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2022-07-27

郅都

郅都(?) -?) 前漢時代河東郡楊県(現在山西省宏道県東南部)の出身である。 漢の文帝の時代には、漢の役人を務めた。 警部補時代法律を厳格に執行し、権力者を寄せ付けなかったため、「鷲」と呼ばれるようになった。

内容

1 バイオグラフィー

1.1 生まれから最初の数年間

1.2 強力なもの抑制する

1.3 強者に挑む

1.4 皇太子妃の不興を買う

1.5 閻魔大王総督

1.6 イーグルの死

2 評価

3 関連項目

4 参考文献

バイオグラフィー

最初の数年間

漢の文帝の時代、志杜は文官となり、次いで文帝の家来となった。 景帝の時代になってから将軍に昇進した。 その勇気ある助言によって、大臣たちを説得することができたのだ。

ある時、景帝に随行して上林宮に行った時、随行していた賈詡トイレを使っていると、突然イノシシトイレ突入してきたことがあった。 皇帝は志杜に、その目で嘉吉を救うように指示したが、武器を持った志杜は皇帝の体を守るだけで、行動を起こさない。 景帝が自ら武器を取って助けようとすると、子都は景帝の前にひざまずいて、「一人の妾を失えば、また一人が宮入りする、世に嘉吉のような女が不足するだろうか」と言いました。 陛下がご自身安全を軽視されるのであれば、国や皇太后をどこに置くというのですか?" 漢の景帝は、志杜の言葉を聞いて、賈賈をおいて、結局、イノシシは誰も傷つけずに、便所から逃げ出したのです。 この出来事を聞いた皇太后は大喜びで、志都に金百枚を褒美として与え、漢の景帝はそれ以降、志都を重用するようになった[1]。

強者への抑圧

前漢の初め、宮廷黄蓋の術によって国を治め、何もせずに治めるという方針をとった。 済南県には300余りの謝氏一族がいたが、彼らは強大で狡猾なため、済南の将軍は何もできなかったので、景帝は志都を済南の将軍に任命し、地方の有力者を治めるように命じた。 彼が済南県に到着すると、謝氏一族悪党の長をすべて処刑させ、他の謝氏一族は恐怖に震え、二度と法を犯すことを恐れなくなった。 済南県に赴任して1年後、県内には一切の残骸がなく、周辺の十数県の知事たちは皆、彼を上官のように尊敬していた[2]。

強力なものを避けるのではなく

その後、中尉に昇進し、北軍と都の警備を担当することになった。 有力者の顔色をうかがうことはしなかった。 宰相の周亜夫(しゅうあふ)は傲慢(ごうまん)で横柄(おうへい)だったが、彼に会うと頭を下げるだけで、ひざまずかないのだ。 文帝と景帝の時代には、民衆搾取が減り、平和で満足な暮らしができ、法を犯す人もほとんどいなかった。 法律王族親族貴族執行し、法律を破った者は官吏や人に関係なく、法律に従って厳しく罰せられました。 王室からは嫌われ、恐れられ、横目で見られ、陰では「鷲」と呼ばれ、その激しい法執行比喩とされた[3]。

皇太后陛下のご不興を買う

紀元前153年、漢の景帝の長男である劉栄が皇太子に任命された。 紀元前150年、劉協の母・王耀が密かに大臣を唆して景帝に李自成を皇后にするよう依頼し、景帝は激怒して劉協を臨江王として退位させた[4]。

紀元前148年、劉栄が勅令違反して菩提寺土地を流用して宮殿を建てたため、景帝は劉栄を呼び寄せて謁見させることにした。 劉栄は江陵現在湖北省江陵県)の北門から出発し、乗り込んだ馬車が壊れてしまったのだ。 江陵の人々は皆、目に涙を浮かべながら、「私の王は帰れない」と内心で言っていた[5]。

都に入った劉栄は、裁判のために尉官室に呼び出された。 劉栄は恐れをなして、景帝に礼状を書こうと筆と剣を求めたが、景帝はそれを許さなかった。 魏斉の侯爵、斗英は人を遣わして劉栄に静かにナイフペンを渡した。 長男の死を知った皇太后激怒し、法律を厳格に執行して甘受しようとしない財津を憎んだ。 景帝は彼を故郷罷免したが、その後、使者を送って延門県知事に任命し、近道で直接赴任させ、県の事務を処理する特権を与えた[6]。

