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2024-07-25

anond:20240725071636

新しい史料発見されたり、既存史料評価を改めたりするのは一定時期で終わるはず。

最近でも「秀吉書状の写しが新たに発見された」ってニュースあったし、資料発見一定期間で終わるという認識がまず間違いじゃないかと。

2024-07-24

大手ニュースメディアのCNNインタビューで『信長は弥助を神だと思っていた』と語った根拠は気になる

アフリカ人奴隷を使うと言う流行が始まった』と言い出したのは氏が初ではないかも知れないが、

氏が大手ニュースメディアCNNで語っていた、『信長は弥助を神だと思っていた』『日本で最も有名な外国まれ武士となった』

ヤスケの仕事一族権力を守ることでした』(信長の首を守護し息子に届ける) の根拠はそれぞれそれなりに気になる

日本人が知らない、少なくとも教科書では習わない事実なので純粋に興味があるよ

African samurai: The enduring legacy of a black warrior in feudal JapanCNN

When feudal Japan’s most powerful warlord Nobunaga Oda met Yasuke, a black slave-turned-retainer, in 1581, he believed the man was a god.

Oda had never seen an African before. And like the locals in Japan’s then-capital of Kyoto, he was awed by Yasuke’s height, build and skin tone, according to Thomas Lockley, the author of “African Samurai: The True Story of Yasuke, a Legendary Black Warrior in Feudal Japan.”

“When Yasuke got to Kyoto (with Jesuit missionaries), there was a massive riot. People wanted to see him and be in his presence,” says Lockley, who spent nine years researching and writing the book, which was published last month.

Oda believed Yasuke to be either a guardian demon or “Daikokuten,” a god of prosperity usually represented by black statues in temples. He tried to rub the pigment from Yasuke’s skin, believing it was black ink. Once convinced Yasuke was real, he immediately threw a feast in his honor, says Lockley.

 

1581年、戦国時代日本の最も強力な戦国大名である織田信長が、奴隷から家臣となった黒人ヤスケに出会った時、信長ヤスケを神だと信じました。

アフリカン・サムライ戦国時代日本伝説黒人武士ヤスケの真実物語」の著者トーマスロックリーによると、信長はそれまでアフリカ人を見たことがありませんでした。そして、当時の都であった京都地元民と同様に、ヤスケの身長、体格、肌の色に畏敬の念を抱いたそうです。

ヤスケが(イエズス会宣教師とともに)京都に到着した時、大規模な騒動が起きました。人々はヤスケを見たがり、彼の存在を身近に感じたがりました」と、9年の歳月をかけて研究執筆した先月出版されたこの本について、ロックリーは語ります

信長ヤスケを守護の鬼か、通常寺院で黒い像で表される繁栄の神「大黒天」のどちらかだと信じていました。信長ヤスケの肌の色素を擦り取ろうとし、それが黒インクだと考えていました。ヤスケが本物だと確信すると、すぐに彼の名誉を称える宴を開いたとロックリーは述べています

 

https://edition.cnn.com/2019/05/19/asia/black-samurai-yasuke-africa-japan-intl/index.html

  

氏が出演したNHK番組でも下記のように"侍"と書いてるので根拠はあるのだと思う

Black Samurai 信長に仕えたアフリカン侍・弥助 |NHK BS

織田信長に仕えた黒人、弥助(やすけ)。イエズス会宣教師に同行していた弥助を信長が気に入り、家臣に取り立てたのだという。2人の主従関係は「本能寺の変」によりわずか1年3か月で終わったが、その前後の弥助の足取りはこれまでなぞに包まれてきた。しかし近年の研究により、アフリカからアジア日本へ到る弥助の人生が次第に明らかにハリウッド映画化も進むなど、今世界中から注目を集める、弥助の生きざまに迫る。

https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009051309_00000

 

なお、アフリカ人奴隷を使うと言う流行が始まった』という主張の根拠は、

京都国際観光大使政府成長戦略会議委員も勤め、『中小企業であること自体特権化している』

子どもがいない専業主婦脱税と同じ・社会インフラただ乗りモラルハザード』などなど

数々のありがたいお言葉を下さる、デービッド・アトキンソン氏によると、(アフリカ人奴隷流行は)資料にかなりあるけど』らしいです

日本人が知らない、少なくとも教科書では習わない事実なので純粋に興味がある

https://x.com/sessyun5021/status/1815008190398148816?s=61

 

 

ちなみ 群馬県文書館レファレンス事例紹介コーナーによると『くろほう』について下記の回答があるね

12 群馬県文書館所蔵の古文書に、黒人と思われる「くろほう」という記述があるとききました。それは事実でしょうか。

 

 栗間家文書(P00101)のNo1「年未詳加藤清正書状」(下川左衛門ほか宛)には、豊臣秀吉朝鮮出兵に関連する記述の中で「くろほう」という言葉が出てきます。そして2021年3月30日NHK BS4Kで放送された「Black Samurai 信長に仕えたアフリカン侍・弥助」の中で、日本大学准教授ロックリートーマス氏がこの文書に出てくる「くろほう」こそ、織田信長に仕えた黒人武将弥助の後身ではないかと、述べられています。まず文書館内では、この「くろほう」をこれまで全く黒人として認識しておらず、トーマス氏のご指摘に驚いています。実は、この「くろほう」が弥助かどうかはともかく、黒人推定する見解は以前からありました(中島楽章氏「16世紀九州末ー東南アジア貿易」『史学雑誌』118-8号ほか)。 ただし現時点では、この文書の1カ所にしか出てこないため、断定は難しいと思われます。例えば、『源氏物語』にも「くろほう」という言葉が出てきますが、これは「黒芳」(練り香)の意味で、日本古典で頻出しているようです。また、当館文書を読むと、人間ではなく、物を指す記述と見た方が自然ではないか、という意見も係内で出ています。以上より、現時点では「くろほう」を直ちに黒人即断するのは難しいのではないか、というのが当館古文書係の見解です。

https://www.pref.gunma.jp/site/monjyokan/130144.html

 

 

 

参考にしてください

anond:20240724185446

 

 

 

 

 

関連増田

 

 

 

 

 

 

 

2024-04-25

帰蝶呼びは知識マウント」ってマジ!?

