はてなキーワード: 長距離バスとは
あたおか案件
たいてい60代以上のあたおか老人
これからくるのは過度なサービスの終焉と、クレーム時代の終焉である
企業・従業員が顧客から受けるクレーム対応は、悪質な言いがかりの場合もあり、悩ましい社会問題の1つだ。こうした中で、現役の長距離バス運転手の投稿が議論を呼んでいる。寄せられたクレーム内容は、「バスの運転手がサービスエリアでカレーライスを食べている」というものだ。当事者の男性運転手に事情を聞いた。
【写真】「これはないやろ」「ネタ動画にしても不愉快」と批判殺到…SNSで炎上した決定的瞬間
「バスの運転手さんがサービスエリアでカレーライスを食べている、というクレーム。休憩中にカレーを食べてはいけない理由を具体的に説明しろや!!」。
中部地区で高速バス運転手を務めている20代の男性は、怒りの感情を交えてツイート投稿を行った。男性は「バス業界をホワイトにしたい」との思いを持って、高速バス運転士@中部地区(@HWBDChubu)として日々体験談やメッセージを発信している。
どんな状況だったのか。具体的には「ちょうどお昼頃、30分ぐらいの休憩をとり、SAフードコートのカレーライスを食べていました。営業所に帰庫し、乗客からクレームがあったことを所長から告げられました」とのことだ。https://news.yahoo.co.jp/articles/af6bae82b0231a426442f6c4be8d908d7bf5131f
EVに限らず、電気で特に問題になるのは、絶対的な電力量より、供給能力の方なんだよ。
電気は貯めておけないのが根本的な問題。そして、その貯めておく手段の有力候補が、水素だということ。
言ってる話も
250kwの充電器で30分充電するといくつになるか
大型車両による長距離輸送は電気自動車よりも燃料電池自動車のほうが向いていて
と言うのも、消費する総量のエネルギーよりも、供給能力の方から言われている。
消費電力は、充電時間が超長時間でよいならば、そこは問題にはならないんだよ。余った電気でちょろちょろと充電すればいいので。送電網にも負担をかけないし、今のインフラの延長線上でいける。
例えば、一般の乗用車なら、家庭の200vの充電器で一晩充電すれば、街乗りするのには十分な充電ができるよな。
だが、運送業は装置産業なので、装置の稼働率が収益性や競争力を決める。そのためには設備がお金を稼いでいない時間を減らす必要があるので、走っている時間をできるだけとって、止まっている時、充電時間を短くしなければならない。
その目安と言われるのが30分と言うのが出てくる。テスラもこれを意識して、semiチャージャーなら30分で7割といってるよな。
しかし、現在の内燃機関、軽油やガソリンなら、超大型トラックであっても15分もあれば給油ができるわけだ。そして、水素の場合はここが同じ感覚で済ませられるため、有利だと言われている。
また、水素ならば、一つのタンクさえ用意してあれば、そこからポンプなりなんなりで圧縮するのは容易だ。大型のタンクさえ用意すれば良い。そのため、一カ所で複数の同時チャージが可能だ。まさに今のガススタのイメージな。
一方で電気の場合は、電力供給「網」で考えなければならないので、例えばテスラレベルの1MWであっても、通常であれば330世帯を支える事のできる発電所を常にスタンバイしておかないと、1台分の充電ステーションを作ることができない。そして、その場で発電するので無ければ、送電線などもそれを支えられるだけの容量が必要になるわけだ。
そして、その供給能力は大型トラックのBEV専用となって、充電する時間以外は使われてない事になるかもしれない。設備稼働率が下がってコストがどんどん割高になってしまうと、そう言う訳。
一方で、水素ステーション、一般乗用車の急速充電に比べて考えると確かに高いが、大容量化は容易なので有利だと考えられている。
街乗りの車ならば、空いている時間に充電すれば良いし、スマグリなどを使って工夫する余地もある。
しかし、トラックや長距離バスなどの大型商用車や、鉄道輸送などは、常に動き続けているので、そのような工夫の余地が少ない。そこで、水素が有力候補として上がっているわけだ。
テスラも充電網の整備などインフラに進出しているが、全世界の電力網を刷新するレベルの巨大な事が必要になる。その一方で、水素ステーションであれば、今後使われなくなるであろう既存ガススタの設備を利用できるので、比較的インフラの整備は容易であろうと考えられていると言うのが、今のお話。
地方で悩む女子に対して、長距離バスに乗ってでもColaboに来いと勧める人たち。
これはほんの一例でYahoo知恵袋で、「colabo-official」と検索したら、何故かまずColaboを勧める投稿が大量に出てくる。
いや、まず児相とかじゃねーの?
(相談1)
もしも高校3年生の18歳の女の子が地方から東京に家出したら、どんな未来が待っていると思いますか。
また、どんな行動を取ると思いますか。
条件
(略)
(回答1)
してくれるので
7/7(水)を目指して東京に
https://colabo-official.net/projects/
(略)
(相談2)
高一女子です
(回答2)
怖い想いしてるんですね
家出=命を守る行動です
示すと思うんで以下の
《Tsubomi Cafe》
https://colabo-official.net/projects/tsubomicafe/
家出家を出る時は
●住民票1通
有るかな?
(相談3)
(回答3)
どこ住んでる?女性?
