はてなキーワード: 混沌とは
いやいやお前らも十分異常な世代だろ。
まず、自分らがされて嫌だったことを下の世代に平気でやるのがスタンダートっていうのがヤバイ。
セクハラ・パワハラをされて嫌な思いしたことに対して、「じゃあ次は俺の番だからやるね。やられっぱなしとか損じゃん」ってなるようなモラルの無さのどこが中立・中庸・中道なんだよ。悪・混沌・利己主義も良い所だろ。
あと団塊の世代ってすぐにゆとり世代・Z世代を個人主義的と言うけど、昭和初期世代と比べるとお前らも十分個人主義だよ。
核家族という概念はあっても大きな親戚づきあいの概念や、国家や地元に貢献するという気持ちがかなり薄まってる。
でもそこからの反動でかなり覚めてるというか「結局さ、個人は個人なんだよ。いざとなったら皆敵同士なんだ」みたいな方向性にかなり振り切れちゃってるところがあるよね。
口では「俺も若い頃色んな人にお世話になったから後輩には……」みたいなカッコイイこと言っておいて、いざ自分がピンチになったらバンバン下の世代を蹴落とし始めたじゃん。
ああいう時に口にする「皆で助け合おうじゃないか」の「皆」の範囲がいざとなったときかな~~り狭くなるのが団塊の特徴。
「自分の友達」「自分の家族」という極めて小さな「最小単位のムラ」までで助け合おうとする。
せいぜい多くて20人ぐらいまでしか「皆」に含めようとしない感じ。
昭和はもうちょい広かったと言うか、たとえばトトロでメイを創作するために村総出で動いたけど、ああいう「いざとなったら視界に入る地域の全員で協力する」みたいなノリが団塊の一つ前だとあるんだよ。
その癖して「ゆとり世代」「Z世代」に対してステレオタイプ論をふりかざすときは「コイツらは個人主義で」と言う。
いやいや自分らを棚上げにしすぎやろって。
こういう「自分が±0だと思っているから、自分より少しズレたら異常だと騒ぎ出すけど、自分たちがそれより以前と比べたらまた異常であるってことに対して無関心」な所が本当に気持ち悪いんだよね団塊の世代の世代論は。
天皇の写真を飾りもしないし、「Q.日本が攻められたらどうしますか?」「A.アメリカに亡命します」って考えが多そうだし、100年前の日本人がみたらビビるぐらい日本という国に対しての関心度が薄い所とかさ、今はもう当たり前になってきてるけど一つ前の世代からしたらマジで異常なんだって。
お前らは別に中立でも中庸でもスタンダードでもなんでもないって事だけはいい加減自覚してくれよ。
お前らの世代の常識が全人類の常識になることなんてないんだって。
自分たちもまた過去から比べて変化した世代であるってことを忘れてるから「俺が子供の頃はスカートめくりぐらい普通だった。職場の偉い人はお茶くみ係の尻触ってた。なんで俺が怒られるのかわからない」とか言っちゃうんだって。
まあ、結局のところ、これが団塊の特徴なのかもな。
「なまじっか人数が多いせいで自分たちの世代こそがスタンダードであると思い込みがち」っていうのが。
この辺掘り下げるブームとか今後出てくるのかな。
スレッタは恵体で優秀なパイロットだが、水星の田舎者で救助の仕事だけしてきて、素の性格はアニメを見てスクールラブに憧れていた凡庸JKだから、
社会に関心がなく、恋愛と友達と家族にしか興味がない視野が狭いキャラクターとして描かれていても、別に違和感や不満はなかった。
しかし対比となる、都会育ちでベネリットグループ総裁の娘として生まれたミオリネまで社会に関心がないとは思わなかった。
ミオリネまで社会格差や家業に関心がないなら、デリングとシャディクに保護されて籠の中の鳥のままでいたほうが良かったのでは?と思ってしまった。
ミオリネの父親がスレッタの遺伝情報上の父親を殺していることについて、「父親がやったことだから私には関係ない」と即解決され葛藤が一切無かったのも、
正論かもしれないがキャラクターとしての魅力を大きく損なったように思う。
スレッタが強化人士4号にしつこく質問して地雷を踏んだのも悪いといえば悪いが、4号に酷いことを言われて「それでも好き」、
スレッタがプロスペラに洗脳されているのにも問題はあるが、ミオリネに酷いことを言われて「それでも好き」、
エリクトには突き放され、プロスペラからはエリクトよりも優先順位が低い娘という態度を露骨にとられるが、
「それでも好き」という嫌な天丼をやられた印象がある。
こういう、冷たいことばかり言われて、いたぶられるポジションに置かれやすい女性は類型としてあるといえばあるのだが、
シャディクがガノタに不人気で、本編でも見せ場がいまいちだったからミカエリスが売れない、などと言われていたが、
2期機のシュバルゼッテとデミバーディングはミカエリスとも比較にならないほど扱いがひどかった。
まずラウダがノレアにペトラをケガさせられた八つ当たりでミオリネを殺そうとして兄を殺しそうになる(?????)という、
訳のわからない戦闘一回だけにシュバルゼッテは使われて消滅した。
グエルに期待して、期待が裏切られて反転アンチ化し、メインシナリオと無関係に殺しに来るというろくでもないキャラだった。
デミバーディングはもっと印象が薄い。ただ人間を運搬しただけでしかない。
マルタンが出しゃばりすぎたためニカとチュチュの関係が薄いものになってしまい、自動的にデミバーディングも影が薄くなった。
ガンプラを出すことが決まっているので無理をしてでもシナリオにねじこむしか無く、ストーリーが変になったり機体が空気になっている。
おそらくこうなのだろうという予想を大勢の視聴者がしているが、本編中にろくに説明がないためほぼ憶測でしかない。
ノートレットの理想をデリングが引き継ぎ、プロスペラがそれを利用しようとする、それぞれの思想やビジョンが全部不明瞭だった。
結果、「何のためにスレッタが身を削ったのかよくわからない」というのは致命的なのでは。
4号、ソフィ、ノレア、フォルドなど社会的底辺出身のネームドが次々に死んだ。
虐殺したデリングはお咎めなし、強化人士を殺したペイル社CEOもお咎めなし、
そして宇宙議会連合軍を大量虐殺したプロスペラの罪はなぜかシャディクが被るなど、
罪と罰の扱いが非常に適当なものになっていた。「赦しがテーマの物語」とするにしたって雑すぎないか?
勧善懲悪の物語は現実と乖離しており安っぽくもあるのだが、いくらなんでもここまで混沌とさせ説明カットする必要があったのだろうか?
結局、死んだネームドは底辺生まればかりだったという印象が残る。
宇宙議会連合の唐突な殺人光線から人を守ったスレッタや、失神したモブ生徒を救おうとしたペトラなど、
スペーシアンについては「利他的な行動をした結果として重度の身体障害者になっている」のも、何が言いたい?