信長を気にかける貴重な資料” 義父 斎藤道三書状発見 | NHK

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20240424/k10014431231000.html

ブコメに「なんじゃこりゃ?」ってレベルの言い掛かりがあったので

   

      

migurin 「帰蝶と書きなおした!知識マウント欲が溢れ出ていていとおかし!」

migurin

素直にすごい。どうでもいいけどブコメ記事に「濃姫」と記載があるのにわざわざ

帰蝶」と書き直してくるあたり知識マウント欲が溢れでていていとおかし/悪くない。いとおかし、です。

2024/04/24

まったく意味わからん

ちなみに言及先と思われるブコメはこれ。

mouseion それにしても信長帰蝶との間に子供が出来なかったのが悔やまれる。

義龍との溝は土岐氏だけでなく姻戚関係の維持も理由だったんだろうなと。

血縁者があれば人質になったし案外上手く行けたかも知れない。

2024/04/24

え?帰蝶が??

     

 

帰蝶は”通”好みの呼び方

要するにmigurin の主張は

濃姫のことを帰蝶と書くのは知識マウントであるということだが

これは全く当たらない。

 

何故かといえば

帰蝶の方が人口膾炙した根拠の怪しい呼び名で 

濃姫の方が事実らしさがまだ高い方の呼び名からだ。

   

別の有名どころに置き換えるなら

幸村=帰蝶

信繁=濃姫

関係

 

瀬名帰蝶

築山殿=濃姫

関係

  

後世のお話本で「面白味のあるキャラ名」としてあてがわれたのが幸村であり、瀬名であり、帰蝶であって、

もうちょいマシな根拠で「面白味はないけどより正確性高い呼び名」とされるのが信繁であり、築山殿であり、濃姫だ。

要するに帰蝶の方がミーハー呼び方なんだよな。

 

 

濃姫とはどういう呼び名

そもそも女の名前は確定しにくいなか

帰蝶はまともな出典は無く胡蝶の誤記説も根強い。

歴史知識というよりキャラとしての「信長の嫁」を扱うための便宜的な名前だ。

 

一方で濃姫は「美濃から嫁いだ姫」ってだけの意味

まあそう呼ばれてた可能性は高いよねということでしかない名前

こちらの方が保守的であり歴史的正確性に意識の向いた呼び名なのだ

キャラ性皆無でつまらない名前でもある。

 

まり

もしも「私は歴史知識に造詣深いですよ」とか「歴史知識に正確性を求めてますよ」的なアピールがしたいなら

帰蝶濃姫と言い直すことはあってもその逆はあり得ない。

   

migurinは一体何を言ってるのかさっぱりわからないということだ。

 

  

コンテンツでは「帰蝶

まり濃姫帰蝶と呼ぶ人は意識高い歴史オタクなどではない。

高い確率で単に「そっちの方が親しみがある」っつーだけだ。

近年のコンテンツでも「濃姫」じゃ面白くないから「帰蝶採用率が高い。

名作信長協奏曲でも「帰蝶」だ。

メジャー庶民向けなのは帰蝶」だ。

帰蝶はややダサいが、世間で人気なのは帰蝶だ。  

    

ちなみに濃姫よりマシな推測の呼び方鷺山殿だ。

美濃から嫁いできた」しか情報がない濃姫と違って

「道三の隠居城の鷺山から嫁いできた」というより細かい知識が盛り込まれている。

濃姫?ああ鷺山殿ね!」なら歴史オタク知識マウントっぽい。

 

先述の通りバシッとした出典のものはないから決着などないが

かっこつけたいなら鷺山殿だ。

 

まとめ

そもそも大した確証もなく人の発言マウント扱いすべきではないが、

このmigurinにいたっては「何がマウントに当たるか」を判断するていどの歴史知識があるようにも見えない。

から見た感想としても「こいつ何言ってんの?」の一語である

知識マウント欲が溢れでていていとおかし/悪くない。いとおかし、です。

怖さとキモさのブレンド濃いめだ。

 

このレベル歴史知識がないのに人の発言知識マウントに感じるのは、単に闇雲なコンプレックスのようにも見える。

歴史ネタ以外でも被マウント感を覚えることはあるか、日頃どんなときマウントされたと感じるか、等々を記録してみるのもよいと思う。 

  

  

(念のため書いておくけど

俺が主張してるのはこのmouseionてやつはマウントしてないだろって話で

俺がマウントしてるという指摘なら受け入れるぞ

 全然歴史オタクってほどのレベルの話はしてないけど)

  

  

追記

昔の女性名前特定されにくいのって、何で?女性文書名前が書かれることがないから?

2024/04/25

せやで

同じ理屈漢字の読み仮名わからん

曽我部がちょうそかべなのかちょうそがべなのかも確定しない

ちゃんかめ説もある

   

最上義光は昔は「もがみよしてる」だと思われてたけど

妹(伊達政宗母)と仲良しで手紙がたくさん残ってて

妹の手紙に「よしあきおにいさま」と書いてあったか名前の読み方がわかった

女の手紙ひらがなから

2023-10-11

突然「同窓会の案内」みたいな書状が届いた

参加したら殺されたりしない?