東京に出ておいで
●colabo 東京
https://colabo-official.net/projects/tsubomicafe/
そういえばColaboで嫌な目にあったという報告が何故か関西のNPOから出てましたね
中谷梨帆(Riho Nakatani) @n__riho__
もう少し書かさせてもらうなら仁藤さんの過激な政治に対する発言で怖がってる10代の女の子達の声もたくさん聞いてきた。
中谷梨帆(Riho Nakatani)@n__riho__
(略)10代の女性支援(ピアサポーター) ジェンダー問題に取り組んでいます。 #支援から教育へ 「関西で居場所作り運営」活動拠点は関西で福岡在住。
(追記)
関西というと、Colaboを支える会の方が覚醒剤の使用容疑で逮捕されてましたね
否認されているようなので本当かはわかりませんが、所持ではなく使用の場合、誤認逮捕はほとんどありませんね。
https://www.asahi.com/sp/articles/ASQD86263QD8PIHB016.html
兵庫県警は8日、神戸市灘区記田町5丁目の牧師、森康彦容疑者(64)を覚醒剤取締法違反(使用)の疑いで緊急逮捕し、発表した。「全く思い当たりません」と容疑を否認しているという。
(略)
神戸弟子教会のホームページなどによると、森容疑者は元暴力団構成員で、同教会の担任牧師。2011年に非行少年・少女の立ち直りを支援するNPO法人「ホザナ・ハウス」を立ち上げていた。
(追記2)
仁藤さんも知らなかったはずなので可哀想。
https://mobile.twitter.com/colabo_yumeno/status/937923339045052416
仁藤夢乃 Yumeno Nito@colabo_yumeno
神戸周辺の女の子たちの近くに頼れるところがないかなと思っていたときに教えてもらい、お会いしたいと思っていた森牧師の記事。
https://mobile.twitter.com/colabo_yumeno/status/1042968169340534784
仁藤夢乃 Yumeno Nito@colabo_yumeno
神戸での企画展・講演に来てくれた女の子たち。再会嬉しかった😊ありがとう!ホザナハウスの自立援助ホームで暮らす少年少女や、作業所でお仕事されているメンバーの方々などもお手伝いしてくださって、感謝です!神戸での企画展は今日まで。
(追記3)
“Yahoo知恵袋で、「colabo-official」と検索したら、何故かまずColaboを勧める投稿が大量に出てくる” そりゃcolaboで検索したらcolaboが出てくるのは当たり前だよ……。
そりゃ保護活動しているんだからうちに来いって言ってたとしても極めて普通の活動だろ。逆に児童相談所がこういうところにリーチ出来ていないのが問題だとは思うが。
なんでいきなりColaboなんだ?
もうすぐ神楽坂ゆか生誕祭である。昭和のアイドルっぽさを感じさせる彼女は、もともとは「田村ゆかり」という名前でデビューしたと記憶している。
ところで、たまたま先日購入した1978年10月「ゴーサントオ」の時刻表復刻版がある。
https://jtbpublishing.co.jp/topics/CL000461好評の「時刻表復刻版」第6弾 特急時代の幕開け!「ごお・さん・とお」(1978年10月号)ダイヤ改正号 『時刻表復刻版 1978年10月号』 2022年5月23日(月)発売 | 株式会社JTBパブリッシング
https://www.amazon.co.jp/dp/4533149782/
この年は音楽番組「ザ・ベストテン」の放送開始の年でもあり、「レッツゴーヤング」「トップテン」「ヒットスタジオ」といった番組がゴールデンタイムを彩った時期でもある。キャンディーズが解散し、レコード大賞をピンクレディーが獲得し、山口百恵が活躍していた。
いま挙げたようなレジェンドともいうべき女性アイドルたちが全国ツアーを開催していたかどうかは定かではないが、もしもそんな昭和時代に我らが田村ゆかりの全国ツアーがあったなら、皆どういう感じで移動していたのだろうか…などと、時刻表を見ていてふと考えてしまったのが懐古鉄オタの性というもの。
そんなわけで「もしも昭和のトップアイドル・田村ゆかりが全国ツアーをやっていたら王国民はどうやって民族大移動したのだろうか?」というテーマこそ壮大ながら実際は老眼に抗って縮刷版の時刻表とにらめっこして連敗した駄文をそっと放流したいと思った所存。
今年もツアーはあったが、過去最大25公演を誇る2021年の*Airy-Fairy Twintail*の開催地からいくつか選んで当時の時刻表に沿った旅程を考えてみたい。
なお毎日運転ではない季節列車・臨時列車は極力排した。仕方ないね。
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当時はソニックシティはまだなく、大宮商工会館なる施設が同じ場所にあったらしい。1979年にはサザンオールスターズが公演しているらしいので、昭和のトップアイドルもひょっとしたらステージに立っていたかもしれない。
https://www.livefans.jp/venues/1204
この頃は上野東京ラインも湘南新宿ラインも、埼京線さえも存在しなかった。国電京浜東北線の103系か東北本線・高崎線の115系で到着した大宮駅の片隅には首都圏色の川越線気動車が、反対側には東武野田線の吊り掛け駆動車が見られたはずだ。
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北陸新幹線のないこの時代、東京から金沢に向かうメインルートは信越本線だった。
上野発916の特急「白山1号」に乗れば、長野経由でおよそ7時間後の1611には金沢駅に着き、前の年に落成したばかりの本多の森ホールにどうにか開演時刻ギリギリに間に合う計算だ。少し余裕を持ちたいなら上野819発の特急「はくたか1号」で1504金沢着。こちらは長岡経由である。
