>かつては新聞紙上でも戦前は溢れんばかりに決闘の報道が行われており、イギリスの『タイムズ』紙は1831年から1895年8月までに805の決闘を報道している。が第一次大戦は大量殺戮戦となり、決闘文化は衰退し、戦後は死者が出たり、よほど特殊な決闘でない限りほとんど報道されなくなっている
ウィル・スミスの事件は平手打ちだったが、メディアのはやし立ては変わっておらず、現代の決闘は同情票の多少で勝敗を決めるがごとくだ
しかしダニエル・デフォーやウォルター・リップマンの存在は組織的言論操作は可能であることを示しているし、イギリスのタヴィストック人間関係研究所(ロックフェラー系)などの関与も考えられなくはない
さておきクリス・ロックを擁護すれば差別ジョークが助長されかねないが、あのジョークは差別解消という公共の福祉に反する罪にあたるだろうか
一方「将来起こりうる危険のリスク判断」は行政や議会の研究所の役割で、司法は「具体的な被害実態」や数字がなければリスク判断をしない
昔は「カトリック神父」が倫理を説いて被害リスクを低減しようとしていた(ただ性的虐待や農地独占などの腐敗はあったらしい)
「ユダヤ・プロテスタント」が復権し聖書原理主義になってからは善悪判断は法律に基づき法曹が行うようになったものの、魔女裁判や四番崩れが発生した(ポピュリズム行政司法)
さて日本国憲法などは官吏や裁判官の地位を相当に保護しているが、それが正しいだろうか
また、司法権という武器を持つ法曹は、法律を作る議員になれる「文民」であると言えるだろうか
四番崩れを合憲化しうる、独立の憲法裁判所をもたない司法制度は正しいだろうか