大丈夫

2023-09-23

国語増田なのでCapricornusの日本語添削しま

お前って「支持」という言葉の使い方がおかしいね

情報開示請求住民監査請求住民訴訟も、全ての国民に等しく当たり前の権利なのよね。

すべての国民に等しく当たり前の権利が認められるべき、だから当然暇にも認められるべき

っていうのは暇を支持するということにならない

お前の謎理論で言うと、たとえば「青葉真司被告日本法にのっとり即射殺ではなく裁判を受ける権利がある」=「青葉真司被告を支持する」とか「晒し増田日本日本国籍でないならその国家)の行政サービス恩恵に与る権利がある」=「晒し増田を支持する」になっちゃうわけ

意味わからん。多分だけどお前は青葉真司被告とか晒し増田を支持してないと思う。

これは単純に国語問題

https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%94%AF%E6%8C%81/

2 ある意見・主張などに賛成して、その後押しをすること。「民衆の―を失う」「政府見解を―する」

からヴォルテールっぽい人の名言「私はあなた意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」は「私はあなた言論の自由擁護します」であっても「私はあなたを支持しています」ではないの。

仁藤夢乃が突っ込む側であっても、こんな風に一民の権利自称左派政党左派マスコミ彼女性格は難があり全てデマであり攻撃と一蹴する事態だったら仁藤氏を支持したろう。

論理が混乱しているのでもっと具体的に言い直してほしい。

まず、仁藤が情報開示請求住民監査請求住民訴訟をするのを「デマ」として批判するとはどういうことなのか。それらはデマではない。

また、「攻撃」として批判するのは仁藤の国民としての権利否定したことにはならない。

なぜなら、

仁藤の請求訴訟攻撃として機能し得る

仁藤の請求訴訟実在し得る

仁藤は請求訴訟をする国民としての権利行使できる

というわけで仁藤の国民としての権利肯定はむしろ前提となる。

仁藤の国民としての権利否定したといえるのは

・仁藤はそもそも開示請求したり住民訴訟をしたりする権利を持っていないと主張する

・仁藤が開示請求したり住民訴訟をしたりするのを妨害する

そして役所が仁藤の請求訴訟無視しないで実行した以上国民としての権利侵害されてない。自称左派政党左派マスコミは仁藤と国家の間の権利と義務の関係に横から茶々入れてるだけで、「一蹴」なんてする権限は持ち合わせていない。

多分お前が言いたかたことは「仁藤の日々の行いが悪いからといって、言ったことを全てデマとして一蹴したり請求訴訟を起こすのを批判したりするのは仁藤の請求訴訟を起こす権利侵害である」ということだろうけどそんなことないから。もしそういうことが起こっても仁藤の支持なんてする必要ないよ。仁藤の出した訴訟書状を破り捨てる左派政党が出てきてから出直して。

つかお前は自分自身文章の中ですら「支持」の使い方がブレてるんだよね

朝日毎日やらの左派マスコミや民の味方ですとしてる左派政党やらが正常に機能するなら、こんなにも私は彼を支持する必要はなかったよ。

あのさあ

左派マスコミとか左派政党とかが機能してようが機能してまいが、お前の謎語法に則れば「暇の一民の当たり前の権利保障すべき」=「暇を支持すべき」だ

朝日毎日機能してたら暇は訴訟する権利を奪われていい、なんてお前が思っているはずがない

そうではなく、お前はここで支持を急に本来意味「ある意見・主張などに賛成して、その後押しをする」で使い始めただけ

「暇は国民としての権利を持ってる」というごく当たり前な主張で心のドアをちょっと開けさせた後に「暇の意見と行動に賛同する」と足を挟むフットインザドア

全然別のことなのにどちらも支持という言葉で括って同じものかのように見せかけた、バイアスで飲んで日本語を読ませない文章


ところでお前は

彼の性格に難があるところはそれはそれで突っ込めば良い

と言っているけれども、暇にツッコミを入れるには暇がしたことを晒さないといけないよね

お前はブコメ晒し上げ、リアル凸や別垢特定じゃなくてその垢でやった言動晒し上げを卑怯だと批判してるけど、それができないならどうやってお前の性格の難にツッコミ入れればいいの?

お前が発言したソースを出さずにツッコミだけしたらそれこそ冤罪可能性がある(「お前暴言吐いただろ」「してないって!ソース出してよ」)から卑怯

暇が東野かに暴言吐いてたのを証明するのに暇の住所を割る必要はないけど暇の暴言ツイは晒す必要があった

https://anond.hatelabo.jp/20230921213642

室井佑月については「味方」の意味するところがよくわからないので賛同も反対もできない

暇のする一部の行動に賛同してるのか、一部ならどれとどれに賛同してるのか、それとも全部の行動に賛同してるのか、それか意見賛同はしないけど心情や立場共感するというのもありうる

しかしたら金銭などの具体的援助をしてるのかもしれない

からなんともいえない

室井の言動普段から追ってればわかるのかもしれないけど追ってないから知らないし、暇に嫌がらせを受けた人に室井がなにかしてあげたのかどうかも知らない

こういう意図不明なツイに真面目にブコメつけるとどうあがいても室井を藁人形化する(室井がどういう意図で味方と言ったのかを勝手想像する)ことになってしま

ここで一部ブクマカは「暇の妄言賛同してる室井」という藁人形を作って室井を批判した

お前はその一部ブクマカ批判するときに「暇の人権否定し、訴訟を支持しない人間」という藁人形を作り「私は暇の人権擁護し、暇の訴訟を支持している」と食い違ったことを強弁して無事その藁人形実在すると信じさせることができた