燕門総督

漢の景帝の時代匈奴鉄騎兵が長年国境を侵し、国境の県は長い間未開拓のままであった。 彼の清廉潔白の名声を慕っていた匈奴は、彼が燕門の総督に任命されたことを知り、恐れおののいた。 匈奴の騎馬隊は退却し、燕門から遠ざかった。 死ぬまで延門に近づく勇気はなかったという。

匈奴はザイドゥの形をした人形を彫り、匈奴騎兵が馬上から撃つための標的として設置したのです。 ザイドゥを恐れて、匈奴騎兵は誰も目標を達成することができませんでした[7]。

イーグルの死

景行が再び財津を利用したことを知った道太后激怒し、直ちに逮捕を命じた。 景帝は「宰子は忠臣である」と宰子を擁護し、釈放の準備をした。 孫の劉栄の死も忘れず、斗太后は「臨江王は忠臣ではなかったか」と言った。 彼女仲介で、ついに志杜は殺された。 彼の死後まもなく、匈奴騎兵隊が燕門に再侵攻した[8]。

評価

彼は忠誠心が強く、公正で正直な官吏で、内部では権力者や有力者に立ち向かい、外部では外国侵略から身を守り、匈奴の神経をすり減らすほどの勇気を持った人物であった。 親族を倍加して仕えれば、政府の下で死んでも妻にはこだわらない」という有名な言葉があるが、これはまさに彼の官僚としての生き様を表している。 後世の人たちは、財津を高く評価していた。

司馬遷は『大史記』-巻122-「涼官伝説」の中で、「彼は素直な人であり、天下を争うほどの人であった」と賞賛している。

漢の成帝の時代大臣の顧雍はメモで志都を論じ、「趙に連波と馬遂がいて、強い秦は井戸を覗く勇気がなく、近漢に志都と魏商がいて、匈奴は砂幕に南下する勇気がない」と述べている。

唐の古書』巻194には、唐の中宗皇帝時代に、右補奇人陸遜が「漢が宰子を祀ると匈奴国境を避け、趙が李牧を任命すると臨湖は遠くに逃げた」と発言したことが記されている。

