はてなキーワード: 遼東とは
論文紹介2
論文タイトル:Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages
掲載誌:Nature (2021年, 599巻, 616-621頁)
著者:Robbeets M., Bouckaert R., Conte M., Savelyev A., Li T., An D., Shinoda K., Cui Y., Kawashima T., Kim G., Uchiyama J., Dolińska J., Oskolskaya S., Yamano K, Seguchi N., Tomita H., Takamiya H., KanzawaKiriyama H., Oota H., Ishida H., Kimura R., Sato T., Kim J., Deng B., Bjørn R., Rhee S., Ahn K.-D., Gruntov I., Mazo O., Bentley J., Fernandes R., Roberts P., Bausch I., Gilaizeau L., Yoneda M., Kugai M., Bianco R., Zhang F., Himmel M., Hudson M., Ning C.
ユーラシア集団において、日琉語族、朝鮮語族、ツングース語族、モンゴル語族、およびチュルク語族などのトランスユーラシア語族の起源と初期の拡散については、もっとも議論されている問題のひとつです。
重要な問題は、言語拡散、農業拡大、人口移動の関係です。Robbeetsらは、遺伝学、考古学、言語学の広範なデータセットから統一的な視点で解析することにより、この問題に取り組みました。
それにより、トランスユーラシア語族の共通祖先と最初の拡散は、初期新石器時代以降に東北アジアを横断した最初の農耕集団に遡ることができ、それらは青銅器時代以降の広範な文化交流によって覆い隠されてきたことが示されました。
これら3つの分野が大きな進展し、その証拠の組み合わせることによって、トランスユーラシア語族の初期の拡散が農耕によって推進されたことが明らかになりました。
最近の古代DNA研究のブレークスルーによって、ユーラシアにおけるヒトと言語と文化の拡散の関連が見直されていますが、依然として西ユーラシアと比べて東ユーラシアのついての理解は乏しいのが現状です。
本研究で着目する内モンゴル、黄河、遼河、アムール川流域、ロシア極東、朝鮮半島、そして日本列島を含む北東アジアについても、遺伝学に重点を置いたものや、既存のデータセットのレビューに限定したものなどのいくつかの例外を除いて、北東アジアを対象とした学際的なアプローチはほとんどありません。
トランスユーラシア語族(「アルタイ語族」として知られる)の言語的関連性は、有史以前の言語において最も論争が多い問題の一つです。
トランスユーラシア語族とは、ヨーロッパと北アジアに広がる地理的に隣接した言語の大きなグループを指し、5つの言語族(日琉語族、朝鮮語族、ツングース語族、モンゴル語族、チュルク語族)を含んでいます。
この5つのグループが単一の共通祖先から派生したかが問題となるのですが、長年に渡って、言語が継承されたのか、それとも借用によるものなのかが議論されてきました。
最近では、これらの言語間の共通性の多くは確かに借用によるものだとしても、トランスユーラシア語族は信頼できる確かな系統グループだとする証拠も示されています。
この系統グループを受け入れた場合、これらの時間的深度や場所、文化的アイデンティティ、拡散ルートなどの新たな疑問が生じます。
そこで彼女らは、トランスユーラシア語族の初期の拡散が紀元前4000年紀に東部ステップで始まった遊牧民の拡散だとする従来の「牧畜民仮説」に対して、これらの拡散が「農耕/言語拡散仮説」の範囲内である「農耕仮説」を提唱することで、課題の解決を試みました。