翌朝、今度は金沢から松本に向かう。筆者はAFTでは北陸新幹線に長野まで乗り、そこから特急「しなの」に乗り換えて松本に向かったが、この時代は乗り換えなしの列車がある。それが金沢949発、おそらくキハ58の、時刻表ピンクのページによれば堂々10両編成の急行列車。後ろ3両が松本行き急行「白馬」、中ほど4両は秋田止まりで前寄り5両は青森までロングランする急行「しらゆき」だ。間違わずに後寄り3両に乗れば、途中の糸魚川で青森・秋田行き「しらゆき」から切り離され、進行方向を変えて大糸線に入って1435松本着だから公演には余裕を持って臨むことができる。編成分割をする糸魚川では正午を挟んで8分停車するから、えび釜めしなど駅弁を買う余裕もあっただろう。
ただ、逆にいうとそれしか手段はない。ましてキハ58はいわゆる「直角椅子」のクロスシートでリクライニングも方向転換もできない。7時間近くも乗っていたらそれだけで相当疲れてしまう。
さらに松本公演が終わった日曜の夜。筆者はAFTのときは最終「しなの」で長野に出て一泊し、翌朝の北陸新幹線で出勤した。しかしこの時代なら松本発2056の普通列車新宿行きがある。423に新宿駅に着くから一度帰宅してシャワーを浴びて着替えて出勤する余裕は十分にある。ただしこれもまた「直角椅子」どころかおそらくセミクロスの115系だったろうから、少しでも居住性を求めたければ2359発の急行「アルプス18号」のグリーン車に乗れば良い。新宿着は500だから余裕を持って出勤できるのは言うまでもない(出勤した後のことは例によって保証できない)。
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新幹線はすでに博多まで開通していたし、熊本空港には全日空の3発ジェット・トライスターか東亜国内航空のDC-9が就航していたが、鉄道好きとしては1645東京発1058熊本着の西鹿児島行き「はやぶさ」か、1700東京発1123熊本着の「みずほ」を推したい。食堂車で夕食・朝食の2食をいただくのんびりとした旅である。
ただ、昨今の「サンライズ」などとは違って当時の寝台特急にはシャワー室はなかった。「はやぶさ」「みずほ」には個室もなければ女性専用車もなかったから、今や全国民の1/4に迫らんとする女性王国民の遠征には不向きだったかもしれない。まして当時の長距離列車は喫煙可能が当たり前で各ボックスシートの窓際に灰皿が標準装備されていた。
しかしもう少し前の1970年頃に青春時代を過ごした我が母親によれば、当時のスキー列車はいつも満席で男女問わず通路やデッキに新聞紙を敷いて座り込んだというから、たくましい遠征女子も実は相当数いたかもしれない。
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東北・上越どちらも新幹線はこの時代は絶賛工事中。開通は4年後の1982年だ。しかし上越線には「とき」、東北本線には「ひばり」というエル特急が毎時1本ペースで運転されていたから往路はどうにでもなる。
新潟の帰路、私は最終新幹線に飛び乗れたが、この当時なら2300新潟発の急行「佐渡8号」で506上野着か、横になりたければ2312の秋田から来る急行「天の川」で555上野着。新津まで普通列車で出ておいて040発の急行「鳥海」で642上野着でもいい。
仙台からは公演後だと2320発の急行「新星」がおすすめだ。仙台駅には早々と入線しており2130から発車前の寝台を利用できるのが嬉しい。上野到着は536だから一度帰って身支度を整える余裕もありそうだ。このほか、仙台2257→上野519の青森発常磐線経由の急行「十和田2号」や、座席車なら仙台2336→上野542の急行「いわて4号」も便利であろう。なお急行「十和田」はこのあとも4号・6号が仙台に停車するし、特急「ゆうづる」2号・4号も利用できる。
そうして考えてみると、まだまだ高速道路網が未熟だったこの頃、寝ている間に移動できる安価な手段は鉄道しかなかったのだということを改めて感じさせられる。1970年代でも長距離バスは運行されていたが、都内と新潟が高速道路でつながったのは1985年、仙台は87年。歴史でいえば線路の方がはるかに長い。
なおこの当時、上野→仙台が特急「ひばり」で4時間以上かかっていたので、羽田空港から仙台空港への航空便も全日空により1日4往復運航されていた。
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ならばその先はどうか? 札幌公演に行くにはこの当時でも飛行機が当たり前の選択になってきていた。筆者は81年の夏に北海道の親戚を訪ねる旅に出たが、祖父母に連れられて上野駅から青函連絡船を経て親戚の住む苫小牧まで20時間ぐらいかかったように記憶している。まだ青函トンネルは開通していなかった。
それでは札幌公演に陸路・海路で挑むとすればどうなったであろうか?余裕を持って開演に間に合わせるならこのルートである。
2140上野[特急ゆうづる5号]705青森or2221上野[特急はくつる]711青森
1140函館[特急おおぞら5号釧路行き]1550札幌or1145函館[特急おおとり網走行き]1558札幌
急行自由席に乗れる周遊券を利用するなら上野1908→青森617の「八甲田」や函館1150→札幌1630の稚内行き「宗谷」も良い選択肢であろう。
やはり北海道は遠い。時間に余裕のない向きは素直に飛行機を利用すべきであろうが、千歳空港と国鉄の駅が接続されるのは2年後の1980年のこと。この時刻表の時点では札幌駅前からバスに乗るのが普通の手段であった。
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そして福島公演はエクストリーム出勤の宝庫であった。終演後の福島駅発上野行きを見てみると、
2350 急行「あづま4号」437
043 急行「新星」536(寝台あり)
056 急行「いわて4号」542
このほかにも夏休みシーズンだけに季節列車・臨時列車も運転されていたと思われるので、かなりの席数が利用可能であったと推察される。
座席車の特急はいわゆる「直角椅子」であるが、寝台車連結の急行列車では短時間でも横になって移動できる利点がある。これは現代の夜行高速バスでも(実際に運行されてはいるが)まだまだ一般的ではない。バスは鉄道車両よりも小さくて何両も連ねて運転されるわけもないから、寝台は不可能ではなくても困難が多いのであろう。