ラウダによる地球寮メンバー、ロウジ、フェルシーに対する殺人未遂も適当に扱われて無罪になったようだし、
利他的な行動をとると障害者になって、他責思考の加害者についてはやりたい放題であるというのが物語の結論のようだ。
>デザイナー発注時シュバルゼッテはグエル搭乗機で赤い機体だった
グエルが最後までスレッタたち主人公サイドの敵で、シュバルゼッテ乗って死んでたとしても、
最近我が市がネットの右翼左翼の間で激アツコンテンツと化しているので、実際住んでいる住人として感じている部分を箇条書きでまとめてみたんで、まあ判断基準かなんかにしてもらえれば。
https://anond.hatelabo.jp/20230910111310
かなり昔「保育園落ちた日本死ね」が話題になったのが2016年。
あれから、保育園の充足率はどの自治体も頑張ってあげてきて、待機児童問題はある程度解決された。
ただ未だに行政上は子育てにはギリギリの予算しか割り当てられてない。
そのしわ寄せは保育士の給与をある程度下げて、ギリギリの人員で運用することでカバーされている。
だから有給取った時は預けるなみたいなクソルールが当たり前になったり、
会社帰りにちょっと買い物行っただけでキレる保育士が出てきたりする。
親は悪くないし、保育士も悪くない。
もはや国レベルで動かないとどうしようもない。
残暑もようやくその勢いを失いつつある9月半ばの初秋、月曜未明のキックオフは普通だったら観戦するのを躊躇する時間帯だが、幸いにも日本は今日、3連休の最終日だ。
フランスで開幕したラグビーW杯は2週目、日本代表はラグビーの母国、イングランドと対戦する。
このイングランド、対戦成績でいうと、日本は勝てたことがない。
ただ「勝てたことがない」でいうと日本は南アフリカにもアイルランドにも勝ててなかったわけで、それがいつ「勝ったことがある」に変わるかはわからない。
実際、日本はすでに全ての国に警戒されるまで地位を上げてきており、強豪国といえど研究を重ね、策を練って当たるようになってきている。
国際的に認知されている日本の強みといえば、ボールを保持しての素早い展開であり、保持しての攻めは強豪国も手を焼くものだ。
なので、増田としては多くの人が予想する「キックをぶつけてくる」のではなく、イングランドは「保持して渡さない」という戦術を予測した。
まったく主流でない予測だが、保持された方が日本としては対応がないように思えたのだ。
果たしてイングランドはどういった戦術を取ってくるか、そして日本は。
イングランドはアルゼンチンとの初戦、戦慄のキックで全得点を叩き出したジョージ・フォードだけでなく、フロントローもベテランで固めてきた。
もし予想外のことがあっても、素早く修正してくるだろう。
対する日本も通常リザーブ出場が多いラスボス堀江をフッカースタメンに起用。
スタット・ド・ニースのピッチはマイクで拾っているはずの中継の声も聞こえづらいほどの大歓声。
観客もこの1戦が、過去の対戦成績やランキング通りの結果で簡単に予想できるものではないものになると期待しているのかもしれない。
不評を受けて今回から合唱だけでなく伴奏付きに選択できるようになった国歌斉唱は、双方が伴奏アリを選択し、聴き慣れた君が代とゴッド・セイブ・ザ・キングに続いて大一番はキックオフとなった。
イングランドのキックオフで始まった大一番は、開始直後にFBマシレワがインゴールでノックオン。
いきなり危機にさらされた日本は最初のスクラムを見事止め被トライを防いだが、その後イングランドにペナルティを獲得されPG。
その後もフォードのロングキックでエリアを取ってくるイングランド。
増田はイングランドの戦術としてホールドしてくるのもアリかと思ったが、気を衒わず利があるキックをぶつけるのが最善、ということなのだろう。
イングランドが蹴ってエリアを獲得してくるので、FBはキックを処理しなくてはならず、マシレワの今日の仕事は多いのだが、そのマシレワがキック処理後に不運にも右脚を負傷。
早々にレメキと交代となった。
交代カードをあまり早く切ると、その分消耗が早くなったり、戦術の替え場をコントロールできなくなったりするのだが、怪我ではしょうがない。
ただ、マシレワは蹴った後にハムストリングを痛めたように見えたので、次戦以降にどうなるのかが心配だ。
さて大方の予想通りキック主体に攻め入るイングランドに対して日本はというと、こちらは意外と言うか、蹴り返して応戦する。
この蹴り合いは、テリトリーではやや押されている場面があるものの、あまり決定的なゲインを許していない。
「ラスボス」堀江がコントロールするスクラムいまのところは互角に見える。
20分にはフォードのキックをチャージしてイングランド陣内に深く侵入、ペナルティを獲得して松田のキックでスコアを先行した。
その直後の24分、今度はミスを見逃さずキックで深く侵入したイングランドにトライを被るが、対する日本も再びキックを有効活用して深く侵入してPGをかえし、1点差まで詰め寄る。
日本代表は出来過ぎなくらい上手く戦っている。
ほぼ差のないまま後半に入ることができればこの大一番の勝利もうっすらと見えてくる。
なので、前半終了間際にゴールライン側まで大きく押し込まれたシーンはピンチだ。
日本は守りたいところだし、イングランドとすればトライで突き放して気勢を削ぎたい。
前半最後の攻防は41分まで粘った日本からPG獲得、イングランドがわずかだが確実なアドバンテージをもち帰り、4点差での折り返しとなった。
それにしてもイングランドが蹴るのは予想の範囲内だったが、日本がこれだけ蹴るとは、そして蹴り合いとなって僅差で前半を折り返すとは誰が想像したろう。
蹴り合いのゲームはハマれば消耗が少ない。
日本はスタミナを温存して後半に臨むことができる。
前半に予想外の戦術をとり、後半をどう戦うか注目された日本だが、50分を過ぎても流のボックスキックなど、キックで前進。
前半最後の1本を帳消しにする松田のPGで再び1点差まで詰め寄る。
前半よりキックを使う回数は多いくらいだ、大方の予測通りに蹴ってきたイングランドに対して、日本もこの試合では徹底的に蹴るつもりかもしれない。
ゴールライン手前までイングランドが押し込んでから、ジョー・マーラーの金髪モヒカン頭に当たったボールがコートニー・ローズの手元に入り、ノックオンかと日本の選手の脚が止まったなかでこれがトライ。
日本は堀江がスクラムで存在感を見せているが、イングランドのベテランは強運で思わぬアシスト引き寄せ、ラグビーの母国がこの試合初めて1トライ分以上の点差をつける。
ここでノックオンのセルフジャッジをして足を止めた一瞬は、日本にとってのちに響く大きな差となった。
日本代表選手の集中が少しだけ切れたのか、見えない流れがイングランドに渡ったのか、蹴り合いの後のボールを獲得できない日本に対して、ゴールではなくライン側を狙ってもイングランドの名手のキックが冴え渡る。
64分にはフォードのキックパスが長身フレディ・スチュワードにピンポイントで渡り、見るものを感嘆せしめるトライで安全圏の2トライ以上の差をつける。
67分で15点差はこちらに展開を持ってくることができれば追いつけない差ではない、しかしラグビーの母国の選手たちは抜け目なく、挑戦者にチャンスを与えない。
残り時間が減っていく中で、日本は狙うべき現実的なターゲットが逆転から、同点、7点差以内敗戦のボーナスポイントへとズルズルと下がっていく。
78分で自陣で相手ボールのスクラムになってしまえば、15点差から8点をとってボーナスポイントを狙うのももう無理だ。
苦い味のする最後のケーキは相手にボーナスポイントを渡さない被トライ3以下。
しかし、妥協しないイングランドはこれすらも許さず、81分に日本は4トライ目を献上してしまった。
キックに自信をもつイングランドに蹴り合いを挑み、前半を互角に戦った日本だが、勝ち点の上では完敗とも言える結果、どこで、どのように流れがイングランドに渡ったのだろうか?