これらの課題は言語学の枠を超えているので、考古学と遺伝学を統合した「トライアングレーション」と呼ばれるアプローチで取り組んでいます。
言語学からは、98のトランスユーラシア語族について、方言や歴史的変化を含んだ254の基礎語彙を示すデータセットを用いて、ベイズ法による系統解析を行っています。原トランスユーラシア語族は9181 BP(5595–12793BP, 95%信頼区間)、原アルタイ語は6811 BP(4404-10166 BP)、モンゴル・ツングース語は4491 BP(2599-6373 BP)、日本と韓国語は5458 BP(3335-8024 BP)を示しました。
また、トランスユーラシア語族の空間的な拡大をモデル化した結果、これまでのホームランドとされていたアルタイ、黄河、内モンゴルの大興安嶺山脈、アムール盆地などではなく、初期新石器時代の西遼河流域がトランスユーラシア語族の起源地であることを支持する結果を得ています。
さらに、再構築した農耕牧畜の原語を用いた定性分析によって、たとえば新石器時代に分離した共通祖語では耕作や雑穀に関する語彙を継承するなど、特定の地域・時期の祖先原語集団の文化的項目が特定されました。
一方で、コメ・麦の栽培、牛・馬などの家畜などは青銅器時代の人々の言語的交流による借用とされました。
よって、言語学からは牧畜民仮説ではなく、農耕仮説を支持しています。
考古学からは、255の遺跡の文化的類似性によってクラスタリングしたベイズ解析の結果を示しています。
北東アジアの新石器時代の植物栽培はいくつかの中心地から拡大しており、そのうち9000年前に西遼河流域で始まったキビがトランスユーラシア語族にとって重要となります。
解析の結果、新石器時代の西遼流域に文化的クラスターがあり、そこから雑穀栽培に関連した2つの分岐(韓国のチュルムン分岐とアムール、沿海、遼東にわたる新石器時代の分岐)があることがわかりました。
このことは、雑穀農耕が 5500 BPには韓国に、5000 BPにはアムール川を経由して沿海州に伝播したことを示すこれまでの知見を裏付けています。
さらに、西遼河地域の青銅器時代の遺跡は、韓国の無文遺跡や日本の弥生遺跡とクラスターを形成しており、4000年前の遼東-山東地域の農業パッケージが、米や小麦で補完されていたことを反映しています。
これらの作物は、初期青銅器時代(3300~2800 BP)には朝鮮半島に、3000 BP以降には日本に伝わりました。
遺伝学では、アムール、韓国、日本の九州と琉球列島の23体の古代人ゲノムを取得し、先行研究の古代東アジア人および現代ユーラシア大陸集団のゲノムデータと統合して解析しています。
西遼河地域では初期新石器時代のゲノムは欠くものの、西遼新石器時代の雑穀農民はアムール的遺伝要素をかなり含んでおり、時代とともに徐々に黄河流域のゲノムに移行しています。
解析の結果から、このアムール的遺伝要素は、バイカル、アムール、沿海州、南東ステップ、西遼河を覆う新石器時代以前(あるいは後期旧石器時代)の狩猟採集民の本来の遺伝子プロファイルであり、それがこの地域の初期農民に引き継がれていると考えられます。
アムール的遺伝要素は日本語や韓国語の話者にまで遡ることができることから、トランスユーラシア諸語の話者に共通する本来の遺伝的要素と考えられます。
韓国の古代ゲノム解析では、朝鮮半島南岸の新石器時代人で縄文的遺伝要素がみられました。
一方で、同じく南岸の新石器時代のAndoでは縄文的遺伝要素は見られませんでした。
このことは新石器時代の朝鮮半島南部では縄文人の祖先が不均一に存在したことを示しています。
時代が下って、青銅器時代の韓国西岸部の瑞山市にあるTaejungniには、縄文的遺伝要素は見られませんでした。