上記名前から、志都は戦国時代の趙の連波、趙奢、李牧など、「戦国武将国家の手先」とされた名将と肩を並べることになる[10][11]。

https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%83%85%E9%83%BD

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2022-06-18

anond:20220618115144

栄町千葉県印旛郡栄町

廃止

栄町 (新潟県) – 新潟県南蒲原郡栄町(現:三条市

地名

さかえちょう

北海道地方

栄町 (函館市) – 北海道函館市地名

栄町 (室蘭市) – 北海道室蘭市地名

栄町 (根室市) – 北海道根室市地名

栄町 (千歳市) – 北海道千歳市地名

栄町 (登別市) – 北海道登別市地名

栄町 (北広島市) – 北海道北広島市地名

栄町 (八雲町) – 北海道二海郡八雲町地名

栄町 (洞爺湖町) – 北海道虻田郡洞爺湖町地名

栄町 (羅臼町) – 北海道目梨郡羅臼町地名

東北地方

栄町 (三沢市) – 青森県三沢市地名

栄町 (宮古市) – 岩手県宮古市地名

栄町 (久慈市) – 岩手県久慈市地名

栄町 (大槌町) – 岩手県上閉伊郡大槌町地名

栄町 (塩竈市) – 宮城県塩竈市地名

栄町 (気仙沼市) – 宮城県気仙沼市地名

栄町 (岩沼市) – 宮城県岩沼市地名

栄町 (酒田市) – 山形県酒田市地名

栄町 (寒河江市) – 山形県寒河江市地名

栄町 (南相馬市) – 福島県南相馬市原町区地名

栄町 (会津若松市) – 福島県会津若松市地名

関東地方

栄町 (ひたちなか市) – 茨城県ひたちなか市地名

栄町 (水戸市) – 茨城県水戸市地名

栄町 (常陸太田市) – 茨城県常陸太田市地名

栄町 (牛久市) – 茨城県牛久市地名

栄町 (常陸大宮市) – 茨城県常陸大宮市地名

栄町 (宇都宮市) – 栃木県宇都宮市地名

栄町 (足利市) – 栃木県足利市地名

栄町 (佐野市) – 栃木県佐野市地名

栄町 (鹿沼市) – 栃木県鹿沼市地名

栄町 (高崎市) – 群馬県高崎市地名

栄町 (桐生市) – 群馬県桐生市旧地名現在浜松町 (桐生市)の一部。

栄町 (館林市) – 群馬県館林市地名

栄町 (上尾市) – 埼玉県上尾市地名

栄町 (朝霞市) – 埼玉県朝霞市地名

栄町 (春日部市) – 埼玉県春日部市地名

栄町 (川口市) – 埼玉県川口市地名

栄町 (鴻巣市) – 埼玉県鴻巣市地名

栄町 (草加市) – 埼玉県草加市地名

栄町 (深谷市) – 埼玉県深谷市地名

栄町 (吉川市) – 埼玉県吉川市地名

栄町 (行田市) – 埼玉県行田市地名

栄町 (春日部市) – 埼玉県春日部市地名

栄町 (飯能市) – 埼玉県飯能市地名

栄町 (千葉市) – 千葉県千葉市中央区の地名。またこ地域存在する風俗街のことを指す。→栄町駅 (千葉県)

栄町 (船橋市) – 千葉県船橋市地名

栄町 (松戸市) – 千葉県松戸市地名

栄町 (佐倉市) – 千葉県佐倉市地名

栄町 (東京都北区) – 東京都北区地名付近には都電荒川線の駅栄町停留場 (東京都)もある。

栄町 (練馬区) – 東京都練馬区地名

栄町 (板橋区) – 東京都板橋区地名

栄町 (西東京市) – 東京都西東京市地名

栄町 (東京都府中市) – 東京都府中市の地名

栄町 (立川市) – 東京都立川市地名

栄町 (東村山市) – 東京都東村山市地名

栄町 (小平市) – 東京都小平市地名

栄町 (羽村市) – 東京都羽村市地名

栄町 (横浜市) – 神奈川県横浜市神奈川区地名ポートサイド地区の一部。

栄町 (三浦市) - 神奈川県三浦市にある地名

栄町 (相模原市) – 神奈川県相模原市南区の地名

栄町 (小田原市) – 神奈川県小田原市地名

栄町 (秦野市) – 神奈川県秦野市地名

栄町 (厚木市) – 神奈川県厚木市地名

中部地方

栄町 (新潟市西蒲区) – 新潟県新潟市西蒲区地名

栄町 (長岡市) – 新潟県長岡市地名

栄町 (柏崎市) – 新潟県柏崎市地名

栄町 (小千谷市) – 新潟県小千谷市地名

栄町 (加茂市) – 新潟県加茂市地名

栄町 (十日町市) – 新潟県十日町市地名

栄町 (妙高市) – 新潟県妙高市地名

栄町 (長野市) – 長野県長野市地名

栄町 (福井市) – 福井県福井市地名

栄町 (静岡市) – 静岡県静岡市葵区地名

栄町 (三島市) – 静岡県三島市地名

栄町 (磐田市) – 静岡県磐田市地名

栄町 (上市町) – 富山県中新川郡上市町地名

栄町 (豊明市) – 愛知県豊明市地名

近畿地方

栄町 (河原町通) – 京都府京都市上京区地名

栄町 (大宮通) – 京都府京都市上京区地名

栄町 (京都市下京区) – 京都府京都市下京区地名

栄町 (河内長野市) – 大阪府河内長野市地名

栄町 (小野市) – 兵庫県小野市地名

栄町 (加西市) – 兵庫県加西市地名

台湾

栄町 (台北市) – 台湾台北市旧地名

栄町 (嘉義市) – 台湾嘉義市旧地名

栄町 (高雄市) – 台湾高雄市旧地名

さかえまち

町名としての栄町(さかえまち)

