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2024-07-12

三体3死神永生のラストゴミでつらい

三体三部作死神永生のラストについての話でネタバレ満載なのでここで書く。

読む人は見るな!!!




結論から言って、ハードSFを読もうと思って気づいたら柴門ふみマンガみたいなラストが待っていた。

NTR要素もBSS要素もあって令和最先端エロ同人と言って良い。

(もちろんエロの詳しい描写はほぼ無いがプラトニックでは無い描写はある)

概要はこう。

天明くんという陰キャが不治の病になって片思いの程心さんに全財産で星まで貢いだあげく「もう死ぬから三体世界に送って良い?」とか言われ脳だけにされて三体世界に飛ばされる。

程心さんは飛ばしそうになったところで星の贈り主を知って死ぬほど後悔する。

天明くん、復讐どころか命がけで程心さんに人類の為のヒントを与え、数百年後の再会の約束をする。

約束の星に二人ともたどりついて会う寸前、星より凄いプレゼントも持ってきたよ!感動の再会!

…の寸前に突然出てきたイケメンと程心さんが未来に飛ばされ二人きりのラブラブ生活を送る。

天明くんも智子(三体世界ロボット)は送りこむのに本人は来ず、「ガンイーファンアダムとイブになってね♪」みたいなメッセージを送って来る。

なぜ?ホワイ???

たこイケメン、関一帆とやらがまたおかしい。

  • 初出ではないが「こんなやついたっけ?」レベル
  • 特にヒロイン因縁も無い。ずっと程心さんが好きで守ってたとか、アイAA(ずっと付いてきてくれた女友達)的な位置ならまだ納得もできるが…
  • 出てくる必然性も無い。なんか強引な理由で直前に出てきただけ。
  • アイAAが気に入ってる描写もある。どんだけNTR要素入れたいんだよ…
  • 当然ながらキャラ描写も弱い。結局子作りはしても子供も出てこないし、だったら雲天明と会えないにしても同性のアイAAと二人でも良かった。


理由並べて思ったけど、やっぱNTRやりたかっただけだなコレ。

貢ぎまくって何百年も思い続けたヒロインイケメンに会って数時間でメス顔、数日(ヒロイン体感)であっさりとくっつくと。クソか。

マジで気にくわないのが、 程心さん、これまでaudible視聴時間にして20時間以上一切男には目もくれず雲天明の三体送りやら世界を滅ぼす原因やらで鬱って「もう心は死んでいる、雲天明けが救い」みたいに言っときながら、直後雲天明くんと再会しそうというところでもちょいちょいガンイーファンと密着しただの男らしいだのちょいちょいメス描写が入っていて謎。

なにこれNTR同人の導入かよ…いやこんなハードSFでそんな展開無いやろ…って思ったのにこれかよ…アルドノアゼロかよ…姫様人間の心無いわ…

そもそもこの作品恋愛要素なんてカケラも求めてなかったのに、ちょっとしたロマン要素かと思ったらがっつりNTRだよ!バカかよマジで

SF部分スケールでかくてすごい良かったのに台無しだよ!!!