しかしそれは幻で、本当は反論として成立してない

成立するのは「室井は暇の妄言賛同してない、お前は藁人形を作った」のみ

こんなツッコミどころ満載のネタにまともにツッコミもできないなんて、私ちゃん以外のはてサは堕ちたもんだよね〜

Capricornusは今からでもいいからその増田書き直してきなよ

2023-09-09

夢日記

自分はどこかの学校に通っている。

何の学科か分からないが、何かを調べる授業があり、何故かその調べ物をする場所がとんでもない傾斜の坂の上の山の中にある。

傾斜が凄まじく、自分は途中まで自転車に乗って登っていたのだが進む事すらできなくなり、あまりのことに笑いながら自転車を諦めて脇の空き地に横たえて置いて坂道に縋り付くように四つん這いになりながら道を登り始めた。路側帯白線が何故か普通に帯のように紐のようになっていて握れるので、それに掴まりながら登山のようにアスファルトの道を登っていく。他にも同じ様に山の上に向かっている生徒があり、状況のとんでもなさに苦笑して笑い合いながら目的地に着いた。

山の中腹にある開けた空き地は周囲を木々に囲まれ短い下草が青々と茂っていて、そこに図工室にあるような作業台や角椅子が整然と並んでいる。細部をよく覚えていないが、本類資料?文献?は卓上に置いてあったのかもしれない。本棚は無かった気がする。そこで多くの生徒、教師が角椅子に座り何かを調べたり読んだりしている。

男女の教員、1人はふくよかで豊かな癖毛をした落ち着いた服装の長髪の中年女性、1人は顔色が極めて悪い、短髪で目をひん剥いたようなギョロ目をした和装男性。で、何故か自分その男性の向かい側で古書を見ていて、その古書神社の御由緒のような、神社に伝わる書物の由来が記載された目録のようなものだった。読んでいるうちに、その神社の建立当初、帝から賜った宸翰が今に伝わっていると書かれており、へぇええ〜!!!と顔を上げると、夢なので唐突に、目の前の教職男性の脇に60代くらいの落ち着きのある痩せた神主さんが居て、「持ってきましょうか」と言う。は???凄すぎる、見て良いのか、やべー!!と心中で慌てふためきながら大人しく待っているうちに、夢なので唐突に周囲に人は居なくなり、その作業机には自分教職の白服の男性、少し向こうにふくよかな女性教員けが居て、何故か神主さんが神社に贈られた上等の和菓子をあけて自分男性教職員に出してくれる。

そのひとつをようく覚えていて、それは艶々ぴかぴかとした光沢のある、一つ一つの粒がしっかりとしている黒豆のような茹で小豆あんこ?に覆われたぼたもち/おはぎで、実際存在するのかと検索してみるとそのような物は見つけられなかったのだが、自分が見つけられなかっただけでどこかに存在するのかもしれない、それを美味しく食べた。あまりの旨さにまた感動して目を見開きながら顔を上げて目の前の男性教職員を見ると、わかるぞと言うように相手はうなずき、「本物は内側が7層になっているんですよ」と教えてくれて、こんな小さい和菓子の内側に何が7層も入っているのか気になって仕方がなかった。

夢なので唐突なのだが、我々の机の横手には、自分達が登ってきたはずのアスファルトの急斜面は無く、けばけばしくない、ぼろくもない、使い込まれ年代物の神楽殿があった。開け放たれたそこには、奥の方に木札のような、30センチ程の高さの有りそうな折紙に包まれ書状がいくつか重ねて立て掛けられていた。あまり恭しい扱いとは言えないように見えたが、粗雑に扱われているようでもなかった。そのうちのいくつかを今から読むのだろうか?神主さんが紙を開いて書面を出してくれたあたりで目が覚めた。

艶々黒豆に覆われたあのぼたもち様のなにかが気になって仕方がないが、ぼたもちではなく生菓子かもしれない。

分厚い紙に包まれ書状を調べたら折紙文化、位の高い人々が用いた和紙についてなどのページに辿り着いた。

自分の脳が作った映像の中に、自分が知らない技術文化が折り込まれているのは啓示的でもあり面白い

2023-04-17

anond:20230415224309

わけもなく上洛してるんじゃなくて、今でいうと、地方リモートワークしてる人が東京本社に行くみたいなもん。

武将連中って、建前としては天皇の家来なんよ。

たとえば、豊臣秀吉場合まず地方貴族筑前からはじまって、権小将→参議権大納言内大臣を経て、最終的には関白太政大臣まで行く。これは平安時代身分制度そのままだよね。

領地の拡大とか石高upとか実質的権力拡大とは並行して、朝廷基準での肩書存在してるわけ。

から京都にある本社である朝廷とは接触しないといけないし、今みたいにオンライン会議もできないか上洛せざるを得ない。最低でも書状ぐらいは書く必要がある。

2023-03-05

信長書状







https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-0a1a2-02-02-01-03.htm

全体で七か条からなるこの掟を簡単に紹介すれば次のようになる。必要人夫徴発は勝家の印判のある催促状をもって行うこととし、その他の人夫徴発はたとえ人夫賃を支払うというやり方でも認めない。いま北庄城普請人夫必要ではあるが、なによりも農民が耕作に専念しうるようにこうした措置をとるのである一条)。名主・百姓もつ内徳と小成物(年貢以外の雑税)は先々どおりに認める(二条)。勝家が派遣する使いの者に対する接待は、一汁二菜・中酒一杯などに制限する(三条)。反銭など銭納入の時は、高札で示したように三増倍(銭の種類。精銭の三分の一に換算される銭か)をもって納入すること(四条)。百姓は新たに誰かの家来になってはいけない。また、信長直臣に仕える家来が、鞍替して勝家の家来になることも禁止する(五条)。勝家が印判で承認したほかは、山林竹木の伐採はいっさい禁止する(六条)。百姓居住の地の課役を逃れるため他郷へ移住することは禁止する(七条)。