北海道地方

栄町 (札幌市) – 北海道札幌市東区の町名

栄町 (釧路市) – 北海道釧路市地名

栄町 (北見市) – 北海道北見市地名

栄町 (岩見沢市) – 北海道岩見沢市地名

栄町 (留萌市) – 北海道留萌市地名

栄町 (苫小牧市) – 北海道苫小牧市地名

栄町 (滝川市) – 北海道滝川市地名

栄町 (富良野市) – 北海道富良野市地名

栄町 (当別町) – 北海道石狩郡当別町地名

栄町 (北海道森町) – 北海道茅部郡森町地名

栄町 (余市町) – 北海道余市郡余市町地名

栄町 (南幌町) – 北海道空知郡南幌町地名

栄町 (長沼町) – 北海道夕張郡長沼町地名

栄町 (上川町) – 北海道上川郡上川町地名

栄町 (美瑛町) – 北海道上川郡美瑛町地名

栄町 (上富良野町) – 北海道空知郡上富良野町地名

栄町 (増毛町) – 北海道増毛郡増毛町地名

栄町 (羽幌町) – 北海道苫前郡羽幌町地名

栄町 (枝幸町) – 北海道枝幸郡枝幸町地名

栄町 (幌延町) – 北海道天塩郡幌延町地名

栄町 (美幌町) – 北海道網走郡美幌町地名

栄町 (訓子府町) – 北海道常呂郡訓子府町地名

栄町 (湧別町) – 北海道紋別郡湧別町地名

栄町 (白老町) – 北海道白老郡白老町地名

栄町 (様似町) – 北海道様似郡様似町地名

栄町 (鹿追町) – 北海道河東郡鹿追町地名

栄町 (新得町) – 北海道上川郡新得町地名

栄町 (本別町) – 北海道中川郡本別町地名

栄町 (足寄町) – 北海道足寄郡足寄町地名

栄町 (浦幌町) – 北海道十勝郡浦幌町地名

東北地方

栄町 (青森市) – 青森県青森市地名

栄町 (弘前市) – 青森県弘前市地名

栄町 (五所川原市) – 青森県五所川原市地名

栄町 (能代市) – 秋田県能代市地名

栄町 (米沢市) – 山形県米沢市地名

栄町 (新庄市) – 山形県新庄市地名

栄町 (上山市) – 山形県上山市地名

栄町 (長井市) – 山形県長井市地名

栄町 (小国町) – 山形県西置賜郡小国町地名

栄町 (福島市) – 福島県福島市地名。市の中心街にあたる。

栄町 (郡山市) – 福島県郡山市地名

栄町 (会津若松市) – 福島県会津若松市地名会津若松市市街地の一部地域

栄町 (白河市) – 福島県白河市地名

栄町 (須賀川市) – 福島県須賀川市地名

栄町 (二本松市) – 福島県二本松市地名

関東地方

栄町 (沼田市) – 群馬県沼田市地名

栄町 (日野市) – 東京都日野市地名日野宮神社がある。

中部地方

栄町 (新潟市中央区) – 新潟県新潟市中央区の地名

栄町 (上松町) – 長野県木曽郡上松町地名

栄町 (富山市) – 富山県富山市地名

栄町 (氷見市) – 富山県氷見市地名

栄町 (砺波市) – 富山県砺波市地名

栄町 (七尾市) – 石川県七尾市地名

栄町 (小松市) – 石川県小松市地名

栄町 (勝山市) – 福井県勝山市地名

栄町 (多治見市) – 岐阜県多治見市地名

栄町 (関市) – 岐阜県関市地名

栄町 (中津川市) – 岐阜県中津川市地名

栄町 (中津川市) – 岐阜県本巣郡北方町地名

栄町 (浜松市) – 静岡県浜松市中区の地名

栄町 (焼津市) – 静岡県焼津市地名

栄町 (袋井市) – 静岡県袋井市地名

栄町 (岡崎市) – 愛知県岡崎市地名

栄町 (常滑市) – 愛知県常滑市地名

栄町 (豊橋市) – 愛知県豊橋市地名

栄町 (瀬戸市) – 愛知県瀬戸市地名

栄町 (半田市) – 愛知県半田市地名

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2017-05-19

天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。諸経の王とされる妙法蓮華経法華経)を根本経典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる[1]。天台教学中国に発祥し、入唐した最澄伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられた。