また、現代韓国人への縄文人的遺伝要素の寄与は限定的であることから、新石器時代から現代にかけて減少していることが見て取れます。
Taejungniに縄文的遺伝要素が見られないことは、縄文的遺伝要素を持たない初期の集団が稲作を伴って朝鮮半島に移動し、縄文的遺伝要素を持つ新石器時代の集団に取って代わったことを示唆しています。
ただし、サンプルサイズと対象範囲が限られていることから、この仮説の検証にはもう少し多くの人骨のゲノム解析が必要です。
私の意見を述べるならば、私たちが分析した韓国南部の大邱市の南東部にある三国時代の完山洞古墳群の出土人骨のDNAも、現代韓国人と同程度に縄文的遺伝要素を受け継いでいることから、完全に入れ替わったとする考えには賛同しかねます。
以上よりRobbeetsらは、朝鮮半島への農耕の伝播は、新石器時代の雑穀栽培の導入は紅山文化、青銅器時代の稲作の導入は夏家店上層文化というように、アムール川流域と黄河流域からの異なる遺伝子流動の波と関連づけることができると述べています
以上の言語学的、考古学的、遺伝学的証拠から、これらの分野の間に明確なつながりがあることがわかります。
これらの統合により、トランスユーラシア語族の起源は、新石器時代の東北アジアにおける雑穀栽培の開始と初期のアムール的祖先集団にまでさかのぼることが示されました。
これらの言語の伝播には、農耕や遺伝子の拡散と同様に、大きく分けて2つの段階を含みます。
第一段階は、トランスユーラシア語族における主要な分裂に対応し、新石器時代前期から中期にかけて、アムール的遺伝要素を持つ雑穀農耕集団が西遼河から隣接する地域へ拡散した時期に該当します。
第二段階は、5つの言語族間の言語接触に対応し、後期新石器から青銅器、鉄器時代にかけて、アムール的遺伝要素を持つ雑穀農耕集団が黄河や西ユーラシア、縄文人と混血したときに、稲作や牧畜などを農耕パッケージに加えました。
本研究では、東北アジアにおける雑穀栽培の二つの中心地が、黄河流域のシナ・チベット語族と西遼河流域のトランスユーラシア語族の起源と関連していると示唆しています。
朝鮮半島に関しては、紀元前6000年頃に黄河流域および西遼河地域の各農耕集団が沿海州に拡大して混血し、それが朝鮮半島に持ち込まれたと考えられます。
その後、3300 BPに遼東−山東地域の農耕集団が朝鮮半島に移住して米や麦をもたらしました。
この農業パッケージが3000年前に九州に伝わり、本格的な農耕への移行と縄文系と渡来系の混血、および日琉語族への言語的転換が起きました。
https://www.eurekalert.org/news-releases/934103?language=japanese
Peer-Reviewed Publication
MAX PLANCK INSTITUTE FOR THE SCIENCE OF HUMAN HISTORY
ドイツのマックス・プランク人類史科学研究所を中心にした、中国、日本、韓国、ヨーロッパ、ニュージーランド、ロシア、米国の研究者を含む国際チームが11月10日Nature誌に発表された論文は、
言語拡散の「農耕仮説」を学際的に支持し、トランスユーラシア言語の最初の拡散が東北アジアにおける新石器時代前期のキビ・アワ農耕民の移住と関連すると結論する。
新たに解析された中国、韓国および日本の古人骨ゲノム、広範な考古学データベース、および98言語の語彙概念の新しいデータセットを使用して、トランスユーラシア言語の祖先コミュニティの時間の深さ、場所、および分散ルートを三角測量で分析した。
言語学、考古学、遺伝学から得られる証拠によると、トランスユーラシア言語の起源は西遼河地域のキビ栽培の始まりおよび初期のアムール遺伝子プールまでさかのぼる。
研究チームの考古学的な結果は、約9000年前にキビの栽培を開始した西遼河流域にも焦点を当てる。
.....