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国鉄監修時刻表を見る限りでは、東名阪のバスは国鉄ハイウェイバスしか掲載されていない。関西公演からの帰り道は2240大阪駅→815東京駅の「ドリーム2号」か2200京都駅→643東京駅の「ドリーム4号」しか見当たらない。
鉄道ならば京都2237の特急「出雲2号」、同015発の「出雲4号」なら700には、大阪2358の特急「瀬戸」や同005の特急「あさかぜ2号」でも730には東京駅に着けるから、エクストリーム出勤勢の強い味方になり得たと思われる。なんなら関西勢と感想を語り合いつつ酌み交わす余裕は十分にある。しかもこれらは当然寝台車であるから、予約さえ取れれば会場内外で充実至福のひと時を過ごしたのちに千鳥足でベッドに潜り込んで目覚めれば東京駅も間近に迫り、どうかすればまだ夢見心地のまま出勤せざるを得ないベストコンディションを通り越した邪悪な何かを感じずにはいられない有様である。
なぜ新幹線ではなく在来線を推すのかと問われれば、その当時の東京行き最終「ひかり116号」は新大阪2034発であるから、フェスティバルホール(当時は改築前)から終演後直ちに最寄りの四つ橋線肥後橋駅に走ったとしてもけっこうタイトな時刻設定であることが第一に挙げられる。梅田の地下に慣れない関東勢が四つ橋線西梅田を出て乗り換えに手間取ると、最終の新幹線は慈悲もなく出発してしまう…それは正直恐ろしい。
筆者は鉄道好きで鈍行やら夜行やら多少は乗ってきた経験とノスタルジーがあるので満更でもない旅行だなとほくそ笑みつつこの文章を書きつけてはいるが、冷静に考えてみれば当時は今よりずっと不便で居住環境は悪かったように思う。なりふり構わぬ男性、特に体力に自信のある若者にはなんということはない行程だったと思うが、女性にはあまり優しくない環境だったし、筆者も若い頃は大きな鞄を抱えて夜行連泊するような旅をしてきたけれど今この歳になってふたたび体験するのは懐古趣味を差し引いてもためらいが多めに残る。
とはいえ不便で時間のかかる旅を楽しみたい向きが今もなお大勢いるのは承知している。そんな黒鉄の人々に机上タイムトラベルを提供できたら幸いかなと。ただそれだけ。
本文に田村ゆかりは出てこずに時刻表を読み解くだけだったが、10月に横浜で公演があるのでよければバスや飛行機よりも鉄道を乗り継いで参加して紀行文と公演感想文を読ませてくだされば筆者はDouble Fascinationになれる。
それはともかくできる限り多くの客席を埋めて盛況の公演としたいので、関心のある方は下記から申し込みいただければ幸甚に存じます。
結局はここ。「人殺すかラッパーになるか!」とかホザいたクズは問題外だけど、ライブを感染対策万全でやるなんて無理だよ。
どこからだれが来るか把握できるはずの世界最大規模の運動会でも無理だったんだから。
出来るとすればクラシックとか、昭和歌謡とかの客層がもう騒ぐ気ゼロなイベントぐらいでしょ。
じゃあライブで食ってる人たちの食い扶持どうすんの?税金で保障するの?いつまで続くか分からないのに?
旅行業界をみんなの命のために見捨てたくせに、娯楽だけ救うの?それとも今まで見捨ててきた業界もみんな税金で救うの?
補償の正当性はどう担保するの?申請内容に不備がないか1件ずつ調べるの?誰が?
補償付きの行動制限を、なんて簡単に言うヤツ居るけど、正気を疑う。
財源はどうするの?国債発行?マイナス金利の国債発行額は需要低迷でどんどん減ってるから、
国債で賄う場合は普通にプラス金利で後世にツケを回すことになるんだけど、本気?俺は老い先短いからそれでもいいけどさ。
いい加減現実見ようや。「感染者がどこにいるか分からない」状態を放置してどうにかするのは無理だよ。
「偽陽性」とか「偽陰性」とか、下らない言葉遊び止めようや。今はもう、我慢の限界来てて偽陰性100%なんだよ。
2年近くも「お前ら全員感染者扱いするから我慢し続けろ」なんて馬鹿げてるにも程がある。
何人検査をすり抜けるかを問題にするんなら、今現状大半の無症状感染者を野放しにしてる現実を問題視しろよ。
少しでも検査拡大して、野放しにするはずだった感染者を確保して治療しろよ。
それらの施設間の移動のための感染対策した移動手段がないなら、便数減りまくりな長距離バスを借りろよ。
そのために緊急事態宣言の強権があるんだろうが。施設の確保や緊急の体制整備のための権限じゃねぇのかよ。
そうやって仕事を失った人たちに仕事させてりゃ税金使う理由にもなるだろ。感染拡大防止のためなんだからさ。
飲食業界や娯楽業界を締め付けるための印籠としてしか使ってねーじゃん。バカかよ。
緊急事態って言いながら通常と変わらん体制のまま乗り切ろうとするの止めようよ。
無理に決まってんじゃん。
緊急事態なのはしわ寄せが来てる現場だけで、上の体制何も変わってねーじゃん。
いつまで緊急事態の元になった感染力の強いウィルスの診療をその他の診療に混ぜて対応させてんだよ。
1年以上前に専用の診察、治療設備を緊急事態宣言の権限で作っとかなきゃいけないレベルだろ。
最近、メディアでミャンマー情勢を聞くことが増えている。軍部のクーデターで情報統制が敷かれ自由が奪われ、国民が弾圧されているというのだ。ニュースを聞いていると、少し昔にミャンマーを旅行したことをふと思い出したので、備忘録的に増田に書き残しておく。
2014年、私はミャンマーを旅してた。この前年、ゴールデンウィークに旅していたウズベキスタンの乗り合いタクシーで偶然出会ったベテランバックパッカーから、『早めに訪れるべき国』と紹介されたのがきかっけで興味を持ったのだった。曰く、「数年前からテインセイン政権が民主化をすすめていて、外国からヒト・モノ・カネが流入しだしている。そう遠くない時期にマクドナルドやコカ・コーラ等の海外資本で町が埋め尽くされ、純朴な国民性が拝金主義に染まり、メジャーな東南アジアの観光地のようにつまらない場所になってしまう。”素”のミャンマーが見れるのは今の時期しかない」とのことだった。その翌年だっただろうか、ANAがヤンゴンに新規就航した。クレジットカードのポイントで『丘マイル』がたまってきていたので、今しかないと思ってミャンマーに飛んだのだった。