試合のスタッツを見てみよう。
キャリーメートル数:イングランド 533m -324m 日本 に対して、
キックゲイン:イングランド 1177m - 938m 日本だからお互い蹴ったゲームだった
試合全体のテリトリーはイングランド 61%-39% 日本、ボール支配率はイングランド 66%-34% 日本。
大きく押し込まれていたことを示す数字だが、これらの数字がイングランドに傾いたのはおそらく後半だろう。
ラインアウトはイングランド 成功10/13 - 成功8/12 日本。
イングランドもミスはしていたものの、日本が失った4本を成功できていれば、ここを起点にもっと前進できたかもしれない。
スタッツで取られないところだが、ハイボールの競り合いも日本がクリーンにとれていたところがあまりなく、イングランドが局面で優勢だった印相。
ディティールではこの辺りでイングランドに流れが渡ったように思える。
ノックオンになればスクラムだが、ベテランを起用した日本のスクラムは抜群に安定しており、組み負けてPGを取られるという悪い展開にならなかった。
キックを多用した戦術選択は、このスクラムの自信と、滑る手元でボールを動かすことの不確実性が考慮されたのかもしれない。
戦術の選択についてたらればを言うのは本当におこがましいのだが、ハイボが入らない、ラインアウトが完全に支配できないという状況で、個人的には後半のもう少し早くにボールを保持して、イングランドが前進できる機会を減らすというオプションがあったらどうなっていただろう、という感想はもった。
ただ、試合後の選手のインタビューでは、プランというより、遂行の面での不備を振り返るものが多く、実際にもプランがそこまで破綻した場面はないように見えたので、増田の感想はあくまで素人考えの域をでないだろう。
「落ち込む時間もない。10分ぐらい落ち込んで、次の10日間でサモア戦に向けて準備したい。」
10日後に日本代表とまみえるサモアは23日に先立ってアルゼンチンとも対戦する。
この結果はどちらに転んでもプールDに大きな混沌をもたらしそうだ。
そしてその帰趨ともに、次戦の結果で日本がこの混沌に潜む魔物の犠牲者となるか、他国にとっての死神となるかが決まるだろう。
混戦を抜け出す勝利を掴むことはできるだろうか、日本 vs サモアは29日未明、日本時間4:00にキックオフだ。
この漫画ってつまる所は「将棋と青春を通して描く人生という『一所懸命』」なんだと思うんですよね。
王と玉を取り合うシンプルで言い訳のしようがない世界である盤面の上で、夢や都合や老いといったモヤモヤしたものが絡み合って純粋さが失われていく将棋パート。
それとは反対に色々な物が混ざり合いすぎた絵の具みたいに鈍色と虹色の中間みたいな現実の中で、ハッキリと光るものによって世界がシンプルにほどけていく日常パート。
その2つの相反する世界の中で、純粋と混沌をグラデーションさせながら生きていくことを強要されていく世界を浮かび上がらせ、その複雑さと残酷さに押し潰されそうになる中をどう進むか、その答としての「一所懸命」がこの作品で描かれているものなんだろうなと。
この混沌とした世界で数少ない純粋なもの、将棋の勝ち負け、好きだと想う心、その光を一直線に目指す気持ち、それを絶対に譲れないからと必死に糸をたぐるように追い求めていけばきっと道は拓けるはずだという希望の唄なんですよね。
それを今自分が使っているような陳腐な言葉じゃなくて、比喩表現を駆使して少しでも深く掘り出そうとする思いがファイターを通して今なら分かる。
昔は分からなかった。
将棋という軸に繋ぎ止められた方向性のない群像劇だとさえ思っていた。
全然違った。
皆が光に向かって突き進んでいる。
自分の中から溢れてくる光、それが指し示す道へと向けて精一杯突き進んでいる。
なんで3月のライオンのテーマソングがこんなに力強いんだろうか不思議だった。
桐山零は物凄い強くて天才だけど、その印象は優男、いや優しい男の子っていう感じだった。
でもその歩みは物凄く力強かったんだ。
まっすぐ目の前に伸びる道をノッシノッシと何もかもを押しのけていくように踏みしめていく。
この力強さを奏でていたんだな。
そして、そうやって突き進むために桐山が傷つきながらもファイティングポーズを絶対に解かないで何ラウンドもリングの真ん中で拳を突き出し続けた姿を、そんな桐山の戦いの中に、将棋の勝ち負けだけじゃなくて温かいものが無数にあるんだって教えてくれた光に対しての祝福がこんなにも輝いてるから、こんなにもヒロイックに音が跳ねていたんだ。
俺、分からなかった。
10年もかかってしまった。
凄いな、プロは。
いや本当感心するわ。
○ご飯
朝:なし。昼:玉ねぎ炒め。焼きそば。夜:だし豆腐納豆。ピーマンとシメジと玉ねぎのスープ。魚肉ソーセージ。ブルーベリーヨーグルト。間食:オーザック。豆菓子。ハチミツ味のポテチ。ばかうけ。(お菓子食べ過ぎ)
○調子
まあ休日だし許して欲しい。いや内臓に休日の概念はないし、許してくれないのだけれど。
・はじめに
陰気で友達が少ない女子高生のスバルと、その数少ない友人で正反対な陽気な性格のミスカの友情と断言しがたい歪な関係が、お人形さんの様と評される美少女転校生ルウの登場で変化していく様を楽しむノベルゲーム。
だけでなく、混沌が蔓延ってきて日常を侵略するホラー要素もあるのだけど、そちらは元ネタありきの展開が多くそういうものとしてふんわりとしか理解できる読んだので感想が特にないためこの一行以降はふれないことにする。
学校という閉じた人間関係と、思春期らしい自己の有りように悩む様とが、ある場面では丁寧に、別の場面では幻想的に描かれていて、この二点が文量の多くを占めている。
甘い恋愛的なイチャイチャする読んでいて楽しい気分になるシーンよりも、関係性に悩み他人を気遣うがあまり自傷的に自己言及を繰り返す辛くて悲しいエピソードが多め。
そんなこと一人で考えても答えは出ないし一生悩んだり楽観的になったりを繰り返すしかないよ、と大人になった今でこそ思うものの、自己と他者の関係性の有り様を悩む様は読んでていて共感する場面が多かった。
そんな辛い中でも食事のシーンは彼女達の悩みも何処へやらで舌鼓を打ってくれるので、夕飯の時間が待ち遠しくなったりもした。
陽気で友人が多く、テストの成績こそ悪いものの教師からの覚えもよく、容姿も可愛いと褒められ、前向きで良い子なミスカ。
しかし、スバルの方はミスカから向けられる好意を素直に受け止めない。