2023-02-28

anond:20230227141843

伊達政宗書状解説する動画、1本だけでシリーズになってはいないんだけど、好きすぎて10年以上経ってもまだ見てる。

2022-09-28

anond:20220928144823

指摘する気もなかったんで、(すぐ気づいていただけると思っていたので。)

増田さんが、気が付いてしれっと「会→合」に直してあるかなと予想していたのですが。

とっても残念な方。

社内のものならまだしも社外文章でこういうのやると、

一任して書状お願いできないよ。あなたの書面は、出す前に誰かがチェックしないと会社レベル疑われちゃう

2022-08-27

名将ですなあ

人物逸話

歌川芳虎「大日本六十余将」より『薩摩品津兵庫守義弘』

家康だけでなく秀吉島津氏を恐れ、その弱体化を図るために義弘を優遇して逆に兄の義久を冷遇する事で兄弟対立を煽ろうとしたが、島津兄弟(義久、義弘、歳久、家久)の結束は固く、微塵も互いを疑うことは無かった。この流れで義弘を17代目当主という見方が出来たとされるが、義弘は「予、辱くも義久公の舎弟となりて(『惟新公御自記』)」と義久を敬うこと終生変わらなかった。しかし、『樺山紹劔自記』では「弟・家久の戦功を妬む様は総大将に相応しい振る舞いではない」と人間くさい一面も紹介されている。

敵に対しても情け深く、朝鮮の役の後には敵味方将兵の供養塔を高野山建設している。

祖父島津忠良から「雄武英略をもって他に傑出する」と評されるほどの猛将だった。

許三官仕込みの医術や茶の湯学問にも秀でた才能を持つ文化人でもあった。また、家臣を大切にしていたので多くの家臣から慕われ、死後には殉死禁止令下であったにも関わらず13名の殉死者も出すに至っている。

義弘は主従分け隔てなく、兵卒と一緒になって囲炉裏で暖をとったりもしていた。このような兵卒への気配りもあってか、朝鮮の役では日本軍の凍死者が続出していたが島津軍には一人も出なかった[11]。

義弘は家臣らに子が生まれ、生後30余日を過ぎると父母共々館に招き入れて、その子自身の膝に抱くと「子は宝なり」とその誕生を祝した[11]。また元服した者の初御目見えの際、その父親が手柄のある者であれば「お主は父に似ているので、父に劣らない働きをするだろう」と言い、父に手柄のない者には「お主の父は運悪く手柄と言えるものはなかったが、お主は父に勝るように見えるから手柄をたてるのだぞ」と一人一人に声を掛けて励ましている[13]。

三ツ山城を攻めたときに重創を負いその湯治場として吉田温泉えびの市)を利用して以来、島津家の湯治場として度々利用していたが、自身のみならず家臣らにも利用させた。

九州平定後、義弘が秀吉から拝領した播磨国領地管理する際、現地で井上惣兵衛尉茂一という人物が検地などで義弘に協力した。そのお礼として、義弘は井上島津姓と家紋を授けた。この井上が、島津製作所の創始者・初代・島津源蔵の祖先である島津製作所の歴史に記されている[14]。

秀吉への降伏の際に島津家は本拠である薩摩一国以外の領土を全て奪われることを覚悟していたが、秀吉方の使者として交渉にあたった石田三成の取りなしにより大隅一国と日向の一部が島津領として残った。この事から義弘は三成に対して深く感謝し、その後も深い交誼があったため関ヶ原の戦いにおいて島津家中において東軍参加を主張するものが主流派であったが義弘は自身の三成に対する恩義と親交を理由西軍積極的に参加したとも言われており、最初東軍に参加するつもりで軍を出していたという説は江戸時代島津家が徳川将軍家に臣従していくにあたって創作されたものであるともいわれる。

愛妻家であり、家庭を大事にする人情味溢れる性格だったといわれている。朝鮮在陣中に妻に送った手紙の中に、「3年も朝鮮の陣中で苦労してきたのも、島津の家や子供たちのためを思えばこそだ。だが、もし自分が死んでしまったら子供たちはどうなるだろうと思うと涙が止まらない。お前には多くの子供がいるのだから、私が死んでも子供たちのためにも強く生きてほしい。そうしてくれることが、1万部のお経を詠んでくれるより嬉しい」という内容のものがあり、義弘の家族を心から愛する人となりが窺える。

武勇と実直な人柄から福島正則武闘派武将たちに大いに尊敬されていたようである。その為、関ヶ原撤退戦においても松平忠吉井伊直政徳川譜代のみが追撃を行い直政自身が深手を負う結果に繋がった。

若い時の義弘は特に血気盛んだったようである。弘治3年(1557年)の蒲生城攻めの際、23歳の義弘は真っ先に攻め入って一騎討ちを制したり自らの鎧の5ヶ所に矢を受けて重傷を負ったりしたほどの決死勇戦を見せたという。また、木崎原の戦いにおいて、日州一の槍突きとうたわれた柚木崎正家を討ち取っている。

慶長4年(1599年)、剃髪・入道し惟新斎と号したがこれは祖父・忠良の号・日新斎にあやかったものである

木崎原の戦いにおいて伊東祐信、柚木崎正家との戦いの折に愛馬が膝を突き曲げて敵の攻撃をかわし義弘の命を救っている。この馬は後に「膝突栗毛(膝跪騂)」と呼ばれ義弘の主要な合戦にの従軍するようになり、人間の年齢にして83歳まで生きた。姶良市に墓と墓碑が建てられている。

慶長の役の際、義弘は正確な時を知るために7匹の猫を戦場に連れて行ったという逸話がある。猫の目の明るい所では細くなり、暗い所では丸くなる特性から、時刻を読みとったとされ7匹のうち2匹が日本生還した。この2匹を祀った神社鹿児島の仙厳園にある「猫神神社である[15]。