目次 [非表示]

1 日本天台宗

1.1 天台密教台密

1.2 四宗兼学

1.3 止観行

1.4 所依

1.5 主要寺院寺格

1.5.1 天台宗山門派

1.5.1.1 総本山

1.5.1.2 門跡寺院

1.5.1.3 大本山

1.5.1.4 別格本山

1.5.1.5 その他の寺院

1.5.2 天台寺門宗

1.5.3 天台真盛宗

1.6 その他天台系宗派

1.6.1 天台宗新宗教

1.7 教育機関

1.7.1 大学

1.7.2 天台宗中学校高等学校

1.7.3 養成機関

2 中国天台宗

3 韓国天台宗

4 社会運動

5 脚注・出典

6 関連項目

7 外部リンク

日本天台宗[編集]

正式名称天台法華円宗。法華円宗、天台法華宗、あるいは、単に法華宗などとも称する。但し、最後呼び名日蓮教学法華宗と混乱を招く場合があるために用いないことが多い。

初め、律宗天台宗兼学の僧鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍日本に入った。次いで、伝教大師最澄767年-822年)が延暦23年(804年)から翌年(805年)にかけて唐に渡って天台山にのぼり、天台教学を受けた。同年、日本帰国した最澄は天台教学を広め、翌年(806年)1月に天台法華宗として認められたのが日本における天台宗のはじまりである最澄特に飲酒に厳しい態度を取っており、飲酒するものは私の弟子ではなく仏弟子でもないからただちに追放するよう述べている。

この時代、すでに日本には法相宗華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。最澄日本帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出した。最澄はすべての衆生成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起こる。特に法相宗の徳一との三一権実諍論は有名である。また、鑑真和上が招来した小乗戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、大乗戒壇設立し、大乗戒(円頓戒)を受戒した者を天台宗僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問修行を修めるという革新的最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていないのは当然であるが)、南都の学僧が反論したことは当時朝廷は奈良仏教に飽きており、法相などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあった。論争の末、最澄の没後に大乗戒壇勅許下り名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。清和天皇の貞観8年(866)7月、円仁に「慈覚」、最澄に「伝教」の大師号が贈られた。宗紋は三諦星。

天台密教台密)[編集]

真言宗の密教を東密と呼ぶのに対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる。

当初、中国天台宗の祖といわれる智顗(天台大師)が、法華経の教義によって仏教全体を体系化した五時八教の教相判釈(略して教判という)を唱えるも、その時代はまだ密教は伝来しておらず、その教判の中には含まれていなかった。したがって中国天台宗は、密教を導入も包含もしていなかった。

しか日本天台宗宗祖最澄伝教大師)が唐に渡った時代になると、当時最新の仏教である中期密教が中国に伝えられていた。最澄は、まだ雑密しかなかった当時の日本では密教が不備であることを憂い、密教を含めた仏教のすべてを体系化しようと考え、順暁から密教の灌頂を受け持ち帰った。しか最澄帰国して一年後に空海弘法大師)が唐から帰国すると、自身が唐で順暁から学んだ密教は傍系のものだと気づき空海に礼を尽くして弟子となり密教を学ぼうとするも、次第に両者の仏教観の違いが顕れ決別した。これにより日本の天台教学における完全な密教の編入はいったんストップした。

はいえ、最澄自身法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していたのは紛れもない事実で、円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)などの弟子たちは最澄自身意志を引き継ぎ密教を学び直して、最澄の悲願である天台教学を中心にした総合仏教の確立に貢献した。したがって天台密教系譜は、円仁円珍に始まるのではなく、最澄が源流である。また円珍は、空海の「十住心論」を五つの欠点があると指摘し「天台と真言には優劣はない」と反論もしている。