それどころか、些細な表現や物言いをどんどん悪意を膨らませてしまうスバルの生き方は苦しそうだった。
ミスカの一人称と、スバルの一人称を行き来することになるのだけれど、二人はすれ違い続ける。
ミスカは衒いがあるわけでなく、本当にただの根明で、楽しいことが好きなだけの普通の子。
ところがスバルはどこからでも悪意を見つけ、彼女の好意を受け取ろうとしない。
この関係値の噛み合わなさは読んでいて本当に辛かった。
ミスカが友情でなく恋愛としても惹かれていて、その理由もスバルの言う悪意のあるものでないにも関わらず、それが本当に一切伝わらない。
誕生日にケーキをご馳走するという、善意100しか考えられない行為ですら、スバルは穿ったものの見方をし、ミスカからの気持ちを真っ直ぐ受け止めない。
ペットボトルの回し飲みでミスカが間接キスにドキドキするも、スバルは喉が渇いたとしか思っていないシーンなんかは、もう読んでて可哀想だった。
空回りするミスカの好意が、物語的な意味でも何も前進させないのも読んでいてしんどかった。
献身的にスバルに尽くすミスカと、自分の内面世界のことでいっぱいなスバルのすれ違い。
スバルが素直になれば、開幕5分でハッピーエンドまっしぐらなぐらい、ミスカの好きは真っ直ぐで一貫してるのがもどかしい。
そして何よりスバルの素直な気持ちはミスカではなく、転校生のルウに向けられてしまう。
そんな端的に言ってしまうと性格が悪いスバルが、海外から転校してきたルウと交流することで変わっていく。
ルウは箸の使い方を知らず、麻婆豆腐や唐揚げやメロンパンを食べたことがない程に無垢な存在。
危うげというわけではなく思慮深いのだが、学校という枠組みからは大きく外れたような物言いもする。
そんな無垢さがスバルの悪意増幅センサーを回避するのか、ミスカからの好意を悪意に変換し距離を置こうとしていたのとは対象的に、ルウとはドンドン距離を詰める。
ミスカの好意が一方的なものだったのに対して、スバルの好意はルウに受け止められ、スバルとルウはドンドンと関係を深めていく。
ルウの方も、スバルのことを深く知りたい、会話したいと甘えるように距離を詰める。
手繋ぎデート、夕飯を一緒に作るなどの高校生らしいそれもあれば、添い寝や過激なスキンシップなどもあり、CERO Cとしてはそれなりに攻めたシーンも。
ルウとスバルがイチャイチャすればイチャイチャするほどに、ミスカは空回り続ける。
こうなっても客観的にはミスカはオカシイことをするわけではなく、ひたすらに良い子なのが可哀想さが増す。
ミスカは僕が先に好きになったのにと反転するでもなく、転校生の面倒を見れるスバルの成長を喜ぶ良い子なのだ。
ミスカからの好意は悪意に変換するのに、ルウからの好意はそのまま受け止めるのか。
ということは、スバルの精神世界を幻想的に描くシーンで抽象的に描かれる。
まだ人権の概念が無く子供を産むことだけが女性の価値であった時代を生きていたとある女性のエピソード、他人がおらず四季の移ろいをただ楽しむだけの世界などの、夢のエピソードと共にスバルの内面がゆっくりと掘り起こされていく。
一人で無限に牛乳と果実を食べ続ける生活が示唆するスバルの本音は、納得できるところもあったが、だからと言ってミスカの可哀想な空回りが救われるわけではない。
ここが本作の賛否別れる大きな箇所だろう。
スバルにはスバルなりの理由があるとはいえ、ミスカの気持ちはどうにもならないのは、正直僕はあまり好みではなかった。
あんなにも根っからスバルのことが好きで純粋にそのために良いことだけをして来たミスカが、フラれるとか、恋愛対象として見れないとかじゃなく、嫌われるのは、辛い。
ただこのミスカの好意の空回りの先が知りたい気持ちの牽引力は凄く、楽しいとか面白いではない、マイナス方面の感情で読ませる物語はよく出来ていた。
・さいごに
スバルを好きだけど見向きもされないミスカの空回りと、スバルとルウのイチャイチャという三角形の一辺が欠けた歪な関係に着目して感想を書いた。
ミスカの一人称ではスバルのことが大好きで一生懸命善意で良いことをする前向きさが、
ルウの無垢さに惚れていく展開は、辛いけど読み進める手が止まらなかった。
ミステリやコメディといったわかりやすいハッピーエンドが好きなので、好みとは大きく異なっていたが、終わってみるとコレはコレで好きな作品だった。
2023年1月、人生で初めてヒップホップの世界に推しが誕生した。
Spotifyの新曲プレイリストで出会った最高の新曲の虜になった。
過去曲を漁ってその良さに悶えた後、素性を調べた。
埼玉県の越生町出身で、元々はYouTuberの走りみたいな活動から始まり、メンバーが1人抜けて今は3人(DJ兼マネージャーを含む)で活動しているらしい。
名をSUSHIBOYSと言う。
とにかくライブに行きたくなった。
増田の人生最初の推しはくるりで、その後もロックバンドばかり推してはライブやフェスに行き、CDを買ってきた。
ヒップホップもちょこちょこ聴いていたが、RIP SLYMEやKREVAをタイミングが合えばフェスで観る程度で、「推し」と言うには不適当だと思う。
2023年の増田は運が良く、3月にライブが発表された。東京でツーマン。
行くしかないと思った。死ぬ気でチケットを取った。今年還暦の母親にSUSHIBOYSを教えたらドハマりしていたので、一緒に行くことにした。
人生で初めての定員300人のライブハウスで対面したSUSHIBOYSは、あまりにかっこよかった。
登場からビジュアルが良くて度肝を抜かれた。映像や写真を何度も見たのに、生のかっこよさが桁違いだった。
そして歌が上手い。ラップが上手い。めちゃくちゃ聞き取りやすくて音を外さない。
その上手い歌からのゆるいMC。メンバーの父親の名前のコールアンドレスポンス、曲名に繋げるために観客とのしりとり、客席に降ってくるアヒルボート。
混沌とかっこよさのごった煮を音楽とともに頭からぶっかけられると、人間はキマる。
正直始まる直前には期待が高まりすぎて、「こんなにハードル上げて大丈夫か…どうしよう生だと微妙だったら…」と思っていた。杞憂も杞憂。SUSHIBOYSはそのハードルの遥か上を飛び越えて空まで飛んだ。
終わってから母親と合流してみると、母親が「かっこよかった…すごかった…」しか言えなくなってたのには笑った。年齢関係なく魅了されるもんなんだな。
