆動車が見られたはずだ。
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北陸新幹線のないこの時代、東京から金沢に向かうメインルートは信越本線だった。
上野発916の特急「白山1号」に乗れば、長野経由でおよそ7時間後の1611には金沢駅に着き、前の年に落成したばかりの本多の森ホールにどうにか開演時刻ギリギリに間に合う計算だ。少し余裕を持ちたいなら上野819発の特急「はくたか1号」で1504金沢着。こちらは長岡経由である。
翌朝、今度は金沢から松本に向かう。筆者はAFTでは北陸新幹線に長野まで乗り、そこから特急「しなの」に乗り換えて松本に向かったが、この時代は乗り換えなしの列車がある。それが金沢949発、おそらくキハ58の、時刻表ピンクのページによれば堂々10両編成の急行列車。後ろ3両が松本行き急行「白馬」、中ほど4両は秋田止まりで前寄り5両は青森までロングランする急行「しらゆき」だ。間違わずに後寄り3両に乗れば、途中の糸魚川で青森・秋田行き「しらゆき」から切り離され、進行方向を変えて大糸線に入って1435松本着だから公演には余裕を持って臨むことができる。編成分割をする糸魚川では正午を挟んで8分停車するから、えび釜めしなど駅弁を買う余裕もあっただろう。
ただ、逆にいうとそれしか手段はない。ましてキハ58はいわゆる「直角椅子」のクロスシートでリクライニングも方向転換もできない。7時間近くも乗っていたらそれだけで相当疲れてしまう。
さらに松本公演が終わった日曜の夜。筆者はAFTのときは最終「しなの」で長野に出て一泊し、翌朝の北陸新幹線で出勤した。しかしこの時代なら松本発2056の普通列車新宿行きがある。423に新宿駅に着くから一度帰宅してシャワーを浴びて着替えて出勤する余裕は十分にある。ただしこれもまた「直角椅子」どころかおそらくセミクロスの115系だったろうから、少しでも居住性を求めたければ2359発の急行「アルプス18号」のグリーン車に乗れば良い。新宿着は500だから余裕を持って出勤できるのは言うまでもない(出勤した後のことは例によって保証できない)。
3
新幹線はすでに博多まで開通していたし、熊本空港には全日空の3発ジェット・トライスターか東亜国内航空のDC-9が就航していたが、鉄道好きとしては1645東京発1058熊本着の西鹿児島行き「はやぶさ」か、1700東京発1123熊本着の「みずほ」を推したい。食堂車で夕食・朝食の2食をいただくのんびりとした旅である。
ただ、昨今の「サンライズ」などとは違って当時の寝台特急にはシャワー室はなかった。「はやぶさ」「みずほ」には個室もなければ女性専用車もなかったから、今や全国民の1/4に迫らんとする女性王国民の遠征には不向きだったかもしれない。まして当時の長距離列車は喫煙可能が当たり前で各ボックスシートの窓際に灰皿が標準装備されていた。
しかしもう少し前の1970年頃に青春時代を過ごした我が母親によれば、当時のスキー列車はいつも満席で男女問わず通路やデッキに新聞紙を敷いて座り込んだというから、たくましい遠征女子も実は相当数いたかもしれない。
4
東北・上越どちらも新幹線はこの時代は絶賛工事中。開通は4年後の1982年だ。しかし上越線には「とき」、東北本線には「ひばり」というエル特急が毎時1本ペースで運転されていたから往路はどうにでもなる。
新潟の帰路、私は最終新幹線に飛び乗れたが、この当時なら2300新潟発の急行「佐渡8号」で506上野着か、横になりたければ2312の秋田から来る急行「天の川」で555上野着。新津まで普通列車で出ておいて040発の急行「鳥海」で642上野着でもいい。
仙台からは公演後だと2320発の急行「新星」がおすすめだ。仙台駅には早々と入線しており2130から発車前の寝台を利用できるのが嬉しい。上野到着は536だから一度帰って身支度を整える余裕もありそうだ。このほか、仙台2257→上野519の青森発常磐線経由の急行「十和田2号」や、座席車なら仙台2336→上野542の急行「いわて4号」も便利であろう。なお急行「十和田」はこのあとも4号・6号が仙台に停車するし、特急「ゆうづる」2号・4号も利用できる。
そうして考えてみると、まだまだ高速道路網が未熟だったこの頃、寝ている間に移動できる安価な手段は鉄道しかなかったのだということを改めて感じさせられる。1970年代でも長距離バスは運行されていたが、都内と新潟が高速道路でつながったのは1985年、仙台は87年。歴史でいえば線路の方がはるかに長い。