韓国の欲知島 Yokchido 遺跡出土の女性人骨のDNAが95%縄文という結果が得られた。
年代は新石器時代中期、紀元前3500―2000年と推定する。
欲知島 以外の二箇所の韓国新石器時代の遺跡のサンプルも、10 ―20% の縄文系DNAを持ったことが解明された。
これは九州などの縄文文化との交易によってできたか、元々縄文系のヒトが半島にいたかどうかは今後の研究が必要とする課題である。
今回の研究では、北部九州の弥生時代遺跡福岡県安徳台および隈・西小田を二箇所DNA分析して、今までより弥生時代の「渡来人」の遺伝的な位置づけが解明された。
サンプルはマックス・プランク人類史科学研究所のマーク・ハドソンが発掘した宮古島の南嶺の長墓遺跡(パインミヌナガバカ、以下、長墓遺跡)から出土された人骨である。
近世の人骨は現代沖縄人とほぼ同じ約20%の縄文DNAを持つ。
言語学や考古学の結果と合わせると、中世(グスク時代)に九州からたくさんのいわゆる「本土日本人」が農耕と琉球語を持ちながら、琉球列島へ移住したと推定できる。
この結果は、沖縄人が縄文人の系統を引くと結論する埴原和郎の「二重構造仮説」と矛盾する。
一方、長墓遺跡の先史人は100%縄文という結果が解明された。
これは従来の先島先史時代の人々が台湾またはフィリピンなどから由来した「南方説」と矛盾する。
宮古島の先史時代は縄文系の土器などの物質文化は確認されていないが、ゲノムレベルでは縄文の人々であった。
八重山の先史人も縄文系かどうか、あるいは台湾からについては今後の分析が必要が、今回の研究では縄文文化と縄文ゲノムが必ずしも一致しないことが一つの大きいな結果である。
アルタイ語族が否定されアルタイ諸語となり、古人骨ゲノム研究の成果によりトランスユーラシア語族(Transeurasian languages)へと発展するとは面白いことだ。
やはり遼河流域は黄河・長江に劣らぬほど、東アジアの歴史にとってキーポイントなのだ。
Transeurasian ├── Japano‑Koreanic │ ├── Japonic │ └── Koreanic └──Altaic ├── Tungusic └── Turko‑Mongolic ├── Mongolic └── Turkic
人心を鎮撫して安寧秩序を回復し住民の生命財産を保障するの義務がある。嘗て日清戦役の際は戦局の進展に伴ひ、第一軍は先づ安東縣に民政廳を置き、次いで海域に海域善後公署を置き、又營口民政署を置いて軍政を司らしめ。第二軍は金州城を陥るゝと同時に金州城行政廳を置き、次いで旅順口行政署を置き、更に蓋平、復州、貔子窩に各行政署を起き金州城行政廳長官の式に属せしめた。日露戦役の際には樞要の地に軍政署を置き、軍政委員を任命した。後遼東守備軍の編成により遼東守備軍行政規則を發布して軍政委員を統轄せしめ、租借地内にては殆んど全部の行政を擔當せしめ、租借地意外にては普通民政は清國官憲に擔當せしめ、軍政委員は軍隊の便益を図り、傍ら地方官憲監督の任に當らしめた。後遼東守備軍復員により租借地には民政署を置き民政長官を任命した。
戦闘部隊の前進に随ひ占領地域は益々擴大さるゝが故に機關を設け軍政を司らしむる必要あるは明かなるも、前述の如く領土の性質曖昧なるにより、其の権力の行使は必要以内に止め成るべく其の地方の法規慣習を尊重して事に當り、又地方住民をして自治的の行動を採らしむるを要す。而して第三國人の關係に就き特に細心の注意を拂ひ、無益の國際問題を惹起せざるべく努むべきである。(八月二十八日稿)
<五六>
『外交時報 第八十四巻』昭和十二年、外交時報社、pp.47-56
篠田治策