SUSHIBOYSのことだけ考えて生きていたら、6月にやついフェスという音楽とお笑いのフェスに出ることが分かった。仲間を増やしたくて友達をSUSHIBOYS沼にちょうど沈めようとしていたところだったので、「こりゃいいや!」とチケットを取った。もちろん他のメンツも良かったから迷いなく取れた。やついフェスには心から感謝している。
やついフェスでは最前で音を浴びた。踊って手を振って走って歌ってしりとりをした。自分の周りの人の盛り上がりがすごかったので、熱気が熱気を呼んで頭がおかしくなるくらい楽しかった。
人間、楽しいと意識しなくてもずっと笑っている。フェスの後にSUSHIBOYSがインスタのストーリーで客席の動画を上げていた。ものすごく幸福そうな私の顔が一瞬だけ写った。恥ずかしさもありつつ、喜びの再確認。
快楽物質にまみれた朧気な意識の中、やついフェス前は行く気もなかった7月の大阪のツーマンライブのチケットを取っていた。
熱に浮かされると、人は全く冷静でなんていられない。
書き忘れていたが、SUSHIBOYSの曲の題材の中にはおよそヒップホップらしさとはかけ離れたものもある。
ヒップホップと聞いて人々が思い浮かべそうな、"悪そうな感じ"がSUSHIBOYSにはない。曲に無理がない。多くを望まない、でも生きることに絶望しない姿勢が根底にあると思う。
だからそこまでヒップホップに詳しくない増田にも刺さったのではないか。
白米の新曲はイヤホンから聴いてもとても痺れたのだが、生音で聞いたら「こんなん全員恋に落ちるが!?」と思うくらい良かった。
それまで増田が行ったライブと異なり、大阪は対バン相手のファンが前方エリアに多く、その若干アウェイな空気をひっくり返さんとステージを駆け回る姿は戦場で戦う勇者のようだった。勇者は民衆の心を掴むと相場が決まっている。
SANAGIという代表曲の前に挟まれたMCで、「まだ蛹である自分」の話をメンバーがしていて、「まだ蛹なの!?!?こんなにかっこいいのに!?!?羽化したらどうなっちゃうの!?!?」と馬鹿みたいなかけ声をかけそうになる。
そこまで金銭的な余裕もない中、大阪遠征なんて無謀ではと考えたこともあったが、思い切って決断してよかったと思う。物販でグッズを売りに来たメンバーと勢い余って写真まで撮ってしまったので、もう思い残すことなど何もなかった。(もちろんグッズも買った)
数日経った今、やっと地に足がついてきたと感じる。
日常でどんなに辛いことがあっても、SUSHIBOYSのことを思い出せば生きていける。あの曲の素晴らしさを、あのステージ上での姿を、たまに見せる苦悩する姿を。
SUSHIBOYSという推しがいなければ、2023年ここまで楽しくはなかっただろう。
音楽活動を続けていてくれてありがとう。健康に生きてくれてありがとう。
こんな長い文章を最後まで読んでくれた方がもしいるとすれば、心から感謝する。
そして可能であれば「白米」を聴いてください。
【追記】
「白米」のMVも公開された。最高すぎて言うことがない。
もし目の前に鏡があったら、見て欲しい。
鏡に写っているのが1000年に一度の美少女だった人。
または、川崎生まれでラッパーかヤクザの鞄持ちになるしか無かった人。
そうじゃ無い人。残念ながら物語として出来損ないです。
でも、人は何かに憧れてしまう生き物なので、それが完全に間違いであると確信する事は難しい。
人々が虚栄心や欲に塗れている理由。
物語を作る人間、特にジブリの宮崎駿ともなると、自分の表現に対する影響力とその責任について当然考えていると思った方が良い。
宮崎駿の昔のエピソードに、『となりのトトロ』を作った際、作品を通して生の自然と触れ合うきっかけにして貰いたいと思っていたら、「子供が家でビデオを擦り切れるくらい観るほど大好きなんです」と言う親が現れたという話がある。
物語に感化された者が、物語の世界を通して理想を築き上げ、しかし自分の現実とのギャップで苦しんでいるとしたら、それは物語の罪に当たる。
このリアルさとは、実際の現実をデフォルメしたものであって、デフォルメの仕方が理想的だという事に過ぎないのだ。
「事実は小説よりも奇なり」という言葉があるように、本来の現実は物語と比べ物にならないくらい複雑で不条理なのだ。
現実は物語として歪な形をしていて、そこに答えや正解がある訳でもなく、混沌なのだ。
人生は混沌を乗りこなす事であり、だから現実は面白いと思う人が居て、だから創作する側に立たない人が大多数なのだと思う。
だから、宮崎駿の「君たちはどう生きるか」という作品は、物語の世界に囚われて生きる人々に現実と向き合うことを促す意図があるように思えた。
大学2年の時にニーチェを読んだ。ニーチェかサリンジャーを読まないといわゆる「基本的人権」が認められない世界観の中で、避けられない選択肢だったので、読んだ。そして意味がわからなかったので、本屋に普通に並んでる様な文化人の解説本をいくつか読んだ記憶があり、その後読んだ年齢の倍以上経てその殆どを忘れてしまってる。
さて、先日「君たちはどう生きるか」を鑑賞した。何故かネタバレを極端に避ける風潮があって私の周りでも内容に触れる人は極端に少ない。
ただ「理解するのが難解な作品である」といった趣旨の投稿をしている人は何人もいた。
果たしてそうなのだろうか?という疑問を持ったので本増田を書いている。
特にメモをとってわけでもないので、ディテールに齟齬がある部分は勘弁いただきたい。
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その後、母親の妹が新しい母親となり、母親の実家に疎開(?)をする
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亡くなった母親の思い出もあり、新しい母親に真人は心を開けない
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金持ち仕草に抵抗のない父親が車に乗せて初登校をしたため、ガキ大将的な奴と喧嘩になるがMMAの能力があったため圧倒する
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帰り道に石で自分の頭を殴り✳︎1 かつ犯人を言わないという知的な叱られ対策を行う
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亡くなった母親の残した「君たちはどう生きるか」に出会う ✳︎2