なお真言密教東密)と天台密教台密)の違いは、東密大日如来本尊とする教義を展開しているのに対し、台密あくまで法華一乗の立場を取り、法華経本尊である久遠実成の釈迦如来としていることである

四宗兼学[編集]

また上記の事項から、同じ天台宗といっても、智顗が確立した法華経に依る中国天台宗とは違い、最澄が開いた日本天台宗は、智顗の説を受け継ぎ法華経を中心としつつも、禅や戒、念仏、密教の要素も含み、したがって延暦寺は四宗兼学の道場とも呼ばれている。井沢元彦はわかりやすい比喩として、密教の単科大学であった金剛峯寺に対して、延暦寺は仏教総合大学であったと解説している。

止観行[編集]

天台宗修行法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在日本天台宗修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。午前中は題目、つまり法華経読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏本尊とする行法(例時作法という)を行う。これは後に発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった。また、遮那業として、天台密教台密)などの加持も行い、総合仏教となることによって基盤を固めた。さらに後世には全ての存在仏性が宿るという天台本覚思想確立することになる。長く日本の仏教教育の中心であったため、平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗浄土宗浄土真宗臨済宗曹洞宗日蓮宗などの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。

所依[編集]

法華経

涅槃経

大品経

大智度論

主要寺院寺格)[編集]

天台宗山門派)[編集]

総本山[編集]

比叡山延暦寺滋賀県大津市

門跡寺院[編集]

滋賀院(大津市

妙法院京都市東山区

魚山三千院京都市左京区

青蓮院京都市東山区

曼殊院京都市左京区

毘沙門堂京都市山科区

大本山[編集]

関山中尊寺岩手県西磐井郡平泉町

日光山輪王寺栃木県日光市

東叡山寛永寺東京都台東区

定額山善光寺大勧進長野県長野市

別格本山[編集]

毛越寺岩手県西磐井郡平泉町

瑞国海岸観音寺宮城県気仙沼市

正覚山蓮前院安楽寺茨城県常総市

星野山中院(埼玉県川越市

狭山山不動寺(埼玉県所沢市

大鱗山雲洞院天龍寺埼玉県飯能市

浮岳山昌楽院深大寺東京都調布市

向山常楽寺長野県上田市

宝積山光前寺(長野県駒ヶ根市

龍谷山水間寺大阪府貝塚市

書写山圓教寺兵庫県姫路市

大山寺鳥取県大山町

山大興善寺(佐賀県基山町

六郷満山両子寺(大分県国東市

その他の寺院[編集]

谷汲観音寺北海道河東郡音更町

青柳山談義堂院龍蔵寺(群馬県前橋市

星野山喜多院(埼玉県川越市

谷汲華厳寺岐阜県揖斐郡揖斐川町

清香寂光院京都市左京区

根本山神峯山寺(大阪府高槻市

三身山太山寺兵庫県神戸市

補陀落山長尾寺香川県さぬき市

清水観世音寺福岡県太宰府市

海山大恩教寺釈迦院(熊本県八代市

阿蘇山西巌殿寺(熊本県阿蘇市) 

王寺熊本県山都町宮司豪族であった中世阿蘇氏の菩提寺である) 

天台寺門宗[編集]

総本山 長等山園城寺三井寺)(滋賀県大津市

天台真盛宗[編集]

総本山 戒光山西教寺(滋賀県大津市

その他天台系宗派[編集]

聖観音宗 

浅草寺東京都台東区

和宗

四天王寺

本山修験宗寺門派系)

聖護院京都市左京区

金峯山修験本宗

金峯山寺奈良県吉野郡吉野町

浄土真宗遣迎院派

遣迎院京都市北区

妙見宗

本瀧寺大阪府豊能郡能勢町

粉河観音宗

粉河寺(和歌山県紀の川市粉河

善峰観音宗

善峰寺京都府京都市西京区

天台宗新宗教[編集]

念法眞教

孝道教団

鞍馬弘教

教育機関[編集]

大学[編集]

大正大学

天台宗中学校高等学校[編集]

比叡山中学校・高等学校

駒込中学校・高等学校

養成機関[編集]

叡山学院

 
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