ところで、私が旅を決めた2014年当時、ミャンマーの情報は書籍上にもネット上にも乏しかった。(今でもかもしれないが。)非常にベタだが、自分なりにミャンマーの知識を得るために、『ビルマの竪琴』を読み、高田馬場のミャンマー人街を訪れ、増上寺のミャンマーフェスに参加し旅の前に気分を盛り上げた。それら事前に集めた情報をもとに旅程を決めた。最大都市のヤンゴン、古都マンダレーとパガンを3泊4日ですべて回る。そのためにルートづくりは難航したが、夜行バスや、エーヤワディ川の水上ボート等を組み合わせて何とかめどがついた。
初めに訪れたのはパガン。初日にヤンゴンから夜行バスで向かって、到着したその日の朝に到着。その足で宿に荷物を降ろし、仏教遺跡にむかう。パガンの仏教遺跡は当時、全く観光地化されていなかった(今はわからないが)。滅びた過去の王朝の栄華を残す草原に埋もれた遺跡で、地元の仏教徒が花やろうそくを備えて信仰のよりどころにしている。そんな感じのところだった。遺跡は非常に広大なため、効率よく回るために宿で中国製の電動バイクを借りたのだが、これが曲者だった。バッテリーの残量メーターが適当で、まだ半分ほど充電が残っていると思っていたら、バッテリーがふいに止まり、南国の強い日差しのもと10km近い距離をただの重りと化した電動バイクを押して帰る羽目になったのだ。
ミャンマーの古都マンダレーへは翌日の早朝に向かった。ミャンマーを流れる大河、エーヤワディー川を観光ボートに乗って移動するのだ。朝日が昇る前に、宿の主人にお願いしてエーヤワディー川のほとりの船着き場に送ってもらい船に乗り込む。乗客はほとんどが欧米系観光客で、日本人は私一人。東南アジアでよく見る中国系・韓国系の旅行者は一人もいなかった。船に乗り込んですぐに、日の出を見ることができた。大河から見る朝日は非常に美しく、カメラのシャッターを切りまくった。だが航行時間は10時間以上と非常に長く、暇を持て余す。近くの旅行者に話しかけるとドイツ人だった。大学時代に習った片言のドイツ語で、「Ich lerne Deutsch bitte.」と話すと猛スピードでドイツ語会話が始まり、まったく聞き取れなかったので英語に切り替えてもらってコミュニケーションをとったりしていた。
10時間を超える船旅を経てマンダレーに到着した。マンダレーの市街地は船着場から離れていたのでタクシーを借りて中心地に向かう。旅程に余裕がなかったので、そのままタクシーで主要施設を回ってもらい、観光をこなす。そのまま勢いで長距離バス乗り場へ向かい、マンダレーからヤンゴンに向かう高速バスに乗り込む。ヤンゴンにはその日の夜10時ごろに到着。夜間の異動で治安が不安だったが、特に問題もなく宿に到着。最終日に備えて睡眠をとる。
ミャンマー滞在最終日。最大都市のヤンゴンで街歩きをし、国民食のモヒンガーを食べたり、過去のイギリス統治時代の建築物を見たりして過ごす。町中の家には見たことのないような巨大なパラボラアンテナがつけられており、台風対策で軽量化する必要があったからだろうか、日本で見かけるものとは違い皿の部分がメッシュになっているのが印象的だった。街歩きついでにミャンマー国鉄で市内を移動したりもした。東京でいうところの山手線に相当する環状線がヤンゴンにもあり、Circular Lineと呼ばれているものだ。料金は非常に安く、日本円で10円くらいだっただろうか?車内に外国人は一人もいなかった。パガン~マンダレーで見たような欧米系の旅行客はタクシーをチャーターして市内観光をしているのだろうか?しばらく客車に乗っていると、私が日本人とわかったのか日本滞在経験があるというミャンマー人に話しかけられたのだ。観光地で話しかけてくる現地の人は、たいていお金目当てなので警戒してたのだが、悪い人ではなさそうだったので聞くだけ話を聞いてみたら、バブル期に名古屋で期間工をしていたらしかった。
駆け足でいろいろな経験をしながらミャンマー観光を終えた私は日本に戻った。実際に現地を見てきたことで知的好奇心を満たされた私は、しばらくミャンマー情勢から興味を失っていた。が、最近またニュースで日々ミャンマーの情報を見聞きするようになり、ふいに旅行した時のことを思い出したのだった。当時であった人たちは今も元気にしているだろうか?数年後にコロナが収束しても、軍部主導の政治体制で外国人が自由にミャンマーを旅行できる時代が再びやってくるのだろうか?今はただ、遠く離れた国を思い出しつつミャンマー国民の無事を祈るばかりである。
旅とは、とても面倒くさいものだ。
もちろん、ふと思い出す旅の風景はとても美しい。急に景色が開けたところに出たとき、長らく憧れていた美術品を目の当たりにしたとき、温泉でくつろいだとき。一人旅の自由さ、友人との旅行での楽しさ、家族旅行での安らぎ。そうした思い出のハイライトばかりをつなげば、自分は旅行中ずっと幸福感にあふれていたのだと錯覚する。
けれども、現実はそういうわけにもいかない。長距離バスの中で過ごすけだるい時間がある。有名な観光地を訪れはしたが、すぐに回れてしまって期待外れということもある。道があっているかどうかわからないままで長距離を歩く心細さがあり、電車を間違えて数時間待たされる腹立たしい時間もある。そういうときに、スマホでろくでもないニュースや職場からのメールを読んでしまい、旅の情緒が台無しになる瞬間さえある。
自分は、そうした旅先での残念な時間を細部まで再現した夢を、何日か連続で見ている。おそらくはコロナ禍で旅行に行けない鬱憤が溜まっているのだろう。国内か国外かも定かではない景色の中を、期待と不安を持ったまま、目的もわからずに何かを探しているような夢から唐突に目覚め、旅路が現実でなかったことに対して、幾分落胆する。
確かに、夢の中であっても旅に出られたことに、どこか救われている自分もいるのだけれども、ごちそうを急に取り上げられたような寂しさはある。こうした旅に出たいという衝動を鎮めるためには、やはりどこか知らないところに行かないといけないのだろうか。それは、降りたことのない駅の周りと探検すれば、気が済む種類の欲望かもしれない。