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ご覧の様にストーリーは極めてシンプルである。そして、✳︎2の描写が本作品の大部分を占めている。
いやいや、おしいれのぼうけんのさとしとあきらのぼうけんは実際に異世界へ行ったのであるよ。そういう人もいるだろうし、多感な子供がおしいれに罰として閉じ込められるという昭和のみ許された罰によって生じた脳への過大なストレスで発生したイマジネーションの中の世界という人もいるだろう。
今回は後者の説をとらせて貰いたい。
真人はあまりに強く石で頭を打ってしまい、かつ慣れない場所でのストレスから母親が残してくれた「君たちはどう生きるのか」に没頭してしまう。
この原著は小学生の時に読んだことがあり、その歳からは3倍以上の歳となってしまったので
あるが、コペルくんという快活な出来杉くんが日々体験した葛藤とかに、「叔父さん」が真摯に答えてくれるという内容で、漫画化されて話題になった時の売り文句を見ても感じたのだが、児童文学の姿を借りた思想書/啓蒙書である。
うっすら覚えている内容も、格差によるキャズムと父親の金持ち仕草でいきなり浮きまくって喧嘩となり、派手な登校拒否スタートとなった真人とは重なる点も多く、「叔父さん」の回答は真人の心に刺さるものが多かったろう。
聞くところによると反戦主義者であった吉野源三郎は、自由な言論活動が抑制された戦前、戦中において、その活路を児童文学に見出したようだ。
吉野源三郎とニーチェの対比については東洋哲学的視点で語る人は少なくない。戦前、戦中においてはニーチェが死んだと評した絶対的価値観と同様のものがこの国に溢れていたのは事実だろう。
そういった意味では吉野源三郎を日本のニーチェと感じる人はいてもおかしくないのだろうけど、昭和の小学生であった自分には全く刺さらなかった一冊であった。
なんにせよ、真人少年はこの本を読み、心の中のぼうけんへとでかける。
庭にある「塔」はよそから飛来した飛翔体で、大叔父は「これは大事なものだから」と新しい建築物で囲った。
「新しいぶどう酒は新しい革袋に盛れ」(ルカ5章38節)当時の慣例を無視したイエスは、新しい思想は、新しい環境にて受け入れかし的な意味で言ったらしい。
と宿るじゃ大きく意味が異なるので、この辺も解釈によって随分と違う。
さておき。この大叔父の言っている「これは大事なものだから」は絶対的な価値観で、この絶対的価値観を装飾したり保護したものが戦前、戦中に世に溢れていた「常識」なのだろう。
この常識に対して、「君たちはどう生きるのか」は児童文学というN国ハックを成功し、無事相対的価値観を真人少年に届けることに成功する。
✳︎母親も塔で行方不明になった時期があり、大叔父は姿を消したままなのは、絶対的価値観に対する「疑問」を持ったことに対して、思想警察等の介入を招いたという事なのでは?といった解釈もなりたつ。一方で、隠れキリシタンのマリア像的な「進歩的思想」を表すものとも受け取れるがその場合にはいくつかの齟齬が生まれる。
本作でトリックスターとして描かれるアオサギは古代エジプトのベヌウを始めとして様々な宗教で描かれている。
混沌に現れたベヌウがアトゥムとなりそしてラーとなったが古代エジプト神話の創世記で、ベヌウはその後もフェニックスになったり、旧約聖書で忌むべきものと描かれたりと様々な存在であり続ける。
全てのアオサギは嘘つきだとアオサギは言った。これは本当か?!
という問答が本作ではあったが、アオサギは「相対的価値観」のメタファとして描かれたのでは?と私は思う。
見る人によって、見る時によって解釈が異なる存在は相対的価値観の象徴としてこの上ない。
ソクラテスの良き友人であり、ソクラテスをソクラテスとならしめ、そして死に追いやった「ダイモン」はその後「デーモン」となり絶対悪となる。
アオサギは創世の核から、忌むべきもの、そして後世では聖職者やキリストとしても解釈をされている。相対的価値観の象徴として登場するに相応しい扱いのブレブレさ。
嘘つきを「悪」や「忌みもの」と置き換えたとしても時代、そして答えるもののスタンスでその答えが変わるだろうアオサギをトリックスターに据えたのは、アオサギが不死鳥=火の鳥としての立ち位置だと考えても中々に面白いのではないだろうか?
わらわらが空に舞うシーンとペリカンの登場をみて、多くの人が空襲によって生まれるはずの命が奪われていったのをイメージしたのではないだろうか。
出雲大社をはじめ、神道の結婚式では玉串をおさめるさいに、新郎と新婦は螺旋の様に左右に交わりながら神前に進む。
この「螺旋」という存在は、永劫回帰にもつながる東洋思想の根幹となるもので、すべてのものは平等に無価値で、それぞれが相対的な価値をそれぞれに対して持ち、または持たない。
下の世界は明示的に「地獄」と表記されてたのであるが、おそらく描かれてるのは冥界だろう。
ニーチェが死んだと評したものはそれ以前のキリスト教における始まりのある絶対的な価値観というのが有力な説であるが、その絶対的価値観を作った人物の1人である聖アウグスティヌスが「聖心、自己犠牲」の象徴とし、その後も様々な紋章で愛されたペリカンが魚の内蔵餌にし、上の世界での誕生を待つわらわらの命を次々と奪っていくのは宮崎駿のフラットな「反戦思想」が読み取れる極めてシニカルなメタファーではないだろうか。
ペリカンは第二次世界大戦でも輸送機や爆撃機のノーズアートとして愛用をされていたのは、ミリタリーに造詣の深い宮崎駿なら知らないわけはないだろうと考える次第である。
インコの軍団の描かれかたは、当時の日本の軍部の急進派やポピュリズムに扇動された国民をイメージとさせる。
ところが、インコはアオサギやペリカンの様に何かのメタファとして使われてた例を少なくとも私は知らない。
あえて言えば、ポピュリズムに扇動される一定数の国民は今も変わらない、その人たちはみな同じ様ち聞いたことを繰り返す。
これらに対しての皮肉を込めて、鸚鵡はアレだからインコにするか、となったくらいしか思いつかない。
1シーン、インコたちが「陰謀論者」を彷彿とさせるセリフを言ってたのが気になるが、それにしても偶然の一致だろう。
本作は極めてシンプルな構成で少年の成長の数年間を描きつつ、そのきっかけとなった一冊の本のバックボーンを深く掘り下げた作品だと思う。
ただ、その一冊が示すところは当たり前の様に社会に実存する不条理や、固定された常識を「畜知」として個々の持つ倫理観や、相対的価値観を持って超越すべきと描くものだった上に宮崎翁の表現だ。わかりやすく理解が困難であるところが極めてわかりやすい。