晩年は体の衰えが顕著になり、1人で立ち歩き、食事を摂ることも不可能になっていた。それを見かねた家臣が昼食を摂る際、「殿、戦でございます」と告げると城外で兵たちの鬨の声が聞こえてきた。それを聴いた義弘の目は大きく見開き、1人で普段からは考えられないほどの量の食事を平らげたという。

関ヶ原で敵中突破をした後、生き残った家臣らは義弘に薩摩への早期帰還を勧めた。しかし義弘は大坂人質になっている妻子らを救出するため、「大坂城で人質になっている者を捨て、どの面下げて国に帰ることができようか」と述べ、妻子の救出に向かったという(『惟新公関原合戦記』)。

義弘の肝の太さを示す逸話がある。義弘の小姓らが主君の不在をいいことに囲炉裏端で火箸を火の中で焼いて遊んでいた。そこに義弘がやってきたので、小姓らは慌てて火箸を灰の中に取り落とした。それを見て義弘は素手囲炉裏に落ちていた火箸を拾い、顔色一つ変えず静かに灰の中に突き立てた。後で家臣が「大丈夫でございますか?」と尋ねると「大丈夫だ。まったく小姓どもは悪さばかりして手を焼かせおる」と笑って返した。家臣が義弘の手を見ると、その掌が真っ赤に焼きぶくれていたという(『武功雑記』)。なお、同じ内容の逸話加藤嘉明にも存在するため、島津家か加藤家のどちらかが模倣した可能性が高い。

戦陣医術に詳しく、『上井覚兼日記』によると天正12年(1584年)10月1日から7日までの一週間にかけて、島津忠長と上井覚兼に対して金瘡医術の伝授を行い、秘伝の医書を与えている。金瘡医術とは戦傷全般とこれに付随する病気、およびこれから派生する婦人病を扱った医術のことである[16]。

茶の湯千利休古田織部に学んだ茶人でもあり、茶書『惟新様より利休え御尋之条書』や織部から薩摩焼の茶入の指導を受けた書状が残る。

2022-08-16

anond:20220816130631

日本でもそうやで。

ネットで調べたりできへん時代は「正しい漢字を使うべき」という意識希薄やったんや。

戦国時代書状とか誤字や当て字オンパレードやで。

2022-07-26

二転三転されて

ちゃん書状でくださいとお願いしたら

ないことにされたエアコン

しょーがないとして、

それなら7月6日申請できるようにしておけば

夏に間に合ったのに

暑くて夕暮れまで

ロックアイスレモン果汁を水で割って飲んでるけど

ほんと暑い

2022-06-20

黒田騒動は、江戸時代前期に福岡藩で発生したお家騒動

黒田長政は世継ぎ継承にあたり長男・忠之の狭器と粗暴な性格を憂い、三男の長興に家督を譲ると決めて忠之に書状を送る。書状には2千石の田地で百姓をするか、1万両を与えるから関西商人になるか、千石知行で一寺建立して僧侶になるか、と非常に厳しいものであった。これに後見役の栗山大膳は、辱めを受けるのなら切腹をとの対応を忠之に勧める。そして600石以上2千石未満の藩士嫡子たちを集め、長政に対して廃嫡を取りやめなければ全員切腹すると血判状をとった。この事態を重く見た長政は嘆願を受け入れ、大膳を後見役に頼んだ後に死去した。そこで大膳は忠之に諌書を送ったが、これが飲酒の心得や早寝早起きなど子供を諭すような内容だったため、忠之は大膳に対し立腹し、次第に距離を置くようになる。忠之は寛永元年(1624年)に藩主就任早々、忠之及びその側近と、筆頭家老であった大膳はじめ宿老達との間に軋轢を生じさせ、生前の長政が憂いていたとおりに御家騒動へと発展した。忠之は小姓から仕えていた倉八十太夫(くらはち じゅうだゆう。名は正俊、または家頼)を側近として抱え、1万石の大身とした。そして十太夫に命じて豪華な大船鳳凰丸」を建造。さらに200人の足軽新規に雇い入れるなど、軍縮時代にあってそれに逆行する暴政を行った。これにより遂に藩は幕府より咎めを受けるに至った。

ほんとお家騒動の模範みたいな筋書きだな・・・

これを幕府がとりなすシステムを構築したのはさすが家康しか言えない。

まさに久能山東照宮から日本中を今も監視している存在である

2022-06-02

黒田騒動(くろだそうどう)は、江戸時代前期に福岡藩で発生したお家騒動栗山大膳事件(くりやまだいぜんじけん)ともいう。伊達騒動加賀騒動または仙石騒動とともに三大お家騒動と呼ばれる。他の御家騒動では処分時に死者が出ているが、黒田騒動ではお預けなどはあったものの、死者は出なかった。

経緯

黒田長政は世継ぎ継承にあたり長男・忠之の狭器と粗暴な性格を憂い、三男の長興に家督を譲ると決めて忠之に書状を送る。書状には2千石の田地で百姓をするか、1万両を与えるから関西商人になるか、千石知行で一寺建立して僧侶になるか、と非常に厳しいものであった。これに後見役の栗山大膳は、辱めを受けるのなら切腹をとの対応を忠之に勧める。そして600石以上2千石未満の藩士嫡子たちを集め、長政に対して廃嫡を取りやめなければ全員切腹すると血判状をとった。この事態を重く見た長政は嘆願を受け入れ、大膳を後見役に頼んだ後に死去した。そこで大膳は忠之に諌書を送ったが、これが飲酒の心得や早寝早起きなど子供を諭すような内容だったため、忠之は大膳に対し立腹し、次第に距離を置くようになる。忠之は寛永元年(1624年)に藩主就任早々、忠之及びその側近と、筆頭家老であった大膳はじめ宿老達との間に軋轢を生じさせ、生前の長政が憂いていたとおりに御家騒動へと発展した。忠之は小姓から仕えていた倉八十太夫(くらはち じゅうだゆう。名は正俊、または家頼)を側近として抱え、1万石の大身とした。そして十太夫に命じて豪華な大船鳳凰丸」を建造。さらに200人の足軽新規に雇い入れるなど、軍縮時代にあってそれに逆行する暴政を行った。これにより遂に藩は幕府より咎めを受けるに至った。