それとも、一日も早く海外に旅行に行けるように祈るしかないのだろうか。また一人で海外に行きたいけれども、あの感動は独りぼっちの寂しさとセットな気がしていて、あまりこの寂しさをリアルに思い出してしまったなら、また異国を訪れることに二の足を踏んでしまう。
朝は千葉、夜は横浜みたいな日もあるのに、移動時間は時給が出なくてキツかった
でも凄くやりがいを感じていて、辛かったけど毎日楽しかったしその仕事が本当に大好きだった
振り返れば完全に洗脳されてたけど、その時のことはみんないい思い出だと今でも思う
さすがに驚いたけど洗脳されてるから「仕方ないな」って遠方手当ての1000円握り締めて長距離バスに乗った
話したことない先輩と2人で
勤務地までは車で20分くらいのところで、交通手段が他にないのでタクシーを使っていいと事務所から言われていた
これは滅多にないこと
「あ〜、そこには行けないな、今日は祭りだから道路が塞がってる」といわれた
今思えばよくわからないけど、
とにかく車ではそこにいけないと言われた
えー、どうするんだろ、とか他人事みたいに先輩と運転手のやりとりを聞いていたら、先輩がこちらを向いて
と言った
駅の近くに凄く長い坂道があって、その両脇に出店が並んでる
ここが件の通れない道路らしい
道路の真ん中に点々とキャンプファイアーみたいな火がともってて、
褌の男の人たちがなにやら騒いでた
浴衣の女の子や楽しそうな親子連れ、太鼓の音と燃える火が幻想的だった
その長い坂道を人の隙間を縫って全力で走った、スーツにパンプスで
辛かった…
「私たちなにやってんだろ!?」って一瞬洗脳が解けた先輩が笑い出して、2人で笑いながら走った
それより先はGoogleマップにもちゃんと表記されなくて、私たちは迷子になった
もう陽も落ちて暗い中を延々歩いた
サイレンみたいな古い民家が点々とあって怖かった
でも私たちは「入り時間をとっくに過ぎてしまった」ということで頭がいっぱいだった
どうやって着いたかはもう覚えてないけど、なんとか現地に着いた
出してくれた夕食を食べて用意された部屋に布団を敷いた
でも私の携帯は滅多に鳴らないし、今日が終わったことの安心感で携帯を見ようとも思わずすぐ眠りについた
昨日はサイレンみたいだと思ったけど、森の朝の空気は気持ち良くて、すごく清々しかった
大変だったけどいい日だったな〜って先輩と歩いた
タクシー使えばいいのに、その案すら出なかった
森を出たところで先輩が「主人から電話きてたの出れなくて不安にさせちゃったっぽい」と携帯みて笑った
びっっくりした
着信がもう、何十件も入ってて、見たことないくらいメールが来てた
足が止まった
少し怖くなった
声をかける先輩に「いや…なんかたくさん着信きてて…」と返した
先輩が「だよね〜、圏外なんて思わなかった。そうとわかってれば先に…」
気づいたらしゃがみこんで動けなくなってた
しゃがんだとも思ってなかった
「え!どうしたの?」と駆け寄ってくれた優しい先輩
私は人に自分の趣味とか、個人的な話をするのが苦手で、聞かれるといつも「特に」とか「別に」とか言ってしまうタイプ
でもその時はもう口からスルスルって、そんなのいわれてもしょうがないってわかってるのに言葉が出てた
「なんか…大好きなバンドのボーカルが死んじゃったっぽいです…」って
約10年、ずっと
こんな時になんで電話でないの!!
電話出ないし鳶死んじゃったしどうしようなんでって眠れなかった。
なんで電話出ないの、
鳶死んじゃったんだよ…」
ってどんどん泣いちゃって、わたしも泣いた
ここがどこでなにをしていたかも忘れて
先輩は駅までずっとそのバンドの話を聞いてくれた
誰1人ともすれ違わなかった気すらする
先輩は、そのあとすぐ辞めてしまったけど、顔もフルネームも、旦那さんの仕事のこともすべて覚えてる
ほんとに優しい人だった
先輩ありがとう
帰りのバスに乗ったら「窓際座りなよ」って言ってくれた
「音楽聴きなよ」って
みんなほんとにいい曲だった
この日のこと一生忘れないなって思った
結局、そんなことがあったのに洗脳は解けなくて、そのあとも4年くらい勤めてた
私がその町に行ったのも、圏外になる場所に泊まったのも、それが最初で最後
よりによってなんでこの日にって本当に思う
そのバンドのこと、ボーカルのこと、言葉にしたいけど、その日あったことだけ思い出して書いた
辛かったけど、忘れられない
朝早くに出発して、昼過ぎくらいに着く 平日だからあんまり人はいない その辺にある海鮮丼が有名な店に入って海鮮丼を食う 魚介類はそこまで好きじゃないんで多分あまり嬉しくないだろうけど、旅行らしさは大事だ
チェックインの3時まではまだ時間があるんで街をうろうろする 観光案内所に入ってパンフレットを見てみるんだけどあんまりパッとしなくて、そぞろ歩きって感じで行くことにする
風情はあるんだけどまあ所詮日本だし、たいして感受性もないんで飽きてくる チェックインまであと40分とか微妙な時間になっちゃってるし、もういいやと思って宿の近くで座れるところを探して時間を潰す
宿に入る 部屋はまあ特別でかくはないけど狭くもない オーソドックスな和室で、広縁がある 小さい冷蔵庫の中身をなんとなく覗いてみるけどビールとかしか入ってない 酒はあんまり飲まないんでウーンと思う
窓から外を見る ショボい川の特にショボい部分が見える 家から見えるのよりはさすがにマシな景色だけど、絶景とかでは全然ない せっかくなのでしばらく見るが、飽きっぽいので時間にして20分もあればいいところ
来たはいいが疲れているので外に出たくない 内湯がもう入れるっていうので入ろうと思うが、部屋から出るのもめんどくさい
4時半くらいになってやっと風呂に向かう 人はいない 脱衣所でちょっとおどけたポーズをとってみたりする まあいい風呂だけど、その辺の銭湯とどう違うかと問われたら多分答えられない 備え付けのシャンプーリンスから嗅ぎ慣れない匂いがする
風呂から上がって涼む この辺で他の客が来て、ちょっとガックリくる まあ仕方ないと思いながら部屋に戻る
…なんなんだこの妄想 もう嫌!