現象界では常に変化が起こり、全く同じ真理などは存在せず、全てのものに等しく「無」だけがその拠点として存在すると、ナウシカで宮崎駿は伝えたかった気もするのだけど、これすら三連休の最終日にしこたまアルコールを飲んで歩くのすらおぼつかない私の中だけの相対的な宮崎駿評である。
なんにしても本作の序盤の数分で感じるスパイダーバース同様の狂気は、宮崎駿存命の間しか味わうことが出来ない、スタッフロールと引き換えに命を削った各コマを作り上げた人々の命の結晶である。時間は貴重だ。一方、チケット代なんて酒を2、3杯飲むのと引き換えられる程度の数字が書かれた概念でしかないだろう。
よっぽど忙しい人や、ジブリや宮崎駿が嫌いな人も最初の10分で良いから見てほしい。
昨晩、地下室からのふしぎな旅を改めて読んだ。柏葉幸子は素晴らしい。
宮崎駿は引退するまでに一回で良いから柏葉幸子作品の監督をやりたいはずと、私は勝手に思っており、君たちはどう生きるかもその色眼鏡で鑑賞するといくつかのシーンから妄想が膨らむ。「鈴木くん。柏葉幸子は素晴らしいぃぞぉ」という宮崎駿の声が脳内で響く。
「そういう部分もある」では駄目。
これはほぼ100%がそうであるタイプであり、それ以外の部分は繋ぎでしかないと思っていい。
作中に説明不足に見える用語が沢山あるけど、それらは作品の外から持ってくる必要がある。
たとえば戦争映画でわざわざ「日本とアメリカが戦争をしています。日本は最後に負けます」と解説しないのと同じで、作品外から情報を補わせることで作品のテンポを良くしたり仄めかすことでより感情を揺さぶろうとしてる。
まずは作品のラストから遡っていき重要な用語を現実に当てはめて整理していく。
13個目の積み木→宮崎駿の長編監督作品(ルパン2作とコナン1作を含む)13作目が君たちはどう生きるか
血を継ぐものへの継承→宮崎吾朗(アーヤと魔女を見れば分かる通り、継承は失敗している)
インコの王→米林宏昌(それっぽい真似っ子は出来るが……を越えられず、ついには独立してメアリと魔女の花を作っている)
インコ→ジブリのアニメーター(塔(ジブリ)の庇護下にあるときは強いのだが、外に羽ばたいて見せると途端に魔法が解けて拾ってきたときのか弱い生き物に戻ってしまう。インコは結局真似っ子しか出来ねえかんね)
下の世界の死人→アニメーター以外のスタッフ(自分たちでは何も生み出せず、いざ作品が形になると群がってくる)
ワラワラ→未来の太客(面白い作品を見せて育てることで将来的に太い客になってくれる)
ペリカン→客を食い物にしようとするアニメ関係者(せっかく育てた客を食っていく。傷ついた客がアニメに愛想を尽かすすことも)
これがマジで難しい。
アニメーターとしての宮崎駿だと考えることも出来るし、宮崎吾朗の成長物語だったのかも知れないし、鑑賞者の分身だったのかも知れない。
そういった全てが重なり合った存在であったと解釈するのが自然ではあるのだが……。
たとえば自傷行為で心配されているのは宮崎駿が引退するする詐欺で周りを振り回したときの様子にそっくり。
ことあるごとに鈴木敏夫に振り回されているのは宮崎駿もそうだけど鑑賞者側も同じなわけで。
主人公は最初、本当の母親との再開を求めて塔に向かうが、途中から新しい母親を連れ戻すための冒険も同時に進行していく。
塔の中では幼少期の本当の母親と再開し、最後に別れを告げることになる。
また、新しい母親のことを最初は他人行儀に読んでいたのが、夏子母さんと母であることを認めることで取り戻すことに成功する。
結果として、どちらもが本当の母であると言わんばかりの終わり方となる。
これは宮崎アニメにおいて「ヒロインをどのようなキャラクターとして造形するか」についての葛藤を描いているのではないか。
ハッキリ言えば、「ロリコン趣味を疑われながらも少女を主人公とするべきか、そうではないヒロインを描くべきか、それらは物語や世間が求めるヒロイン像により時には重なり合い時には反発する」という話をしたかったのだと思う。
歪な時間軸の中で幼少期の母に出会いヒロインとして共に冒険しながら、もう1人の大人のヒロインを救出に行くという混沌とした物語構成が、常にその葛藤に晒されてきた宮崎駿の複雑な心情を描いているのである。
こうして纏めてみると結構スッキリした話なんじゃね?(むしろドロドロって気もするけどな(笑))
宮崎駿の目から見たジブリの物語を描いてますよって感じなのでは。
「君たちはどう生きるか」というタイトルはこの状況に対しての語りかけで、どこに向けてそれを言ってるのかで意味は変わるんだと思う。
ジブリと関係が深い人に対しては「俺が引退した後好き放題するんだろうけど、何をする気?」みたいな感じだろうし、インコに対しては「真似る相手がいなくなったらお前らもう本当に何も無くなるんじゃね?」とかなんかな。
でもインコの話について観客に対しても「お前らもインコになってねえか?」って圧かけてきててもおかしくないんだよなーこのお爺ちゃん職人気質とかいてパワハラって読むような所あるからさー正論で人を追い詰めるマチズモなんだよなー。
しょーじきここまでメタファーまみれだと「風斬りの7番」とかも分かる人には分かる要素なのかもね(鈴木敏夫の弱点って聞くと咄嗟にとある女性が思い浮かんだりしちゃうが、アオサギ=鈴木敏夫じゃなくて高畑勲って解釈もできるし焦っちゃ駄目ね。高畑勲の場合は柳川堀割物語かな。まあ人間なんかしら人生に汚点はあるからこじつけようと思えばいくらでも出来ちゃうね)。
アオサギを適当な人物に当てはめて「宮崎駿が「お前とは色々あったけど本当に友達だったと思ってるぞ」と言ってるんだ―尊いー(T_T)」って適当に感動しときゃええんちゃう。
作画スゲーだけで終わらせるのも吉。
ジブリは滅びますぞ―のセンチメンタルそのものについて鑑賞者まで深く考えんくていいと思う。
マザコンなのかロリコンなのかハッキリしろって突っ込むとか、宮 崎 吾 朗 wwwwwみたいにヤジを飛ばすとかは見終わってからまでわざわざせんでええのかもなと。
やっぱ全体としてストーリーラインが雑というか、もののけ姫とかに比べて不自然さは凄いし、ストーリーだけを楽しもうとするのは厳しいね。
マクガフィンが母親であることのパワーを過信しすぎて「え?そこまでする?」になってるのがあまりよろしくないのよねー。