大膳も寛永9年(1632年)6月、忠之が幕府転覆を狙っていると幕府に上訴した。藩側は「大膳は狂人である」との主張を行い、寛永10年(1633年)2月将軍徳川家光が直々に裁いた結果、忠之の藩側の主張を認め、所領安堵の触れを出し、10年に及ぶ抗争に幕を閉じた。大膳は騒動の責を負って陸奥盛岡藩預かりとなり、十太夫高野山追放された。なお、十太夫島原の乱黒田家に陣借りして鎮圧軍に従軍したが、さしたる戦功は挙げられず、黒田家復帰はならなかった。のち上方で死去したという。十太夫の孫・倉八宅兵衛に至り、ようやく再仕官を許されている。なお、この時に盛岡藩へ預かりとなった栗山大膳は、藩祖・黒田如水所用の兜も一緒に持参した。現在、もりおか歴史文化館に所蔵されている。

題材にした作品

江戸時代中期には江戸中村座などにて黒田騒動を題材にした歌舞伎が数多く上演された。最初瀬川如皐作、外題『御伽譚博多新織』。のちに河竹黙阿弥により狂言『黒白論織分博多』として加筆集約化された。また幕末には合巻としては最長編である『しらぬひ譚』も歌舞伎化され、こちらも大好評を博した。

また、この事件森鷗外小説栗山大膳』において、改易を危惧した大膳が黒田家を守るために尋問の場で訴えたとして脚色して描いている。十太夫は、島原の乱一揆軍に加わり戦死したことになっている。滝口康彦小説『主家滅ぶべし』では、利章は真面目で実直なものの、その忠義独善的であるため主君家中からまれしまい、忠臣としての自身を保つために引き起こしものとして描かれている。

1956年には東映映画黒田騒動』が公開されている。監督内田吐夢、主演の栗山大膳役は片岡千恵蔵

1965年海音寺潮五郎が「列藩騒動録」新潮社上梓、のち講談社文庫化

2022-05-31

豊臣秀吉が妻の北政所に宛てた自筆書状見つかる 鹿児島

2022年5月30日 15時17

鹿児島市にある県歴史美術センター黎明館」に預けられた島津家一族資料の中から豊臣秀吉が妻の北政所に宛てて書いた自筆書状が見つかりました。

書状は、朝鮮半島に兵を出した文禄・慶長の役の際に、秀吉が城を築いた現在佐賀県名護屋から北政所に宛てて書かれたものです。

天正20年(1592年)6月3日に書かれたと推定されています

手紙には、「当年中には唐国、明を取り唐国に遷ったら迎えを遣わせる」と書かれ、文末には「まんどころ殿太閤」と記されています

東京大学史料編纂所の協力を得て、筆跡などの研究を進め、秀吉自筆書状だと確認したということです。

この書状5月31日から黎明館」で開かれる企画展で展示されます

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220530/k10013649561000.html

かなりの愛妻家なことがわかる文章だな

さすが戦国最大にして唯一のノンケ

2021-09-20

anond:20210920150142

三成と言えば最近見つかった書状で、細川なんたらにグタグと金の使い方とかで説教してたらしいな。

そんな小姑みたいなやつが天下分け目で支持されるわきゃねえよな。

みんな欲の塊みたいな戦国出身生え抜きどもなのに。

2021-08-13

https://yro.srad.jp/story/21/08/12/1522207/

7000人が書状署名

結構おるな

やっぱりビジネスのために現地政府データ提供するだろうと見られてるのが原因だろうなあ

実際中国共産党の足の裏は舐めてるわけだからねえ

2021-04-01

足利義輝足利義昭は同時に存在しないので同一人物

足利義輝は一旦自分が死んだことにして足利義昭として直ちにまれ変わった。

1歳下の弟という設定だから若作りしなくてもいい。

いくら剣豪将軍とはいえ大軍で攻められたら1人では無双できない。しか将軍として諸大名書状を送れば大勢力を動かせる。ペンは剣よりも強しということで筆まめ将軍キャラ変でもう完全に別人だ。

2021-01-03

信長は筆マメだった

信長というと、短気で気分しだいで人を殺していたとか思われがちだが、

しろ逆で、すべて緻密な計算政治を行っていた。

20年来の宿老の佐久間信盛を解任する際も、暴君なら理由もなしに追い払ってしまものだが、

信長は以下の長文をわざわざ直筆で書いている。

信長による19ヶ条の折檻状(現代語訳)

一、佐久間信盛・信栄親子は天王寺城に五年間在城しながら何の功績もあげていない。世間では不審に思っており、自分にも思い当たることがあり、口惜しい思いをしている。

一、信盛らの気持ち推し量るに、石山本願寺を大敵と考え、戦もせず調略もせず、ただ城の守りを堅めておれば、相手坊主であることだし、何年かすればゆくゆくは信長の威光によって出ていくであろうと考え、戦いを挑まなかったのであろうか。武者の道というものはそういうものではない。勝敗の機を見極め一戦を遂げれば、信長にとっても佐久間親子にとっても兵卒の在陣の労苦も解かれてまことに本意なことであったのに、一方的な思慮で持久戦に固執し続けたことは分別もなく浅はかなことである

一、丹波国での明智光秀の働きはめざましく天下に面目をほどこした。羽柴秀吉の数カ国における働きも比類なし。池田恒興は少禄の身であるが、花隈城時間も掛けず攻略し天下に名誉を施した。これを以て信盛も奮起し、一廉の働きをすべきであろう。