なおこの当時、上野→仙台が特急「ひばり」で4時間以上かかっていたので、羽田空港から仙台空港への航空便も全日空により1日4往復運航されていた。
5
ならばその先はどうか? 札幌公演に行くにはこの当時でも飛行機が当たり前の選択になってきていた。筆者は81年の夏に北海道の親戚を訪ねる旅に出たが、祖父母に連れられて上野駅から青函連絡船を経て親戚の住む苫小牧まで20時間ぐらいかかったように記憶している。まだ青函トンネルは開通していなかった。
それでは札幌公演に陸路・海路で挑むとすればどうなったであろうか?余裕を持って開演に間に合わせるならこのルートである。
2140上野[特急ゆうづる5号]705青森or2221上野[特急はくつる]711青森
1140函館[特急おおぞら5号釧路行き]1550札幌or1145函館[特急おおとり網走行き]1558札幌
急行自由席に乗れる周遊券を利用するなら上野1908→青森617の「八甲田」や函館1150→札幌1630の稚内行き「宗谷」も良い選択肢であろう。
やはり北海道は遠い。時間に余裕のない向きは素直に飛行機を利用すべきであろうが、千歳空港と国鉄の駅が接続されるのは2年後の1980年のこと。この時刻表の時点では札幌駅前からバスに乗るのが普通の手段であった。
6
そして福島公演はエクストリーム出勤の宝庫であった。終演後の福島駅発上野行きを見てみると、
2350 急行「あづま4号」437
043 急行「新星」536(寝台あり)
056 急行「いわて4号」542
このほかにも夏休みシーズンだけに季節列車・臨時列車も運転されていたと思われるので、かなりの席数が利用可能であったと推察される。
座席車の特急はいわゆる「直角椅子」であるが、寝台車連結の急行列車では短時間でも横になって移動できる利点がある。これは現代の夜行高速バスでも(実際に運行されてはいるが)まだまだ一般的ではない。バスは鉄道車両よりも小さくて何両も連ねて運転されるわけもないから、寝台は不可能ではなくても困難が多いのであろう。
7
国鉄監修時刻表を見る限りでは、東名阪のバスは国鉄ハイウェイバスしか掲載されていない。関西公演からの帰り道は2240大阪駅→815東京駅の「ドリーム2号」か2200京都駅→643東京駅の「ドリーム4号」しか見当たらない。
鉄道ならば京都2237の特急「出雲2号」、同015発の「出雲4号」なら700には、大阪2358の特急「瀬戸」や同005の特急「あさかぜ2号」でも730には東京駅に着けるから、エクストリーム出勤勢の強い味方になり得たと思われる。なんなら関西勢と感想を語り合いつつ酌み交わす余裕は十分にある。しかもこれらは当然寝台車であるから、予約さえ取れれば会場内外で充実至福のひと時を過ごしたのちに千鳥足でベッドに潜り込んで目覚めれば東京駅も間近に迫り、どうかすればまだ夢見心地のまま出勤せざるを得ないベストコンディションを通り越した邪悪な何かを感じずにはいられない有様である。
なぜ新幹線ではなく在来線を推すのかと問われれば、その当時の東京行き最終「ひかり116号」は新大阪2034発であるから、フェスティバルホール(当時は改築前)から終演後直ちに最寄りの四つ橋線肥後橋駅に走ったとしてもけっこうタイトな時刻設定であることが第一に挙げられる。梅田の地下に慣れない関東勢が四つ橋線西梅田を出て乗り換えに手間取ると、最終の新幹線は慈悲もなく出発してしまう…それは正直恐ろしい。
筆者は鉄道好きで鈍行やら夜行やら多少は乗ってきた経験とノスタルジーがあるので満更でもない旅行だなとほくそ笑みつつこの文章を書きつけてはいるが、冷静に考えてみれば当時は今よりずっと不便で居住環境は悪かったように思う。なりふり構わぬ男性、特に体力に自信のある若者にはなんということはない行程だったと思うが、女性にはあまり優しくない環境だったし、筆者も若い頃は大きな鞄を抱えて夜行連泊するような旅をしてきたけれど今この歳になってふたたび体験するのは懐古趣味を差し引いてもためらいが多めに残る。
とはいえ不便で時間のかかる旅を楽しみたい向きが今もなお大勢いるのは承知している。そんな黒鉄の人々に机上タイムトラベルを提供できたら幸いかなと。ただそれだけ。
本文に田村ゆかりは出てこずに時刻表を読み解くだけだったが、10月に横浜で公演があるのでよければバスや飛行機よりも鉄道を乗り継いで参加して紀行文と公演感想文を読ませてくだされば筆者はDouble Fascinationになれる。
それはともかくできる限り多くの客席を埋めて盛況の公演としたいので、関心のある方は下記から申し込みいただければ幸甚に存じます。