メタファー込みで考えると上手い具合に物語に落とし込んだなって感心はするけど、そんなの見せられても困るんですよお爺ちゃんって感じよ。
事前情報なしで見たから俺も感想を自分で作り出して放流する。超ネタバレだけど許して。適当にたたき台にでもして。
ジブリで見たことのある◯◯を色々な場面で感じ取れたので良かった。それを書いてたら長くなったからそれ単体で放流。ネタバレ怖い人は今日の夕食でも残してってよ。
はじめに、絵が超ぬるぬる動くからびっくりした。最初、空襲で町が混沌とする様子は印象が強すぎて忘れられない。急いで外に出るために着替えるシーンは、ただ服を着てるだけなのに焦る気分になった。火事の燃えカスや灰が舞うシーンですらヌルヌル。火事に騒然としてて、街の人みんなが動いているようなシーンは、見るところが多すぎて目が足りない。主人公視点の走っているシーン(人混みを分けつつ進む、火が強すぎて目が開けられない、危ないから下がって!と叫ぶ大人の手が映る)はアニメーションなのにリアルだった。予約できた席がドルビーアトモスの高い席しか無かった(そこしか残ってなかった)が、ここのシーンだけで掌を返した。
はじめにあ〜〜ジブリ見に来たな……と実感が湧いたのも空襲警報のシーン。何かが起きている事に気づき、思わず廊下を走り出すシーン。廊下を裸足で全力で駆けるシーン(カメラは正面)はジブリ。(自分調べ)
お屋敷の婆さんたちの描き方は千と千尋の神隠しを思い出した。シワが多く腰は曲がっていて集まると話が止まらないという特徴も、監督が抱いているイメージなんだろうなと勝手に思った。サバ缶やコンビーフ、砂糖で盛り上がるのもめっちゃすき。
対照的に、塔の世界における姉御肌の人もジブリではおなじみだった。力強くヨットを引くシーンは迫力があった。キビキビ漕ぐ、魚もさばける、「あんたも手伝いな!」は正直聴きたかったやつ。
手作りした弓矢が勝手に加速するシーン。ちょっともののけ姫のシーンを思い出したからか、本気でアオサギに当たらないかドギマギしてしまった。加速して迫ってくる感じ、風切り音が恐ろしい。
ジブリ序盤における「今日からここが君の部屋だよ」概念、あるよね……長年使われてないけど、綺麗な状態なのがポイント高い。柄付のベッドが本当にすき。閉まりが悪い窓がだいたい悪さをしている。
ジブリにおける別世界で、大変な目にあいながらも運良く転がり込んだ先で、べらぼうに美味い飯を食う概念。これも好きすぎてたまらん。「あんた、どこから来たのさ」「かくかくしかじかで……」「ふーん……頑張りなよ」みたいなやつ。救われる。
飛行機のコックピット?の骨組みを父親が「綺麗だろ?」って言ったときに「美しいですね」が出てきた部分は風立ちぬを思い出した。飛行機の持つ、工業製品らしからぬ曲線美は見る人が見ると魅力があるのだろうと思ったり。
バスのエンジンをかけ直すシーン。バカうるさい振動と焦げ臭そうな匂いを強烈に感じた。正直今の世界では二度と見ないだろうけど、昔の人にとっては大事な原風景だろうなと思う。
禁忌の間における紙、紙垂の表現も畏れ多くてゾクゾクした。入り込むと露骨に態度を一変させ、まとわりついてくるのもどこかで見た景色でニヤついてしまった。シーン的には、それどころじゃないシーン。
インコ王が積み木をぞんざいにして謎の石が癇癪を起こすシーン(破裂したのかよく分からん)があるけど、あのシーンにはもののけ姫の祟神らしさを感じた。おどろおどろしい液体が顔にまとわりつく感じが堪らない。
最後に理想郷を壊して帰るのはラピュタぽくもあった。隣に居た女の子はお母さんだし、破壊の発端は手が出るのが早い傲慢な王だし色々条件は違うけども。なにげに一緒に行動した可愛い女の子が若い頃の母親なのやばくない?母性……というか性癖出ていないか?
最後のCGぽさが残る岩がめちゃくちゃ怖かった。全部の事象を筆致のあるアニメーションでやる中でのフルCG謎岩はまさにこの世のものではないような雰囲気があった。アニメの線画と比べて、明らかに解像度も高いんだけど、それもこの世の物とは粒度が違う(物質が違う)ような雰囲気を感じられた。CGと手書きの両立が一番引き立つシーンだと感じた。考えすぎかもしれん。
●強引に締める
何が言いたかったかとか意味を見出すとするとすごい偏った考えしか出なかったのでこれは別の機会に書きたい。一言で表すと「やっぱ神は下々の存在に興味ないよな」に尽きた。どう生きたいかって話なら、俺はアオサギみたいになりたいよ。
“このツイートにしてもそうなんだけど、コミュニティノートの方がウソ情報になっていて、投稿者にも閲覧者にもそのウソ情報を排除するのがとても困難なんだよね。デマ屋さん大喜びの機能です。”
“間違った情報を張り付ける人や検証不可な事を貼り付けて自分達の正しさを強調しだして混沌とし出し、それなら張り付けられる人を限定しようとなってその選定で荒れて揉めて陳腐化するまでがネットだ”
“ファクトチェックは信頼のおける組織や人が行うから機能するのであって、コミュニティノートにはそれがない。あたかもファクトチェックをしているかのようなコミュニティノートの正誤をさらにチェックするとか、二度手間もいいところ。無駄。無意味。”
“結局××が書いて××が多数決するシステムなので××が書いた間違ってるけどスカッとする意見が勝つことになるし、こんなもんがなんかの役に立つと思った人まともにインターネットしてなさそうだよな。”
ブログほどかしこまらず、はてなほど匿名でなくそこそこの長文がかけて、閲覧数がわかるツールないかなぁ。
いまいちしっくりこないな…
ブログって人が読んで、何かを得られる文章を書かないといけない気がして…
内なる自分が『お前の日常なんぞどこにも需要ないぞ』って言ってくるから、描きにくいんだよなぁ。いまどき情報集約場でもなく、誰でもやってるし、そんなこと気にしなくてもいいんだろうけど。
連投だから書くスペースが変わる度に集中力きれるんだよなぁ。かといって課金したくないし。
mixiってどうなんですか。
自分の知ってるmixiなら求めている雰囲気はかなり近いと思うけど… いま、どういう状況な場所になってる??? なんか残った種族が独特なコミュニティを作り出してそう。
自分の記録を残すための"ノート"だと思って使えば場違いでもなさそうかな?
あれ?自分の記録を残すだけでいいなら、はてなでいいのでは…?苦笑
なんていうか
その辺に落ちてる石ころよりは、ちょっと注目されたいんだよなぁ。
駐車場の縁石ぐらいの注目度が欲しい。
でも、まぁ、よくこんな気持ちになるけど…