明治四十年(千九百七年)十月十八日海牙に於いて調印せられたる開戦に關する條約第一條によれば、一國が他國と戦争を開始するには理由を附したる開戦宣言の形式又は條件付附開戦宣言を含む最後通牒の形式を有する明瞭且つ事前の通告をなすことを要す。故に現在北支及び上海方面に於いて進展しつゝある日支両國の戦闘は、理論上之を日支戦争又は日支戦役と称すべきものに非ずして、事變即ち北支事變、又は上海事變と称すべきものである。我が政府の公文にも新聞紙の報道にも総べて事變の文字を用ゆるは之れが為めであると思はる。換言すれば宣戦の布告を見るまでは、戦争又は戦役と呼ばずして軍に事變と称し、両國間の國交は断絶せざるのである。之れを先例に徴するも、明治二十七・八年の清國との戦、明治三十七・八年の露國との戦、世界大戦参加による青島攻撃戦等は、之れを日清戦争(戦役とも称す以下同じ)、日露戦争、日独戦争と称し、明治三十三年の義和団事件、近年に於ける済南出兵、上海出兵、満州出兵等は、総べて之れを事變と称したのである。
此の招呼は従来何よりて定まりしか詳知せざれども、現今に於いては確然明白に区別せらるるは、政府の公文或は法規等にも「戦時事變に際し」云々等の文字を用ゆるも明らかである。故に日支両國の何れかより
<四七>
宣戦の布告若くは條件附開戦宣告を含む最後の通牒あるまでは、如何に大部隊の衝突あるも未だ事變の域を脱せずと謂ふべきである。猶ほ八月二十三日ワシントン發の同盟通信によれば、アメリカ國務長官コーデル・ハル氏は、今回の北支事變に際しては終始冷静な態度を持し形成を注視しつつあつたが、二十三日午後聲明を發し、日支両國政府に対し「戦争行為に訴へぬよう」要請した由である。二十三日は我が陸軍の部隊が上海附近に上陸を開始した日である。即ちハル長官も現在の日支両軍の戦闘行為を以て、未だ戦争に非ずと見て居るのである。然れども、我が政府は最初に宣言したる事件不拡大の方針を余儀なく抛棄したるのみならず在外艦隊司令長官は支那船舶に対し沿岸封鎖を断行し、支那も亦縷々大部隊を動員して攻撃的態度を採りつゝあるにより、或は近き将来に於いて事變を変じて戦争となるべき可能性ありと信ずるのである。
我が國の國内法に於いては事變と戦争を区別せざる場合多く、例へば出征軍人の給奥、恩給年限の加算、叙勲に關する法規など総べて事變と戦争を同一に取扱ふも、國際法上にては事變と戦争は大なる差別がある。
即ち現在の事變が変じて戦争となれば、日支両國は所謂交戦國隣、共に戦争放棄を遵奉する義務を生じ、同時に中立國に対しても交戦國としての権利と義務を生じ、中立國は皆交戦國に対して中立義務を負担するに至るのである。語を換へて言へば事の事變たる間は必ずしも國際法規に拘泥するの必要なきも、一旦戦争となれば戦場に於いて総べて國際放棄を遵守すべき義務を生ずるのである。然れども事變中と雖も正義人道に立脚して行動し、敵兵に対し残虐なる取扱を為し、良民に対し無益の戦禍を蒙らしむるが如きは努めて之れを避くべきは言を待たずである。此の點に關しては、皇軍は我國教育の普及と伝統的武士道精神により、毎に正々堂々たる行為を以て範を世界に示しつゝあるは欣快である。嘗て済南事變の際支那兵が邦人に
<四八>
対する残虐視るに忍びざる殺戮行為、今回の通州に於ける邦人虐殺行為等天人共に許さゞる野蛮行為に対しても、敢て報復の挙に出づることなく、飽くまで正々堂々唯だ敵の戦闘力を挫折するに留めたのみである。故に皇軍には戦場に於いて事變と戦争を区別する必要はない。何れの場合にも武士道精神に則り行動するが故に、戦争違反の問題を生ずることは殆んど無いのである。