一、柴田勝家もこれらの働きを聞いて、越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春加賀へ侵攻し平定した。

一、戦いで期待通りの働きができないなら、人を使って謀略などをこらし、足りない所を信長に報告し意見を聞きに来るべきなのに、五年間それすらないのは怠慢で、けしかぬこである

一、信盛の与力保田知宗の書状には「本願寺に籠もる一揆衆を倒せば他の小城一揆衆もおおかた退散するであろう」とあり、信盛親子も連判している。今まで一度もそうした報告もないのにこうした書状を送ってくるというのは、自分のくるしい立場をかわすため、あれこれ言い訳をしているのではないか

一、信盛は家中於いて特別待遇を受けている。三河尾張近江大和河内和泉に、根来衆を加えれば紀伊にもと七ヶ国から与力をあたえられている。これに自身配下を加えれば、どう戦おうともこれほど落ち度を取ることはなかっただろう。

一、水野信元死後の刈谷を与えておいたので、家臣も増えたかと思えばそうではなく、それどころか水野の旧臣を追放してしまった。それでも跡目を新たに設けるなら前と同じ数の家臣を確保できるはずだが、1人も家臣を召し抱えていなかったのなら、追放した水野の旧臣の知行を信盛の直轄とし、収益を金銀に換えているということである言語道断である

一、山崎の地を与えたのに、信長が声をかけておいた者をすぐに追放してしまった。これも先の刈谷と件と思い合わされる事である

一、以前からの家臣に知行を加増してやったり、与力を付けたり、新規に家臣を召し抱えたりしていれば、これほど落ち度を取ることはなかったであろうに、けちくさく溜め込むことばかり考えるから今回、天下の面目を失ってしまったのだ。これは唐・高麗南蛮の国でも有名なことだ。

一、先年、朝倉をうち破ったとき(=刀根坂の戦い)、戦機の見通しが悪いとしかったところ、恐縮もせず、結局自分正当性を吹聴し、あまつさえ席を蹴って立った。これによって信長は面目を失った。その口程もなく、ここ(天王寺)に在陣し続けて、その卑怯な事は前代未聞である

一、甚九郎(信栄)の罪状を書き並べればきりがない。

一、大まかに言えば、第一に欲深く、気むずかしく、良い人を抱えようともしない。その上、物事をいい加減に処理するというのだから、つまり親子共々武者の道を心得ていないからこのような事になったのである

一、与力ばかり使っている。他者から攻撃に備える際、与力に軍役を勤めさせ、自身で家臣を召抱えず。領地無駄にし、卑怯な事をしている。

一、信盛の与力や家臣たちまで信栄に遠慮している。自身の思慮を自慢し穏やかなふりをして、綿の中に針を隠し立てたような怖い扱いをするのでこの様になった。

一、信長の代になって30年間奉公してきた間、「信盛の活躍は比類なし」と言われるような働きは一度もない。

一、信長の生涯の内、勝利を失ったのは先年三方ヶ原へ援軍を使わした時で、勝ち負けの習いはあるのは仕方ない。しかし、家康のこともあり、おくれをとったとしても兄弟・身内やしかるべき譜代衆が討死でもしていれば、信盛が運良く戦死を免れても、人々も不審には思わなかっただろうに、一人も死者をだしていない。あまつさえ、もう一人の援軍の将・平手汎秀を見殺しにして平然とした顔をしていることを以てしても、その思慮無きこと紛れもない。

一、こうなればどこかの敵をたいらげ、会稽の恥をすすいだ上で帰参するか、どこかで討死するしかない。

一、親子共々頭をまるめ、高野山にでも隠遁し連々と赦しを乞うのが当然であろう。

右のように数年の間ひとかどの武勲もなく、未練の子細はこのたびの保田の件で思い当たった。そもそも天下を支配している信長に対してたてつく者どもは信盛から始まったのだから、その償いに最後の2か条を実行してみせよ。承知しなければ二度と天下が許すことはないであろう。

また、秀吉浮気したときに、奥さんの禰禰にこのような手紙も送っている。

私の命に従い、この度、この地(安土城)にはじめて尋ねてくれて嬉しく思う。

その上、土産の数々も美しく見事で、筆ではとても表現できない程だ。

そのお返しに、私の方からも「何をやろう」かと思ったが、そなたの土産があまりに見事で、何を返せば良いのか思い付かなかったので、この度はやめて、そなたが今度来た時にでも渡そうと思う。

そなたの美貌も、いつぞやに会った時よりも、十の物が二十になるほど美しくなっている。

藤吉郎(秀吉)が、何か不足を申しているとのことだが言語同断けしかぬことだ。

どこを探しても、そなたほどの女性を二度とあの禿ねずみは見付けることができないだろう。

これより先は、身の持ち方を陽快にして、奥方らしく堂々と、やきもちなどは妬かないように。

ただし、女房の役目として、言いたいことがある時はすべて言うのではなく、ある程度に留めて言うとよい。

この手紙は、羽柴(秀吉)にも見せること。

又々 かしく藤吉郎 女ども

のぶ

2020-08-06

anond:20200806191750

考え方はいろいろあるが、すくなくとも大使館書状を送りつければ宣戦布告になるというのはさすがに難しい言い分

2020-07-22

できなくはないが、普通相手弁護士さんから書状が届くので、必要に応じて直接対応こちらも弁護士にお願いなど手続きを踏め

だいたいは、ささいなおねがいや Blog,twitter利用者側のミスであることが多い。Tweetされていると削除までに手続きがいることが多いので

内容を確認の上リツイートこちら側が手動で削除して、削除した旨を通知するなどの対応が多い。

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