一部のラスト大史絶望の中の希望が見えるセリフ

二部のルオジーの怒涛の逆転劇

と一部二部のラストは最高だったのに三部だけなんでこんなんなんだよ…


以下言いたいこと的に蛇足

まりにもひどい展開に気を取られて見逃しそうになったけど、そもそも肝心のSF部分も太陽系崩壊の後の展開強引過ぎるんだよな…

太陽系崩壊あたりまではじっくりゆっくり、正直かったるいレベル伏線やらエピソード入れて、なるほど!って思わせてきたのに

から次に強引な新設定でてきて…ジョジョ六部ラストかな?って感じ。

いやジョジョ好きだけど、こんだけの世界的な作品の締めなのかコレって感じ。

光速遅くなって以降ご都合展開の連続

小宇宙がどうとかあたりホント滅茶苦茶だし、そんだけ滅茶苦茶できるんなら雲天明くんだって会えたやろ…

部長くなり過ぎたけど宇宙新生まではやりたいし、なんかフツーのハッピーエンドはイヤだからこうしたって意図が透けて見える。

もう太陽系崩壊して約束の星に向かって飛んで行く所で終わるぐらいの方がマシだったなぁ

一応フォローというか言い訳するとめちゃくちゃ凄いSFだとは思ってますよ。

三部もおとぎ話の謎解きとかはめっちゃ面白かったしなぁ。人類がこのぐらいで大丈夫やろって対策バンカープロジェクトだけやって滅びるところとかは納得感あるし。

三体X未読で、この不快感はここに吐き出して終わりにしたいから読むつもりも無いけど、概要聞いた限り三体X書いた人もまったく納得いかなかったから補完したんだろうなと思った。

netflixドラマとかで三体原作読もうかな!って思った人はこんなところまで読んで無いとは思うけど、もし居たら二部までがオススメ

いやこれ読んでも読む気になる人なら三部読んでも大丈夫だろうけど。

2022-07-27

郅都

郅都(?) -?) 前漢時代河東郡楊県(現在山西省宏道県東南部)の出身である。 漢の文帝の時代には、漢の役人を務めた。 警部補時代法律を厳格に執行し、権力者を寄せ付けなかったため、「鷲」と呼ばれるようになった。

内容

1 バイオグラフィー

1.1 生まれから最初の数年間

1.2 強力なもの抑制する

1.3 強者に挑む

1.4 皇太子妃の不興を買う

1.5 閻魔大王総督

1.6 イーグルの死

2 評価

3 関連項目

4 参考文献

バイオグラフィー

最初の数年間

漢の文帝の時代、志杜は文官となり、次いで文帝の家来となった。 景帝の時代になってから将軍に昇進した。 その勇気ある助言によって、大臣たちを説得することができたのだ。

ある時、景帝に随行して上林宮に行った時、随行していた賈詡トイレを使っていると、突然イノシシトイレ突入してきたことがあった。 皇帝は志杜に、その目で嘉吉を救うように指示したが、武器を持った志杜は皇帝の体を守るだけで、行動を起こさない。 景帝が自ら武器を取って助けようとすると、子都は景帝の前にひざまずいて、「一人の妾を失えば、また一人が宮入りする、世に嘉吉のような女が不足するだろうか」と言いました。 陛下がご自身安全を軽視されるのであれば、国や皇太后をどこに置くというのですか?" 漢の景帝は、志杜の言葉を聞いて、賈賈をおいて、結局、イノシシは誰も傷つけずに、便所から逃げ出したのです。 この出来事を聞いた皇太后は大喜びで、志都に金百枚を褒美として与え、漢の景帝はそれ以降、志都を重用するようになった[1]。

強者への抑圧

前漢の初め、宮廷黄蓋の術によって国を治め、何もせずに治めるという方針をとった。 済南県には300余りの謝氏一族がいたが、彼らは強大で狡猾なため、済南の将軍は何もできなかったので、景帝は志都を済南の将軍に任命し、地方の有力者を治めるように命じた。 彼が済南県に到着すると、謝氏一族悪党の長をすべて処刑させ、他の謝氏一族は恐怖に震え、二度と法を犯すことを恐れなくなった。 済南県に赴任して1年後、県内には一切の残骸がなく、周辺の十数県の知事たちは皆、彼を上官のように尊敬していた[2]。

強力なものを避けるのではなく

その後、中尉に昇進し、北軍と都の警備を担当することになった。 有力者の顔色をうかがうことはしなかった。 宰相の周亜夫(しゅうあふ)は傲慢(ごうまん)で横柄(おうへい)だったが、彼に会うと頭を下げるだけで、ひざまずかないのだ。 文帝と景帝の時代には、民衆搾取が減り、平和で満足な暮らしができ、法を犯す人もほとんどいなかった。 法律王族親族貴族執行し、法律を破った者は官吏や人に関係なく、法律に従って厳しく罰せられました。 王室からは嫌われ、恐れられ、横目で見られ、陰では「鷲」と呼ばれ、その激しい法執行比喩とされた[3]。