にならって梅田の乗り換えについて書いてみる。
JR大阪駅を起点とし、東から御堂筋、中央、桜橋と大きく分けて3つある改札を使い分ける。
JRの各改札間は改札外で容易に移動可能なので間違えて出ても大丈夫。
改札口に北と南に出口がある場合には南口を利用する。ヨドバシが見えたら逆側へ。
御堂筋南改札すぐの地下への階段を降りて道なりに進むと改札が両側に現れる。
終点から直進すると広場があり、広場中央の階段を昇れば阪急の改札がある。
左手に阪神百貨店が見えたら、周囲にチケットショップを探しながら少しずつ進む。
難関。
中央改札南口をでて階段を下り、直進する(阪神梅田へのルートと共通)
阪神電車の改札(百貨店口)を過ぎて広場(ディアモールの円形広場)に出たら、左隣の道へ入る(急角度に曲がる)。
直進して突き当ったところが東梅田駅。
広場に出たら右斜め前の通路へ入ると西梅田駅の出口専用改札が見えるので、さらに奥に進む。
中南改札なら改札を出て左手、その他は右手に進み、左奥の階段を上る。
手前右側のエスカレーターに乗っても良いが、大抵混雑している。
2F中央改札を出てすぐの階段を1階だけ下りる(1Fへ着く)。
やはり難関。
中西改札を出て左手に進み、売店脇の通路 (地下街に出ると行き過ぎ)を左折する。
出口専用の北改札を出たところの広場で(右手に阪神の改札を見ながら)左斜め前の通路に入って直進。
出た改札によってはかなり遠回りや難しいルートになる。リカバリー不能な場合もあるので、改札出る前に確認すると良い。
梅田の各地下街は相互の連絡通路が複数あるため、目的地までのルートが多数存在し、案内も難しくなる。
各線の駅構内の方が構造が単純なので、なるべく構内を使って目的地の至近距離の改札まで移動して、ルート数を減らすと迷いにくい。
特に御堂筋線南改札は避けた方が無難。出たところが広場で方向が分かりにくい上に動線が混乱していて人が四方八方から押し寄せるため、初見で目当ての通路を正確に選ぶのは難しい。
慣れてない人にJR東西線の利用はおすすめしない。沿線(尼崎ー京橋)には観光地もない。
御堂筋南改札ー阪神東口なら30秒とか、JR-阪急はヨドバシ前の陸橋ルートなど便利なルートがあるのは承知しているが、今回の各ルートはわかりやすさと雨具不要を重視して選んだ。
JR大阪駅は地上にあり、各線とも比較的近距離でつながっており、各改札間の移動も地上で簡単に可能など、迷ったときにリカバリーしやすい。
Day,5
5日目
最高の街※ただし金持ちに限る
窓のない部屋で目覚めたシンガポールの朝。
今日の予定といえばまた長距離バスに乗ってクアラルンプールに向かうぐらいで、ここシンガポールですることなどほとんどないのだが、手元にあるのが30シンガポールドルあまりではお土産も買えない。
ホテルを出てカフェを物色しながら朝のシンガポールの街を歩く。
喜園咖啡店。
カウンターのショウケースに並ぶオカズと、叔母さんがボウルで混ぜ混ぜしている麺をチョイスして盛り合わせるスタイルのようだ。
これとアイスコーヒー。
併せて3シンガポールドル、240円足らず。
入国してからというもの、物価にギョッとしていたので、この価格はたすかった。
漢字で書くと福建麺。
シンガポールでも有効なGRABでタクシーをピックアップする。
何気なく料金を見てみると、請求料金のアラビア数字自体はマレーシアと大体同じ。
でも、1シンガポールドルは約3リンギット、つまりお値段は3倍だ。
チャンギ国際空港に到着すると、幾何学的な建築の中に存在する溢れるほどの樹木に圧倒される。
チェックインはキノコのように地面から生える自動チェックイン機。
地下のフードコートでは、QRコードで注文サイトにアクセスしてオーダーする。
その全てが単なる成金趣味を超えたスマートさ、洗練されたデザインだ。
旅行趣味の同僚や友人に聞くと皆「シンガポールは綺麗で発展している」という。
確かにそうだけど、実際に見てみると、もはややりすぎ感すら感じる。
フードコートで頼んだポークライスとスープのセットは25シンガポールドル、約2,000円。
ここでは何をするにも金がかかってしょうがない。
ホテルに戻って荷物をピックアップし、マレーシア、クアラルンプール行きのバスが出るスタービスタモールに向かう。
既にチケットの予約と支払いは済んでいるので、スムーズにチケットを受け取ることができた。
しばらくピックアップポイントで待っていると、定刻より15分遅れた15:00、マレーシア・スバンジャヤ行きのバスが到着し、自分も含めた乗客が搭乗すると、スムーズに発進した。
バスが出発すると、やがて雨が降ってきた。
シンガポールは入国も雨、出国も雨、いずれも車内で迎え、濡れることはなかった。
シンガポールは隅から隅まで清潔で、スマートで、食事も美味しく、英語も通じ、バスの遅れも受付のお姉さんがアナウンスしてれるほどで、自己の信念という極めて個人的な内心の問題以外は不安なことは何もなかった。
今まで、初めての海外旅行はどこがいいかということを聞かれたら、韓国か台湾と答えようと思っていたが、安全性や確実性、清潔さ、スマートさならシンガポールだ。
初めての海外旅行はきっと素晴らしいものになるだろう、あなたにお金がたくさんあれば。
シンガポール、マレーシア間の出入国処理も終え、バスに揺られる事6時間、個人的に立てていたスケジュールを大幅にオーバーして、バスはスバンジャヤ駅に到着した。
ちょっと不安だった鉄道、LRTだが、コイン式の切符の購入もわかりやすく、車内も綺麗だった。
何より複雑な乗り換えがないのがいい。
LRTはKLセントラルに到着、GRABでタクシーが捕まらなかったので、チケット制のタクシーでホテルに向かう。
Day,4
4日目
昨夜の夜遅くにニョニャクエと共にジャスミンティーを流し込んだ為か、昨日の夜ほどは眠れなかった。
まあただ、今日は長時間のバス移動があるので、少しくらいはウトウトできるだろう。
今日の12時にはホテルをチェックアウトし、バスでシンガポールに向かう。
ホテルで見たマレーシアのテレビは、全く違う言語の4チャンネルがある。