従来我が陸軍は戦場に於いて戦時國際法適用の万全を期せんが為目に戦時國際法の顧問として日清戦争には故有賀長雄博士を、日露戦争には第一軍乃至第四軍に何れも二人づつの國際法学者を従軍せしめたのである。日清戦役後仏國の國際法学者にして同國大審院検事長たるアルチュール・デジャルダン氏は日本軍の行動を激賞し左の如くに曰つた。
東洋の僻隅に大事業を成就すべき一國あり、之れを日本とす。其の進歩は単に戦争の術に止まらず、戦時公法の理想に於いても欧州をして驚嘆せしむるものあり。國際法論は欧州に於いても漸を以て進みたるものなるに、日本は一躍して此の論理を自得したり。是れ果して高尚なる正義を感得したるに因るか將た又利害を商算したるに因るかは別論に属すと雖も、其の之れを寛行するや極めて勇壮にして、恰も自國の能力を覚知する心念の中より適宜に之れを節抑するの嗜好を自然に生じたるものの如し。是れ人類一般の利益として祝す可き所なり。
又仏國の國際法学者ポール・フォーシル氏も、當時日本軍の行動を評して左の如く曰つた。
此の戦役に於いては日本は敵の万國公法を無視せるに拘はらず、自ら之れを尊敬したり。日本の軍隊は至仁至愛の思想を體し、常に慈悲を以て捕虜の支那人を待遇し、敵の病症者を見ては未だ全て救護を拒ま
<四九>
ざりき。日本は尚ほ未だ千八百六十八年十二月十一日の聖比得堡宣言に加盟せずと雖も、無用の苦痛を醸すべき兵器を使用することを避け、又敢て抵抗せざる住民の身體財産を保護することに頗る注意を加へたり。日本は孰れの他の國民も未だ會て為さゞる所を為せり。其の仁愛主義を行ふに熱心なる、遂に不幸なる敵地住民の租税を免じ、無代償にて之れを給養するに至れり。兵馬倥偬の間に於いても人命を重んずること極めて厚く、凡そ生霊を救助するの策は擧げて行はざる無し。見るべし日本軍の通過する所必ず衛生法を守らしむるの規則を布きたるを、云々。
日清戦役にては敵軍は全然國際法を守らざるが故に、我軍にても之れを守るの義務無かりしも、然も四十餘年前に完全に之れを守つて先進國を驚嘆せしめた。日露戦役當時は海牙の平和條約調印後なりしが故に、陸戦法規を守るべき義務ありしも、尚ほ宣戦の詔勅中にも「國際法の範囲内に於いて一切の手段を盡し違算なからしむることを期せよ」と宣せられ、参謀総長は訓令を發して戦規遵奉の趣旨を周知せしめ、更に前期の如く各軍司令部に國際法顧問を配属せしめた。戦役中特別の任務を以て米國に派遣せられた法学博士男爵金子堅太郎氏が歸朝の後國際法学会にて為したる演説中に左の要旨の一説がある。
米國人は事實の真相を調査せず、動もすれば國際法違反を称するを以て之れに対する材料を蒐集中、新聞紙上にて我が第一軍乃至第四軍に國際公法専攻の学者二名宛を配属し、陸戦の法規解釈其の適用は参謀部に於いて國際法専攻の学士と協議せしめ、公法違反を生ぜしめざることを發見せり。是に於いて各種の集会に於ける演説或は新聞記者との会見に於いて余は毎に「米國人は國際公法を提唱す日本政府の決心は露國は大國なり腕力に於いては或は露國は日本に勝るならん、貴國人が露西亞の聲を聞き戦慄す
<五〇>
る程の大國なれば、日本も恐れざるに非ず、然し國家の危急存亡に代えられざれば全滅を賭して最後の一人まで戦ふにあり、而して此の戦争に日本が國際法を破りしことあらば世界の歴史に汚名を遺すが故に假令戦に敗るるも國際法は遵奉する決心にて現に此の如く専門学者が各軍に配属せられあり、故に余は日本軍に國際法違反無きを保證す」と説明せるに、此の説は次第に傅播して後には日本同情者が各所にて演説等をなす時、日本軍が國際公法家を二名づつ従軍せしめたる事實を述ぶる毎に非常に喝采を博したり。又エール・ハーバード等の米國國際法大家と会見せる際彼等は各國共に今度日本が外國との戦争に國際法学者を従軍性せしめたる如き前例なし、将来日本の新例に倣ふべきことにして、右は一進歩を陸戦の法規に與へたるものなりとして大いに称賛したり。之れ實に日本陸軍の今回の處置は文明國の真價を世界に示したるものと謂ふべし。云々。