皇太后陛下のご不興を買う

紀元前153年、漢の景帝の長男である劉栄が皇太子に任命された。 紀元前150年、劉協の母・王耀が密かに大臣を唆して景帝に李自成を皇后にするよう依頼し、景帝は激怒して劉協を臨江王として退位させた[4]。

紀元前148年、劉栄が勅令違反して菩提寺土地を流用して宮殿を建てたため、景帝は劉栄を呼び寄せて謁見させることにした。 劉栄は江陵現在湖北省江陵県)の北門から出発し、乗り込んだ馬車が壊れてしまったのだ。 江陵の人々は皆、目に涙を浮かべながら、「私の王は帰れない」と内心で言っていた[5]。

都に入った劉栄は、裁判のために尉官室に呼び出された。 劉栄は恐れをなして、景帝に礼状を書こうと筆と剣を求めたが、景帝はそれを許さなかった。 魏斉の侯爵、斗英は人を遣わして劉栄に静かにナイフペンを渡した。 長男の死を知った皇太后激怒し、法律を厳格に執行して甘受しようとしない財津を憎んだ。 景帝は彼を故郷罷免したが、その後、使者を送って延門県知事に任命し、近道で直接赴任させ、県の事務を処理する特権を与えた[6]。

燕門総督

漢の景帝の時代匈奴鉄騎兵が長年国境を侵し、国境の県は長い間未開拓のままであった。 彼の清廉潔白の名声を慕っていた匈奴は、彼が燕門の総督に任命されたことを知り、恐れおののいた。 匈奴の騎馬隊は退却し、燕門から遠ざかった。 死ぬまで延門に近づく勇気はなかったという。

匈奴はザイドゥの形をした人形を彫り、匈奴騎兵が馬上から撃つための標的として設置したのです。 ザイドゥを恐れて、匈奴騎兵は誰も目標を達成することができませんでした[7]。

イーグルの死

景行が再び財津を利用したことを知った道太后激怒し、直ちに逮捕を命じた。 景帝は「宰子は忠臣である」と宰子を擁護し、釈放の準備をした。 孫の劉栄の死も忘れず、斗太后は「臨江王は忠臣ではなかったか」と言った。 彼女仲介で、ついに志杜は殺された。 彼の死後まもなく、匈奴騎兵隊が燕門に再侵攻した[8]。

評価

彼は忠誠心が強く、公正で正直な官吏で、内部では権力者や有力者に立ち向かい、外部では外国侵略から身を守り、匈奴の神経をすり減らすほどの勇気を持った人物であった。 親族を倍加して仕えれば、政府の下で死んでも妻にはこだわらない」という有名な言葉があるが、これはまさに彼の官僚としての生き様を表している。 後世の人たちは、財津を高く評価していた。

司馬遷は『大史記』-巻122-「涼官伝説」の中で、「彼は素直な人であり、天下を争うほどの人であった」と賞賛している。

漢の成帝の時代大臣の顧雍はメモで志都を論じ、「趙に連波と馬遂がいて、強い秦は井戸を覗く勇気がなく、近漢に志都と魏商がいて、匈奴は砂幕に南下する勇気がない」と述べている。

唐の古書』巻194には、唐の中宗皇帝時代に、右補奇人陸遜が「漢が宰子を祀ると匈奴国境を避け、趙が李牧を任命すると臨湖は遠くに逃げた」と発言したことが記されている。

上記名前から、志都は戦国時代の趙の連波、趙奢、李牧など、「戦国武将国家の手先」とされた名将と肩を並べることになる[10][11]。

https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%83%85%E9%83%BD

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