日常の全ての瞬間で、全く別のバックグラウンドを持った人々が暮らしていることを実感する。
あった。
マレーシアでは、人口の半数以上を占めながら経済的には必ずしも恵まれていないマレー系、その他マレー半島、カリマンタン島の少数民族を、企業設立時の税制や国立大学の試験で優遇する「ブミプトラ(土地の子)政策」が取られており、その事が民族間の対立感情を呼んでいるという事のようで、この辺りは中華系が主導権を握るシンガポール独立にも話が発展したりしている。
また、マレーシア国内には混血や世代交代を繰り返し、マレー系、少数民族、中華系、タミル系、どの民族にも括れない人達が多数存在し、そう言った人たちは青春時代に自分のアイデンティティに悩んだりもするらしい。
だた、ブミプトラ政策を格差縮小という本来の目的から離れて、より民族主義的な捉え方で推し進めた政治活動は揺り戻しにあい、アイデンティティに悩む2世3世も、「なになに系」ではなく「マレーシア人」として自己を捉えなおしたりするという事で、「民族国家」と「多元主義」の間で揺れるのがマレーシアと言う国のようだ。
「宗教対立」についてもあるにはあるが、どちらかというと「経済格差」による感情の縺れの後付けのようなものでしかなく、「民族」「宗教」自体に関しては、「そこにあるもの」として自然に受け入れているように見えるのが印象的だった。
ホテルをチェックアウトし、シンガポールへのバス便が出るマラッカ・セントラルに向かう。
GRABでタクシーを捕まえると、運転手のおじさんは「ありがとうございます」と日本語で言った。
それ以降は「どこへ行くのか」「シンガポールへ」「マレーシアは暑つすぎます」「雨が降って無いよね」「私は運がいい」など英語で簡単なやりとりをしているうちにマラッカ・セントラルに到着した。
長距離バスに乗ってしまうとトイレがないので、今のうちに済ませておく。
そう、マレーシアの公共施設のトイレは使用にチップが必要で、「トイレの受付」さんがいる。
高級ホテルの「紙もあるものの、文化としてちゃんと常備してある」尻洗いホースで使用の予習していたので、ホースで尻を流すスタイルにも対応できた。
衛生観念の違いは深く考えすぎない方がいい。
ここはまだマレーシアだ。
でも、今回自分がそうしたように、マレーシア旅行に行くならロールのトイレットペーパーを持っていった方が良い。
バスのチケットを購入し、出発ゲートでしばらく待っていると、シンガポール行きのバス便が到着した。
長距離バスに揺られて3時間ほど、ネット情報によるとこのままマレー半島とシンガポールを繋ぐ橋の前後で出入国審査があるらしい。
大きなバスターミナルに到着し、皆ぞろぞろと降りてゆく。
ここで出入国かな?
しかし、慎重過ぎるほど慎重に調べるべきだった、実のところここで降車すべきではなく、そのまま乗っていればまたバスは発進するのだった。
しばらくうろついて「間違えたか?」と気づいた時にはもう遅い。
バスの誘導をしていたおじさんに対応をたずねるがうまく言葉が通じない。
そのうち、浅黒い、というかかなり褐色みの強いおじさんが話しかけて来た。
どうやらここはタクシーで入国するためのプラットフォームらしい。
話していると増えるおじさん。
3人ほどの褐色のおじさんとスマホの翻訳を見せてコミニュケーションを図る。
国境を越えて目的のホテルまで運んでやる、80シンガポールドルだ、という。
話しかけてきたおじさんのタクシーに乗るなど、危なっかしい事この上ない。
その上値段はマレーシア市内で利用するときの10倍以上の値段だ。
「マジか、高すぎじゃね?」と思ったが、逆にこの高さがある種の信用の根拠となった。
たとえ怪しいボッタクリだったとしても、すでにこの価格なら得るものは得ている。
運に身を任せることにした。
そもそも2年前の台湾から始まって、この旅行記を書き始めたのは、その体験が自分にとって心動かされただけでなく、そんなに若くもない歳で、英語も大してできなくても海外旅行はできるし、実際に行ってみると自分が「世の中」だと思っていたものが「世の中の一部」でしかないと発見して、世界の多様さや美しさを感じられるからで、そんな旅行に行ってみたい、と思える人が増えればいいな、と思ったからだ。
だからあまりに高いハードルを超えたり危険を冒したことを自慢する気は全くなかった。
皆さんもマレーシアから陸路シンガポールに入国する際はぜひ写真付きのたくさんの情報を集めてほしい。
歩みがゆっくりなので、タクシーによる入国について調べてみると、確かに確立されたルートで、自分が払ったシンガポールドル換算で80という数字もやや高めであるが常識の範囲を出ないものらしい。
外を見るとスコールが降ってきた。
こうなると、降車の必要がなくドライブスルー形式で出入国審査が済ませられる(!)タクシー入国は高い金を払うなりの価値はある様だ。
長蛇の列の出入国をクリアして、シンガポールに入り飛ばすタクシー、予定より2時間ほど遅れてシンガポールのホテルに到着した。
マレーシアでは東横イン以下の一泊7,000円でキングサイズのベッド、共用にジムとプールとサウナがついたラグジュアリーホテルに泊まれたが、ここシンガポールでは一泊10,000円で「東横インの方がまだマシだ」というような、窓のない上にセミダブルベッドで居室が埋まってしまうようなホテルにしか泊まれない。
街を歩くと、その発展度合いに目眩がしそうだ。
夜の街を一人で歩いて全く心細くならない賑やかさと綺麗さだが、橋一本超えただけでこの経済格差は自分の価値観に揺さぶりをかけられるみたいでちょっと心がザワザワしてくる。
マレーシアから独立したからこその発展なのだろうが、その前からもこの華僑中心の街は他地域とかなりの格差があったのだろう、これだけの格差があれば、別れた方が正解かも知れない。
この格差が同じ国にあったとしたら、多くの人は心穏やかでは無いだろう。
肉骨茶と油條、ジャスミン茶で19シンガポールドル、約1,650円。
マラッカで食べたニョニャ定食なら、おかずが2倍の6皿に増える値段だった。