世界大戦の時は、青島攻撃軍に嘗て筆者と共に日露戦役当時第三軍に在勤したる兵藤氏が従軍したるを聞きしも、其の職名を詳かにせず。又浦鹽派遣軍には主として外交官をもつて組織したる政務部を置いた。此の政務部は主として外交方面の事務に従事したるも、亦國際公法の適用に關して其の権威たりしは勿論である(筆者も數ヶ月間此の政務部に派遣されて居つた。)
過去に於ける皇軍の行動は實に右の如く最も鮮かであり、所謂花も實もある武士的行動であつた。斯かる傳統的名誉を有する行軍の行動は今回の事變に際しても決して差異あるべき筈は無い。理論上事變は國際戦争に非ざるの故を以て、節制無き行動に出づるが如きは想像だに及ばざるところである。
唯だ、陸戦法規の適用に關し、茲に疑問の生ずるは領土の性質である。假りに之れを中華民國
<五一>
の領土なりとせば、國交断絶を来さず単に事變たる間は、未だ之れを敵國領土と称するを得ざるが故に、出征軍は如何なる程度に其の権力を行使すべきか、又南京政府の官吏は既に逃亡し、地方の民衆自ら自治政権を樹立したりとせば、國家として列國の承認無きも、戦闘地域を其の領土として取り扱ふべきか等の問題である。
宣戦の布告により事變が變じて日支戦争となりたる場合に於いて、北支一帯が依然として中華民國の領土なりとせば、問題は至つて簡単にして、我軍は之れを支配して軍政を施行し治安を維持するのみである。然れども事變として繼續中及び新政府の領土となりし場合には、其の地域に行使すべき軍の権力に多少の差異あるべきは明らかである。
日露戦役の際は戦闘の地域に性質を異にする三種類の領土があつた。即ち樺太の如き完全なる敵國領土と遼東半島及び東清鐡道沿線附属地の如き敵國の租借地と、満州一帯の如き第三國の領土があつた。樺太に關しては完全に我が占領軍の権力を行使したるは勿論なるも、租借地に關しては租借権其物の性質すら学者間に議論一定せず、如何なる原則に基きて之れを占領すべきかは問題であつた。筆者は遼東半島上陸後直ちに此の問題に直面し、又間も無く着手したるダルニー(大連)の整理に際して実際問題に逢着した(拙著日露戦役國際公法第二章三章)。又当時諸國は局外中立を宣言したるも、遼東以東は之れを除外し日露両國の戦場たらしめるが故に、所謂喧實奪主の観ありて、交戦國は任意に此の地域に活動したるも、其の権力の講師には純然たる敵地占領とは自ら異なるものがあつた。
今回の北支事變に於いても、其の交戦地域の領土の性質が曖昧なるに於いては、日露戦役当時の先例を参
<五二>
考にして之れに善処し、然も恩威併行、皇風をして六合に洽からしむるの用意あるを要す。
従来北支方面は日・満・支に微妙なる關係を有し、外交に政治に極めて複雑なる舞臺であり、事變の原因も一部は其処に在つた。故に平和克復の後は雨降って地固まり、明朗なる新天地を現出して再び颱雨の發生地たること無からしめねばならぬ。従って陸戦法規の適用に当たりても緩急宜しきを制し、傍ら戦後の政治的工作に關する其の地均しの役目を引受lくるを必要と考へられる。固より事變であり、戦争であるに拘らず、我が武士道の精神と殆んど一致する陸戦法規は完全に適用せらるゝは疑ひなきも、其の間事に輕重あり、絶大の権力を有する軍司令官に禁止事項の外は自由裁量の余地あるかは明かである。
陸戦法規の條項を北支の事情と敵軍の素質に対照して一々之れを論究するは、紙面の許さゞるところなるにより、筆者が茲に希望するところを一言に表示すれば、過去の二大戦役にて、克く陸戦法規を遵守して皇軍の名誉を輝かしたる如く、此の事變に於いてもこの點に注意を拂ひ、更に占領地住民に対しては軍律を厳重にし軍政に寛仁にすべしと謂ふのである。
凡そ遣外軍隊は一地方を占據すると同時に、軍隊の安全と作戦動作の便益を図るが為めに、無限の権力を有するが故に、軍司令官は其の占據地域内に軍律を發布して住民に遵由するところを知らしめ、軍隊の安全と作戦動作の便益を害する者には厳罰を以て之れに蒞み、同時に一般の安寧秩序を保持し良民をして安んじて其の生業に従事せしめねばならぬ。固より戦闘に關係なき事項は其の地従来の法規により、其の地方の官吏をしてその政務に当たらしめ、以て安寧秩序を回復維持瀬しむるを便宜とするも、事苟も軍隊の安危に關するものは最も厳重に之れを取締らざる可からず。假令ば一人の間諜は或は全軍の死命を制し得べく、一條の
<五三>
軍用電線の切断は為めに戦勝の機を逸せしめ得るのである。故に軍司令官は此等の危害を豫防する手段として、其の有する無限の権力を以て此等の犯罪者を厳罰に處し、以て一般を警めねばならぬ。故に豫め禁止事項と其の制裁とを規定したる軍律を一般に公布し、占據地内の住民に之れを周知せしむる必要がある。日清戦役の際は大本営より「占領地人民處分令」を發布して一般に之れを適用した。日露戦役の際は統一的の軍律を發布せず、唯だ満州軍総司令官は鐡道保護に關する告諭を發したるのみにて各軍の自由に任せた。故に各軍區々に亘り第一軍にては軍律の成案ありしも之れを發布せず、単に主義方針として参考にするに止め、第二軍には成案なく、第三軍にては確定案を作成したるもの総司令部より統一的軍律の發布あるを待ち遂に之れを公布するの機を失し、遼東守備軍は第三軍の軍律を参照して軍律を制定發布したりしが、後遼東兵站監は之れを改正して公布した。旅順要塞司令部は特に詳細なる規定を發布し、旅順口海軍鎮守府も別に軍律を發布し、第四軍にては一旦之れを發布したるも後に之れを中止し、その他韓國駐剳軍、及び樺太軍は各々軍律を發布した。
軍律に規定すべき條項は其の地方の状況によりて必ずしも劃一なるを必要とせざるも、大凡を左の所為ありたるものは死刑に處すると原則とすべきである。
四、敵兵を誘導し、又は之れを蔵匿したる者
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六、一定の軍服又は徴章を着せず、又は公然武器を執らずして我軍に抗敵する者(假令ば便衣隊の如き者)
九、俘虜を奪取し或は逃走せしめ若くは隠匿したる者
而して此等の犯罪者を處罰するには必ず軍事裁判に附して其の判決に依らざるべからず。何となれば、殺伐なる戦地に於いては動もすれば人命を輕んじ、惹いて良民に冤罪を蒙らしむることがあるが為めである。軍律の適用は峻厳なるを以て、一面にては特に誤判無きを期せねばならぬ。而して其の裁判機関は軍司令官の臨時に任命する判士を以て組織する軍事法廷にて可なりである。
帝國政府が屢々聲明する如く、我國は決して北支を侵略して我が領土となすが如き意圖を有せざるも、今回の事變によりて北平天津地方より支那軍隊を駆逐し、現に事實上その地方を占據し、戦局の進展に伴日、占據地域を拡大しつゝある。而して此の地方住民が自治政権を樹立したるとするも、我軍の支援無くしては一日も安定し得ざるは明かである。故に如何なる外交辞令を用ゆと雖も、此の地方は一時的にもせよ事實上我軍の占領地である。勿論日支両軍衝突の一時的現象に止まり、永久に之れを占領するの意思無きが故に此
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我軍が一時的なりとも北支地方を占領したる以上は、我軍は其の地方の人心を鎮撫して Permalink | 記事への反応(1) | 11:41